浴室の蒸気がまだ肩口にまとわりついていて、バスタオルの端から滴るひとしずくが床に落ちるたび家の空気まで柔らかく揺れているように感じられた。そんな余韻をそのまま抱えてリビングに戻った瞬間、ソファに座っていたホークスは私を見るなりまるで予想もしなかった光景に出会ってしまった子供のように目を丸くして固まった。
「ま、ま、待って待って待って……ちょ、ちょ、ストップ……っ、」
彼はその先の言葉を出す余裕さえ失くしているようでその沈黙の中で彼の肩がひくりと揺れた。片方の手でぱっと顔を覆い同時にもう片方の手でこちらを制するように、空気を押し戻している。笑っているのか耐えているのか、どちらも混ざり合って判別できない。太い指の隙間から覗く赤い顔だけが、正直すぎる反応として、やけに明るく主張していた。
私はただその場に、立ち尽くしていた。濡れた髪が背に触れるたびタオル一枚きりの自分自身の温度がいやに意識されて、けれどその感覚よりも何倍も鮮烈に胸を締めつけたのは彼が見られないほどに動揺しているという、そんなちいさな事実だった。
ホークスは、どんな危険の前でも平然として、どんな誘惑の前でも、軽口で風を巻き上げていくはずのヒーローのに、なぜか私だけにはこうして予想外の弱さを引き出してしまうらしい。
「やっ、ほんと無理。見たらダメだ。俺がダメになる……」
彼が顔に押し当てた手のひらの下で呟いたその声は普段の軽やかさとは正反対で触れたら溶けてしまいそうなほど、柔らかかった。私は歩み寄るでも離れるでもなくただ静止したままその反応を胸の奥深くで、大切に抱きしめるように味わっていた。
こんなふうに乱れる彼を見られるのはきっと、この世で私だけだ。そう思った瞬間タオル越しの肌に触れる空気までやけに甘く熱を帯びたものに変わっていった。
彼がなおも片手で顔を覆ったまま指の隙間から赤い耳をさらし、もう片方の手を必死に伸ばして私を押しとどめようとしているその姿が、どうしようもなく愛おしくて、そして少しだけ意地悪な気持ちも胸の奥で芽を出した。ここまで動揺しているヒーロー・ホークスなんて滅多に見られないだろうから、ついその反応をもっと引き出したくなる。私はタオルの端をそっと握り直し、ほんの一歩だけ彼のほうへ足を進めた。それだけで彼の呼吸が目に見えるほど乱れる。肩が跳ねて、顔を覆う指がぎゅっと強張った。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って……っ、近づかんで……っ、」
「え?……どうして?」
「ちょっ、待って待って、タンマ!ストップ!」
その声の情けなささえ今の彼の可愛さを余計に際立たせてしまう。私はそのまま、わざと足音を立てぬよう静かに、しかし、確実に距離を縮めていく。湿った髪の滴が床に落ちる音さえ彼を追い詰めるためのひとつの演出のように感じられた。そして、ついに。彼の目の前まで至った瞬間——ホークスの肩が、びくりと大きく跳ね上がった。
「や、やめてって……ほんとにっ、ぎゃー!!」
あまりにも予想外に素直な悲鳴で、私は思わず吹き出しそうになる。彼は私の真正面から逃れるためにまるで襲いかかる危険から最速で退避するかのような動きで後ずさりし、足元をもつれさせながら壁際へと追い詰められていった。彼は顔を覆った手をようやく外し、しかし視線をこちらへ向ける勇気はなく、耳まで真っ赤に染めたまま、両手を大きく広げて制するように、私から距離を取ろうとする。
「や、やめてっ、ほんと無理ったい、俺死ぬ!」
「んー?」
「ちょっ!なん、近い近い近い近いっ!!」
彼の羽根がわずかに逆立ち、どうしようもなく混乱しているのが伝わる。それが可笑しくて愛おしくて私はそのまま彼の逃げ道を塞ぐようにもう一歩、踏み込んだ。気の毒なくらい狼狽するプロヒーローは、今にも床に座り込んでしまいそうな勢いだった。壁際まで追い詰められたヒーローはもう限界に近かった。すると彼は自分の心臓ごと逃がすかのようにくるりと踵を返し、その視線をベランダのガラス戸へと必死に向ける。
まさか、飛んで逃げるつもり——!?
そう思ったのも束の間その背中が示すあまりの切迫ぶりに私の呼吸も一瞬止まってしまう。
「ちょ、ちょっとホークス!?どこ行くの!?」
声をかける暇すらなく彼はガラス戸をピシャと開け放ち夜風に羽根を揺らせた。それはまるで、逃走本能に突き動かされた小動物のようであり、しかしその動きはプロヒーローらしくあまりにも素早く私は慌てて胸元でタオルを握りしめたまま駆け寄るしかなかった。
「待って!ごめん!飛んで逃げないでっ!!」
必死で腕を伸ばしたその瞬間、彼が鋭い眼光で振り返り、私の姿を認識した途端、その琥珀色にぎらつく目が丸く、怖いほどに見開かれた。
「ッ……!?」
そして次の瞬間、情けないほど必死な声が夜の空気に弾け飛んだ。
「そんな格好で外出ないでくださーーいっ!!」
その叫びが終わるより早く、ホークスの羽根が一斉に逆立ち暴発した感情に押し出されるように私を覆おうと、舞い上がる。赤い羽根の奔流が、まるで私を夜の世界から守るためだけに存在している結界のように広がり、私はその一瞬の温度に包み込まれた。タオル一枚きりの身体を柔らかくしかし必死に隠すように、羽根が巻きつく。その勢いで私は半歩前につんのめりホークスの胸元に触れるほどの距離まで一気に近づいてしまった。
「………、」
「………。」
気づけば——目の前に、彼がいた。距離は息が混ざるほど近く、互いの体温がぶつかり、蒸気と夜風と羽根の感触がひとつの世界をつくりあげていた。彼は、私のあまりの近さに目をぷるぷると震わせて、みるみるうちに顔どころか、首筋まで真っ赤に染め上げていく。
「ち……近……っ、」
「え」
「近い……、近い!無理、むりむりむり……っ」
彼は自分でも制御できないらしいほど動揺し、膝の力が抜けるようにして、その場にずるずると崩れ落ちた。羽根はまだ私を必死に隠そうとしているのに、肝心の本体は完全に処理能力を失っている。私はその様子を見下ろしながら、胸の奥が甘いもので満たされていくのをどうしても抑えられなかった。
こんなふうに崩れ落ちるヒーロー・ホークスの姿なんて、きっと、私しか見れない。
そう思うと、羽根に包まれた肌のどこまでもがじんわりと熱を帯び、夜の空気までもが私たちの秘密をそっと抱え込むように静かに揺れていた。
*
「あのぉー、そろそろ再検討してもよくないですかぁ〜?」
それから数日後。夕食を終えたあと、私が先にお風呂を済ませて、入れ替わるように次に入った彼が洗い立ての髪をバスタオルで乾かしながら、何気ないふうを装って言った。けれどその声には��気まずさをごまかしたい男子高校生�≠フような空気が、かすかに混じっていて私は思わず��未来ノート�≠フページをめくる手を止めた。
「……再検討って、なにを?」
問い返した私の言葉に彼はソファの背に片手を添えたまま静かに立ち止まりその指先の軽さとは裏腹に視線だけを鋭く滑らせてきた。悪戯好きの少年のような無邪気さと大人びた下心がないまぜになったその目の奥には、何かを企んでいる光がちらついている。まるで風のようにぴたりと空気の向きを変えるヒーロー。そう思ったときには、彼はもう動いていた。
「……あっ!だから、飛び越えちゃだめ……っ」
私の小さな忠告など気にも留めず、彼は、身軽な動きでソファの背をひょいと飛び越え何でもないことのように私の隣に腰を落とした。ぽすん、と音がしてクッションが沈む。心のなかで「忍者系ヒーローか」と、呆れた私は、ため息をひとつ。けれどそんな内心すら見透かしたように、彼は、にんまりと笑って言った。
「お風呂です」
その単語が口にされた瞬間、私は反射神経だけで動くように彼の反対側を向いた。だって絶対に目を合わせてはいけない。過去の惨劇が、いや、あまりにも濃密で身も心も蕩けるようなあの夜が脳裏をかすめたから。
「……ダメって言ったの、誰でしたっけ?」
努めて冷静な声を装ったつもりだったが隣から彼の笑い声が先にこぼれる。
「名前さんでしょー?いや、俺もちょっとだけは、賛成してましたけどね?」
「いやいやいや、ホークスが言い出したんでしょ完全に」
私は彼に向き直ってソファのクッションを軽く叩きながら言う。とても真顔では言えなかった。だって彼のその顔がもう明らかに、とぼけた顔をして、狙っているときの表情だったから。
「えー? 名前さんが先でしたよ、確か。『あれはちょっと甘くて危険だね』って言いよった」
「記憶、捏造しないでいただきたいんだけど?」
はぁ、とため息をついてから私は立ち上がってキッチンにマグカップを取りに行った。あの夜のことを思い出してしまったのだ。引っ越して間もない新居で何の気なしに「ねえ。きょう、一緒にお風呂入る?」と言った私の不用意さに「え……マジで言ってます?それ」と、狼狽えた彼の反応から始まった、それからのこと。泡が肩に落ちる音、滑るような手の軌跡。そして、濡れた身体のまま寝室に入ったバスタオル事件からの「やっぱ無理です」という低音の囁き→抱擁→キスの嵐→ベッドへの直行ルート、という、記憶のなかでもまだ赤面ものの展開がフラッシュバックのように一気に蘇ってくる。
「でもあれはまだ、同棲してから最初の頃だったじゃないですかー?」
彼もキッチンへ来てコップに水を注ぎながら、まるで言い訳のようにそう言った。私がうんともすんとも言わないまま立っていると、彼はそろりそろりと背後から近づいてきて私の肩に顎を乗せその顔を覗かせた。
「ねえ、ルールってさぁ、柔軟に変えていくもんじゃないです?」
「はい出た、都合のいいときだけ柔軟理論」
私はわざと小さく呟いて彼の手に持たれていた未来ノートを奪い取る。表紙をパラリとめくり、ふと見つけた『ふたりの生活ルール』のページを指差した。
「ほら、見なさいよ。第十条『しばらく、一緒のお風呂は禁止』って……ね?」
「……しばらくって言ったの結構、偉いと思うんですよ、俺。希望がある感じがして」
「いや、むしろそっちのほうが罪深いわ」
「えー」
「えー、じゃないよ。そもそもこのあいだだってバスタオル一枚で出てきただけで、大騒ぎだったじゃないの」
それでも、彼はめげない。むしろ、そのふざけながらもまじめな表情がどんどん彼らしくなっていく。不満そうな顔をして、でも、心底楽しんでいる鷹のような目。私に翻弄されながらも、翻弄されることをどこかで甘受している大人の余裕と子どもの執着が交差した眼差し。
「……まっ、でも。そうやって簡単に再開しないところも、名前さんらしくて好きですけどね」
「あのさ、聞いてる? このあいだのバスタオル飛び去り事件なかった事になってませんかー?」
「えー、なんでしたっけー?それー」
「なんでしたっけーじゃないよ。まったくもう」
「でも俺は本気ですよ?本気で検討してほしい」
その声はふざけているようでいて妙に真っ直ぐで、私は思わず言葉に詰まる。そのまま何気なく差し出された手が、私の髪の先に触れた。すこし濡れたままの毛先を指で挟み、くるくると、遊ぶように撫でながら、彼はもう一度、笑った。
「でも、お風呂場って、ほんと、反則だと思うんですよ。距離が近すぎる」
「……」
「もっともっと好きになっちゃって——。もっと欲しくなるに、決まってるじゃないですかぁ」
私はもう何も返せなかった。湯気もないのに、ふたりの間には、じんわりとした熱が立ちこめていた。笑いながら、でもどこかで、本気で困っているヒーローホークス。そんな彼がやっぱり私はたまらなく好きだった。
*
付けっぱなしのテレビからは、夜のニュースが流れている。未来ノートのページを何気なく捲る音が部屋の静けさに重なる頃、彼は何を思ったかソファに座る私の膝を、指先でこつん、とつつきながら、まるで駄々をこねる子供のような声音で言ってきた。
「あの。今の俺たちならたぶん……大丈夫かと」
その話はもう、終了——いや、強制終了したとばかり思っていたのだが彼の言葉の意味するところを悟った私は咄嗟に息を呑む。ああ、出たな、と。私は視線を未来ノートに落としたまま努めて冷静に返す。
「��たぶん�≠フ時点で、アウトなんですけど?」
すると、彼はうぐっという情けない音を喉奥で鳴らしばつが悪そうに目線を逸らした。見慣れた沈黙。否定はしないが、肯定するにも足りない。そんな彼の��やらかしの前兆�≠ヘもう、何度見たことだろう。
「でも毎日じゃなくてもいいですし。たとえば」
なんとか食い下がろうとした彼が、何かを言いかけた瞬間、私はふいに表情を引き締めて問う。
「じゃあ仮に、一緒に入ったとして。ちゃんと、背中を流すだけで終わらせられる?」
この問いは言うなれば、最終試験。私たちが、『しばらく一緒のお風呂は禁止』を制定せざるを得なかったのは、まさに、この問いに対する彼の本能的敗北に起因している。そう——トップヒーローにしてこの瞬間、見事に沈黙。いや、もはや撃沈である。
「無理、ですね」
即答だった。潔さだけは、褒めてやってもいいかもしれない。
「やっぱり」
「いや違う、努力はします。しますけど、ほら」
言い訳の前置きが始まった。さて今日はどんな言い訳を並べてくるのやら。私は思わず内心で、カウントを始める。3、2、1──
「肩とか首筋にお湯かけてるだけで理性吹き飛ぶって言いますか……」
ご丁寧に、実演イメージつきで語り出した彼の顔が、みるみる赤く染まっていく。なにを一人で想像しているのやら……。羞恥と欲望が同居してもはや熱を持ったスチームのように、ほわほわと湯気が立ちのぼっているのが見えそうでもある。
「そもそも、あのバスルーム狭いですし。湯気で肌とか見えたらもう本能で動くしかなくなるっていうか」
「あれで狭かったらもう、ラスベガスとかに住まないといけないよ」
「え、狭いですって。もっと広かったらこう、」
本人は真面目に反論しているつもりらしい事に呆れ果てて、私は静かにため息をついた。すると彼は慌てたように言葉を重ねる。
「いや、でもですよ? 二人で暮らしてて、お風呂一緒に入っちゃダメって、結構きついルールだと思うんですよねー」
「自業自得でしょ」
即答すると彼は素直にうなだれた。降参のポーズは早いくせに、すぐ再戦しようとしてくるのがこのヒーローの仕様である。
「……うん。知ってます。ほんと、すんません」
そう言いながら彼は反省を装った表情でそっと私の手を握ってくる。そう……私はこれに弱い。わかっていてやっているのだと理解していても、指先の熱がじんわりと伝わってきて、つい絆されそうになる。
「……ねぇ。一回だけ、ちょっとだけ、扉の外で、待ってる係でもいいので」
「……なんかその、先っぽだけ、みたいな言い方やだな」
「えっ?ご希望なら今この場で先っぽだけでも」
「こらこら、調子に乗るんじゃありません」
「うーん。ねぇ〜、名前さん。お願いしますっ」
「……」
「入浴中の、あなたの声が、聞いていたくて」
やさしく、でも真剣に言われたその台詞に私は思わず吹き出した。
「それ、余計にダメでしょ!」
「え、なんでです……?」
「だって、それもう、ただの変態ヒーローだし」
「え〜?」
本気でわかっていない顔をしているのが、またずるい。そんなやりとりを繰り返す内に私たちはついに『お風呂再協議案』として30分以上も未来ノートを囲んで話し込むことになった。結論は、保留。ただし、彼はしぶとく諦めなかった。
「わかりました!まずは実験してみましょう?」
「……実験?」
「はい。お風呂に一緒に入れるかどうかっていう人類愛の限界を試す社会実験的な、アレです」
人差し指を突き立てながらとんでもないことをさらりと口にする彼に私は当然「却下。」と即答した。だがそれでも彼は両手を合わせ、礼をするように頭を下げながら、なおも食い下がる。
「ルール、ちゃんと決めますから。たとえば……��触らない・見ない・近寄らない�≠フ、三原則」
「……」
「大丈夫ですって!ぜったい俺、守りますから」
「……」
「もし守れなかったら、ほら、触ったら即終了の罰ゲーム方式で……!」
その提案はあまりに無謀で、あまりに彼らしかった。私は笑ってしまって、結局は最後、折れることになる。そうして、未来ノートの端に小さく新しい文が、書き加えられた。
第十条補足:
実験的措置により明日の夜、再度検証を行う。
ただし、触ったら即終了とする。
それが果たして未来に続く新たな火種なのか、それとも新しいルール制定の序章となるのかは、まだ誰にもわからない。けれどそれすらも愛しいと感じてしまう私はきっともう、このヒーローに完全に、絆されてしまっているのだと思う。
*
湯気の満ちたバスルームには、静けさと緊張が曖昧に溶け合っていた。霧のような蒸気が天井にゆるやかに立ちのぼり、曇った鏡の奥にうっすら映る彼の背中が、まるで時間ごと沈黙に包まれているようだった。
タオルを腰に巻いた彼はバスルームの壁をじっと見つめていた。声もなく、ただ深く呼吸をしている。私の背後にある彼の気配が肌に伝わる空気の密度を変えていく。視線は合っていないのに、肩先から彼の想いがにじんでくるような、そんな不思議な緊張感。
「……静かすぎて、逆に緊張するんだけど」
私がぽつりと呟くと彼は壁に向けたままの顔で答えた。
「ねっ……ほんとに。背中で恋が始まりそうなんですよねー、今。」
その声は冗談めいていたけれど、やや上擦っていて、言葉の奥には確かな真実が潜んでいた。
「始まるもなにも、もう始まってるじゃん……」
そう返すと彼はかすかに笑った。けれどすぐに言葉を続ける。
「ま……そうですけど、なんか、初めてあなたを見たときの、あの感覚にちょっと似てて」
「……ん?」
「息が浅くなって、心臓だけが走ってく感じの」
言い終えたあと彼は照れ隠しのようにシャワーのお湯を出すために手を伸ばす。けれどその指先はわずかに震えていて私はその小さな震えがどれだけ深いところからくるものなのかを知っていた。浴室にシャワーの流れる音だけが響くなか、私がそっと訊いた。
「ねえ、ホークス?」
「はい、なんです?」
「今さ、私がそのムキムキの筋肉に触れたら……たぶん、終わるよね?死んじゃう?」
その瞬間、彼の肩が、わかりやすく、ぴくりと動いた。
「や、やめてください……!ほんとそれ、最大の地雷ですからっ!」
私はクスッと笑ってタオルを胸元まできっちり巻き直し、背中を向けたまま言う。
「……じゃあ、背中、流してもらおっかな」
そのひと言で、空気の温度が一段上がった気がした。私が湯船から上がると、彼の息遣いが浅くなっていくのがわかった。彼は黙ったまま同じく湯船から上がりシャワーの温度を調整し、そしてそっと手を伸ばして私にお湯をかけようとした、その瞬間。
「や、やっぱ無理です!触れないっ、触ったら、終わるっ、死にます!」
「え」
「ウィングヒーロー、終了のお知らせです……」
そう言ってシャワーを持った手ごと湯船のヘリに崩れ落ちた鳥・トップヒーロー。肩を落とし、頭を抱えながらぎりぎりの理性と戦っていたその姿は、なんというか、すこぶる愛しかった。私は思わず吹き出して、彼の背中を宥めるように軽く叩いた。
「よくがんばりました。えらい、えらい」
「ご褒美ください……キス以上で……」
「え? それ以上なの?なにそれ、贅沢」
二人で笑い合うその時間さえ湯気の中で一つの物語のように感じられた。彼は、私の腕を優しく取りゆっくりと引き寄せてから額にそっとキスを落とす。その仕草はまるで、触れられなかった分の愛情を別の形で伝えるような遠慮と渇望の交差点だった。
「名前さんって……ほんと、悪い子ですよね」
「え?」
「一緒にお風呂入っただけで、また惚れ直させるとか……どれだけ俺を、好きにならせる気で?」
その言葉は笑ってはいたけれど、どこか、切実だった。確かにルールは守った。触れはしたけど触れなかった。理性のあいだに線を引いてそれを越えなかった。けれどあのときの彼の目に宿っていたもの——あれはたぶんもう半分くらい理性を手放しかけていた男の、それでもなお自分を保とうとする、必死の均衡だったと思う。
私が求めれば、彼はきっとすべてを投げ出して応えてくれるだろう。けれど彼は、その選択を、決して急がせないヒーローだった。
そして、その夜。歯磨きの音も止んで、室内の灯りが静かにひとつ、またひとつと、落とされていくと、夜の深さに飲まれるように空間が沈黙に包まれ、あとはもう肌と呼吸の気配だけが浮かび上がる。ベッドの上で、ふたり並んで横になっている。互いの身体がわずかに触れ合う距離。いや触れているのは、布越しの熱だけかもしれない。それなのに空気は妙に濃くて息を吸い込むだけで喉の奥がざらつくような感覚がある。
ふいに。彼の顔が、枕越しに近づいた。吐息が耳朶の縁に落ちる。そのわずかな湿気に、背筋がきゅっと跳ねた。
「……名前さんに触れないでいるの、けっこう命、削ってるんすよ」
耳元に落とされたその囁きは、かすれた声色のなかに、洒落にもならないほどの切実さを孕んでいた。甘えた調子の裏に耐えきれず滲んだ本音が混じっていて私は思わず目を伏せた。ほんの少し顔を横に向けると彼の瞳が間近にあって薄明かりの中で色を失くしたその眼差しは、それでも深く澄んでいて、触れてしまえば、すぐに崩れそうな一線を、ぎりぎりで踏みとどまっている。
たぶん、私が一言なにかを呟くだけで、今夜はすべてが変わる。その確信が私の中にもあった。でも、私は何も言わない。
「……ほんとはあなたに触れないでいられる自信なんて、最初からなかったんですよね」
その声は溜め息にも似ていたけれど、なんとも力強かった。ただの、お風呂の話のはずなのに、その想いはどうしようもないくらい深くて重くてあたたかくて、愛そのものだった。
「おやすみなさい、名前さん。」
「……おやすみ、ホークス。」
大人なのに、まるで初恋のように。恋に落ちるだけじゃなく、何度も、惚れ直してしまう。背中越しに、あらためて心ごと奪われる——そんな、愛の再燃を知った夜だった。
*
翌朝。彼は一足早く寝室を出て、ソファに座りながら未来ノートを開き、何やら真剣な顔つきでページをめくっていた。まだ夢の余韻をまとった朝の光の中でペンを握るその横顔が妙にまじめで私は思わず、彼の隣に腰を下ろした。
「……何、してるの?」
訊くと彼はほんの少し気まずそうに笑いながら言った。
「いや……昨日の実験の記録と、再発防止案を、ちょっと」
私はノートを覗き込んでそこに書き加えられた一文を見て、ふき出した。そこには——
第十条 補足�A:背中を洗う際は、事前に書面、または、口頭での申請を行うこと。承認が下りた場合に限り、実施を許可する。
※ ただし、触れたら即終了ルールは継続中。
「……書面って、なに。そんな正式な申請する気だったの?」
「そりゃもう、提出用紙も今夜中に作ります」
この人ほんとにプロヒーローなんだよね?と、疑問に思ってしまう気持ちは置いておいて、彼のその真顔に、私は堪えきれずまた笑ってしまう。
「それさぁ、守る気ないでしょ?」
「ありますってば。信頼してくださいよー、プロヒーローの名にかけて」
どうやらやっぱりプロヒーローだったらしい。名にかけてと言いながら、すでにこのヒーローの理性は、限界値すれすれだと、私は知っていた。だって昨夜シャワーの湯気ごしに見えた彼の目は本気で、野獣みたいな光を宿していたから。
あの、背中越しの恋はきっと、一度目だけじゃ終わらない。
——お風呂チャレンジ第2夜。
その夜、二人は再びバスルームの前で、向かい合っていた。前回より湯温を下げて空気を冷静に保つ工夫までしているあたり、彼なりの、努力が伺えた。
「今回はちゃんと、申請しましたから……ね?」
今日も今日とてタオルを腰に巻いた彼が真剣な顔で言う。手にはなぜかクリアファイルに入った『申請書』まで握られていて、私は無言でそれを受け取った。
【第十条 補足�A 一緒にお風呂に入れる申請書】
申請者:ウィングヒーロー・ホークス
希望日時:本日
目的:衛生的管理および情緒的絆の維持
備考:手は洗浄済みです。
「ねぇ……ほんと、バカじゃないの?」
「はい?」
「あのさぁ、ヒーロー活動中に事務所で、こんなもの作ってるわけ?日本、大丈夫なのかなぁ〜」
笑いながらも、私はタオルの端をきゅっと結び直し、背を向けてさっさとバスルームへと入る。それに着いてきた彼が、焦ったように問う。
「名前さん、ご了承いただけますでしょうか」
「仕方ないなぁ、許可します。でも、一個だけ」
「ん? なんですか」
「背中、だけだからね?洗うのは」
「はいっ、喜んでっ!」
背後で張り切る声が聞こえた瞬間、私はもう、限界だった。笑いながら、でもどこかくすぐったくて、胸の奥が静かに熱を持っていく。水音が、柔らかく響き、彼の手が慎重すぎるほどにそっと私の肩へ触れる……が、次の瞬間。
「……ああっ、やっぱ無理です〜!また恋がはじまってしまいますっ!」
「うるさい!始まってんのよ、もうとっくに!」
私がそのペースに飲まれてノリツッコミをしながら振り返ると、彼はまたシャワーを投げ出して湯船の端に、膝を抱えていた。顔が赤い。耳まで真っ赤。まるで、その個性の剛翼と同じ色。
「だって肩甲骨のラインが、その……綺麗すぎてもう、罪深い……」
「ごめんごめん、私の背中が悪かったねー」
「棒読み……愛らしかぁ……違う、あなたは悪くない。ぜんぶ、俺が悪いんです……!」
もはや、反省という名の懺悔を詠む人のように呟きながら、彼は湯気の中で膝を抱え、私はその姿を、呆れながら見下ろしていた。
こんな夜がくるなんて、昔の私なら想像できなかった。「愛してる」と言われるよりも触れないように震える指のほうが、何百倍も真実を語っている夜。背中ひとつで再び恋が芽吹くような夜。そういう夜に、私は何度でも落ちてゆくのだ。
*
「……ほんとに、最後のチャレンジだからね?」
私がそう言うと彼は神妙な顔で何度も頷いた。今夜がダメだったら潔く諦める、と。未来ノートにはすでに『背中を洗う許可願』と『終身お風呂分離案』が併記されていて、まるで、和平交渉の末期戦のようだった。
けれど今夜は何かが違っていた。湯気の濃さも水音の響きも、沈黙の重みも。私たちのあいだに流れるものがもうルールで縛れるようなものではなくなっていることを、どちらも気づいていた。
バスルームの明かりはいつもより少しだけ落とされ、霧のような蒸気が視界を柔らかくぼかしている。タオルを巻いた私が鏡越しに振り向くと、彼は本日も湯船の縁にもたれて目を伏せていた。何かを静かに押しとどめるようなそんな横顔で。
「……ねぇ、」
「は、はい……?」
「今日は、私から背中、流してもいい?」
そう言った瞬間、彼の肩が、わずかに揺れる。言葉は返ってこなかったが、それで充分だった。彼が意を決したみたいに仁王立ちで鏡の前に立つのを見届けてから、私も桶にぬるま湯を注いで、タオルを濡らし、そっと、彼の背後に立つ。彼のその背中には言葉にならなかった想いがいくつも宿っていた。信頼、遠慮、欲望、葛藤、そして、あまりにまっすぐな��好き�≠ェ。
静かに、お湯をかける。肩甲骨のあたりから、背筋をなぞるように。彼は、何も言わずに呼吸を飲み、湯の温度に目を閉じた。
「……大丈夫?」
手が触れる。指が流れる。肌と肌が一線を越えないように、でも確かに重なっていく。私の問いかけに彼は少し遅れて微かに震えた声で答えた。
「……大丈夫——じゃ、ないです」
「ふふっ」
「でも、すごく幸せです」
その言葉を聞いた私の中で何かが崩れた。いやきっと、溶けたのだと思う。ルールという名前の氷が。シャワーの音がふたりの沈黙を満たす中、私はただ彼の肌を洗い続けた。そして次の瞬間、彼の指が、そっと私の手に重なった。その指は、触れてしまったことに怯えるのではなくようやく触れることを許された者のように、どこまでも、慎ましく、どこまでもやさしかった。
もう止められない。彼が私の手首をたどり腕を包み、肩に、頬に唇を寄せるまでの一連は運命の重力に逆らえない星のようで、湯気の中で見つめ合ったその瞬間、ふたりの間にあった��
「……ずっと、こうしたかったんです」
彼がそう囁いて私は頷いた。もう理性は崩れてもいい。ふたりで守ってきた日々が、ここに辿り着くための助走だったのだと今なら言えるから。
私の髪に触れる彼の手。濡れた額に重なる唇。背中ではなく胸で、愛を伝え合う夜。湯気の中に声も息もまぎれてゆく。
そして翌朝——。未来ノートには新たな一文が静かに、書き足されていた。
第十条:
完結。ルールは、もう要らない。
*
カーテン越しに射し込んだ光がまだ濡れたままの心をやさしく包むように、そっと、部屋の隅を照らしている。布団の中は静かで、けれど確かな熱があった。昨夜の記憶が体温の奥に、まだふつふつと灯っていて、私はその余韻のなかで、ふと彼の寝息に、耳を傾ける。浅く眠っているのか、まぶたの下で目が動いている。寝癖で少し乱れた前髪が額にかかっていて、その無防備さに、少しだけ胸が鳴った。
腕の中にいる。何も言わずただそこに。規則の名を借りて互いに築いてきた距離は今ぬくもりという名の無音に包まれてゆるやかに溶けていく。
壊れたのではない。崩れたのでもない。たったひとつの「好き」という本音が、ようやく制約のすべてを、やさしく越えたのだ。
そして「おはよう」と声をかけるよりも先に、彼が私の髪に口づける。まるで、挨拶のように、迷いのない動作で。
「…… 起き、とった?」
小さな声が耳元に落ちた。その音だけで今日という日がふたりの時間として始まっているのだとわかった。もうルールで区切る必要もないのに、起きる時間も触れていい距離も、何ひとつ決められていないのに、何もかもがちょうどいい。
私はベッドサイドに置いてあった未来ノートをそっと手に取った。『ルールはもう要らない』と書かれた昨夜の走り書きの下に、空白のページが広がっている。そこに、新しく書き込む言葉を、探す。けれど、ふさわしい表現がなかなか見つからない。
「……もう、ルールじゃなくていいよね」
そう言って、私はノートの右上に、小さな詩のようなものを書いた。
ひとつ、目が合うたびに微笑みが増えること。
ふたつ、手を重ねるたびに安心が深まること。
みっつ、��好き�≠ェ更新されてゆくこと。
それだけで、もう充分だと知っている朝。彼が肩越しにその文字を覗き込んで、くすっと笑う。そして私からペンを取って、私の書いた詩の下にそっと一文だけを書き加えた。
四つ目、
あなたが隣にいる奇跡を、毎朝書き残したい。
それはもう「ルール」ではなかった。記録でも取り決めでもない。ただの愛の記憶。感情の詩。『未来ノート』という名前のまま、このノートはこれから、ふたりの愛を綴る、詩集になるのだと思った。
言葉を重ねるたびに、ふたりの心が何度も重なっていく——そんな未来を描く静かな朝の物語。最後のページが閉じられるその日まできっと私はこの人に恋をし続けるのだろう。そしてその恋はいつも背中越しの沈黙や湯気のなかで笑い合った夜や、名前を呼びそうになって堪えた朝のようにささやかで愛しい記憶の中に、静かに根を張っていくのだ。
——愛している。
もうそれさえ、言葉にしなくていいほどに。
背中だけの距離、0センチの恋
(まだ……起きたくないです)
(うん……私も、そう思ってた)
(じゃあ、罪の共有ですね)
(ふふっ。二人で、朝をサボっちゃおうか)
(はい。今の気持ち、ノートに書いときます?)
(だめ。言葉にしたら、壊れちゃいそうだから)
(そっか……じゃあ書かずに覚えててください、俺のことだけ、ちゃんと)
(うん。忘れろって言われてもずっと覚えてる)
※Men's by『 愛NEED YOUR LOVE/清木場俊介 』
※Women's by『 これでもかってほどの愛/Blisey 』