とある日のリビング——映画のエンドロールが静かに流れて、ブランケットに包まれたふたりの体温が、ゆっくりと重なっていた。薄暗い照明のもと、ソファの上で私は、ぽつりとこぼす。

「……啓悟くん、」

 不意にその名前を呼んだ瞬間、自然と私の肩にかかっていた彼の腕が、ぴくりと小さく動いた。

「え……なんすか、今の」
「え?」

 驚いたように身じろいだ彼はゆっくりと体勢を変え、こちらへと身体ごと向き直る。彼はいつもよりも少しだけ、真剣な目をしていた。

「いや思ったんすよ、俺。気づいたっていうか」
「何に?」
「名前さんが俺のこと名前で呼ぶときって、だいたい、甘えるときですよね?」
「え……ち、ちがうとは言い切れないけど……」
「でしょ? で、俺がその声に弱いって知っててわざと呼んでる」
「べ、べつにそんなっ。深い意味は——」
「うそ。今の『啓悟くん』で俺、完全にスイッチ入っちゃいました」

 その言葉を言い終わる前に、彼はふわりと私を押し倒すようにソファに預ける。目が合った瞬間心臓が鳴った。獲物を捉えるときのような鋭さを帯びた、でも、どこか熱を秘めた琥珀の瞳。私を見ているその眼差しが、じわじわと理性を焼いてくる。

「……キス、しても?」
「う、うん……」

 承諾を受けた彼はかすかな笑みを浮かべて唇を寄せてくる。最初はやさしく、試すように浅く。触れた瞬間、すぐに離れて、また重ねて、そして離れかけた私の唇を、今度はもう離さなかった。

「……軽く触れるだけじゃ、もう無理かもです」
「え……」
「だって、名前さんの声が、まだ耳に残ってる」
「……」
「名前を呼ばれたときの。その響きが、ずっと、ここに——」

 彼は自分の胸にそっと手を当て、あまった手で私の指を探し当てると鼓動を共有するかのようにゆっくりとそこへと導き、二人の重ね合わせた。

「この辺、まだ熱いまんまなんですよ」

 彼の体温が、私の指先に伝わってくる。鼓動の速さが熱の深さを物語っていた。気づいた頃にはもう、キスは言葉を挟む隙もないほどに深まっていて、呼吸も唇も、喉の奥も、すべてが彼の熱に染まっていく。

「……ねぇ、」

 口付けの合間に漏れた彼の声が、低く、甘く、そして苦しそうで、でも確かに私を求めていた。

「今夜も……全部、俺にくれません?」

 彼は私の目をまっすぐ見つめたまま静かに囁くように続ける。

「いつも俺に合わせてくれてるのはわかってる」
「……」
「だから、手加減してます。でもさ?俺だって守るだけじゃ、もう足りない」
「……」
「全部知りたい。全部欲しい。触れることでしか伝えられない想いが、俺の中に、いっぱいあるんですよ」

 私は彼の胸元にそっと指先を滑らせながらその熱に包まれるように触れていき、やがて力強くも穏やかな首筋へと手のひらを導いた。鼓動の在り処を確かめるように指を絡め、静かにその逞しい首へ腕をまわしてゆっくりと抱き寄せる。まるで言葉よりも確かな答えを彼に手渡すように。

「……じゃあ、ぜんぶ渡す。けいごくんに——」

 その響きが再び彼の中の何かを壊した。いや、ほどいたのかもしれない。スイッチが入った、というよりも��自分で自分を止められなくなった�≠謔、な目をしていたから。

「ああもう……ほんと、そーいうのですってば」

 彼の私を抱きしめる力が、ほんの少しだけ強くなる。

「……今夜は絶対、逃しませんよ」
「逃す気なんて、もともとないでしょ……?」
「ええ……縛られたんだから、名前さんの全部、俺に従ってもらいます」

 私はこくんと頷いた。淡い照明がゆらめく部屋の中で、彼の指先がそっと私の髪を掬う。まるで何かを確かめるように。
 それは、なんでもない夜のはずだった。けれど私のたった一言が、彼の胸の奥を、深く揺らしていた。

「……啓悟くん、」

 自分でも驚くほど甘く、柔らかく、でもどこか挑発するような声音で彼の名を呼ぶ。その瞬間、彼の手がぴたりと止まり、喉が小さく鳴る。

「あっ、……また、急にそれ言う」
「え、なに?」
「名前です」
「だって……啓悟くんは、啓悟くんでしょう?」
「……っ、もう、反則なんですってぇ、それ」

 そう言いつつも、彼の手は私の頬に触れ、顎をそっと、持ち上げる。その目に宿るものはもう、やさしさだけではなかった。欲深さと愛しさと、困惑のすべてが詰まっていた。

「こんな夜に、そんなふうに呼ばれたら、優しくしてる場合じゃないかも、って思うでしょ」
「ふふ。こんな夜って……言い方、」
「こんな夜でしょ!他に、どんな夜があるってんですか!」

 私が瞬きをするよりも早く唇が重なる。深く、浅く、また深く。吸い寄せるように言葉を閉じる口付け。呼吸がふたりの間で溶けて、背中を撫でる手が熱をまとって這うたび私は身を委ねていく。

「——けい、……」

 その続きを言う暇もなく彼はまた唇を塞いだ。彼の唇が私の声を攫うたび、私はただ、その熱に沈んでいく。彼にとって私の呼ぶ「啓悟くん」は合図のようなもの。ヒーローでも仮面でもない、裸の彼自身を呼ぶその響きが心の奥の理性を溶かして引き金になる夜。この声が甘く柔らかく彼の理性をじわりと揺らして触れた手先からもう離れられなくなる。しかし私は、名前を囁くたび彼が遠くなる気がして、その身体を抱き返した。
 ただ触れるだけじゃ終わらせられない。そんな静かな衝動に包まれる夜の、はじまりはじまり。

「……今夜はもう、何回も、名前で呼ばんで」
「……」
「そのたびに俺……止まれなくなりそうなんで」

 それでも私は冗談めかして、小さく囁いた。
彼だけが持つ、その尊い名前を——。

「……啓悟くん。」
「あ……言いましたね?……本気で、責任とってもらいますよ?」

 深く息を吸った彼は、そのまま私を抱きすくめソファにそっと沈めた。優しいはずの指先が背中のラインをなぞってくる。その熱が、ゆっくりと身体の奥へと届いていく。触れるたびに、名前を呼ぶたびに、彼のなかの何かが崩れていく音が、確かに聞こえた。

「……可愛すぎるんですよ、その声」
「そんな、こと……」
「もっと聞かせて。俺だけが聞ける特別な声を」

 囁くような声。震えるような吐息。爪先から、心まで、私はすでに彼のすべてに包まれていた。理性がただの境界線になっていく。甘く苦しく、幸福な夜の中で、ふたりの距離が、何度も何度も重なっていく。
 名前は、ただの呼び方じゃない。それは、彼が誰でもない彼自身としてここにいてほしいと願う私だけの合図。その一言がふたりをまた一段深い夜へと連れていく。その名前に込められた甘さも敬意も愛しさもその全てが互いの中では『あなたにしか許されない合図』に変わっていた。だからこそ、互いの声がふと相手の名前を呼んだ瞬間にもう触れるだけじゃ終われなくなっていくのだ。

「名前さん——、」
「けいご、くん……っ、」

 そして私たちは夜の深さに全てを預けていく。名前も声も熱も全てを交わしながら触れることでしか伝えられない愛を確かめ合う。
 名前に触れた唇がお互いをほどいてスイッチを入れてほしい、もっと。この甘すぎる夜に——。


 *


 翌朝。カーテンの隙間からこぼれた一筋の光が静かにベッドの縁を撫でていた。昨夜、言葉も、熱も肌のぬくもりさえも、すべてを交わしあった私たちは、まどろみの海に浮かぶように、互いを抱きしめたまま、眠っていた。先に目を覚ました私。少し遅れて目を覚ましたらしい彼のまぶたが動く。そのぐったりとした様子に、小さく笑みをこぼして、囁くように声をかけた。

「……おはよ、啓悟くん。」

 その響きに、彼の身体が、ぴくりと反応した。閉じた瞼の奥で瞬きが起き切れ長の琥珀に濡れた瞳が、ゆっくりと開かれる。

「……もう……名前呼ぶの、禁止にしません?」
 
 眠そうな目をこすりながら彼がふと漏らすのは思わず笑ってしまうほどの愛の副作用。甘々で、ちょっとだけかわいい本音が飛び出す朝。そう、甘やかされすぎる朝だ。しかしその声は、どこか本気めいていて、なのに拗ねたような愛らしさも滲んでいた。

「え……? どうして?」
「俺の寿命……たぶんあなたが名前を呼ぶたびに一年くらいずつ、縮んでるんで」
「それ短命すぎない?ヒーローとしてどうなの」
「いや……マジで本心ですよ?昨日の夜、名前を呼ばれるたびに、心臓がギュッとなって……」
「……ギュッとなって?」
「あ、また来た、また来たって……もう、あれはダメです」
「ふふっ、そんなに?」
「はい。名前さんの呼び方って、すべての感情が詰まってるじゃないすかぁ……」
「……」
「もう凶器ばい。最強の。完全に、キラーワードですね」

 そう言いながら彼は、布団に潜って顔を隠してしまう。そのわざとらしくなく、ただ照れ隠しに沈んでいく姿が、とっても愛しかった。

「……なんならさっきも、寝言で呼ばれてた気がして。やばいですってぇ……」

 布団のなかから、ぼそぼそと漏れる声が、また可笑しくて。

「……じゃあ、もう本当に呼ばない方がいい?」
「や、それはそれで嫌でっ……!」
「……ぷっ。」
「あーっ、もう、ジレンマっ!!」

 しばらくして、布団から顔を出してきた彼が、思いついたように真剣な目で言った。

「よし、名前呼び、使用回数制限つけましょう」
「え」
「一日、三回まで。超えたら……お仕置きです」
「お仕置きって、何されるの?」
「うーん、ベッドで動けなくなるくらい甘やかすとか……?」
「……それ、どちらかというと、ご褒美じゃん」
「うわ、言われた。俺が一番弱いとこ突かれた」

 笑い合ったまま自然と額をこつんと重ね合う。まるで、子どものような仕草に、昨夜の熱がまだ残る肌がふと切なく温まる。そして、彼はそっと私の髪を撫でながら言う。

「でもね、ほんとに思うんですよ。あなたが俺を名前で呼ぶたびに、生きてる実感がわく」
「……」
「ちゃんと、あなたに愛されてるって感じる」
「……なら、これからも、いっぱい呼ぶね?」
「うわっ、寿命縮める気満々……」
「大丈夫。縮む代わりに、いっぱい好きって言うから」

 彼は一瞬、息を止めたように目を見開いてそれからゆっくりと満ちていくような笑みを浮かべ、なおも私の頭を撫でながら囁くように呟く。

「……やっぱり、名前さんに呼ばれるのが、俺はいちばん好きです」
「ほかに名前で呼ぶ女性がいたら、それはそれで問題だよ」
「ははっ。公安の古株以外、誰も知らんですよ。俺の本当の名前なんか」

 静かで優しくて、愛の音が鳴る朝。カーテンをまだ閉めたままの寝室に、かすかな雨音が降っていた。室内の光はまだ淡く影だけが壁に寄り添うように揺れている。彼が私の手をとり自分の胸元へと導く。そのまま、額をそっと重ねる距離に、吐息が混ざり、熱が交じり合っていく。

「ねえ……朝から全部、奪ってもよか?」
「……ん?」
「違いますね。俺が、あなたの全部を奪いたい、でした。今すぐ——」

 私の唇に彼が優しく触れる。触れたと思ったら次の瞬間、深く吸い込まれるように重なる。最初は愛しさに満ちていた。そのはずだった。けれど彼の指が、声が、熱が、私を優しく包みながら、どこまでも深く求めてくる。身体が触れるたびに言葉よりも先に心がほどけていく。そしてついには声にならない声までも彼がすべて奪っていく。彼の手が私の頬から首、そして肩をなぞり背中を引き寄せる。舌先が逃さず私の声を拾いあげる。

「……やだ、待って……」
「ん?」
「朝だから……変な声、出ちゃう……」
「……それ、聞かせてくださいよ。声にならない声まで、俺がぜんぶ欲しい——」

 彼の手はもうためらわない。服のすそをたくしあげ、肌に直接、指を這わせていく。そこにある、わずかな震えもくすぐったい吐息も、痛みさえも彼がすべて優しく撫でるように、愛おしむように��好きの証�≠ニして受け取っていく。

「……我慢してたの、ほんとは俺のほうで」
「えっ……」
「いつも優しくしようって思いよった。でももう甘やかすふりして、ぜんぶ欲しくなってる」

 その声は低くかすれて、でも確かに私を縛ってくる。何度も唇を重ねられるうちに、私の言葉が少しずつ消えていく。代わりに漏れるのはうまくかたちにならない呼吸と、微かに震える喉の音。

「……可愛い声、もっと聞かせて。名前さんが、我慢しなくなる瞬間が、好きなんです……」

 背中に回された腕。抱きしめる力が増して私の全身を彼の熱の中に溶かしていく。視線が絡んで離したくなくて何度も名を呼んだ。それに応えるように名前を呼び返されるたび、それがふたりの熱をまた燃やす。

「ねぇ、やっぱり俺の名前……何回でも言って」
「……っ、」
「そうしないと、ほんとに自分が、どこまで欲しがってるのか、わかんなくなりそうで——」

 その朝、私たちは何度も愛し合った。けれど、それは欲望ではなく、確かな愛のかたち。触れた場所から好きになる。触れ返された場所に、愛が宿る。すべてがただの衝動ではなく彼の優しさに満ちた確信。そして肌の奥までしみこんでいく、欲望の中の、たしかな信頼と愛。
 声が出なくなっても彼は私の名前を何度もその唇に乗せた。

「……名前さんの、全部が欲しい。」

 そのたったひと言に、すべての想いが詰まっていた。それは、雨音がそっと包んだ、名前の降るふたりだけの、朝の物語。


 *


 数日後の昼下がり。彼が短い任務に出たあとのふとした静けさの中で私はキッチンに立ちながら「今夜の献立、何にしようか」と彼のタブレットを借りて手に取った。ほんの数秒レシピアプリを探してスクリーンをなぞったそのとき思いがけず開いてしまったのはメモアプリだった。そこにはひとつだけ、タイトルも何もついていない無名のファイルが残されていた。
 本来ならすぐに閉じていた。けれど、目に飛び込んできた最初の一文��その髪に触れた夜の事��——そのたった十文字に、まるで心を掬い上げられたように、私は指を止めてしまった。


【未タイトル】
『その髪に触れた夜の事。あの日、彼女がタオルを巻いて出てきたとき俺の中の何かが崩れた音がした。たぶんもう自分の理性ってやつにあんまり自信がない。その肌を見てるだけで、息が詰まりそうになる。キスじゃ足りない。抱きしめるだけじゃダメだって思ってしまう瞬間がたしかにあった。だけど彼女の事は大事にしたい。だから俺はずっと本気で欲しいって言葉を我慢している。』


 え、っと……詩人か、何かでしょうか?画面を滑る指先が自然と震える。更に下へとスクロールすると、そこには彼の誰にも見せなかった本音がまるで、息遣いのように記されていた。


『彼女の声が好き。俺の名前を呼ぶ瞬間が、一番生きている気がする。だから声にならない声まで奪ってしまいたくなる。こんなこと本人には絶対言えない。そもそもこんなところにしか吐き出せないなんて情けなさすぎて泣ける。そして、もしこのメモを誰かに見られでもしたらマジで、秒で死ねる自信がある。』


 そして最後にひとことぽつんと小さく残されていた。��それでも欲しい。彼女の全てが欲しい。それをまだちゃんと伝える自信がない��——と。
 私はそっとタブレットを閉じた。そして、深く深呼吸をする。胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
 あれほど愛してくれていたはずのヒーローが、こんなにもまだ言えなかった気持ちを抱えていたなんて……。それは、言葉では恥ずかしくて伝えきれなかった彼の欲望と愛のかたち。それをそのまま閉じ込められたような甘くて幼くて、真剣で恥ずかしくて、切実な恋文。

「ただいまぁ〜♡ 愛しの名前さぁ〜ん♡」

 数分後、玄関の向こうから、なんともお気楽な声が聞こえてきた。私を見るやいなや「ん……?どげんしたと?」と問う彼に私は返事のかわりにそっとタブレットを差し出した。その瞬間、彼の動きが、ぴたりと止まる。

「え……………………見ました?」

 どうやら、一瞬で悟ったらしい。こくんと頷く私に彼の表情が、瞬時に剛翼の如く赤く染まり、次の瞬間、頭を抱えながらその場に崩れるようにしゃがみこんだ。

「うっわあああ!なんっでそれ残してたんだぁ〜俺ぇぇぇぇ!!」
「いや、あの……で、でもね、」

 慌てて声をかけると、彼はちらっと上目遣いで私を見る。眉はしっかり困っていて、でも、その奥にどこか諦めたような、恥ずかしがる子どものような表情が混じっていた。

「私、うれしかったよ?」
「……」
「だって、ホークスがそこまで私を想ってくれていたんだ、って」
「……、」
「ちゃんと全部、私の想いが、届いてたんだってわかったから」

 彼の肩が、ふっと、力を抜くように下がった。そして、すくっと立ち上がり、私に一歩近づいて真っ直ぐな目で半ば開き直るみたいにして言う。

「じゃあ、メモじゃなくて、ちゃんと口で言ってやりますよ」
「い、言ってやりますよって、言い方……」
「流れ止めんでっ!死ねる直前っちゃけんっ!」
「は、はい……!」
「名前さんが欲しい。ずっと欲しい。俺の全部で、あなたを好きでいたい」

 その言葉に思わず胸がきゅうっとなった。私は何も言わずに、顔に熱が集まるのを隠したくて、ただそっと、彼の胸に額をあずけた。
 静かに呼吸が重なって、心臓の音まで聞こえる距離で、彼の腕が優しくまわされる。照れも恥じらいも笑いも、全部を包んで私たちはそっと抱き合った。未タイトルのままだった彼の想いがようやく本物の声になって、伝えられた。しばらくの沈黙のあと、彼が私を離して、ぽつりと囁く。

「……あの。恥ずかしついでと言ったら聞こえが悪いんですが……」
「ん?」
「一個だけ、その……お願いがあって」
「うん?」
「名前、呼び捨てで呼んでもらっても……?」
「……え。」

 思いもよらぬその要望に私は少しだけ戸惑って顔をあげる。彼は目を逸らして照れたように笑った。けれど、その奥に、ほんの少しだけ寂しげな光があった。だから私は黙って、頷いた。

「一回だけで、いいんだよね……?」
「は、はい……」
「……じゃあ、試しに……」
「え、今すぐやってくれるんです?」
「え、今すぐの要望じゃなかったの?」
「え。そりゃ……ウェルカムです、いつでも」

 口に出すまでが、どうしてこんなに緊張するのだろう。呼びかけるのは、たった三文字なのに、それが、彼という人そのものに触れてしまう気がして、言葉が喉の奥で絡まる。
 呼び捨てって思っていたよりも近い。名前ってどうしてこんなにも直接的なんだろう。それでも彼は私の沈黙に、優しく微笑んでいた。

「ごめんごめん。……ゆっくりで、いいですよ」

 二人の距離がさらに、ほんの少しだけ近づいたあと。私はそっと意を決して、その三文字を口にした。

「——啓悟……。」

 その一言に彼の目がぱちりと見開かれる。そして、呼吸を忘れたような顔のまま、数秒止まってから、ふっと緩んで、堪えきれないほどの笑顔になった。

「……っ、それ、やばかぁ……」
「えっ、ダメだった?やっぱり馴れ馴れしい?」
「違う違う、嬉しすぎて心臓止まりかけた……」

 彼が恥ずかしげもなくそんなことを素直に言うので、私はさらに顔を赤らめてしまう。彼はそのまま私をそっと抱き寄せて言った。

「名前さん、ありがとうございます。」
「……どう、いたしまして」
「なんか、その声で呼ばれると、全部がほぐれる気がする」
「ほぐれる……って、なにそれ、もう……」
「ふふっ。ほんと、心が、ふわってなるんです」

 そんなことがきっかけで、私は時折、ふざけて彼のことを呼び捨てにするようになった。名前を呼ぶたび彼はくすぐったそうに笑って照れながら「やめてぇ〜本気で照れる」と、頬を赤らめる。そんな仕草がかわいくてついからかってしまう。
 ヒーローの顔じゃなく、羽根を脱いだ彼にしか通じない呼び方。特別な響き。そしていまも私が名前を呼ぶたびに彼は変わらずどこか嬉しそうに微笑む。彼にとってのそれはもう愛のスイッチ。


 *


 けれどその��甘やかし�≠ヘ、どうやら副作用を生み始めていたらしい。

「そうそう、啓悟ってさぁ、やっぱ呼び捨てだと変な感じがするから私は、啓悟くんがいいなって思った」
「……」
「——で、啓悟くん。今日の天気は?」

 ある日の朝。パンをかじりながら私がふと彼の名前を呼びかけると、ガタン、と、彼の持っていたマグカップがコーヒーメーカーのトレイに落ちた音がした。そのまま彼はぴたりと手を止める。

「あ、あの……今、なんて?」
「え、だから……今日の天気は——って」
「違う!その前。呼んだでしょ?」
「へ?」
「……ケイゴ、って、呼び捨てで、名前……」

 彼は顔を赤くしながら、ゆっくりとこめかみを押さえながら言った。

「……だめだ……また、スイッチ入る……」
「え、うそ。今のタイミングで?呼んだっていうか、独り言に近いんですけど……」
「いや、これはもう、重大事件です。名前を呼ばれると、反射で身体が反応するんですって!」
「え——まさかの、条件反射?それもう、ただの変態なのでは……」
「ヘンタイ言わんで!」

 そう言った瞬間、彼はキッチンにマグカップを置きっぱなしにしたままズカズカと足音を立ててこちらに歩み寄ってきた。その足取りはまるで、「このまま黙って引き下がってたまるか」とでも言いたげで、乱れた前髪の隙間から、こめかみを押さえていた手が滑り落ちると、苦しげな表情を覗かせて、その中に甘えた苛立ちが滲んでいた。そしてテーブルを挟んだ私の目の前に立ち、まっすぐに私を見据えて、ぐいと距離を詰める。

「昨日のパトロール中に一般人の子どもが『ケーキ』って言ったの、うっすらケイゴに聞こえて。一瞬、フリーズしかけたんすよ?」
「……それ、ヒーローとして大丈夫そう?」
「大丈夫じゃなかっ!だからあなたが全部悪いんですよ!」
「は、はいっ……!?」
「俺の名前を、甘く呼びすぎなんですって……」
「えっ、そんなこと……言われましても……」
「もう甘え声で呼ぶの禁止っ!最終的には、声を出せなくする個性持ってる人探しますんでっ!」

 私が思わずクスッと微笑むと、彼はテーブルに突っ伏してから、真顔でこう言った。

「このままじゃ俺、自分の名前にときめく体質になってしまう……。無理、本物の変態やん……」
「もう、なってると思うけど?」
「——っっ、否定できん……!」

 けれど、どれだけからかっても、耳元で囁けば彼は必ず嬉しそうに笑った。その三文字はもう、彼にとって何よりも甘い魔法。愛のスイッチは、今日も平和に、静かに発動している。


 *


 カーテン越しに、月の光が漏れている夜——。ベッドの中、肩と肩を寄せ合いながら、ふたりで静かに呼吸を揃えていた。しんとした空気の中、私はふと彼の頬に手を添えながら、名前を呼ぶ。

「……啓悟くん、」

 その一言に、彼の喉がかすかに鳴り、腕の中に私を強く抱きしめる。夜の静けさが、彼の素顔をそっと引き出す。いつもはおどけて笑ってばかりのヒーローが、私の掌の中でだけ、素直になる夜。愛しさと、戸惑いと、熱がふたりのあいだで溶け合っていく。

「……だめだ。」
「え?」
「その声で名前を呼ばれるともう、何も考えられなくなります」
「……」
「もう、呼び捨てだろうと、くん付けだろうと、さん付けだろうとチャン付けだろうと関係なか」
「……チャン? え、啓悟ちゃん……?」
「——やめてって!!」

 目を見開いた私の視線を受け止めながら、彼は静かに目を伏せる。そして、囁くように、言葉を零した。

「たぶん俺、もう完全にあなたにだけ弱くなってます」
「……」
「その優しい声で名前を呼ばれるだけで頭ん中、全部まっしろになる」

 私は、そっと微笑み、意地悪にもう一度、その名前を呼んでみる。

「鷹見、啓悟くん」
「……っ、ちょっ!いま、言うたばっかやろっ!ずる……っ」

 揺らいだ声。余裕の仮面はすでに剥がれて彼はただの、一人の男になる。

「本気で、やばいんですって……もう、あなたを好きだって気持ちが、抑えきれなくなってく」
「……じゃあ、抑えなくていいよ?」

 その囁きに、視線が重なる。熱が混じる。夜の闇がふたりのために、静けさを与えてくれる。

「……よかと? 今の俺、たぶん優しくできないかもしれないですよ?」
「それでも、ちゃんと、好きなんでしょ?」
「……うん。触れるのも抱きしめるのもキスするのもぜんぶ、名前さんを好きの一部です」
「ふふっ」
「だから、ごめんなさい。許して。俺、今から、欲張りになる」

 いいよ、と言わんばかりに、小さく頷いた私を見て、キスが浅く、静かに始まった。でもすぐにそこには触れ合う熱が宿り始める。唇が離れても瞳は絡んだままでぬくもりが交わるたびに互いの心音が確かめられてゆく。

「……名前さんが俺を名前で呼んでくれるたびに思う。もう、逃がしたくない——って」

 肩に触れた手が背中を撫でる。頬に触れた指が熱を伝える。ベッドの上、二人の体温が重なって言葉じゃない気持ちが呼吸やキスや肌の記憶へと変わっていく。

「……啓悟くん、」
「あ〜あ……だめって言ってんのに……ほんとにもう。名前さんの声、犯罪級です」

 キスが、ゆっくりと深くなった。その反応に、肩を震わせる私を優しく、それでいて、抗いきれない想いのままに、強く熱く抱き止めてくれる、唯一無二の、マイヒーロー。

「もう、なんにも考えんでよかね。俺でぜんぶが埋まるくらいに、感じさせちゃうんで——」

 その夜、ふたりは名前よりも言葉よりも、ただひとつずつ触れ合いながら��好き�≠ニいう想いを何度も交わし合った。
 彼の名前を呼ぶたびに、その響きが彼にとって��逃げ場�≠ナはなく��帰る場所�≠ノなるように。そんな願いを胸に抱いたまま、私はその腕のぬくもりの中で、静かに眠りへと沈んでいった。

 そしてまた夜が明ける。愛の余韻がまだ肌に、心に、ゆっくりと滲んでゆく朝。言葉よりも先に胸がほどけ肌よりも深いところで触れ合った夜の続きを朝の光がそっと撫でていく。湯気のように立ちのぼる残り香は、誰にも見せない顔と、声と鼓動のかけらで、互いを確かめ合うように漂っていた。部屋に差し込むやわらかい光の中で、私はベッドの中でまだ温もりの残る毛布を抱いて目を覚ます。
 ふと気づくと、彼は照れ隠しのように、そして逃げるようにTシャツを羽織ってキッチンへ向かおうとしていた。

「……おはよう。もう、起きてたんだね」
「……はい。ちょっと前に目、覚めましたよ」

 足を止めてもなお、背を向けたまま答える彼の声は、どこかくすぐったそうで、いつもよりも、少しだけ早口だ。

「なんかほら、めちゃくちゃ暑くて」
「ふうん……?」
「あの、名前さん……その、昨日の夜は……」
「……ふふ。ねえ、啓悟くん……。」

 ——ぴたり。まるで時間が止まったかのように彼の背中がその場で、凍りついた。肩がわずかに跳ねて、それでも振り向く素振りすらなく彼は、その場でかたまりながら、ぽつり。

「……あー。……やっぱ、言ったぁ」
「うん、言った。あなたが逃げ出しそうなときのために、ね?」
「魔法の言葉……ほんとに魔法っぽく使わないでくれます?」

 振り返った彼の頬は、見慣れた赤よりもずっと濃く染まっていた。そして、こちらにゆっくりと近づき、ベッドの端に腰を下ろすと、その重みでベッドがすこしだけぎしりと軋む。それから私の髪に、そっと指を滑らせながら語り出す。

「あのさ……昨日、俺、言いましたっけ?」
「ん、なにを?」
「あなたの声で名前呼ばれるの、俺にとっては、ただの呼び名じゃないってこと」

 私はゆっくりと首を横に振る。彼は、少し俯きながら、囁くように続けた。

「俺さ、ヒーローのときはホークスって呼ばれて肩書きとか使命とか、いろんなもんが背中に乗ってて」
「うん」
「でもあなたが名前を呼ぶと俺がただの俺でいていい気がする」
「……」
「素のままで、ちょっと情けなくてもダサくても甘えてもいいんだ、許されるんだって思える」

 私はそっと彼の手を握った。自然と握り返してくる彼が、純粋に愛おしくて、たまらなかった。

「……じゃあ、逃げないでね?」
「逃げませんよ。名前を呼ばれたら俺は、どこにいたって立ち止まるようにできてますんで」
「ふふ、なに、それ?」
「……名前さんの声って、俺のGPSかも」
「それ、ちょっと安心かも」
「はぁ……ねえ、安心って言われただけで、心臓バクバクしてんの、なんででしょうね?病気?」
「んー。恋の、病い……?」

 私の笑みに、彼も静かに微笑んだ。そしてもう一度、今度は唇で、『おはよう、大好きだよ』を伝えてくれる。

「おはようございます、俺だけの魔法使いさん」
「おはよう、私だけの逃げ腰ヒーローさん」

 日常のはじまりの中で二人だけの言葉で交わす朝の挨拶。それはもう、ただの会話じゃなくて、触れられる愛、そのものだった。私たちは今日もそんなふうにちょっと照れくさくて、でも、とびきり幸せな朝を迎えた。
 今日もまた名前から始まる魔法のような一日が静かに幕を開けていく。

「名前さん、ジャムはいちごにします?それともマーマレード?」
「ん〜、啓悟くんのセンスにお任せします」

 魔法の名前を呼べば、彼は、必ず立ち止まる。私が迷わぬように、彼が戻ってこられるように。ヒーローとしての顔ではなく羽根を脱いだままの彼がそこにいる。名前は、彼の居場所を思い出させる呪文。そうして今日もまた、私はその呪文を心の奥に仕舞って、世界のどこにいても彼だけに届くように、胸の中でそっと唱える。
 愛の続きは、名前から始まる。朝のやわらかな光の中で、その確信だけが、あたたかく胸を満たしていた。





名前に宿る、ふたりだけの魔法



(……朝からほんと、ずるいんですよ)
(なにが?)
(その声。その名前の呼び方のトーン、全部)
(ホークスだけに聞かせてるからいいでしょ?)
(ああ……好き。やばいくらいばり好きったい)

※image song『 僕の名前を/back number 』


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