同棲を始めて季節がひとつまたひとつと静かに巡っていった。日々という名の繰り返しの中で、私たちの生活は少しずつ形を持ち始め、ひとつの部屋の中に二人分の呼吸が自然に重なり、湯気の立つマグカップや、洗面所に並ぶ歯ブラシの色の違いさえ、まるで昔からそうであったかのように生活の風景に溶け込んでいた。
 夜の深い沈黙のなか、交わす言葉もなく指先を絡めて眠りにつくとき、私はその瞬間だけ世界のあらゆる不安や雑音が遠ざかっていくのを感じていた。
 この人の体温が私の掌に溶け、眠りの底でさえ私たちはきっと、互いの名前を呼び合っていたのだと思う。夢の中で声が届かなくても、心だけは寄り添っている——そんな確信があった。

 明け方、薄い光がカーテンの隙間を縫って差し込むと彼は決まって先に目を覚まし少し寝ぼけ眼のまま私の髪を指で梳きながら「おはようございます」と囁く。その声音はまだ夢と現実のあわいに揺らぐような優しさを帯びていて私はそのたびに、世界のどこよりもこの瞬間に生きていたいと思うのだ。朝の光の粒が私たちの頬を撫でる頃、唇を寄せる「おはよう、今日も大好き」のキスが一日の始まりの合図だった。コーヒーメーカーの微かな音、湯気の向こうに見える彼の横顔、出勤前に羽根を整える仕草。そのどれもが私の日常の一部になっていた。
 そうした穏やかな日々が積み重なっていく内に私たちはいつのまにか一緒にいることが、呼吸のように自然になっていった。だからこそ少しでも離れ離れになるとその時間が途方もなく長く感じられる。

 その朝も、いつもと同じように私がテーブルに朝食を並べていると彼はスマホでニュースを追いながらコーヒーを口に運び、ふとした拍子にその琥珀色の瞳をこちらに向けた。そして、私が何気なく切り出した一言に彼の表情がほんの少しだけ揺らいだ。

「……ぅえ、旅行ぉ?」

 その瞬間、彼はまるで意表を突かれたように、口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになり、慌てて咳き込みながら私を見た。私が笑いを堪えきれずに肩を震わせると、彼は苦笑混じりに眉を下げる。

「うん。大学時代の友達と」
「大学時代の、友達と……」
「そう。二泊三日で」
「……二泊、三日。」

 彼が私の言葉をゆっくりと復唱した。その声音には、ほんの僅かに柔らかなざらつきがあって、コーヒーカップの縁に触れていた指先が、微かに止まる。視線はまだテーブルの上のパン皿に落ちているのに、その沈黙の端で私のほうを見た気配だけが確かに動いた。その目に宿るのは疑念ではない。けれど、そこには微かに光と影が同居していてまるで彼の胸の奥に沈む小さな波がひと呼吸ごとに表層へ浮かび上がってくるようだった。
 理解と、ほんのわずかな警戒と言葉にできない名残惜しさのようなもの。私はその微細な変化を見逃さない。長い羽根を休める鳥が、不意に風を思い出したときのように、彼の瞳は一瞬、遠くの記憶を見ていた。それは決して、私を疑っているのではなく、ただ、私の過去という名の見えない風景に、彼がそっと指先で触れようとした、その無意識の仕草にすぎなかった。
 けれど彼は、すぐにいつもの笑みを取り戻し、何事もなかったように、カップを口に運ぶ。その何気ない動作のなかに、彼の成熟した優しさと、ほんのひとさじの寂しさが、静かに溶けている。

 彼は誰よりも人の自由を尊重するのに、同時に誰よりも静かにそれを惜しむ人だ。私は、そんな彼の矛盾を愛おしく思いながら、その仕草を目で追う。何も言葉を交わさなくても彼の指先の止まり方ひとつで、今どんな心の色をしているのか、私はもうわかってしまう。だからこそその一瞬の沈黙が、言葉よりも深く私の胸の奥に沁みていくのだ。言葉にならなかった想いの粒が、朝の光とともにゆっくりと部屋を漂い、空気の温度までも彼の感情を映しているように思えた。

「温泉と自然を満喫する、食い倒れツアーなの」
「……」
「ちゃんと、女子だけだよ」
「……え、ちょ、待って。」
「ん?」
「三日も俺なしで、大丈夫です?」
「なにそれ。もちろん大丈夫だよ」
「あの……俺が、大丈夫じゃないんですけど」

 ——前言撤回だ。どうやら、理解していたわけではなかったらしい。その声音には冗談めかした軽さの中に、ほんのわずかな本気が滲んでいた。私はスプーンを持つ手を、空気ごと掬うように、そっと止める。その瞬間テーブルの上に漂うコーヒーの香りがふいに濃くなり彼の声の余韻がその香りに溶けて消えていく。そう私は知っている。彼が寂しさを隠そうとするとき、いつもより少しだけ声が低くなり、そしてその低さの中に奇妙なほどの柔らかさが宿ることを。それは彼自身が、自分の胸の奥にある空洞を誰にも悟られないように撫でているような声音だった。
 ホークス——彼は普段、誰よりも軽やかに空を翔け、風を切りながら笑ってみせる人だ。街のざわめきの上を光の粒のように通り抜けていく彼の背に誰も本当の重さを見ることはできない。けれど、私の前でだけ見せるその微かな翳り。それは彼が生きる世界の厳しさを沈黙の奥でそっと語っていた。戦いの中に生きる人間が静かな朝にだけ見せるほんの一瞬の素顔。その揺らぎを目にすると、私はいつも、守られている側でありながら、逆に彼を抱きしめたくなる。

「大丈夫でしょ。だってたったの三日間だよ?」

 笑ってそう言いながらも私の胸の奥では何かが微かに軋んだ。
 ��たったの三日間��——その言葉の軽さを装いながら私はどこかで、その短い時間の中に広がる彼の孤独を予感していた。彼は一拍置いてから、静かに息を吐く。まるで自分の中に生まれた甘さを打ち消すように、目尻にいつもの笑みを作り、優しさで感情を包み隠す。
 その笑顔は他人から見れば完璧に��余裕のあるヒーロー�≠フ顔なのに、私にはその内側で言葉にならないものが震えているのがわかってしまう。その揺れの正体を私はもう知っている。彼の笑顔の裏側には救うことでしか自分を保てない人間の深い孤独が沈んでいることを。

「まあ……息抜きも必要ですよね。」

 その言葉を口にしたときの彼はいつものように穏やかだった。しかし、その穏やかさの中に滲むわずかな翳りが、どうしようもなく、胸を締めつける。

「ゆたぁ〜っと、羽伸ばしてきたらよかよ」

 やっぱり優しい、そう思う。彼は私の楽しみを尊重し何も言わずに背中を押そうとする。けれどその手の温もりには、ほんの少しの名残惜しさが混じっていて、それを私はあたたかさとしてしか受け取れない。たとえその背中に誰にも気づかれない孤独を宿していたとしても。
 さすが我が国が誇るトップヒーローホークス。彼の優しさは、時に人を救い、そして、時に自分自身を削る。そのことを私はもう痛いほど知っている。彼の微笑みは空の青さに似ていて、どこまでも澄んで見えるのにその奥には誰にも届かない高みがあり風の冷たさだけが真実を知っている。そんな空を抱いて生きる彼の隣で私は三日という時間を、軽く口にしてしまった。

 たった三日。けれど彼にとってそれは永遠にも似た孤独の長さを孕んでいるのかもしれない。


 *


「いってらっしゃいませ〜。どうぞ楽しんできてくださいねー」

 彼はいつもの調子で軽く手を振りカップを口に運んだ。あえて玄関まで見送りに来ないところに彼の寂しさが、微かに滲んでいる気がした。その控えめな距離の取り方が、かえって優しさの形のようにも思えて、私は胸の奥で小さく息をのむ。
 玄関でスニーカーの紐を結びながら、私はふと振り返り、彼に向けていつもより少しだけ明るく笑った。

「はぁ〜い! お土産楽しみにしててね」
「——で、三時間に一回くらいは、連絡してくださいよー?」
「……はいはい」

 そんなやり取りのひとつひとつが、当たり前の日常の欠片でありながら、同時に、目に見えない約束のようでもあった。まるで言葉の裏に小さな祈りを忍ばせるように彼は軽口を叩き私はそれを笑いで包み隠す。けれど、その「三時間に一回」という言葉にはほんのわずかな真実が滲んでいた。その軽やかさの奥に潜むものを私は知っている。彼が人知れず抱える不安や空の高さゆえの孤独が時折ふっとこんなふうに会話の端に顔を覗かせることを。だから私は、あえて何も触れず、聞こえなかったふりをして笑った。そうすることでしか、彼の優しさを守れないような気がしたのだ。
 そのままドアノブを回すと、金属が小さく鳴り冷たい空気が頬を撫でる。廊下の光はまだ、朝の白さを残していて、私の背中を押すように静かに差し込んでいた。
 外に出る瞬間、私はほんの一瞬だけ、振り返りそうになる。けれども、やめた。見てしまえば、きっと離れがたくなるから。その代わりに、扉の向こうで彼が小さく息を吐く音がした気がした。それはため息ではなく、風のような呼吸。その風には、私を包み込む羽根の気配が確かに混じっていて、音にならない優しさが静かに部屋の空気を震わせる。私はその気配を背中で受け取りながら靴底で新しい朝の匂いを踏みしめた。

 扉の向こうで残された彼は、きっとあの笑顔のまま空に羽ばたく準備をしているのだろう。私のいない三日間をいつものように笑いながら過ごすふりをして。それでも、その笑顔の奥で、ほんの一瞬だけ私の名前を呼ぶ。私はそれを、知らないふりをして、朝の光のなかに歩き出した。


 *


 彼女の二泊三日の旅行一日目、抜け殻、現る。
 任務を終えて帰宅した瞬間、俺は、リビングの床に大の字になって倒れ込んだ。羽根を畳むのも億劫で、そのまま天井を見上げる。部屋はひどく静かで、時計の針が進む音すらいつもより大きく響く気がした。誰に言うでもなく天井に向かってぼそりと呟く。

「……え、さみしかぁ。」

 自分の声が、やけに間の抜けた音に聞こえて、思わず苦笑いが漏れる。けれども、やっぱり静かすぎる。この静けさは、音の不在というよりも、温度の不在だ。ソファに腰を下ろしてもいつものように隣から笑い声が響かない。ベッドに寝転んでも、隣のシーツは冷えたままで、触れた指先がそこに残る記憶を探す。
 キッチンに立てば、鍋やフライパンが、やけに整然と並びまるで「今夜は彼女の手料理なし」と告げているみたいだった。冷蔵庫を開けると奥にひとつだけプリンが残っている。彼女とふざけて作った��第六条:喧嘩のあとは、プリンで仲直りする�≠ニいうルールを思い出して、胸の奥がくすぐったくなった。よく見れば油性ペンで『喧嘩○回目』と書かれていて、その小さな文字の裏に、笑いながら書いた彼女の姿がよみがえる。俺は、思わずため息まじりに呟く。

「プリンで仲直りしたかばい……って。べつに、ケンカもしとらんけど」

 リビングの灯りを消しソファに身体を沈める。リモコンを手に取ってテレビをつけるがどのチャンネルにも彼女の笑い声がない。ニュースキャスターの声もヒーローの速報も、どこか遠い世界の音に聞こえる。部屋の空気が薄く感じるのは彼女が生きている証を持って行ってしまったからかもしれない。
 彼女のいる日常というのは案外、空気の質そのものを変える力があるらしい。光が柔らかくなり音が丸くなる。その全部が今は少しだけ違う色をしていた。それでも朝は来る。時間はヒーローを待ってはくれない。

 翌朝、俺はいつものようにフライトジャケットを羽織り、外へ出る。夜の名残を残した空気が、羽根の隙間をすり抜け、飛び立つたびに、背中の筋肉が少し軋む気がした。現場に着けばいつものように笑顔を作り「はいは〜い、お怪我はありませんかー?」と声をかける。
 群衆の中で俺は、完璧なヒーローとして動く。誰もあのウィングヒーロー・ホークスが、抜け殻モードだなんて、気づきもしない。
 トップヒーロー、ホークス。その名前の重さは時に鎧みたいで時に檻のようだ。空を飛びながらも俺の中の羽根の一枚はどこか地上に置き忘れてきたような気がしてならない。

 任務を終え誰もいないビルの屋上に降り立つ。風が強く、羽根が煽られる。空は晴れているのに胸の奥だけが曇っているような、そんな感覚。
 俺はポケットからスマホを取り出して、指先で画面を開いた。

「………。」

 『楽しんでるよ!』……か。よかった。うん、それでいい。それでよかばい。
 何度も同じメッセージを開いては閉じ、また、指先でスクロールして戻る。短いその言葉がまるで彼女の声そのもののように胸の奥で反響して、音もなく広がっていく。なのに、どれだけ画面を見つめてもそこに息づく声の温度までは届かない。たった一行の明るい文字列では埋められない隙間が胸の奥にぽっかりと残ってしまう。ほんの一瞬でもいいから、その声が直接耳に触れてくれたら——そう思ってしまう。

「……声、聞きたかねぇ。」

 小さく零れた独り言が夜風にさらわれていく。街の灯が遠くで瞬き、羽根の間を通り抜ける風は少し冷たかった。ヒーローの肩に乗るのは夜風と孤独。それでも、心のどこかでは確かに三日間という約束を信じていた。
 明後日のこの時間には、彼女が帰ってくる——その事実だけが空を仰ぐ俺の支えだった。寂しさも、夜の重さも、きっとそれまでは耐えられる。いや、耐えなくてはならないのだ。だって俺は、ヒーローだから。


 *


 彼女の二泊三日の旅行二日目、夜──恋人禁断症状発症中のヒーロー現る。
 スマホの画面が光るたび胸の奥で何かが小さく跳ね上がる。通知を見た瞬間そこに浮かぶ彼女の名前を確認して剛翼が反射的にぴくりと動いた。反応するのは筋肉でも訓練された感覚でもない。彼女にだけ向けられる、まるで本能のような反応だった。

『あ——もしもし、ホークス?』
「……ああ、はい……。名前さん……」

 その声を聞いた瞬間、胸の奥に溜め込んでいた寂しさが堰を切ったように溢れ出しそうになる。どれほど気丈に振る舞っても言葉のたった一音がすべてを崩す。
 彼女の声は、俺の世界の音だった。それを忘れようとすればするほど、深く刻まれていく。

『声、低っく……。どう? 元気にしてる?』

 彼女の声が、夜の冷たい空気をやわらかく切り裂く。その明るさがあまりに自然で俺は少しだけ息を詰めてしまった。言葉を選ぶふりをしながら喉の奥に沈んだ寂しさを無理やり押し上げるように返す。

「してないです。それでもヒーロー活動やら任務はちゃんと、やってますよ」

 ほんの一拍ほど、間があく。電話越しの沈黙はいつもよりも深く、海みたいに静かだ。

『……そっか、ならよかった』

 その一言に心の奥のほうがじんわりと温まる。彼女は俺の声の濁りを見抜いても決して触れようとはしない。それが、彼女の優しさだ。俺は少し笑って、軽口を混ぜる。

「でも、彼女不足が深刻です。甘えたいモードが、容量オーバーしてるんですけど、どうしてくれるんですか」

 電話の向こうで柔らかな笑い声が弾ける。その音だけで、空気の温度が一度上がった気がした。
 彼女の笑い方は、不思議だ。声が高くなるわけでもないのに、耳の奥に残る余韻が長い。まるで聴き慣れた旋律のように、心の奥に、静かに降り積もっていく。

『ふふ、ごめんね。ちゃんと帰るから、あと一日だけ我慢してください』
「……じゃあ、今のうちに言っときますね」

 自分でも、声が少し低くなったのがわかった。言葉にする前から、心が先に走ってしまう。

『……ん? なにを?』
「帰ってきたら、抱きしめたまま離さないんで」

 自分でも少し笑ってしまうくらい、まっすぐな言葉だった。けれど、今夜だけは、飾り気のない本音を言いたかった。彼女のいない部屋できちんと寂しいと感じられる事が少し誇らしくもある。

『ははは……うん、楽しみにしてるね』

 その笑い方に息をのむ。明るさの中に、ほんの少しだけ照れと、そして、安心の響きが混ざっていた。電話の向こうで微かに風の音がする。彼女が泊まっている宿の外、夜の虫の声が、かすかに混じる。ああ、今、彼女は確かに、どこかで同じ夜を過ごしているのだと思うと、胸の奥がじんと疼いた。
 間も無くして、通話の終わりを告げる電子音が鳴り、画面が静かに暗転する。俺はスマホを胸の上に置いたまま目を閉じて深く息を吸い込んだ。彼女の声の余韻が、まだ、耳の奥に残っている。それを聞き逃さないように息を止めて、そのまま夜に溶けていく。

「……あと一晩やけん。耐えろ、ヒーロー。」

 誰もいない部屋。薄く瞼を開けると、静けさが今だけは少し、優しく感じられた。この静けさの先に明日の朝がある。そして、明日の朝の先に、彼女の「ただいま」がある。それだけを信じて、俺はまたゆっくりと目を閉じた。


 *


 彼女の二泊三日の旅行三日目──愛しい彼女が帰ってくる日。
 朝から胸の奥がそわそわと落ち着かず、まるで、空を飛ぶより地上で過ごす方が難しい気がした。空港まで迎えに行こうかと本気で考えた。だが、彼女からの返信はあっさりしたもので『いいってば(笑)』という文字のあと、鼻先で笑うようなスタンプつきの拒否だった。それでもその『いいってば』の裏に俺を困らせたくないという優しさがあることを知っている。だからこそ迎えに行く代わりに家で彼女を迎える準備をする事にした。
 掃除は完璧。キッチンは彼女が好きな香辛料の匂いで満ちている。ベッドのシーツは洗いたてでふかふかに整えておいた。こういう事に没頭していると時間の経つのが少しだけ早く感じられる。けれど、時計の針が進む音がやけに鮮明に響いてくるのは心が待つ事をやめられないからだろう。

 部屋の空気が、今朝よりも落ち着かなくなっていく。窓の外では風が夜の匂いを運びカーテンの裾をかすかに揺らしていた。その揺れを見るたび胸の奥がざわつく。
 もうすぐ、帰ってくる。それだけのことなのに、心臓が、やたらとうるさい。それは、長い任務のあとの静けさにも似ていて、でも、どこか違う。この静けさは誰かを待つための音だ。息を吸い、ゆっくりと吐く。玄関の方向に、視線を向ける。あの扉が開いた瞬間、何を言えばいいんだろう。「おかえり」も、「楽しかった?」も、どちらも軽くて、どちらも足りない気がしていた。そんなことを考えていると、玄関の扉が開く音がした。空気がひと呼吸、変わる。続いて足音。その軽いリズムだけで胸の奥が熱くなる。
 彼女の影が玄関の明かりのなかに揺れた瞬間、俺はもう、座ってなどいられなかった。気づけば小走りで駆け寄っていた。剛翼が背中で、微かに震え、風が起こる。そのまま腕を伸ばして、抱きしめる。文字通り——彼女の身体を包み込んだ。

「ばり……会いたかったばい、ずっと——」

 声が震えた。どれほど平静を装っても、三日という時間が思っていたよりずっと長かったことを今、痛感する。彼女の髪からは、旅先の柔らかな風の匂いがして、それだけで胸の奥が満たされていく。

「ははっ、出ましたっ!甘えん坊モード」

 笑いながらも彼女の声もわずかに揺れていた。ためらうことなく俺の背に腕を回す感触が、あたたかい。ほんの少し、指先に力を込めて、彼女をさらに引き寄せた。

「出るけん。嬉しかーこんなん……もう。」

 情けないくらいに素直な言葉しか出てこない。心が溶けていく感覚。遠くにいた三日間の距離が一瞬で融解して消えていく。

「ふふっ……ただいまぁ、啓悟くん」

 その一言を、甘い声を聞いた瞬間、世界が音を取り戻した。空気が震え、光の粒が、ゆっくりと彼女の輪郭を描いていく。無事に帰ってきたその姿を見た途端に、胸の奥に張りつめていた理性も落ち着きもすべてどこかへ吹き飛んでしまった。
 たったの二泊三日——それだけのはずなのに、彼女のいない部屋はまるで冬を閉じ込めたように冷たく、長い長い時間を過ごしたような気がしていた。今、彼女が目の前にいる。その事実だけで世界の重力が戻ってくる。家のなかの静けさも、時計の針の音も冷蔵庫の低い唸りさえも、彼女の声に溶け込み、どれもやわらかく響いていた。

 ああ、この瞬間のために生きているのかもしれないと、心の底で思った。ヒーローであることも空を飛ぶ力も、街の喧噪も、何もかも遠く霞んでいく。今この瞬間、俺の世界はこの小さな「ただいま」だけで完結していた。

「おかえりなさい……名前さん」
「うん、ただいま。」
「ほんとにもう、二度と二泊三日とかやめてくださいよ?俺の心臓、三日間動きづらかったばい」
「えー、なにそれ〜」
「死活問題やけん。もう二度と、外泊せんで」

 言葉を口にしながら自分でも驚くほど声がかすれていた。彼女は笑いながら俺から離れて、靴を脱ぐ指先を軽く止め、こちらを見上げる。

「今後も耐えるんだ! 頑張れ、ヒーローっ!」

 その軽口の一拍で、肩の力が抜ける。それでも胸の奥ではまだ、待っていた時間の余熱が静かにくすぶっていた。俺は苦笑しながら、少しだけ、拗ねたように首をすくめる。

「二泊三日の彼女不在生活——これはもう、経験したことのない、ほんとの過酷な試練でしたぁ」

 その言葉に彼女が吹き出すように笑った。その笑い声が空気を揺らし、部屋の隅々まで広がっていく。笑いながらも俺はその声をまるで何か大切な証拠を確かめるように、胸の奥で数えていた。
 彼女の声が確かにここに戻ってきた。その事実だけで心臓が再び正常に鼓動を始めた気がした。


 *


 その夜。彼女が荷解きを始めるよりも早く俺は気づけば、その手を取っていた。彼女が息を吸うより早く、腕の中へ引き寄せる。そして、何度も何度も、キスを落とす。離れていた三日間の空白を埋めるように指先が彼女の頬をなぞるたび、胸の奥で眠っていた渇きが、やっと静まっていく。
 唇が触れるたびに思う。人を好きになるというのは、こうして、時間そのものを抱きしめることなのだ、と。

「会えない時間に溜めた��好き�≠�、全部返してもらいますよ」

 そう言いながら額を合わせた。彼女の笑い声が涙のようにあたたかく響く。その音が夜の隅々に染みわたっていく。やっと、呼吸がそろった。
 灯りを少し落とした部屋の中に夜の気配が降りていた。窓の外では風が擦れ、カーテンがゆるやかに揺れている。その揺れがまるで互いの鼓動を映しているように見えた。

「……まだ、信じられん」
「ん? なにが?」
「目の前に、ほんとに名前さんがいるってこと」

 笑って誤魔化したつもりだったのに、声がずいぶんと掠れていた。彼女は小さく息を飲みそっと俺の胸に手を置く。指先が、鼓動を数えている。

「ちゃんと動いてる。ほら……」
「やっと、ですけどね」

 その一言を返すと胸の奥が熱くなった。指先が触れるたび、言葉がいらなくなっていく。離れていた時間の輪郭が、静かに溶け始める。

「寂しかった?」
「……めちゃくちゃ」
「うそ。ヘラヘラしながら仕事してたくせに」
「ヘラヘラて。……え、なんで知っとーと?」
「見てたもん。ニュースとかで」
「仕事はしてましたけど、心がずっと帰ってこんかった」

 そう言いながら、彼女の頬に触れる。その肌は旅の夜気を帯びて少しひんやりしていた。冷たいのに、触れるほど胸の奥が温まっていく。

「ねぇ、啓悟くん」
「うん?」
「会いたかった」
「俺も。……俺は、ずっと」

 それ以上は言葉にならなかった。口にした瞬間心の奥に積もっていた想いが全部あふれそうだったから。
 唇が触れる。音もなく、静かに。その一瞬で、世界の輪郭が変わった。夜の空気が柔らかくなり風の音が遠のいていく。彼女の息が頬にかかる。名前を呼ばれる。その声は、三日分の時間を全部溶かしてしまうくらいにやさしかった。

「……もう、離さないでね?」
「死んでも離さんですよ。約束します」

 短い言葉が互いの間に灯のように浮かぶ。それだけで十分だった。彼女の背に腕を回し肩越しに見える夜が少しずつ淡くなっていく。呼吸がゆっくりと重なり合い静寂がやがて温もりに変わっていく。
 その夜、言葉よりも長く続いたのは、沈黙だった。けれども、その沈黙こそが、いちばん正確な��会話�≠ナあり、触れたところから時間がほどけ互いの心が音もなく、ひとつになっていく。

 窓の外で夜が深くなる。世界の光が遠のいて、残るのは二人の息だけ。指先で確かめ合うたびに再会という奇跡がもう一度形を変えて、胸の中で灯り続けていた。


 *


 旅行から帰宅した翌日の夜。未だスーツケースも開けきらない部屋の真ん中で、私は指先でジッパーをなぞりながら、くすっと笑って言った。

「じゃあホークス。会えなかった三日分、償ってもらおうかなー?」

 スマホを手に振り向いた彼は、すこしだけ眉を上げて、すぐに唇の端を緩めた。

「……え、なんですか、それ。めちゃくちゃいい響きなんですけど?……ん?てか、待って」
「ん?」
「償ってもらうの、逆じゃないです?」
「いーの、いーの。細かいことは気にしないで」
「えー、なんそれ。」

 軽く受け流すような声音の奥に、わずかに甘い熱が混じっているのがわかった。だから私は悪戯っぽく肩をすくめてみせる。

「ふふ、ルールを作ったんです。」
「ルール、ですか? え、どんな?」
「題して、会えない日数×10秒のハグ! ほら、計算してみて?」
「えっ、うそ。待って。えっと……」
「遅い!失格〜。三日分だから、30秒ですねっ、マイヒーロー」

 そう告げると、彼の瞳がほんの一瞬いたずらな少年のように、光を帯びた。口元こそ笑っていたけれど、その笑みの奥にある真剣さを、私はもう、知っている。

「いや、ちょっと待ってください。それさ、俺の命を試してません?」

 冗談交じりにそう言いながらも彼の声は低く、どこか息を含んでいた。その瞳の奥に灯るものがからかいの色ではなく、熱そのものだと気づいた瞬間、胸の奥が静かに波打った。私が両腕を広げたのを見た瞬間、彼はもう、迷わなかった。私がぽつりと口にした『償いルール』はもはや、彼の理性崩壊スイッチになってしまったのだった。

 ——ああ、また、スイッチを押してしまった。次の刹那、羽音のような風が起きる。彼の腕が、私を包み込み背中へ回された掌がためらいもなく私を自分の温度へ引き寄せた。ぎゅっと抱きしめられた瞬間、彼の呼吸が変わる。息がすこし荒くなり、胸の奥から押し殺したような熱が伝わってくる。鼻先が髪に触れ、喉元に唇が押し当てられる。そのわずかな接触のたびに空気が軋み室内の温度が少しずつ上がっていく。

「ん……、けぃ……ご、く——苦しい……っ」

 触れる音、香り、温度。そのすべてに安堵と、そして、どうしようもないほどの執着が混ざっていた。その三十秒が、まるで、永遠のように長く感じられた。私は数を数えることも忘れて、ただ彼の胸の中で目を閉じた。

「……っ、あぁー……ダメだ、これ……」

 掠れた声が、耳もとで震えた。彼の息が首筋に触れ、微かな熱がそこに宿る。私が冗談めかして笑うと、彼の肩がわずかに揺れた。

「——ほらほら、まだ10秒だよ?」

 その一言が、火種だった。彼の剛翼がぴくりと強張り腕に込められる力が一瞬で変わる。それは優しさの延長ではなくもう二度と離すまいとする確信のような抱擁だった。背に回る手がかすかに震えているのがわかる。その震えが、彼の理性と感情のせめぎ合いのようで胸がきゅうと締めつけられた。

「無理、止まらん。近すぎて。足りなすぎて……やばい……」

 囁きながら彼は額を私の肩に預けた。彼の髪が頬に触れるたび静電気のように小さな熱が走る。それが愛の形なのだと肌でわかってしまう。その顔を覗き込むと彼の瞳が潤んでいた。あろうことか、あのヒーロー・ホークスが泣きそうになっている。息を飲むほど静かな光を湛えたその目に、私の姿が映り込んでいる。

「さみしかったです……寝ても覚めても、名前さんがいなくて」

 言葉の一音一音が、喉の奥で震えていた。その声の温度が胸の奥に直接、触れてくる。

「ごめんね」

 それしか言えなかった。彼の痛みを軽くできる言葉なんて、どこにも見つからなかったから。

「でもちゃんと仕事して、ヒーローとして笑ってその裏でずっと早く帰ってきてって祈っとった」

 唇が震えながら笑みを形づくる。強くあろうとする彼の、柔らかい矛盾が愛おしかった。

「……ホークス。なんか、ほんとごめん……」

 その名を呼んで、もう一度、謝った瞬間、彼は小さく首を振った。まるで、言葉そのものを抱きとめて静かに返すように、ゆっくりと。

「ちがう、謝らなくていいんですって。ただ今、あなたがここにいるってことがもう奇跡で……」

 その言葉が胸の奥に沈む。奇跡——それは彼にとって嬉しさの限界を越えた幸福の言葉だった。それ以上、何も言えなかった。だから私は、唇を重ねようと顔を上げる。けれど、その瞬間。彼の手が私の頬を包み込んだ。ゆっくりとためらいもなく、距離が消えていく。
 そして、唇が触れた。触れた途端すべての音が遠のく。深く、長く、静かな海の底に沈むようなキス。再会の分だけ息を交わし言葉よりも明白な想いを確かめるように、彼は何度も何度もキスを落としてきた。
 時間の感覚が、少しずつ溶けていく。それでもこの夜だけは、終わらなくてもいいと思えた。

「……ハグって言ったのに、これもう全部ハグで済まない。俺ん中でルール、崩壊してる……」
「ふふ……とくべつに、許します」
「じゃあ、遠慮しないですよ? あなたのいない三日間、ぜんぶ今夜で取り返させてもらうんで」
「……えっ、」
「優しくなんて、できないかもしれんけど。いいです?」

 囁く声が低く、耳の奥に甘く響いた。その音は言葉というより、熱のかたちをしていて、鼓動の速さと混ざりながら、私の中へゆっくりと沈んでいく。そこから先はもう理性ではなく呼吸だけがふたりを導いた。名前を呼び合う音と、求め合う熱と止まらない「会いたかった」が交差する夜が静かに始まる。
 指先が髪を梳き、服越しの肌に触れるたびに、時間がほどけていく。吐息が首筋を撫で、触れるたびに世界の輪郭が揺らぐ。どちらが先に動いたのかもわからないまま言葉にならない言葉で二人は繋がっていった。声と声が、熱と熱が、たしかめ合うように重なっていく。

「——もうぜったい離さん、名前さんのこと。」

 その一言に、すべての想いが集約されていた。あの軽やかで自由な彼が、いまここでただ一人のために願いを口にする——その現実が、胸の奥を焼くように熱かった。
 その夜、ベッドの中で何度も何度も名前を呼ばれた。まるで愛しさで息をするように。呼ばれるたびに世界が小さく震え夜がやさしく形を変えていった。瞼を閉じるたび彼の声が遠くで羽ばたく音と重なり、夢と現実のあわいで、私は、確かに思った。ああ、帰ってきたのだと。この場所に、そして、彼のもとに。今度こそ同じ時間の中で、同じ空気を吸って生きていくのだと。

 夜が、静かに明けていく。カーテンの隙間から差し込む光がまだ眠る彼の髪を淡く照らしていて彼の呼吸は穏やかで、ひとつひとつが確かな音を立てて私の胸の奥に染み込んでいく。朝の匂いと体温の中で世界はまだ静かに続いている。指先でその輪郭をなぞりながら、私はそっと微笑んだ。

「大好きだよ、啓悟くん。」

 ——愛されるということの重さとやさしさを、私はこの夜、やっとひとつの体温として知ったのだった。




君を抱きて、朝(あした)を知る


(……おはよ、啓悟くん)
(……うん。おはようございます、名前さん)
(ねえ。昨日さぁ、ちゃんと三十秒だった?)
(いや、たぶん三十年分くらい超えてましたね)
(ふふ。じゃあ……もう一回、延長でもいい?)
(ええ、もちろん。その代わり、無期限で。)


※image song『 夢中/BE:FIRST 』


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