二泊三日の旅行から帰ってきて、もう一ヶ月が経とうとしていた。季節は少しずつ傾き、窓の外では、風がカーテンをやわらかく揺らしている。その穏やかな光の中で私は鏡越しに腫れた自分の頬を見つめながら、この��状況説明�≠�どう切り出すべきかを、心の中で、何度もリハーサルしていた。
 ため息を吐きながらリビングに戻ると、彼は、ソファに腰を下ろしてテレビを眺めていた。私はその横に立ち、少しだけ目を伏せる。私の気配に気づいた彼が「ん?」と首を傾げた、その瞬間。ようやく意を決して��状況説明�≠�試みた。

「あの……親知らずが、悪さをし出しまして」
「親知らず?あー、確かに少し腫れてますね」
「あの、ね……だっ、だから、その……」
「はいはい?」

 けれど結局口を開いた瞬間に言葉は熱に触れた氷のように中途半端に形を失って溶けてしまう。
 ——ああ、やっぱり痛い。しゃべることひとつにも少し力が要るし、どうもぎこちない。

「えっと……キ——キスは、しばらく……」

 その一言の途中で彼が瞬きを止めた。時間が、ふっと静まり返る。彼の瞳の奥で、わずかに色が変わるのが見えた。

「………………え?」

 その顔から、すっと色が引いていく。まるで、世界が一瞬、真空になったみたいにして。
 沈黙。呼吸。まばたきの間。彼の表情に、少しだけ本気の絶望が滲んでいた。私は思わず内心で呟く。——人って、血の気が引くと本当にこんなふうになるんだ、と。けれど、あえて口に出さず冷静を装って話題を戻す。

「な、なんでそんな��世界が終わった�≠ンたいな顔してるの……?」
「いや、だって……っ、え。だって、名前さん」
「……はい?」
「俺にキス、くれないんですか……?何日?どれくらい?」
「え、や、さすがに数日は……腫れてるし……」

 次の瞬間、ウィングヒーロー・ホークス、その羽根がバッサァと、床に落ちる。空を飛ぶ象徴のはずの赤い羽根が情けなく床を這う音を立てた。その光景が、あまりにも漫画の一コマのようで、思わず「……あ」と声が漏れた。その声もまた、彼の絶望の空気に飲まれて落ちていく。

「もう、だめだ……だめ。終わりです。生きていけないかもしれない……」

 彼は両手で顔を覆って、ソファに崩れ落ちた。大げさな嘆きなのにどこか本気に聞こえてしまうのが彼のずるいところだ。

「ちょっと、心拍が不安定……酸素……欲しい」
「……」
「あっ、酸素が足りない……あなたのくちびるの酸素がァ……」
「——バカなの?」

 言葉が漏れたとき私はすでに冷やしたガーゼを頬に当てていた。ひんやりとした布の感触が痛みと可笑しさを同時に鎮めてくれる。ソファの上、私は体を少し傾けながら、このおバカ発言製造機と化した彼氏に冷ややかな視線を送る。その視線を受けたホークスは、心臓を射抜かれたみたいに固まった。なのに、どこか嬉しそうに口角を上げ小さく呟いた。

「やっぱり、名前さんに冷たくされるの、嫌いになれないんですよねぇ〜。癖になる」

 私は思わず吹き出しそうになった。ほんの数秒前まで絶望の亡霊みたいだったヒーローが今では甘えた猫みたいに笑っている。ほんとに、困った人だ。けれどそんなふうに簡単に空気を柔らかくしてしまう彼が、私はやっぱり、少し羨ましいと思う。

「ちょっと待って。じゃあもう、ハグで! ハグ、強めでいきましょう! ん、ね!?」

 焦ったように声を上げる彼の姿に、またも吹き出しそうになる。羽根がぴくりと動き、まるで、抱きしめる準備完了ですと言わんばかりに微かに揺れた。私は何も言わずに、彼を見つめる。その沈黙を「許可」と勘違いしたのか彼の目が一気に輝きを取り戻した。

「あと、指と指でキスするとか、手の甲にとか」
「……」
「いや、首にでもいい!そこなら、腫れてないでしょう!」
「どこでもいいわけじゃないんだけどっ!?」

 彼のペースに飲まれて声が裏返る。彼の提案の無茶ぶりと、あまりの真剣さに、怒る気も失せてしまう。どうしてこのヒーローは愛し方の方向が毎回少しおかしいのだろう。けれど、その不器用さが、たまらなく愛おしいのも事実。

「じゃあ……こうします。俺が、キスを我慢してるあいだ名前さんはキスしたいって思う回数を数えててください」
「は、はい?」

 意味のわからない提案に、私はまばたきを繰り返した。

「で、治ったら……その分まとめて、返してくれれば……」
「ほんとさぁ、キス中毒なの?」
「ちがいます!ちが……ちがわない! むしろ、あなた中毒ですよ!!」

 勢い余って自白してしまうあたりが彼らしい。ああもう、と呆れながらも、口角が、どうしても上がってしまう。

「もう、喋んないで……頬が痛い、笑っちゃう」

 ガーゼを頬に押さえうずくまるようにして息を整える。冷たい布の感触が痛みを和らげると同時に、笑いすぎた胸の奥に小さなぬくもりを残していく。そのとき、彼がそっと、隣に横たわった。羽音も立てずただ静かに。そうして私の顔をじっと見つめながら、彼は小さく息を吐いた。

「……ねえ、ひとつお願いしていいです?」
「なに?」
「『私も、キスしたいよ?』って、小声で囁いてもらっても?」

 真剣な眼差し。その一言が、まるで愛の儀式のように響いて、心臓が一瞬止まりそうになる。

「……治ったら、ね。」

 プイッと顔を背けてそう返すと、彼は目を丸くして、次の瞬間、まさかの言葉を放った。

「んじゃあ、はい!録音だけさせて……っ!」
「しなくてよろしい!!」

 思わずそばにあったクッションを投げる。それを器用に受け止めながら、彼はいつものように、くしゃっと笑った。その笑顔を見て結局また私の頬が痛いほど緩んでしまう。
 ……ほんと、困った人(ヒーロー)だ。(Part.2)けれど、こんなふうに困らせてくれる人がいることを私は少し誇りに思っている。
 追伸──。
 その夜、彼、ホークスは『キスができない夜のための抱き枕的ポジション』とやらを勝手に指定し、まるでそれが重大任務であるかのように私にしがみついたまま眠りについたのだった。

 翌朝。頬の腫れが、ほんの少しだけひいたのを鏡で確認したとき、背後で突然「おおおおぉぉ!希望見えてきたぁ……っ!!」と叫び、なぜか、踊り始めた男……いや、ヒーローがいた。
 ホークス、朝から全力の歓喜の舞。その羽根がふわりと揺れて、光を掠めてきらめく。その姿を見て、笑うより先にため息が出た。

「……そんなに、嬉しい?」

 私が呆れ半分に問うと、彼は、子どものような笑顔でうなずいた。

「嬉しいに決まってるでしょ!だって、これもう回復への道、見えましたもん!」
「……」
「キス解禁日、近いですよね? ねっ?」

 はいはい、とだけ返して私はガーゼを外す。まだ完全には引いていない頬を軽く押さえると、少し痛い。けれどその痛みの奥にある日常がなんだか可笑しくて、無意識に小さく笑ってしまった。


 *


 親知らずを抜いてから、もう数日——。腫れはゆっくりと落ち着いてきたもののまだ本調子とは言えなかった。休みの日も外に出る気にもなれずぼんやりソファに腰を下ろしているとテーブルの上のスマホが軽く震える。ホークスからだ。
 通知欄には、ほとんど途切れることなく、彼の名前が並んでいた。内容は任務の合間の軽い報告だったり、朝の空模様だったり、ただ「痛みますか?」という、短いメッセージだったり。画面を見ていると自然と頬が緩む。ほんの少し痛むその頬を、彼の言葉がやさしく撫でていくような気がした。


ホークス

今日の回復進捗どうです?


ホークス

今日のぷっくり度
昨日と比べて何%減りました?
(写メつきならなお嬉しい)


ホークス

今夜のハグ強度いつも通りで
大丈夫ですか?それとも
ほわほわver.がいいです?


ホークス

そろそろ右のほっぺに
キスできるか試しても……
(やめときます)


ホークス

あの、俺のこと頬の腫れより
愛が重い男って
思ってないですか???






 スマートフォンの画面が一定のリズムで光る。数秒おきに届くその通知は、もはや、心拍のようだった。どれも少しずつ言葉の角度が違っていて読んでいるだけで彼の声がそのまま耳の奥に響いてくる。私はといえば既読はつける。それだけ。返信はしない。けれど指先は何度も画面を撫でていた。まるで、その言葉の温度を確かめるみたいに。
 案の定、私が返信をせずに一分も経たないうちに、スマホの画面がふたたび光った。短い沈黙のあとに届くメッセージ。そのテンポを私はもう完全に覚えてしまっている。彼の��待て�≠ェできない癖まで、今では愛しくて仕方がない。


ホークス

既読ついたってことは
生きてますね!?
元気ですか!?!?
顔見せて!!!


ホークス

っていうか今の名前さんの顔
俺しか見ちゃダメじゃないです?
かわいい腫れ顔すぎて♡


ホークス

いや逆に隠したほうが
セクシーでやばいかも。
やばくないです?
ね、やばくなか??






 昼下がりの光の中で、スマホの画面が忙しなく点滅している。次々と届く彼の言葉は、すこし、息切れでもしているような光景が手に取るようにわかってしまい、それがまたおかしかった。
 このヒーローは、どこまでいっても愛に対して全力投球なのだと思う。ため息をひとつ、盛大に場もわきまえず吐き散らす。それからようやく私は返信を打ち始めた。
 ――ほんの一言。でも、その一言を書くまでの時間が、やけに長かった。


名前

熱、出てきたかも






 数秒後——。まるで、タイピングしていた指が最初から待機していたかのように即レスが飛んでくる。��速すぎる男�≠ネらぬ、��速すぎる返信�≠ナある。彼の性格を表すには、これ以上の言葉はないだろう。


ホークス

俺が冷やしてあげますよ!


ホークス

俺も出てます
名前さん不足熱


ホークス

処方箋:キス1日300回
頬に冷えピタ
あなたの笑顔と添い寝


ホークス

やっぱ今から
看病に行きましょうか?






 画面を見た瞬間、笑いがこみ上げてくる。呆れを通り越して、もはや感心の域だった。このヒーローは、どんな状況でも恋を仕事より優先できる特殊な才能を持っているらしい。その真剣すぎる冗談に、思わずため息をこぼした、そのとき。

 ——ピンポーン♪

 と、軽やかな音が玄関の方から響いた。まさかと思いながら立ち上がる。インターホンの向こうに映ったのは冷却ジェルと私の好みを完璧に覚えているスムージーを両手に抱えたマイヒーローの姿だった。髪は少し乱れヒーロースーツの袖口には薄く汚れがついている。明らかに任務の途中で飛んできたのだろう。常識を軽く置き去りにする速度で。私は唖然としながらも玄関のドアを開けその向こうに立つ彼を見つめた。それでも、息を整える間もなく笑ってしまう。

「ねえ……ほんとに、来たの?」

 玄関の扉を開けたまま私は思わずそう呟いた。すると彼は、にこっと笑って肩をすくめる。

「熱、出たって言ってたんで。ほらぁ、冷やしてあげますよって、約束しましたし」

 その声の軽さが、どこまでも真っすぐで思わず胸の奥がほんの少し熱くなった。

「……任務中じゃ、なかったの?」
「任務の合間の一時帰宅ですね。最優先任務は、愛しの彼女の回復進捗チェックですから」
「あなたがいちばん、腫れに敏感なプロヒーローだよ……」
「え? それ、勲章ですか?」

 得意げに微笑んで、彼は、そっと私の頬に手を添えた。指先の温度がひんやりとした冷却ジェルの表面よりも、ずっとやさしい。

「……ふむ。手で測った感じ、昨日よりも0.3mm引いてますね。あと一日でキス解禁です?」
「ちょ、記録するのやめてよっ!」

 そう言いながらもつい笑ってしまう。彼の手があまりにも優しくてその目があまりにも真剣で。笑いながら、胸の奥がじんわりとあたたまるのを感じた。

「仕方ないなぁ……」
「はい?」
「もうちょっとだけ、近くにいてもいいよ?」

 その一言に、彼の顔が一瞬で、子どものようにパァと輝いた。

「やった……。じゃあもういっそ、このまま直帰ってことにしますね?俺の愛が腫れそうですし」

 その場の空気が、ふっとやわらかくほどける。私はまた、ため息をつく。けれど、そんなふうに笑ってくれる彼が、今この家にいるという事実が何より確かな��処方箋�≠セった。
 玄関には私好みのスムージーの香りと笑い声の余韻が、いつまでも残っていた。


 *


「……今日さぁ、もう、大丈夫だよ」

 その一言を口にした瞬間、部屋の空気がふっと止まった。彼の時間も、たぶん同時に。次の瞬間剛翼の羽根がふわりと膨らみ頬から耳の先までが一瞬で赤く染まる。まるで、春の陽気に晒された羽根が喜びそのものの色を宿したみたいだった。

「ほんと!?ほんとに!? お医者さんの許可、出たんです!?自己判断じゃなくて!?」

 その声音の高さに、思わず吹き出してしまう。どれだけ待っていたのかがその慌てた息づかいで分かってしまうから、ずるい。

「……許可っていうか、私の顔、もう腫れてないって、ホークスも言ってたでしょ?」
「言った!言いましたけどっ!見るたびに、我慢してた俺の気持ち、知ってます!?」

 彼は勢いのままベッドに腰を下ろし、膝の上に顔をうずめた。肩が小刻みに震えている。照れているのか、感極まっているのか、それとも、その両方なのか。
 ——ああ、このヒーローはほんとうに正直だ。羽根の動きも、息の速さも、心のままに。そんなところが好きだなと、今さら気づく。

「俺、この数日で、何回キスしたいって思ったと思ってんすか……耐えた、ばり耐えた……」
「耐えた自慢?」
「当然っ!そのほっぺが腫れてるの見るたびに、可愛いけどキスできないの地獄……って、なってたんですから!」

 言いながら彼は両手を広げたあと大げさに肩をすくめる。けれど、その声の奥には、冗談よりもずっと深い本音が滲んでいた。笑いながらも目だけは真剣だった。私がくすくすと笑って、そっと近づくと彼が顔を上げる。視線が、まるで宝物を見つめるように、まっすぐこちらを射抜く。その一瞬で、心臓が柔らかく跳ねた。

「じゃあ今日は、全部取り返してもいいです?」
「優しく……してくれるなら」
「優しくしか、できませんよ」

 その言葉が空気の中に沈むと同時に、彼はゆっくりと私をベッドへ導いた。動作は慎重で大切なものを包み込むようだった。
 額と額が重なる。呼吸がひとつになり、指先が頬をなぞる。その触れ方が、これまでにないほど静かで、胸の奥が不思議なほどに穏やかだった。唇がこわごわと、確かめるように近づいてくる。そして、そっと触れた。まるで、花びらが落ちてきたみたいに軽くてその一瞬の温度に積み重ねてきた数日分の想いが溶けていく。彼の息が混じり優しさと安堵と少しの切なさが絡み合って時間が静かに満ちていく。

「……これが、恋の味だって忘れるとこやった」

 囁く声が息の合間にほどける。その低い響きに胸の奥が小さく音を立てた。

「もぅ、大げさだよぉ……」

 笑いながらも、声が震えてしまう。その震えがむしろ、彼への返答になってしまうのに。

「いや——真剣です。キスひとつで呼吸が変わるんだって、今すごい実感してる……」

 唇を離しても彼の指先は、私の輪郭を確かめるように動いた。頬を撫で、髪をすくい、耳の後ろに小さくキスを落とし、そのたびに、世界の音が遠のいていく。喉元に滑り落ちる唇の温度が体の奥にゆっくりと波紋を描いていった。

「やば……好きが止まらん……。我慢しすぎた。もう……今日、ぜんぶ取り戻す」
「ホークス、落ち着いて……?」

 そう言いながらも彼の手を拒めなかった。その腕に包まれた瞬間、体温が確かに溶けていくのがわかる。

「無理ですね。ぜったい無理。」
「無理なんだ」
「ええ。あと30回はキスしたい。いや、50回……ううん、足らん!やっぱ、100回で。」

 笑うような声で言いながらも、本気で数えていそうな眼差しをしているのが彼らしかった。その不器用なほどまっすぐな愛しさが、胸の奥を熱くさせる。彼の吐息が近くて、視線が甘くて、抱き寄せる腕が熱を持っている。羽根がそっと背中に触れる。やわらかな感触が呼吸のたびに揺れて、この瞬間だけ、世界がやさしくなる。

「今夜、名前さんの記憶ぜんぶ、俺のキスで塗り替えたい」

 その言葉が静かな夜気を震わせた。唇が重なるたび、心の奥までふるえるような優しさと熱が、二人の間を満たしていく。息の合間に交わされる視線が、言葉よりも雄弁だった。

「もう腫れてないからって、そんなに、何度も」「だって好いとーもん。それをずっと口に出せんやったけん今、ぜんぶ言葉のかわりにしたい」

 その声はまるで告白と祈りのあわいにあるようだった。触れ合うたびに、夜が深くなっていく。キスがひとつ重なるたび、時の輪郭がやわらいで触れた指先から、世界がほどけていった。名前を呼び合うたびに息が重なり、音のない愛の会話が続く。やがて、ベッドの中で彼は静かに囁いた。

「今夜のキスで、名前さんの全部に、俺の好きが残ってたらいいなーって」
「……うん、」

 短く返す声が、震えながら空気の中に溶けた。

「ねぇ。まだ、離れたくない」
「俺もです。たぶん一生、この距離でいい」
「……言いすぎ」
「いや、足りないくらいです」

 その言葉に緩く目を細めてしまう。彼の真剣な瞳と、少し照れくさい台詞。それだけで胸が熱くなる。

「名前さん、」
「ん……?なに?」
「もう一回、後遺症つけにいってもよか?」

 囁き合う声が甘くほどけて、二人の呼吸がまた重なり合い、世界がゆっくり、沈黙へと変わっていく。外では風がカーテンを揺らし羽根のように柔らかな光が夜の底で漂っていた。

 ——ああ、この夜の記憶がすべて彼に塗り替えられても、きっと私は何ひとつ失わない。むしろひとつの想いが、永遠の形に変わるだけなのだと思う。そうして彼の腕の中で静かに世界が眠りに落ちていった。


 *


 翌朝——洗面台の前で鏡を覗き込みながら私は唇にそっと触れた。ほんの少し、腫れている……ような、気がする。赤みもまだうっすらと残っている。寝不足かなぁ……と、ぼんやり思いながらスマホに目をやるとちょうど彼からのメッセージが届いていた。


ホークス

おはようございます
先に出ました


ホークス

唇、ちょっと腫れてません?


ホークス

それ、俺の愛の後遺症です






「…………っ!!」

 思わず声を詰まらせる。それから吹き出した。小さな笑い声が、洗面所の白い壁に反響して消える。鏡の中の自分の頬が少しだけ赤くなっていてその顔を見て、また笑いがこみ上げた。
 ……まったく、朝から何を言ってくるんだか。けれどそんな彼の言葉に救われる朝がある。ふと心が軽くなる朝がある。私は、タオルで手を拭きながら、すぐに返信の文字を打ち込んだ。指先が画面に触れるたびに唇の熱がまだほんのり残っているのを感じる。
 ああ、これがきっと彼の言う��愛の後遺症��というやつなのだろう。


名前

確信犯じゃん!


名前

あと後遺症とか言わないで
なんか照れるから






 すると、すぐさま既読がつく。まるで、待っていたかのように画面の向こうで文字がぽんぽんと打ち込まれていく。その速さに呆れを通り越して自然と笑みをこぼしてしまう。


ホークス

もう一回
つけにいってもいいですか?


ホークス

今夜も俺の唇
空いてますよー


ホークス

キスしすぎて怒られても
本望です


ホークス

てか名前さんが
可愛すぎて昨日の記憶
再生しすぎて仕事進んでません






 指先が、スマホの画面の上で止まった。返信の言葉を探しても、どれも少し足りない気がして、そんな自分が情けなくて笑いがこみ上げる。
 昨日の夜の感触が、ふと蘇る。彼の息づかいも声の震えも、全部そのまま胸の奥に残っていた。窓の外では出勤前の朝の光が強くなりカーテンの隙間から入り込む風が頬をくすぐるように揺れている。
 ——ほんと、しょうがないヒーローだ。でも、そんなふうに言ってくれる人が隣にいることが、朝よりも夜を待ち遠しくさせる。
 私はスマホを伏せて、静かに、深呼吸をひとつした。それだけで、心が少しだけ晴れる。今夜、また、あのヒーローの声を聞けると思うだけで。窓の外ではもう、季節が変わる気配がしていた。

 日が沈む頃、風の匂いが少しだけ違っていた。空はゆっくりと茜に染まり街のざわめきが遠くで波のように広がっていく。私はその中で、いつのまにかスマホを手にしていた。画面の明かりが、頬に映る。そこに浮かぶたったひとつの名前が、夜を迎える合図みたいに見えて指先がまた勝手に動き出す。すでにそばにいる、彼宛にメッセージを送る。軽快な音を立てて、彼のスマホが光った。何気なくそれを見た彼の顔が、綻んでいく。その笑顔を見ているだけで、今日という一日の続きをもう少し生きてみたくなる。ああ、今夜も、彼と話す時間が始まる。

「ねぇ?今日ちょっと、帰りが遅かったよね?」

 私が言うと彼はソファに腰を下ろし肩で小さく息を吐いた。月の明かりが窓越しに差し込み彼の横顔を淡く照らしている。少しだけ乱れた髪が、その光を受けて、さらに金色に透けた。

「いや、早退しかけましたよ。あなたに、会いたすぎて」

 言葉と同時に、彼はソファに倒れ込む。まるで長い任務を終えたあとの羽根のように、力を抜いて。冗談めかしているのに、その声の端にほんの少しの本気が混じっているのを私は知っている。

「また、大げさなこと言って」

 笑いながらキッチンへ向かうと、彼の視線が、背中に絡んでくる。その視線のやわらかさにふと胸の奥が、あたたかくなった。コップに水を注ぐ音と、彼の小さなため息だけが部屋に響く。

「ねぇ。こうして普通に一緒にいる時間が、いちばん、好きかもしれない」

 そう言うと彼は体を起こしソファからこちらを見上げて微笑んだ。疲れの奥にある優しい光が、ゆっくりとこちらへ流れてくる。

「俺もです。こういう何でもない夜が、いちばん、帰ってきたなぁ〜って感じするんですよねぇ」

 その言葉が静かに心の奥に沁みていく。外では風が少しだけ強くなって、窓の隙間を抜けていった。遠くでバイクの音がして時計の針がわずかに鳴る。世界が穏やかに動いている。それだけで、今夜は十分だった。私はソファの隣に腰を下ろし彼の肩にもたれかかった。その瞬間、彼が小さく笑う。その笑い声が夜を優しく満たしていった。

「——でさ、これ見てください」

 彼は突然、後ろポケットからスマホを差し出す。その画面には、なぜか、謎の��今日の後遺症予想チャート�≠ニ名付けられたメモアプリが開かれていた。

「え……なに、これ」
「昨夜のキス数と、今日のあなたの可愛さの相関グラフです。で、今夜また増やしたい」

 その言葉を聞いた瞬間、頬が熱を帯びる。彼はそれを見逃さない。唇の端をすこしだけ上げて、くすぐるような声で囁く。

「��愛の後遺症�=c…今日も、記録更新していいです?」
「くちびる……やさしくね?」
「もちろん。……最初は、ね」

 その言い方がずるいと思う。笑おうとしたけれど、もう笑えなかった。彼の指が頬に触れた瞬間息が少し詰まったから。指先の温度が昨日よりもゆっくりと肌をなぞる。そのまま唇が重なった。昨日よりも少し深くてけれどどこまでも優しい。唇が離れても空気がまだ熱を帯びていて、呼吸を奪うように、ふたりの距離がまた近くなる。

「……やっぱ、無理そう。キスひとつで満足できそうになか」
「えぇー……」
「名前さんの全部、今日も俺だけにください」

 彼の声が低くなって、ふたりはソファへと深く吸い込まれていった。私の名を呼ぶその声が甘く沈む。空気の温度がすこしだけ変わって、部屋の灯りが二人の影をゆっくりと包み込んでいった。彼の唇がまた触れ、そのたびに夜が少しずつ柔らかくほどけていく。
 外の風が、カーテンの隙間を通り抜け、遠くで誰かの笑い声がかすかに響いた気がした。世界は動き続けている。けれどこの瞬間だけは私たちの時間が、確かに止まっていた。

 ——愛の後遺症。それは、痛みではなく二人が生きてきた証のように、明日へ続く夢のように、静かに身体の奥に残っていく。重なる呼吸の間に言葉はいらなかった。ただ、ぬくもりと脈の音がふたりの未来を小さく確かに、そして、やさしく灯していた。





愛の後遺症、そのぬくもりにて


(この後遺症、一生残っててもいいかも)
(じゃあそれ、処方箋に書いときますねー)
(ふふっ……ねぇ、啓悟くん。なんかね?)
(ん?……なんか、なんです?)
(まだ心臓が、啓悟くんの手の中にあるみたい)
(それならしばらく返しません預かっときます)
(ずるいよ)
(ずるいのは名前さんです)
(……え、どうして?)
(トップヒーローを、こんなふうにしたんで)


※image song『 ナキ・ムシ/aiko 』


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