人工呼吸器の音が規則正しく病室の白い空間に溶け込んでいた。無機質な機械音が呼吸そのものの代わりに生きているようで、その整った波形をただ見つめているうちに私は、自分がこの空間に閉じ込められているような錯覚を覚えた。
 たった数時間前まで私は彼の隣で笑っていた。後部座席から見えた夕焼けは、まるで映画のワンシーンみたいに美しくて彼が隣で何気なく呟いた「もうすぐ花火の季節ですね」という声に、私はただ「うん」と頷いて何の根拠もなくその季節を一緒に迎えられると信じていた。
 けれど、その��次の季節�≠ヘ、私たちのまえに訪れることはなかった。
 あの交差点で、突如として巻き起こった爆風。瓦礫。黒煙。飛び散った車体の破片。ヴィランの暴走による都市型災害。その一瞬で、彼の身体は私を庇い、鋼鉄の塊に呑まれて……そしてもう、この世界には、いない。

 目が覚めたとき、まず最初に感じたのは、痛みよりも空虚だった。喉が乾いているとか、視界がぼやけるとかそういった生理的なことではない。胸の奥にぽっかりと穴が空いていたのだ。心臓のすぐ隣。肺と肋骨のあいだに風が通り抜けるような寂しさがあった。けれど、私はまだその本当の理由(いみ)を知る由もなかった。

「目が覚めましたか。よかった。意識が戻って」

 白衣の男が光の向こうに輪郭を描いた。カーテン越しに聞こえるのは医療機器の規則正しい音。消毒液の匂いに、シーツの乾いた肌触り。ここが病院だということだけはすぐにわかった。

「あなたは……交通事故に遭いました」
「交通……事故、」
「足を骨折していて、しばらくは入院になります。無理はしないでくださいね」

 私は黙って頷いた。けれど頭の奥に粘つくような重みがある。思い出そうとすればするほど煙のように思考が逃げていく。

「それと……ひとつ。正直に、お伝えしなくてはなりません」

 カルテにペンを走らせていた医師の声が不意に少しだけ、低くなった。

「事故の衝撃で記憶が一部、抜けている可能性があります」

 そう言われた瞬間、私は自分の内側を確かめるように恐る恐る問いを投げた。
 自分の名前は?住所は?両親の顔は?仕事は?どれも応えられた。思い出せた。でもその全てを積み重ねたあとでも、心の穴は埋まらなかった。まるでもう一つもっとも大事な何かが抜け落ちているようで。

「先生……全部、思い出せている気がするのに、おかしいですね」
「……おかしい、とは?」
「なんだか……さびしいんです」

 医師は黙って視線を逸らした。その刹那、彼の白衣のポケットの奥で小さな黒い通信機が微かに光った気がした。

「——しばらく経過観察が必要です。念のため記憶障害として処置を進めていきましょう」
「……」
「きっと、少しずつ戻ってくるはずですから」

 笑顔の仮面。その奥に私は、かすかな違和感を感じていた。けれどそれを言葉にするすべもなく私はただ頷きベッドの枕元を見つめていた。そこには一輪の花も誰かの痕跡も差し出された手紙もなかった。世界があまりにも静かだったので私は少しだけ目を閉じた。
 思い出せない何かがある。それが最も重要で、物ではなく��誰か�≠セということを、このときの私はまだ知らなかった。

 その日から私の人生は——180度変わった。私は肋骨を三本折り、足にはヒビが入っており肺にも軽度の損傷がある。しまいには頭部を強く打ったことにより外傷性の『逆行性健忘』だと、正式に診断を受けた。逆行性健忘とは事故や外傷、強い心理的ショックによって、それ以前の記憶を失う症状のことらしい。事故の衝撃によって脳に一時的な記憶障害が起こっているのだと医師は言っていた。現在は意識ははっきりしており知覚や運動には問題がないとのこと。ただし事件当日やそれ以前の人間関係の記憶が抜け落ちていて、時間の経過や再刺激によって記憶が戻る可能性もあると言われた。早い話が頭部打撲による記憶障害だ。

 私は、事故当日、最愛の彼とタクシーに乗っていた。どこに向かっていたのかは不明。運転手はなんとか助かり命に別状はなかったと聞いたが、今も集中治療室に入っていて、意識はまだ戻っていないのだそう。私も当面のあいだ、少なくとも一か月の入院が必要だと主治医から伝えられた。
 痛みは常に身体のどこかを締めつけていて動くたびに、世界がゆっくりと歪んだ。けれど、それよりも、ずっと重くて、癒えることのない痛みは心の奥に巣食った喪失だった。


 *


 その人は、重たい足音とともに病室に現れた。病棟の冷えた空気が彼の纏う熱でわずかに歪んだ気がした。けれどそれは、威圧ではなかった。
ただそこに立つだけで炎の残り香のような気配を帯びる男。ナンバーワンヒーローエンデヴァー。
その肩幅の広い躯体がほんの少しだけ縮こまったように見えたのは、それが錯覚ではなかった証を次の瞬間、彼自身が与えてくれたからだった。

「……すまなかった」

 低く、くぐもった声が病室内に響いた。エンデヴァーがその広い肩をわずかに縮めるようにしながら私の前で頭を下げていた。それはあまりにも現実味のない光景だった。まるで炎の塊が静かに膝を折ったようで私はしばらくその姿を目の端で見つめることしかできなかった。
 謝罪は誰のためのものだったのだろう。私に?あるいは、ここにはいない——誰かに?
 彼の存在は、炎のような威圧感を放ちながらもどこか沈黙に沈んでいた。そんな彼の背後には、もうひとつ気配があった。その人物は音もなく、病室の入口の陰に立っていた。陽をすくったような金色の髪と、無造作に背から生えたような赤い羽根。そして、深い琥珀色の瞳をしていた。彼もまたなぜか私と同様に全身に包帯を巻き、しばしこちらをじっと見つめていた。けれどその視線は決して交わらず、私が振り返るよりも早く、すっと陰に溶けるように姿を消してしまった。

「ナンバーワンのあなたが……来て、くださってたんですね。あの、現場に……」
「チームアップの依頼で……福岡まで来ていた」
「そう、ですか……」

 私は絞り出すように声を出す。ありがとうと続けたかった。けれどその言葉はどうしても喉を通らなかった。代わりにこぼれたのは涙だった。毛布を握る手が震え、しずくが生地を濡らしていく。

「彼は……最後まで、私を守ろうとして……」
「ああ」
「でも、どうして——」
「……」
「どうして、彼じゃなきゃ……いけなかったんですか? なぜ私じゃなくて、彼が……」

 問いは感謝ではなかった。告発でもなかった。ただ、哀しみがかたちを持っただけだった。その場に崩れ落ちるように泣きじゃくる私を前にエンデヴァーは何度か唇を動かしかけ、けれどやはり言葉にはせず重たく静かに椅子に腰を下ろした。

「……大切な人を失う悲しみは、途方もない」
「ヒーローのあなたに……わかるんですか……」
「……」
「救った数の方が多い……あなたは、何人失ったんですか」
「一人だ」

 それは躊躇いもなく、短く、低い声だった。

「息子を……火事で亡くしている」
「……あっ、わたし……ごめん、なさい」

 彼の炎のような瞳が、わずかに伏せられる。

「謝らなくていい。君の大切な人を、救う立場にいて、救えなかった男だ」
「お子さんの、お名前は……」
「燈矢だ。十三歳だった」
「私の大切な人は——名前も、年齢も、思い出せません……」

 エンデヴァーはその言葉にしばらく沈黙した。静かな空気の中、火の粉のような痛みだけが私と彼のあいだに漂っていた。

「……ヒーローとして、俺は失格かもしれん」

 ぽつりと落としたそれは、彼の肩にのしかかる命の重さだった。罪悪感も無力感も、全てを飲み込んだあとの、空洞のような声。その言葉は彼が何度も心のなかで繰り返してきた、反省だったのだろう。責任を、痛みを、そして命の重さを彼は肩で引き受けようとしていた。

「けれど同乗していた男は最後まで勇敢だった」
「……」
「誰よりも速く君を庇い、最後の一秒まで、守りきろうとした」
「……」
「そして君もまた——勇敢だった。」

 その言葉に私は初めて顔を上げた。瞼は腫れ、視界は歪んでいたけれど、彼の青い瞳がまっすぐこちらを見ていた事だけははっきりとわかった。

「……ありがとう、ございます。でも……」

 唇を噛み、堪えるようにして私は問う。

「私はこれから……どうやって、生きていったらいいんでしょうか……」

 私の声は、ひどく頼りなかった。まるで自分が壊れかけていると、自覚しているような。
 誰かの未来になれるような自分では、もうなくなってしまったと——そんな思いばかりがこびりついていた。エンデヴァーは一度だけ目を伏せ、それからゆっくりと立ち上がった。

「痛みを知ってなお、前に立てる者だけができる仕事がある」
「……」
「それは、君とて同じことだ」

 その言葉に、私は小さく頷いた。そして、気がついたら、ぽつりと口にしていた。

「ひとつ、聞いても……いいですか」
「なんだ」
「どうしたら、ナンバーワンのあなたみたいに、強く、生きていけますか——」

 彼は答えなかった。あるいは答えられなかったのかもしれない。感謝に見せかけて、きっと私は投げかけていたのだ。『なぜ、彼を救ってくれなかったのですか』という言葉を。ナンバーワンである彼に向けて人間であることを許さないようなずるくて酷い問いを。

 その背中が、すべてを飲み込みながら、無言で病室のドアを開け静かに出ていった。そしてその影が廊下に消える直前。もうひとつの存在が音もなくそこに残されていた。ひとひらと羽根が空気の中を漂い、足元に落ちる。まるで、風の記憶が触れていったようだった。しかし、見上げても、もうそこには誰もいなかった。ただ病室のドアが半分だけ開いていて、その隙間に誰かの気配だけが確かに揺れていた。
 ホークス——ナンバーツーヒーロー。あの男がそこにいたのだ。気づかれないように。けれど、確かに私を見ていた。私の涙を知っていたのかもしれない。でもあの羽根が何を伝えたかったのかそれだけは、まだ今の私にはわからなかった。


 *


 あの夜——。ホークスの彼女が緊急搬送された病院の廊下で俺は、奴の姿を見つけた。全身に、打撲痕と擦過傷を負いながらもホークスは、壁にもたれてうずくまっていた。俯いたままで、握りしめた拳が白くなるほど震えていたのを俺はこの目で見ている。

「彼女は、俺のことを……忘れてるみたいです」

 顔を上げたホークスの目には、いつもの軽さはなかった。それは炎に焼かれた木のように、芯の部分だけが折れてしまったような顔だった。

「彼女が個性事故に遭ったとき俺はその場にいませんでした」
「……」
「公安もまだ解除条件が判明しないからって病院側に適当に病名を告げるよう指示したみたいで」

 淡々と報告のように話すその口調の下に悔いと自責の念がかすかに混じっていた。それが、この男にしては、なんとも珍しく感じられた。俺は、ただ、黙って聞いていた。言葉を挟む資格があるとも思えなかった。

「昨日のチームアップの際、あんな、無理な動きしなかったら……彼女がこうなる前に救えたかもしれないのに」

 拳を膝の上で握り締めるその音がわずかに聞こえた。自分を責めている。誰よりも速い男が、誰よりもこの事態を悔やむように。何を言えばいいのか、わからなかった。ただ、この沈黙が相手に何かを伝えられればいいと願った。

「このザコ羽根じゃあ、どうしようもなかった」
「……」
「一度、助けを求めに乗ってたタクシー離れたんです、俺。それで戻ったら現場が、もっと悲惨なことになってて」
「……」
「間に合わなかった」

 ホークスの声が少し掠れた。笑いにも似た吐息を交えながら、まるで、誰かに許しを請うような調子で。
 俺は目を伏せた。ヒーローとしての『間に合わなかった』という言葉がどれほど重いかを、俺は痛いほど知っている。

「俺んこと、思い出す素振りすらなかった……」

 その瞬間ホークスの目の奥がわずかに揺れた。それは、この若さで背負うには、あまりにも深い喪失の色だった。俺はやはり何も言えなかった。言葉をかけることが、奴の痛みに土足で踏み込むように思えたからだ。

「だから、エンデヴァーさん。お願いです」
「……」
「彼女には俺があのタクシーに乗ってたってこと言わないでください」

 その声は低く、けれどどこか懇願に近かった。ホークスが誰かに頭を下げる姿などこれまで見たことがない。それほどまでにあの女性を、想っていたのだろう。

「……公安には?」

 ようやく低く声を出すと、ホークスは、小さく息を呑んだ。

「……言ってません。言えません。最初から彼女との関係は伏せてました」
「ああ。そう、言っていたな、以前も」

 過去に何度か感じていた違和感の理由が、ようやく腑に落ちた。あのときからこいつは、何かを守るために嘘をつき続けていたのだと。

「俺んことは別にどうでもいいんです……でも、彼女が、困ると思ったから」

 その言葉に俺はしばしまた口を閉ざした。ホークスの目はまっすぐで、揺らぎがなかった。そこには男女間の感情的な執着ではなく祈りにも似た真っ直ぐな想いが宿っていた。やはり、若いなと思う反面、だがその若さを嗤うこともできなかった。誰かを想う力がこんなにも人を苦しめるものなのだと、俺とて痛感しているからだ。

「彼女と住んでた部屋から自分の物はとりあえずぜんぶ他に移したんで」
「……」
「ヒーローとして間違ってるのは分かってます」
「……」
「でも、彼女の頭の中では今——大切な人を亡くしたことになってる。ならその誰かのままで俺は消えます」

 自分の存在を消すというのか。まるで最初から出会ってすらいなかったように。
 だが、その瞳に宿った決意は、単なる逃避ではなかった。彼女を��守る�≠ニいう信念の形をしていた。

「わかった……だが、いつまでも隠しきれるものでもない」
「ええ。でも今は、彼女の記憶が戻るより先に、俺の感情が潰れそうなんで」
「……」
「ちょっと俺も、頭ん中すこし、整理したくて」

 出会ったころから正直で、抜き身すぎる性格が原因で何かと他者との口論になりがちだが、良い面も、悪い面も隠さず曝け出しているため、信用できる人間だと俺は今でも変わらず思っている。


 *


 天井を見つめていると、まるで、時間の感覚がぼやけていく。
 あの日を何度も何度も反芻し、あのとき、手を伸ばしていれば、あの角を曲がっていなければともうどうにもならない��たられば�≠ノすがっては眠れぬ夜を幾度も繰り返した。
 そんな日々の中で、彼は、唐突にやってきた。それは見舞いという名の風の訪れか、それとも。

「こんちは〜、起きてますかぁー?」

 初めて見舞いに来た日——ホークスは、病室のドアをノックもせずに、ひょいと、顔を出した。

「えっ……どうして……?」

 太陽みたいな色をした髪が蛍光灯に照らされて揺れ、緋色の羽根を背後から覗かせていた彼は、無造作で場違いで、けれどなぜかその姿は一瞬で病室の空気を変えた。

「エンデヴァーさんの付き添いってことにしてたんですけどねー。あの人はもう行かないって言い張ってたんで、じゃあ俺だけでもって」
「……」
「まぁ、なんていうか。俺もちゃんと現場にいたヒーローなんで」
「……」
「心配してたんすよ?で、これ、お見舞いっす」

 彼の手には、大きなバスケット。中には種類も色も様々な果物がぎっしり詰まっていて、それはとてもじゃないが、一人で食べきれる量ではなかった。

「なんで、こんなに……?」
「ああ、雛鳥ちゃんたちからもらったんですよ。なんか、横流しみたいで申し訳ないっすけど」
「ひな……どり、ちゃん」
「毎日大量にもらってましてねー。そろそろ腐りそうだったんでちょっと押し付けようかなって」

 軽口を叩きながらバスケットをテーブルに置くとホークスは勝手に椅子を引いて腰を下ろした。まるで前から何度も来ているかのように、自然な動作で。私は戸惑いながらも小さく「ありがとうございます……」と告げた。礼儀としての言葉。けれど、今はそれが精いっぱいだった。

 結局、その日は彼がしゃべって、私はほとんど聞いていただけだった。話題はどうでもいいことばかりだった。ヒーロー仲間の愚痴とかファットガムに太ったと言われてジムに通い始めた話とか空を飛んでるときに鳩とぶつかりそうになった話とか。くだらなくて、少し、笑ってしまいそうになることばかりだった。でも、それがよかった。誰もが私の前で気を遣ってしまうこの空気の中で彼だけは、妙に自然体だったから。
 そしてその翌日も、その次の日も彼は現れた。しかも、毎日違うバスケットを抱えて。

「今日はスイカとメロン!あと梨。どうします?先に甘いメロンいっちゃいます?」
「……また、来たんですか」
「うん。来ましたよー。ヒマなんでね」
「ヒマなら……ヒーロー活動したほうが……」
「え、してますよ?やだなぁ、合間に来てんの」

 そうしてホークスは、ほぼ毎日のように、私の病室に訪れるようになった。ナースのあいだでは親しみを込めて『赤い彗星』だとか『剛翼のフルーツ配達員』なんて噂をされていたけれど本人はまったく気にしていない様子でむしろ「そろそろジュースに加工して売ろっかな〜」などと、冗談まで飛ばしていた。
 私は、ただそれを聞いていた。笑う日もあれば無言で過ごす日もあった。でも彼はどちらの日も変わらなかった。私の顔色に合わせて話題を選んだり過剰に優しくすることもなく、ただいつもと同じ��ホークス�≠フまま、私の隣にいた。
 ふとした瞬間、その存在が、少しずつ私の中に染み込んでいくのを感じていた。風のように軽くて、でもなぜか、いつもそこにいる。傷口に直接触れないまま、そっと傍に寄り添うような存在。それが、彼だった。


 *


 彼女と初めて会った日のことを今でもはっきり覚えている。東京でのチームアップ。現場は、地獄だった。今回と同様に、ヴィランの暴走によって起きた交通事故。車は炎上し、瓦礫の下から這い出てくる人たちと、血の匂い。ヒーローとして、悲惨な現場には慣れているはずだったけれどあの日は少し、空気が違った。
 エンデヴァーさんとチームを組んでいた俺は、空から状況を把握しながら破損した交差点に滑空した。火災を巻き起こしたトラックのすぐそば、ひしゃげた乗用車を見つけ助手席には彼女がいてドアは開かれていた。けれど運転席の男性は動かなかった。彼女は、壊れた窓の隙間からかすれた声で「彼を助けて!」と必死に叫んでいた。その声がすごく真っすぐでどこか俺には眩しかった。
 その後も彼女は避難誘導の指示を出していた。彼女も無傷ではなかった。腕には擦り傷。膝から血を流してるのにそれを気にする様子もなくて。何度も瓦礫の間に手を伸ばして、他人の手を引っ張り出していた。その顔に、焦りとか恐怖の色はなかった。ただ、今ここにいる人たちを一人でも多く救おうとしていた。その必死さが、妙に綺麗だった。誰かを救うことを当たり前のようにしている、そんなヒーローでもない普通の人間がこの世界にまだいるんだな、って思った。

 俺はあのとき自分でもおかしいくらいに、目が離せなかった。空を飛んで何百メートルも上から人の群れを見渡してきたはずなのにあの瞬間だけは、彼女ひとりしか見えていなかった。

「危ないっ! あなたも下がってください!」

 そう声をかけられたとき、笑いそうになった。俺が誰かなんて知らない顔だった。たぶん救助に必死で、俺の顔なんて見ていなかったのだろう。ただ目の前の男に心配の言葉をかけただけ。
 ああ、この人はしっかり地に足をつけて生きているんだなって。俺は空を選んでこの人は地上を選んで。それでもどこかで同じものを見ていた
気がした。痛みとか恐れとか、どうしようもない喪失とか。たぶんその全部を知っている人だってわかってしまった。だから、惹かれた。
 たぶん最初から俺が誰であっても彼女は変わらなかっただろう。ヒーローだって知らなくても、俺の名前を知らなくても、仮に俺が��ホークス�≠セってわかったとしても、俺の羽根を見ても何も驚かないだろうな、って。

 結局、あの運転手を助ける事はできなかった。剛翼を飛ばして応急処置をして救急搬送に繋いだけれど、それでもあの男性は心停止のまま戻ってこなかった。
 お決まりの報告書を作成しているあいだが一番何も感じない瞬間だった。目の前で見た光景と、それを文章に起こしたときの落差が、あまりにも大きすぎて、呆れるしかなかった。俺が報告書に記したのは、たった三行。それだけだった。
 ヒーローなんてものは所詮、結果がすべてで、どれだけ速く飛べたって、どれだけ個性を動かせたって、助けられなきゃ意味がない。命を救えなければただの無力だ。俺がいくら羽根を伸ばしたところで間に合わなかっただけ。ただそれだけのこと。
 だけど、その��それだけ�≠ェどうしようもなく重かった。きっとあの日、彼女はたくさんの命を救ったと思う。あの日、俺は、初めて地上の風を吸い込んだ気がした。ヒーローである前に人間でいたかった自分を思い出した。その、きっかけになったのが彼女だった。
 そのあとは、少し汚い手を使って彼女のことを調べた。するとヒーロー緊急支援センターで働くオペレーターだった。なんと、ヒーローの近くにいたのだ。冗談抜きに、運命だと思った。

『はい——こちらヒーロー緊急支援センターです。事故ですか?事件ですか?』
『……あ、オペレーターさん?あのさ、ちょっと笑わないでほしいんだけど……』

 彼女はきっとあれが、俺と初めて交わした会話だと思っているに違いない。
 彼女と初めて出会ったあの日、たぶんあの瞬間彼女は自分の事なんてどうでもよかった。自分の傷も命も。全部を放り出して他人を守ろうとしていた。今回だって「なぜ私じゃなくて彼が」と、他人の命を優先していた。だから、俺は思った。なんでこんな人がこんな目に遭わなきゃいけない世の中なんだろうって。
 今の彼女は俺を知らない。名前も、声も、あの日の風の匂いも。全部、消えてしまった。でも、それでもいい。彼女が生きていてくれるなら俺はまた空から、何度だって手を伸ばす。


『私はこれからどうやって生きていったらいいんでしょうか』


 彼女は病室でそう、エンデヴァーさんに問いかけていた。その姿を見て思った。やっぱり彼女の毎日に、俺は寄り添っていきたいって。
 見舞いに行くつもりなんて、最初はなかった。このまま彼女の前から姿を消そうって。けれど、
たとえ俺の記憶がなくなってしまったとしても、彼女があのまま塞がって、あの綺麗な声を二度と聞けなくなるのだけはやりきれなかった。だから俺は明るくてどうでもいい話をした。くだらないことばかり話した。ヒーロー活動で笑えない日も雛どりちゃんたちから押しつけられたフルーツを抱えて「差し入れっす〜」なんて軽く言って病室の椅子に座った。そうすれば彼女がちょっとでも笑ってくれる気がしたから。ちょっとだけでも、��今�≠ノ、戻ってきてくれる気がしたから。

 ヒーローっていう職業は未来を守る仕事だけど彼女にはまず��今�≠�生きてもらわなきゃ意味がない。そしてそれが毎日病院への足を運ばせた。気づいたらそれが日課になっていた。本当は俺の方が助けられていたのかもしれない。
 あの日。病室のドアの隙間から、彼女の横顔を見つめていたとき。

『どうしたら、ナンバーワンのあなたみたいに、強く、生きていけますか——』

 その言葉があの静かな病室の中に、やけにくっきりと響いた。瞬間、息を飲んだ。世界が揺れたような気がした。耳の奥で何かが反響する。いや違う。心の奥に眠っていた何かが、いきなり目を覚ました。その声はまるで、昔の俺自身が言っているみたいだった。俺自身の中に焼きついた問いかけ。
 公安の暗くて冷たい部屋。腕の中にはボロボロになったヒーローのぬいぐるみ。臙脂と黒の布切れをまとったそれはエンデヴァーのキャラクターグッズだった。俺はそれをぎゅっと抱いて、怯えながら、それでも目だけは真っ直ぐ向けて、目の前に立つスーツを着た大人たちに聞いた。

『俺もこの人みたく悪い奴をやっつけるヒーローになれますか?』
『俺を救ってくれたみたく、みんなを明るく照らせますか?』

 あのときの俺は何も持っていなかった。名前も家族も自由も捨てた、ただの幼子。ただテレビの向こうで父親を倒した炎のヒーローを、まぶしいくらいに見ていただけだった。
 あの問いが時を経て、今、最愛の人の口から、まったく同じ響きで聞こえるなんて、誰が思っただろう。目の前で泣いていた彼女の姿とあの頃の自分の幻影が、ぴたりと重なった。無力で傷だらけでそれでも前を見て何かを求める声。強くなりたいと願うしかなかった声。
 気づいたら俺は、廊下の壁に背を預けたまま、微動だにできなくなっていた。たぶん俺は、いや俺こそがあの言葉の意味を誰よりも知っている。

 強く生きるって、なんだろう。ただ何かを殴り倒す力を持つ事じゃない。孤独を飼いならすことでも、笑って耐える事でもない。俺が知っている強さってやつは誰かの喪失の中で自分を殺さずに立ち上がることなんだ。
 彼女がその問いを発した瞬間に俺はまた、ヒーローになりたくなった。今度は子どもでも公安の犬でもなく、ただ彼女のそばにいられる、誰かとして——。


 *


「今日はね〜、バナナとオレンジ!あと謎のドラゴンフルーツ。食べ方は知らんですけどー、ほら、見た目は派手!」

 そんな調子で俺は今日も赤い配達員よろしく、見舞いのフルーツを持って彼女の病室に入った。
 別に見返りが欲しいわけじゃない。ヒーローとしてでもない。ただ「今日も無事でした?」って顔を確認したくなる。たぶん癖だ。自分よりも、誰かの表情に安心する癖。
 彼女はベッドに腰をかけていた。支えなしでも背筋が伸びているのは体力が少しずつ戻ってきた証拠だろう。退院まで、もう少しってとこかな。医者がそう言ってたのを剛翼で感知したから。

 俺がバスケットをどさりとテーブルに置くと、彼女はいつものように「ありがとうございます」と小さく口にしてそっと視線を落とす。その声は、毎回どこか遠慮がちで、礼儀正しすぎて、どこか本音じゃないような気がしていた。だから今日は少しだけ攻めてみた。

「ねえねえ。そろそろ、ありがとう以外の言葉も欲しいんですけど?」
「え」
「ほらぁ〜、『ホークスって最高!』とかさ?」
「……今日も、元気ですね」

 ぽつりと返ってきた声。それだけだった。でもその口元がほんのすこし、ほんとうに、ごくごくわずかに綻んだのを、俺は見逃さなかった。その瞬間、胸の奥に風が吹いた気がした。
 笑った。たったそれだけのこと。言葉にもならないくらい小さな変化だったけれど俺の世界にはしっかりと刻まれた。どこか優しい風が吹くような、けれど俺にとっては決して些細で済まない、そんな一瞬を。
 笑ったんだ、彼女が。あの事故以来、あんなに何も感じないような顔をしていた彼女が俺のくだらない一言で。この笑った顔が、見たかった。

「……わっ! 今、笑った。え、奇跡起きた?」
「べ……べつに、笑ってません」
「いやいや、笑ってたし。証拠映像、撮っとけばよかったぁ〜。永久保存版なのに」
「もぅ……うるさいです。ここ、病院。」

 拗ねたふりして俺が両手を上げると彼女は少しだけ顔を横に向けた。隠すように。でもたぶん、また笑った。それがどうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく馬鹿みたいに口角が上がった。

 あぁ、俺、なんしよっちゃろ。ヒーロー活動と違って、明確な救助の瞬間もなければ、成果って言えるようなゴールもない。でも、ただこうして毎日、病室に通って話して、フルーツを渡して、たわいのないことで彼女が笑ってくれたら今日は良い日って思える。そんな不確かな毎日が最近はちょっとだけ愛おしい。たぶんそれは俺のどこかに守れなかったものがずっと残っているからだ。
 だけど、今ここにいるこの人が、少しでも前を向けるなら。その笑顔をもう一度、何度でも見られるなら。俺は、何回でも来る。たとえ見舞いという名目がこの先、なくなったとしても。


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