病室の窓を開け放つと、夏の匂いがやわらかく差し込んできた。こもっていた乾いた空気が少しずつ流れ出し、代わりに午後の陽射しが淡く床に滲んでゆく。その光のなかで、静かに揺れるカーテンの向こうからいつものように音符を背負ったような、軽い足音が聞こえてきた。
「やっほ〜。剛翼の配達員です♪今日はね、梨とあと、シャインマスカット!」
そんな明るい声とともに赤い羽根のヒーロー、ホークスがまたひとつバスケットを抱えてやってきた。もういくつ目になるだろう。この果物たちをいくつ食べて、いくつ隠して、いくつ、病棟の
看護師さんに分けたのか思い出せないくらいだ。でも思い出せないのは数だけじゃない。彼がいつからこんなふうに、毎日ここに来るようになったのか、そのはじまりの境目さえもう曖昧だった。
ふと、思う。はじめの頃の私は、彼が来ても、まともに顔も見られなかった。視界が涙で濁って耳に入る音すら遠くて彼の明るい言葉すらただのノイズのようにしか聞こえなかった。それがいまでは彼の声が、病室の景色の一部みたいに、心にすっと染み込んでくる。不思議だ。
「今日の梨ね〜、けっこう甘いですよ。って俺が食べたわけじゃないけど」
「……信じていいんですか、それ」
冗談交じりに返すと彼は「いや〜、これは勘です」なんていつも通り軽く笑った。そんなふうに言葉を交わすたび少しずつ私の中に積もっていた重さが、指の間から崩れていくような気がした。泣かない日が増えた。眠れる夜が増えた。笑ってしまう瞬間が、ふいにあるように感じた。それは回復というよりも、静かな変化だった。
ある日の午後、主治医から退院日の目安が伝えられた。あと数日。そう聞いたとき私は「ああ、やっと」と思う自分と「まだ、いたかったな」と感じる自分がいた。それは剛翼のヒーロー、ホークスのせいだ。彼が来るから。彼が、いてくれたから。私の今が��ただの空白�≠カゃ、なくなってしまったから。
そして、その日の帰り際。彼はいつものように椅子から立ち上がりドアへ向かいながらぽつりと背を向けたまま言った。
「……もう、会えなくなるんですねぇ」
一瞬、空気が止まったように感じた。え?と、声には出せなかったけれど心の奥がふと揺れた。それは風が止まるときにだけ感じるあの静けさに似ていた。
彼は振り返らなかった。ただ、手をひらひらと振って「じゃ、また明日来ますね」と何事もなかったかのように去っていった。けれど、私の胸の中では彼のその一言がずっと余韻を残していた。
『——もう、会えなくなるんですねぇ』
それは、終わりを告げる言葉だったのか。それとも、名もなき寂しさの形だったのか。あるいは私に問いかけるような、羽根のように柔らかい、想いだったのか。
その夜、私は眠る前に、枕の横に置かれたバスケットの上に、そっと手を置いた。
明日も来てくれるかな……。声にできなかったその願いがどうか風に乗って彼に届いてほしいと私はただ、そっと目を閉じたのだった。
*
退院が近づいた日の病室は、どこか、いつもと違っていた。同じ白い壁、同じ窓辺の午後、同じカーテンの揺れ。けれど、その奥に佇む彼の姿に何か、言葉にできない違和感があった。それは、彼の羽根の揺れ方かもしれなかったし声のトーンかもしれなかった。
「やっとですねぇー。ここ、まあまあ快適でしたけど、さすがに住むには向かないですもんね?」
いつも通りの調子でそう言ったホークスはテーブルに果物ではなく珍しく紙袋を置いた。覗くと缶入りの高級そうな紅茶と小さなクッキーの詰め合わせ。「カフェ気分っすね」なんて笑いながらいつものように椅子に腰を下ろす彼の顔はどこか浮かない様子だ。
「退院ってさ、ゴールっぽいですけど、たぶん、スタートでもあるんですよね」
ふいに、そんな言葉を落とした。その横顔は、冗談のひとつも浮かべず、ただ真っ直ぐに何かを
見据えるようにしていた。私は、静かに頷くしかなかった。あの日からずっと止まっていた時間がようやく動き出すという感覚。それは嬉しさでもあるけれど同時に少し怖かった。その沈黙の中で彼が、ぽつりとこぼした。
「退院したら、もう来なくていいんですもんね、俺……」
その言葉には、明るさも飾りもなかった。私は思わず彼の顔を見た。けれど、彼は目を合わせず壁の方を見ていた。その横顔になぜか懐かしさを感じた。
「だってさ、見舞いって病室があるから成立するもんでしょー?」
「……」
「じゃなきゃ、ただの……なんだろ。邪魔者?
もしくは、余計なお世話?あっ、死神かぁ〜!」
冗談めかして笑おうとした唇の端が、どこか、震えていた。私が黙ったままでいると、彼は少しだけ息を吐いて、ぼそっと言った。
「たぶん俺の方が……来る理由、必要としてた」
私は言葉が出なかった。彼がこんなふうに自分の弱さを滲ませる姿を初めて見た気がしたから。
「最初はさ、ただあなたの顔が頭から離れなかっただけで。あの事故現場で、すごく印象に残ってて……」
「……」
「なんか放っとけなくて。けど、毎日来るうちに、だんだん……」
そこで彼は言葉を切りようやくこちらを見た。目が合う。逸らすタイミングを逃してしまった。
「……俺、あなたが笑うとね?救われた気持ちになるんですよ」
その声は、いつもの軽さとは違っていた。音としては小さかったけれど胸のどこか深いところにまっすぐ届く声だった。
「ヒーローってさ、誰かを助ける仕事ですけど、もしかしたら俺は、あなたに助けてもらってたのかもしれない」
彼の瞳は決して重くはなかった。けれど、その奥に宿る静かな熱に、私は不意に目をそらしたくなった。自分の胸の奥で、何かが形になりかけているのを、彼に見透かされそうで。
しかしホークスは、いつものようにすっと立ち上がり、病室のドアへ向かいながら背中を向けたまま、もう一度、口を開いた。
「退院してもさ、たまに��見舞い�≠チて名目で、会いに行っても?」
その声は、風のように軽やかで、それでいて、どこか懇願のような響きがあった。
私は背中越しに、小さく、けれど、はっきりと頷いた。その仕草が彼に届いたかどうかはわからない。でも、その日の帰り際、彼の振り向かずに「……よかった」と呟いた声が、私は、忘れられなかった。
*
病院の廊下を歩く足取りが、いつになく慎重になっていた。ひと月ぶりの靴の感触。床の冷たさ空調の流れ、白い天井を見上げる必要がもうないこと。そんな些細なことひとつひとつが、やけに胸に染み込んでくる。
手続きはもうすべて終わっていて、看護師さんたちに見送られながらエレベーターを降りたとき私はふと名残惜しさのようなものを感じていた。この白い空間のなかで私は確かに泣いて傷ついてそれでも少しずつ歩き直すことを覚えた。そして何よりあのヒーローが、毎日ここに来てくれた。それが、心のどこかを確実にあたためていた。
けれど、今日、ホークスは来なかった。昨日の別れ際「退院おめでとうございます」と冗談めかして言いながら彼は「明日は任務入ってまして」と言っていた。私はそれに頷いた。寂しさは顔に出さなかった。そう、ヒーローには、ヒーローの仕事がある。彼が来なくても仕方ない。そう言い聞かせながら、自動ドアの前まで歩いた。
外の光が、まぶしかった。空の青さが、やけに澄んで見えた。その瞬間、私は、何かを吸い込むように深く深呼吸をした。そして足を一歩、外に出した。すると……。
「おはようございまぁ〜す、退院おめでとうございます、っと」
風に乗るようにして、ずいぶんと耳慣れた声が届いた。驚いて顔を上げると、そこには陽の光を背にして立つ、あの赤い姿があった。
ホークス。背にはいつもの剛翼、手には紙袋。それから、いつものように少し悪戯っぽい笑顔。
「えっ。任務、は……?」
思わずそう口にすると、彼は首をかしげながら言った。
「うん、うそ。いや、ほんとはあったけどちょっとズラしました」
「……」
「だってさ、今日くらいはちゃんと、さ?」
「……」
「——ねっ? お見送りさせてくださいよっ」
まったく、らしいと言えば、らしい。けれど、胸の奥が無意識のうちにあたたかくなっていた。嬉しかった。そう、私は単純に嬉しかったのだ。
彼はずっと待っていたのだろう。私が出てくるその時を、待っていたのだろう。それを想像するだけで、目の奥がにじむようだった。
「……なんですか、それ」
「ん?」
「また、ひなどりさんたちからの?」
「あー、これはね、退院祝い。プリン三種。あと栄養ドリンク。これからの社会復帰に備えて!」
冗談交じりに言いながら、彼は私に紙袋を差し出す。『プリン』という単語に違和感を覚えつつ、私はそれを両手で受け取りながら、笑っていた。気づけば自然と。ようやく心から、偽りじゃないかたちで。ホークスはその様子をじっと見てから目を伏せて小さく言った。
「……あ、そうそう。」
「……ん?」
「今日からは、お見舞いじゃなくなるんで」
「うん……」
「今度はちゃんと、会いに行くってことで、よろしくお願いしまぁーす」
その言葉が静かに胸に響いた。もう、お見舞いじゃない。理由づけなんていらない。ただ、会いたいから会う。それが、これからの彼との関係のはじまりなんだと、素直に思った。私は、小さく頷いた。その頷きは、これまでの別れとは違う、はじまりへのサイン。
風が吹いた。彼の羽根が音もなく揺れ、世界がほんの少しだけ、やさしくなった気がした。
*
退院から一ヶ月が過ぎようとしていた。季節は確実に移り変わっていて、白い病室で感じていた夏の匂いは、もうどこかへ去ってしまっていた。代わりに街には九月の気配がそっとしのび寄ってきて陽射しの角度さえ少し柔らかくなっていた。
私はようやく、職場復帰を果たした。まだフルタイムではないにせよ、日々の中に以前の生活のリズムを少しずつ取り戻しつつある。けれどその流れの中にはまだぽっかりと空いたままの場所もあった。たとえば、住んでいるマンション。私には少し広すぎるし家賃も高すぎる気がする。そしてもうひとつは、職場だ。私の記憶では東京のヒーロー緊急支援センターで働いていたはずなのに、いま、私はなぜだか福岡にいる。転勤でもしたのだろうか。そう思うたび胸の奥で小さな違和感が波紋のように広がっていった。
あとは、ホークスがあの日、退院の朝に笑って言ってくれた言葉。
『今度はちゃんと、会いに行くってことで、よろしくお願いしまぁーす』
でも、それっきりだった。私は、彼の連絡先を知らない。あのときまでは毎日のように顔を見ていたのにそれがぱたりと途切れると世界のどこに存在しているのかさえわからなくなってしまう。
福岡のセンターで働いていたから、ホークスにやたらと懐かしさを感じていたのかもしれない。けれどその理由も今ではもうはっきりとはわからなかった。
ヒーローは忙しい。そう自分に言い聞かせてもどこか胸の奥に、引っかかるものがあった。私にとって彼はただの見舞いの人ではなかった。でも私にとってそうだったからといって彼にとっても同じだったかどうかなんて、わからない。そんな思いを抱えたまま、夕方の街を歩いていた。
仕事帰り、少し早く帰宅できた日だった。ふと思い立って寄り道をして小さな書店に立ち寄った帰り道。九月の風は少しだけ冷たくて駅前の通りでは人の流れが橙色の光に溶けていく。その間をすり抜けるように歩いていたときだった。
「おい、どこ見て歩きよーとや」
突然、肩をぐいと引かれた。声は低く、大層、ご立腹のようだ。振り返るとスーツの上着をだらしなく羽織った中年の男が立っていた。目つきは鋭く、そしてその表情には誰がどう見ても「俺はいま非常に怒ってますよ」と書かれている。
「さっきぶつかったっちゃん?謝れや、なぁ?」
ぶつかった感覚なんてなかった。むしろ避けたつもりだった。でもその男は詰め寄るようにこちらの肩を押してきた。人通りの多い通りなのに、なぜか周囲の人々は見て見ぬふりをして通り過ぎていく。声を上げるには勇気がいる。携帯を取り出す時間さえ妙な緊張が走って、指が言うことをきかなかった。
——どうしよう、と思った、そのときだった。風が吹いた。さっと突風のように男の腕が、風にあおられて外れる。なにが起きたのかわからないまま、次の瞬間には男がよろめき、後ろへ三歩、四歩と下がっていた。
「すみませんね〜、おじさん。ちょぉーっとパトロール中なんで、道ふさがないでくれますー?」
軽やかで、どこか、皮肉めいた声。振り向いたその先に赤い羽根。琥珀色の瞳。そしていつもの飄々とした笑顔。ホークスだ。彼がそこにいた。変わらない姿。けれど私にはほんの少しだけ彼の目の奥に安堵が滲んで見えた。
「なんねぇ、ホークスやなかぁ〜?」
「あっ、ヒーローに手出しすると、ちょっとめんどいっすよー? こっちは記録取ってますんで」
「あン……? なん? ねぶっとーとか」
「はい、公務執行妨害追加」
「イダダダダっ!待て、手ェ、もげるってぇ!」
「はいはーい、見逃すけん。あっち行ってね〜」
そう言いながら、ホークスは羽根で男をそっと押しやり、流れるように人混みの中へ追いやってしまった。人々の間に、静かに戻った日常の音。そのなかに、私は立ち尽くしていた。
「……お、久しぶり……です、」
ようやく言葉にできたその声は思っていたより弱々しくて、自分でも驚いた。
「うん。お久しぶりです。会いに行くって、言いよったとにね、俺」
ホークスは照れたように後頭部を掻きながら、視線を宙に泳がせた。あのときと同じく言い訳がましいのに、なぜか憎めない仕草だった。
「ほんとは何回かセンターの外まで来てたんですけどねー。声、かけられなくて」
「……どうして」
「んー?あなかたがもう、強くなってたから」
「え」
「あの病室にいたときと全然違ってた。俺なんかいなくても、大丈夫そうに見えた」
それはまるで彼自身に言い聞かせているような声音だった。けれど私にははっきりとわかった。本当は彼のほうがずっと私に置いていかれる気がして怖かったのだと。私はゆっくりと息を吸ってから、小さく首を振った。
「えっと、連絡先も、知らなかったので……」
「え……、うそでしょ。たぶん、入ってますよ?俺の番号」
「え」
思わず急いでスマホを取り出した。画面に指を滑らせ連絡先を開く。スクロールした先、そこに確かに『ホークス』の文字があった。彼が笑う。その笑顔は明るいのにどこか痛々しいほど無理をしているようにも見えた。
思い出せない時間のはずなのに胸の奥が確かに反応してしまう。まるで、身体だけが彼を覚えているみたいにして。
「通信では、たまに声、聞いてましたけど……」
「あー、俺あんまセンター使わないんでねぇー」
彼はわざと軽く笑ってみせた。その笑い方が、やはり記憶のどこかに引っかかる。けれど、思い出せない。思い出そうとすればするほど胸が痛くなった。
「それでも、来てくれたら、うれしかったです」
「……」
沈黙が落ちた。その言葉に彼は目を見開いて、それから小さく笑った。風が吹いて羽根がひとつ彼の肩から離れ宙に浮かんだ。街灯の光を受けてゆらゆらと揺れるその赤がどうしようもなく儚く見えた。
「じゃあ……今からでも間に合います?」
それは、不器用な問いかけだった。でも、それだけで今は、十分だった。
「——た、ぶん。」
「ははっ、たぶんかぁ〜」
「ふふっ」
私は、笑っていた。たぶん、あの病室で初めて笑ったあの日よりも、もう少し深く、もう少し、自然に。彼の赤い羽根が夕陽の中で揺れていた。そしてその風が私の髪を、そっと撫でていった。空白だった日々に風が吹き込んだはずなのにその風がどこへ向かっているのかは誰にもわからず、彼の赤い剛翼の影にふたたび自分だけが取り残されている気がした。
*
再会したあの日から私たちは少しずつ、距離を縮めていた。例えばそれは週に一度のコーヒー。仕事終わりの少しの立ち話。気づけば届いている連絡。あるいは、ふと見上げた空に、彼の羽根の影が浮かんでいたこと。そのすべてが、確かに、彼が私の世界にまだいるという証だった。けれど��いる�≠ニいうことと、��近い�≠ニいうことは、きっと違う。
彼は変わらなかった。相変わらず軽口ばかりで肝心なことは何ひとつ口にしない。優しいけれどそれが誰にでも向けられるものなのか、私にだけなのか、それすらわからなかった。
「——それ、あったかいやつ、選んだんですよ?ほら、冷え性って言ってたし」
そう言って渡されたのは、なんと、ホットレモネードだった。手にした紙コップは、彼の体温のようにぬくもっていて思わず指を包むようにして握りしめた。
ん……?あれ?わたし、彼に冷え性だってこと伝えたっけ。いつ?思い出せない。それでも素直に嬉しくて、あたたかくて。でもそのあとに続く彼の言葉が、ふっとその温度を冷ます。
「まぁ……こういうのはあれです。気遣いってやつですから」
——気遣い。そう、これは、やさしさではあるけれど決して特別ではない。私は思わず笑うのを忘れていた。「ありがとう」も言えないままただうつむいた。彼が悪いわけじゃない。彼は、何も変わっていない。のらりくらり、距離感を保ち、誰かの痛みに寄り添う術を持っているそんなヒーローなのだ。でも私はたぶんどこかで、期待してしまっている。彼の言葉の端に、彼の沈黙の奥に自分だけに向けられた何かが、隠れているんじゃないかと。再会してからの一つ一つが気遣い以上の意味を持っているんじゃないかと……。けれどそれは私が勝手に望んでいたものなのだとわかっていた。そしてその勘違いを正すには彼はあまりにも無垢な顔で笑いすぎる。
「……最近、どうです? 夜、眠れてます?」
彼がそう尋ねたとき私は静かに頷いた。小さく「うん」とだけ。
ほんとうは、聞きたかった。あなたは私にどうして会いに来るの——と。でも、それを問うには彼はあまりにも風のようで指の隙間からすり抜けてしまいそうだった。そしてふと気づいた。ああ私はまだ��かわいそうな人�≠ニして見られているんだな、と。
事故で恋人を失ってそれでも前を向こうとしている、健気な女。だからヒーローとして励ましてくれている。ただそれだけなのだと、そう思った瞬間、心のどこかで風の音が止んだ。
自分が誰かの善意の中でだけ存在していることほど寂しいものはない。私の中にいた誰かに必要とされたい私が静かに、肩を落とすのを感じた。
彼は優しい。でもその優しさは、どうしようもなく、読めない。掴めない。読めないまま、掴めないまま、触れられないまま私はまたあのときと同じように目の前にある温度から、手を引きたくなっていた。
「——じゃあ、また。」
彼が軽く手を振って背を向けたとき、私はもう追わなかった。その背中はいつかの夜の風と同じように、あっけなく遠ざかっていった。
ほんとうに彼は、なにを考えていたのだろう。わからないまま私はコートのポケットに手を差し入れ冷めきったレモネードの温度をそっと指先で確かめた。
*
おかしいな、って思ったのは、いつからだっただろうか。彼女の笑顔が、どこか遠くなってきた気がした。言葉が減ったわけじゃない。とくに、会ってくれなくなったわけでもない。でも、俺に向けられる視線の奥にうっすらと静かな壁が立ちはだかっているような気がしてならなかった。
以前はもっと些細なことで笑ってくれていた。寒いねとか風強いねとか、どうでもいい話をしてそれだけで目尻が緩んでいた。でも最近の彼女は笑ってもすぐに目を伏せる。返事の声が、ほんの少しだけ遅くなる。俺が何を言っても彼女の心のどこにも届いていないような、そんな気がした。
俺はずっと気づかないふりをしていた。だって気づいてしまったらきっとそれを止めなきゃいけなくなる。止められる保証なんてどこにもない。それでもある日、彼女が誰かと並んで歩いているのを見た。センターの、同僚だろう。たまたまの帰り道、偶然見かけただけ。男と二人、彼女が、笑っていた。その光景を、俺は、剛翼越しに見ていた。笑ってる。俺には最近見せなかった、あの不意に柔らかく崩れる笑みを。
胸の奥で、音もなく何かが軋んだ。それが何の感情なのか、最初はわからなかった。いや、わかりたくなかった。ただ、気づいたときには、風もないのに羽根がざわついていた。思わずスマホを開いて、既読のまま放置されていたメッセージを確認する。

今週末ひまですか?
それに対する返信は、なかった。たぶん、忙しかったんだろう。そう思おうとした。でもたぶん会いたくなかったのは、彼女の方だった。
……なんで。あれからずっとそばにいたのに。ずっと見てたのに。他の誰より、誰よりも近くにいたはずなのに——。
その夜、勢いで連絡した。無意識だった。いや違う。無意識にしようとしただけで、たぶん俺はずっと、そうしたかった。
既読がついた数分後、彼女から、『今からなら少し会える』と返信が来た。
待ち合わせたのは小さな公園のベンチだった。秋の風が冷たくなりはじめていたが、それよりも胸の中のざわつきの方が冷たかった。
「こんばんは、遅くなってごめんなさい」
彼女は淡々とそう言った。俺は立ち上がって、何も言わず彼女の前に立った。そして気づいたら言葉がこぼれていた。
「……最近、俺のこと、避けてません?」
彼女が一瞬、表情を止めた。胸の奥がぎゅっと縮んだ。言わなきゃよかった。でも、もう後には戻れなかった。
「いや、別に……」
「じゃあ、なんで最近、俺には笑ってくれないんです?」
「え……?」
「この前、職場の誰かと一緒にいたとき。偶然、見ちゃって……笑ってた」
「そりゃ、私だって笑うことくらい……」
「……俺の前じゃ、最近見せない顔でした」
言ったあと、ひどく幼稚なことを言ってしまったと後悔した。でも、抑えきれなかった。奪われたくないって、心が必死に叫んでいた。
「……私、ずっと思ってて」
「……なんを?」
「あなたは、かわいそうな人を、見てるだけなんじゃないかって」
その声はとても静かだった。でも刃物のように鋭くて。
「気遣いで会ってくれてただけなんじゃないかなって」
「……」
「ヒーローだからって……そういうのなんかもう重たくて」
「……」
「これ以上、ヒーローに気を遣わせたくない」
痛みが走った。彼女のその言葉が俺のなかの、見たくなかった現実を、突きつけてくる。急いで口を開こうとした。でも言葉が出なかった。ただもう一歩だけ、彼女に近づいた。
「……違うって、言ったら——信じます?」
それは不器用すぎる問いだった。でも、そこにあったのは、俺なりの強く引き留めたいという、願いのかたちだった。
彼女は、答えなかった。そして、背を向けた。夜風が羽根を揺らした。その背中を追えないまま俺はただ、その場に立ち尽くしていた。