【 七日目・再会当日の朝——。】
目を閉じていたはずなのに、眠っていた感覚がほとんどない。夜と朝の境目を、俺は何度も行き来していた。浅い呼吸、途切れがちな夢、そして覚醒。身体は横になっているのに、意識だけが先走って何度も玄関のドアの音を想像してしまう。アラームが鳴るより前に目を開けた。天井の色がいつもより白い。光が少し早く来た気がしてカーテンの隙間を見る。朝だ。間違いなく、七日目の今日だ。
枕元のスマホを見つめて、手を伸ばす。通知は、ない。それでも画面を点ける。時刻を確認する。目覚ましは昨夜セットしたまま五つ律儀に並んでいる。全部意味がある。あったはず。全ては今日のためだ。
「寝れんかった……」
誰に言うでもなく、声が漏れた。眠れていないことを自覚した瞬間身体のあちこちが重くなる。肩、背中、羽根の付け根。疲労は、確かに残っているのに胸の奥だけが異様に軽い。浮き足立っていると言ったほうが近い。まるで遠足前の子どものように、心臓が高鳴って止まらない。
やっと、会える。今日、会える。その言葉が、現実味を帯びて胸に沁みる。俺はゆっくり布団を蹴飛ばし、重い身体を起こしてベッドを抜け出す。すると床がひやりと足裏に触れた。その感触で、ようやく、現実に引き戻される。
洗面所へ向かい顔を洗う。冷たい水。瞬間的に目が冴える。鏡の中の自分と視線が合った。目の下に、はっきりとした影。寝不足の証拠だ。それでも表情は悪くない。むしろ、落ち着きがない。笑っているようで、笑っていない。待つことに、慣れていない人間の顔。
「……今日、会えるったい」
言い聞かせるように呟く。声に出さないと実感が追いつかない。七日間、頭の中で何度も描いた再会の場面が、ようやく現実の時間に重なろうとしている。
キッチンでコーヒーを淹れる。湯気が立ち上る。その匂いに一瞬だけ、彼女の姿が重なった。朝眠そうな目でマグを持つ横顔。口元を隠すようにして飲む癖。思い出すたび胸が勝手に詰まる。マグを持つ手がわずかに震えているのに気づいて思いがけず、笑ってしまった。
「……落ち着けってば」
何度目かわからない独り言。剛翼が背中でそわそわと動く。無意識に広げて、すぐに畳む。飛ぶ予定はない。今日は、待つ日だ。
ソファに腰を下ろし、またスマホを手に取る。通話履歴。メッセージ。昨日の『おやすみ』を指でなぞるだけで声が蘇る気がする。電話はしない。今はしない。ここで声を聞いてしまったらたぶん動けなくなるから。
支度、超ちゃんとしないと。今日の俺は、手を抜かない。鏡の前で髪を整える指先も、服を選ぶ目も、いつになく真剣になる。
「変に張り切っとーと……バレたら絶対笑われるよなぁ……」
口ではそう言いながらも唇はどうしようもなく緩んでいた。
時計を見る。時間は確かに進んでいる。なのに体感だけが妙に遅い。秒針の音がやけに大きい。心拍と同じリズムで、胸の奥を叩く。あと少し。もうすぐ。その言葉を、心の中で何度も反芻する。不安はない。ただ待ちきれなさだけが形を持ってそこにあるだけ。
玄関の方を見る。何も変わらない景色。けれどあと数時間後にはここに彼女が立つ。その事実が現実味を帯びすぎて、逆に夢みたいだった。
「……おかえりなさい、名前さん」
練習のように静かに言ってみる。声は落ち着いている。思ったより、ちゃんと出た。大丈夫だ。眠れなかった朝でも今日だけは全部がうまくいく気がしていた。
再会当日の朝は、そんなふうに、胸の奥だけが先に彼女のもとへ行ってしまったまま、静かに、始まったのだった。
*
このまま、駅に向かうはずだった。頭の中では改札の白い光と人の流れ、その向こう側で彼女の姿を探すまでの段取りが、もう何度も再生されていた。視線を少し下げて、人の肩越しに髪の色を拾い、見つけた瞬間に呼吸が浅くなるところまでほとんど無意識の領域で出来上がっていたのだ。
なのに。スマホの通知音が、その完成しかけた光景を、あっさりと切り裂いた。
『 緊急要請——空港付近で個性事故発生 』
画面を見た瞬間、心臓が一段、低く鳴る。焦りではない。ためらいでもない。もっと冷たい覚悟に近い音だった。
迷いはなかった。迷っている暇がないことを、俺は誰より知っている。視線が自然と今日のために新調した私服から逸れる。そして、いつも手の届く場所に掛けてあるフライトジャケットへ伸びた。選ぶという感覚すらなかった。それを羽織る身体の動きは、もう条件反射に近い。
『 了解。ホークス、すぐ向かいます 』
短く文字を打ち、送信する。その瞬間、背中で羽が広がる気配がした。意識するより早く身体が空を選んでいる。踏み出した一歩で風が裂ける。空気が薄くなる。地上の音が遠ざかり、代わりに自分の血の流れる音だけが耳の奥で明確になる。短時間で終わらせてみせる。終わらせなきゃいけない。今日だけは。いや——今日だからこそ間に合わせたい。
対象は単純だった。混乱は局所的、被害は拡大前。羽根を数枚、精密に走らせる。角度を調整し絡め取る。制圧。秒単位で片づく仕事。終わったと思うより先に、身体はもう、次の軌道へ移っていた。躊躇はない。ただ速度だけが必要だった。
誰よりも高く、誰よりも速く飛ぶ。目的地は、たったひとつ——見えた。地平を切り裂くように伸びる、銀色の線。速度そのものが、形を持ったみたいな新幹線がまっすぐ前へ進んでいる。その軌道を目で追った瞬間、胸の奥がきゅっと、締めつけられた。
彼女があの中にいる。そう思っただけで呼吸の奥が一段浅くなる。間に合うかどうかではない。もう追いつくしかなかった。俺は高度を上げて、風の流れを読み、次の瞬間には、その銀色の線と並ぶための、角度を計算していた。再会はもう、時間の問題だった。
風圧が変わる。耳鳴りが増す。羽根の付け根が、熱を持つ。それでも、離れない。横に並ぶ。窓の列が流れる。反射する空と雲。その、一枚一枚のガラスの向こうに彼女の時間がある。
ざわつきが剛翼を通して伝わってくる。空気の振動というよりもっと柔らかいもの。人の気配が波のように立ち上がる感覚だった。車内に広がる視線、指差す気配、囁き合う声の温度。スマホを構える動き、小さく上がる、息を呑む音。言葉は届かないのに、その場に満ちた驚きと興奮だけがこちら側まで押し寄せてくる。
俺はほんの一瞬だけ速度を落とした。追いつくためではない。探すためだ。窓の列を目でなぞる。人影の重なり。揺れる肩。バッグの色。髪の流れ。視線が交差するかどうかの、その境目。
——いた。彼女は窓際の席に座っていた。身体がわずかに前のめりになる気配。顔を上げる前のほんの短い予兆。窓際に近づく影。気づいたその瞬間、世界が細くなる。目が合う。音が消える。風の抵抗も羽根の重さも心拍の速ささえ、すべて背景へ押し流される。彼女の目が、驚きの形から理解の色へ移ろい、そして、笑う直前の、あの、柔らかい輪郭を帯びる。胸の奥で、何かが静かに跳ねた。俺は口元だけで笑った。声は届かない。それでも、伝えたい言葉は、最初からひとつしかなかった。
「も・う・す・ぐ」
唇がそう動いたのを彼女が正確に読んだかどうかはわからない。それでも彼女は小さく頷いた。両手で胸の前に何かを抱き寄せる仕草。切符か、スマホか、それとも——心臓。
新幹線が速度を上げる。俺も合わせる。並走は長くは続けられない。でも、この数秒で十分だった。再会前の、いちばん張りつめた距離。触れられないからこそ確かめ合える距離。互いが確かにここにいるという事実。
車内のざわめきがまた一段大きくなる。誰かが笑い、誰かが拍手する気配が剛翼を通して届く。偶然居合わせた人々の驚きがほんの一瞬、祝福の形を取ったように感じられた。
俺は、進路を切る。羽根を広げ、角度を変えて、駅へと向かう。先回りだ。改札で、彼女を迎えるために。胸の奥で、さっきまでの緊張が、静かにほどけていくのを感じた。間に合った。ちゃんと間に合った。
(……おかえり)
その言葉はまだ声にはしない。改札の向こう、視界に彼女が完全に入った瞬間まで取っておく。再会はもう、視界の先にある。
*
人の波が絶え間なく行き交う駅構内で俺は羽根をきっちりと畳み、人目も気にせず立っていた。構内放送の反響、スーツケースの車輪が床を引っかく音、誰かの笑い声と誰かのため息。すべてが同時に流れ込み、目の前を過ぎ去っていく。その中で、俺の視線だけが、ひとつの出口に縫い留められている。
「あっ……いや、違った……」
無意識に口をついて出た声に自嘲めいた笑みが浮かぶ。それでも、その舌が止まることはなく、次の言葉が勝手に零れていった。
「あ、いや、まだか……」
人影の向こうに似た輪郭を見つけては、すぐに否定する。その繰り返しに、胸の奥がそわそわと落ち着かない。七日分の不在が、こうして、待つ時間に凝縮されているみたいだった。
——そのとき。遠く、到着口の向こう側から、人の流れとはすこし違う速度で現れた、見慣れたシルエット。背丈。歩き方。肩にかけたバッグの位置。認識するより先に、身体が反応していた。
「……名前さん」
声にならない呼びかけが喉の奥で震える。彼女がこちらを見つけた、その瞬間。目が合い表情が変わり、距離が意味を失う。
「……ホークス!」
呼ばれた名前が、駅構内の喧噪を突き抜けて、まっすぐ胸に届く。彼女が走り出す。俺も、考える前に足が動いていた。人を避けるとか周囲の視線とか、そういう判断はすべて後回しになる。
羽根が、背中でわずかに揺れる。走りながら、笑っている自分に気づく。空を飛ぶときよりも、ずっと重たいはずの足取りなのに、感覚は異様に軽かった。
「……っ、ただいまっ」
「おかえり……っ!!」
言葉が交わるより早く身体がぶつかる。勢いで彼女のバッグが滑り落ちる音がしたけれどそんなことはどうでもよかった。俺は腕を伸ばし強く、でも壊さないように抱きしめる。彼女の顔が胸に埋まる。体温が、呼吸が、確かにここにある。
人目なんて、どうでもよかった。七日間、胸に居座っていた空白が、音を立てずに埋まっていくのを、はっきりと感じる。
「……会いたくて、死にそうやった」
自分でも驚くほど声が低く真剣になる。彼女の髪の匂いが、駅の空気に混じって鼻に届く。その懐かしさに思わず目を閉じた。抱きしめる腕に、自然と力がこもる。そして俺は額を軽く寄せて、そっと囁いた。
「……離れるの、長かったですね」
「うん……ごめんね」
「謝らないでください。ちゃんと、待てたし……ちゃんと、間に合いましたから」
そう言いながらようやく腕を緩める。それでも距離は取らない。手は、まだ彼女の背中に触れたままだ。駅のざわめきが、少しずつ戻ってくる。けれど、世界の中心は、もうここにあった。
再会は、思っていたよりも静かで、思っていたよりも深かった。そしてその静けさの中で俺は、ようやく、胸の奥まで息を吸うことができた気がした。
*
玄関の鍵が回る音は、いつもよりも、柔らかく聞こえた。扉が開き空気が入れ替わる。その一瞬の隙間に彼女の気配が家の中へ流れ込んでくる。
「ただいま」
先に声に出したのは彼女のほうだった。たったそれだけで目尻が勝手に緩む。胸の奥で長く張りつめていた糸が、音もなく解けていく。
「……その声、ずっと聞きたかったんですよ」
言葉にすると喉の奥が少し熱い。玄関先で荷物を置き彼女がスリッパを探そうと視線を落としたその背中に、俺は躊躇なく近づいた。考えるより先に、腕が伸びる。背後から抱きしめると彼女の体温がじわりとこちらへ移ってくる。駅で触れたときとは違う二人の、愛の巣の中の温度だ。
「……ねぇ、まだ脱いでない……」
「いいじゃないすか。今は、あなたがちゃんと、帰ってきたって思いたい」
笑おうとしているのに涙の匂いが混じる。彼女の肩に顔を埋めると、洗剤と外の空気が混ざった匂いがして、それだけで胸がいっぱいになる。
「……もう絶対、この手ぇ離さん」
距離を取る理由が見つからない。俺は、彼女を腕の中に収めたまま、何度も、深く息を吸った。触れているという事実を身体に覚えさせるみたいにして。時間の感覚が少し曖昧になる。七日分の不在がいま、静かに溶けていくのがわかる。俺は彼女の耳元に唇を寄せて囁く。言葉を探しながら正直になる。
「あと何日とか、もう、数えたくなか……」
「……」
「ずっと、いて……」
泣き笑いのまま吐き出したその一言に、今日という日——この七日間のすべてが詰まっていた。
「……ただいま、ホークス」
「おかえりなさい、名前さん」
声が重なる。その重なりが、家の中に、静かに広がっていく。壁も床も天井も、ふたりの呼吸を受け止めているようだった。
長かった一週間は、ようやく終わった。そしてここから先は同じ場所で、同じ時間を重ねていく夜が、また始まる。俺は彼女を腕に抱いたまま、ようやく、心の底から息を吐いたのだった。
*
夕食を終えて食器を洗い終えると部屋の空気が少しだけ軽くなる。蛇口を閉めたあとまだ湯気の残る台所を背にソファでくつろいでいる彼に声をかけた。
「お風呂、沸いてるよ」
その一言に、彼は、すぐにこちらを振り返って笑った。夜の明かりを受けた、その笑顔。帰ってきたという事実が、まだ、完全には身体に馴染みきっていないせいか私は不意にその表情から目を離せなくなる。だから、つい、もう一言を投げてしまった。
「一緒に、入る?」
言葉が落ちた途端彼の耳がみるみる赤くなる。反応が早すぎて思わず笑ってしまいそうになる。
「え!? あ、はっ!? ええ!?」
「……いや?」
「や、別に嫌とかじゃなくて! ただ、その……久しぶり、なんで……」
言葉を探そうとして忙しなく動いていた手が、そのまま行き場を失い、宙に取り残される。
「……ほら、あなたがいないあいだに、こう……耐え抜いてたわけで」
言い訳みたいに重ねていく声音がどこか幼くてでも真剣で。私は笑いを噛み殺しながら、新しいタオル二枚、手に取る。
「そんな、大げさだよ」
「大げさじゃないですってぇ!日々、精神修行でしたから」
彼は照れ隠しのためか、わざと背を向けて頭をかいた。羽根が、わずかに揺れる。その揺れに、胸の奥がやさしく波打つ。
「……じゃあ、先に行ってるね?」
「え、待って。あの、心の準備が……」
「どんな準備?初めてでもあるまいし」
振り返ってからかうと、彼は一瞬だけ、言葉に詰まり、それからそっと視線を逸らした。
「あなたが近いと、理性失いそうになるんで」
正直すぎるその答えに今度は私のほうが黙ってしまった。距離を縮めるつもりはなかったのに、気づけば彼の前に立っていて彼がソファから立ち上がったのが見えた。その身長差が夜の静けさの中で、やけに際立つ。
「大丈夫だよ」
そう言って彼の袖を軽く引く。触れた指先から体温が伝わってくる。
「ただの、お風呂だし」
「……それが、問題なんですけどね」
困ったように笑いながらも、彼は抵抗しない。脱衣所へ向かう途中、足音が二つ並ぶ。その距離が少し近い。わざとじゃないのに肩が触れそうで触れない。
浴室の扉を開けると、湯気がふわりと流れ出した。石鹸と温水の匂いが混じって、胸いっぱいに広がる。
「……あ、入浴剤。新しいやつにしました?」
「ピンポーン、大正解」
私の返しに彼は小さく笑ってから、息を吸い、深呼吸するみたいに目を閉じた。
「帰ってきたって、ここでやっと実感します」
「遅いなぁ」
「だって、名前さんが隣にいないと」
それ以上は言わず彼はタオルを取り私のほうを見る。視線が合って、すぐに逸れる。その一連の仕草が、妙に愛おしい。
「……入ります?」
「うん、入ろ」
短く答えると彼は小さく頷いた。浴室に満ちる湯気の向こうで、彼の肩から力が少しずつ抜けていくのがわかる。緊張が解けていく、その過程を目で追うみたいに、私は一歩だけ距離を保った。
触れ合う前の、このわずかな間が、戻ってきた日常の合図のようで、ただ、それだけのことが、今日はやけに特別に感じられた。
「……じゃあ、背中……流してくれる?」
向かい合うにはまだ照れが勝つ。肩と肩が少し離れた距離で背を向けると、心のざわめきがようやく落ち着く気がした。
彼がお湯をすくい、静かに私の背中へかける。続いて、ためらうように手のひらが添えられた。
「……あったか」
その一言だけで、彼の目元が緩んだのが正面の鏡に映った。次の瞬間、背中にやわらかな重み。彼がそっと、額を預けてきている。
「……なぁに?」
問いかけると、少し間を置いて、ぽつりと声が落ちる。言葉を選ぶみたいに息を吸ってから先が紡がれる。
「もう二度と……あなたの手が届かない距離に、いたくないです。俺、ぜったい……だめになる」
笑っているはずなのに声が微かに震えている。湯気の中で、その弱さが妙に際立って、胸の奥が静かに締めつけられたと思ったのも束の間——。鏡越しに彼が足を閉じて、もぞもぞと、落ち着きなく動いているのが見えた。
「……え、どうしたの?」
「いや、その……」
ホークスは、やや頬を赤らめて、視線を逸らしながら、ぼそぼそと小さく言った。
「なんか……すみません」
「なにが?」
「絶対、いまじゃないよなァってモンが……生い立ってしまったようで」
一瞬、意味を測りかねてから、状況を理解して思わずため息が出た。「……もう」と言って私はシャワーをひねる。勢いよく降りかかるお湯に、彼が声にならない悲鳴を上げる。
「ちょ、ちょっと!」
「落ち着きなさい」
「滝行ですか、これ……!」
湯気と水音の中で、ふたりして笑ってしまう。さっきまで張りつめていた空気が音を立ててほどけていくのがわかった。
やがて身体を洗い終え、湯船に浸かる。肩まで沈むと、深い息が自然とこぼれた。
「はぁ〜……帰ってきたぁ〜」
「やっと、ね。ほんと、やっと」
「ふふ。ごめんってば」
短い会話。それ以上、言葉はいらなかった。
お風呂から上がり、ふたり並んで、髪を乾かす。ドライヤーの低い音が部屋に満ち、湯気の名残がまだ肌に貼りついている。鏡越しに、視線が触れ合うたびに彼は、すこし照れたように目を逸らす。その仕草が帰ってきた夜の静けさにやさしく溶け込んでいく。
寝室へ向かって、明かりを落とす。ベッドに身を沈めた瞬間、彼の腕が伸び迷いのない動きで私を引き寄せた。ぎゅっと、包み込むような抱き方。力は強くないのに、離さないという意志だけが、確かな温度で伝わってくる。
「……ここにいるよ」
彼の胸に顔を埋めてそう言うと、腕の力がわずかに強まった。湯気の余韻、体温、静かな呼吸。いくつもの感覚が重なり合い、ようやく。一日の終わりが正しい場所へ落ち着いていく気がした。
「……好きです、名前さん。ほんとに」
ホークスは私の肩口に顔をうずめたまま、ややかすれた声で続ける。
「こんなに好きになるなんて、思ってなかった。あなたがいないだけで、体温も、気力も、感情も全部、抜けてくみたいで……」
「そっか」
「……声が聞けなかった夜、ほんとに、心が壊れそうだった」
ぽたり、と。私の肩に、涙のしずくが落ちた。その重みが彼の言葉の重さと重なって、胸の奥に静かに沁みていく。その涙さえも、愛おしい。
「もう……ほんと、泣き虫ヒーロー」
「ごめんなさい。泣くつもり、なかったのに……今、あなたの体温があるってだけで……だめで」
声にならない感情が、抱きしめる力へ変わっていく。私は背中に手を回し何も言わずにそのまま受け止めた。言葉より先に触れ合うことで伝わるものが、今夜はたしかにあったから。
「……ありがと。戻ってきてくれて」
その夜、彼は何度も「好き」を重ねた。身体が触れているのに足りないようで心を重ねていてもまだ足りないと訴えるように呼吸の合間で、同じ言葉を、繰り返す。涙まじりの口付け。息の合間に交わす言葉にならない愛の音だけが部屋に残る。
「……これからずっと、こうやって隣にいて」
「ん……」
「好きになりすぎて困るくらい、あなたを全部、受け止めたい——」
私は返事の代わりに、彼の胸に、額を寄せた。それで十分だと、互いにわかっていた。こうして並んで眠る夜が、また始まる。それが当たり前になることを、今夜はまだ、ひとつひとつ確かめるように、ありがたく思いながら。
会いたかった。毎日、考えていた。そう言いかけて最後まで残したままの言葉は「愛してる」。
あなたを愛してる。口の中に留めたその音が、花となり、香りとなり、歌となって、眠りの底で静かにひらけばいい。
逢はで過ごせし七日 ののち
(……おはよ。ねえ、今日お休み?)
(奇跡的にね。あなたに合わせて調整しました)
(ヒーローがずる休み?)
(愛のための休暇です)
(……そういうの、ずるい)
(ずるいのは、名前さんです)
(え?)
(帰ってきてから、ほら。もう何も手につかん)
※image song『 WISH/Nissy 』