夜の風がまた少し冷たくなった。季節が変わっていくのに心はなぜこうも、取り残されていくのだろう。
 『信じます?』と問われたあの夜。私は言葉を返せなかった。返したくなかった。返してしまえば、きっとまた期待してしまう自分が、怖かったから。
 私のなかに残っている喪失と再生は簡単に埋め合わせのきくものじゃない。ホークスの優しさが心地よかった日々。でも、あのヒーローの本当が見えないまま触れられる距離にいることは思っているよりずっと、しんどいものだった。
 彼は、いちヒーローとして私に向き合っているだけなのかもしれない。私が勝手に個人として、見てしまっていたのだとしたら——それは、私の完全なる片想いだ。
 私は、いったん、距離を置くことを決めた。
彼からの連絡は未読のまま。彼がどこかから見ていたとしても、私はもう、見上げることはしなかった。胸の中の何かがちぎれるように痛んでも、それでも一歩を引かなければ私の心が保たない。


 なんであのとき、彼女の手を引けなかったんだろう。いまさら思い返しても遅いのにあの背中がずっと頭から離れない。
 あの夜から連絡は途絶えた。剛翼で様子を見に行っても、彼女は空を見上げなくなった。わかってる。俺のせいだ。ぜんぶ、俺のせい。
 『信じます?』なんて最低だ。信じてもらえるようなことなんて、なにもしてなかったくせに。ずっと言葉にできなかった。俺が怖かったから。誰かに心の奥を知られるのが、認めてもらえないことが。過去を知ってるからこそ、愛される価値なんて自分にはないって思ってた。だから記憶の無くした彼女の優しさに甘えて軽くて都合のいい言葉ばかり並べて心の奥には近づかせなかった。

 でも、いなくなって気づいた。彼女は俺の中にちゃんと根を張っていた。ただの��お見舞いヒーロー�≠カゃない。ただの、気遣いでもなかった。俺が救われていた。また俺が彼女に縋っていた。こんなにも遅くそれを知るなんて。俺はほんとにいつまで経ってもどうしようもなく、不器用だ。


 *


 その夜、繁華街で、ヴィランによる爆破テロが起きた。地下鉄の出入口付近、爆煙と騒然とした人々の波。ヒーローたちが現場に駆けつける中、報を聞いた瞬間、心臓が跳ねるのを感じた。
 彼女の職場、センターが近い。考えるより先に身体が動いていた。羽根が裂けるように飛び、
通行人を避けて街の空を滑空する。瓦礫。転倒。血。鳴り止まぬサイレン。その中に、彼女の姿を探す。そして、見つけた。崩れた歩道の隅に倒れかけた柱に手をついて立ち上がる彼女を。左手に擦り傷。咳き込みながらも、子供を庇っていた。

「——名前さんっ!」

 怒鳴るような声が出た。思わず、名前を呼んで
しまったことなんて、気づきもしない。俺の声が耳に届いた彼女がこちらを振り向く。その瞬間、全身の血が逆流するような、衝動が走る。彼女の目が、一瞬驚き、そして、どこか泣きそうに緩んだ。彼女が庇っていた子供が自分の親を見つけたのか駆けていく。俺は着地すると同時に、彼女を抱き寄せた。反射的だった。考える余地なんて、どこにもなかった。

「ほんとっ、なんで、こんなとこにっ……!」
「な……なんでって……あなた、こそ……!」

 ふたりとも、言葉にならない想いが交錯して、抱き合ったまま動けなくなる。彼女の肩が震えていた。俺の手も、震えていた。

「もう二度と、見失いたくなかった」

 それは、すれ違いが燃え尽きたあとの、本音だった。飾らない、嘘のない、俺の奥底から出た、言葉だった。彼女は腕の中で小さく泣いていた。それはきっと、やっと届いた答え。

 私たちは、風の吹き止んだ夜の中にいた。救助活動がひと段落し現場の灯りが徐々に遠ざかる。爆風と喧騒の残響が、まだ胸の奥で鳴っている。けれど、その中に彼の声があった。


 『名前さんっ!』
 『もう二度と、見失いたくなかった』


 あの言葉を私は、忘れないだろう。初めて呼ばれた自分の名前。見失いたくなかったと、震えるように囁かれたその声は、ヒーローとしての言葉じゃなかった。ただのひとりの男の痛みに触れる言葉だった。
 私たちはまだ黙ったままだった。けれど沈黙のなかに、確かにふたりにしかわかり得ない何かがあった。傷口の奥に眠っていた熱がもう一度あたたかさを取り戻すまでの、その静けさ。
 私は自分の右手を見つめた。さっき子供をかばったときについた擦り傷からまだ少し血が滲んでいる。それを見ていた彼がグローブを外し自らの羽根をそっと千切るようにして小さな布片のようなものを作った。

「消毒とか持ってないんで……とりあえず羽根でごまかすしかないですけど」

 私は差し出されたその赤い布を指で受け取る。それはまるで彼の一部を借り受けるようなどこか神聖な儀式みたいだった。

「……あの、」

 私は、言葉を探すようにして唇を開いた。

「さっき、その……私の名前——」

 彼はその言葉に何も言わなかった。名前を呼ばれたとき、驚きと嬉しさを感じた反面、なにか、違和感も同時に覚えた。
 ずいぶんと呼び慣れたようなその響きが、今もまだ私の中で、くすぶっている。その呼び方も、声の抑揚も、記憶の中には存在しないはずなのにふとした瞬間に胸の奥で疼く。まるで過去がまだ身体のどこかに残っているみたいにして。

「あ、あの……ね、」

 言葉を選ぶように息が震えた。伝えたいことがあるのに、うまく形にならない。それでも、もう逃げたくなかった。

「ずっと、思ってたの。あなたは、私を気遣ってくれてただけだって」

 彼は何も言わなかった。けれどその沈黙は否定でも肯定でもなく、ただ、私の言葉を受け止める静かな空気だった。

「でも、それならそれでよかったの。優しかったから。それだけで、救われてたから」

 声に出した瞬間、涙が喉の奥までこみ上げた。感謝と寂しさが一緒になって、胸の奥で絡まる。彼の優しさはあの日の痛みを包み込んでくれた。それなのに、私はそのぬくもりを素直に信じきれなかった。

「でも私、あなたのこと……ちゃんと、見ようとしてたかな」
「……」

 彼が視線を落とす。その横顔にほんの一瞬、影が走った。彼もまた、何かを思い出そうとしているように見えた。

「ヒーローじゃなくて、あなた自身を、見ようとしてなかったのかもしれない」

 その言葉を口にした途端、胸の奥の何かが静かに崩れていった。私はずっと、彼の優しさの奥を覗くのが怖かった。見てしまえば、戻れなくなる気がしていた。そう、どこかで私はずっと怖がっていたのだ。彼のやさしさの先にあるものを知ることを。喪失を乗り越えようとすればするほど、誰かに新しく出会うことが、罪のように感じていた。それでも、目の前の彼は消えなかった。風が静かに吹き抜けるたびに、その存在だけが確かにここにあった。

「ねえ、あなたは……ホークスは、いま私に何を見てるの?」

 その問いは自分への問いでもあった。彼は目を伏せていたが、ゆっくりと、顔を上げた。ふだん笑ってごまかすその琥珀色の瞳がいまはただ真っ直ぐに私を見ていた。

「あなたは……痛みを、知ってる人——です。」

 彼はぽつりと、そう言った。

「守れなかったことがあって、だからこそ、いま誰かのそばにいることを怖がる人で」
「……」
「でも、その人が笑うと、世界がちゃんとまわってる気がする」

 それは、私のことを言っているのか、彼自身のことを言っているのか、どちらともつかない言葉だった。けれど私はそれにただ一つだけ返した。

「一緒に……痛いままで、いてもいい?」

 それは、抱きしめ合う言葉ではなかった。癒すための言葉でもなかった。ただ喪失を抱えたままそれでも誰かと歩くと決めるための、静かな確認だった。彼は答えず、けれど、そっと頷いた。その頷きのあと、私の手をゆっくりと握った。指先が温かかった。命の鼓動がそこにあった。

 私たちはたぶんこれからも完全には埋まらない傷を、それでも重ねていくのだと思った。喪失の痛みを知る者同士として。そして、ふたりで風のある場所へ戻っていく者として。私たちは、手をつないだまま、ゆっくりと歩き出した。


 *


「ホークス……貴様、彼女に深入りをしてるな」

 言われた瞬間、肺に冷たいものを流し込まれたような感覚が走った。
 チームアップでの遠征。いつも通り任務帰りにビルの屋上で風にあたりながら並んで、腰を下ろしていたときのことだ。エンデヴァーさんの声は低く、怒気もなかった。けれど、それがかえって重かった。この人は怒鳴るよりも、黙って責任を背負う男だ。そういう男が発するひと言は、冗談じゃ済まない。

「え……。深入り、って?」

 わざと、とぼけるように肩をすくめながら返す。けれど自分の声がいつもより少し低く響いたのがわかった。

「表情が変わった。任務中も、意識が散漫になる瞬間がある」
「……」
「お前は元々、冷静に見えてどこか、感情で動く奴だ。だからこそ、心配している」

 重い沈黙が、熱を帯びた風のなかでゆっくりと広がる。

「ふーん……で、何が言いたいんすかー?」
「——助けた者すべてに、私情で干渉するな」

 空気が重く沈んだ。その言葉は静かだったが、強い日差しより鋭く胸を貫いた。

「救助と関与は違う。彼女はもう、一般市民だ。任務とは関係ない。感情を向けることが、彼女にとって救いになるとは限らん」

 淡々と、事実だけを並べる声。それが俺には、宣告のように聞こえた。彼女に会いに行くようになってから胸の奥にずっとあった違和感。それが今、そのまま言葉にされた気がした。
 ヒーローは、全体のために動く。誰かひとりのために揺れてはいけない。そんな理屈は嫌というほど叩き込まれてきた。でも、じゃあ……彼女と過ごした時間は全部、間違いだったと?あの手を取ったことも、あの笑顔を守りたいと思ったこの気持ちも、全部?

「俺は……干渉してるわけじゃないっすよ。ただそばにいたいだけで」

 その言葉が出た瞬間、自分でも苦いと思った。そばにいる、それ自体が干渉なのだと、どこかでわかっていた。エンデヴァーさんは、ゆっくりと視線を投げてくる。その目は見透かすようでいてどこか、哀しみを含んでいた。

「それが干渉だ」

 まるで自分自身への戒めのようにかつて家族を失ったヒーローの背中からその言葉は出てきた。

「はぁ……なんです?説教したい気分でした?」
「……なんだと」
「そもそもらしくない行動を最初に取ったのは、エンデヴァーさんの方でしょ。わざわざ、救った人の見舞いだなんて。したことありました?」
「……」
「そんなの、あなたには似合わない」

 短い沈黙。エンデヴァーさんの瞳が、わずかに細められた。陽射しが屋上を白く照らしている。遠くのビルの窓が陽を反射しその光がエンデヴァーさんの横顔を淡く縁取る。そしてエンデヴァーさんが吐いた息は妙に低く、重かった。

「……本来であれば、あの個性事故は防げた」
「……」
「実際に被害を受けたのは彼女だけだ。あの現場にいた俺にも、大いに責任がある」

 エンデヴァーさんの声は静かだった。責任、という言葉を選ぶときのこの人の声音にはいつも、何か焼け焦げたものの匂いがする。たぶん自分の中で何度も燃やしてきた後悔や罪のかけらのせいだろう。

「なんで。あなた一人の責任じゃないでしょ」
「お前個人の責任でもない」

 反射的に俺は言葉を詰まらせた。そのやり取りのあいだ、俺たちの間を風が通り抜ける。羽根の先がかすかに揺れて、空気の湿り気を感じた。

「……あれは——贖罪だ。」

 その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず、眉をひそめた。そんな言葉をこのヒーローの口から聞くとは思わなかった。火を背負って生きてるような男が過去を悔やむような言い方をするなんて。

「贖罪、ねぇ……謝罪じゃなくて?」

 身体をゆらゆら揺らしながらエンデヴァーさんを横目に笑ってみせた。でも、その笑いはどこか空回りしていて、喉の奥に苦いものが滲んだ。

「だったら俺のはなんなんですかね。救えなかった人間の恋人に、毎日毎日顔出してるってのは」
「……貴様のは、情だ」
「情?」
「それが罪になるときもある」
「……」

 エンデヴァーさんの横顔にはかつて自分が犯した痛みの跡が、うっすら滲んでいた。その背中が語っている。誰かを守りたかった気持ちさえ時に刃になると。俺はスマホを取り出すふりをして、結局ポケットに戻した。このタイミングでスマホを操作したってまた逃げるだけだと思ったから。

「……やっぱ、似てませんね〜、俺たち」
「似ていては困る」
「え、ひどっ。けど、やっぱどっか似てますよ。燃えるもんが違うだけで」
「……」
「俺は剛翼が炙られたって彼女の笑顔をもう一度見たいだけです」

 その言葉に、エンデヴァーさんが目を伏せた。そして、短く溜め息をついた。瞬間、空気がひときわ熱くなった気がした。

「ホークス」
「はい?」
「情を抱くことは悪ではない。だがそれを正義にすり替えるな」

 それは叱責ではなく、祈りのように聞こえた。この人は自分を焼いた火で他人を照らそうとする人なんだ。俺はただその横顔を見て心のどこかで思った。それでも、俺は飛ぶ。もう一度、彼女の風になるために。

「気負う必要なんて、なかったんですよ。だって彼女の愛する人はあの日、死んだんですから」
「……」
「俺を死なせたのは——俺自身なんですから」
「……ホークス、おまえ……」

 その瞬間、空気が静止した。言葉よりも先に、風の音が遠くに消える。俺はすくっと立ち上がり軽く腕を伸ばしてぐいっと背伸びをした。背骨が鳴る音が、やけに乾いた空気に響いた。

「貴様が言ったんじゃなかったか、彼女の前から消えると」
「……」
「俺は少なからずお前には信を置いていた。どうやらそれも、俺の思い過ごしだったようだな」

 その声には、叱責よりも失望が混じっていた。胸に何か、熱いものが広がる。追いつめられれば追いつめられるほど自分でもわからないパワーが出てくる。昔からそうだった。
 わかっている。弱っちいのは自分だと。責任は大いに感じている。同じ失敗をするなと心の中で何度も繰り返している。空を見上げてゆっくりと息を吐く。日差しが、羽根を照らした。でもね、エンデヴァーさん。

「規則ってのはね、破るためにあるんですよ」

 軽口に聞こえるその言葉の奥で胸の奥が静かに疼いていた。


 その夜、一人で羽根を縮めて、屋上の縁に腰を下ろした。珍しく、風がなかった。その静けさの中で、何度も彼女の声を思い出していた。


 『一緒に……痛いままで、いてもいい?』


 俺はあのとき、頷いた。ヒーローとしてじゃない。きっと��鷹見啓悟�≠ニして。でも、その鷹見啓悟を社会は許すだろうか。彼女が俺とまた関わることでまた違うかたちの痛みを負わせることになったら。そのとき、俺は何を選べばいい?
 どこまでも自由を演じてきたこの翼が、いま、皮肉にも、いちばん自分を縛っている。

 彼女に会いたい。でもそれが彼女のためなのか自分の欲なのか。答えが出なかった。気づけば、空を見上げていた。あの夜から彼女が空を見なくなったことが、急に痛いほど思い出された。もう一度、彼女の目を見て確かめたい。俺の気持ちを俺自身の言葉で。そして彼女がまたその手を差し出してくれるかどうかを。
 エンデヴァーさんの言葉は正しい。でも正しさだけでは、他人の痛みに触れることはできない。俺は——どうすればいい?


 *


 この部屋の扉を開けるのに、どれほどの時間がかかっただろう。開けようと思えば、いつだって開けられた。けれど、どうしても手が伸びなかった。何度も扉の前を通ってはただ視線を逸らして通り過ぎた。季節だけが静かに移り変わり、陽射しの色も風の匂いも少しずつ、違うものになっていった。それでも今日ようやく扉を開ける決心がついた。前に進みたかったからだ。
 久しぶりに踏み込んだその空間はまるで時間がそこで止まったかのように、事故に遭う前のままだった。ほのかに残る、香水の香り。箱に入ったままの、新品のスニーカー。クローゼットの奥にしまわれた真新しいタオル。彼とは同棲していたのかそれすら定かではない。けれどどれもこれも彼がいた日々の断片だった。ただ、その彼だけがもうどこにもいなかった。
 長いあいだ開けられなかったこの部屋はいつの間にか、倉庫のようになっていた。埃をかぶった棚の隙間から射し込む午後の光が、過去の温度を確かめるように静かに床を照らしている。ここで誰かと笑っていたはずなのに。その誰かの顔だけが、どうしても思い出せなかった。

「……ごめんね」

 思わず口をついて出た言葉。それは、私が長いあいだ向き合わずにいた彼に向けたものだった。ペアのマグカップ。映画のチケットの半券。ひとつ一つ手に取っては、そっと箱にしまっていく。
まるで、自分の中にまだ残る彼の気配を整理していくような作業。でも気づけば涙が、止まらなかった。

「まだ、ぜんぜん癒えてないじゃん……私、」

 胸の中が、じんじんと熱を持って痛んだ。彼と過ごした時間は本物だった。突然失って、でも、それでも私は生きてきた。ホークスがいたから。けれど私はどこかで、上書きしようとしていたのかもしれない。過去に蓋をしてヒーローの優しさに触れて、前だけを見るふりをして。でも、ほんとうはまだ心の底では手放せていなかったのだ。愛していた人を失ったという、現実を。

 今は、ホークスに会いたくなかった。いや正確には、このままの自分で会いたくなかった。私の中に、まだ前の恋人の影が残っていて、その影を消せずにいる自分を、彼の目にさらしたくなかった。だから少しずつ距離を取ることにした。連絡は返すけれど、会おうとはしない。『忙しいから』『体調がいまいちで』そんな言い訳を重ねていった。
 ふたりが離れはじめた時、何か大きなきっかけがあったわけじゃない。ただ、ほんの少しずつ、心が触れなくなっていく感覚があった。
 ホークスの声は相変わらず優しくて、けれど、
その奥に何か言葉にしきれない距離が滲んでいたのを感じていた。たぶん彼も何かに迷っていた。私に近づいてはいけないと誰かに言われたのかもしれない。それとも、私の迷いを感じ取っていたのか。ふたりとも��優しさ�≠ニいう名前の殻に、閉じこもっていた。傷つけたくなくて、触れないままでいた。そんなある日、彼からメッセージが届いた。


ホークス

いま近くまで来てて
顔見れたら嬉しいですけど
無理なら大丈夫です






 私はそのメッセージに返信をしなかった。携帯を閉じて震える手のひらを見つめる。今の私じゃだめだから——それは、言い訳だったのかもしれない。でもそれが今の私の、精いっぱいだった。あのヒーローの笑顔をまた曇らせたくなかった。ホークスはそれからもうメッセージを送ってこなかった。私はその沈黙に安堵して、同時にひどく後悔した。
 本当は会いたかったのに。でも、もう会ってはいけない気がしたから。
 ふたりはまた交差点の手前ですれ違っていた。同じ場所を見ているのに目線が届かない。そんな夜だった。


 *


 何かがちょっとずつ違ってきた。ずれてきた。それに気づいたのはたぶん会話の間がほんの少し空いた、あの日からだ。既読はつく。でも返事はしばらく来ない。予定を聞くと『その日はちょっと』と、やんわりと断られる。彼女はああ見えて嘘が下手だから。本当に忙しいだけなら、もっと簡単に返せるはずだ。俺は剛翼で風の流れを読むように空気の変化には敏い方だが、でも、彼女の心の流れだけは、どうしてか、いつも上手く読めない。……読めない、っていうか、たぶん、読まないようにしてた。怖かったから。彼女が、俺に向けてくれていた感情が感謝だけじゃなく想いに変わりかけていたことに気づいたとき俺は、その先に踏み込んでいいのか正直、わからなかった。
 エンデヴァーさんから言われた言葉が、何度も脳裏をかすめる。


 『助けた者すべてに、私情で干渉するな』


 その��すべて�≠フ中に、彼女もいた。確かに、俺は彼女を助けた。けれどそれ以上に彼女に救われてきた。病室に通っていた日々、彼女が隠れて泣きながら、それでも前を向こうとする姿を見て俺は何度も自分のヒーローとしてのあり方を考え直していた。だから今さら『ただのヒーロー活動の一環で、見舞いをしてました』なんて顔、できない。だけど彼女の変化が痛いくらい見えるのにその理由が俺なのか、思い出せずにいる、過去の俺の記憶なのか、はっきりわからないまま、立ち止まってる自分が情けなかった。
 思い切って『いま近くまで来てて』と、送ってみたこともあった。返事は、返ってこなかった。それきりだった。だから俺は、それ以上踏み込めなかった。本音を言えば、無理やりにでも会いに行きたかった。「体調悪いんすかー?ならこれはお見舞いっすね」とか言って冗談混じりに家まで押しかけたかった。でも、できなかった。彼女が俺から距離を取ろうとしてるなら、それは、尊重すべきなんだって、ヒーローとしての俺が、そう言ったから。だけどヒーローじゃない俺としての気持ちは、毎晩、スマホの画面を何度も開いては閉じて、羽根の音だけが虚しく響く部屋で彼女の気配を探している。

 会いたい。でも、彼女の傷に、俺の存在が塩を塗っているかもしれないと思うと、どうしても、あと一歩が出ない。俺は、風を読むのが得意だった。だけど今は、その風が止まった空のなかで、どう飛べばいいのかわからずにいる。彼女の心にもう俺の羽ばたく音は届いていないのだろうか。そんなことを考える夜が、増えていった。


 *


 いつの間にか彼の羽根の音を探している。駅の改札を抜けたとき、空を見上げた帰り道、コンビニの冷たいガラスに映った、自分の横顔。ほんの少しの空白のなかにかつて彼がいた景色の余韻を私は無意識に追っていた。
 今夜、ふと気が向いて駅前のビルの屋上にある展望スペースに立ち寄った。以前ホークスと待ち合わせた場所だ。彼は冗談みたいに言っていた。「ここ風通しいいから、俺向けっすね〜」って。風は吹いていなかった。でも耳の奥には彼の声が鮮明に残っていた。

「俺なんかと、出会わなきゃよかったっすねー」

 彼は前にそう言っていた。けれど私はあのときそれに、何も返せなかった。どうして突然そんなことを言ったのかはよくわからないけれど、私は確かに事故後も、彼に救われていた。自分の中にある、まだ手放せない過去が、彼に向かう言葉をせき止めていた。でも今は、返事がしたかった。「出会えてよかったです」って、そう直接自分の口で言いたかった。伝えたかった。遅すぎることはわかっている。でも、いないはずの誰かの姿をこんなにも探してしまうこの感情が、ただのすれ違いじゃないことを、もう、否定できなかった。
 今さら、会いたいなんて言えないけれど私は、あなたの声が恋しかった。これが最後になるならあなたの、本当の名前が知りたかった。


 今夜は風が妙に静かだ。高層ビルのアンテナの先に腰かけて缶コーヒーを片手に空を見ていた。任務の合間、少しだけ時間が空いた。けれど何もせずに空を見ているのは、いつぶりだろう。
 ヒーローっていうのは、たぶん人と距離をとる職業なんだ。誰かに入れ込みすぎればそれが必ず命取りになる。エンデヴァーさんの言葉は、正論だった。彼女の前から消えると判断した、自分の選択も正しい。それを破ったのは他でもない自分自身だけれども。
 でも——それでも俺は彼女に触れられたことで救われた。病室で。笑顔で。何気ない、仕草で。
そして、あの夜の涙で。
 ��鷹見啓悟�≠ニして誰かに見られたのはきっと生まれて初めてだった。だからいまさら、ただのヒーローとして距離をとるなんて、無理だった。彼女は俺の名前を「ホークス」じゃなくて「啓悟くん」って、そう呼んでくれたんだ。それがどれほど嬉しかったか、ずっと直接言えなかったけど今夜、ようやく自分に正直になれる気がした。

 会いたい。ただそれだけ。立場とか正しさとかぜんぶを置いて。ヒーローじゃない、ただの男として、好きな人に会いに行く。それをやっと選べそうだ。
 ポケットの中のスマホを握りしめる。指先が、ほんの少しだけ震えた。でもその震えごと、今の彼女に届けてみたいと思った。



ホークス

今夜、少しだけでも
会えませんか






 そのメッセージを送ったあと、スマホの画面をずっと見つめていた。数分か、あるいは、もっと長い時間が過ぎた気がした。ふと光が滲む。画面の端に��既読�≠フ文字。その二文字を見た瞬間、呼吸が止まった。時間が、音もなく張りつめる。小さな端末の向こうで彼女がどんな顔をしているのか。想像するだけで胸の奥がざわついて仕方がなかった。そうして、わずかな間をおいて震える通知。


名前

はい。会えます。






 短い。けれどその短さが痛いほど優しかった。思わず息を吐いた。胸の奥で、何かが静かにほどけていく。これまでずっと、張りつめていた糸が切れるように肩から力が抜けた。ほんの数文字でこんなにも世界が変わるなんて。不意に風が動いた。夜の街の光がやさしく流れ込んでくる。その瞬間、久しぶりに帰る場所が、できた気がした。指先が震える。けれど、それを止めようとは思わなかった。この震えだけは、風のように、自由にさせておきたかったから。


 夜風がどこか、遠慮がちに吹いていた。屋上の展望スペース。低い光が植え込みを照らし遠くのビルの明かりが粒のように瞬いている。
 誰もいないはずの場所で私は待っていた。風が吹けば羽音が聞こえるのではないかとそんな気がしていた。スマートフォンの画面に表示された、『もうすぐ着きます』の文字が消える。なのに、空はやけに静かだった。
 来ないかもしれない。そう思った瞬間、足音が背後から聞こえた。

「……こんばんは。待たせました?」

 振り返った私の目に映ったのは、ヒーローの姿ではなかった。ゴーグルもグローブもヒーローの仮面も何もつけていない、私服姿のホークスだ。その、ただの青年が少しだけ息を切らしてそこに立っていた。

「あ、れ……。飛んで、こなかったの?」

 思わずそう尋ねると、彼はくすっと笑った。

「ええ。今日は、ちゃんと歩いて来たかった」

 その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。彼が、ヒーローホークスじゃなく、一人の人間として、私に会いに来たのだとわかったから。
 ふたりで、ベンチに並んで座った。何を話せばいいのか、わからなかった。でも、それでいいと思った。沈黙がひどく優しかったから。すると、ようやく彼が先に口を開いた。

「ずっと、謝りたくて。俺、自分が何者なのか、分からなくなってました」
「……ヒーローとして、ですか?」
「うん。でも、それだけじゃない。あなたと会うたび心が揺れるのにそれを職務上の関与って言い聞かせて」
「……」
「そのくせ、ヒーローじゃない自分はそれ以上にあなたのことを見てた」

 彼は、まっすぐに私を見た。その瞳は出会ったあの日よりもずっと静かで、真剣だった。

「俺、もう迷わないって決めましたよ」

 その声はどこまでも落ち着いていて、静かだった。けれど、その静けさの中に決意の熱が確かに宿っていた。私が言葉を探す前に、彼は続けた。

「ヒーローとしてじゃなくて——大切な人の隣にいたい男としてちゃんと、あなたを見たいって」

 その言葉が、そっと私の中に沁み込んでいく。飾り気のない、傷のある彼自身の声で——。守ることよりも、共に生きたいという願いがそこにはあった。私は何も言えずただ彼を見つめていた。すると彼はすっと立ち上がりまっすぐに私の前に立った。その動作があまりに自然で、息を呑む。街灯の薄い光が差し込む中で彼の影が私の足元に重なる。首を傾げる私を優しい眼差しで見下ろしながら、彼は右手を差し出した。

「鷹見、啓悟って言います。俺の名前です」

 穏やかな笑みだった。けれど、その奥にほんの少しだけ長い時間の孤独が見えた気がした。私は差し出された彼の手を見つめる。その掌に触れたら何かが変わってしまうような気がして——それでも、もう逃げる理由がなかった。

「もう過去に捨てた名前ですけど、あなたになら名前も、何もかも、差し出せる気がします」

 その瞬間、胸の奥で何かが静かに弾けた。涙ではなく呼吸のような温度。彼がくれたその言葉は確かに過去と現在(いま)をつなぐ��光�≠セった。私は、ゆっくりとその手を取って握手を交わす。

「たかみ、けいご……さん」
「はい。名字、名前さん」
「え——。あ、だから、どうして私の名前……」
「さぁ? どうしてでしょうね」
「……」
「まっ、見聞が広いんで。あまり気にせんで」

 彼の体温が伝わってくる。どこか懐かしくて、それは、痛いほどやさしい温もりだった。私は、言葉に詰まりながら、それでも息を整えて、ようやく気持ちを伝えた。

「私も、たぶん、あなたに期待しすぎてたんだと思う」

 彼は何も言わず握っていた手をゆっくりと恋人繋ぎに変えた。そのまま私の前にしゃがみ込み、目線を合わせる。つながれた手のあたたかさが、鼓動といっしょに伝わってくる。

「優しくされればされるほど、逃げたくなって」
「……うん」
「でも、違ってた」

 彼の指先がさらに強く私の掌を包み込む。その瞬間温度も、熱も、すべてが倍になって私の中へ流れ込んできた。

「あなたが私にくれたのは、ちゃんとした、想いだったのに……それを怖がってたのは、私のほうだった」

 彼は何も言わなかった。ただ空いていた左手を伸ばして繋がれた私の指先にそっと触れた。爪の形を確かめるように、ひとつずつ、ゆっくりと。それでも、その手がわずかに震えているのを私は感じていた。

「……もう少しだけ、そばにいてもいいですか」

 私の問いに彼はゆっくりと瞬きをしてそれから小さく頷いた。そして、照れたように目をそらしながら、静かに言った。

「うん……えっと。じゃあまずは、お友達から、始めてみます?」

 その言い方があまりにも彼らしくて私は思わずふっと笑ってしまう。けれどその言葉の奥にあるやさしさを、ちゃんと感じていた。急がなくてもいいと、でも、離れたくはない——そんなふうにそっと手を差し出してくれているようだった。

「でも、お友達にしてはちょっと近すぎるよね」

 照れ隠しに、少し唇を尖らせてそう返すと彼は肩をすくめて笑った。

「友達同士でも手はつなぐでしょ」
「男女の友情はあるのかないのか論争します?」
「えー、それ卑怯ですよ。まあ今は��ある�≠チてことにしといてもらえると助かります」

 彼が笑う。その笑顔に、初めてお見舞いに来てくれたときの光が重なって見えた。

「だって、こっちからちゃんと手を伸ばしたいと思ってるんですよ。誠意、見せんと」
「ふふっ……誠意?」
「そ。誠意。手まで速い男だなんて、思われたくないんで」
「うん」
「あなただけに伸ばしたい、この手を」
「……」
「……今度こそは、ちゃんとね」

 彼の言葉が、静かに夜に溶けていく。その声を聞きながら、私は指先を少し強く握り返した。
 ——この手を離さずにいよう。そう思えたのは今夜が初めてだった。傷は、まだ癒えていない。喪失の影も確かにそこにある。けれど、私たちはようやくこの日から新しい一歩を踏み出すことができたのだ。
 風が吹いた。彼の背中の羽根が一枚、夜の光に紛れて舞いそのまま暗闇に静かに消えていった。


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