「あっ、俺それ、好きなんですよー」
「えっ、意外……」
「え、何そのリアクション。失礼すぎません?」
そう言いながら苦笑する彼の横顔を見て、私はほんの少しだけ、声を立てて笑った。
某ファミレスの窓際。深夜一歩手前の時間帯。ホークス——改め鷹見啓悟さんとこうして向かい合って食事をするのは、いったい今日で何度目になるだろう。
あれからの私たちはといえば「これからは意地を張らずに会うようにしよう」という、約束事を決めた。��付き合う�≠ニいう言葉は、まだ互いに照れくさくて口には出せなかったけれどそれでも手をつないで歩くことが自然になりつつあった。
彼は思っていたよりも食べる量が少なかった。ドリンクバーの紅茶にミルクをふたつ入れる癖があってメニューを見ながら迷っているふりをしてたいてい、唐揚げを頼む。ヒーロースーツのときには想像もつかないようなごく普通の、ちょっとだけ子どもっぽい仕草に私は驚きながらもどこか安心していた。
たぶん私はずっとヒーローという仮面に怯えていたのだ。あの赤い羽根の向こうにいる人は軽やかで何にも傷つかないと思っていた。けれどいまこうして向かいに座る彼は、紅茶をすするときに口をすぼめて、時々スマホを覗いてはすぐ閉じてくしゃみを我慢するときにまゆをしかめるようなとても人間らしい、私と同じただの庶民だった。
「今日、めちゃくちゃ風強かったんですよね〜」
「あ、たしかに。飛びにくかった?」
「いや、最高でした。でも風が強いときってね、落ちたらどうなるか、ちょっとだけ怖くなる」
彼がそんなことを言うとは、思ってもみなかった。彼の口から『怖い』という単語はどうも聞き慣れないため、驚きもするが、逆に胸がきゅっとなった。
「……それでも、飛ぶんですか?」
「うん。飛びますね。怖いけど、止まるともっと怖いから」
私はその答えを自分にも向けられたような気がしていた。生きることも愛することも、そうなのかもしれない。
「ふうん。羽根のない凡人には、わからない感覚だけど……あっ!」
「はい?」
「だから挑むのかなぁ、鳥人間コンテストの出場チームの人たちって」
私が真顔で言うと彼は両肘をテーブルについた姿勢で眉を寄せてカップを口につけたままじっとこちらを見た。
「あの……鳥個性、バカにしてません?」
「してないしてない!人間って、実はある3つの成分でバランスを取ってるって知ってます?」
「え? みっつ……なんだろ、知らんですね」
「じゃあ、当ててみて」
「んー。愛欲、性欲、あと、スキンシップ欲?」
「最低ですね」
「俺、正直者なんで。でもけっこう大事ですよ?三大本能。健康の三本柱ですから」
彼は続けて「疲れたとき好きな人に出る欲ランキングベスト3っすよー」と言って、ケラケラと笑っている。私は呆れ果て、溜め息を吐きつつも「他には?」と問う。
「んー……欲望、性欲、あっ!添い寝欲とか?」
「なんで絶対に性欲は入ってるの。今世紀最大の最低な回答です。ブー!」
私の返しに、彼が思わず吹き出す。釣られて私も笑ってしまった。その笑い声に店内のやわらかな
BGMが重なって小さなテーブルの上にゆるやかな時間が生まれた。
「待って待って、俺は真面目に答えましたよ?」
「はいはい、それはホークス理論ですね」
「じゃあなんです?人間に大切な3つの柱って」
「正解は、アドレナリンとオキシトシンとセロトニン。緊張とか不安とか怒りとか恐怖とか、そういう感情がアドレナリン」
「へえ。あ、だから怖い思いも必要って話?」
「そうそう。だからほら、鳥人間コンテスト」
「うわー。やっぱバカにしてるじゃないすか」
ふたりの笑い声が、小さく重なった。カップの縁から立ちのぼる湯気が、彼の羽根の先をやわらかく照らしている。この穏やかな空気が私は好きだった。心から安心できて、どこか懐かしくて、まるで昔どこかで同じ時間を過ごしていたような気さえした。
きっと私の中にはまだ怖さが残っている。それでも今なら、そのことを彼に打ち明けられる気がした。
「——あの、」
「うん?」
「私まだ全部は吹っ切れたわけじゃないんです」
「うん、わかってますよ」
彼は穏やかに答えた。その優しい言葉と声音に凝り固まった胸の奥が少しだけ緩む。
「でもね、あなたと過ごしてる時間は、ちゃんと��今�≠ネんです。ちゃんと、進んでる」
その言葉を聞いて、彼は何も言わずに頷いた。そうして、そっと私の手の甲に指を重ねた。その仕草が、あまりにも優しくて、泣きたくなるほどだった。
それからの私たちは、駅で待ち合わせをしたりコンビニのスイーツを一緒に食べたり屋上で空を見上げて「今日は飛べそう?」と尋ねたりした。彼は決まって「ぼちぼちですかねー」と笑いながら答える。特別なことは何もない。でも、それが嬉しかった。彼のことを少しずつ知っていくことが、もう一度、自分自身を知り直すことでもあるような気がしていた。
好きという感情はきっとこうして育っていくのだと思う。一緒に笑って一緒に沈黙して、一緒に心を重ねながら、少しずつ。だから私は今日も、彼のとなりにいる。風が吹いても、夜が来ても、その手を離さずに、歩いていこうと思う。
*
「ちょっと、寝てもいいです?」
そう言ったときの彼の声は珍しく弱々しく感じた。啓悟さんは、私の部屋のソファに腰を沈めたまま、手の甲で額を覆うようにして上体を斜めに倒した。
「もちろん。すごく、疲れてますもんね」
私がそう答えると彼はふっと目を閉じた。午後三時。窓の外では洗濯物が風に揺れ、カーテンが緩やかに波打っている。インターホンが鳴るわけでもなく、電話も鳴らない。休日の、静かな時間だった。
彼がこうして私の部屋に来るようになってまだ日が浅い。けれど彼のオフの顔を見られることがどこか特別なことのように感じていた。
「昼寝なんてしたの何日ぶりやろ……」
数分後、そう呟く彼の声は、どこか遠くて。
まるで、自分自身に話しかけるみたいだった。
ヒーローとしての彼はいつも軽やかで、どこか完璧な無責任さを演じていた。けれど今ソファに横たわる彼は羽根を背中にしまい込み、ただ少し疲れた青年にしか見えなかった。私の隣にいるというだけでどこか安心したような顔をして寝息のひとつも立てないまま、瞼を閉じている。
この人はどこまでを誰かのために捧げて生きてきたんだろう。そう思った。ずっと、期待に応え続けて、愛される前に信頼される存在であろうとしてでもそのぶん誰かに裸の自分として見られることには慣れていないような。
私はそっと彼の髪に指を滑らせた。彼はまぶたを動かすでもなくただ微かに息を吸った。甘えているようで甘えきれていない。弱音を吐きかけてすぐ飲み込んでしまう。その不器用な距離感が、なんだか胸を締めつけた。気づけば私は思わず、
声に出していた。
「啓悟さん」
彼のまつ毛がふるえた。��ホークス�≠ナはなく裸のままの彼を呼ぶための名前。それは彼が私にだけ許した呼び方でもあった。
「なにか不安なことがあるなら、言ってほしい。私、ちゃんと、聞きますから」
すると彼はゆっくりと目を開けた。どこかぼんやりした、でも、まっすぐな目で私を見て、少し口元をゆるめた。
「……そっか。うん。そっ、か……」
それだけを繰り返して、彼は再び目を閉じた。たぶん、本当は言葉にしようとしていた。でも、いまはまだうまく言えなかったのだと思う。それでもその『そっか』の響きが、なぜか泣きそうなほど嬉しかった。私はただ、彼のそばにいたい。ヒーローじゃない、恋人とか、そういう言葉でもなく。ただ彼が自分でいられる場所でありたいと思った。
疲れたときは、ここに戻ってくればいい。そう言えるくらい私は彼を知っていきたい。この手の温度で彼の心の隙間ごと、抱きしめられるようになりたいと願った。それを言葉にするのは不器用でも、きっと、沈黙と仕草が語ってくれるときもあるだろう。そして私はその静かなSOSを確かに受け止めようとしていた。
*
その日は、本当に、ただの平日だった。仕事を終えてスーパーで夕飯の食材を買ってエコバッグの中でネギが少し顔を出しているのを見ながら、「ああ、今日もよく働いた」と、独り言のように呟いた。
帰宅をして部屋着に着替え、洗濯機をまわしてテレビをつけることも忘れたままで、ぼんやりとソファに腰を沈めていた。時計の針の音だけが、静かに部屋を回っている。窓の外では遠くで電車の音が通り過ぎた。ほんとうに、なんでもない日だった。そんな平凡な一日を一瞬で変えたのは、不意に震えたスマホに届いた、たった一通のメッセージだった。

いま近くにいます。
ちょっとだけ顔
見に行っていい?
短い文章。でも、それを読んだ瞬間、胸の奥がふっとゆるんだ。彼がこうして理由もなく、会いたいと伝えてくることは珍しかった。私は迷わず『いいよ』とだけ返して、玄関のロックを外して彼を待った。すると、15分もしないうちに、彼は来た。
「ただいまー、って感じでもないか」
苦笑まじりのその言葉に、私は「おかえりでもいいですよ」と返した。彼は、その私の返しにはとくに何も言わずリビングのソファに座り、少し背を丸めた。羽根は、いつもよりしぼんでいて、かと言って、外にいるときのような、張り詰めた空気もなかった。
「あぁー……今日、なんか、ダメ」
ぽつりと落とされたその言葉に私はキッチンでコーヒーを淹れながらちらりと彼に目を向けた。
「うまくやってるはずなのに、ふと、俺、なんでこんなに頑張ってんのかなーって思っちゃって」
「……」
「助けてるのに、どっかで誰かに見られてる前提みたいな?」
「……」
「そんなんで、ヒーローって言えるのかなって」
私は驚いていた。彼がそんなことを言葉にするとは思っていなかったから。ずっと彼は見せない側の人だった。心のなかをひとに見せることを、どこかで避けていた。でも今夜の彼はそれを隠すこともできずに、ここに来た。それがたまらなく嬉しかった。
「……いいじゃないですか、そう思ったって」
淹れたてのコーヒーを運びながら言った、その私の言葉に、彼はまぶたを伏せた。
「ヒーローだからって、ぜんぶ立派なこと考えてないとダメってわけじゃない」
「……」
「ちゃんと迷って、ちゃんと悩んでるほうが人を救えるんだと、私は思います」
「ほんと……ずるいですよね」
「え?」
「そうやって俺の気にしてほしいところを的確に突いてくる」
私は思わず笑ってしまった。彼の声が少しだけ甘えているように聞こえたから。
「ホークス、疲れてるんですね」
そう言いながら、私はそっと彼の髪を撫でた。彼の身体と剛翼がわずかに揺れる。
「……この手、落ち着くんですよね」
「だったらたまには頼ってください。私はずっとここにいますから」
「……ほんと、そういうの……反則なんすよ」
彼の声が、少し震えていた。その横顔はどこか子どものように見えた。
私は思った。守られてばかりだと思っていた。でもこの人は誰かに抱きしめられることに慣れていないだけなんだろうなって。私は彼の背に腕をまわし、そっと肩に額を預けた。
「守ってもらうだけじゃなくて、私も、あなたを守りたいです」
その言葉が、彼の羽根の奥まで届いてくれたらいい。今夜、私ははじめて、この人を守りたいと思った。ヒーローじゃなくて、鷹見啓悟としての彼を——。
*
その日はホークスが任務帰りにうちへ立ち寄ることになっていた。私が仕事から帰る頃にはすっかり日が暮れていて、風が少し肌寒い夜だった。
「今日はそこまで飛んでないんですけど、あぁ〜なんか疲れたー」
「もう、毎回それ言ってるよね」
「言うのがルーティンなんですよ」
そう言って笑う彼の髪が少し乱れていて、私はタオルを持ってきてそれを整えながら「シャワーいる?」と尋ねた。「うーん……借ります」と、少し間を置いて言ったその顔は、どこか、照れたような色をしていた。熱めのシャワーのあと彼に私の大きめのフード付きパーカーを貸してなぜかクローゼットにしまってあったオーバーサイズのゆるいスウェットを履かせた。着痩せするらしい大きな身体にやはりやや窮屈そうな袖が妙にかわいらしくて、私はつい笑ってしまった。
「ふふっ、なにそれ」
「え、服?かわいいでしょ?彼シャツならぬ彼女パーカーですよ」
「え、いつから彼女になったの……?」
「え? 俺、そんなこと言いました?」
「もう、鳥頭め」
「ははっ。鳥頭っす」
そんなふうに他愛ないやりとりをしてテレビをつけたままソファに並んで座った。あいだにクッションを一つ。触れそうで触れない距離。静かで心地よい沈黙。ときどき番組に笑って、彼が飲みかけのお茶を差し出してきて、それを自然に一口もらって。そんな、なにも起こらない夜だった。でも——。
「……そっち、寄っていいです?」
不意にそう言った彼の声に、私は少し驚いた。振り向くと、彼はそのままクッションをどけて、ゆっくり私の隣に座り直した。肩先が、ほんのり触れる。その距離に空気が微かに変わった。私は声を出さなかった。何も言わず、ただそのままでいた。しばらくして彼がそっと私の手を取った。
「手、つなぐのって、なんか落ち着きますよね」
その呟きは、誰に向けたものでもなく、たぶん彼自身への確認のようなものだった。私は繋いだ指を少しだけきゅっと握った。そして「うん」とだけ返す。彼は、ふうと小さく息を吐いた。それは安堵のため息だった。
「友達以上恋人未満っぽいことしてみたいなってずっと思ってて」
「……」
「なんか、どのタイミングで言えばいいかわかんなくて」
その言葉に緊張感が緩んで、私は思わず笑ってしまった。
「べつに、タイミングなんて、いらないと思う」
「ほんと?じゃあ……こういうのもしていい?」
そう言って彼は私の髪にそっと手を添え、額にやわらかく唇をあてた。キスというより触れるという言葉のほうがふさわしい。口づけよりも甘い慈悲深い愛情が静かに、そして、確かにそこには存在していた。
「……大切にしますね。」
その声は、とても小さくて。でも耳元でそっと落ちたそのひと言は胸の奥でふわりと灯りのように揺れていた。
私は彼の肩にそっと頭をあずける。手は、まだ繋いだまま。言葉よりもその温度がすべてを伝えてくれる気がした。日常の中にある、ささやかな時間。劇的な何かが起きたわけじゃない。ただ、互いの存在が少しずつ輪郭を持ちはじめて、ゆっくりと名前のない関係が、ふたりだけのかたちになっていく。
急がなくてもいい。今はただそばにいることを大切にできればいい。きっとこれから少しずつ、愛になっていく。そうやって、愛は育っていくのだと思っていた。
*
退院してから気づけばすでに、三ヶ月が過ぎていた。窓辺に光が射し込み、ようやく日常というものが輪郭を取り戻し始めていた頃。私は近くの公園まで歩くことを日課にしていた。まだ階段の昇り降りは苦手な日もある。けれど、それでも、生きているという実感があった。
そんなある日の午後。通院帰りにマンションの管理会社へ寄った。家賃の振込口座を確認しようと思っただけだった。長い入院生活で、支払いが滞っているかもしれないと気になっていたのだ。
「すみません、確認していただきたいことがありまして——」
受付で名義とマンション名を告げると、女性の担当者がパソコンを操作して、ふと首を傾げた。
「えっと……あれ?すでに半年分、お支払い済みですよ?」
私は一瞬、何を言われているのかわからなかった。「いえ、そんなはずは……」と苦笑しながら念のため通帳を見せる。しかし自分の口座からの振込履歴はない。
「部屋の番号あってますか?見間違いとか……」
「いえ、間違いではないですね。えっと……こちら、ああ。直接現金で持ってこられたようです」
「え? 現金で……?」
私の背筋を、冷たいものがすっと通り抜けた。半年分——。受付の人が伝えてきた支払い時期はちょうど私が事故で意識を失っていた時期とほとんど重なる。つまり誰かが代わりに払っていたということになる。
「あの……その方のお名前、わかりますか?」
私のその問いに受付の担当者は申し訳なさそうに眉を寄せた。私は思わず生唾を飲む。
「えっと……すみません、領収書には代理支払としか」
「……」
「確か、男性の方だったかと存じます。お若い方で髪の色が、明るめだったような……」
「え?」
「あっ、いえ、申し訳ございません。記憶が曖昧でして、もしかしたら勘違いかもしれません」
——若い男性で明るい髪。その単語だけが胸の奥に沈んだ水面を、かすかに揺らした。私の知り合いで、そんな容姿をした人といえば……。
「あ、あの。髪の色……黄色っぽかったですか」
「え?」
「髪の毛の色——金髪、でしたか……?」
「あ……いえ、光の加減で、そう見えただけかもしれませんので」
担当者は慌てて手を振った。それ以上は聞けなかった。けれど、その言葉は、やわらかな痛みとなって胸に残った。まるで、心臓の奥の空白が、少しだけ疼いたように。
帰り道。マンションのエントランスの前で私はふと立ち止まった。午後の陽射しがガラスに反射して、そのなかに映る自分の姿をぼんやりと見つめる。
このマンションの空気は、いつも少し温かい。夜になると、なぜだか人の気配がするような気がする。ソファの隅に置いたクッションも、並んだ食器もどこか未だに二人分に見える瞬間がある。この部屋で、私は本当に、ずっとひとりだったのだろうか。やはり、誰かと暮らしていたのだろうか。誰かって、誰だろう。思い出せないでいる、誰かなのだろうか。
そんなことを考えながらカードキーをかざして玄関の扉を開けた。ふっと風が通り抜け、カーテンがわずかに揺れる。そのときだった。リビングの床に細くて赤い羽根が一枚、落ちていた。私は思わず息をのんだ。それはどこか懐かしいようなでも、触れてはいけないもののようだった。胸の奥がざわめいて足が動かない。拾い上げることもできず、ただその場に立ち尽くした。
記憶の中にはいない誰かが、確かにこの部屋を知っている。たとえば、新品の歯ブラシ。あれは
どう見ても、男性のものだ。たとえば、お風呂の温度設定。私には少し熱すぎるくらいだ。事故で亡くした相手の痕跡だと、そう思おうとするたび胸の奥に違和感が生まれる。そしてその違和感の正体だけが、どうしても思い出せなかった。
*
それは、ふとした雑談のつもりだった。まさかその一言が、胸の奥に沈めていた違和感を、掘り返すことになるなんて思いもしなかった。
午後のカフェ。窓際の席。陽射しを背に、彼、ホークスはいつものようにコップの淵を、指先でくるくると回していた。風が通り抜けるたびに、赤い羽根が光を反射して揺れる。その、音のない揺らめきがなぜか今日は少し落ち着かなかった。
「——そういえば、ちょっと変なことがあったんですよね」
思い出したように私は口にした。彼は「ん?」とだけ言って、薄く笑う。その反応が妙に自然で逆に、先を続けやすかった。
「マンションの管理会社に行ったら、家賃、もう半年分は払ってあるって言われて」
「……へえ」
「しかも現金で、代理支払って。私、誰からも、そんな連絡もらってないのに」
彼は一瞬だけまばたきをした。けれど、すぐにいつもの調子に戻って飄々と言った。
「んー、彼氏さんとかじゃないです?ほら、あの事故の前に一緒に住んでたとか」
「それは私も何度も思って。でも、どうしても、同棲してたとは思えないっていうか」
「どうして?」
「だって、相手の荷物が無さすぎます。中途半端っていうか、なんていうか」
私は言葉を選びながら、グラスを口に運んだ。ホークスの言葉はいつも軽い。けれどその軽さの中にわずかな探りがある気がしてならなかった。あれほど自然に笑っているのに、どこか目の奥が沈んでいる。まるでこちらの心の動きを確かめているようなそんな視線だった。彼がどんな意図でその言葉を投げたのか確かめるのが怖い。しかし私は次の瞬間、ある疑問にたどり着いた。
「えっ、ちょっと待って」
「はい?」
「私、あの事故で亡くしたのが彼氏だって、言いましたっけ?大切なひととは、言ったけど……」
「え?あ、いや、なんとなく……大切なひとって、王道はほら、彼氏とか彼女なのかな、って」
彼は軽く肩をすくめ、ストローを噛んだ。その何気ない仕草が、ほんの少しだけ、わざとらしく見えた。なんでもない会話なのに彼の声の調子がわずかに変わったのを、私は聞き逃さなかった。ほんの少しだけ間を置いて、呼吸を整えるように目を伏せたその仕草がなぜだか妙に苦しげに見えたのだ。その理由も、言葉の裏に隠れた温度も、わかりそうでわからない。でも、何か知っている気がした。この人のこういう��間�≠�、私は過去にも、見たことがあるような気がしたから。
「もしかしたら、入院中に誰かが気を利かせたのかもしれませんよー?」
「……そんなこと、ある?」
「ないとは言い切れんでしょ。ほらぁ、友達とか気の優しいヒーローとか」
「……」
「意外と世の中、親切な人多いですしねー」
「……そう、ですかね。」
彼は曖昧に笑って頷いたけれどやはり胸の奥に引っかかるものがあった。私は、あの部屋を思い出してみた。あの広すぎるリビング。二人分はありそうなソファ。キッチンの棚に無駄に多い食器類。それに、あんなに高い家賃、私ひとりの給料で本当に払えるだろうか。改めてその疑問が生まれた瞬間、グラスの中のアイスコーヒーが、やけに苦く感じられた。
「どうして、あのマンションを選んだんだろう」
独り言のようにこぼすと彼はストローを止め、ほんの一拍遅れて答えた。
「気に入ったんじゃないです? 景色がいいし、空が近いから」
「……空、」
「うん。俺も好きですよー。高いところ」
「……」
「鳥人間なんで♪」
そう言って笑ったとき、私は初めて、この人の笑顔が怖いと思った。心のどこかで確かに知っている。この声も、この間の取り方も。けれど思い出そうとすると、記憶の奥で何かが拒んだ。
ホークス——。この人は、本当にあの病室で、初めて会ったヒーローなのだろうか。
窓の外では、風が街路樹を揺らしていた。その中を、一枚の何かの羽根が、ふっと宙に舞った。まるで、何か重要なことを隠すように。あるいは何かを、思い出させようとするように。
グラスの底で、残った氷が音を立てた。店内の空調の風が、微かに彼の金の髪を揺らす。その光のゆらぎを眺めている内に言葉がこぼれていた。
「……あなたと以前、どこかで会いましたか?」
自分でも驚くほど自然に出た声だった。けれどそれを口にした瞬間、心臓が小さく跳ねた。胸の奥で誰かの名前を思い出そうとして何かがざらりと軋んだ。彼は、ほんの一瞬だけ動きを止めた。グラスを置く仕草が遅れそのまま指先を軽く組み直す。その彼の瞳が、琥珀の色を深めていた。
「うーん……どうでしょうね。まあ、センターで働いてるなら会ったことがあっても、変じゃないですけど」
「……そう、だけど」
「でも、こうして覚えてもらえるような顔なら、嬉しいですけどね」
いつもの調子だ。けれど、その笑顔の裏側に、ほんのかすかな痛みが滲んだ気がした。彼の声は軽く、でもその軽さがどこか無理をしているようで、私は、なぜだか胸が締めつけられた。
「もしかして私たち、もともとこうして会ったりするほど……仲が良かったんでしょうか」
今度は、ほとんど囁くようにつぶやく。自分の言葉に、自分で戸惑っていた。なぜそんなことを訊いたのかわからない。でも、理由はなかった。しかし、彼と向かい合っていると、どうしても、そんな気がしてしまうのだ。ホークスは一瞬だけ目を伏せて、それから、ゆっくりと笑った。
「そうだったらいいですねぇ。でも俺、けっこうフレンドリーなんで」
「……で、しょうね」
「うん。誰とでも、こうして話してたいんです」
「……」
「あなたみたいに、話してて落ち着く人となら、なおさら」
やさしい声。けれどその『なおさら』の響きがどこか遠かった。彼が笑えば笑うほど、その奥にある静かな悲しみが、肌で伝わってくるようだった。気づけば外の風が強くなっていた。窓の外、舞い上がった枯葉が空をなぞる。そのなかに赤い羽根が一枚まぎれていた気がした。私は、言葉を失って、それを追うように目を細めた。すると、ホークスも同じ方を見ていた。けれど彼は、気づかないふりをしたまま、穏やかに笑っていた。
たぶん、彼も思い出している。でもそれを口にしてしまえば、すべてが壊れてしまうことを彼は誰よりも分かっているのだ。
店を出ると、夕暮れの風が冷たく頬を撫でた。空は薄紫に染まり街灯がひとつ、またひとつ灯りはじめていた。ホークスは両手をポケットに突っ込んで、ゆっくりと歩いていた。羽根の先が風を受けてわずかに震えている。私はその背中を見つめながら、なぜだか自然と口を開いていた。
「……プリンは、好きですか」
彼の足が、ほんの一瞬だけ止まった。風の音が遠のいて時間が静かに滲んでいく。ややあって、彼はゆっくりと、こちらを振り向いた。
「……え?」
その反応に、自分でもおかしくなって、笑ってしまった。そんな私を見て彼は、訝しげな表情を浮かべている。
「いえ、ごめんなさい。変なこと言いましたね。実は、冷蔵庫に賞味期限切れのプリンがたくさん入ってて」
「……」
「誰か来たときに出そうと思ってたのかどうしてあんなに買ったのかも覚えてなくて」
「……」
「ホークスはプリン好きかなって、なんとなく」
ホークスは何も言わなかった。けれどわずかに目を伏せた横顔が痛いほど静かだった。その沈黙が、まるで答えそのもののように見えた。
「……プリンは、好かんけん。」
やがて彼は、そう言って苦く笑った。その声は柔らかく、でもどこか遠くを見ているような響きだった。
「あっ、そうなんだ……なんか、意外です」
「まあ、甘すぎるのはどうも、得意じゃなくて」
「……そう、ですか」
それ以上会話は続かなかった。並んで歩く距離のあいだに言葉では届かない何かが確かに漂っていた。ホークスの足取りはいつもよりも少し重く風が吹くたびに背中の羽根が揺れていた。
知らなかったな。彼がプリンを苦手だなんて。紅茶にもコーヒーにもミルクは必ずふたつ入れるのに。でも、だからと言って、必ずしも甘党とは限らないかと自分で自分に結論づける。しかし、それなのに胸の奥のどこかが、少しだけ痛んだ。まるで、その言葉の裏に、別の約束が眠っているようで。
私は、彼の背中を見送りながら、そっと静かに呟いた。
「ホークス……また、会えますか」
彼は振り向かずに片手をひらりと挙げ風のなかへと歩いていった。夕陽の色が、彼の剛翼の端を金色に染めていた。その光が消えるまで私は立ち尽くしていた。
胸の奥ではなぜだか、甘い匂いがした。まるで冷蔵庫の奥に残された、あの、プリンのように。