帰り道、風がやけに冷たかった。昼間の陽気が嘘みたいに夜の空気は澄みすぎていて、胸の奥のどこかを突き刺すように痛かった。


 『プリンは、好きですか——』


 彼女の声が頭の中で何度も反響していた。どうしてわざわざそんな事を訊いたのかわからない。けれどあの瞬間、呼吸が止まった。俺はちゃんと笑えていただろうか。いつもの調子で軽く流せていただろうか。
 ……わからない。あの言葉を聞いたとき、胸の奥にしまい込んだ過去の引き出しが、音を立てて開いた。あの日、ふざけ半分で決めた約束。


  『喧嘩のあとは、プリンで仲直りする』


 そんな他愛もないルールを作って、笑い合っていた。馬鹿みたいにくだらなくて、でも死ぬほど幸せだった。俺が買ってきたプリンをスプーンで一口食べて、顔を見合わせて笑うだけでなんでも許せる気がしていた。だから今日、逆の言葉が、まるで自分の口からじゃないみたいに出てきた。
 本当は好きなんですよ。あなたと一緒に食べるプリンが。あなたが笑うその時間が。でもそれを教えてしまったら、伝えてしまったら全部壊れてしまう気がしたから。��今�≠フ彼女に存在しない俺という��過去�≠�混ぜたくなかった。俺が存在しないことになっている世界で彼女が笑っていられるなら、それでいいって、そう思っていた。
 だけど。今日あの言葉を聞いてしまった瞬間にその決意がぐらりと揺れた。どうして、無邪気にプリンが好きかなんて聞けるんだろうって。どうしてそんなに俺を、惑わせるんだろうって。
 背中の剛翼が勝手に震えた。彼女の笑顔を見ていると、何も、守れなくなりそうになる。

 プリンなんて甘すぎる食べ物で舌の上でとけて喉に残って飲み込んでも胸の奥でずっとまとわりつく。まるで、彼女の声みたいだ。
 嫌いだと言ったのは嘘じゃない。本当に、今は嫌いになった。彼女の中で俺が死んでから、甘いものは、全部苦く感じるようになった。なのに、彼女が笑っていると、また食べたくなる。きっと俺はずっとこの味のまま、彼女の知らない世界で同じ風を吸って生きていくんだろう。

 夜が静かすぎて風がやけにやさしかった。ベランダの手すりに腰をかけ、見上げた空に流れ星がひとつ、流れていった。
 これは、喧嘩っていうのかな。俺を忘れちゃう喧嘩ってなに。一緒にプリンを食べたら、彼女の個性事故が解けたりしないだろうか——なんて。
 ただもう一度だけ、あなたと同じ味を分け合えたらいいのに。


 その夜、久しぶりに深く眠った。静かな雨音が窓を打つ音を聞きながら、まぶたの裏に、やわらかな光が浮かんでいた。夢のなかで、私は小さなテーブルの前に座っていた。白いカーテンが風に揺れて、どこからか金色の羽根のような光が舞い込んでくる。
 窓の向こうは夕暮れで空が蜜のようにとろけていた。テーブルの上には二つのプリン。カラメルが透けて表面が少しだけひび割れている。どちらもほんのりと温かかった。

『……また、喧嘩しちゃいましたねー』

 誰かの声がした。男の人の声。懐かしいのに、思い出せない声。その音の響きだけで、胸が熱くなる。

『第六条! ほらほら、仲直りのプリンですよ』

 視界の端に、誰かの手が映った。太くて、ごつごつしていて温かそうな指。金色にも似た羽根が袖口に触れた気がした。

『どうしてプリンにしちゃったんだろ。ゼリーのほうが種類が豊富で、喧嘩しても飽きないのに』
『なんすか、その適当な理由』
『適当じゃないよ。私たち喧嘩が絶えないから、そろそろプリンの味に飽きてきたの』
『ゼリーは甘くない! 甘いほうが、早く許してもらえそうじゃないですー?』
『なにそれ。そっちこそ適当じゃん』

 笑い声がする。ああ、この笑い方、どこかで。私はスプーンを持ち上げて、震える手でプリンをひとすくい口に運んだ。柔らかくて少し苦くて、そして泣きたくなるほどやさしい味がした。涙がこぼれた。夢の中で泣いているのに、笑っているのが自分でもわかった。
 どうして、こんなに懐かしいの。あなたは——誰なの。名を呼ぼうとして、喉が詰まった。唇の形だけが、微かに震えた。

「……、——くん。」

 その瞬間、光が弾けた。風が吹き抜け、羽根が舞い、夢はそこで途切れた。
 気づけば朝だった。枕が少し濡れていた。目を覚ましても、胸の奥で甘い香りが消えなかった。キッチンへ行くと冷蔵庫の奥に、賞味期限切れのプリンがひとつ残っていた。カップのふたを指でなぞる。なぜだかそれだけ、捨てられなかった。ただ蓋を閉じたまま、もう一度冷蔵庫へ戻した。

 誰かと食べた気がする。笑いながら、同じスプーンで分け合って。きっとあの夢はただの夢じゃない。私の知らない��幸せの記憶�≠フ一部。まだ名前のない誰かが、確かにそこにいた気がした。


 *


 都会の夜はやけに風が重かった。摩天楼の明かりが濁った雲に滲み、どれだけ高く飛んでも視界の果てに光の底が見えない。
 ある施設の、地下フロア。コンクリートの灰色の部屋に、俺は立っていた。

「……で、進展は?」

 机の端に手をつき目を細める。そこに座る塚内さんは眉間に皺を寄せたまま、無言で広げていた資料を閉じた。

「まだ口を割らないよ。尋問を続けているが個性の解除条件だけ、明確に語ろうとしない」
「もう三ヶ月ですよ」
「最愛の人間の記憶を封じる、なんて異常な個性だからね。拘束しても、心因的なトリガーを探るには時間がかかるよ」

 ホログラムに映るのは、拘束具に縛られたヴィランの影。細い体。空ろな瞳。まるで生きることにも疲れた人間のように、ただ息をしていた。

「ねえ、塚内さん」
「ん?」
「仮に解除条件がわかったとして、それで彼女が全部を思い出したら、俺はどうすればいいんですかね」

 塚内さんは答えなかった。ただ低く息を吐いて席を立った。

「それを決めるのは君じゃないんじゃない?」

 短く、それだけ。けれどその言葉がやけに胸に突き刺さった。俺は小さく頷き無言のまま部屋を出た。夜風が冷たい。羽根のあいだを抜けていく風がやけに痛い。そのまま空を滑るように飛んで気づけばあるヒーロー事務所の屋上にいた。青いネオンの灯り。ビルの谷間から立ち上る、都会の風の匂い。彼女が住んでいた、街の匂いだ。

「……来ると思っていたよ」

 声をかけられて振り向くと、ジーニストさんが凛とした姿で立っていた。そのまま歩いてきて、俺と少し距離を取るように並んで、彼は手すりにもたれかかった。淡い光がジーニストさんに髪に反射して、その顔が夜に溶けていた。

「例の件でわざわざ飛んできたというわけか」
「ええ。……まだ、進展なしみたいです」
「そうか、それは苦しいな。」

 ジーニストさんは短く相槌を打ち缶コーヒーに品よく口をつける。缶に反射した光が、一瞬だけ風に流れる。

「彼女のことは、聞いているよ」
「……はい」
「無理をしているのでは」
「してませんよ」

 呆れるくらいの大嘘だった。自分でも、笑ってしまうほどに、声が震えていた。

「……助けられなかった」

 そう呟いて項垂れた羽根を横目に見下ろす。いくつも折れ、まだ完全には戻らない。それでもヒーローでいることを選んだのは彼女をもう一度守るためだった。

「彼女の目の前で初対面のフリをするたびに俺の中の何かが壊れていくんですよ」
「……だろうな」
「でも、それでも彼女のそばにいないと、もっと壊れそうで」

 ジーニストさんはしばらく黙っていた。やがて静かに口を開いた。

「ホークス、君は、守ることに慣れすぎている」
「……」
「本当に大切な人というのは守るのではなく隣に立つものではないかと」

 その言葉が、風よりも深く胸に落ちた。ジーニストさんはこちらを振り返らずに言葉を続ける。

「彼女の記憶が戻らなくても君たちが愛し合っていた事実は消えない」

 俺はしばらく何も言えなかった。視界の端で、夜の灯が滲んで見えた。

「ジーニストさん、俺……もう少しだけ、彼女の隣にいても、いいと思います?」
「……否定しても、どうせいるのだろう」

 その声はいつもより少しだけ優しかった。風が吹き抜け、ネオンが滲んだ。俺は空を見上げた。彼女が見上げていた同じ夜空を。剛翼のひとつが静かに夜気を切って舞い落ちた。それは、誰にも届かない祈りのかたちをしていた。


 *


 片づけをしようと思ったのは、ただの気まぐれだった。長く使っていない棚を整理すれば、この部屋にも��今の私�≠フ生活が、馴染んでくる気がしたからだ。午後の光がカーテン越しに差し込み部屋の空気をやわらかく照らしている。
 洗剤の香りに、埃を払う音。どれも、穏やかな午後の静けさに溶けていた。けれど、その平穏はクローゼットの奥に潜んでいたひとつの箱がきっかけで、不意に壊れた。段ボール。見覚えのない
もの。引っ越したときに入れた覚えはない。封も古びてはいない。まるで最近まで誰かが手入れをしていたようなきれいさだった。
 嫌な予感がして、不意に手を止める。胸の奥がざわついた。箱のガムテープを剥がすと、中から黒い布のようなものが見えた。それは、ヒーロースーツの、アンダースーツだった。艶のある黒。襟の裏に縫い込まれた、アルファベットのような文字。表向きのコスチュームよりも肌に近く動きやすさと耐衝撃性を兼ね備えた、あの素材。

「……え?」

 思わず息を呑む。タグには見覚えのあるロゴがあった。そしてその隅に小さなステッチでWHの文字。WH……WとH。WING HERO HAWKS。
——ホークス。 えっ……うそ、ホークス?
 彼をこの部屋に呼んだことはあった。退院してからも、何度か来てくれた。けれどこんなものを置いていく理由なんて、あるのだろうか。しかも丁寧にクリーニングされた状態で畳まれている。まるで、以前から保管されていたみたいにして。
 じゃあ、誰が?どうして?なぜ、この部屋に?手に取ると、わずかに指先が震えた。布の感触が懐かしい気がした。触れたとき、かすかに洗剤の匂いと、その奥にもうひとつ、知っているはずの香りが混ざっていた。風の、匂い?空気に溶ける甘い残り香。でもどうしてこの匂いを懐かしいと思うのだろう。
 心臓が静かに脈打つ。記憶というよりも感覚の奥底で、何かが疼いた。
 彼の声。彼の笑い方。そして、彼の手の感触。それらが形を持たないまま、胸の中で絡み合っていく。私は、アンダースーツを手にしたまましばらく動けなかった。夕陽が部屋を満たしていく。黒い布がその光を吸い込み、ゆっくりと赤く染まっていく。まるでその中に、誰かの生きた時間が封じられているように。

「………。」

 ——ホークス。どうしてあなたのものがここにあるの?答えは、どこにもなかった。けれど胸の奥で確かに何かが目を覚ましはじめていた。私はゆっくりと立ち上がり、もう一度クローゼットの奥を覗きこんだ。そこには空のハンガーが無造作にいくつかかけられている。まるで誰かが急いで出て行ったような痕跡を残して。


 数日後の夕方。カーテンの隙間から金色の光が部屋を満たしていた。
 この日はいつもより少し早い時間にホークスが来た。彼は手に紙袋を提げていつものように軽く笑った。

「お邪魔しまーす。今日はちゃんと手土産、持ってきましたよ〜」
「へえ、珍しい」
「いやぁ、こないだ、プリン事件あったじゃないですか。好かんって言いましたけど、なんか食べたくなっちゃって」
「……」
「だから、はい。リベンジです」

 彼はそう言って、紙袋を差し出した。中には、上等な、洋菓子店のプリンが入っていた。瞬間、胸の奥が小さく波打つ。けれど、私は何も言わなかった。ホークスは、いつも通り、手洗いうがいをしてからソファに腰を下ろし冗談を交えて他愛もない話を始めた。街で見かけた猫の話。ヴィラン退治でブーツを壊した話。聞いているとなぜだか安心する。けれど今日は、どうしても、気になることがあった。
 棚の上、折り畳んで透明の袋に入ったままの、黒い布。例のアンダースーツがまだ片づけられず置いてあった。その存在が視界の端で光るように気配を放っていた。私は意を決して口を開いた。

「……あのさ」

 ホークスの手が止まる。スプーンを持ったままこちらを見る。

「前にもこの部屋に来たこと、ありますよね?」

 その瞬間、あきらかに空気が変わった。風の音まで遠のいた気がした。彼はすぐには答えなかった。いつものように軽く笑うでもなく、ただ一瞬瞳の奥が静かに揺れた。

「どうして、そう思うんです?」
「クローゼットからアンダースーツが出てきた。たぶん、誰かの、ヒーローの物です」
「……」
「クリーニングされたままで。私、どうしてそれがここにあるのか、わからなくて」

 ホークスは沈黙した。わずかに眉を寄せ視線をテーブルの上に落とす。その手が、テーブルの角を無意識に握りしめていた。

「へー。大切なひと、ヒーローだったんです?」「タグに——WHって書いてありました」
「……うわぁ、マジっすか。俺とおなじ」
「……」
「たぶんクリーニング屋さんが間違えて入れたんでしょうね。結構似た素材の使ってる人多くて」

 軽い声。でも、その軽さが嘘だということを、目敏くも今日だけは、わかってしまった。

「……そう。」

 しかしそれ以上何も言えなかった。彼は笑っていたけれど、瞳の奥の光がどこか遠い気がした。

「この部屋、いい匂いしますねー。前に来たときより、なんか落ち着く感じで」
「前に、来たとき……?」
「……」
「……」
「……はぁ。やめません?そうやって探り入れるような言い方」
「べつに、探りなんて……」
「このまえ来たときより、って意味ですよ」

 彼はすぐに言い直したが、その一瞬の前に来たという言葉が妙に耳の奥に残った。しかし、どうやら彼はご機嫌斜めなようなので私はとりあえず笑ってごまかした。でも胸のどこかがざわめいていた。嘘は、声より先に空気が知っている。やっぱり、彼は何かを隠している。彼の笑顔の奥に、悲しみがある。その悲しみの形を私は知っている気がした。けれど、それが何なのかまだ言葉にはできなかった。
 彼は、いったい何を隠しているの?そして私は何を忘れてしまったの?もしかして、私が失ってしまった大切だった人物とは、本当に、プロヒーローなのだろうか。窓の外では風が吹いていた。街の明かりが、羽根のように揺れている。空気が変わったのは一瞬のことだった。軽く笑って受け流す彼の声の裏に聞き慣れない隙のようなものが混ざっていた。それを感じ取った途端、胸の奥にしまい込んでいた疑問が、一気に溢れ出した。

「……ホークス、」

 彼はプリンのカップを持ったまま顔を上げる。光が彼の琥珀色の瞳に落ちて微かに揺れ動いた。

「はぐらかさないで。正直に、答えて欲しい」

 私のその声は震えていたけれど真っ直ぐだったと思う。自分でも驚くほど迷いがなかった。何を知りたいのか言葉にはならなくても彼の嘘だけはもう、見過ごせなかった。
 彼の指先がプリンのカップの縁を軽く叩いた。わずかに息を飲み、それでも表情は変えない。

「……なんの、話ですか?」
「この部屋。あなたのものが残ってた。しかも、丁寧にクリーニングまでされて」
「……やけん、それは俺のじゃ」
「どう考えても偶然じゃない!」
「……」
「ホークス、私がこの部屋に住む前から知ってたでしょう?」

 声を重ねながら、息が詰まるのが自分でも分かった。
 怖かった。彼が何を答えるのか、自分がそれを聞いてどうなってしまうのか。けれど、それでも目を逸らせなかった。彼はゆっくりとまばたきをした。その動きが、やけに静かだった。そして、短く息を吐いた。

「……何、怒ってるんです?」

 笑っていた。けれどそれは明らかに防衛の笑みだった。目の奥の焦点がずれている。どこか遠くを見ているような、そんな目だった。

「怖いですって、そんな顔されたら」

 ため息まじりに肩をすくめる。それでも笑っている。まるで何も感じていないふりをしている。そうやって、いつも逃げる。優しさの仮面の裏に自分の痛みを押し込めて。

「怒ってるわけじゃない。ただ、知りたいだけ」
「なにを?」
「私と、あなたのこと」

 ホークスの笑顔がふっと止まった。時間が凍るような沈黙。外の風の音が遠くでひとつ鳴った。

「……そんなの、実際あるんですかね」

 低い声。その言葉に、ほんの一瞬だけ悲しみの色が滲んだ。私は言葉を失った。彼の瞳がまるで泣いているように見えたから。それでも彼は笑っていた。自分の中の何かを、守るようにして。

「ねぇ、ホークス」
「はい? なんです?」
「あなたって、嘘をつくのが上手ですね」

 彼は、一瞬だけ言葉を失い、次の瞬間、ほんの少しだけ目を細めて笑った。

「仕事なんで」

 その笑みが痛いほどやさしかった。しかしその言葉が落ちたあと部屋の中はしんと静まり返っていた。時計の針の音さえ、やけに遠くに感じる。風も止まって、まるで、世界が呼吸を止めたようだった。私はテーブルの上に置かれた彼のカップを見つめながら、喉の奥が乾くのを感じた。それでも言わなければ、なにも始まらないと思った。

「……啓悟さん、」

 呼ぶと彼はゆっくり顔を上げた。いつもの軽い笑みはなかった。ただ、どこか、遠くの音を聞くように、静かに目を細めていた。

「私と同じように、あなたには——愛する人が、いましたか」

 その言葉が空気を震わせた。たった一行の質問なのに、部屋の中の光がすべて沈んでいくような気がした。
 彼は、答えなかった。その沈黙が何よりも雄弁だった。呼吸の間で彼の羽根がわずかに揺れる。彼の瞳の奥で何かが崩れ落ちる音がして、やがて彼はソファから背を静かに引いた。そのまま立ち上がり、私とは視線を合わせないまま、玄関へと歩き出した。

「待って!」

 思わず声を上げた。彼の足が一瞬止まり、けれども振り返らなかった。

「そんなもの抱えてたら、うまく飛べませんよ」

 低く、冷たい声だった。その一言が刃のように胸を裂いた。私は動けなかった。彼が玄関のドアに手をかける音が、やけに鮮明に響いた。
 ——行かないで。そう叫びたかったのに声にはならず、それよりも先に涙が零れた。

「……ホー、クス」

 自分でも驚くほど、震えた声が出た。気づけば私は玄関まで彼を追って、彼の背中に問いかけていた。

「——歯ブラシは、硬めが好みですか?」
「……」
「お風呂は……熱めの、42度?」
「……」
「どうして、ここの住所を知ってたの?あまりに自然で、私も気づかなかったけど……」
「……」
「わたし、あなたに住所……教えた記憶がない」

 言葉がひとつ落ちるたびに喉が詰まった。声が震える。途端に泣きじゃくりたい精神に駆られ、胸の奥から何かがせり上がってくる。
 どうしてそんなことを訊いているのか自分でもわからなかった。けれどそのすべてが彼と生きた日常の欠片だった。彼は、玄関の扉に手を添えたまま、ぴくりとも動こうとしない。

「……プリンは、ほんとうに、嫌い、ですか?」
「……、」
「ねえ、ホークス。第六条って——なに、?」

 肩が小さく震えた。そして、次の瞬間——勢いよく彼が振り返った。そのまま距離を詰めてきて目の奥に宿る光があまりにも痛いほど真っ直ぐで猛禽類を連想させる、獲物を捕らえるような鋭い眼光を向けられ私はその場から動けなくなった。

「——っ!」

 気づいたときには、私は、彼の腕の中にいた。強く、息が詰まるほどに抱きしめられた。羽根が背中を包み、世界が音を失った。鼓動が重なって境界がなくなっていく。
 何も言わず、彼は、しばらくそのままだった。
震えているのは彼か、私か。どちらの涙なのかも分からなかった。やがて、ホークスはそっと腕を緩め、まるで何かを断ち切るように私を離した。

「俺…………すみません——。」

 目も合わせずその言葉だけを残して彼は玄関を出て行った。羽根が一枚ドアの隙間から滑り落ちる。玄関先に落ちたそれが、光を反射して静かに揺れていた。
 どうして謝るの。どうして——抱きしめたの。涙がこぼれても、答えは返ってこなかった。ただドアの向こうで、風だけが鳴っていた。


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