どうしてあんなことをしたのか自分でもうまく説明がつかない。ただあのとき彼女が泣きながらまるで祈るみたいに俺の名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
『歯ブラシは、硬めが好みですか?』
『お風呂は……熱めの、42度?』
『どうして、ここの住所を知ってたの?』
どうしてそんなことを訊くんだろう、こんなの拷問のなにものでもない、洒落にならんって思いながら心のどこかでは、嬉しかった。懐かしくて痛くて、もう二度と、触れられないと思っていた愛しき日々の生活の記憶が、彼女の口から零れた瞬間、すべてが戻ってきた。
あの部屋の光。ソファの沈み方。夜の風がカーテンを揺らす音。彼女がコップを持つときの指の角度。それらが一気に押し寄せて、どうしても、身体が勝手に動いた。気づいたら抱きしめてた。理屈も理性も、全部あとだった。ずっと我慢していたんだと思う。もう二度と彼女に触れないって自分に言い聞かせて、見舞いに行っても触れない距離を保って、名前すら呼べずに、ただ笑って、ただ、嘘だけを積み重ねてきた。でもあの瞬間、本当の名前じゃなくてもいい。もう一度だけ俺を見てほしいって、そう思ってしまった。それが、抱きしめた理由だ。そして離したのはその瞬間に彼女を傷つけたと気づいたから。
思い出せないままの彼女に記憶の痛みを無理に押しつけるような真似をしてしまった。だから、あの「すみません」は謝罪でもあり懺悔だった。
消えると、守ると言いながらまた奪っている。彼女の穏やかな時間をまた壊してしまった。でも本当の意味では違う。あれはもう一度、あなたを愛してしまったという言葉の代わりだった。
荷物を全て片付けなかったのも無意識の中での小さな抵抗。本来なら、あんな過ちは犯さない。何度、理性で否定しても、何度、ヒーローとして振る舞っても結局俺は彼女を見たら息が乱れる。目を逸らしたら、胸が苦しくなる。もう、嘘では覆い隠せない。
『そんなもの抱えてたら、うまく飛べませんよ』
あれも嘘。本当は、あなたを抱えていないと、上手に飛べない。剛翼よりも、彼女の存在が俺を浮かせていた。でもその事実を知られたら彼女はきっとまた泣くだろう。戸惑うだろう。自分を、責めるだろう。だから俺は謝罪することしかできなかった。もう離れなければならない時が来た。
もし、それでももう一度だけ会いに行けるならあの事故の前の続きじゃなくて��これから�≠�、ちゃんと話せる、自分でいたい。ヒーローでも、嘘つきでもなく、ただの一人の人間として。
風が吹く。夜の街の光が、小さく瞬く。屋上に降り立ち羽根をひとつだけ抜いた。彼女が覚えていなくても、俺はちゃんと覚えている。あなたを好きになった日の風の匂いも音もその手の温度もあなたを想う気持ちも、なにもかも、全部。
夜が明けたことに気づいたのは、光ではなく、空気の温度だった。窓の外はまだ青く沈み、カーテンの隙間から灯が淡くシーツを照らしている。けれど、その薄明の中で私はまだ夢の底にいた。
誰かに抱きしめられていた。強く、でも痛くはない。腕の中の空気がやわらかく震えて、背中に温もりがある。心臓の鼓動が、二つ分、重なっていた。それが、こんなにも心地のいいものだったなんて、どうして今まで忘れていたんだろう。
「……けい、ご——くん。」
唇が、夢の中で名前を紡いだ。それは——あのヒーローと同じ名前。けれど、実際にそれが誰の名前なのかは思い出せない。ただ、その名を呼ぶたびに胸が熱くなり、涙が滲む。どうして泣いているのか、その理由もわからない。
『もう一度、抱きしめてもいいですか』
そんな甘い声が耳の奥で響いた気がした。目を開けたとき、枕の端が少し濡れていて、腕の中の温もりはもうなかった。けれど、まだ背中に手の感触が残っている気がして、あの夜の抱擁と夢の抱擁が重なって、現実のほうがまるで嘘みたいに感じた。
私はゆっくりと起き上がり、まだ薄暗い部屋を見渡す。テーブルの上には昨夜のプリンのカップが二つ。ひとつは私のもので、もうひとつは、彼のもの。カップの縁に残る指の跡。それが、どうしようもなく現実的で、苦しかった。
夢じゃなかったのかもしれない。手を伸ばしてそのカップをそっと包み込む。冷たくなったその中にまだ彼の体温の名残が残っている気がした。窓の外では、夜の名残を抱いた風が、静かに街を撫でていた。羽根のように薄い雲が東の空のかすかな光を受けてゆっくりと流れていく。夜と朝のあわいにあのヒーローが、どこかを飛んでいるのかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと疼いた。
「ねえ……帰ってきてよ」
無意識に声に出した言葉はあまりに小さくて、自分でも聞き取れなかった。しかしその直後窓の外を赤い羽根がひとつだけ舞い落ちた。朝焼けの光を透かしてゆっくりと、まるで、夢のつづきのように。
*
無線の音が今日はやけに遠く感じた。通信ブースに反響する電子音がいつもより冷たい。私は、ヘッドセットを耳に当てて「応答確認」と、声を送る。返答が来るまでの数秒が妙に長い。沈黙。次に聞こえたのは、別の通信士の声だった。
「——名字さん、ホークスから通信不要との指示です」
「あ、そうですか……」
できるだけ、平静に返事をした。でも、指先がわずかに震えているのが自分でもわかった。
ホークス。以前なら、どんな任務中でも、短く応答してくれた。『了解っす〜』とか、『あとで寄りますねー』とか。それだけで私は安心できたのに。ここ数日間、彼から直接の通信はほとんどない。忙しいんだ。あまりセンターを使わないと以前にも言っていたし。最初はそう思っていた。でも、どうやら違う。明らかに、私の無線だけを避けている。
モニター越しに聞こえる現場音のノイズの中に別の通信士と彼の短いやり取りが混じる。その声をヘッドセット越しに聞くだけで胸がざわつく。聞こえているのに、聞こえないふりをしている。そんな気がしてならなかった。
彼は今どこで何を見ているのだろう。この声が届かない距離までわざと飛んで行ってしまったのかもしれない。
センターの所長室。以前は、彼が頻繁に出入りしていた。休憩中にふらっと顔を出しては「差し入れ持ってきましたよ〜」と言って皆を笑わせていた。その笑い声が、いつの間にかこの場所から消えていた。
デスクの上のマグカップ。彼専用だった赤い羽根がモチーフのものは、今は棚の奥で埃をかぶっている。
福岡へ異動してきた理由——確かに私は、彼に勧められたような気がしていた。でもその理由は思い出せない。ここは、入れ替わり立ち替わりの激しい職場だ。転勤してきたことも、自然な流れだと自分の中で片づけていた。だけど今になってその自然さが不自然に思える。
もしかして私は、何か最も重要なことを忘れている?ホークスは、確実に何かを隠している——そんな考えが頭をよぎるたびに心臓が痛くなる。
彼を疑いたくなんてない。でも避けられるたび胸の奥が重く沈む。
その日の勤務を終え、通信室の照明が半分ほど落ちた。デスクの明かりだけが残り、私はひとり無線のスイッチをそっと入れてみる。
「……ホークス、こちら緊急支援センターです」
返事はない。静寂。ヘッドセットから聞こえるのは、風のような雑音だけ。私は、マイクを握りしめたまま、声を出すのをやめた。視線を向けた先、彼の使っていた椅子がひとつ、空いている。背もたれの部分に、羽根の繊維が一本、かすかに残っていた。光に照らされて赤く光るその欠片を見つめながら私は気づいた。この部屋の静けさは彼が去ってしまった後の空の静けさに、よく似ていると。
職場からの帰り道、空は群青色に染まりかけていた。福岡の街は風が強くビルの間を抜けてくる空気が冷たく頬にあたる。
駅へ続く通りを歩いていると少し先のベンチで見慣れたうしろ姿が見えた。ホークスだ。街灯の光の下、片足を投げ出してベンチにもたれ缶コーヒーを片手に空を見上げている。羽根をたたんでいるせいか、いつもよりずっと静かに見えた。
どうしてここに。声をかけようとしたけれど、すぐに足を止めた。無線を避けられたことが胸のどこかに引っかかっていたから。
彼に会いたくなかったわけじゃない。ただ、今顔を合わせてしまえばなぜ避けたのかきっと問い詰めてしまう。それが怖かった。だからここは、見なかったふりをして通り過ぎるのが、いちばん健全だろうと、踵を返しかけた、そのとき——。
「おっ? わぁー、奇遇ですねー」
その軽い声が、風に乗って届いた。振り返るとホークスがいつの間にか立ち上がりこちらを見ていた。いつものように、片手をポケットに入れたまま、無邪気そうな笑みで。それが、すこしだけ痛かった。
「お疲れ様です、センター嬢♪ 今お帰りで?」
「……はい。そちらは、任務の合間ですか」
「まぁそんなとこです。サボりと紙一重ですね」
さらりと言って笑う彼に、どうしてそんなに、普通の声が出せるのかと思った。何事もなかったように、まるで、今日までの沈黙なんて存在しなかったみたいに。
私は無意識に唇を尖らせていた。自分でも気づかないうちに、頬が少し熱くなっていた。だめ、怒鳴り散らしそう……そう思った、次の瞬間。
「……なんですかぁ、その顔」
「え?……べ、べつに」
「べつに、って顔じゃないですよねー」
ホークスは少し笑いながら目を伏せて、持っていた缶コーヒーをくるくると回した。その仕草があまりにも自然で距離を取ろうとする私の気持ちだけが浮いてしまう。
「こういう顔なんです……何か、文句でも?」
「いや、別に」
短く答えたそのあとふと彼の表情が和らいだ。笑みの奥に、少し懐かしさのようなものが滲む。そして、まるで思わず零れたように、彼が小さく呟いた。
「……その怒って拗ねた顔、変わらないっすね」
瞬間——時間が止まった。彼の声は穏やかで、どこか、悲しそうでもあった。だが、あまりにも自然な響きで、今の私に向けられた言葉ではなく過去の私へ話しかけているように聞こえた。その言葉が記憶の彼方、遠くの方で何か大切な日々の続きを呼んでいる気がしたけれど私は何も言えなかった。ただ風が通り抜けて、髪が頬に触れた。
「……どういう、意味ですか」
ようやく絞り出した声にホークスは少し遅れて笑った。その顔を、もっと前にも見た気がした。
「いやぁ?とくに深い意味は。怒った顔もきれいだなーって思っただけですよ」
軽い声。けれど、その軽さの奥に、何か大事なものを必死に隠しているのが窺える。笑っているはずなのに、目元だけが少し寂しい。彼はそっと視線を逸らし、私に背を向けた。思考より先に、私は思わず声が出た。
「また、逃げるの?」
ぴたりと足を止めて振り返った彼の横顔に沈みゆく空の残光が滲んだ。街の灯りがひとつ、またひとつと灯りはじめ、その淡い光が、彼の剛翼の羽根をかすかに照らしていた。
「もう——会えないの?」
「……」
「もう、さよなら……なの?」
ほんの一瞬、また、時間が止まった気がした。今この世界に存在しているのは私と彼の二人だけだと、まるで、そう錯覚してしまうほどの静けさだった。彼は目を伏せたまま、ゆっくりと、息を整えるようにして言葉を探す。
「同じように人を助ける仕事をしてるんですからいつだって会えますよ」
「そういうことじゃ……なくて、さ。」
声が掠れる。自分でも、どうしてこんな言葉が出たのかわからなかった。ただ、彼が遠ざかってしまうことだけが怖かった。沈黙。風が吹いて、彼の赤い羽根が、かすかに音を立てた。
「あなたのその質問の意味が、俺の解釈している内容で合ってるとしたら」
「……」
「もう、会わないほうがいいと思います」
その声音はやわらかく、けれどもどこまでも、痛みを孕んでいた。優しさで包んでいるのに突き放している。そんな矛盾が彼の声の奥にあった。彼が自分自身を責めているのが、なぜか伝わってしまう。こういうのをきっと、以心伝心というのだろう。
「ごめんなさい、なんていうか俺ちょっと調子に乗りすぎました」
そう言って彼はへらりと笑った。まるでいつもの軽口のように。けれどその笑顔は、泣いているようにも見えた。彼は私に背を向けて、手をひらひらと振って歩き出す。
夜の風が吹き街の光の中でひとつの羽根が宙に舞った。緋色のその羽根は、私の目の前でふっと揺れて、地面に落ちる前に消えた。残されたのはほんのすこしの風の匂いだけ。私はその場に立ち尽くし光の向こうに溶けていくヒーローの背中が見えなくなるまで、ただ、見つめていることしかできなかった。
*
夜の風がゆっくりと頬を撫でていく。ベランダの手すりにもたれ、私は、街の灯を眺めていた。眼下には車の列が静かに流れその光の帯がまるで時間の痕跡のように遠くまで続いていた。
この街で私は何を探しているのだろう。仕事も生活も形は整っているのに、心の奥にぽっかりと空いた穴だけが、夜ごと深くなっていく。
ふと、胸の奥が痛んだ。理由もなく、涙がこぼれる。……変なの。まるでホームシックになった学生みたい。
頬を伝って落ちていく雫が冷たい風に触れて、静かに乾いていく。束の間、風向きが変わった。ビルの隙間を抜ける空気が、一瞬だけ、羽ばたくような音を立てる。次の瞬間、目の端に柔らかな気配が落ちた。見上げると、そこには彼がいた。
「……、」
——ホークス。夜の光を背負いながら、金色の髪を風になびかせ息を整えるように浮いていた。肩にかかる剛翼が月の光を反射して、淡く光っている。
「え……。どう、して……」
驚いて声を出すと、彼は少しだけ困ったように笑って、そっと音もなくベランダに降り立った。その笑顔は、いつもの軽やかさとは違ってどこか壊れそうなほどに、やさしかった。
「もう……限界です」
「……」
「降参します。ゲームオーバー。」
小さく、けれども、まっすぐな声だった。風の音よりも静かで、でも胸の奥まで届くような響きだった。私は息をのむ。彼の瞳がまっすぐこちらを見ていたから。いつもの冗談も飄々とした笑みもない。ただ、ひとりの男として私の前に立っている。
「ずっとこうして見てるだけでいいと思ってた」
「……」
「記憶が戻らなくても、笑ってくれたら、それでいいって」
「……え、」
「でも、もう、無理みたいです」
風が吹き、広すぎるベランダに、羽根がひとつ舞った。彼の髪が揺れ、夜の匂いが近づく。
「思い出してほしいわけじゃない」
「……」
「ただもう一度だけ今のあなたを、抱きしめたくなった」
その言葉に、胸の奥の何かが強く震えた。怖いくらいに懐かしい痛み。涙がもう一度、私の頬を伝っていく。
「……入って、ください」
自分の声がかすかに震えた。そっと中に促すとホークスは静かに頷き、ブーツを脱いで、足音を忍ばせながら部屋の中に入った。ベランダの風が閉じ込められ世界が二人だけの静寂に包まれる。リビングの明かりは落としたまま、月の光だけがカーテンの隙間からこぼれて彼の横顔を淡く照らしていた。
室内に戻ったあとも、しばらくの間、どちらも言葉を発さなかった。カーテンの向こうでは風が鳴り、ふたりの影だけが、壁に寄り添っている。ホークスはベランダの窓のそばに立ったまま視線を下に落としていた。赤い羽根がゆっくりと動くたび、その音が静寂の中に混じっていく。
「避けてましたよね……わたしのこと」
「……」
「どうして突然……。私がいろいろ……変な質問しちゃったから、ですか?」
問いかけると彼はしばらく黙っていた。やがて少し苦く笑ってから言った。
「守るって時々、逃げるのと紙一重なんですよ」
その言葉の中には悲しみとやさしさが混ざっていた。私は息を吸ってもう一歩、彼に近づいた。
「……ホークス、」
声がひどくかすれていた。唇が震え、喉までもうまく動かない。それでも私は、言葉を続けた。
「どうして、そんな顔をしてるの……」
彼は笑った。けれど、その笑顔はどこかまだ、苦しさを残していた。
「もともと、こういう顔なんです」
「真似しないで。うそつき……」
「ははっ。バレました?ちょっと、ズルしてきたからですよ」
「ズル?」
「あなたのそばにいる資格なんてないのに、それでも、ほら、懲りずに来ちゃったんで」
月の光が彼の頬の輪郭をなぞる。ほんのわずか震えた唇が彼の誤魔化せない本音を語っていた。その横顔を見ているとなぜだか胸の奥が切なくも痛んだ。
「見聞が広いんでねー。泣いてると、すぐわかりますよ」
「……」
「本当ならもう……ただのヒーローとして接しなきゃいけない」
「……」
「でも、俺はどうしてもあなたをそういうふうに見られないんです」
「……」
「俺は——強欲だから。」
その切なげな声に心臓が大きく脈打つ。彼は、目を逸らすようにして続けた。
「会うたびに、無理だなって思ってました。どれだけ時間が経っても、どれだけ立場を考えても、あなたを見たら、好きだって気持ちだけが残る」
彼はその先の言葉を飲み込んだ。息を吸う音がやけに近くに聞こえる。
「だから、もう隠しません。隠せない」
「……」
「名前さん……あなたが好きです。」
その一言は、誰よりも穏やかで誰よりも悲しい告白だった。私は何も言えなかった。心臓の鼓動がゆっくりと痛みに変わっていく。彼の声の奥に何か、終わりのような気配があった。
「ごめんなさい。ヒーローがこんなこと言うなんて、本当は最低なんですけどね」
「……」
「ヒーロー失格です」
そう言って彼は少し笑った。笑うたびに、その肩が小さく震える。触れたいのに触れられない。
「あなたが笑ってくれるだけでいいと思ってた。記憶が戻らなくても、幸せになってくれればいいって」
「……」
「それで自分を誤魔化せると思ってました。でももう、ダメです。抑えられない」
その言葉のあと、沈黙が落ちた。時計の秒針の音だけが遠くで響く。
「だから、これからは……」
涙で視界が霞む中、彼がゆっくりと言葉を探すように息を整えた。
「これからはちゃんとあなたを見ます。好きだった人じゃなくて、いまのあなたを」
「……」
「俺のことを知らなくてもいい。また一から始めればいい」
「……」
「振り向いてもらえるように、頑張ります。また、好きになってもらえるように」
彼の睫毛が光を受けてきらりと揺れた。それが涙だと気づいたとき私の胸の奥も、どうしようもなく熱くなって、さらに視界が滲んでいく。
「ホークス……」
「はい」
「そんなこと言われたら……困り、ます」
「知ってます」
「逃げられないよ……速すぎる男からなんか」
「ですね、逃しませんよ。最速で捕まえます」
「ほんと。ずるい、ヒーローですね……」
「ええ、自覚はあります」
ふっと笑う彼の目の奥にどこか懐かしい景色が見えた気がした。私が知らないはずの、それでも確かに覚えている温度。その記憶が胸の奥を震わせる。そして私は、ゆっくり息を吸った。
「……私、ほんとうはもう気づいてたのかもしれない」
「……」
「あなたを見てると、懐かしい気持ちになるの。名前も、思い出も、全部霧の向こうなのに——」
「……」
「あなたを見ていると帰ってきたって気がするんです」
彼の唇が何かを言いかけて止まった。代わりにわずかに息を吸う音がした。彼の瞳が静かに溶け言葉ではなく、視線で伝え合うように、夜の光がふたりを包み込んでいく。カーテンが揺れ、風が二人の間をゆるやかに通り抜ける。それはまるで長い夜の終わりを告げる合図のようだった。
「……また、そんな顔する。」
小さく囁くと、彼は微かに笑った。どちらから近づいたのかわからない。ただ静寂の中で二人の呼吸が同じリズムを刻みはじめた。ホークスは、私の目を見ていた。まるで、そこに今の私だけでなく、かつての私をも見ているような目で。その瞳の奥で何かが、堰を切ったように揺れていた。
「怖いんですよ。あなたに触れたら、また全部、終わっちゃいそうで」
「終わるんじゃなくて戻るのかもしれませんよ」
自分でもなぜそう言えたのか分からなかった。ただ胸の奥で何かが確かに疼いていた。彼の声も息の熱も心臓の鼓動さえ、どこか懐かしかった。
私はゆっくりと手を伸ばした。ホークスの頬に触れると、指先がかすかに震えた。それでも彼は逃げなかった。
「……触れて、よかと?」
「うん、いいよ……」
「あなたの方から来てくれたのは初めてですね」
微笑みながら言ったその声が、少しだけ掠れていた。また涙が滲んだ。私は彼の頬に手を添えたまま軽く唇を寄せた。ゆっくりと唇が触れた瞬間世界が音を失った。時間が止まるような静けさ。静寂の中でふたりの呼吸だけが重なり合う。風が部屋に流れ込み羽根のような光が漂う。言葉ではなく体温の温もりで伝え合うそれは、祈りに似た優しい再会のようだった。角度を変えるたび口の端から自然と息が漏れる。ふたりの温度が重なるたびに胸のあたりが軋む。
そのとき、遠くで何かが、弾けるような感覚がした。心の奥底で眠っていた無数の記憶が、光の粒となって弧を描きながら蘇ってくる。
初めての夜。笑い合った朝。プリンを食べて、仲直りをした日。「好きです」と言ってくれた、大好きな声。それらが一瞬にして、洪水のように押し寄せてきた。離れようとした唇のあいだから震える息が零れる。外の街の灯がまた瞬きはじめ遠くの車の音が微かに響く。
世界がもう一度、ゆっくりと動き出していく。けれど二人の間だけはまだどこか別の時間の中にいた。彼の胸に額を預けながら私は確かめるように小さく息を吐いた。彼の心臓の鼓動があの夜と同じ速さで動いている。
「……思い、出した。」
そっと呟いた私のその言葉は震えていた。顔を上げると私を見下ろしていた彼の瞳の奥で、光のような何かが崩れるように揺れた。そして彼は、私の頬を両手で包み込み涙を隠すように笑った。
「……ほんと、に? え、戻ったと……?」
「うん……あなたの声も、風の匂いも、ぜんぶ」
「名前、さん……嘘や、なか——?」
「うん、嘘じゃないよ。」
彼は私の頬を両手で包んだままそっと私の額に自身の額をくっつけると、ゆっくりと目を閉じ、小さく息を吐いた。その肩が、ようやく安らぎを得たように緩む。
ふたりのあいだに、また風が通り抜けた。その風はもう冷たくなかった。まるで長い冬を越えた春のようにやさしく穏やかで、温かかった。
「俺、ずっと祈ってました。あなたがもう一度、俺だけを見てくれますようにって」
その声の温度に、胸の奥がほどけていく。私は小さく笑って「もう見てるよ」と答えた。そしてようやく強く抱き合った。合図も、言葉もなく、長い時間を埋め合わせるように涙の跡ごと指先でなぞるようにして。
その抱擁の中で私の心にあった空白が音もなく満たされていく。彼の剛翼の羽根が私を包み込み世界が静かに遠ざかる。
「やっと、帰ってきてくれたんですね」
「うん……」
「もぅ、ほんっと、遅かよ……」
「ごめんね。ただいま、啓悟くん。」
その一言で彼の顔が崩れるように笑った。その笑顔が、いちばん好きだった。その短い言葉が、この夜のすべてを締めくくる合図のようだった。私はもう一度、彼の胸に顔を埋めた。彼の心臓がしっかりと動いているのがわかった。
——そう、これは夢なんかじゃない。この人が生きて、ここにいる。そして私もまた生きて彼のいる現実に戻ってきたのだ。
外では風がまた吹いた。ベランダの隙間から、月の光が舞い込みゆっくりと空気に溶けていく。
ああ、やっと還ってこられた。彼のいる、この場所に。光でも影でもない、ただ、生きているという現実の中へ。彼の手が私の頬を撫でる。その指先に、記憶と未来の境界が、ほどけていくのを感じる。
「……もう、大丈夫だよ。」
誰に向けた言葉でもなく、それは自分自身への赦しのように口をついて出た。彼は何も言わず、
静かに頷いた。その表情に、長い夜を越えてきた人だけが持つ穏やかさがあった。部屋の中の淡い光の中で彼の羽根のひとつが金色にきらめいた。私はそれを見ながら、心のなかで、そっと言葉を紡いだ。何度でも、あなたに出会いたい。たとえどんな未来でも、と——。
部屋に差し込む月の光は、ゆっくりと夜の風に溶けていった。それが、この夜の、最初で最後の約束のように思えた。
『解除条件——。
忘れられた愛が、言葉より先に
もう一度その唇を探し当てたとき。』
静けさの中で、揺れるカーテンの隙間からこぼれた光の粒が、まるでダイヤモンドのようにほどけて、空気の中に散っていく。
「……今日、帰っちゃうの?」
私が冗談めかして意地悪くそう問うと彼は私を見下ろし、鼻先で小さく笑って答えた。
「……帰らんでしょ。ここ俺の巣でもあるんですから」
「ふふ、たしかに。ふたりの、愛の巣だもんね」
「それに今夜はもう、飛べそうにないんで」
「珍しいね。ウイングヒーローのくせして」
「くせ、て。その天の邪鬼な言い方まで戻らんでよかよ」
「好きでしょ、天の邪鬼」
「飛べんのは、あなたのせいですよ……やっと、地上に降りられた気がする」
その言葉に、胸が温かくなった。彼の肩に頭を預けると、緋色の羽根が静かに私を包み込む。
「明日になって、また記憶をなくしてても、私のこと好きになってくれる?」
「明日にならなくても、もうなってますよ」
「わぁ……ずるい」
「あなたが教えたんです。やけん、責任とって」
ふたりの笑い声が、夜の奥に溶けていく。その響きは、どこまでもやさしくて、まるで風が心に触れるようだった。羽根が、ひとつ音もなく宙を舞い、そのまま窓の外の夜へと消えていった。
ハッピーエンドじゃなくていい。私たちは——メリーバッドエンドくらいが、ちょうどいい。
君を想ふ風の果てに
(もう一度、抱きしめてもいいですか)
(しょうがないなぁ、じゃあ一回だけね?)
(……俺のこと、忘れてたのは嘘ですよね)
(違うよ。啓悟くんが、思い出させてくれたの)
※image song『 ねっこ/King Gnu 』