その日、空はどこまでも高く澄んでいた。湿気を含んだ夏の風が、街のビルの隙間を縫うように吹き抜けて、蝉の声とアスファルトの照り返しを少しだけ和らげてくれていた。
ヒーロー緊急支援センターの休憩室。窓を少しだけ開けて私は冷めかけた麦茶のグラスを指先でくるくると回していた。
正午を少し回った頃合い。緊張感から解放された、ほんの束の間の静けさ。空調の風が低く唸るたびに時間もまた深呼吸しているようで私はその呼吸に寄り添うように、ただ、椅子に身を預けていた。けれど意識の片隅ではさっきまでパソコンの画面に浮かんでいた直通ラインの文面が残像のようにじわりと脳裏に貼りついたまま剥がれずにいた。

ホークス
午後、センターに
立ち寄ります
予告通り、彼は来た。そして、驚くほど早く、用件を済ませて出ていった。だからこれは、もう過ぎたことのはずだった。……なのに。
「名前さん」
不意に、背後から声がした。その声に、どこか不自然な間があった。すでに、彼が去ったあとのドアの音は消えたはずなのに。なぜまたここに?
「あら……もう帰られたのかと。」
そう言いながら振り向くと硝子扉に手をかけたままの彼が、どこか手持ち無沙汰な仕草で、ゴーグルを額にずらして見せた。その瞬間きっちりと整っていたはずのプロヒーローの顔が途端に年相応の、どこか、軽薄なほどの茶目っ気をまとった表情へと変わる。思わず、吹き出しそうになった
けれど、その仕草がいつもの彼らしさからほんのわずかに逸れて見えたことに私は胸の奥に小さなざわめきを覚えていた。それは気まぐれか、あるいは迷いか。けれど確かに彼はここに戻ってきた理由があった。
「……ええ。ちょっと、忘れ物?」
わずかに語尾を上げるようなその口調に、私は思わず心の中で「なぜ疑問形?」と、小さく突っ込みを入れた。けれどその場に似つかわしくない曖昧さは言葉の問題ではなく彼のまなざしにこそ宿っていた。笑みをたたえながらも、どこか探るようにこちらを見つめてくるその眼差しはまるで今ここに戻って来た理由が言葉以上に重たくなるのを恐れているようでもあった。
「何を忘れたんですか?」
自然に問いかけたつもりだった。だが、自分の声が思った以上に低かったことに気がついて息を飲む。彼は短く息をついてから視線をすこしだけ斜め下へと逸らし、ゆっくりと間を置いた。それから、意を決したように一歩だけ、私のほうへと歩み寄る。まるでその一歩が、なにか、決定的な境界を越える儀式であるかのように。
「……いや、あの。実は……」
ヒーロー活動中の彼には珍しく口ごもるような声音。その口調の曖昧さに私は不意を突かれる。普段の彼なら冗談めかすか、軽やかに打ち込んでくるはずなのに。そして次に彼の口から放たれたそれは、私の想像と、どこか違うものだった。
「今度の、火曜日。花火大会あるでしょ。あれ、行きません?」
言葉が着地する前に心臓が大きく脈打つ。思考よりもずっと先に身体が反応した。この問いかけの意味を、私はもう知ってしまっているのだ。
「……え?」
聞き返した声が思った以上に小さく間延びしていた。あまりに唐突だった。けれどそれ以上に、その問いかけの背後にある想いの輪郭を読み取りかけてしまった自分が怖くて、瞬時に返事ができなかった。
「や、もし予定なかったらでいいんですけどね」
彼はすぐに、笑ってみせた。言葉の引き際まで計算しているようでいて、その実、どこかぎこちない。言い終えてから指先がわずかに揺れるのが見えた。
「シフトはたしか、休みでしたよね?」
「……どうして、知ってるんですか?」
「えっ?だってほら俺、一応まだ、所長なんで」
軽く言い訳めいた声。でもその裏に、どこか、見透かされたくないという気配が滲んでいて私はふと唇の端を持ち上げて「ふーん?」と言い返した。問い返すでもなく、咎めるでもなく。ただ、その言葉ひとつで、彼の肩の力がわずかに抜けていくのがわかった。
「あの花火大会、最近演出が凝ってるって噂で。音楽に合わせて、花火が上がるっていう」
視線をどこか遠くに泳がせながら彼は続けた。けれどそれは説明のようでいて理由を探しているようでもあった。——誘うことに、理由が要るのなら。その迷いごと、まっすぐに差し出してくるような声音だった。まるで正しさよりも誠実さの方を選ぶようにして。そして私はその声音の奥に��一緒に行きたい�≠ニいう彼の素直に言葉にできない願いのかたちを確かに受け取った気がした。
「そういうの……好きでした、よね?」
その言葉だけは、少しだけためらってから口にされた。声の温度が一瞬だけ下がったように感じる。しかし、彼は相変わらず笑っていた。けれどその笑顔は張りつけたマスクのようで輪郭がわずかに歪んでいる気がする。あたかも、あらかじめ傷つかないようにと、断られることまでしっかり想定して先回りして逃げ道をつくっているようなそんな弱い笑顔だった。私は返事をしなかった。いや、できなかった。
「任務の合間で行ける日がちょうどそこだけで。だから……誘ってみようかな、と。」
後半の声だけが妙に小さかった。その部分だけ彼の中でも確信が持てていないように聞こえた。けれど、私の耳には不思議なくらい、はっきりと届いた。そう、痛いほどに。
「それは……仕事として、ですか?」
なるべく無表情を装ったつもりの問いかけは、意地悪というより照れを隠すための反射のようなもの。けれど、声が上擦ってしまっていたことに自分でも気づいて、私はそれをごまかすように、手元のグラスを持ち上げて、机の上にそっと置き直した。溶けかけの氷がカランと鳴る。それだけの音がかえってこの小さな部屋の沈黙を濃くしていく。まるで、私の動揺を伝えるみたいにして。
「仕事じゃなくてさ、完全なるプライベート。」
彼は、はっきりと言った。曖昧さを残すことも逃げ道を用意することもなく。その言葉が落ちた瞬間私の中で何かがふわりとほどけた気がした。表ではずっと慎重に保ってきた、ヒーローとオペレーターという立場の皮膜に風がそっと吹き込んできたような、そんな、静かでやわらかな違和感だった。
「じゃあ……まあ、はい。所長からの指示なら、従います」
半分冗談めかして返すと、彼の眉がすこしだけ寄った。
「……だけん、プライベートやって言って——」
「行きます」
私は彼の言葉をやや遮るように重ねて言った。ふっと息を吸うようにして言葉が口をついて出てしまった。「花火、好きなので」——そう続ける頃には、もう心の奥の戸惑いよりも頬の熱の方が強かった。その返事が落ちきる前に彼は、ぱっと表情を明るくしてみせた。どこか肩に入っていた力が抜けたように軽くすくめた肩とそれに似合わないほどあたたかな笑顔。その一瞬にきっと私も同じような顔をしていたと思う。ふたりでひとつの秘密を共有したような、小さな達成感にも似たほころび。
「やった。じゃあ予定、空けときますね」
「ですね。私より、あなたの方が緊急要請とか、入りかねませんから」
私がそう返すと彼はまた肩をすくめて笑った。けれどその笑みはどこか安堵と照れが入り混じっていて、言葉の続きがすぐに落ちてこなかった。
「……浴衣とか、着ちゃいます?」
さらりと口にされたその問いかけに思わず呼吸の奥がくすぐられる。
「……それは、気分次第で」
照れ隠しのように言ってわざと視線をそらす。
そうすることで自分の頬の熱を誤魔化せるような気がしたから。すると彼は「了解」とだけ、短く応じて、くるりと背を向けた。廊下へと続く扉の奥へその背中が見えなくなる、ほんの刹那。去り際のその肩が、いつもよりほんのすこしだけ頼りなさげに見えたのはなぜだったのだろう。きっと私も彼の残していった言葉のかけらを、胸の中で探していたからなのかもしれない。
ひとりきりになった休憩室は、昼下がりの陽が斜めに差し込んで、影ばかりが長く伸びていた。麦茶はすっかりぬるくなりグラスの内側に残ったしずくが、底の方でじっと息を潜めている。
私はしばらく動けなかった。会話の余韻がまだ空気にふわりと残っていて、それに触れるのが、惜しく思えたから。
——誘いの言葉。あるいは物語の静かな序章。窓の外では街の喧騒とは無関係にゆっくりと陽の色が傾き始めていた。けれど、確かにこの午後、風が変わった。空が静かに巡りはじめていた気がした。
*
同じ屋根の下で暮らしているというのに「今日は待ち合わせにしませんか」と、彼は少し照れたように言った。理由はあえて聞かなかったけれどきっと、私の浴衣姿を初めて見るという、そんなささやかな儀式のような意味が、その提案の奥に込められていたのだろうと、私は、勝手に思っていた。
実際のところ浴衣というものは動きにくいし、下駄はすぐ足が痛くなるしで、普段着のまま出かけてしまおうかとかなり迷った。けれど私服姿で現れた私を見た瞬間の彼の反応が容易に想像できてしまったのだ。
『はぁ〜? やる気あります?』
『もーぅ、信じられん』
『あれ〜?浴衣どこ置いてきました? 迷子?』
『え、もしかして裏ミッション? 隠密行動?』
『これ、今日、ふつうにコンビニ行くテンションですよね?』
『え!どうしたんすか、着替える時間なかった?俺、早く来すぎました?』
『いや、マジで今日、花火大会ってご存知で?』
おそらくそんなふうに、不服そうな顔で延々と文句を垂れるに決まっている。想像したら何だか具合が悪くなってきた。だから悩んだ末、昨夜、彼がすっかり寝静まったあと、私はそっとクローゼットの奥に手を伸ばした。久しく触れていなかった浴衣の布地は想像していたよりも柔らかく、夏の記憶のような匂いが、わずかに残っていた。
日差しの角度が傾き始めた午後五時。シャトルバス乗り場の周辺にはすでに幾組ものカップルや家族連れが集まり始めていて浴衣のすそがひらりと風に舞うたび花火大会という非日常がこの街の空気の密度をすこしずつ変えていった。
私は、人波の少し外れた場所、停留所の標識の影に立ちながら、どこか落ち着かない気持ちで、足元を見つめていた。
桔梗色の浴衣に、控えめな撫子模様。白に近い帯は後ろでふんわりと結い、足元には下駄。髪は自分でまとめたけれど、彼に見せるには果たしてこれでよかったのだろうかと、なんども鏡の前でためらった記憶がまだ胸の奥で湿ったまま燻っていた。見慣れた服じゃない。でも、だからこそ、今日は、恋人としての私をもう一度ちゃんと見てもらいたかった。
そんなことを考えているうちに風の中に羽音のような気配が混じった。すぐに、気づいた。振り返らなくてもわかる。あの人の存在感は、何にも似ていない特別だから。
「……名前、さん?」
そう呼ばれて振り返ったとき、彼は、スマホを片手にほんの三歩ほど手前で立ち止まっていた。目を見開いたまま、なぜか言葉を失っている。
「……や、ちょっと……それ、反則でしょ」
やがて、やっと絞り出したようにそう言って、彼は、スマホを持っていない方の手で口元を覆いながら笑った。いつもの軽やかさよりも、ずっと不器用な表情だった。なのに、その琥珀色の目の奥は、どこまでも優しかった。
「……変じゃ、ない?」
ごくごく自然に問い返したつもりだったけれど声がすこし上擦っていたのを、自分でもわかっていた。しかし彼は即座に勢いよく首を横に振った。まるで首がもげそうな勢いで、ぶんぶんと。その必死さがあまりに滑稽で思わず笑ってしまいそうになる。
「ぜんっっっぜん変じゃないです!ていうか……正直、いま心拍数バグってます!」
「……また、そんな冗談ばっかり」
「いや、ほんと! 冗談じゃなかよ!」
と、彼は身を乗り出しそうな勢いで続けた。
「むしろ、なんで今日の朝この格好でリビングに現れてくれなかったのかと!」
「……はい?」
「だって目覚めた瞬間にこんな見返り美人がおったら、そりゃ一日中頑張れるでしょ?ねぇ、あ、ちょっと動かんで——」
そう言いながら彼は、スマホを自分の顔の高さくらいまで掲げた。パシャ、パシャと小気味よいシャッター音が立て続けに、その場に響く。そのテンポが、彼の笑い声と一緒になって風に溶けていく。
「ちょっと!なにしてるの!?」
「いやいや、これは完全に記録です。資料。後世に残すレベルの奇跡ですよ」
「後世て……恥ずかしい、すぐ削除して!」
「えぇ〜無理ですよ、これめっちゃ良い顔してるんで!これ、今日から俺のロック画面すね!」
そう言いながら、彼はいたずらっぽくスマホを胸のあたりに下げながら後ずさる。続けて今度はパシャシャシャッ!と、連写音が鳴り響いた。
ほんの数歩の距離なのに笑い声の間に風がすべり込み、どちらの頬も少しだけ赤く染まっていた。その笑いの残響が、夏の夕空にゆっくりと溶けて花火もまだ始まっていないのに胸の奥ではもう、何かが静かに打ち上がっていた。
彼は一通り撮影して満足したのかまた一歩ずつ距離を詰めてくる。けれど触れない。言葉だけが私のまわりを柔らかく包んでいく。
「俺ね、今日、待ち合わせしたいって言ったの、恋人に会いに行く——みたいな時間を久しぶりに持ってみたかったからなんです」
いつもの彼の言葉選びとは少し違うまっすぐな口調だった。プロヒーローとしての彼が、いまはただの鷹見啓悟として私の前に立っているのだとようやく理解できた。
「……変わった、願望だね」
そう言うと彼は照れたように、でも嬉しそうに笑った。そして次の瞬間には、その指先がそっと伸びてきて、淡い色のリップをひいた私の唇を、やわらかく摘んだ。彼の指先はほんのりと湿っていて、それが汗によるものか、あるいは、ハンドクリームのぬめりなのか、今の私には判断のつけようがなかった。ただ一つわかっていたのはその感触があまりにやさしくて、そして思いがけないほど、熱を帯びていたということだけ。
「名前さん。好いとーよ」
「……」
「ははっ。あいらしかぁー」
「ね、
「んん? なぁに? なんて?」
「もぉー……」
「ふふ……名前さん、ばり、かわいいです」
「あ、
「ふはっ、しゃべるとタコさんみたいすね〜」
「むぅ……はなしてっ」
むくれた声でそう言うと彼はようやく私の唇を挟んでいた指先を、そっと離した。そのまま手を滑らせるようにして触れるか触れないかの微細な距離感で頭のてっぺんをぽんぽんと撫でてくる。まるで空から降ってきた羽根がひとつ髪にそっと降り立ったような軽さと、指先に宿る優しさが、じんわりと頭皮に残った。
「変わった願望が叶って、よかったね」
照れ隠しのつもりでそう言って私はそっと視線を落とした。指先は浴衣用の籠バッグの持ち手をいじいじと撫でている。何でもないふうを装っていたつもりだったのに、次に頭上から降ってきた彼の声は、あまりにもやさしくて、そして、まっすぐだった。
「はい。でも、今日のあなたなら……その願い、叶えてくれそうな気がしたんですよね」
心臓が大きく脈打つ。私は思わず胸元にそっと手を当てた。心臓が張り裂けそうなくらい苦しいのに、嬉しくて、なんだかおかしかった。
数ヶ月前に駅前で風に揺れていた、あの色とりどりの短冊たちが、ふと脳裏に蘇る。誰が書いたかもわからない願いごと。でも、その中のひとつくらい、もしかしたら今の私と同じ想いを綴っていたのかもしれない。
��ずっと○○くんの隣にいられますように��
あの、誰かが書いた短冊に込められた祈りが、私の胸の奥でも、静かに息をしている気がした。今の私の願いは、なんだろう。たぶんもう叶ってしまっているのかもしれない。彼の隣で、確かに自分として息をしている。ただそれだけのことがこんなにも満ち足りている。
「……じゃあ、そろそろ行きますか」
彼が右手を差し出した。私は自然とその手に、自分の指を絡めていた。待ち合わせから始まったたった一夜の二人の��初めて�≠ヘまだ何も起きていないというのに、それだけで、胸がいっぱいになるほどだった。
*
臨時の送迎バスに揺られながら、私はずっと、左側の窓を少しだけ開けて頬にあたる風をじっと受けていた。陽はすでに傾きはじめ、空の端には何かの約束事のように緋色と橙の残照が、静かに幾重にも折り重なっている。
去りゆく夏の香りとアスファルトのじんわりとした熱気とが交じり合いどこか懐かしく、それでいて胸の奥にすこしだけ切なさを含んだ空気が、言葉よりも早く肌に夏の終わりを教えてくるようだった。
シャトルバスの椅子は、意外なほど硬かった。けれどその振動がかえって心の奥にまで届くようで私はまっすぐ座っている事ができずこっそりと背筋を緩めてしまう。隣には、大好きな彼。ヒーロースーツのときとは異なるラフな私服姿。黒のキャップと、白のシンプルなTシャツに、細身のパンツ。背中の羽根を隠すように、器用に小ぶりのボディーバックを肩からかけている。なんてことのない夏の装い。けれどそのなんてことのなさが妙に整って見えるのは彼が彼だからなのだろう。
小さな羽音のような沈黙が、ふたりのあいだを撫でていた。
「ねえ」
彼の声が、ほんのすこしだけ低く響いて、それでもその声音は、普段と変わらず優しかった。
「うん?」
「緊張してます?」
「んー……ちょっとだけ?」
嘘ではなかった。いまでは同棲しているはずの彼とこうして、初めて会ったときのように向かい合う時間は、なぜだか、胸の奥をくすぐるものがあった。彼もきっと、すこしだけ戸惑っているのだろう。言葉の端に普段より呼吸が多く混じっているように思えたから。
「俺もなんですよねぇ……なぜか」
「ふふ……じゃあ、似た者同士だ」
そう言って笑うと彼は少し肩を落として、安堵するように首を傾けた。
「今日はあなたの横顔ばっかり見てる気がする」
ふいにそんなことを言われて私は息を呑んだ。それが冗談めかして言った言葉だとしても、耳の奥が熱を帯びていくのがわかる。
「もっと、正面から見てよ」
「うん、バス降りたらね。でも正面から見ると、ほんとにバグりそうなんですよ、心拍数」
「さっきすでに限界突破したんじゃなかったの?心拍数」
「一応、正常に戻せました。でも、ね? ほら」
「ほら、って言われましても」
少しだけボリュームを落としたふたりの会話に小さな笑いがこぼれた。けれどそれはただの照れ隠しではなく今日という日をふたりで迎えられたことへの、静かであたたかな、祝福のような響きだった。
バスが停車したのは、会場からさほど遠くない仮設のロータリーだった。開放された車窓の外から、祭囃子が混ざったような懐かしい音が届く。ふたりでバスを降りると、人の波が一気に広がった。屋台の明かり、浴衣の色彩、笑い声。普段のヒーロー活動では触れることのないこうした雑踏のなかに私たちはいま確かに生きていると、そう感じた。
「手、離さないでね。迷子になっちゃうから」
私がそう言うと、彼はすこしだけ意地悪そうに笑って言った。
「じゃあ、もっとしっかり握ってもいいです?」
「え」
途端、指先に力が加わった。手のひらがすこしだけ汗ばむ。けれども、ほどけることのないその握力が今日という日の全部を包んでいるようで、私は少しだけ背を伸ばして歩いた。
「ねえ、名前さん」
「ん?」
「浴衣、ちゃんと歩けてます?」
人の流れに合わせて歩きながら、ふいに彼が、そんなことを聞いてくる。ちらりと横目で見れば彼は、人波を縫うように歩きながらも、きちんと私の足元に視線を落としていた。
「うん。大丈夫だよ。ちょっと蒸し暑いけど……風が気持ちいいね」
「ね〜。……てか最初、私服で来ようとしてましたよね?」
「え? こわい。なんで知ってるの」
「えー?自分で言ってましたよ〜?浴衣って動きづらいんだよねー、って」
「ああ〜、それ、無意識だ……」
「テレビで今年の浴衣トレンドやってたときに、ぽろっと」
「なるほど。覚えてたのね」
「もしかして、どうしても俺に見せたかったから浴衣にしたとか?」
ふざけたように、でもどこか探るように——。いつもの調子で笑いながらそう言う彼の声は冗談のようでいて、どこか本気を孕んでいた。そして私は、それにもう慣れていた。慣れてしまった。けれどそれでも、時折こうして胸の奥に淡い波紋のようなものが広がってしまうのは、どうしてだろう。
「そんな殊勝な動機だったら、もう少し華やかな色にしてたよ」
「うわ〜、出た。ツン」
「ツンじゃない。……デレの方」
「えー、なんと。俺とは感覚が違うようで」
冷たく返したつもりだった。けれど、彼はへらへらと嬉しそうに笑っていてその笑みがなんとも言えず愛おしくて、思わず視線を逸らす。
頬にあたる夕風よりずっと熱を帯びていたのはきっと私の声のほうだった。自分でもそれに気づいて内心、ひどく可笑しくなった。だって——、どうしたって、今日この浴衣を選んだ理由に彼の存在がなかっただなんて、そんなの、嘘になってしまうから。