会場内はすでに人であふれかえっていて歩幅を合わせるだけでもひと苦労だった。時折、彼の肩が私の肩に触れてほんの少しだけ距離が近づく。そしてふとした拍子に、彼の視線が横顔にそっと刺さってくるのがわかる。その熱に気づいて私は思わず立ち止まりそうになった。
「ん……? なぁに?」
「え? いや……」
続きかけた言葉を、彼は喉の奥でそっと、呑み込んだ。けれど、そのまなざしは何も言わずともすべてを物語っていた。浴衣のすそ、結い上げた髪、揺れる髪飾り——そのひとつひとつに視線が触れては離れ、また戻ってくる。まるでその目でそっと撫でるように私を愛でているかのようで。
「……綺麗すぎて、なんか。見ちゃうんですよ。ごめんなさい」
「それは、褒め言葉として受け取っていいの?」
「はい、全力で。いや、足らんくらいです」
その一言に私はもう返す言葉を持たなかった。胸の奥に、ゆっくりと光が差し込むような感覚が広がっていく。ちょうどその時、特設ステージのスピーカーから、地元ラジオ局らしきMCの陽気な声が響きはじめた。
『ようこそ、第365回筑後川花火大会へ!本日ここ久留米の空に咲く花火は、なんと、過去最大級の
16,000発——!』
その声に呼応するように周囲がいっせいにざわめき立つ。同時に吹き抜けた風が私の浴衣の裾をはらりと揺らし、隣にいた彼の黄色い髪の先を、やさしく撫でていった。
「わ〜……あらためて、すごか人やねぇ〜」
「うん、ほんと」
「でもまあ、飛べばすぐ移動できますし。あっ、でも今日はちゃんと並びますよ?」
「あら、珍しい」
「だって今日は警備でもなんでもない、ただの、一般のお客さんなんで、俺」
いたずらっぽく片目をつぶって笑う彼。その仕草にはヒーローとしての余裕が相変わらず滲んでいたけれど今日の彼は、そして今日の私たちは、ヒーローでもオペレーターでもなくただの一般客としてここにいたかった。そう望んでしまったのは、きっとどちらからというわけでもなく自然とふたりのあいだに芽生えた願いだった。
夜が私たちのまわりだけ、少し濃く染まりはじめる。そして午後七時すぎ。開演の合図はあたりに溢れていた話し声や笑い声を、一瞬で飲み込むように、壮大な音楽とともに訪れた。
『それでは、筑後川花火大会、スタートです!』
MCの声が弾むように響いたその瞬間、夜空に、ひときわ大きな音が跳ね上がった。最初の一発が空に咲く。音楽とともに光が走り、あたり一面が金のしだれ桜のような閃光に包まれていく。私は思わず小さく息を飲んだ。眩しさに目を細めながら横を見やると光に照らされた彼の横顔がそこにあった。その横顔はまるで時間から切り離されたかのように静かで美しく、私はただそこにそっと視線を重ねる事しかできなかった。ああ、きっと今夜、私はまた、彼に恋をする。
「わぁ……きれい」
「ねー、きれいですね」
たったひとこと。それだけだった。なのに彼の声はその言葉以上に静かでまるで胸の奥に落ちていくようだった。
光と音が交錯する中、彼の視線は花火ではなくどこか遠く、あるいは私の横顔を見ていたような気がして、私はどうしても、目を合わせることができなかった。
『次のプログラムは追憶の旋律──5分間のナイアガラショー��夏の夜空に揺れる片想い�≠�お届けします』
MCの言葉が終わると同時に、低く沈んだ旋律が立ち上がった。ナイアガラと呼ばれるその仕掛け花火は空に吊るされた火の川のようでゆっくりと緩やかに、時折、裂けるように光が崩れていく。その明滅のなか、ごく自然な仕草で、彼の指先がそっと私の手の甲に触れた。
「……足、痛くないです?」
「大丈夫」
「ん、そっか」
たったそれだけ。でも、逆にそれでよかった。だって、もしそれ以上の何かを重ねてしまえば、いま保っている平然が、音を立てて崩れてしまいそうな気がしたから。
本当はこの瞬間、ほんの少しだけでも彼の手を握り返せていたなら。たったそれだけで、今日という一日がきっとほんの少し変わっていたのかもしれない。彼の言う通り今日の私は��ツン�≠ネのかも、なんて自分の天の邪鬼さ加減に自嘲する。
一発ごとに打ち上がる花火。空に咲いては消えていく光とともに会場はその都度、拍手と歓声、笑顔で満ちていった。するとふと、彼が笑った。少しだけ肩をすくめて私を見ずに前を見たまま。けれど、その横顔にはどこか、満たされたような静けさが宿っていて、私は胸の奥でこっそり息をついた。
「なんか、ああいうタイトルって反則ですよね」
「え、どうして?」
「だって、気づかされちゃうじゃないですかー。あ、これって、片想いなのかも——って」
不意に、視線がぶつかった。それは冗談に見せかけた告白のようであり実際の告白に見せかけた冗談のようでもあった。私はほんの一瞬だけ目を逸らし、それから、ごくごく小さな声で言った。
「じゃあ……そのままずっと——終わらなければいいのにね」
彼が、何かを言いかけた気配があった。けれどそれは、次の花火の音にかき消されてしまった。いや、ちがう。きっと、わざとだ。言葉にしてしまえばもう戻れないことを彼は知っていたのかもしれない。
中盤に差しかかった花火大会は、冒頭の勢いをそのままに、次々と、趣向を凝らした演出を織り交ぜていく。
『さあ、ここで!お待ちかねのメッセージ花火のお時間がやってまいりました。本年もたくさんのご応募、ありがとうございました』
そしてその流れに紛れるように再びステージの方からは、あの陽気なMCの声が響いた。
『さて、今回はなんと!皆さんもよくご存じの、��あの職業の方�≠ゥら届いたメッセージです!』
その言葉を耳にした瞬間、身体の奥が凍りついたように硬直した。隣にいた彼はどこか無表情で静かに目を伏せていた。
『それでは——お送りいただいた、心あたたまるメッセージを読ませていただきます』
MCの声が、いつの間にか静かに沈み、空気の
温度がひとつ、変わった気がした。笑い声も話し声も次第にその場を離れ、会場全体が息を潜めて何かを待っているような、そんな奇妙な静けさが訪れていた。
『こんばんは。自分は一応プロヒーローを生業としている者です』
瞬間、周囲がどよめく。子どもたちが「えっ!ヒーロー!?」と声をあげ、他の大人たちはなぜかスマートフォンを構えはじめる。
どのヒーローが、誰に宛てた言葉なのだろう。そんな事を考えながら私は無意識のうちに自分の両掌を、浴衣の裾の上で強く握りしめていた。
『まあ、ちょっと変わった職業ではありますけど今日はヒーローとしてじゃなく、一人の、ただの男として、ちょっとだけ、話をさせてください』
誰だ、どのヒーローだ——という小さな混乱の中、私はひとり、MCの声を通して読み上げられるその言葉に、耳の奥を預けていた。
『俺には今、とても大切に想っている人がいます。その人とは、ヒーロー活動中に出会って。言葉を交わすたび心がほどけて、守られてばかりだったのは、いつも自分の方でした』
ヒーローからのメッセージ、というからには、
もっと励ましや、感謝のような言葉が続くのかと思っていた。けれどまさかの愛の告白じみた内容に思わず私は小さく吹き出してしまった。なんというかまるで、ドラマのセリフのようだ。きっと隣の彼も笑っているだろうと思って横を見やる。けれど彼は笑っていなかった。意外なほど真剣な表情で視線は空の向こう、遠い一点に据えられたまま。その瞳は、いまここにはいない何かを見つめているようでもあった。
『今日こんなに大勢の人の前でこんなことを言うのはめっちゃくちゃ勇気がいったけど、でも花火って思ってる以上にすぐ消えちゃうので。だからその前に——』
そこで言葉がふっと止まる。一拍、呼吸の隙間のような絶妙な間。それが、これから続く言葉の重みを、何よりも雄弁に語っていた。
『あなたが笑ってくれるだけで、俺は息をして、生きていける。どこまでも飛べるんだって思えます。これからもあなたの隣にいさせてください』
それはたった数十秒の、けれど永遠にも思える紛れもない、愛の告白だった。直後、会場全体がざわめき立ち、どっと拍手が巻き起こる。けれど私の耳にはその音が、どこか遠く、海辺の波音のようにしか届かなかった。
誰かが誰かに、これ以上ないほどのまっすぐな想いを伝えた。ただそれだけのことが、どうしてこんなにも、胸の奥を熱く締めつけるのだろう。もしかしたらこの会場のどこかに、メッセージを贈ったヒーローがいて。もしかしたらその言葉を贈られた誰かも、今夜のこの空を見上げているのかもしれない。
『おふたりとも幸せになってくださ〜い!今日の空が、おふたりの記念日になりますように!』
MCの朗らかな声がそう言い添えると再び周囲が歓声に包まれた。
けれどもう私と隣にいる彼の間では、音も光もどこか後ろに退いたようだった。まるで世界が、ほんのひととき、私たちを静かに見守る側へと、まわってくれたかのように。
花火はすぐに消えてしまう。だからこそ灯ったこの気持ちは、きっと何度でも思い出せる。音の残響ではなく胸の奥で何度も再生される、静かな約束のように。
夜空には、ひときわ大きな爆音が響き渡った。MCのカウントダウンを追うように、五彩の大輪が一斉に弾ける。まるで花火そのものが返事をするかのように。ひとつひとつの音が優しく落ちて、波紋を広げていくような静けさで私たちの耳を、心を、包みこんでいく。
風の音すらもやさしくその調べに吸い込まれてゆく中、私はただ、胸のあたりをそっと押さえることしかできなかった。そうしなければいまにもこの鼓動がこぼれてしまいそうで——。
「……ごめんなさい。驚かせましたよね?」
静寂を割るように隣から降ってきたその声に、私はゆっくりと顔を向ける。さっきまで、なにも言わず夜空を仰いでいた彼が、今はまっすぐに、こちらを見つめていた。そのまなざしに射抜かれたように言葉が口の奥で絡まって出てこない。
「ああやって、改めて読まれると照れますねー」
「……」
「あーあ。ばり、きつかった」
軽口のようでいて、どこか、真剣さの残る声音だった。否定も肯定もできず私はただ瞬きを繰り返す。喉の奥に何かが引っかかって、うまく呼吸ができない。なんなら酸素も足りていない。たぶんいま、この空気の半分くらいは、彼に持っていかれている。
「けど——ちゃんと、伝えたかったんです」
花火の残光が、ふたりの間を柔らかく照らす。
その一言で風景が変わった気がした。どこか浮ついていた祭りの熱がすっと遠のいて彼の存在だけが鮮やかに輪郭を持ちはじめる。ゆるやかに吹く夜風が浴衣の裾をかすめた。
私は、視線を逸らすことができずにいた。彼の瞳は夏の空よりも深くて、あたたかくて、見つめられているうちに、自分が誰なのかさえ、忘れてしまいそうになる。
「ま、待って……え? だって、え……?」
ようやく口から出たのは、まるで翻訳前の感情たちだった。驚きと照れと理解不能な幸福がごちゃまぜになって思考の出口を探して暴れている。
「はい?」
小首を傾げて彼が小さくへらりと笑う。それが腹立たしいくらいに、いつも通りの彼だった。
「いやいやいや……え、ちょっと待って?なに?どういうこと?」
今さらのように手で顔を覆うが、すでに遅い。全身から体温が跳ね上がっていくのが、自分でもわかる。
「ははっ、名前さん、顔……真っ赤ばい」
そう言って彼は心底うれしそうに笑った。こんなに暗いのだから見えるわけがないと言ってやりたかった。けれど目敏いこの人にはどうせすべて見抜かれてしまうのだ。
花火の灯りが私の輪郭を照らすたび、彼は私の色をたしかめるように視線を重ねてくる。
言葉にならないままの答えが、もうきっと伝わってしまっているのだとしたら——それでも今は少しだけ、この胸の鼓動が落ち着くまで、言葉は、もうなくてもいい。
「……やだ、……信じらんない」
ようやく口を開いた私の声は驚くほど小さくてけれど、充分に熱を帯びていた。
「……えっ、なん?」
隣で彼が少しうろたえたような声を漏らす。私はそれにも応えず胸元を押さえたまま続ける。
「ずるいってば……!バカ、バカヒーロー!」
「ええ……、ひどか〜」
「だ、だって……これじゃあ今日、もう何も言えなくなっちゃうじゃん……!」
花火の光が消えて、世界が夜の色に戻っていくなかで、私の感情だけがまだ燃え尽きることなくくすぶっていた。言葉にできるまで、時間がかかったのは、きっと私の弱さのせいだ。
「……言ってくれなきゃ、わかんないですよ?」
すこしだけ拗ねたように、けれど、優しく彼はそう言って、照れくさそうに笑いながら私の顔を覗き込んだ。その笑みに、私はようやくそっと、頷いた。
「——私も、」
風が頬をなぞる。音楽の余韻が遠く、かすかに残っている。彼は静かに見つめたまま次の言葉を待っていた。急かすことも、焦らすこともなく。
「私も、ずっとあなたの隣にいさせてください」
それはようやく届いた返歌のようで、あるいは長い季節を越えてやっと見つけた約束の言葉だった。そのひと言が風にさらわれてしまわぬよう、私は、心の奥でそっと願う。花火はとっくに消えかけているのに、彼の瞳の奥には、まだあの光が瞬いていた。
その夜の最後に打ち上がったのは800メートルに及ぶスターマインと、二尺玉の大花火。視界いっぱいに広がる金と銀の閃光。鼓膜が震えるほどの轟音と共に、世界がふたりを包み込む。光の粒が降るようにして空からこぼれ夜の帳にやわらかく溶けていった。
この夜を、きっと、忘れることはないだろう。空に咲いた彼の想いが、音を立てて私の胸に降り注いだのだから。
*
プログラムがすべて終わり、人々がそれぞれの帰路につき始めた頃、私たちも、臨時バスの乗り場へと足を向けていた。
涼しげな夜風が浴衣の裾を軽く揺らし、喧騒の余韻だけが背後に残る。そんなとき、不意に彼が足を止めた。そして、ポケットに手を差し入れ、何かを取り出す。
「名前さん、はい。これ。」
「ん?」
「渡すタイミング、ずっと逃しとって」
差し出されたのは、柔らかな和紙の袋に入った小さなガラス細工の根付けだった。透明な球体の中には今にも泳ぎ出しそうな金魚の細工がひとつゆらゆらと揺れている。
「え……かわいい。どうしたの、これ」
「さっき、出店で見つけて。名前さん、金魚すくいの前で立ち止まってたでしょ」
「あ、うん……」
「……あのときの顔、なんか忘れらんなくて」
そっと受け取った根付けのガラス越しに微かに街灯の灯りが透ける。私がふと、彼の手元に目をやると、そこにはまったく同じものがもうひとつ握られていた。
「えっ? もしかして、おそろい?」
「はい。……え、ダメでした?」
「いやいや! 嬉しい、です……?」
語尾がどうしてか、疑問形になってしまった。彼はそれを聞いて目尻と眉尻まで下げて笑うと、おどけたように首をこてんと傾けた。
「です?、て。 えー、なんでクエスチョン?」
その仕草に、思わず笑ってしまう。花火の光はもうどこにも残っていないのに、彼のまなざしと手のなかのガラス細工とが、いつまでも心の奥であたたかく灯り続けているようだった。
私たちはまた、歩き出した。混み合う帰り道の雑踏のなか、遠くではまだ誰かの笑い声が響いていて踏みしめるアスファルトには一日中熱されていた名残が、じんわりと残っていた。けれどその温度はもう夕方のように鋭くはなく宥めるように優しかった。私の手のひらにはさっき彼から受け取ったガラスの根付けが、そっと包まれている。指先に感じるひんやりとしたその感触は、夜気に触れた心のように静かで、ただやさしく、そこにあった。
「あの金魚たちさぁー?夏が終わってもずっと、泳げたらいいのにねぇ」
「ですね。でもたぶん、ちゃんと泳いでますよ」
「ん? どこで?」
「ほら、そこで。」
彼はそう言って私の胸元のあたりを人差し指で示した。
「今日の思い出の中で、元気にね?」
「わー、かっこいー」
「はぁ〜?バカにしとー?」
「はははっ!してないって」
歩幅を合わせて進みながら、ときどきすれ違う人の影に浴衣の裾が揺れた。浴衣なんて久しぶりだったけれど、きっと、今日を選んでよかったのだと今なら胸を張って言える。金魚の小さな体が拍子をとるように、籠の巾着の中で揺れていた。空はもう夜の深みへと沈み込み、さっきまで見上げていた花火の残光すら見えない。それでも私のなかには確かに、あの光が、残っていた。するとふいに、彼がぽつりと呟いた。
「……なんか、夢みたいな夜でしたねー」
その声は風よりも静かで、けれど私の胸には、真っすぐに届いた。私は少しだけ首を傾けて彼の横顔を見つめる。
「夢なら、もう少しこのままでいてほしいな」
私のその言葉に彼は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ視線を落として、唇の端で微かに笑った。まるでその小さな笑みに返事のすべてを込めたかのようにして。
消え残る花火の匂いと夜空に咲いた大輪の記憶が、そっと私たちの背を押す。それはまるで、夢の続きを名残惜しむように、空気がやさしく導いているかのようだった。
ひと夏の夜空に願いを寄せて
(……ねぇ、今、何考えてました?)
(……秘密。でも、特別に教えてあげよっか?)
(えっ、特別に教えてくれるんですか?)
(うん。……いまね、私、すっごく幸せ)
(やばか。今のでめっちゃ眠気吹き飛びました)
(眠かったんかい)
(ははっ。好きですよ、俺もすごく幸せです)
(ふふっ、それは良かった)
※Men's by『 燦燦/三浦大知 』
※Women's by『 Bloom/Superfly 』