秋の光はどこか仄白くて頼りなかった。けれど風の匂いは、確かに変わっていた。
 あの戦いから、もうどれほどの時間が経ったのだろう。日数は数えられても、実感はなかった。日々を生きることに懸命で、それでも時間だけはきちんと流れていた。肌に触れる空気が柔らかくなるたび季節が巡っているのだと気づかされる。

 最寄駅の構内にもようやく人の声が戻ってきてしばらくのあいだ、張り詰めたような空気が街を包んでいたけれど、今は少しずつ誰かの笑い声や電車の発車ベルが自然と耳に届くようになった。しかし、完全に元通りというわけではない。傷はそこかしこに残っていた。焼け落ちた建物。臨時閉鎖された路線。警備の人員が立つ交差点。子供たちの手を取る親の手は以前よりも強く握られているように見えた。
 私もまた、変わらず仕事に通っている。仕事があるだけで幸運だとわかっているし同僚との会話でも、以前のように笑い合える。でも、心の奥に棲みついた感情は、そう簡単に消えてくれるものではなかった。
 彼の事を思い出さなかった日はない。テレビや
SNSで流れてきた数々の映像。その中に彼がいた。羽根を失ってもなお戦い続けた背中。沈黙の中で何かを守ろうとしていた瞳。会見で語られた言葉は、その全てを説明できるものではなかったけれど、それでも確かにあれが彼、プロヒーローホークスだった。

 あれ以来——彼の姿は見ていない。連絡が来ることもない。私から連絡する術もない。ふとした瞬間に風の中に羽根の気配を探してしまう。たとえば駅のホーム、夜の交差点、窓を開けた瞬間。なにかを待っているわけではないのに、どこかでずっと彼を探している。もう、戻る場所がないと知っていても、それでもこの世界のどこかに彼が今も確かに生きている。それだけが、私のなかの小さな支えであり、灯火(ともしび)だった。

 日常は、確かに戻りつつある。けれどそれは、少しだけ形を変えた日常だ。声のトーンも、空の色も、微かに違う。それでも私は、静かに淡々と過ぎていく時間のなかで、今日もまた、ただ前を向いて歩くことを選んでいる。もう取り戻せないものもある。けれど、だからこそ、それでも前に進もうとするこの一歩がいつかまた誰かと出会える場所へと続いていくのだと、そう信じたい。

「ねぇ、そろそろ駅前の点灯式じゃない?」
「ほんとだ、今年は64万球とか言ってたよね」
「やば、そんなに? 去年より増えてない?」
「ねー!私、それ見てから帰ろっかな〜」
「じゃあホットワインでも買ってく?」

 はずむ声、笑い合う気配、カップルの手と手がつながれていく。通りのカフェからは甘いミルクとシナモンの匂いが流れ、足元をすり抜けていく自転車のベルの音が遠ざかる。子どもが駆け出し親が慌てて追いかける声が背後に残った。
 この街は季節ごとにこうしてちゃんと笑い方を思い出せる。でも私はまだその笑みの中に自分の音を馴染ませる術を知らない。

 風が吹いた。コートの裾が揺れ髪が頬を撫でていく。彼の名を呼ぶことはない。けれど、今日も私は確かにあのヒーローのいた世界の上を自分の足で歩いているのだ。


*


 十二月の風は指先に痛いほど冷たかった。光の街、博多——。点灯式の余韻が、まだ街に残っている。64万球の壮大なイルミネーション。大屋根に星空をイメージしたスターダストウェーブ、街中の木々には色とりどりの灯が無数に揺れショーウィンドウの奥には赤いリボンが飾られてホリデースポットには高さのあるシンボルツリー。無数の眩い灯が、小さな記憶のように枝の隙間で瞬き、それぞれの光がまるで、過ぎ去った日々の断片をひとつひとつ閉じ込めているようで私はその場に立ち止まりその輝きをただ茫然と仰いだ。言葉も意志も、いまは何ひとつ持たずに。背後からは、通りを行き交う人々の笑い声や紙袋の擦れる音、カフェから漂う甘いコーヒーの香りが混ざり合い私のいないところで世界が確かに回り続けていることを静かに知らせていた。
 目の前の灯りはあくまで優しく、まるで何事もなかったかのように街を照らして、誰もが幸福の続きを信じているように見えるのに私はその中でひとり夜空に溶けていく光の粒をただぼんやりと目で追っていた。イルミネーションの灯りが風に滲む。金と白の光が目の奥で静かに揺れている。

「サンタさん、今どこにいるのかなぁ〜?」
「ちゃんと良い子にしてたから来るよ、きっと」
「じゃあ、クッキー置いとかなきゃ!」

 そんな声が、すぐ近くの通りから響いてくる。鈴の音に似たチャイムがどこかの店先で鳴った。通りすがりのカップルが手を繋ぎながら目を合わせて「寒いね」と笑いあう。アスファルトを踏むヒールの音、電飾を撮るシャッターの音。街は、冬の祝福で満ちている。

「……あ、見て見て!さっきのと色が違う!」
「うわ、ほんとだ。なんか、今年は特別きれいに見えるね」
「うん。……ねぇ、写真撮って?」

 笑顔が眩しい。人々が手を取るその仕草に心が和む。なのに、どうしてだろう。この煌びやかなざわめきのどこかにひとつだけ、異質な静けさがあって気配だけが風に混じっている。今、名前も知らないその喧噪の中に、あの人(ヒーロー)の影をほんのわずかに感じた気がして——。
 そのときふと胸の奥がざわついた。言葉にならない感覚だった。私だけに向けられている誰かの視線。けれどその誰かが誰なのか、わかるはずもない。私は振り返るのをためらった。今このまま振り向いたら、何かが変わってしまうような気がしたから。
 それでも、足元に吹きつけた風が、そっと背を押す。私は、ゆっくりと時間を引きずるようにして光の向こうにある闇をそっと振り返る。人の波。交差点。光と影。冬の冷たい空気に抱かれた街並みの中にひとつだけ時間の止まったような面影。

「………。」

 見慣れたヒーローコスチュームではなく、黒のスーツの上からコートを羽織り首元に巻いているマフラーで口元を柔らかく覆い隠している。ひときわ深い影の中に立つ誰かの姿。その姿はいつか遠くで見ていた誰かのようでいてまったくの他人のようにも思えた。目が合うまでの一瞬が永遠のように感じられた。
 そしてようやく気づいたのだ。そこに——彼がいた。冬の寒さの中にあっても、彼の存在だけは不思議と熱も持ち、あたたかかった。

「——どう、して……」

 声が震えた。最後に彼と、あの部屋で交わした会話。そのときに、何度も私が口にした四文字と同じ台詞。しかし、その瞳は、あの日と変わらずまっすぐで、けれどどこか寂しげに揺れていた。
 彼——ウィングヒーローホークスがゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。ひとつひとつ確かめるような足取りで、過去をたぐり寄せるように。
 そして、ほんのわずかに唇の端を上げて、囁くように言った。

「ナンヨウハギ、ソラスズメダイ、クマノミ……それに、アカウミガメ」
「……え?」

 思わず、息を呑んだ。なぜ、彼の口から突然その言葉が紡がれたのか。どうして今この場所でその言葉が選ばれたのか。心の奥に沈めていた記憶の断片が静かに波紋を広げる。けれど彼はためらうことなく、まっすぐにこちらへ歩み寄ってきた。迷いのない足取りで、続きを語るように、静かに言葉を重ねながら。

「……チンアナゴ、タカアシガニ、ミズクラゲ。
それから、リュウグウノツカイ」

 そのひとつひとつを彼はまるで祈りでも捧げるように、言葉にした。ひと呼吸ごとに、思い出をなぞるように。声は静かで、けれど、たしかな熱を秘めていた。彼が私の目の前で足を止め向かい合って立ったとき、自然と目が合った。

「……あなたが水族館で立ち止まって見てた魚、覚えてますか?」

 その瞬間、あの場所の空気が一気に胸に戻ってきた。薄暗い展示フロア。青い光のゆらめき。彼の隣で、無言で並んで水槽を見つめていた時間。

「今のは、あの日あなたが足を止めた、魚たちの名前です」
「……」
「俺は全部覚えてます。どのガラスの前であなたが立ち止まって、どんな顔をしてたかも」
「……」
「それが……最後ん記憶になる予定やったけん」

 その言葉に胸の奥で何かが崩れた。彼は笑っていたけれどその笑みは決して軽いものではなかった。それは積み上げた痛みの奥に浮かぶわずかな光だった。彼の瞳は今もまっすぐで、でも確かに寂しさを湛えていた。
 冬の冷たい風が吹き抜けるなか、街の喧騒は、どこか、遠くで揺れていた。イルミネーションの光がまたたきながら静かに落ちていく。
 こんなふうに再会するなんて。けれど私の中の時間も、たしかに、彼と一緒に歩いていた。何もかもはまだ戻らない。それでも今、彼の声だけはしっかりと胸に届いていた。

「忘れられるわけがなか。あの日あなたが着てた服の色も、鞄のかたちも、新しい香水の匂いも」
「……」
「あなたがあの日、話した言葉のすべても」
「……」
「水槽を見るふりをして、泣いてるうしろ姿も」

 言葉は淡々としていたけれど、その奥には張り詰めた何かがあった。それは責めるようでいて、そして、祈るようでもあった。

「あなたの爪がきれいだなと見ていたら、それがまさか他のヒーローが見立てたものだって知ったときの苦しみ、ジェラシー、わかります?」

 彼の声が微かに揺れた。けれど、その瞳だけはもう、私から逸らされることはなかった。

「最後にあなたが渡してくれた唐揚げの味付け、添えてくれたパセリの数や、その、位置までも」
「……食べて、くれたんだ」
「ちゃんと食べましたよ。冷めてても泣きながら最後までしっかり。とってもおいしかったです」
「……」
「あなたに関することは全部、ぜんぶ覚えてます。忘れるわけが、ないでしょ」

 その声は低くやわらかく、でも確かに胸に突き刺さった。私はまばたきもできずに、ただ、その言葉の余韻に包まれていた。
 あのときの記憶が波のように押し寄せてくる。水族館の青い光、彼の横顔、水槽に反射した涙。そして、彼のために手作りした唐揚げ。どうして、気づかなかったんだろう。どうして、追いかけもせず手放してしまったんだろう。胸の奥に痛みが浮かんだ。それは、懐かしさでも後悔でもなく、ただ確かに��愛していた�≠ニいう事実だった。

「あなたとどこへ行こうか考えるだけで楽しくて待ってるだけで、ほんと、嬉しくて……」

 彼の声はどこか震えていたけれど、それを押し隠すように笑みを添えていた。心の奥に、じんと広がっていくものがあった。まるで、寒空の下に差し出された焚き火のようなぬくもりだった。

「もう二度と離れないって約束したくせに、約束守れなくて、すみませんでした」
「……」
「俺は——、ヒーロー失格です」

 その謝罪は、誰かを遠ざけるための言葉でも、何かを壊すためでも帳消しにするためでもない。ただ、壊れてしまったものを、今度こそ抱きしめ直すために紡がれたような言葉だった。
 私はまだ言葉を見つけられなかった。喉の奥が熱くて胸の奥で何かがうごめいて、気づけばただ彼の言葉の余韻を追いかけるように静かに瞬きを繰り返していた。

「——初めて会った日のこと、覚えてますよ」

 その言葉とともに、彼の琥珀色の瞳がかすかに細められ光をすくい取るように、ふっと笑った。あのときと同じ眼差し。懐かしくて、そして少しだけ切なくて。胸の奥に触れたその笑みに時間がふと巻き戻る。

「タイプでした、俺の。ドンピシャだった。あの瞬間、時間が止まった」

 冗談めかした口ぶりのその奥に揺るぎない真実が潜んでいる。何でもないように見せかけてそれでも私の心のどこか深く柔らかな場所をまっすぐに貫いていく。胸の奥に、あの日の風景が蘇る。マンションの扉を開けて見つめ返したあの目を。あの、声を——。

「満月の夜、電話もらえなくて寂しかったです。
ついこっちからかけちゃいましたけど。朝方に」
「……」
「バレンタインのヒーローイベント。羽根がモチーフのピアス、照れくさくて、ばり嬉しかった」

 言葉のひとつひとつが私の奥底に静かに沈んでいく。

「靴下をガラスの靴に見立てたの、あれほんとは俺が、あなたの王子様になりたかったんですよ」

 笑いながら言ったその声に私は堪えきれず胸の奥がきゅうっと締めつけられるのを感じた。でも苦しくはない。これは、甘い痛みだ。

「名前さんは、いつも俺を、ヒーローにしてくれましたね」

 その言葉は、ゆっくりと時間を巻き戻すように私の心に降りてきた。静かで、優しくて、けれどどうしようもなく切ない温度を持っていた。
 この人は、自分の罪を誰かのせいにはしない。どれほど傷ついても自分の足で立ち、自分の口で罪を認める。それはきっと、ヒーロー失格なんかじゃなくて、むしろ、この夜の中でたったひとり確かに��愛�≠�信じている人の姿だった。私は、ようやく目を伏せた。頬を撫でた風が少しだけ、あたたかかった。

「……すごい、記憶力だね」
「あなたには負けますよ?」

 冷たい風が彼の髪を揺らす。淡い光の下で、羽根のような金色の髪が、わずかに光を帯びる。彼がそこにいるというだけで、空気の温度が変わった気がした。心臓が、痛いほどに静かだった。この沈黙がもう二度と訪れることのない瞬間のための余白のように思えて——。

「ただひとつ、伝え忘れてたことがあります」

 その声は微かに笑みを帯びていたけれど笑ってはいなかった。私は黙っていた。喉が熱くて何も言えなくて、言葉にすれば崩れてしまいそうで、ただ呼吸のたびに、胸の奥が軋んだ。

「どうしてあなたのことが好きなのか。どうしてあなたじゃないとダメなのか」

 風の音にかき消されるように、その言葉はゆっくりと落ちてきた。彼の声は震えていた。けれどその震えが真実の証のように響いていて、それは誰に見せるためでも、誰かに許しを請うためでもない。ただ、私にだけ届く言葉だった。

「あなたに聞かれたときは、答えられなかった。前、俺に聞きましたよね?どうして?……って」
「……」
「俺はうまく、答えられないままでいました」
「……」
「でも、今なら迷わずに答えられます」

 そのとき彼の瞳が私を射抜いた。懺悔でも告白でもなく、それは��契り�≠フように、どこまでも真っ直ぐだった。

「あなたが、名字名前さんだからです」

 その言葉が、風の音さえ押しとどめるように、静かに胸に降りてくる。街のざわめきも瞬くイルミネーションも、遠くかすんでいく。今この瞬間だけが雪のように、音を失って心に降り積もる。淡くてやさしくて、痛いほどに真っ直ぐな言葉。

「あなたがあなただから。俺はどうしてもあなたから、目が離せない」

 心臓が強く脈を打つ。音も風もすべてが二人を置き去りにしていく中で、ただその視線だけが、時間を堰き止めていた。その目に映り込む自分が誰よりも真実で、誰よりも、愛おしかった。彼の瞳には痛みと優しさが同居していて、それを見ているだけで胸の奥がほどけていくようで、同時に張り裂けそうでもあった。
 あの日と同じ目。けれどもう、あの日には戻れない。そう分かっているのに彼の声がまた、私を呼び戻してしまう。
 その瞬間、私は思った。きっと彼は言葉を選んでいるのではない。言葉の代わりにすべてを差し出そうとしているのだと。痛みも過去も、羽根の傷も、愛した記憶までも。だから、何も言えなかった。ただ、見つめるしかなかった。そして胸の奥でひとつの願いだけを静かに繰り返していた。どうか、もう二度と、傷つかないで——と。

「あなたといるとほっとするのに、なぜかいつも胸が痛くて、苦しくて」
「……」
「それなのに、あなたと離れると余計に胸が痛くなる」

 彼の声は静かだった。けれど、その静けさは、深い湖の底で光をたたえているようで、すこしの揺らぎも見逃したくなかった。言葉が空気を震わせるたび胸の奥に波紋が広がっていく。私は息を潜めた。彼の言葉が途切れるたびに世界が一瞬、止まるように感じた。夜の冷たさと彼の声の温度が、同時に肌の上を通り過ぎていく。

「あなたに出会うまで、自分はどうやって生きてきたんだろうって思うくらい、あなたがいないと俺はもうダメで」

 彼の瞳が微かに揺れる。それは涙ではなかった。けれど、泣く寸前のようにも見えた。言葉にできない感情が、喉の奥に詰まっているのが分かった。私の心臓は、自分のものじゃないみたいに痛んでいた。何も言えない。ただ彼の声のすべてを刻みつけたかった。もう二度と、聞けないかもしれない、その音を。

「いつからあなたのことが好きなのか、自分でももうわからない」
「……」
「でも、きっと。出会ったときからあなたが……名前さんが好きです」

 彼の言葉が夜気に溶けていく。その瞬間、時間が軋んだように止まった。風の音が消え街の灯がさらに遠くへかすむ。彼だけがこの世界の輪郭を持っていて、ほかのすべては滲んでいく。

「ホークス……」

 ようやく声に出してその名を呼ぶと彼は小さく笑った。その笑みは、どこか懐かしくて、でも、痛いほどに優しい微笑みだった。

「もう、ホークスじゃなかよ」

 言葉の響きが、彼の胸の奥からゆっくりと零れ落ちた。その瞬間、長いあいだ、張り詰めていた何かが、ふっと解けるのを感じた。

「正式に——鷹見啓悟です。」

 そう告げた彼の声は凪のように穏やかで深く、そして、真っ直ぐだった。ヒーローという仮面の下に隠れていた彼が、ようやくそこにいた。私は言葉を失ったまま、その名を心の中で静かに繰り返す。——鷹見啓悟。その響きが胸の奥に、優しく降り積もっていく。

「名前さん。あなたが好きでどうしようもない」
「……」
「あなたが、あなただから——」
「……」
「あなたに出会ってしまったから、俺はあなたを好きになってしまいました」
「……」
「そして、今でも俺はあなたを、諦めきれない」

 声は震えていた。けれど、その震えは痛みではなく、ただ正直さの現れだった。ごまかしのない目で彼は私を見つめていた。まるでずっと言いたかったのに言えなかった言葉を、今ようやく掬い上げるように。
 私はなおも黙ったまま頬に触れる夜気の冷たさを頼りに、自分を保とうとした。涙が滲みそうになるのを、なんとか誤魔化しながら。

「名字名前さん。あなたを、愛してます。」

 その声は、夜の底にそっと沈んでいくように、やわらかく私の胸に届いた。まるで、雪の結晶が静かに触れるような、やさしい、決意のこもった言葉だった。
 次の瞬間、彼の腕がそっと私を包んだ。覚えている、何度も夢に見た、忘れもしないぬくもり。過去も未来も善も悪も、すべてを凌駕してしまうただ一つの彼だけが持つあたたかさ。抗う理由はどこにもなかった。心の奥深くに張りつめていた氷の欠片が、彼の鼓動に合わせて音もなく溶けていく。

「傷つけて、心配ばかりかけて、困らせて……」
「……」
「たくさん泣かせて……ほんとにごめんなさい」

 彼の声は、どこまでも静かだった。叫びでも、言い訳でも懇願でもなく、ただ「愛している」と「ごめんなさい」を告げるためだけの声音。私は言葉もなく、その胸元に顔を埋めた。懐かしくて苦しくて、それでも安心する——そんな感情が、いっぺんに押し寄せて、堪えていたものが一気に決壊する。
 泣くつもりなんてなかったのに、涙が堪えきれなかった。涙のひとしずくが、彼のコートに染み込んでいく。声に出して泣くこともできず言葉にならない想いが胸の内で、ゆっくりと形を変えていく。そして、ようやく自分の唇が、震えながらかすかに動いた。

「……——許さないよ。」

 私の声はかすれていたけれど、そのなかにある思いは、ひとつも薄まってなどいなかった。彼の腕が、ほんの少し強くなる。彼が小さく息を呑む気配がした。私の言葉は傷を抉るような言葉かもしれなかった。けれど、それでも。私は今、この言葉を、どうしても、言わなければならなかったから——。

「……許さない。だから、一生かけて謝って。」

 その瞬間、彼がふっと笑った。静かに、でも、どこか安堵したように。まるでそれこそが、彼にとって、いちばんの救いだったかのように。

「一生、怒ってても……よかよ。」
「……、」
「今度こそ……もう二度と、離れとうなか——」

 その声は穏やかでどこまでも誠実だった。もう言葉の駆け引きでもなければヒーローという仮面を被った彼の演技でもない。ただ『鷹見啓悟』という一人の人間の、まっすぐな想いだった。
 私はそっと確かめるように忘れないように彼の肩甲骨のあたりをなぞるように撫でた。そこにはもう羽根はない。けれど、私の掌にはまだ剛翼(それ)があった頃の温もりと感触が、確かに残っている。あの大きな翼で、誰かを守り続けようとしていた彼の背中。その重さ、その優しさ、その痛みすらも私はずっと抱きしめてきた。そしてこれからもきっと変わらずに、抱きしめていくのだろう。

「あの……順番を、間違えたかもなんですけど」

 その言葉は、ひどく不器用だった。自信を装う彼の声の奥に言葉にならない戸惑いや、まだ癒えきらない傷が滲んでいるのがわかる。

「うん?」

 問い返すと同時に聖夜の風が二人の間をそっと撫でていく。街角の香りを運ぶような夜風。通りを行き交う人々の笑い声が遠くに聞こえ、イルミネーションの灯が滲んだ視界の中で静かに揺れている。彼の胸に顔を預けていたせいか、彼の胸の奥から聴こえてくる鼓動は、私のものと不思議なほど重なっていた。

「いま、その。特別に想う、異性なんかは……」
「え?」

 唐突すぎるその質問に、思わず顔を上げる。

「前に、一緒にイルミネーション見てた人とか」

 その言い方に含まれる含意を悟るのに、時間はかからなかった。彼はあの夜を見ていた。羽根の気配に気づかぬふりをしていた私のあの横顔を。

「……ああ。見てたの? どこから?」
「それは——黙秘権を、行使します」
「ふーん……」
「あなたの安全は最後の日に置いていった剛翼で常時、感知してました」

 その言葉に胸が苦しくなった。あの日、無言のままに私のそばに残された赤い羽根。あれは——無償の愛の証だったのか、それとも、祈りだったのか。

「……あれ、やっぱりわざと置いていったんだ」
「はい。でも剛翼を失った日。個性因子が消えたあの瞬間に、あなたの気配も、消えたので……」
「……」
「ずっと……大切に、持っとってくれたと?」

 私は一度だけコクンと頷いた。彼の声は掠れていて感情の波が言葉の端々に滲んでいるのがわかった。私を抱きしめる腕に、さらに力がこもる。背中越しに感じる呼気の温もり。首筋にふれた、彼の顎。少し伸びた髭がくすぐったくて、思わず私は肩をすくめた。そうして、彼の耳元にそっと小さく囁く。

「……安心して。大丈夫。絶賛、独り身だよ?」

 しばしの沈黙。やがて、彼がふっと笑ったのが伝わってきた。その瞬間、私は、心の奥の不安がほどける音を確かに聞いた。

「それは……よかったです。ほんと、よかった」

 その言葉が、どれほどの救いだったのかを知るには、私自身がどれだけ彼の不在を孤独に耐えてきたかを思い返すだけで足りた。

「本当はあのとき……言うつもりだったんです」

 そう言って彼は、私を抱いていた腕を名残惜しそうに離した。その温もりが私の肌にまだ残っているのに急に冷たい風が吹いたような気がして、突然落とされたその言葉に心が不意に音を立てて軋む。そして彼の目が、夜の街の、どこでもない一点を見つめたまま、ふと、静かに言った。

「別れたいなんて、本当は、言いたくなかった。でも、あのとき俺には、あなたを守るきる自信がなかった」
「……」
「羽根があるうちは、どこかで自分を、過信していて……でも、違った」
「……」
「あなたを巻き込む未来が……どうしても見えてしまって。だったら俺が先にいなくなるほうが、いいって、思って……」

 それは懺悔にも似ていて、自分を責めるようなその声音が、なんとも、彼らしかった。
 私はずっと、気づいていた。彼の背中に羽根がある限り、彼は遠くへ飛べる人だと。私のような地上を生きる人間には、手の届かない空の世界があるのだと。けれど、こうしてまた私の目の前にいる彼は、もうその羽根を失っていることを。

「俺、ずるかったんです。本当は、ぜんぶ話すべきだった。でも……あなたの顔を見たらどうしても言えなかった」
「……」
「どんなに冷たい言葉を並べても、やっぱり……あなたを傷つけるのが、怖くて……」
「……」
「だから、中途半端に優しさを見え隠れさせて」
「……」
「あなたを、守りたかっただけなんです……」

 その声はいつかの夜よりもずっと細くて脆い。胸の奥がじわりと熱を帯びてゆく。それは、あのときに感じた突き刺すような別れの痛みとは少し違っていた。悲しみとも怒りともつかない、けれど確かにあたたかくて苦しい痛み。あのときには届かなかった彼の『本当』がようやく触れられる距離にあった。

「やけん今さらですけど、あのときのことを謝りたい。何度でも、頭を下げたい」
「……」
「あなたを置いて出ていったことも、全部、全部ほんと……すみませんでした」

 彼が言葉の通り頭を下げる。胸が痛い。それは彼の弱さを知ったからこそ、愛おしさが深く突き刺さるような痛みだった。私は目を伏せ、小さく呼吸を整えた。彼は頭を上げて、もう一度そっと私のほうを見る。今度は、まっすぐに。

「でも、もう逃げません。どんな形でもあなたと生きていきたいと思ってます」

 そう言い終えたそのときだった。彼は静かに、音もなくその場に片膝をついた。私は息を呑む。すべての時間が一瞬、止まった気がした。

「もう……ご存知の通り、俺の背中に剛翼はありません。無個性の、ただの人間です」

 その告白に悲壮感はなかった。ただ、すべてをさらけ出した人間だけが持つ静かな覚悟がそこにあった。ヒーローの仮面を脱ぎ捨てた鷹見啓悟という人間が今この場で一人の人間に誓おうとしている。彼が、ゆっくりと視線を上げる。

「それでも俺は、あなたには、強欲のままです」

 夜空の下、ざわめく人々の足音にかき消されそうな声で、けれど確かに、彼はそう告げた。その言葉が冬の夜気の中で深く沈んだ。まるで、その重さごと、受け止めてほしいと願うように——。次の瞬間、彼がポケットに手を差し入れて小さな箱を取り出した。その手に握られている彼の背にあった個性と同じ赤い色に懐かしい記憶が、ふと脳裏に蘇る。

 ——『こう、パカってするったい!』

 そう言いながら子どものような目で彼が笑っていたあの日のこと。そのときと同じ仕草で彼は、そっとその箱を開いた。蓋が静かに予言どおりに「パカっ」と開きイルミネーションの灯を受けて銀のリングがきらりと光を弾いた。
 ああ、そうだ。この人はずっとずっと、こんな未来を思い描いていたのだ。ヒーローという世界に背を向けることなく、それでも、一人の人間として、私の隣にいることを夢見ていた。


「——名前さん、結婚してください。」


 その言葉は胸の奥にそっと触れるような声色で告げられた。静寂の中に置かれたたったひとつの祈りのように。
 彼の声は、ほんの少しだけ震えていた。それは寒さのせいではない。恐れでも、迷いでもない。この先を生きるすべてを、私に託そうとするその覚悟が、ほんの一瞬だけ、声を揺らしたのだ。

「俺の、妻になってください。鷹見の名前を——あなたにもらってほしい」
「……」
「もう、ヒーローではないかもしれない。でも、俺は、あなたとずっと一緒にいたいんです」

 言葉のひとつひとつがまるで温度を帯びた雪のように心に降り積もってゆく。
 私は息をすることさえ忘れてしまったように、ただ、目の前に跪く、彼だけを見つめていた。

「俺と、これからの一生を、過ごしてください。あなたを世界一、幸せにします。」

 それは、かつてのホークス——どこか軽やかで誰よりも深く世界を見ていたヒーローが言ったと信じられないほど真摯で真っ直ぐな言葉だった。私の中で何かが溶けていくのを感じた。痛みでもなく、涙でもなく、それは、赦しだった。知らず、頬を伝っていた涙を止めることができなかった。それは悲しみから生まれたものではなく再び手を伸ばしてもよいのだと、もう一度ともに歩いてもいいのだと、ようやく、胸の奥に届いたやさしい許可だった。
 小さく頷いた私の手を、彼がそっと包む。その指先は、氷のように冷たくて、思わず声を上げてしまった。

「ねえ、待って……何時間、外にいたの……?」

 彼はその私の言葉に照れたように目を伏せて、綺麗に微笑んだ。

「ずっとです。あなたを見つけるまで、ずっと」
「……もう。なんで、そんな無茶なこと——」

 言いかけた言葉は、彼の手によってそっと塞がれた。左手の薬指に彼の指が触れる。銀の小さな輪が静かにはめられたとき冬の夜気よりも冷たかったその指輪がじわじわと熱を持ち始め、やがて私の胸の奥にまで届いた。

「俺はねぇ、名前さん」
「……ん、」
「あなたのためなら、なんでもしたいんですよ」

 その声がやわらかくまるで羽のように触れた。言葉に込められたすべてを、私は、知っている。守るために背負ってきたすべてのことを。そしてもう守る場所がひとつだけでいいのだと、彼が、ようやく選んでくれた場所が、私だったことを。

 世界が光に包まれていく。背後には大きなシンボルツリー。金と白の灯りが幾千も瞬き冬の空にそっと溶けていく。それはまるで天から舞い降りた祝福の粒たちが、二人だけの時間にそっと降り積もっていくようだった。
 彼がそっと立ち上がりもう一歩、私との距離を詰めた。そうして、自身の首元のマフラーに手をかけ柔らかな布地をほどく。冷たい夜気に触れて肩をすくめかけた私の前で彼はそれをそっと広げ優しく私の首元へと巻いてくれる。驚きに言葉を失う私に構うことなく、その端を彼自身の肩にもかけると、ひとつの布に私たちふたりを、優しく閉じ込めた。包み込まれたぬくもりが、心の奥にまで染み込んでいく。その静寂は、外の世界から切り離された小さな繭のようで、過去も未来も、今この瞬間だけを守る結界のようだった。
 彼の瞳が、まっすぐに私を見つめる。そして、凍えた私の頬をそっと両手で包みこみながら声を落とした。

「……寒く、ないですか?」

 そう微笑む声は風の音よりも静かで柔らかい。言葉の代わりに私は小さく首を振り、そうして、小さく呟いた。

「もう……寒くないよ。」

 その動きに合わせて、彼のマフラーがふわりと揺れる。ぴたりと顔が近づく。見つめ合ったまま彼の顔がゆっくりと近づいた。視線が重なり吐息が触れ合う距離。次の瞬間、彼の唇がそっと私の唇に重ねられた。やわらかく、けれど迷いのないそのキスには言葉にできなかった時間の空白と、季節を越えてきた想いのすべてが封じ込められていた。
 想いを言葉で交わせなかった日々——触れたくても触れられなかった距離、抱きしめることさえできなかった夜、何度も夢に見て何度も胸の奥で疼いていた再会の形が、ようやくこの瞬間に形を持って息をしていた。街の灯りがにじむ。人々の足音も聖夜のざわめきも冬の風も遠のいていく。この瞬間だけが、永遠のようにゆっくりと伸びていた。まるで、この世界に彼と私しかいないかのように——。

 私は目を閉じる。彼のぬくもりと共に冬の光が胸の奥で静かに溶けていく。風が止み世界が祝福の色に変わっていくのがわかった。
 長い夜の果てに辿り着いた約束の場所で、私もようやく今ならば、心から真っ直ぐに素直な声で言える気がした。

「——おかえりなさい、啓悟くん。」

 その言葉は吐く息よりも白く、けれど温かい。冬の空気の中にだけ存在を許された、一輪の灯のように。

「ただいま、名前さん……。」

 世界は静かだった。夜の空気はひんやりと頬を撫で、私たちを包むように頭上に広がっていた。凍えるような静けさの中で夜空は限りなく澄んでいて、遠くで雪が降り出す気配がした。けれど、その夜はひとつも冷たくなかった。
 街の大型ビジョンには、新たなヒーローたちの活躍が映し出されている。光の粒となって流れていく彼らの姿は、確かに、まぶしかった。
 幾度も焼き付けられた『正しさ』の象徴たち。でも私はもうただ眩しさに憧れる事はなかった。そこにいない誰かを想って、目を細めることも。

「名前さん、」
「……ん?」
「たとえ翼がなくなっても、俺は——」

 ——とある怪物の英雄譚。
 人を傷つけた醜い怪物が少女を守るためだけに戦い、最後はヒーローの手によって処刑された。人々は口々に言った。『正義は、成された』と。それが、世界の正義。


「あなただけのヒーローで、あり続けたい。」


 もしも、あの話に続きがあるなら。もしも語られなかったページがまだ残っているのなら。私はその怪物を、そっと抱きしめてあげたいと思う。それが罪であっても愛であってももうどちらでもいい。他人がどう呼ぼうと、どれほど世界が非難しようと私だけは知っているから。その背中にはかつて、確かに羽根があったのだということを。それだけは、私は一生忘れない。





永遠の代わりにあなたの名を呼ぶ



(もう、早く行くよ?飛行機、間に合わない!)
(待ってって。お揃いのパジャマ持ちました?)
(もうそんなのいいって。じゃあね、バイバイ)
(あっ、それダメ!それは、トラウマやけん!)
(も〜ぅ、早くしないと置いてくよって意味!)
(それ、ぜったいに二度と言わんでほしかっ!)


※image song『 クリスマスソング/back number 』


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