午後の光がガラス越しに柔らかく落ちていた。外界からやや切り離されたこの空間は白すぎず、暗すぎず長時間神経を張りつめて生きている人間がほんの少しだけ呼吸を緩められるようにうまく設計されている、と。少なくとも私はそう感じている。壁面に並ぶのは一般向けの端末ではなく、公安規格に基づいた特別仕様の通信機器ばかりで外から見れば無機質で、どこか、感情の入り込む余地のない空間に見えるだろうが、私にとってはここが日常であり、仕事であり、そして守るべき境界線そのものだった。
「名字さん、今日は二番カウンター?」
「はい。二番がいちばん、きれいなので」
「わかる〜。このあいだ改装入ったから」
「そうなんですよ。早い者勝ちです」
ここは公安特別通信管理室・ヒーロー専用端末保全課。私の、職場である。この長い正式名称を職員同士では『端末保全』などと、呼んでいる。プロヒーローのみが出入りを許される、いわば、裏方の裏方で専用携帯端末の管理、修理、交換、そして何よりも、重要なセキュリティの維持——情報という名の弱点を、誰にも渡さないための、最後の砦だ。個人情報管理は極めて厳重。端末は番号でなはくコード管理制で、修理や交換時も、中に触れない設計で端末を預けるルールが厳格。貸し出す代替機すらも管理されている。ログイン認証は二重三重、過去に情報漏洩はゼロ。それがここの誇りであり信用の根拠だ。だからここでは誰もが淡々としている。対応は同じ。誰がどんな任務に就いていようと、どれほど名が売れていようとも、ここに入ってくる瞬間だけはただ一人の人間として迎えたい。それがこの部署に流れる、言葉にされない共通認識だった。騒がない、詮索しない、覗かない——。それがこの場所の当たり前の空気だった。
「名字さん、先に休憩いただきますねー」
「はーい。ごゆっくり」
午前の受付が一段落し、次の来訪者までのわずかな静寂に、私は、端末のログを確認していた。指先が画面を滑るその動きは、もはや考える前に身体が覚えているもので、だからこそ入口の自動ドアが開いた音を私は、気配として受け取った。
足音が軽い。けれど、急いではいない。視線を上げるとそこにいたのは、大きな翼を背に負った青年だった。彼は一瞬きょとんとしたあと、気の抜けたように口角を上げる。
「いやいや〜、どうもー」
赤い羽根。軽装。そして年齢にそぐわない現場慣れした雰囲気。ホークス——その名前が反射のように、頭に浮かぶ。テレビやニュースで何度も見てきた姿と実際に目の前に立つ彼とのあいだには、思っていたよりも大きな乖離はなかったが、それでも画面越しでは決して伝わらない、生身の温度のようなものが、確かにそこにあった。
十八歳でデビューし、すでに、名前と顔が一致してしまうほど世間に消費され始めている存在。若い。それでも、ヒーローとしての立場が、彼の輪郭を少しだけ、大人びたものにしていた。
「ホークス、お疲れ様です」
それは挨拶というより労いに近い言葉だった。ここでは、一般的なモバイルショップのように、「いらっしゃいませ」は使わない。「お疲れさまです」は、それよりもずっと自然で、相手の肩に乗っているものをほんの少しだけ下ろしてもらうための合図も含まれていた。彼は一瞬だけ瞬きをしてから、すぐに口元を緩める。
「おつかれさまでーす。スマホ、逝っちゃいましたぁ〜。たぶんコレ、完全に」
へらへら、という表現を、そのまま貼り付けているような軽い表情と口調。けれど馴れ馴れしいわけでも、甘えてくるわけでもない。不思議と、不快感はなかった。私は、カウンター越しに差し出された端末を受け取り表面の損傷と水分反応を確認する。
「水か衝撃、どっちですか?」
「両方っ!ですねー」
ああ、やっぱりね……。内心でそう思いながら濡れた跡、微細なヒビ、反応の鈍さ——見慣れた症状ばかりで、そこに特別な驚きはなかった。
「使用状況、覚えていらっしゃいますか」
「昨日の夜、海の上です。任務終わりにちょっと油断しました」
それだけでだいたいの状況は察せた。高速移動、空中戦、水場。この仕事をしていれば、ヒーローの生活がいかに端末に過酷かは嫌というほど知っている。
「海水がいちばん、厄介なんですけどねぇ……」
「そーなんすか?いやいや、すんませんほんと」
「……支給されてから、結構酷使してますよね」
「まぁ〜……空飛んでるんでね。だいたい、こうなりますよ」
自嘲でも、愚痴でもない。事実をそのまま口にしているだけの声音だ。私は端末を操作しながら軽く続ける。
「んー......内部まで、浸水してますねぇ」
「あちゃ〜、っすね」
「……基板の交換が必要になりますよ。データの復旧は——」
「あ、できる範囲で大丈夫すよ?任せまーす」
即答だった。不安も焦りも、表には出さない。しかしそれが、彼の選んだ態度なのだろう。私は受付端末に必要事項を入力しながら淡々と説明を続ける。期間や、セキュリティの確認。それらをひとつ一つ確認事項として積み上げていく作業は感情を挟まないことで成立する。そんな中、ふと視線を感じた。顔を上げると、彼がこちらを見ていた、というよりも、正確にはなんだか安心したような目をしていたという表現が近い気がする。
「おねーさん、ずっとここにいるんですかー?」
「ずっとの範囲がわからないですけどいますよ」
「俺、初めて来たんで」
「初めてですね、履歴がないので」
「……ここ、静かっすね」
「……はい、静かですね」
「いいですね、ここ……」
「はは。そうですか?いいのかなぁ」
それ以上でも、それ以下でもない返答を返すと彼は少しだけ肩の力を抜いて、へらりと笑った。
「なんかこう、ヒーロー扱いされないのがいい」
その言葉に私はほんの一瞬だけ、指を止めた。けれどそれは感情ではなく職業的な確認のための一拍だった。
「私たちは、仕事をしに来てるだけですからね」
「うーん、たしかに」
「個性があってもなくても業務内容は同じです」
「ふむふむ」
「ただの簡単な対応も、水没対応も、同じです」
「はは……それ、助かりまーす」
その笑いはさっきよりも少しだけ彼の素が出ていた気がした。それでも彼の笑顔が可愛らしいという評価自体は、どうしても否定できなかった。柔らかく目尻が下がる表情は相手に安心を与える形をしていて無意識のうちに距離を縮めてしまう類のものだ。��女性ウケしそうな顔立ち�≠ニいう事実も、理屈ではなく感覚として理解してしまうのが少し悔しくて私はその感想を心の内側にだけ留めたまま、何事もなかったふりをして続けた。
「こちらでは皆さん、同じ��利用者�≠ナすから」
「ははっ。たしかに。ヒーローしか来んでしょ」
「ですね。でも、今の時期、特に大変ですよね」
「へっ? だれがです? プロヒーローたち?」
「あなたが」
「オレが?」
「デビュー直後で、取材も任務も、一気に降って来る頃でしょうし」
「……あー、それ」
彼は少しだけ肩をすくめてから息を吐き視線を天井に逃がした。
「正直、まだ慣れてないっすね」
その言葉が、ぽろりと落ちる。私はそれを拾い上げすぎないように、けれど無視もしないように少しだけ間を取った。
「そりゃそうですよ」
「ん?」
「デビューしたばかりで、ここまで騒がれたら、肩も凝っちゃいますよね」
ほんの軽口のつもりだった。ヒーローだからといって特別な言葉をかける必要はないしかけすぎればそれはまた相手にとっても別の負担になる。彼は一瞬だけ目を瞬かせてから、ふっと笑った。
「……なんか、ここ来ると、ちょっと楽っすわ」
私はその言葉に一瞬考えてからあくまで業務の延長として答えた。
「そう言ってもらえるなら、よかったです。直るまでしばらく、不便だと思いますけど」
「っすね。どーぞ、よろしくお願いしまぁーす」
淡々とそう告げると彼はふとこちらを見て小さく笑った。それ以上、会話が続く事はなかった。修理内容の説明を改めてして、期間と注意事項を伝え、必要な確認を終える。
「では——これが、代替機です」
「はーい」
「お好きなようにケースとかはつけていただいて構いません」
「了解でーす」
手続きは滞りなく進み、業務としては、なんの問題もなかった。最後に代替機を受け取ると彼は軽く会釈をして出口へ向かう。自動ドアが閉まる直前、背中の羽根がわずかに揺れた。私は、その背中を特別な意味で見送ることはなかった。ただ一人のプロヒーローが、業務の一環としてここを訪れ端末を預け、そして去っていったそれだけのことだと。
それでもなぜだろう。彼の足音が完全に消えたあと先ほどまで確かにあった空気の温度がほんの少しだけ変わったような気がして私はその理由を考えないまま次の業務へと意識を戻した。それは感情ではなく仕事の一部のようなものだと自分に言い聞かせながら。
この場所は、誰かの個性を休ませるための場所ではない。けれど結果として、そうなってしまうこともある。そんなことをまだ言葉にする必要はなかった。
しかし、この日が長い時間の最初の一点になることを、私はまだ知らない。それこそ知る必要もなかった。ただ羽音を連れてきた来訪者が確かにここに立っていた。それだけを記憶の底に静かに沈めたまま——。
*
最初は偶然だと思っていた。プロヒーロー専用端末保全課、通称『端末保全』では担当者の指名自体、珍しくない。相性の問題もあれば、説明の仕方や作業の癖、報告の簡潔さなど理由はいくらでも付けられる。だからこそ、あの日以降、彼、ホークスが来るたびに、受付で私の名前を挙げるようになったことを、それを特別視する理由にはならなかった。
「前と同じ人でお願いしまーす」
それだけの言葉。彼は自動ドア横の簡易受付で個性である羽根をぱたぱたさせながら、好意でも期待でもなく、ただの業務上の選択として、私を指名する。こちらとしても、そう解釈することになんの抵抗もなかった。
彼が再び現れたのは、最初の修理引き渡しから一週間ほどが経った頃だった。まだ昼下がりで、来訪者の少ない時間帯だ。
「お疲れ様です、ホークス」
受付カウンターに向かって来るや否やそう声をかけると、彼はすぐにこちらを見て、パァと顔を綻ばせ、軽く手を上げた。まるで飼い犬である。目を細めたらブンブンと振り回している尻尾でも見えそうだ。
「どうも〜。また、俺なんすけどぉ」
「今日も、無事じゃなさそうですね」
「はいっ! 今度は落下!」
はは、と苦笑いと一緒に差し出された端末は、確かに画面が割れていた。私は受け取りながら、内心で今回も「ビンゴ」と思う。空を飛ぶ生活はどうしたって、機械に優しくはないだろう。作業内容を確認しながら私は、淡々と説明を進める。けれど彼の視線が前よりも少しだけ長くこちらに留まっていることに気づかないほど私とて鈍くはなかった。
「前さ、おねーさんにここで直してもらってから調子よかったんすよねー」
「それはよかったです。今回はパーツ交換だけで済みそうですね」
「じゃあ、またお願いできます?」
その言い方があまりに自然で。まるで最初から決まっていた、流れのようで。私は一瞬だけ間を置いた。それは迷いではなく一種の確認のための呼吸だった。
「はい。担当します」
そう答えると、彼は安心したように、わずかに肩の力を抜いた。それが二度目のお話。三度目はさらに間隔が短かった。雨の日の任務帰りに全身ずぶ濡れになって現れたホークス。聞けば、どうやら端末にも水が入り込んだらしい。
「いやいや……ほんと、すんませんねぇ」
「いえ。想定内ですから」
「想定内って言われるとちょっと救われますね」
そんなやり取りを私は記録の一部のように記憶していく。特別な会話ではない。ただその都度、彼がここに来る理由が、少しずつ慣れに近づいていくのは感じていた。それは職場の同僚たちも、気づいていないわけではなかった。
「——ねえ、最近さ。ホークス、よく来るねー」
「……だね。飛ぶ・跳ねる系個性持ちのヒーローたちは、端末壊しがちだから」
「それにしてもさぁ?い〜っつも、名字さん指名じゃなーい?」
「え?あ、ああ……初めて担当しちゃったから、向こうも楽なんじゃないかな?」
休憩室でのそんな何気ない会話に私は曖昧に、そして、やや適当な返しで、笑って答える。
「そうかなー。若いヒーローほど、時間を最優先しがちじゃない?」
「……そう?」
「うん。早く対応してくれる担当者、選びがち」
「……じゃあ、たまたま なんじゃない?」
それは、嘘ではなかった。少なくとも意図的にそうなったわけではない。彼は、決してこちらに踏み込んでこない。仕事外の話題を無理に広げることもない。ただ修理のたびに同じ場所に来て、同じように「お疲れ様です」と言う。それが少しずつ私の中で、��日常の一部�≠ノなっていった。まあ、それだけ他のヒーローに比べて、彼の利用頻度が、多いってだけの話でもあるが……。
そんなある日のこと。その日も彼の端末を操作している私の目の前で、彼がふと口にした。
「ほんとここ、落ち着くんすよねー」
「……そうですか。それはよかったです」
「なんかほら、ばーちゃんちの縁側みたいで?」
「おばあちゃん、いるんですか?」
「さあー、自分のは会ったこともないすけど」
「たとえ、ってことですね」
「そうそうっ!たとえ話ス」
軽い言い方。通称『ヘラヘラ』。でも、その声には、冗談だけでは片づけられない重さのようなものがあった。私はそれを深追いしない。ここは仕事場で彼はヒーローで、私はその端末を預かる立場の人間。だからこそ私は、線を引く。相手が未成年であることも職業倫理も理由はいくらでもあった。
「でも。意外と、そう言われること多いですよ」
「え、そーなんすか?」
「まあ……縁側っていうヒーローはいないけど」
「じゃあ俺も、その��多い方�≠チて、ことで!」
それでも修理指名というささやかな偏りが積み重なっていくにつれて私は、否応なく、気づいてしまう。彼がこの場所を選んでいること。そしてその窓口として、私が必ず指定されているという事実に。だがしかしそれは、好意ではない。期待でもない。けれど確かに、無関係ではなかった。とりあえずこの日も一通り手続きは終え、端末を返却するカウンター越しに、彼が言う。
「また、何かあったら来ます」
「……できれば、何もないのが一番ですけどね」
「それが無理なのが、俺の仕事なんで♪」
そう言って笑う彼を見ながら、私は思う。このヒーローは、ここでだけでは羽根を畳んでいる。その事実を、特別な意味に変えないために、私は今日も淡々と、けれど丁寧に修理を引き受ける。それが今の私にできる、最善の距離だったから。
*
その日は空模様よりも先に、気配でわかった。自動ドアが開いた音のあと、羽根が擦れるような独特の微かな音。この職場に長くいれば足音や話し声よりも先に人を識別する感覚が育っていく。それが職業病だとしても私はそれを悪い癖だとは思っていなかった。
「あらま。お疲れ様です」
密かにお気に入りの二番受付カウンター。ふと顔を上げると、予想通りの赤が今日も、そこにはあった。
「……は、い。どうも。お疲れさま、です……」
なんだか今日は返事が少しだけ、歯切れ悪い。しかし私はそれだけで今日も��無事ではない�≠ニ察する。
「——で、今回は何ですか?」
「……、プール、に」
短く言って彼は端末を、おずおずと差し出す。受け取った瞬間、私はほとんど条件反射のように内部の状態を思い描く。塩素、水圧、衝撃。この組み合わせは携帯端末にとって最悪中の最悪だ。
「……中、かなりやられてますね」
「ですよね〜……」
「長時間、浸かってました?」
「気づくのが……遅れまして」
苦笑いの奥にほんの少しだけ疲労の色が滲んでいる。私は端末を作業台に置きながら、いつもの手順で状態を確認し、修理可能かどうかを、判断する。数秒の沈黙のあと、私は現実的な選択肢を口にした。
「これ、次も同じことになる可能性高いですね」
「え」
「完全防水のモデルに機種変更する申請、こちらから出しましょうか?」
それは業務として、最善の提案だった。データ保全の観点でも、コストの面でも、理屈は通っている。けれど彼は露骨に、嫌そうな顔をした。
「えー、なんかぁ……」
「なんか、なんですか」
「んー、ゴツいじゃないすかぁ……」
「まあ……耐久性、優先なのでね」
「わかってますけどぉ。見た目が、こう……」
そう言いながら作業台に置かれた自分の端末をちら、と横目で見る。薄くて軽くて、無駄のない形状。一般的にも古くからの人気モデルである。しかも、彼の端末はその中でも最新型だ。
「これ、気に入ってるんすよ」
私は一瞬だけ、彼の横顔を見る。それは単なる嗜好の話のようでいて、もう少し、深いところに触れている気もした。
「ホークス?」
「はーい?」
「ヒーロー活動的には、完全防水の方が確実に、向いてますよ?」
「うーん……ですよねぇ」
しかし彼はそう言いながらも首を一向に縦には振らない。
「でも、なんていうか。あんまり
「じゃあ、とりあえず今回は内部パーツの交換とコーティング強化で対応しますね」
「はい!」
「完全防水ほどではないですけど今よりは持ちが良くなると思います」
「あ、それでお願いしまーす」
「でも検討はしておいてくださいね。完全防水」
私が言い終えると彼は、ほっとしたように息を吐いた。頷きはしないところを見ると最後の私の言葉は聞かなかったことにしたのかもしれない。
「いやー、ほんと。助かります」
「いえ。壊す前提で使われるより壊れにくくすることの方が、私たちの仕事なので」
私が淡々とそう述べると彼は少しだけ喉の奥で笑った。
「……それ、なんかいいっすね」
「ん?何がですか?」
「ちゃんと、現実的」
ウインク付きのその言葉を私は深く、受け取らない。仕事中に感謝や褒め言葉を受け取るのは、慣れている。けれど、心のどこかでは、理解してしまう。彼が『ゴツい端末』を嫌がる理由。それは単に重いからでも、ゴツいからでも、手触りの問題でもない。��ヒーロー仕様�≠ノこれ以上寄せたくない——。そういうささやかな抵抗。だから私はそれ以上、踏み込まない。彼が選んだ輪郭を仕事の名目で削り取ることはしない。
「更に同じ状況が続いたら、そのときはまた相談しましょう」
「はい。できれば、しばらく来ないで済むように頑張りまーす」
「それ、毎回聞いてますけどね」
「うわ〜、信用ないなぁー」
そう言ってヘラヘラと笑う彼を見ながら私は、その日も端末を預かって、彼に代替機を渡した。また修理案件が一件増える。それを特別なことにしないまま積み重ねていく。この人が防水端末を選ばない理由を私はまだ言葉にはしない。それでいい。今はただ壊れやすいものを壊れにくくするだけで。それが私たちの関係にちょうどいい防水レベルだった。
*
その日は、少しだけ慌ただしい音で始まった。自動ドアが開く音がいつもより早く勢いを含んでいて、続いて聞こえた足音も、迷いがなくて——それだけで私は顔を上げる前から誰が来たのかを察していた。
「お疲れ様です!っていうか、助けてください」
簡易受付を素通りして直接、私のカウンターに向かってきた彼は息を切らすほどではないけれど背中の羽根がわずかに、バサバサと揺れている。ホークスは、カウンターに着くなりポケットから端末を取り出して、こちらに差し出した。
「なんか、電源つかなくなったんですけどっ!」
「わかったから、落ち着いてください」
私は冷静にそう言いながら、端末を受け取る。表面に目立った損傷はない。水濡れ反応も、今のところは出ていないようだ。
「いつからですか?」
「さっき!さっきまで普通に使えてたのに、急に真っ暗になって……」
「充電は?」
「フル充電」
「再起動は?」
「三回しました」
ちゃんと一通り試しているあたり彼なりに学習しているのが伝わる。私は端末を作業台に置き、専用ケーブルとパソコンを繋いで、電源を長押ししながら内部ログを確認する。
「多分、システムの一時的なフリーズですね」
「え、直ります?」
「はい。今、起動しますね」
そう言った直後、画面が、ふっと明るくなる。見慣れた待機画面だ。それを見て彼は「あ」と、目を丸くした。
「……え、もう?」
「はい」
「早……」
「速すぎる男より早いでしょ?」
「うわー。その称号もう使用済みだったんすね」
「まあ、今回は簡単なものだったので」
私は淡々と答えながら簡易チェックを進める。彼は、カウンターに肘をつき、少しだけ身を乗り出してこちらを覗き込んでいた。その視線を感じながら、ふと、彼の目線が私の胸元に落ちたのがわかった。——名札だ。この職場では当たり前の白地に黒文字の小さな長方形。すると彼がほんの一拍置いてから言った。
「名字さん」
その呼び方が思いのほか、静かに胸に落ちた。今まで彼は、私の名を呼んだことなどなかった。たぶん必要がないからという理由だけで。それが今、このタイミングを持って、自然に距離が近くなってしまった。
「……はい、」
それでも私は何事もなかったかのように返事をする。けれど心のどこかで胸につけた名札の重みがほんの少しだけこの瞬間、変わった気がした。
「これって、すぐ直るやつだったんですねー」
「……ええ。今日は珍しく、優しい症状です」
「ははっ、よかった……」
彼は心底ほっとしたように息を吐き、それから思い出したように言った。
「そういえば、前から気になってたんですけど」
「……なんですか?」
「ここって、歩合制なんすか?」
少し身構えてしまったが唐突な質問に私は一瞬だけ手を止める。そしてまた、淡々と業務に戻りつつ言い返す。
「……どういう意味ですか?」
「いや、俺、結構来るじゃないですかー」
「来ますね、結構」
「そしたら、名字さんのボーナスが上がったりとか……」
ん……?真剣なのか冗談なのか、判別しづらい顔である。私はちらりと目だけでその顔を伺ったあと、すぐに視線を注意事項の用紙に戻してから即答した。
「ないですよ」
「一切?」
「一切」
「えー、夢がないなぁ〜」
「まあ、公共機関なので」
「そっかぁ……じゃあ俺、ただ壊しに来てるだけじゃないですかー」
「ほんとにね。壊しにばっか来てる系ヒーロー」
「ひどい」
そう言って悲しそうな顔をしつつも彼は笑っていた。その笑みが場を軽くするためのものだと、私はちゃんと、わかっている。
「でも、ここ来るとほんと、安心するんすよ」
「いいよ、毎回来るたびにそれ言わなくても」
「えー、だって本心ですし」
「それは、ボーナスには換算されませんけどね」
「まあ、気持ち的なやつってことで」
「それなら、受け取っておきますか」
端末の最終確認を終えて私はそれを彼に返す。彼は受け取りながら、もう一度、私の名札に目をやった。
「……名字さん」
「はい?」
「また来ますね」
「……できれば、来なくて済むのが一番です」
「それ、毎回言われる」
「事実なので」
彼は肩をすくめ軽く手を振って出口へ向かう。その背中を見送りながら、私は、名札に触れたい衝動を、静かにやり過ごした。
ただ、名字で呼ばれただけ。それ以上でもそれ以下でもない。それなのに、先の彼の呼び方は、これまでの『呼ばれなかった距離』とは確かに、違っていた。
名前は境界線だ。呼ぶことで、ほんの少しだけこちら側に近づく。でも、まだ大丈夫。私はそう思いながら次の業務へと意識を戻した。まだこの距離ならば守り切れる、と——。
彼が来るとき、もう私は驚かなくなっていた。頻度が増えた、というほどではない。ただ、来る理由に説明がいらなくなった、というだけだ。
修理内容は大小さまざまで致命的な故障の日もあれば今日のように「なんとなく調子が悪い」という曖昧な訴えの日もある。その日、彼はいつもよりも少し遅い時間に現れた。
「お疲れ様でーす!」
声をかけるより早く彼のほうが先に言う。その流れがもう自然すぎて、私は一瞬だけ瞬きをしてから、何事もなかったように応じた。
「お疲れ様です。今日は、どうしました?」
「画面が、たまに反応しなくなるんすよー。一瞬だけ、ほんと一瞬」
端末を受け取りながら私は頷く。そして慣れたように端末を操作した。
「最近、アップデート入りましたよね」
「あ、入りました」
「その影響かもしれませんね」
「あー......それ、俺よく引き当てるやつ」
苦笑い。私はちら、と彼を見てから端末をチェックしつつ、設定とログを確認していく。彼は、待っているあいだ、特に話しかけてくるでもなくカウンターの向こうで静かに立っていた。急かさない。覗き込まない。それが彼なりの距離の取り方なのだと、最近ではわかる。
「ソフト側ですね。調整すれば問題ないですよ」
「わー、よかった……」
「少し様子見てください。また同じ症状が出たら遠慮なく」
「はいっ、名字さん」
——また、呼ばれた。訂正もしないし意識的に使っている様子もない。ただそこにある呼び方。私は端末を返却しながら、ふと思い出したように足元の箱に目をやった。メーカー名のロゴが入った段ボールだ。中身は、画面クリーナーのストラップ。販促用に以前、大量に届いたものので正直デザインは……お世辞にも、洗練されているとは言いがたい。しかし私は足元の箱からその一つを取り出した。
「……これ、要ります?」
「ん? なんすか、それ」
「画面クリーナーです。ストラップタイプの」
彼は訝しげな顔をしつつ、しっかりと受け取り手に持ったそれを、まじまじと眺める。
「え……ダサ。ダサくないす?これぇ」
「二回言った。まあ……うん、ですよね」
「メーカーさん、これで通したんだ……」
「通したみたい。どのヒーローたちも即答でいらないって言う」
「でしょうねぇ……」
ちょうどそのとき、なんというタイミングか、別のヒーローが対応を終えて目の前を通りかかり他のスタッフからも同じものを勧められており、即座に首を振っている光景が私たちの目に入る。
「いや、大丈夫だ」
「私も遠慮します」
皆、口を揃えて断っていく。私はそれを見て、「いらないよね」と、内心で頷きながら最後に、もう一度、ホークスを見る。
「……無理にとは、言いませんけど」
そう言って、また彼の手の中から回収しようとした、その瞬間だった。
「もらいます」
「え?」
「これ、もらいます」
理由を説明するでもなく彼はそれを、さっさとヒーロースーツのポケットへと収めてしまった。
「他のヒーローいらないって言ってましたけど」
「俺、使います」
「……かなり、ダサいですよ?」
「知ってます。画面、よく拭くんで」
それでも、迷いがない。私は思わずぱちぱちと瞬きを繰り返してしまう。それが、本音なのか、ただの口実なのか私にはわからなかった。けれど業務としてそれ以上、言うことはない。
「じゃあ、どうぞ……」
「ありがとうございます」
彼は軽く会釈をして出口へ向かう。羽根が揺れドアが閉まる。私はその背中を見送りながら足元にある箱の中身を確認する。まだ、山ほど残っているストラップの山。たぶんあれは、彼以外は、使わないだろう。そんなことを考えながら、次の業務に戻った。
しかし、後日。テレビで彼を見かけたとき私は一瞬、視線を逸らすことを忘れてしまった。彼の端末の側面に、見覚えのあるストラップが揺れていたのだ。例の、画面クリーナーだった。しかもきちんと外れないように、補正されて付けられている。胸の奥でなにかが小さく鳴る。呼び方も、距離も、小さな物の扱いも……彼は、選んでいるつもりはないのだろう。ただ気づいたらそうしている。相手をちゃんと、名前で呼ぶ。余りものを受け取る。それを、ちゃんと使い続ける。私は、それら全てを意味づけしすぎないようにしながらそれでも確かに、記憶に留めてしまう。
無意識はときどき、一番正直だ。その正直さにまだ名前はつけない。つけるにはもう少しだけ、時間が必要だから。