霜月の風は、冬に入りきれないまま迷っているようで、朝晩の冷え込みは日ごとに増し、駅へと続く銀杏並木の足元には、黄色い葉が折り重なるようにして積もっていた。吐く息がうっすら白くなる頃、私はふと季節の輪郭がぼやけている事に気づいた。
空気が乾いてコートの裾がはためく音ばかりが耳につくようになると、どうしてだろう、誰かとの距離もいっそう遠くに感じられるようになる。その違和感は小さな予感だった。けれどそれは、確実に私たちの間に言葉にならない影を落としていた。
別れ際、彼は言った。「俺たちはもう違う方向を見てる気がするんです」と。それはあまりにも曖昧で私を責めることも自分を守ることもできるような言葉だった。
私は黙ってその場に立ち尽くすしかなかった。問いただすにはあまりにも彼の瞳が冷たく同時にどこかで怯えているように見えてしまったから。納得なんてしていないのに私はただ、何も言えぬまま、剛翼を背負っている彼の背中を見送った。その日から私は音の消えた生活に身を置くようになった。彼と一緒にいた頃、部屋にはいつも羽音のような気配があって玄関のドアが開くと同時に風が入ってきて、彼の声が明るく響いたものだ。広いベランダに出ては「やっぱ空っていいすね」と笑い、カーテン越しに朝陽を見つめながらコーヒーを淹れる姿が、やけに印象に残っている。
別れを告げられたのは十一月の終わりだった。冬の始まりを知らせるように空が曇りはじめ街路樹が葉を落としきる前に彼は突然、姿を消した。言葉はあったけれどそれはどこか借り物のようで「あなたが傷つくだけなんです」だの「このまま住んでてもらっていい」だのと、耳馴染みの良いフレーズばかりが並んでいた。
何かあるのだろうと最初は思っていたが、今となっては彼が本心で言っていたのか、それすらもわからない。けれど私は、問うことも縋ることもできなかった。ただ気がつけば彼の緋色の背中が遠ざかっていた。
ある日センターの同僚から合コンに誘われた。その飲み会の席で隣に座った男性から悪気のない笑顔で「あなたみたいな素敵な人がフリーだなんてもったいない」と言われ私は笑って首を傾げたものの、この端末に新たに誰かの番号を登録する気にもなれず、帰り際、だれよりも早くコートを羽織り夜風の中を歩いた。街はイルミネーションに彩られ若い恋人たちが、スマートフォンを片手に並んで写真を撮っていた。その光景があまりにも眩しくて、ひとり歩く自分の影が妙に薄く思えた。思い出すまいとしても、彼が私の手を取って笑っていた記憶が不意に蘇る。
コンビニの前で買った缶コーヒーを渡しながら「冬ってやっぱり手が冷えますよね〜」といたずらっぽく笑った声。駅のホームでマフラーの端を無理やり巻きつけてきたときのあの日の温もり。その記憶は、まだ私の頬に、やわらかな手触りを残していた。誰にも見えないはずの温度が、冬の街の中でふいに甦る。
十二月下旬。仕事帰り。またしても誘いを断り切れなかった二度目の合コンは前回同様に早々に辞し、私はひとり駅前の通りを歩いていた。肩を寄せ合う恋人たちの姿——弾けるような笑い声、カップル向けのディスプレイに並ぶ聖夜の赤と緑。寒さよりもその眩しさのほうが身に堪えた。
私はといえば、手袋もせずコンビニのレジ前で温められたカフェラテを手にぶら下げ、あたかも、誰かを待っているかのようにイルミネーションで飾られた並木道の途中に立ち尽くしていた。
歩道の隅にある金属製のベンチが冷たそうで、座る気にもなれず、私はただ、木々の上にまたたく光の粒を眺めていた。白、青、金、そして、少し濃い赤——。その光は、高空に舞う羽根のように風に揺れていた。
ああ、誰かとこういう光景を見られたらきっと美しいんだろうなと、そんなことを思った直後。
「……寒くないんですか?」
隣に立っていた男性の声が、あまりに自然で、まるでずっと一緒に歩いてきたかのような響きを持っていた。私は驚くよりも先に、思わず手元のカフェラテを見下ろした。
「寒いですよ、もちろん……」
返す言葉は少し間が空いたあと絞り出すように落ちた。顔は見えなかった。というよりも、見なかった。視線を逸らす理由は、いくつもあった。知らない人だ。声だけが妙に穏やかだったが彼は一歩もこちらに寄ることなく、私とちょうど半歩ぶんの間隔を空けたまま、同じように木々の灯を見上げていた。
「イルミネーションって綺麗なのにどこか寂しくなりますよね」
彼が言った言葉は独り言のようで、でも、私の返事を待っているようにも聞こえた。
「そうですね……一人で見るには少し、贅沢かもしれません」
私の声も風に紛れてしまいそうなほど静かだった。けれど彼はわずかに微笑んだように見えた。表情を確認したわけじゃない。でも、人の気配はこういうとき、なぜだか正確に伝わってくる。
「待ち合わせ、ですか?」
不意にそう聞かれて、私は小さく笑った。
「いえ、待ってません。……誰も、来ませんよ」
「そうですか……」
「……あなたは?」
問い返すと彼はわずかに首を傾げたまま、少しだけ笑みを深くした。
「僕も、たぶん……もう誰も来ないのに、ここに立ってるんです」
その言葉が、なぜか妙に胸に残った。寂しさを抱えているのか、それとも、優しさで濁しているのか、その区別がつかない声音だった。私たちは何もない場所で、灯の下に誘われるように並んで立ち、互いの素性も聞かぬまま、ほんの少しだけ沈黙を共有した。しばらくそのまま木々に飾られたイルミネーションを見上げているとその男性がぽつりと呟いた。
「寒いの、ほんとに平気なんですか?」
「ええ」
「ほんとうに?」
「マフラーを、貸してくださいって言いたそうな目、してます?」
苦笑いをしながら、やや意地悪に返すと、彼は少しだけ声を出して笑った。
「……貸せませんよ、僕のは安物だから」
「それ、言い訳になってませんよ」
なぜだろう。気づけば私は笑っていた。ほんの少しの会話、名前も知らない、たまたま立ち止まっただけの人。けれど、こんなふうに誰かと話すのは久しぶりで、そして、こんなふうに、誰かと目を合わせずに心を通わせたのは、もしかすると��あの
「——あの、良かったら」
彼が口を開いたその瞬間、私のスマートフォンが不意に震えた。コートのポケットから取り出し画面を付けると、そこには、『速報』の赤文字。
��No.3ヒーロー・ベストジーニスト、失踪。消息不明に��
��関係者によると、最後に確認されたのは一週間以上前——��
手の中でカフェラテの温もりがじわじわと失われていく。指先に力が入らず、ただ小さく息を吸い込む。それでも呼吸はうまくできず、冷たい夜風にのって、周囲の喧騒だけがひどく遠くに聞こえていた。まるで別の世界で起きた話のように。けれどその名前は、私の胸の奥をはっきりと叩いた。彼——ホークスの信頼していた人。冗談めかして「大先輩には頭が上がらないんですよー」なんて笑っていた。
隣にいた男性がスマホ画面をちらと見て小さく眉を寄せた気配がした。けれど彼は何も言わなかった。ただ、わずかに視線を上げ、再び、イルミネーションに視線を戻す。私の呼吸は浅くなり、心臓だけが忙しく、胸の内側を打っていた。
ニュースがどう続こうと誰がどんな言葉でコメントしようと私にはただ『彼がいま何をしているのか』『彼が今どこにいるのか』という事だけが気がかりだった。けれど、その相手が画面の中で名前が挙がったあの
「……大丈夫、ですか?」
男性の声が優しく響いたとき私は答えることができなかった。首を横に振る、それだけで精一杯だった。その沈黙に彼はただ一度、ポケットからハンカチを取り出し、私の目の高さにそっと差し出してくれた。
光のきらめく冬の夜——それは、羽音のない、静かな夜だった。風も音を立てなかった。彼が、あのヒーローが、どんな顔をしていたのか……。その夜、私の隣にいた誰でもない彼を私は未だに知らない。けれどあの夜の私たちを見ていた瞳がもうひとつあったことを私はこのときまだ、知る由もなかった。
*
駅からの帰り道。スマートフォンが震えた気がしたけれど、もう誰からの連絡なのかを確認する気にもなれず、私はただ上着のポケットに手を突っ込み、機械的にエレベーターに乗って、この部屋までたどり着く。そんな生活をもう何ヶ月も繰り返している。
玄関のドアを閉めた瞬間。冷えた空気が、頬にふれた。外は、冬の終わりを予感させる柔らかな風が吹いていて、ベランダ越しの空が、夕焼けの朱をわずかに滲ませていた。気づけば一月、二月と季節が過ぎ、花粉が舞い始める三月。街の空気にもようやく春の気配が混じりはじめた頃、彼の名前が再び私の耳に届いたのは皮肉にもテレビのニュース速報だった。
その日、空気はやけに冷たくて、誰もがどこか浮かない顔をしていた。口角を上げても目が笑っていない人ばかり。笑い声だけが乾いた音を立てて宙に消えていく。ベストジーニスト失踪の速報から始まった違和感は、日を追うごとに予感へと姿を変え、やがてそれは決定的な現実となって、私たちの日常に入り込んできた。
ヴィラン連合と異能解放軍が結託し全国規模の戦争に発展したこと。それが生中継という形で、市民の目に届けられたこと。そのどれもがかつて誰かに守られていると信じていたこの社会の足元を音もなく崩していった。
職場でも、話題は尽きなかった。ヒーローへの失望、恐怖、そして疑念。ランチタイムの休憩室のテレビは、ワイドショーに変えられ、ニュースキャスターは連日、倒壊した街と、血に染まったヒーローの背中を映し出していた。
「エンデヴァーやっぱ限界だったんじゃない?」
「ホークスって信用できるの?なんか黒い噂とか最近よく聞くよね」
「もともとさ、何考えてるかわからないヒーローだったしねー。まあ、顔だけはいいけど」
そんな言葉が、同僚たちの口からあたりまえのようにこぼれていく。まるで、天気の話でもしているかのような軽さで。センターの所長としての威厳はどこへやら……。
私はそんな中、笑えずにいた。だって、知っているから。彼がどんなふうに��ヒーロー�≠ニいう肩書のもとに生きていたかを。けれどそれを言葉にする事もできなかった。私はただの一般市民でそして、もう彼の『かつての恋人』ですらない。彼の名前を出す権利も彼をかばう理由も、とうに失ってしまった。だから私は黙ってテレビを見ていた。誰の声も届かない静かな部屋でニュースを、SNSの罵声を、そしてヒーローたちの沈黙をただ、見つめ続けた。
ヒーローたちは、弱さを曝け出す。守りきれなかった市民、見えなかった真実、崩れていく信頼。そしてそれは個々の失態ではなく社会そのものの脆さとして、あらわになっていった。都市部は、パニックに包まれていた。わずか、二日前の被害状況すら把握できないまま、大量の凶悪ヴィランたちが街に解き放たれるという、未曾有の事態。そして��脳無�≠ニかいう、人ならざるその得体の知れない存在の名が再びテレビから響いたとき、私は息を呑んだ。
全国各地に拡散される真偽不明の��脳無�*レ撃情報。それらがまるで都市伝説のように、しかし現実味を帯びて人々の口に上るたび、じわじわと民衆の不安が形を成してゆく。それは、心の奥に撒かれた小さな種が決壊という名の雨に打たれて一気に芽吹いていくようだった。人々はヒーローに頼れない現実を悟った。そして国民は��自衛�≠ニいう名の武装へと手を伸ばしていく。現場は、混乱を極め無関係の人々までもが巻き込まれた。
わずか二日のあいだに、そうした事件は全国で頻発し、ニュースのテロップが、それを列挙していく。その渦中で、ヒーローたちは次々と引退を表明した。傷つき、心を折られ、世間の声に耐えきれなくなった者たちが一人、また一人と静かに現場を去っていく。かつて、街の希望として名を馳せたヒーローたちが、その名を静かに降ろしていく光景は決壊の口火のようだった。背を向けるヒーローたち。この国を、そして私たちを守ってくれていた背中が少しずつ、確実に消えていく。
治安は悪化した。パトロールは減り、夜道には警戒心の強い目が増えた。誰もがもう誰も信じていない。自分の身は、自分で守るしかない。そう悟った人間の顔は少しだけ、獣に似ているように思えた。かつてはすぐそばにあった誰かの正義の背中が、もう見えない。
ヒーロー社会の崩壊。それはヒーローが消えた事から始まったのではない。信じられなくなった事が、全ての始まりだったのだ。
*
事件から、三日が経った。けれど、パニックは収まるどころか日を追うごとに空気は淀み不安は水のように静かに、そして、確実に人から人へと伝染していった。コンビニの棚からは、保存食や電池が消え、防災グッズ売り場の前では、誰もが眉間にしわを寄せたまま押し黙っていた。テレビではあの日の映像が繰り返し流れている。爆炎。崩壊。逃げ惑う市民。そして立ち尽くす、残った
ヒーローたちの背中。『なにも守れなかった』という事実が、視聴者一人ひとりの心に静かに降り積もっていくようだった。
そして今日。ついに、彼ら三人が会見を開くという速報が流れた。私はテレビのリモコンを手に取り無意識に音量を上げる。カーテンの隙間から差し込む夕暮れの光がリビングの床に淡く伸びていた。部屋の中は息をひそめたように静まり返り画面の中だけが重たい時間を確かに進めていた。
壇上に並ぶトップスリー。強さと痛みを背中に滲ませて立つエンデヴァー。寡黙に前を見据えるベストジーニスト。そして、ホークス。彼は誰よりも静かだった。無言のまま立ち尽くしカメラの光にまっすぐ晒されながら、それでも眉の一つも動かさずに、そこにいた。痛みも悔しさも疲労も何もかもを、その顔に出すことなく。
けれど、私には、わかってしまう。あの目は、すべてを背負おうとする人の目だと。ただ命令に従っているのでも与えられた責任に押し潰されているのでもない。自らの意志で逃げずに引き受けようとしている人のそれだ、と。
みんながみんな、彼らをただ責めたかったわけじゃないと思う。潔白であってくれ、正しかったと証明してくれ。自分たちが信じてきたものが、間違いじゃなかったと、そう、言ってほしかっただけなのだ。あまりにも大きな不安の中で誰もが何かにすがりたかった。ただ、それだけだ。
��ヒーロー�≠ニいう存在が唯一すがれる象徴であった時代が終わってしまうことに皆気づき始めていた。だからこそ、彼らは立ったのだ。非難を浴びると分かっていてもそれでも逃げずにマイクの前に立ち、沈黙のなかに誠意を示そうとした。
かつて私のすぐ隣で笑っていたあの
平和が前提にあった世の中で、どれだけの人が本当の意味で、ヒーローという言葉を問い直しただろう。奇しくも今、そのヒーローが、ふるいにかけられている。正義とは何か信じるとは何か。問われているのは彼らではなく私たちの方だったのかもしれない。けれど現実は、あまりにも残酷だった。人々はその全ての責任を、たった一人の
そのヒーロー、エンデヴァーは壇上で語った。家族に対する悍ましい過去を。ヒーローの仮面の裏にあった人間としての失敗を。それは、国民の前に差し出された懺悔であり、同時に自らに課す罰でもあった。そして会場の空気がひときわ緊張したのは、次の瞬間だった。
『先ほど、真実と仰いましたが——!』
『ホークスとベストジーニストは、荼毘の告発と異なるようですが!』
記者たちの問いかけが会場を震わせる。誰かが発した声が波紋のように広がり群衆の動揺は拡大していく。その中で彼、ホークスはまるで水面に影を落とすように静かに口を開いた。声を荒げるでもなく、逃げるでもなく、ただ、言葉をひとつずつ、丁寧に宥めるように。
『ベストジーニストさん殺害は潜入のための工作であり、告発の全てを覆すものではありません』
その声を聞いたとき、私はなぜか涙が滲んだ。彼は今、真摯に言葉を尽くしていた。あの人が、��多くを語らないこと�≠ノよって、語ってきた人だったと私は知っている。沈黙で信頼をつなぎ、言葉を選び、選ばなかった彼の優しさを。そしてその沈黙がどれほどの痛みを伴うかも私は知っていた。その彼が今は、沈黙に逃げず、だれの背にも隠れず堂々と声を上げている。多くを失い信頼を削られそれでもなお��ヒーロー��として、そこに立っている。
私の中で何かが静かに鳴った。これは、終わりではない。けれど何かが確かに変わってしまったのだと胸の奥が、はっきりと告げていた。会場が静まり返ったのは、彼が再び、マイクに向かって頭を下げたときだった。
『父の件も、逃げるヴィランを刺し殺したのも、事実です。父について隠していた事につきまして、謝罪申し上げます』
その姿は傷だらけだった。正装の下に隠されているであろう包帯で覆われた肩も、焼けただれた背中も、そのすべてが代償だった。
彼は静かに深く頭を下げ、顔を上げることなく、そのまま数秒間動かなかった。マイク越しに届く声がどうしてこんなにも遠く聞こえるのだろう。テレビの向こうのその姿は、たしかに現実なのに夢の中で見ているような奇妙な感覚に包まれる。なのに、彼の声だけははっきりと胸の奥に届いていた。
あなたの声は、まだ、私の中にある。もう戻れないと知っていても。それでも私は、もう一度、空を仰いでしまう。
*
それが彼女だと気づいたのは偶然だった。任務帰りの冬の街。風は冷たく、フライトジャケット越しでも肌を刺すような夜だった。俺は高架下のビルの屋上に立っていた。夜の街を見下ろすにはあまりにも華やかであまりにも遠い場所だった。だが、そこに彼女がいた。駅前の並木道、イルミネーションの明かりがまるで羽根のように揺れている。少しだけ人が集まり、誰かと誰かが言葉を交わし、笑い合いながら通り過ぎていく。そんな光景のなかで、彼女はひとり立っていた。
いや——、正確には��ひとり�≠ナはなかった。彼女のすぐ隣には見知らぬ男性がいて、コートの襟を立てて彼女と同じ方向を見ていた。イルミネーションを見上げているのか彼女の顔を見ているのか遠くてわからなかった。だが、彼女が口元を微かに綻ばせているのはわかった。それだけで、胸の奥に何かが沈むような音がした。
もう��俺の
『別れましょう、今日限りで。』
彼女が黙ってこちらを見つめていたあのときの姿を今でも鮮明に覚えている。肯定も否定もせずただ無言のまま感情を押し殺したような目で俺を見つめていた。何かを伝えたかったのかあるいは何も言葉にできなかったのか、今となってはわからない。俺のあまりに身勝手な頼みを彼女が静かに受け入れたのは、それから数分後。玄関先でのことだった。
『……わかったよ。』
たったそれだけ。もっと何かを言ってほしかったのかもしれない。別れたくないとか嫌だとか。もっともっと取り乱して引き止めてほしかったのかもしれない。だけど彼女はそれ以上、何も言わなかった。それでよかった。そう思ったはずだった。でも今彼女は見知らぬ誰かと並んで同じ光を見ている。俺が好きだったあの冬の光。白と金の混ざった空に舞う羽根のような灯り。あれを彼女は今、別の誰かと見ている。
風が吹いて屋上の影が揺れた。彼女のコートの裾が揺れ男のコートの袖がその彼女の裾にほんのわずか触れた気がした。それだけで目を背けた。俺に彼女を見つめる資格なんて、もうないから。
あの日、会見で頭を下げた。全部をさらした。父親のことも、俺自身が犯した嘘も、隠してきた感情も。すべてを吐き出して、それでもヒーローでいる選択をした。だから、彼女のもとには戻らない。戻ってはいけない。彼女は、もう別の光のなかにいる。
けれど、どうしても目で追ってしまう。彼女の横顔。冬の風に髪がなびいてイルミネーションがその輪郭を縁取っていた。頬の線は、少し痩せたようにも見えたけれど目は凛としていた。彼女は彼女のままだ。言葉ではなく存在そのものがまぶしい。もし、あの男が手を伸ばしたら。もしも、あのまま、二人で歩き出したら。俺は、どこまで耐えられるだろうか。それでも、飛び込めない。手を伸ばす資格がない。ヒーローという名の枷が俺を縛る。
彼女の隣にいる男は俺が手放したものを、今、確かに持っている。俺はただ屋上の影に身を沈めた。空は低く、星は遠い。けれど、風の音だけははっきりと耳をなぞっていく。
夜が深くなるたびに彼女の姿も街の灯も、少しずつ遠ざかっていった。そして俺はもう一度だけ目を閉じた。彼女が笑ったときの——彼女が俺の名を呼んだときの、あの声を思い出すために。
それが、罪でも愛でも。
(あなたが見てる空に、
(羽根を失ってもあなたはまだ、空の
※Men's by『 Lemon/米津玄師 』
※Women's by『 hanataba/milet 』