その日、福岡は朝から薄い雲がかかっていた。駅を降りると、潮の匂いを運ぶ風が少し強くて、その風の中に混ざって甘いポップコーンのような匂いが漂ってくる。遠くからはかすかにカモメの鳴き声が聞こえた。ポケットの中にある水族館のチケットは折れないように何度も確かめてしまうほど柔らかな紙質で私は小さく息を吐く。ベストジーニストの声が頭の中で何度も反響していた。
『次の金曜日、ここに来るよう伝えてある』
その言葉の残響を抱えたまま迷っているうちに日はすっかり暮れかけていた。夕陽は傾き、空の端にはまだ橙の余韻が残っている。私はゆっくり足を進めた。胸の奥が少しざわめいているのを、できるだけ気づかないふりをして。
あまり気が乗らないような面持ちで館内へ足を踏み入れる。途端に、世界が変わった。青い光が壁を滑り、天井からは水の揺らめきが降り注いでくる。足元にまで広がるその青は、まるで深海の記憶の中に迷い込んだようだった。
導かれるように私は無意識のうちに先を歩いていた。平日の夕方。閉館間際の館内はいつになく静かだった。それでも時折どこかで子どもの笑い声やカップルの弾んだ声が水の壁を透かして届いてくる。水槽の硝子を撫でるようにして光が流れ魚たちの影が、その中を泳ぐ。どの音もやさしく、どの色も儚かった。まるで、胸の奥の何かが少しずつ解けていくように——。
大きな円形の水槽の前でふと、見慣れた背中を見つけた。幾らか羽根の数が減ったように見えるその人物は、個性の剛翼を隠すこともせずにただこちらに背を向けたままで、ゆるやかに群れ泳ぐ魚たちを見上げていた。その姿を見た瞬間、息が止まった。忘れたくても忘れられない背中。その肩の線も姿勢の傾きもまとう空気までもが紛れもなくあの、ウィングヒーロー、ホークスだった。
私は一歩も踏み出すことができず、ただその場に立ち尽くした。心臓が、激しく音を立てる。足が水底に沈んだみたいに動かない。水槽の中を漂う光がゆらゆらと床を照らしていて、魚たちの影が流れるたび、青い光の粒が彼の背中に散って記憶そのものが、現実に滲み出してきたようだった。私はふと夢の中にいるような気がした。胸の奥の鼓動が波のように打ち寄せ呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだった。青く沈む大水槽の前、ひとり立ち尽くすその背中——見間違えるはずがない。私は意を決して、そっと近づいた。心の中で名を呼ぶ声がかすかに震える。それでも私はその名をしっかりと口にした。
「……ホークス、」
その名を呼んだ瞬間、彼の肩が大きく跳ねた。ゆっくりと振り向いた彼の瞳に驚きの色が走る。光の反射を受けたその琥珀色の瞳は、水槽の青を映して、どこか遠くを見ているようだった。
「えっ——なんで、あなたが……」
その声は、心の奥の動揺を隠しきれずに震えていた。普段の軽やかさも、余裕の笑みもそこにはなかった。
「私が水族館……来ちゃ、いけなかった?」
「い、いえ……そういうわけじゃ、」
言いかけて彼は目を逸らした。まるで、言葉を選ぶ余裕すらないように。私はそんな彼を見つめながら、どうしようもなく笑いたくなって咄嗟に口元を抑える。やっと会えたのに泣くよりも先に笑みが零れてしまうなんて……久しぶりに向かい合う彼に恐れよりも愛しさの方が勝ってしまったのだろう。
「せっかくだから……少し、見て回ろう。ね?」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのか、分からなかった。断られるのが怖くて、私は先に歩き出した。足音が水槽に反響し、青い光の中で溶けていく。しばらくして、少し後ろから着いてきてくれた彼に安堵していたが、それでも彼は、終始、静かだった。大水槽を前にした子ども達の歓声。アザラシの愛嬌のある仕草。ゆらめくクラゲの群れ。それらのすべてが今の私の世界を少しずつ温めてくれるのに、その温もりは彼の心には届かない。
青い光の下で私たちは無言のまま、ただ並んで歩いていた。まるで、言葉を交わすことで何かが壊れてしまうのを恐れているかのように。
「……楽しいねぇ。」
沈黙に耐えかねて水槽の青い光を見上げながら口を開いた。声は水に溶けていくようにかすれていたので、もしかすると彼には届いていなかったかもしれない。背後で彼が小さく息を吐く気配がする。ほんの少し距離を取るその仕草が、まさに見えない壁を作られているようで、胸がきゅっと痛む。
「……俺、あんまりこういうのは興味ないんで」
どうやら、私の声は届いていたらしい。しかしその声は驚くほど冷たく静かで言葉が空気の中に落ちた瞬間、水面に、冷たい刃を差し入れられたように心の奥底が沈んだ。それでも私は笑った。泣くよりも、笑っていたほうがまだ自分を保てる気がしたから。
「私は楽しいよ。私は、あなたの隣にいられればなんだって楽しい。それだけでいい」
水槽を見上げていた私の背後で、彼の気配が、かすかに動いた気がした。なぜだか見なくても、彼が眉を寄せたのがわかる。
困らせているとわかっていても、それでもやめられなかった。だって我慢するのはもう嫌だったから。この胸の奥にまだ残っている想いを、いまだけは、隠したくなかったから。
「だってさぁ、前に言ってくれたじゃない?」
「……」
「私と、どこへ行こうか考えるだけで楽しくて、待ってるだけで、嬉しい——って」
沈黙が落ちた。それは言葉を拒むような沈黙でゆっくりと、私たちの間に氷の膜を張っていく。しばらくして彼は息を吸い、そして吐き捨てた。
「すんません……忘れました。鳥頭なんで」
その一言が、刃のように静かに、そして残酷に胸に突き刺さった。痛みよりも先に息が止まる。彼が私に背を向けて歩き出そうとしたその瞬間、私は衝動のままに、彼の背中に腕を回していた。あたたかくてやわらかくて指先にかすかに羽根の名残が触れる。あの頃と同じ温もり。だけどもう二度と、触れられないような距離を感じた。
「……離れてください」
低く、冷たく言い放った声は、わずかに掠れていた。私に振り向きもせず背中から抱きつかれているまま立ち尽くす彼の肩が、ほんの一瞬だけ、震えたのを感じた。
「離れないっ」
「……」
「だって、あなたが言ったんでしょ。もう二度と離れない——って」
背中越しに伝わる彼の呼吸が乱れていく。怒られるかもしれない。振り払われるかもしれない。もっと、嫌われるかもしれない。それでも、いまだけは、もう少しだけ——。
「……ぜんぶ、忘れましたよ」
「……」
「言いましたよね、俺はあなたのことが——」
「ふーん……」
「……」
「あっそ。」
笑うように言って、私はすっと彼から離れた。それ以上なにか言葉を紡げば、声が震えてしまう気がしたから。背を向けたまま、涙を堪えながら水槽を見上げる。泳ぐ魚たちの光が揺らめく青い影となって床を照らしていた。
「ねぇ、あの生き物たちはさ……どうして、この世に生まれたのかなぁ」
「……」
「いいなぁ、ここにいるみんなは、自由で……」
かすれた声が、静かな水音の中に溶けていく。言葉を出していないと心のどこかが崩れてしまいそうだった。上を向いていないとこの瞼に溜まりきった涙が、零れてしまいそうで。
彼はしばらくそんな私の背中を見つめていた。水槽のガラス越しに映る彼の顔が青の光に沈んでいくのが見えた。その表情は悲しくも穏やかで、どこか、祈るようでもあった。彼の唇がなにかを言いかけて、けれどその唇はまた結ばれてしまい言葉にはならなかった。青い光だけが、ふたりのあいだを静かに揺れている。
「あのぉー、閉館の時間なんですが——」
静かな館内に職員の声が柔らかく響いた。その言葉に、彼はわずかに顔を上げて言った。
「あ……すみません。あと、五分だけ。五分だけで、いいんで——」
その声は不思議なくらい優しかった。懇願でもなく謝罪でもなく、ただ祈りのように穏やかで、誰に向けるでもなく、世界に頼むような、そんな響き。私は、振り返ることができなかった。その「五分だけ」がどれほどの意味を持つのか、わかってしまいそうだったから。
頭上のガラス越しに、魚たちがゆっくりと円を描いて泳いでいく。その動きはまるで時間の針がゆるやかに��最期�≠�刻むようだった。
水のゆらめきが壁を這い、床に落ちる光の粒がふたりを包み込む。言葉は、もういらなかった。音も涙も呼吸さえも。ただ、この五分だけは——この青の中に、ふたりで溶けていられれば、それだけでよかった。
*
外に出ると、夕方の光が海辺の街を淡く包んでいた。潮の匂いがやさしく鼻をくすぐり風が髪を撫でていく。夕暮れの名残がまだ街に漂い、オレンジとも灰ともつかない光が舗道を染めていた。
私と彼の影が長く伸び、重なり合ってはまた、離れていく。まるで、運命の縮図のようにして。
「五分間……ごめんね、時間もらっちゃって」
私がそう言ったあと、彼が静かに頭を下げる。その仕草があまりにも穏やかでそれでいて残酷で胸の奥が誰かに捕まれたみたいにして、ぎゅっと締めつけられた。
「……最後です。それじゃあ——」
その言葉は、あまりにも冷静で、まるで永遠の終わりを告げる合図のように響いた。その瞬間、身体が勝手に動いた。気づけば私は、彼の袖口を掴んでいた。
「待って、もう少しだけ——」
そう言って歩き出した彼を引き止める。驚いたように目を見開いた彼の腕を、そのまま強く握りしめた。その体温がどうしようもなく現実的で、痛いほどに、愛おしかった。
「ねぇ、喫茶店行こうよ。駅前の、角のところにある、あの喫茶店」
「……」
「あそこのパフェが、すごく美味しいんだって。期間限定なんだよ?それに、ほら、紅茶も香りがよくて、甘くて——」
声が震えた。勢いで言葉を紡いでいた。黙ってしまったら泣いてしまう気がした。だから無理にでも声を出した。笑って、いつもの調子を、どうにか取り繕うように。
「名前さん」
彼が今日初めて私の名前を呼んだ。その一言で一瞬、時間が止まった気がした。でも止まりたくなかった。止まってしまえばこの瞬間が終わってしまう気がして。だから私は言葉を続けた。笑いながら、泣きそうな顔で。
「それにね、夜になるとさ、イルミネーションがきれいなんだよ」
「……」
「前に行こうって言ってたじゃない。——ねぇ、行こうよ?」
私の声だけが、風の中で少しだけ浮いていた。無言で歩き出してしまった彼の背を追いながら、矢継ぎ早に言葉を投げかける。まるで言葉を重ねることで、別れを遅らせようとしているように。
「喫茶店じゃなくてもいいよ?なにか、食べたいものとかある?えー、私、ご馳走しちゃうよ?」
「……」
「あ!ねえ、見て見て?この爪、ファットガムに見立ててもらったの。きれいでしょー?」
「名前さん、」
低い声で呼ばれた。こちらを振り返らず正面を向いたままで。その響きが胸の奥に触れて、少しだけ呼吸が乱れる。それでも足を止めず私はまだ懲りずに言葉を繋いだ。
「帰りにさ、プリン買って帰ろうよ」
「名前さん」
「第六条!喧嘩したらプリンで仲直り——とか、言ってみたりして。ねぇ、いい提案でしょ?」
そのとき、風が吹いた。潮の香りが二人の間を通り抜けていく。私は絶えず笑っていた。けれどその笑みがどうしようもなく不器用で自分を守るための防波堤のように思えた。
「……名前さん。」
彼の声がもう一度、今度は静かに響いた。私はようやく立ち止まる。その声がひどく優しくて、ひどく、遠かった。
「やっぱりダメだよね。うん、見苦しいよね……ごめん。」
言葉が、涙よりも先にこぼれた。唇を噛んだ。泣かないように。それでも滲む視界の中で、街の灯がひとつ、またひとつと滲んでいった。
「じゃあさ、最後だから——」
「……」
「最後にあなたの、ホークスの笑顔が見たいな」
彼はしばらく黙っていた。すると目を伏せて、呼吸をひとつ整えるようにしてから、ゆっくりと顔を上げた。そうしてほんの一瞬だけ、笑った。不器用に。いつも通りを装うように。
けれどそれは、優しくて痛くて、どうしようもないほどに、脆い笑顔だった。
「ああ、ごめん。いい、無理させて……ごめん」
思わず言葉がこぼれた。その笑顔があまりにも壊れそうで、もう、見ていられなかったから。
「ごめん。ほんと、ごめんね……」
「……」
「もう、大丈夫だから……」
そう言葉では言っても胸の奥は絞られるように痛んだ。初めて彼が自然に笑えずにいる姿を見たような気がして、それが、いちばんつらかった。
彼の不器用すぎる、まるで、壊れかけた機械のような笑みを見た瞬間、私はもう立っていられなくなりそうで、何かを言わなければ、自分の足が崩れてしまいそうだった。
「——ねえ、ホークス。初めて会った日のこと、覚えてる?」
彼に背を向けて、そっと後ろで手を組む。風が頬を撫で、遠くで波の音がした。なぜだか言葉が自然にこぼれた。まるでこれが最後の会話になると、わかっているみたいに。
「タイプですって言われて、ほんと嬉しかった」
彼は何も言わなかった。けれどその沈黙の奥にあのときの笑顔が蘇る。光を受けて揺れる羽根、茶目っ気のある声色。あの日のままの彼が記憶の中で、今この瞬間も変わらず息づいている。
「あと、満月の夜——電話かけれなくてごめん。待っててくれて、嬉しかったよ」
「……」
「バレンタインのイベントも声をかけてくれて。緊張したけど、行ってよかった」
「……」
「靴下をさぁ、ガラスの靴に見立てて——あれ、楽しかった。プリンセスになった気分でね」
「……」
「ホークスはさ——いつも私を��女の子�≠ノしてくれたね」
思い出をひとつひとつ拾い上げるたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。それでも笑った。泣くよりも、笑うほうがまだ伝えられる気がしたから。けれど、声が少し震えているのは自分でもわかっていた。
「安心してね。付き合ってたこととか、ネットに書いたりしないから」
「……」
「誰にも言わない。私だけの、宝物にする」
そう言いながら自分に言い聞かせていた。素直に嬉しいと言えなくなっても、素直に怒れなくなっても、素直に寂しいと言えなくなっても素直に楽しいと笑えなくなっても——それでもいつか、笑える日が来ると信じようと。眠れる夜が、必ず来ると、信じよう……って。
「啓悟くん」
きっとその��いつか�≠ヘ、まだ遠い。まだもう少しだけ、時間がかかるだろう。
「ごめんね。名前、呼んじゃって。もう忘れる。今日でその名前、もう、忘れるから……」
「……」
「わたし、あなたの笑顔が、好きだった」
「……」
「子供みたいに、嬉しそうに笑ってるあなたが、本当に、本当に……大好きだった」
彼は沈黙したまま何も言わなかった。ただその中で私だけを見ていた。何度も何かを飲み込んでいるようで唇がわずかに動き、けれど声にはならなかった。その仕草だけで、堰き止めていた涙があふれそうだった。
「ホークス、あなたのことが……ほんとに——」
そこで言葉が喉に詰まった。息を吸うことすら痛い。喉の奥が焼けるように熱くて、声がうまく出なかった。
「まあ、これも全部いつかは、忘れちゃうんだろうけど……。だって、鳥頭だもんねぇ」
笑おうとした。けれどその笑いは震えていて、自分の声じゃないみたいに掠れていて。泣くまいと思っていたのに目の奥がじんわりと熱を帯びる。けれど泣かない。泣いたら彼をまた困らせてしまうから。
「今まで本当に、どうもありがとう。」
私は小さく息を整え深く頭を下げた。胸の奥で何かが静かに、崩れていく音がした。
もう一度あなたに会って、あの笑顔でこころを詰まらせたい。運命かどうかは知らないけれど、出会えて嬉しかった。
こんなに愛したままでいさせてくれて本当に、ありがとう。あなたといた時間は、いつもいつも幸せで愛しくて、それから少しだけ苦しかった。
「私は、とっても、と〜っても、幸せでした」
「……、」
「——じゃあね、バイバイ。」
そう言って顔を上げ笑顔のまま手を振った。風が頬を撫で、髪を揺らす。彼の横を通り過ぎていくとき、空気の中に微かに残る羽根の匂いがした。その瞬間、心臓がまたひとつ大きく脈を打った。歩きながら何度も振り返りそうになるのを必死に堪える。背中越しに彼の視線を感じた気がした。けれど私はもう振り返らない。もし今振り返ってしまったら、きっと泣いてしまうから——。
明日も明後日もあなたが笑っていられる世界であってほしい。心の傷も、酷い言葉も、もう私は受け止めてあげることはできないけれど……。
くれぐれも気を付けて。できれば笑っていて。手に入れたいものは何もない。あなたと出会ったあの日から他にほしいものはないの。生きていてよかった。生かされてきてよかった。だって——たった一人のマイヒーローにめぐり逢えたから。
風が吹いた。どこかで小さく羽根の擦れる音がした。それでも私は歩き続けた。彼の声が、風の向こうでかすかに響いたような気がした。けれどその言葉は、私にはもう届かない。それでも——
『さよなら、名前さん——』
きっとそう言ったのだと、なぜだか分かった。その瞬間、ようやく涙がひとすじ頬を伝い、夜の街に溶けていった。海の匂いが濃くなって世界が少しだけ遠ざかる。街灯の光がにじんで、舗道に映る自分の影が揺れた。
私は彼のいない風の中で静かに息をした。それでも魚たちは、ただ泳ぐ。世界は何も知らない顔で今日も明日も、同じように続いていく。
とある怪物の英雄譚。少女を守った醜い怪物はヒーローに殺されたんだとか。それがこの世界の正義なんだってさ。私はその話をふと思い出していた。彼はどっちだったんだろう。守ったのか、それとも、壊したのか——。
海からの風が、頬を撫でる。暖かくも冷たくもない夜。その中でただ静かに、ひとつの物語が、終わる音がした。
*
夜の事務所は、異様なほど静かだった。福岡の夜風が遠くの窓を鳴らし月明かりだけが薄い影を床に沈め、照明の落ち切った廊下を冷たい空気が滑るように抜けていく。
誰もいない廊下を抜け、資料庫として管理していた部屋の扉を開けたとき、俺はようやく表情を失った。外套を脱ぐ間もなく、ただ扉を閉める音だけが響く。
胸の奥で、何かが暴れ狂っている。言葉にならないものが喉の奥に溜まり、熱を持って膨らんでいく。息が苦しい。胸の内側が、焼けつくように痛い。
あの水族館で水槽を見上げていた横顔。彼女が微笑んで「最後だからあなたの笑顔が見たい」と言ったときの脆くて壊れそうな笑顔。その姿が、遠ざかっていったあの情景が何度も何度も脳裏をよぎる。今さら絆されたりなんかしないといくら心に誓いを立てても彼女のすべてがまぶたの裏に焼きついて離れない。
笑っていた。泣く代わりに彼女は笑っていた。その笑みがどんな涙よりも痛かった。あの彼女の強さが、今になって俺の胸を切り裂いていく。
「あぁー……くそっ、」
声が無意識に口からこぼれていた。呟きのようなそれが部屋の空気を震わせる。気づけば、拳を握っていた。
——ダンッ!!
拳が机に叩きつけられ木が軋む鈍い音が響く。それでも足りなかった。次の瞬間には、もう何もかもが止まらなかった。手の届くものを、片っ端から剛翼で掴んで壁に叩きつけた。衝撃のたびに書類が宙を舞い、羽根のようにひらひらと散って床に降り積もる。段ボールが崩れ、誰のものかもわからないガラスのマグが砕け散る。そのひとつ一つの破片が、俺の心の断片のように光った。
「……っ、——っ!」
「やめろ」「抑えろ」「冷静になれ」と誰かが言った。だがその声は他人ではなく、自分自身の中から聞こえた声だった。剛翼が反射的に広がり赤い羽根が四方へ飛ぶ。そして、ダーツのように無機質な壁へ鋭く突き刺さる。
「……っ、……ぐっ、」
人の中にはふたつの要素がある。理性と感情。あるいは『考えること』と『思うこと』。それは似ているようでいて、決して交わらない。
「クソだ……っ、くそ——っ!」
理性はいつだって正しさを装う。けれど感情はその理屈を平気で踏み越える。「やめておけ」と言われても「でも、やりたい」と囁き「怖い」と怯えながらも「行け」と背中を押す。そのどちらも結局は自分自身なのだ。
「……っ、……っ!」
理性と感情。どちらが勝ったとしても、後悔は残る。人間らしさというのはその矛盾の中でしか息ができないものなのかもしれない。俺は、もうその��人間らしさ�≠フ根源すらわからなくなっていた。
赤い色をしたマグの破片が床で光を反射する。その一片一片に、彼女の笑顔が映った気がした。
「……ふっ、」
喉が震え声にならない音が漏れる。倒れた椅子の脚が転がり、壁際で鈍くぶつかる。肺が痛い。無意識に翼が広がり壁を打った。息が乱れ、床を蹴る。ダンボールが飛び、中に入っていた書類や雑誌が宙を舞う。掌の熱を冷ますように額を押し当てる。それでも呼吸は乱れたまま。
「なんで……」
小さく呟いた声。誰に向けての言葉なのか自分でもわからない。翼が動くたび空気が揺れて紙が舞う。風とともに、赤い羽根が散った。
「ぁああ"ーーーーっ!」
叫び声が喉を裂き、息が途切れるまで叫んだ。瞬間、彼女の名前を呼びそうになって、歯を食いしばる。目の奥が焼けるように痛い。
「クソっ……、あーっ!ぅああ"ーーーー!!」
失恋の痛みなんていつかは消える。けれど一度貼られたレッテルは消えない。下手すりゃ一生。
俺は、犯罪者の息子だ。世間は知らなくても、真実は俺の中にある。もしも俺がこの先なにかで堕ちたなら、彼女の平穏な生活も壊れてしまう。だから……こうするしかなかった。どんなに恨まれてもいい。こうするしか彼女を守る方法が思いつかなかった。守りたくて、離した。なのに——どうしていま、こんなにも惨めなのだろう。
「……なん、で……、——」
声が掠れて消える。壁を背にして、崩れ落ちるように床に膝をつき、肩で息をした。両手で顔を覆う。
「なんっ……で、——止ま、らん……っ」
止まらない。涙が。指の間から伝った涙が床に落ちて静かな音を立てた。普段こうして泣く事がないせいか一度あふれ出した涙は、どうでもいい記憶までも引き連れて次から次へとこぼれ落ちていった。嗚咽が漏れる。子どものように息が震える。理性はもうどこにもなかった。震える呼吸が空気を震わせる。まるで、壊れた翼が泣いているみたいに。
自分を抑えるために別れたはずだった。彼女を守るために距離を取ったはずだった。それなのにどうして——。
音が止んだあと、ただ、自分の荒い呼吸だけが部屋の中に残った。胸の奥で、痛みがまだ暴れている。それを押し殺すように俺は膝を抱えて床に座り込んだ。
「……俺は、——ただっ、……、」
翼が大きく揺れて、肩にかかる。掌には、血がにじんでいた。床に落ちた破片の上で影が揺れている。息が荒い。肩で呼吸を繰り返していると、羽根がわずかに広がり、床を擦る音がした。
静寂。自分の心臓の音だけが部屋の中に響いている。彼女の声が今もまだ耳の奥で、俺を呼んでいる。
『最後にあなたの、ホークスの笑顔が見たいな』
笑えるわけがなかった。笑った瞬間に、自分が崩れてしまいそうで。必死に繋ぎとめていた感情が、その一呼吸で壊れてしまいそうで。彼女に、絆されてしまいそうで。だって、ほんとうは……
「この手、で——……」
あなたを、守りたかったのに——。
「名前、さん……」
今からあなたに聞かれたら困る話をします。俺はあなたが好きです。大事にしてくれて言葉でちゃんと伝えてくれるあなたが好きでした。
会っているときは、本当に楽しくて、離れたくないと心から思った。一人になったときも考えてしまうのは、あなたのことばかりで。
どうしてなんでしょうね。あなたに、会いたくないわけじゃない。むしろ、会いたかった。でも会いたくて震えるとかいう意味を教えてくれたのは、悲しいぐらいあなたで。
きっと互いの心だって変わっていくでしょうし混沌とした時間の中で色んなことを重ねて忘れていくでしょう。それでも、ふとした瞬間に時折、あなたを思い出す。まるで光の粒のようにきれいな思い出として。
「……くそ……クソ、だ……っ」
もう一度、言います。あなたが好きです。あなただけを大事にしていきたかった。あなただけを、この手で守りたかった。これは、俺の独り言です。ただ、それだけ。
『あなたがちゃんとご飯食べて、眠って、無事でいてくれたら、それでいいの』
——こっちの台詞ですよ。あなたがちゃんと、美味しいご飯を食べて、あたたかい布団で眠って無事でいてくれたら、それだけでいい。
『あなたが生きててくれたら、それで十分なの』
本当に、それだけでよかった。明日も明後日も彼女が笑っていられる世界であってほしい。この先もずっとあの笑顔を守るために生きていけたらそれでいい。
どうか——心の傷も酷い言葉も、すべてを受け止めてくれる誰かと巡り会ってください。もう、我慢したり人に譲ったりしないでほしい。あなたなら、絶対に、大丈夫だから。だってあなたは、誰よりも優しい人だから。
手に入れたいものは何もない。彼女のためなら悪にだってなれる。きっと、出会ったあの日から他にほしいものなんて、もうひとつもなかった。
『啓悟くん』
『ごめんね。名前、呼んじゃって。もう忘れる』
『今日でその名前、もう、忘れるから……』
忘れないでほしい。その声も、あの呼び方も、どうか俺の名前が彼女の心のどこかに住み着いたままでいてほしい。たとえ、世界が変わっても、誰かの腕の中で笑っていても、それだけは。
『あ!ねえ、見て見て?この爪、ファットガムに見立ててもらったの。きれいでしょー?』
嫉妬は空気よりも重く、孤独は重力よりも重く憎しみは鉛よりも重い。嫉妬して、孤独を感じ、憎しみに溺れたこの汚い心は、ゆっくりと深く、沈んでいくだけ。まるで底のない海の中へと落ちていくみたいに。ただそれでも彼女の笑顔だけがいつまでも光になって、俺の沈む先を、照らしている。
『本当に、本当に……大好きだった』
『とっても、と〜っても、幸せでした』
俺もあなたのことが大好きですよ。俺の方こそあなたのような人に出会えて光栄でした。すごく好きでした。だから、離れなきゃいけなかった。これ以上、あなたを好きになってしまったらいけないから。
ああ、好きだった。会っていないあいだも好きだった。会っていなくても好きで顔を見なくても好きで声を聞かなくても大好きで、俺はあなたにずっと、恋をしていた。
好きとか、愛してるとか、大切とか。そんな、簡単なことじゃなくて……あなたは俺にとって、生きる理由だった。あなたは俺のすべてでした。
俺は『あなたが好きだった』という過去を一生背負って生きていく。新しい季節の訪れと共に、俺は必ず、あなたを思い出します。
*
外の廊下で誰かの足音が止まった。ドアの隙間から漏れる光の向こうで、ひそやかな声が交わされる。短い沈黙。たぶんサイドキックの二人だ。やがて、そのひとりがためらいがちに口を開く。
「あのぉ〜、所長?……中に、いると?部屋ん中から、すごか音がしましたけどぉ……」
「おらんね。ダンボールが、倒れたんやなか?」
勘違いだと諦めたのか、足音が遠ざかり、再び戻ってくる。コンコンコンという控えめなノックのあと、ドアがゆっくりと開いた。そこに立っていたのはジーニストさんだった。チームアップで福岡入りしていることを今の今まで完全に忘れていた。不覚だった。
だが、彼は室内の惨状を見ても眉ひとつ動かさなかった。床には書類と、剛翼の羽根が散乱し、割れたマグの破片と潰れたダンボール、ひっくり返った椅子。その混沌の中で俺は壁際に座り込み膝を抱えていた。ジーニストさんは、壊れた机の影に静かに腰を預け、腕の中でゆるく呼吸を繰り返す。そして、ひとつ息を吐いた。
「ずいぶんとまぁ……派手にやったものだね」
額には汗が滲み肩が小刻みに震えていた。顔を覆う乱れた金の髪のせいで表情までは見えない。沈黙のあと、ジーニストさんは言葉を選ばずに、静かに、そのひとことを落とした。
「……終わったのか」
俺は膝を抱えた体勢で、頭を項垂れさせたまま小さく首を振る。
「終わりませんよ……。終わるわけ、ない」
唇の端が自然と歪む。笑ったのか泣いたのか、自分でもよくわからなかった。
「ジーニストさん……ほんと。なんてこと、してくれたんすか……」
「……」
「俺、こんな仕打ち受けるようなヘマ……なにかしましたっけ……」
「……」
「笑顔で見送られて……笑えるわけ……ないじゃないですか……」
ジーニストさんはしばらく黙っていた。やがて散らばった破片の中から赤い羽根を一枚拾い上げ掌の上で光を受けて揺れるそれを見つめながら、低く、しかし穏やかな声で言った。
「……風が止まないうちは、また飛べばいいよ」
その声は、風の隙間を縫うように静かだった。俺は何も返さなかった。ただ膝を抱えたまま額を腕に埋め続ける。涙の跡が光に濡れ、床に散らばった破片の間で、小さく反射していた。
「……誰も、君を責めやしない。」
ジーニストさんの声は低く、穏やかで、それは痛みを知っている人の響きだった。俺は動けなかった。深く息を吸い込んで吐き出す。呼吸をひとつするたびに、肩が微かに震えた。
「……彼女んことを、笑って、送れなかった」
ようやく漏れた声は、掠れていた。顔を上げた瞬間、胸の奥に溜まっていた酸素が一気に逆流し肺の中を焦がすように回った。息が乱れる。呼吸が痛い。逆に、過換気を引き起こしそうになる。
「ヒーローとして、最低ですよね」
ジーニストさんは、何も答えなかった。ただ、剛翼の破片を避けながらゆっくりと歩み寄り俺の隣に腰を下ろした。言葉の代わりに静けさを共有するように、天井を見上げる。
月の明かりが、割れたカップの欠片に反射して部屋の中を淡く照らしていた。その光がゆらゆらと揺れながら、まるで俺の中の何かを鎮めていくようだった。
——もう戻れない。その現実が胸に沈むたび、膝を抱えたまま声にならない吐息が漏れる。夜の風が割れた窓の隙間から入り込み、冷たく、頬を撫でていく。その冷たさがようやく心を現実へと引き戻してくれる。
そっと指先を伸ばし散らばった羽根のひとつを拾い上げた。息を吹きかけると赤い羽根がふわりと宙を舞い、風に乗ってゆらりと揺れた。まるでもうひとりの��ヒーロー・ホークス�≠ェ静かに、空へと還っていくようだった。
空から来た愛、降りられない夜
(どうか、あなたが——)
(——笑っていられる世界でありますように。)
※Men's by『 Love Story/安室奈美恵 』
※Women's by『 ハッピーエンド/back number 』