夕飯を終えて、まだ湯気の名残を抱えたままの食卓を片付けながら私は自分でも意図しない溜め息を、音にしてしまっていた。皿と皿が触れ合う乾いた響きの隙間に、その吐息が混じり、部屋の空気がわずかに揺れた気がする。その微細な変化を聞き逃さなかったのか、ソファに腰を下ろしてスマホを眺めていた彼が身体は動かさないまま、視線だけをこちらへ滑らせた。テレビの光が彼の頬の輪郭をなぞり、明るさと影が交互に呼吸している。その光景は、夜がまだ完全には部屋の中へ入りきれていないことをどこかで示しているようだった。私が目を伏せると、彼は小さく首を傾ける。その仕草には問い詰める色よりも待つ余白が含まれている。
「……ね。こっち見て」
その声に導かれるように顔を上げると彼はニコリと笑った。柔らかく、こちらの緊張をほどいてしまう種類の、ただ安心だけを差し出す微笑み。その無防備さに、かえって退路を塞がれたような気がして、私は腹を決めるように口を開いた。
「……えっ」
数分後。私が事の内容をすべて言い終えた瞬間ホークスの目がわずかに大きく開かれ彼の動きが止まる。空気が一度、室内で足踏みをした。
「え、待って……今回はどこ、ですか?」
その軽く整えた調子の奥にほんの少しだけ息を詰めた気配が混じっている。私は洗いかけの皿を水の張ったボールに沈めたまま、視線を落とし、適切な言葉を探す。
「実家。リフォームするから手伝いに来てって」
「……実家」
「最初は断ろうとしたんだけど……どうしても、人手が足りないみたいで」
蛇口を閉めて、指先についた水滴をそのままに彼のほうへと向かうと、彼はいつも通りの笑顔を返した。けれどその笑みには、理解しようとする気持ちと、飲み込めない不安を同時に抱え込んでいて、まるで自分の影を無理に畳んでしまうような危うさがあった。
「……何日、くらいです?」
「一週間くらい、かな。有給、まとめて使っちゃった」
その瞬間、彼の表情が、わずかに引き攣った。ほんの刹那のことだったけれど、私は見逃さなかった。彼が、感情を整える前に身体のほうが先に反応してしまう、その癖を。
「え……。一週間……?」
「……うん」
「え。うん、じゃなくてさ」
「……」
「は……?え、マジで言ってます? 一週間?」
声の温度がほんの少しだけ上がる。彼はスマホをテーブルに置いたまま何も言わず私を見つめている。その沈黙は続きを促すというより、状況を確かめるための静止だった。
「でも前回の旅行のときだって、二泊三日——」
「全然ちがう!!」
思った以上に強い言葉が返ってきて空気が一瞬張り詰めた。次の瞬間ホークスは頭を抱え身体を丸めるようにして、ソファに突っ伏した。背中の羽根が、力を失ったみたいにしゅんとしぼんで、最後には、だらりと垂れ下がった。
「二泊三日でも、正直……限界だったんですよ。なのに、一週間って……」
拷問だの、信じられないだのという言葉の続きを、彼はクッションに顔を埋めたまま飲み込む。その声は冗談めいているようでそう装わなければ触れてはいけない感情を、どうにか隠そうとしているのが伝わってくる。そして、顔を上げたかと思うと今度はソファのクッションに頬を押しつけ口先をやや尖らせながらボソボソと、ぼやいた。
「俺さ……あなたがいない時間のほうがヒーロー業よりきついって最近、思ってるんですよね」
胸の奥で小さく何かが揺れた。私はそれを否定するように、でも、自分に言い聞かせるみたいに言葉を返す。
「……だから、大袈裟だってば」
そう言いながらも、胸の奥がほんの少しあたたかくなる。その言葉が冗談半分でも本気であってほしいと、どこかで願ってしまうから。
「重症ですよ、これ。愛が重たか〜ってやつです、ほんとに」
彼はうつ伏せのまま、片手だけを伸ばして私の膝に触れた。その指先が、少しだけ震えている。たぶん寂しさをごまかすために笑っているのだとわかっていた。私は彼の髪に指を滑らせ、背中をゆっくりと撫でる。その動きに合わせて剛翼が、ふわりと揺れ、微かな風が起こった。
この人は、本当に風のような生き物みたいだと思う。触れるたびに風が立ち、感情が動き、私の心まで波立たせる。離れることを告げただけで、こんなにも心を引き寄せられてしまうのに、それでも私は行かなければならないのだと、彼の背に触れながら、静かに思っていた。
「じゃあ……毎晩、電話する?」
言葉にした瞬間、私の喉の奥が、かすかに熱を帯びた。提案という形を借りた願いで約束というほど強くはないけれど、離れる時間に触れられる唯一の糸のようなものを、私は差し出していたのだと思う。彼の身体がほんのわずかに反応する。その小さな揺れを私は見逃さなかった。次の瞬間彼の顔に光が差すみたいに明るさが満ちていく。
「電話……? まさか、寝る前のおやすみコールとか、しちゃう感じで?」
「しちゃう感じかも」
「うわぁ……それ、最高やぁ……」
照れを含んだ声が部屋の空気をゆるめる。私の胸の奥もそれにつられるように緩やかにほどけていく。ふたりの笑い声が重なり合い、天井の高い部屋に優しく反響する。その音の重なりが今この時間が確かに共有されていることを身体に教えてくれる。
やがて彼が静かに手を伸ばし、私の指先を包み込む。触れた瞬間に伝わる掌の温度はいつもよりわずかに高く、血の巡りが早まっているのがわかる。私の指先がその熱に順応していくまでの短い時間私は何も言わずにその感覚だけを受け取っていた。
「でも……ほんとはさ」
ホークスの声が低くなる。笑顔の縁がわずかに影を落とし、彼の内側にあるものが、言葉になる前の気配を帯びる。
「名前さんがいないと、俺……普通に、寂しいんですよ?」
胸の内側で、何かが静かに動く。驚きでも喜びでもない、もっと曖昧で、でも確かな重み。
「わかってる」
「どんなに笑ってても心の半分くらいが、こう、欠けてる感じがして」
彼の言葉は、飾られていないぶん、まっすぐに沁みてくる。私は息を吸って、その空白に自分の気持ちを、落ち着かせる場所を探す。離れることを選んだのは私で、それでも、彼の欠けたと感じる半分に、何かを残したいと思っている。
「……じゃあ、その半分、置いていくね」
「ん?」
「私の分だけど」
一瞬、彼は目を閉じる。その表情に言葉よりも多くの感情が通り過ぎていくのを私は見ていた。やがてホークスは、目を閉じたまま、ゆっくりと笑った。
「やばかぁ……それ、効きすぎるやつです。サプリどころじゃない」
その言葉に私も笑う。けれどその笑いの裏側で彼の寂しさが羽根の隙間からこぼれるように伝わってきた。羽根のわずかな動きが教えてくれる。安心と不安が、同時にそこに在ることを。
そして、その夜。彼は、私を何度も抱きしめて離さなかった。まるで身体に記憶させておこうとするみたいに。ただ、身体に刻みつけるように。触れるたび息が混じり体温が重なり記憶が静かに更新されていく。囁く声が、呼吸の合間にひとつひとつ溶けていく。
「……ここが、俺の居場所なんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな灯りがともる。明るすぎない、消えやすいけれど確かにあたたかい光が。
私はそれを守るように彼の背に腕を回しながら離れる時間と、戻ってくる場所の両方を、同時に思っていた。
*
まだ夜の名残が窓の外に沈んでいる。目を開けるとカーテンの隙間からこぼれる淡い光が水面のように壁をゆらゆらと揺らしていた。時計の針は六を指していて部屋の空気は少し冷たい。隣では彼が浅く眠っている。
昨夜、何度も抱きしめられた腕の重みが、まだ腰のあたりに残っている。呼吸の音が規則正しくてその音を聞いているとこのヒーローと一週間も離れるなんて嘘みたいに思えてくる。でも時間は確かに動いていて、私はこの静けさを名残惜しむようにベッドの端で小さく身を起こした。
洗面台の前で顔を洗うと、鏡の中の自分が少しだけ、ぼんやりして見えた。眠気のせいなのか、それとも胸の奥に漂うこの寂しさのせいなのか。指で頬を押すとほんのりとした赤みが残っていて昨日のぬくもりがまだ、消えていないことを思い知る。
キッチンに立って、いつものようにコーヒーを淹れる。豆がはぜる音と湯を注ぐ音が重なって、その香りが、部屋の隅々まで静かに満ちていく。カップを二つ並べ、彼の分にはミルクを少し多めに。そうしているだけで、いつもの朝の風景が、戻ってくる気がした。リビングに戻ると彼が目を覚ましたらしく起きてきた。髪が少し乱れていて寝起きの顔がまだ夢の続きにいるみたいにやわらかい。
「……おはようございまぁす」
低い声が耳に届く。その声に心の奥の糸が少しだけ震えてしまった。
「おはよ。もう起きたの?」
「名前さんがいない気配で、目が覚めました」
そう言って彼は寝癖の残る自分の髪を無造作に撫でた。その仕草に滲む、照れと諦めが、どこか可笑しくて、私は小さく息を漏らすように笑い、何も言わずにカップを差し出した。
「コーヒー淹れたよ。ほら、甘いやつ」
「あざす……あぁ〜、優しさの香りがする」
彼はそう呟き、カップを両手で包み込む。その湯気の向こうから、じいっと私を見つめていた。まるでその小さな動作一つでこれから先へ流れていく時間そのものを、そっと留めようとしているかのように。
テーブルの横には昨夜のうちにまとめておいた小さな旅行用バッグ。その存在が言葉よりも確かな現実として部屋の空気を変えていた。彼の視線がそこに落ちるのを見て胸の奥が少しだけきゅっと鳴る。
「……本当に、行っちゃうんですね」
その声は問いの形をしていながらすでに答えを知っている響きを帯びていた。私は彼の声の端に滲む未練を、聞かなかったふりはできなかった。
「うん、もうすぐ。新幹線でね」
「そっか……」
短い沈黙が落ちる。言葉が消えたというより、言葉にならなかったものがいくつも宙に留まっている気配がした。
行ってほしくない、行かないで。どれも正しいのにどれも口にするには重たすぎる。だから彼は笑うしかないのかもしれない。私はその顔を見て同じように口角を上げながら、バッグの持ち手を軽く握った。革の感触が現実を静かに引き戻してくる。
「大丈夫だよ。ほんの一週間」
「��ほんの�≠カゃ、ないです」
彼はそう言って、そっと私の手を取った。指と指が触れ合う瞬間、手のひらに残る温度がやけに生々しく伝わる。離れることそのものを、身体が拒んでいるみたいに、強く、名残惜しい。
「あの......一個だけ、いいですか?」
「ん、なに?」
「なんで、前日に言ってきたんです?」
思わず目を見開き、視線を逸らす。理由を探すというより感情を整えるための逃げ道を、無意識に探していたのだと思う。彼はそれを見逃さず距離を詰める。視線が絡み合い、逃げ場がなくなる。
「……ショックは、直前の方が、いいかなって」
「ああ、なるほど?」
「ヒーロー活動に支障出たら、困るし」
「もう、出るフラグ立ってますけどね」
軽口に似せた言い回しの裏で彼の声が少しだけ擦れる。私はそれに応えるように、彼の手を握り返した。説明は十分だった。正しさよりも、彼を傷つけない距離を選んだ、その選択が。
「……ねぇ、そんな顔しないで」
「どんな顔です?」
「行かないでぇ〜、って顔」
「してません。これが、通常運転なんで」
彼はそう言って、笑顔の形を作る。けれど私は知っている。その笑顔の奥で、琥珀色の瞳がわずかに潤んでいることを。窓の外から風が当たり、ガラスが小さく鳴る。その音が出発の合図のように胸に触れた。時間が、確実に前へ進んでいる。
私はバッグを肩にかけ、玄関へ向かう。靴箱の前で立ち止まると家の中の匂いが、急に愛おしく感じられた。ここで過ごした時間の重さが、今になって、静かに輪郭を持ち始める。
「……駅まで、送りますよ」
「いいよ。まだ早いし」
「それでも」
彼は短く言って、上着を手に取った。譲らないところが、彼らしい。私は何も言わず、頷いた。
玄関の扉を開ける前、彼が一歩近づく。言葉はなく、ただ腕が回される。抱きしめ方はそこまで強くないのに離れないという意志だけがはっきり伝わってくる。私の頬に彼の呼吸が触れ、体温が今この瞬間を刻む。
「……すぐ、連絡してください」
「うん」
「無事着いたら、必ず」
「……うん」
返事は短く、それ以上の言葉は要らなかった。約束というよりも、互いの呼吸を確認するための合図のようなものだったのだと思う。
私は彼の背に手を回し、最後に一度だけ、深く息を吸う。清潔な洗剤と彼自身の匂いが混ざった生活の匂い。赤い羽根が私の腕にかすかに触れ、その感触が離れる直前の現実をはっきりと教えてくる。
「……ホークス。やっぱ、ここまででいいよ」
私がそう言うと、彼の身体がわずかに強張ったのが、抱きしめたままでもわかった。
「いや、駅まで……」
「大丈夫。今日はひとりで行ける」
「でも……」
言いかけて彼は言葉を止めた。私の肩口に顔を埋めたまま何かを考えている気配だけが伝わってくる。行きたい気持ちと引き止めてはいけないという理性が、静かにせめぎ合っている。
「……見送り、玄関までで、いいから」
「……本当に?」
「うん。これ以上一緒にいたら、私のほうが出られなくなる」
少し冗談めかした言い方を選んだのは彼を納得させるためというより、自分自身を前に進ませるためだった。彼は小さく息を吐き腕の力を緩めて私の身体をそっと離した。
「……わかりましたよ。渋々、ですけど」
その声に諦めと優しさが同時に混じっている。私は彼の胸に額を軽く預け、短く笑った。
「ありがと」
「……ずるいなぁ」
そう言いながらも彼は、それ以上は何も言わず、困ったように眉を下げた。引き留めないことが今の彼なりの愛情なのだと私にはわかってしまう。扉の前で向き合い、ほんの一瞬だけ視線が絡む。言葉にしなくても今は、それで十分だった。扉を閉める直前、彼が「名前さん」と小さく私の名を呼んだ。
「ん?」
「……行ってらっしゃい」
「……うん」
その言葉を言った瞬間、彼が私をまた勢いよく抱き寄せた。まるでその抱擁の中に、これからの七日間を全て詰め込もうとしているかのように。
「どうか……気をつけて。」
耳元に落とされた声が、少し掠れていた。その声を残したまま、私は身体を離す。ドアノブに手をかけた瞬間、背中からふわりと風が触れた。彼の剛翼が揺れて、空気が一瞬だけ甘くなった。
振り返ると、彼が立っていた。言葉はなかったけれど、その眼差しがすべてを語っていた。私は小さく微笑んで、そっと手を振る。
「行ってきます」
ドアが静かに閉まり鍵の音が区切り線のように鳴る。私はその音を背中で受け止めながら一歩、外へ踏み出した。朝の空気を、胸いっぱいに吸い込む。離れることは失うことではない——。そう信じるために歩き出す。背中に残る温度を確かめるように抱えたまま、腕に残る羽根の感触をまだ、消さないまま。この瞬間の静けさがあとになってから、どれほど恋しく思い出されるのかを、今は知らないままで。