【 一日目——。】

 出発の朝——扉が閉まった瞬間、部屋の空気がほんの少し薄くなった気がした。その、わずかな変化を誰も知らない。でも俺にはわかる。羽ばたくための空気が、一枚ぶん足りなくなった感覚がしたからだ。
 リビングにはまだ彼女が触れていた痕跡がいくつも残っていた。たとえばテーブルの上に置かれたマグカップ。ソファの背にもたれたままのブランケット。ベッドの片側だけに残る少しだけ乱れたシーツ。どれもただの物なのに、彼女の体温を記憶している気がしてならなかった。
 俺は洗面台に立ち鏡を見た。目の下に少し影ができている。睡眠不足のせいではない。昨日まで誰かと呼吸を合わせて生きていたのに、今日は、ひとり分の呼吸しかない。ただそれだけの違いで世界が少し静かに見えた。

 任務は相変わらず容赦がない。救助要請、パトロール、会議、報告書。やることは、山のようにある。けれど、空を飛んでいる最中も、風の音がやけに冷たく聞こえた。人々の笑顔を見てもあの人がいない限りどこか、完成しない絵を見ているような気分だった。
 昼下がりの陽が事務所の窓ガラスをゆるやかに照らしていた。ヒーロー活動の合間、俺はデスクに積まれた報告書を放り出すように片づけ、コーヒーを片手にソファへ沈み込む。出発からまだ、数時間程度しか経っていない。それなのに空気がいつもより広く感じるのは気のせいだろうか。

「……そんで、彼女が一週間も地方に行くことになりまして」

 呟くように言いながら俺はため息をひとつ吐いた。チームアップで福岡まで訪れていたファットさんが書類をめくる手を止めて「ん?」と片眉を上げる。

「お〜、それはそれは……災難やなァ」
「はい……もはや災害レベルです。SSSランク級の寂しさって感じっすね」

 半分冗談、半分本音。背中の羽根がしょぼんと肩に寄っていくのを、自分でも感じていた。ファットさんはその様子を見て抑えきれない笑い声を漏らした。

「ちゃんとヒーロー活動してるだけえらいやん。中身、空っぽやけどな?」
「えー、うそぉ……バレてます?」
「背中が物語っとる。翼まで覇気ないん、初めて見たわ」

 俺は両手を広げて苦笑する。羽根の先が、ぴくぴくと反応して、まるで��同意�≠キるように軽く震えた。

「いやぁ、もうほんと……彼女がいないと部屋の酸素薄くなるんですよねぇ」
「酸欠かいな。そら、重症やな」
「ヒーローなのに、酸素確保できないって致命的じゃないすか?」

 そう言いながら笑ってみせるけれど、笑い声の奥に微かに混じる溜め息は自分でもごまかしきれなかった。ファットさんが、ペットボトルの水をひと口飲み、やや真面目な顔でこちらを見る。

「ま、ええんやないか。会えん時間ってのも悪いもんやないでぇ?愛してる、の確認期間みたいなもんや」
「……確認、ですか」
「せや。どんだけ彼女の存在が、おまえの毎日に染みとるか、ようわかるやろ」

 その言葉に、ふと返す言葉が詰まった。確かに朝のコーヒーの香りも、帰ってくる家の匂いも、彼女がいて、初めて完成していた。それが今は、どこか、未完成の風景になっている。世界が少し色を失っている気がした。

「……確認期間、かぁ」

 呟いて空を見上げる。窓の外ではビルの合間を風が抜けていく。その風の音が今日に限っては、やけに胸にしみた。

「ねえ、ファットさん。もし俺がボーッとしてたら、ちゃんと突っ込んでくださいね」
「おう。言うたな?ほんま気抜いたら俺の脂肪で包み込むからな」
「うわ、それは……愛が重い!」
「ワハハ、お互い様やろ」

 二人して笑う。その笑いが少しだけこの空っぽの時間の真ん中を明るくした。けれど笑いのあとに訪れる静寂が、まるで余韻のように胸に残る。カップの底に残ったコーヒーを飲み干しデスクに視線を戻す。さてと、仕事に戻らなければ。彼女に胸を張って「今日も無事でした」って、言えるように。
 それでも、ふとした瞬間に思う。今この瞬間、彼女はどんな風を感じているんだろう。何を見てどんな表情で笑っているんだろうって。その想像だけが今日いちばん、鮮やかな景色に見えた。

 任務に出る時間が近づく。立ち上がって、フライトジャケットを羽織る。鏡に映る自分の姿が、少しだけ遠くの誰かを探しているように見えた。
 背中の羽根を広げる。羽ばたくたびに、空気の中に彼女の匂いが混ざっている気がして俺は目を閉じた。

「……ま、やるしかないっすねぇ。ヒーローも、恋人も、両立してみせますよ。最速で——」

 ファットさんが笑って親指を立てる。その手に軽く剛翼の先を当てて俺は、窓の外の光へと飛び出した。風が冷たい。でも、悪くない。この風の向こうに、あの人がいる気がするから——。


 *


 夜の二十三時を少し回ったころ、任務を終えて帰宅した部屋は驚くほど広く感じられた。ドアを閉めた瞬間冷たい空気が足もとを撫でる。まるでこの空間そのものが、彼女の不在を確認しているみたいに思えた。

「……ただいまぁ」

 癖のように出た言葉。その直後、思わず舌打ちしそうになる。返事はない。知っているのに声は出てしまう。ブーツを脱ぎながら照明をつけると灯りの色さえどこか遠く、冷たく見えた。静寂が壁の奥から、じわじわと滲み出してきて、それがまるで、部屋の温度を下げていく。

「……静かすぎ」

 小さく呟く。羽根を少し畳んで肩を落とした。キッチンに向かい冷蔵庫を開ける。中には、買い置きのプリンもない。代わりに彼女の可愛らしい字で書かれた付箋が貼られていた。


 『ちゃんと食べること!』
 『冷凍庫にごはんもあるよ』


 それを見ただけで笑いと息が同時にこぼれる。冷気が頬を撫で、それすら彼女の手のように感じた。リビングにはもう、彼女のグラスも、雑誌もない。まるで生きていた日常の痕跡だけをそっと風がなぞっていくようだった。
 ソファに身体を投げ出して、天井を見上げる。目を閉じれば、浮かぶのは彼女の寝息と笑い声。幻聴という言葉を思い出して、苦笑する。彼女がいない夜は音が減る。それは世界のボリュームが下がるというよりも心臓の鼓動が一拍、抜け落ちたような静けさだ。
 おもむろに起き上がって、冷凍ごはんを温め、インスタント味噌汁を添えてひとりの食卓。味は悪くない。でもとなりの席が空っぽというだけで食事という行為そのものが、どこか、形を失っていく。食後、風呂に入る。湯気の中に沈んだ匂いが、彼女のシャンプーを思い出させる。湯船に、肩まで浸かりながら、ぽつりと呟いた。

「湯船って……こんな広かったっけ」

 その声が浴室の壁に反響する。水の音に混ざって、孤独が響く。彼女がいたなら、きっとここに背中があった。そんな想像が、やけに具体的だった。バスマットの沈み方も、タオルの並べ方も、ドライヤーのコードの巻き方すら彼女を思い出す要因になる。
 風呂から上がって髪を乾かし、そのまま寝室へ向かう。ベッドにかかったシーツが、やけに白く目に映った。スマホを手に取り時刻を確かめる。——23時51分。画面が暗転したその瞬間だった。ふいにもう一度、ぱっと光が走り、反射的に息をのむ。通知欄に浮かんだのは彼女の名前だった。


名前

今夜はちゃんと
ご飯食べた?


ホークス

うん。たぶん食べました
たぶん






 送信してから我ながら曖昧な返事だなと小さく息を吐く。言い切らなかったのは、余白を残したかったからだ。俺の「たぶん」には強がりと寂しさが混ざっている。けれど彼女ならきっと、その混ざり具合ごと受け取ってくれる。そう信じられる相手がいることが、今は何よりの支えだった。
 数秒後、別の音が鳴った。着信だ。考える間もなく、画面をタップする。呼吸を整える時間さえ惜しかった。

『——もしもし? ホークス?』

 その声を耳にした瞬間、身体の奥で張りつめていたものが音を立てずにほどけていく。肩の力が抜け、背中に溜まっていた緊張がゆっくりと床へ落ちていく感じ。まるで夜そのものが彼女の声で照らされたみたいにして。

「……あなたの声聞いた瞬間にすげー安心してる自分がいるんですけど。これもう、中毒ってやつですかね」

 冗談の形を借りた本音。画面の向こうで彼女が笑っているのがわかる。声の揺れから、唇の動きまで想像できてしまうのが、余計につらい。

『ふふ……ホークス、おかえり』
「……ただいま」

 その一言で、止まっていた世界が、また呼吸を始めた気がした。短い沈黙のあとどちらからともなく、小さく笑う。沈黙が気まずくならない相手だという事実が、胸に静かに沁みる。

「名前さん、会いたいです」
『……ホークス、まだ一日しか経ってないよ』
「わかってます。でも今日、七回くらいはあなたの名前、口に出しましたよ。無意識に」
『その感じであと六日……大丈夫そう?』
「拷問です」
『じゃあ明日から、恋の減量期間ってことで』
「や、です!!俺がどんどん痩せちゃうじゃないですか、名前さん成分不足で!」

 笑い合いながら胸の奥ではちゃんと痛い。声があるだけで世界はこんなにも色を取り戻すのに、通話が終われば、また片方だけが欠けてしまう。その予感が、会話の合間に影を落とす。

『——じゃあ、遅いから切るね』
「えっ? もうですか? 早くないです?」
『明日もあるでしょ』
「……ありますけど」

 納得したふりをして、言葉の端に未練が滲む。俺は無意識にスマホを握り直していた。手のひらの熱が、画面に移ってしまいそうなくらいに。

「もう少し。ほんのちょっとだけ、だめです?」
『ホークス……』
「声、あと一回だけ聞かせてください。名前呼ぶとかでもいいんで」
『……欲張りだね』
「はい、知ってます」

 向こうで、小さく笑う気配。短い沈黙のあと、彼女が『啓悟くん』と、俺の名前を呼んだ。そのたった一音で胸の奥が満たされてしまう自分が、少し情けなくて、でも、誇らしい。

『ゆっくり、休んでほしいから』
「はい」
『……じゃあ、今日はここまでね』
「……はい」

 名残惜しさを噛みしめながら、それでも、引き止めきれずに口が先に動いてしまう。

「こんな遅い時間に、すみませんでした……声、聞かせてくれて、ありがとうございました」
『いいえ』
「……おやすみなさい、名前さん」
『うん、おやすみ。また明日ね』

 通話が切れて『通話終了』の文字が、スマホの画面に浮かぶ。俺はそのまましばらく動けなかった。スマホを胸に抱き寄せるとさっきまで確かにそこにあった声の余熱が、まだ、残っている気がした。

「……明日は、もうちょい早く帰ってこられますように」

 誰にともなく呟いて目を閉じる。眠りに落ちる直前、彼女の寝息がどこか遠くで聞こえたような気がして思わず、口元が緩んだ。

「……大好きです。おやすみなさい」

 その夜、俺はスマホを抱いたまま眠った。画面の向こうで今も流れている気がする彼女の呼吸のリズムが、俺にとっての子守唄になっていた。


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