(メリ〜クリスマ〜ス!)
そう心の中で呟いた声は驚くほど薄く、乾いた冬の空気にほどけるように溶けていった。
そもそも今日はイブである。本番は明日というのが、世間の約束事なのだろう。もっとも、私にとってはどちらであっても大差はないけれども。
東京の風は冷たい。頬を撫でて通り過ぎるたび冬であることを思い出させる。指先を覆っていたのは、単なる冷気ではなかった。どうしても拭えない影のような孤独が、体温より先に染み込んでくる。それは痛みというほど鋭くはなく、ただ、静かに一人、ここにいると知らせる重さだった。
ヒーロー緊急支援センター内。蛍光灯の白が、フロアの隅々まで広がって、デスクにまで、影を作っていた。報告書の端が、暖房の風にわずかに揺れるたび、ここにはいない誰かの羽音のような気配がして「馬鹿げている」と、自嘲が漏れる。
社会人になってから、恋人と一緒にこの季節を迎えた事がなかった。理由は単純でいつも相手が仕事だったり、そもそも相手がいなかったり……だったら私もと、同じように働く側に回ってきただけの話だ。しかし結果——同僚の間で私は今や『イベント日に出勤を自ら希望する人』として、語られるようになった。誤解ではない。むしろ、都合がよかった。仕事をしている間だけは、街を歩く恋人たちの笑い声もショーウィンドウに映る幸福のかたちも、心の外側に押し留めておけるのだから。
「——はい。こちら、ヒーロー緊急支援センターです。事故ですか?事件ですか?」
いつも通りの、ごく日常の応対文句。窓の外、街の光が遠くで瞬いている。幸福の光景が無数に散りばめられた夜。そのなかに、私と彼の時間は存在していない。
私はヒーロー緊急支援センターのオペレーターだ。ヒーローが最前線に立つなら、私たちはその背を支える裏方。表舞台には出ないが判断が一瞬でも遅れれば、命が失われる現場もある。だからイブだろうと年の瀬だろうと、関係ない。犯罪が減るわけでも悪意が休むわけでもないのだから。
それでも——今年だけは、少し違ってほしいと願っていた自分がいた。私の恋人はヒーローだ。福岡を拠点に空を翔ける、誰もが知る剛翼の男。特別な夜を一緒に過ごせるなんて、最初から期待していなかった。彼が今、どこにいるのかさえ、あえて聞かなかった。聞けばきっと答えてくれただろう。それでも尋ねなかったのは、はっきり、「会えない」と言われるのが、怖かったからだ。その一言で、心の温度が失われてしまいそうで。
仕方ない。彼はヒーローなのだから。そう繰り返せば少しは楽になる。自分に言い聞かせながら溶けない氷を口の中で転がすように夜をやり過ごしてきた。わかっている。彼がどんな人間かも、誰よりも「助けて」を優先する人だという事も。自分の幸せを後回しにして空へ向かう人だという事も。だから、どんなに特別な日であろうと期待してはいけないと、理屈では知っている。
それでも、胸の奥のどこかで小さな��人並みの人間らしさ�≠ェくすぶるように疼くのだけはどうにも、止めようがなかった。
「位置情報を受け取りました。救助班へは別途、要請します」
彼からの電話ひとつ鳴らないまま、メッセージアプリを、何度も開いては閉じ、空振りの画面を見送る。ああ……私はいったい何を待っているのだろう。机の上のマグカップにはすっかり冷めたコーヒー。その縁に唇をつけると苦みよりも彼の不在の味がした。
「……忙しいよね。」
誰に向けたわけでもない呟きが広いセンターの室内に静かに沈む。でも本当は知っている。彼はきっと、どこかで誰かを助けている。誰かが泣き叫ぶ現場であの個性の翼を広げて、飛んでいる。その事実だけで私の胸の奥はひどく温かいのに、同時に、どうしようもなく寂しい。
(……ホークス。)
心のなかだけで名前を呼んでみる。たったそれだけで涙腺が、じんと熱くなる。
ヒーローとの恋は、思っていた以上に静かだ。彼の笑い声を思い出すたびに空気が震えるような気がするのに手を伸ばしても何も掴めない。あの人は空の上の人。私は地上で彼を見上げるだけ。けれど、それでも私は、彼を愛している。
クリスマスイブの夜。その事実だけを胸に抱きながら、私はまた一枚、報告書を重ねた。
*
仕事帰り。街のイルミネーションが、やたらと眩しくて目に刺さるようだった。まるで私の現実を、ことさら際立たせようとでもするみたいに。
ビルの谷間を縫うように光が瞬き、人々の笑い声が通りの隅々に散っていく。イブの夜。空気がやけに澄んでいる。息を吐くたびに、白く濁った寂しさが形になって、宙にほどけていった。
「チカチカして、目が痛いですぅ……」
小さく呟いて自分でも笑ってしまう。我ながら可愛げがないなぁと思う。
あたりはすっかり、クリスマスムード一色だ。大通りには赤と金のリボンがかかり街路樹の一本一本が宝石をつけたように輝いている。カップルたちは肩を寄せ合いながらこの夜を生きる理由にしているみたいに、とても幸せそうだ。私はその群れの中をただひとりで歩く。コートの襟を立てて、手袋をした指先をポケットに押し込みながらああ、さようなら、私の幸せ。と心の中で呟く。今年の私はまたしてもひとりぼっちで聖なる夜を過ごすのだ。今年のクリスマスは苦しみマスだ、なんてね……と、苦笑してみせても唇の端は持ち上がらない。
そもそも十二月に入ってから私のすべては崩れっぱなしだった。仕事での不備も、体重の増加も睡眠の浅さも、どれもこれも小さな破片のように積み重なって、気づけば心の奥まで軋みを生んでいた。極めつけはファンデーションのノリが悪い朝。そんな些細な事ですら心の余裕を試すように襲ってくる。
「はぁぁ〜……」
大通りの真ん中で思わず盛大にため息を吐いてしまった。すぐ目の前で手をつないで歩いていたカップルが、怪訝そうに振り返る。私は、慌てて早足で追い越し、背中に残る視線を無理やり置き去りにした。
——ホークスと出会って、どれくらい経ったのだろう。会っていない時間を差し引いたら実際に恋人として過ごした期間なんてほんの数週間かもしれない。それでも、あの人と過ごした数時間の温度がまだ、肌の奥に残っている気がする。
期待してない、そう口にするたび少しだけ嘘をついている気がした。本当は、ほんの少しだけ、いや、ほんの少しでいいから、夢を見ていたい。遠く離れていても彼がふいに「今夜、そっち行きますね」なんて言ってくれたら、どれほど嬉しいことだろうと。けれど、そんな奇跡は起きない。彼はいまもどこかの街で誰かを守っている。ヒーローとして、きっと、この冷たい夜空のどこかを飛んでいるのだ。
「………。」
はぁ……ありえない。ありえなさすぎて、少しだけ泣けてきた。だから私は、わざと口に出して笑ってみる。
「別に……期待なんて、してませんからぁ〜」
なんて——実際、声に出してみたものの結果、虚しいだけだった。
トップヒーローの恋人であるということは常に人並みの幸せを手放す覚悟を伴う。たとえ、手を繋ぐ時間がなくても名前を呼び合う瞬間が減っても、それを当然の事として受け入れなければならない。わかっていたはずなのに。実際は、まるで慣れなかった。私の中では彼が隣にいない現実が何度でも、新しく傷をつけていく。それは単なる寂しさではなく彼への愛の重さそのものだった。
私はきっと、彼を好きすぎるのだ。それ以外に言葉が見つからない。
以前、恋人と離れていても平気だった頃の自分を思い出す。��寂しい�≠ニいう感情がただの季節の温度変化のようにしか感じなかった、あの頃——でも、今は違う。彼と離れていることが、酸素の薄い場所で生きているように苦しい。もしこれを昔の恋人たちが聞いたら怒るだろうか。ごめんなさい。でも、もう比べることすら無意味なのだ。だって彼は私の中で唯一無二の存在になってしまったのだから。それを本人に話したらきっとあのヒーローは、冗談めかして言うだろう。
『俺の前で昔の人の話すか?はー?信じられん』
その声が鮮やかに脳裏で再生されて私は思わず小さく吹き出した。……ほんと、馬鹿みたいだ。ひとりで歩きながら笑っている自分が街灯の下のショーウィンドウに映る。まるで、誰かを演じているみたいな作り笑顔。
(どうしよう……最近、一気に老けた気がする)
イベント事が来るたびに私は彼の肩書きを少しだけ、憎らしく思ってしまう。彼の肩書きというよりも、��平和の象徴�≠ニいう存在そのものが、私から彼を奪っていくような気がして——けれどそんな感情を口にしたところで、誰にも理解されないだろう。私は、ヒーローじゃない。だから、彼らの世界の温度はどうしたって完全には分からない。
頭では理解しているのだ。彼にとって��救う�≠アとがすべてであり、それは彼自身の命そのものなのだと。でも私にとってのすべては彼自身で。彼がいなければ私はただの誰でもない人になってしまう。彼には剛翼という個性があり、ウィングヒーローという称号があって、トップヒーローという立場がある。でも、私には、何もない。彼がいなくなれば私はいったい、どうなるのだろう。笑っちゃうほどに、空っぽなのかもしれない。
「はぁ……惨め。」
自然と口から漏れた声は夜風にあっけなくさらわれた。そのとき、頭上を、ひとすじの赤い光が走った気がして、思わず顔を上げた。
……まさか、ね。空を見上げても、そこに彼の姿はない。でもどこかで風が私の名を呼んだ気がした。
*
マンションの鍵を回す音がやけに冷たく響く。玄関を開けると暗がりが、そのまま部屋の奥まで続いている。誰もいない部屋の匂い。乾いた空気と、朝出る前に淹れたコーヒーの残り香が混ざり合っていた。手洗いも、うがいもせず、コートすら脱がないまま私はソファに身を投げる。体が沈む音だけが静寂をかすめて、すぐに消える。
歩き慣れたはずの帰り道が、どうしてあんなに遠く感じたのだろう。クリスマスイブの大通りをひとりで歩くという行為が、あんなにも胸を締めつけるものだったなんて。私はこんなに恋愛体質だっただろうか。自分でも驚くほどだ。
「ヒーローなんか……」
声にならない言葉が、唇をかすめる。どうせ、忙しいのだ。電話をかけても、出てくれるわけがない。迷惑に決まっている。
最後に送ったメッセージ、あれはもう、三日前。既読の印はついているのに、返事はない。
私はヒーロー・ホークスの彼女と、胸を張って言えるのだろうか。恋人というのは、もっと支え合うもので互いを支えることで関係を深めるものなのではないのか。私は彼を、支えられているのだろうか。それともただ甘えているだけなんじゃないか。何度、頭の中で言葉を巡らせても答えは出ない。彼は確かに忙しくないときには驚くほどマメだ。朝の「おはよう」も夜の「おやすみ」も彼から送ってくれることが多い。繋がっていたいと誰よりも思うタイプの人種だろう。それなのに今は沈黙。たぶん彼の世界は私の知らない戦いの只中にある。
「むつかしいこと考えても、しょうがないかぁ」
自分にそう言い聞かせながら天井を見上げる。眠気が、重たい靄のように視界を覆う。
……だめだ。一人でいると、ろくなことを考えない。不満ばかりが湧いてきて、どんどん自分が小さくなっていく。
「……テレビでもつけよ。」
リモコンを探してスイッチを押す。画面の中では楽しげな音楽番組が生放送されていた。どうやらクリスマスソングの特集らしい。キラキラと笑う歌手の顔が、今夜の私にはどうにも眩しすぎる。
「やめて……もっと悲しくなる」
チャンネルを変える。今度は、恋愛ドラマだ。主演の男女が、イルミネーションの下で口づけを交わしていた。
「……わー、キスですか。はいはい、お盛んで」
乾いた笑いが漏れたあと心の奥が痛くなった。またチャンネルを変える。今度は中継。街のイルミネーションを映すカメラが光の海を滑るように映している。画面の端には、腕を組む恋人たち。微笑んで、マフラーを分け合う姿……。
「……もぉっ!」
反射的に、声が出た。まるで、責められているみたいだ。リモコンをソファの隅に投げると反動でまたチャンネルが戻ってしまった。最初のクリスマスソング特集だ。静かに堪えていたものが、崩れていく。涙だった。頬をつたってひとすじ、ふたすじ。あたたかいのに、どうしてこんなにも冷たく感じるのだろう。テレビの中の歌がやさしすぎてさらに胸をえぐる。幸せそうな旋律が私の孤独の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。
「…………会いたいよ、っ、」
ようやく絞り出した言葉が呼吸のように漏れてひとりきりの室内に虚しく響く。どうしよう……困った。さみしくて、死にそうだ。
『俺だって寂しいです。俺だって会いたい、会って抱きしめて——』
もし今電話をかけたら彼は、そう言ってくれるだろうか……。スマホを手に取り、指先で液晶をなぞる。既読の印が小さく表示されたままのその画面が、胸の奥を締めつける。
私は通話ボタンに触れかけて結局やめた。深く息を吸って吐く。その繰り返しの中で、少しだけ心が落ち着いていく。
こんな夜は、何も考えない方がいい。私は立ち上がって、部屋の明かりをつけた。黄色い照明が薄暗いリビングを一瞬で現実に引き戻す。コートを脱いで靴下を脱いで服を次々と床に落とすように剥がしていく。重い足取りで浴室のドアを開けると、冷えた空気が肌を刺した。湯船に熱いお湯を張る。蒸気が白く立ちのぼり鏡を曇らせていく。湯に身を沈めた瞬間、体の芯から溶けていくようだった。水面の揺れが心の波みたいにゆらゆらと広がる。
「………。」
——ホークス。あなたは、今、どこにいるの。どんな夜を過ごしているの。私はここにいるよ。あなたのいない夜を、数えているよ。胸の奥で、そんな言葉が小さく響く。けれど、声には出さない。声にした瞬間、涙が止まらなくなりそうだったから。湯気の向こう、ぼんやりとした鏡の中に映る自分の顔。その瞳が少し赤く濁っているのを見て、そっと目を閉じた。きっと明日はもう少し強くなれる。そう、思いたい。思うことでしか、救われない夜もあるから——。
風呂から上がってバスタオルを首からかける。濡れた髪から雫が落ちて、床を点のように濡らした。適当に髪を乾かして、照明を落とした寝室に入るとシーツがひんやりとしていてその冷たさが妙に心地よかった。ベッドに潜り込むと、遠くで風の音がした。その音が誰かが羽ばたく音に似ていた気がした。
ああ、もう少しだけ夢を見よう。もし夢の中で会えたならそれで十分。そう思いながらまぶたを閉じる。街の喧騒が遠ざかり、意識がゆっくりと沈んでいく。その最後の瞬間まで私は、彼の名を心の中で繰り返していた。
ホークス——またの名、鷹見啓悟。啓悟くん。
あなたの声が聞こえる気がした。けれどそれはきっと夢の手前の幻。それでもいい。今夜だけは夢の中でもいいからあなたに会いたいよ。ねえ、マイヒーロー。
*
まどろみの底で視界はもう真っ暗だった。カーテンの隙間から洩れる月の光が寝室の空気を薄く漂わせるように照らしている。時刻は日付を跨ぎクリスマス当日を迎えていた。壁の時計の針が、かすかな音を立てている。今日の予定はと言えば起きる、朝食を食べる。センターで仕事をして、午後からはヒーローたちのクリスマスイベントの手伝い。帰宅、夕食を食べる。そして……眠る。そんな繰り返しにすぎない何の変哲もない一日。変わり映えのない日々。けれど胸の奥では何かがふいに疼いていた。
鼻の奥がつんと痛んで呼吸が浅くなる。ああ、また泣きそうだ。何度目になるのだろうか、この夜に、こうして涙をこらえるのは——。
「…………ん?」
そのときだった。ベッドがふいに揺れた。私は一瞬で覚醒する。……待って?今この部屋には、私しかいないはずだ。強盗?凶悪な、ヴィラン?いろんな良くない想像が頭の中を駆け巡り心臓がひとつ大きく跳ねて、脈も速くなる。
「え、ちょ……」
声にならない声が、喉の奥でひっかかる。次の瞬間、闇の向こうで、何かの気配が動いた。脳が判断するより先に、身体が答えを出しかける。
『ぎゃー!』『わー!』『不審者ァ!!』
喉元までせり上がった三段構えの悲鳴を理性が全力で押し戻した。いや待て。今ここで叫んだら通報されるのは確実に私だ。深夜、ひとり、クリスマスの夜——意味もなく悲鳴を上げる女。完全アウト。結果、口から出たのは、情けない空気音だけだった。
静寂が落ちる。冷たい空気が、耳の奥まで染み込んできて、心臓の鼓動が、やけに大きく響き、足先の感覚が曖昧になる。視線だけを動かし闇の奥を探った、そのときだった。
「シー……」
低く、けれど優しい音が空気を震わせた。息を潜めて目を凝らすと、厚手のカーテンの隙間から月光が差し込み、その輪郭をぼんやりと、浮かび上がらせていた。
その背には、鮮やかな紅。クリスマスを彩る、ポインセチアの花弁のように燃える冬の夜の色。
「……ホー、クス……?」
暗がりの中、バサリとその背中の羽根を優雅に広げて、革のフライトジャケットとお揃いの色のパンツを穿いたウィングヒーローホークス。彼はベッドの上にいた。私に馬乗りになって、片目を細め唇に人差し指を当てて「静かに」と告げる。その背に広がる赤い翼がもう一度、月光を受けてゆらめいた。
「メリークリスマス。」
そう言って彼は、いつも身につけている黄色いゴーグルを指先で押し上げて私との距離をさらに縮めた。逃げ場を奪うほど近づくわけでもなく、けれど確実に意識せずにはいられない距離まで。
次の瞬間、額に——ちゅ、と小さな音を残して軽い口づけが落ちる。息が止まる。剛翼と夜風と冷えた空気をまとった匂い。室内とは違う、外の世界をそのまま連れてきたみたいな、彼の匂いがした。ああ……空の匂いだ。それだけで胸の奥が静かに、ほどけていく。
「ちょ……ちょっと、待って……え?……夢?」
「……」
「私、とうとう、頭がおかしく……」
「相変わらず可愛いですね、名前さん」
彼の声。低く、けれどどこか甘く響く、その、声音。現実だと気づいた瞬間、私はがばっと身を起こした。
「なっ、なんでいるの!? 不法侵入ですっ!」
「えー?一応サンタさんを意識して、来たつもりなんですけどね〜」
「聞いてないよ、そんなこと!」
思わず枕で彼の胸を叩いた。彼は「ハハハ」と笑って受け止める。軽く、そして優しく。
「部屋、散らかってましたよー?服とか。本当に強盗でも入ったのかと一瞬、ヒヤッとしました」
「……」
「まったく、不用心ですねぇー。ベランダ、普通に開いてましたけど?」
「え……」
「そんなに俺に、会いたかったんですか?」
「……サンタさんのために、開けたんだよ」
「ふーん、そっか」
あっけなく見抜かれて私は顔を背けた。きっと目敏い彼のことだから散らばっていた服の原因も一発で、見抜いたことだろう。彼の前では、どうしても嘘がつけない。
「来るなら、ひと言くらい、連絡……」
「……」
「メッセージ、入れておいてくれるとかさ……」
「あなたがそれを開く前に本体が先に着いちゃいますよ」
「……っ、」
「俺を誰だと?」
「……速すぎる、男」
「はい、よくできました」
むすっとしている私とは反対に彼はにっこりと笑った。その笑みは空よりも軽く、でもどこか、すこしだけ、寂しげでもあった。
「……ホークス。」
思わず手を伸ばして、彼の髪に触れる。こんなこと、普段なら滅多にしない。だからきっと私は寂しかったのだと思う。指先に伝わる感触は記憶していた通りだった。柔らかくて軽くて、前よりほんの少しだけ長くなっている。それでも、引っかかることはなくするりと、ためらいもなく指のあいだにすべり込んでくる。まるで、触れられることを、拒まないみたいに。
「……髪、伸びたね」
そう口にしながら確かめるみたいに私はただ、もう一度だけ指を動かした。逃がさないように、でも、触れすぎないように。
「……え? そうです?そんな、変わってないと思いますけどねー」
彼は特に身を引くこともなくむしろくすぐったそうに目を細める。その様子がどこか気の抜けた猫みたいで私の指先は自然ともう少しだけそこに留まってしまった。
「……反応、薄いっすね」
「……」
——だって。こうして会いに来てくれたことが嬉しいのに悲しい。胸の奥がきしむのは、きっと私が、弱いからだ。心が狭い。素直に喜べない。
「聖夜のサプライズですよ、一応これは」
「うん……」
「ホークス、私のためにサンタさんになってくれたんだね〜って、泣き付かれる予定だったんですけどね」
「そんなキャラじゃないでしょ」
「ふはっ……出た出た。」
「あ、いや……うん……、ごめん」
自分で言いながら情けなくなって目を伏せる。どうも今日は調子が出ない。しかし、彼はそれを見て、困ったように微笑んだ。胸が詰まる。
「ホークス、ごめんなさい……」
「ん……?え、なにがですか?」
その声に重なるように、涙がひとすじ落ちた。私が彼の胸にもたれかかると、彼は驚いたように背筋を伸ばして固まった。
「え、どうしたんです?なんか今日の名前さん、いつもと違う気が……」
「今日、ってなに……私は、いつもこうだよっ」
——嘘つき。私は嘘つきだ。会えていないのに全部知っているような顔をしないで。あなたは、変わっていく。たくさんの人を救ってたくさんの笑顔を見て。可愛い可愛い雛鳥ちゃんたちもいっぱいいて……私は、なにひとつ変われないまま。
「なんなの、なんにも連絡よこさないで、勝手に来ないで……よ、」
「……すみませんでした。もうしません」
彼はそう言って、私の頭をぽんぽんと撫でた。まるで、子どもをあやすみたいに、やわらかく。だがしかし次の瞬間、頭上から、くすくすと笑う声が聞こえてきて、私は小さく唸り声を上げる。
「……っ、なんで、……笑ってるの……っ!?」
思わず声を荒らげると、彼は、一拍も置かずに答えた。
「名前さんが、可愛いからですよ」
あまりにも当然みたいな言い方で告げられて、私はそのまま言葉を失う。否定も反論も思いつかない沈黙のその隙を縫うように、彼は少しだけ、口角を上げた。からかうというより、確信めいた余裕を帯びた笑みで。
「要するに、寂しかったんですよね?」
暗がりのなか、月の光に照らされて、彼は目を細めて笑った。その琥珀色が淡く揺れていて街のイルミネーションよりも、ずっと綺麗だった。
「寂しいなら、素直にそげ言わんとね」
「……う、うぅっ……」
知っている。わかっている。彼だけ凄いのだ。私は結局ただの一般人。住んでいるところが同じ日本というだけであって平凡ないち庶民。どうしたって守られる側の人間だ。それなのに彼はまだまだ凄くなっていく。距離は努力だけでは埋まらない。
「ホークスだけずるい……どんどん凄くなって」
「えー?なんすか、突然」
「私なんか最近……仕事も、ミスが多くて」
「知ってますよー?通信、盗み聞きしてるんで」
「今日もミスしたし!イレイザーに怒られたし」
「他のヒーローの名前は、聞きたくないっすね」
「——っ、もー、なぐさめてよぉ〜!」
思わず枕をもう一度、彼の胸に叩きつけてしまう。けれど彼は、身じろぎひとつせず、それを受け止めたまま、小さく笑って私の頭を撫でた。その仕草があまりに自然で抵抗する気力も失われる。抱えた枕は行き場をなくした私の涙を次々と吸い込み、部屋に残った音は鼻をすする情けない呼吸だけだった。
「ホークスがこれ以上遠くなるの、いや……」
その言葉はようやく零れた本音だった。自分で聞き取るのがやっとなくらいにしか声を出す事ができなくて……馬鹿みたいだ。最低。こんなこと彼に言っても仕方がないのに。しかし彼の指先は離れることなく今度は私の背中をそっとなぞる。
「あの、名前さん?……酔ってます?」
「……は?」
「いや、なんか今日やけに熱量高くないです?」
「……」
「俺、今めちゃくちゃ愛されてるなぁ〜って実感してるんですけど」
「……」
「もしかしてこれが俺へのクリスマスプレゼントだったりして……?」
「——っ、酔ってないしプレゼントじゃない!」
彼はなおもくすくす笑いながら、背中に添えていた手をまた私の頭に戻して、優しく撫で続けてくれた。どうせ、このままさらに、私を揶揄ってくるのだろうと、予想していたのだが……
「あんまり俺を、過大評価しないでくださいね」
私と彼のあいだに挟まれた枕の先、頭上で彼がぽつりと呟いた。その声は温度がなくて少しだけ掠れていた気がした。
「悪いですけど俺は、ヒーローって肩書きを保つのに、精一杯なだけなんで」
冷たい彼の声が淡々と続く。しかし枕を挟んでいるからか、その声が、やや聞き取り辛い。
「正直ヒーローが暇を持て余す世の中にできるかどうかなんて、わからんですし」
「……」
「どんなにヒーローを気取ってたって元を正せば俺は、ただの公安のコマにすぎません」
彼の手がまた私の背中に伸びた。そして静かに抱き寄せられる。自然と彼の胸に顔をうずめるとかすかに、羽根の匂いがした
「でも、あなたは違うでしょう」
「……ホークス?」
「大切な人が周りにいて、仕事があって。趣味や好きなこと、これから、何でもできる」
「……」
「俺みたいに、ヒーローしかないわけじゃない」
それは完璧で超人でトップヒーローと称されるがゆえの、不安なのかもしれないな、と思った。その言葉には強がりと優しさが半分ずつ混ざっていたから。
「俺にだって、名前さんが、羨ましいと思うことくらい、ありますよ」
私はそっと枕をどけて彼の顔を見た。彼の瞳と出会う。月光がその琥珀色の瞳に反射して静かに光っている。
「ほら、なんだか少し見ないうちにまた、すごく綺麗になってる」
「……嘘つき。ホークスだってさらにかっこよくなってるよ」
自然と口にしたつもりだったが、なんだろう、このメロドラマみたいな会話……なんて、思っていると、どうやらそれは相手も同じだったらしくふたりで微笑み合って唇が近づいて、重なった。月明りのなか、どちらからともなくキスを交わす。淡く、けれど確かに、あたたかいキス。
「……やばいよ、ホークス」
「んっ?」
「かなり、ロマンチックじゃない?わたしたち」
「もぅ……言わんでいいです、恥ずかしいんで」
彼がそうやって暗がりのなかでもわかるほど、剛翼の色と同じように耳まで真っ赤にして珍しく照れて言うものだから私はつい笑ってしまった。
「てか、来るって知らなかったからプレゼント、今はないよ?」
「そんなものいらんですよ。俺もないですし」
「え、ないの!?その、ご当地のお土産とかさ」
「お土産て……そもそも、俺が今ここにいること自体、奇跡なんですからね?」
「……」
「本来なら今、俺は北海道にいる予定です」
「いちばんクリスマスらしいところじゃん」
「ははっ、ですねー。ま、今年はこれで我慢してください」
彼はふっと微笑むと私の返事を待つこともなく私の身体をベッドへと軽く押し倒した。耳もと、襟足、首筋、頬へわざと音を残すように口づけが降ってきて、息の居場所がなくなる。思わず、苦笑してしまう。クリスマスだろうと何だろうと関係ない。安定の、先手必勝ぶり。ほんの一瞬の隙も与えてくれない——速すぎる男。
「ちょ、ちょっと、待……っ、」
「んー?」
「だ、だれかっ、入ってくるかも……っ!」
私のその突拍子もない言葉に、彼は一瞬だけ、ぴたりと動きを止めて私を上目遣いで見上げた。私は咄嗟に目を、あらぬ方向に逸らしてしまう。
「……誰かって、誰です?」
「サ……サンタ、さん……とか、」
「ベランダの鍵、掛けておいたんで入ってこれんですよ」
「なんで、そういうとこだけ念入りなのっ!」
「このまま朝まで抱き潰してもいいくらいです」
「ちょ、ちょっと、待って、………きゃ〜っ!」
笑い声と息が交じり合い彼の温度が私の冷えた心をひとつずつ溶かしていく。そりゃあ、確かにこの数ヶ月、肌を合わせていなかったけれども。でもね。鼻水を啜りながら彼の体温を感じながら私は、これはこれで最高のクリスマスプレゼントかもしれないなぁ、なんて思った。お土産なんていらない。あなたが、そばにいてくれれば——。
床には彼の黒いグローブと、黄色いゴーグル、そして脱ぎ捨てられたヒーロースーツが散らばっていて私はそれを横目で見やりながら、なんだか胸がくすぐったくなった。
「……ねえ、ホークス?」
「……はぁい?」
「大好きだよ」
彼は一瞬だけ目を見開いてから少し笑ったあと私の頬を両手で優しく包み込みそっと囁くように私の目を真っ直ぐに見て言った。
「……俺は、愛してますよ。」
その言葉に、胸の奥で抱え込んでいた重みが、音もなく薄れていく。窓の外では夜明け前の風が吹いていた。ああ……クリスマス、本番だ。赤い羽根が、ひとひらと月明りを受けて舞い落ちる。
こうして聖夜は静かに深まっていく。彼の胸の鼓動と私の呼吸がゆっくりと溶け合うようにして世界のどこよりも穏やかな、たったひとつの夜の中で——。
白い息の向こうで、君を抱く
(さっきの、ほんと?愛してる、って……)
(ほんとですよ。……何回でも言えますけど?)
(クリスマスの勢い、とかじゃなくて?)
(こんな夜に嘘ついたら、サンタに怒られます)
(……じゃあ、もう一回だけ。)
(いいですよ。メリークリスマス、名前さん。
あなただけを、愛してます)
(……っ、ずるい。反則……へんたいっ!)
(はぁ?どこが。あなたがお願いしたんでしょ)
(……だって。クリスマスなんだもん。言って、
ほしかったの)
(はは……言わせてくださいよ。何度でも——)
※Men's by『 サンタクロース/ELLEGARDEN 』
※Women's by『angel song イヴの鐘/the brilliant green』