二発の乾いた銃声が空気を裂いたあと、世界はふっと息を止めたみたいに静まり返った。続いてカチ、カチ……と、弾を込め直す金属音のようなものだけが妙に近く、薄く響く。その短いあいだ男性と彼のあいだには、言葉という形をとる余地すら残されていなかった。

 一発目。乾いた銃声が遅れてセンターの空気を破った。弾は床を抉り火花が散る。音よりも先に衝撃が身体に伝わる。視界の端が、赤に染まる。羽根だと理解するより早く、ホークスの身体が、わずかに揺れたが、それでも彼は、ほんの一歩も退かないまま、倒れなかった。
 二発目、壁。三発目、天井。照明パネルが砕け白い破片が、雨のように降ってくる。私は、数を数えていた。意識してではない。恐怖より先に、頭のどこかが冷たく動いていた。
 四発目。奇声と一緒に放たれた、五発目。それでもホークスは、その場からは動かない。避けられる距離なのに距離を詰めもせず逃げもしない。
 撃たせているのだ。その事実に気づいた瞬間、喉の奥が焼けるように痛んだ。理解してしまった自分が、嫌だった。

「まあ、でしょうね」
「……はあ?」
「……もう、いいですよ」

 ホークスの声は低く、落ち着いていた。男性の呼吸が、一気に乱れる。目が血走り、ようやく、現実が追いついたような顔になる。

「弾は、残り一発」

 ホークスが呟いたそれが誰に向けたものだったのかは分からない。ただ、その一言だけで男性の感情は簡単に掻き乱された。
 六発目。引き金が引かれ弾が飛ぶ。ホークスは剛翼でそれを弾いた。金属音が鋭く跳ね、羽根が数枚、宙を舞う。

「おつかれさまでした」
「……」
「やっぱり、素人だとこんなもんすかねぇ」
「なに……?」

 男が、かすれたような声をあげ表情を歪める。ホークスはわざと視線を外さずに、まるで自分の生い立ちでも話す調子で淡々と続けた。

「俺、パワー押しには割と、無力なんですけど。銃弾なら……この距離でも、動きは読めます」
「……」
「あなたの持ってるそれ、六発入りの、回転式。まあ、よくテレビで見るタイプのやつですね」

 男の手元、引き金にかかった指の震え、呼吸の乱れ。そのすべてを言葉にしながら少しずつ追い詰めていく。攻撃じゃない。ただ、現実を、突きつけているだけだ。

「あなたはいい人です。目を見ればわかる」
「……」
「ちゃんと、出てますよ」
「……」
「じゃあ、俺の目はどうです?ちゃんと、見えてますか」

 その問いかけが落ちたあと空間がひどく静まり返った。銃を構えた腕が止まり男の瞳が揺れる。怒りとも迷いともつかない光が、行き場を失って彷徨っている。センターに残った粉塵が、照明の光を受けて、ゆっくりと沈んでいく。
 その中で聞こえるのは荒く抑えきれない呼吸音だけだった。まるで、肺の奥に溜め込んだ感情を吐き出す術を失ったみたいに。

「……罪を償ってやり直しましょう。やり直せるように、俺も——」
「うるせェ!」

 怒鳴り声が、張り詰めていた空気を、力任せに引き裂いた。反響した声が壁を打ち、天井に跳ね返り、遅れてこちらに降ってくる。男性の肩が、大きく上下し、銃を握る手に再び強い力がこもるのが見えた。たった今、生まれかけていた沈黙が乱暴に踏み潰された気がした。

「何を、何をやり直すって言うんだ、なァ!?」
「……」
「おまえらは……ヒーローなんかじゃねぇ!」

 その瞬間だった。男性が初めて両手で銃を構えた。乾いた銃声。パアン、と反響する音は、これまでの威嚇射撃とは、明らかに違った。威嚇でも苛立ちでもない。何かを確かに貫いた鈍い衝撃の音。赤い羽根が、宙に舞う。ホークスの身体が、崩れた。倒れるというよりも、膝から力が抜けていくように。床に触れた瞬間、血が広がっていくのが、はっきりと見えた。私は声を失ったまま、その光景を見ていた。

「……っ」

 短く息を吐いたあと、ホークスは笑った。喉の奥で転がすような、乾いた音。自嘲なのか、納得なのか、判別がつかないまま、ただ、力が抜けていくのが分かった。

「……なる、ほど。空撃ち、混ぜて、たのか……わざと……」

 声が掠れている。その一言を吐き出すのにも、もう随分と体力を使っているようだった。男性がまるで、勝ち誇ったように、鼻で笑った。

「ああ。お前は、数を数えるタイプだと思ってなヒーロー」
「はは……参り、ました……」

 悔しさよりも先に、理解が追いついてしまう。それが、ホークスというヒーローの、癖だった。しかし、その冷静さが、今はただ、痛々しい。

「一発……残して、た。俺が……終わったって、思う……そこを、狙って……」
「御名答、残念だったな」

 男性は、銃口を下げない。勝ったというより、正しさを証明したい顔だった。

「速すぎる男のその目でも、見抜けねぇことが、あるってことだ」

 その瞬間、胸の奥で鈍く、それでいて決定的な音が鳴った。張り詰めていた何かが耐えきれずに断ち切られたのだと、理屈より先に、身体が理解する。もう、隠れているという選択肢は残されていなかった。

「ホークスっ!」

 声が勝手に外へ飛び出す。止めようとする前に身体が、動いていた。考えるよりも先に、距離を詰めていた。頭は追いついていない。ただそこに倒れかけている彼のもとへ行かなきゃいけない、それだけだった。

「……っ、来る、な……!」

 途切れ途切れの、掠れた声。無理に張り上げた音が苦しさを隠せていない。それでもその言葉を聞き入れられるはずがなかった。
 私は躊躇わず、膝をつく。抱き寄せる。重い。それは生きている人の重さだった。剛翼の向こうから伝わる体温が、はっきりと、私の腕に残る。

「ホークス! ねえ、ホークスっ!」

 膝で抱え込む。服に触れた瞬間、ぬるりとした感触が指に絡みついた。赤い。すぐに理解して、視線を逸らしたくなる。それでも目を離せない。
 どこを押さえればいいのか分からない。肩か、腹か、それとも——考えが、追いつかない。彼のヒーロースーツが、ゆっくりと色を変えていく。私の手も、腕も、あっという間に赤く染まった。息が浅くなる。視界が、わずかに揺れる。ここにいるはずなのに、足元が現実から、剥がれていくみたいだった。それでも、腕の中の温度だけは、はっきりと分かる。
 ——まだ、生きてる。その事実にすがるように私は彼を、抱き締めるしかなかった。

「私が……!」

 声が、喉を引き裂くみたいに飛び出した。傷口だと思われるあたりを、反射的に、両手で押さえながら、私は振り返って叫ぶ。

「電話を取ったのは、私なのにっ!」

 男性が、目を見開いたまま、固まる。まるで、想定外の映像を見せられたみたいにして、身体の使い方を忘れている。指先から、銃が今にも落ちそうに、ぶら下がっていた。

「あなたの声……私が聞いたの!あの夜、通報を受けたのは、私!」

 声が割れる。壁に反射して、何度も跳ね返る。喉が痛むのも、息が詰まるのも、もう、どうでもよかった。

「だから……だからっ……!」

 言葉が続かない。因果も、正しさも、説明も、全部どうでもいい。今ここで、ヒーローが、血を流して倒れている。それだけが紛れもない、現実だった。

「ホークス……っ!」

 名前を呼ぶたび、自分の胸の奥が、削られる。彼の琥珀色の瞳が焦点を失っていくのが分かる。その事実が、恐ろしくて、直視できない。

「うそ、うそうそうそ……だめ、だめ! ねえ、見て。私を見て……!ここにいる、ちゃんといるから……っ!」

 返事はない。それでも言葉を止めることができなかった。途切れず声を重ねていなければ、彼がこの腕の中から消えてしまいそうで、名前を呼び存在を確かめるみたいに必死で音を吐き出すしかなかった。

「だめ! しっかり……しっかりして!ねえ!」

 呼吸が浅く速くなる。肺がうまく膨らまない。頭の中が白く塗りつぶされて何を考えているのか自分でも分からなくなる。ただ失ってはいけないという感覚だけが、痛みみたいに残っていた。

「愛してるの。だから、お願い……死なないで」
「……」
「ホークス……っ、」
「…………名前、さん、」

 ようやく返ってきた声は、遠く、薄く、まるで壁の向こう側から届いたみたいだった。実際には現実の音なのに、夢の中の残響みたいで胸の奥がきゅっと縮む。

「……逃げ、ろ……撃た、れる、ぞ……」
「だめ! 絶対だめ!死なないで、わかった!?約束してっ!」

 私は、彼の胸元に顔を埋めるように近づいた。血の匂いが濃くて、鉄の味が喉にまとわりつく。息を吸うたび、むせそうになりながらも、離れることができなかった。

「みて……あいつ……また……弾、込めて……」

 背後では、金属が触れ合うような音がした気がした。けれど、振り向けなかった。そんな余裕はもうどこにも残っていない。血が、止まらない。剛翼の赤なのか、彼自身の血なのか、もう区別がつかない。ただ、手のひらが滑り、掴もうとするたびに、温度が指の間から逃げていく。

「あなた無しじゃ……生きていけない……」

 考えて出た言葉じゃなかった。心の底に沈んでいたものが押さえきれずに溢れ出ただけだった。

「あなたが死んだら……私も、死ぬ……!」
「……お、ねが……い、に、げ……て、」
「あなたを選んだのに……!私を……置いていかないで……!」

 声が裏返る。喉が焼ける。頬を伝うものが彼の血なのか自分の涙なのか分からなかった。ただ、視界が滲んで、彼の輪郭が揺れるのが怖かった。

「目を閉じちゃだめ……!開けて……ホークス、お願い……!」

 必死に繰り返し名前を呼ぶ。呼び続けていればまだ、ここに繋ぎ止められる気がして。

「……目を、開けて……! ホークスっ!」

 祈りみたいな声が、壊れた空気の中に、落ちていった。返事は、もう戻らなかった。それでも、胸は、かすかに上下している。ほんのわずかに。まだ、ヒーローは——ここにいる。
 視界の端で男が、自分の手を見つめているのが見えた。弾を詰め終えたあとで、自分が何をしたのかを、ようやく理解しかけた顔。震えが今さら身体に追いついたような表情。私はもう、男性のほうを見なかった。今ある腕の中の重みだけを、必死に抱きしめる。血の匂いが空気に層を作っていた。鉄と油と、人の体温が混ざった、逃げ場のない濃さ。
 男性がよろよろと近づいてくる。銃を落とした手は空っぽで、その代わり床に転がっていた鉄の棒を拾い上げている。焦点の合わない目。理解が追いついていない人間の動き。
 私は、動けなかった。ホークスを抱いたまま、脚が床に縫い留められたみたいに力が入らない。離れられるわけがなかった。この腕のなかにある重さを、今、手放せるはずがなかった。

「…………来る、な……」

 二度目に落ちてきたその声は、さっきとは質が違っていた。私を、制するためのものではない。鋭く研ぎ澄まされていて、敵を射抜く、明らかに��前�≠セけを見据えている声だった。
 腕の中でホークスの身体がわずかに動く。息は浅く、胸の上下が不規則なのに、それでも彼は、私を押しのけて、守ろうとする。血で濡れた指が床を探り、やがて私の肩に触れる。その力は弱々しいのに、意思だけは、はっきりしていた。

「……後ろ、に……」
「やめて……っ! 動いちゃだめっ!」

 思わず叫んだ声は、情けないほど震えていた。守られる側でいることがこんなにも苦しいなんて知らなかった。守られているあいだ、ただ、見ていることしかできないということが、こんなにも残酷だなんて。足音が近づく。男性が、こちらへ歩いてくる気配。乾いた笑い声が広いフロアに、いやに響いた。

「ほらな。ヒーローなんて、誰も助けに来ない」

 私は歯を食いしばる。反論したい言葉はいくらでもあるのに、喉が、うまく動いてくれない。

「だから、おまえたちはヒーローじゃ——」
「来る……っ!ぜった、いに、来る……っ」

 男の言葉を、ホークスが、遮った。必死に押し出した、掠れた声。それでも揺らぎはなかった。男性は足を止めて、苛立ったように顔を歪める。次の瞬間、鉄の棒を持ち上げるのが見えた。その動きは、もう、説得や対話の段階を越えている。
 ——だめだ。もう間に合わない。そう思って、ぎゅっ、と目をつむった、その瞬間。

「そこまでだ」

 低く圧のある声が空気を切り裂いた。次いで、熱。視界の端が赤く染まり、炎が、爆ぜるように立ち上がる。男の前に逃げ場を塞ぐ壁のように。

「これ以上、一歩も動くな」

 燃え盛る炎を纏いながらそこに立っていたのはエンデヴァーだった。確実に、逃走経路を封じる位置取り。男の動きが凍りついたように止まる。

「遅れてすまなかったホークス。封鎖された扉を開けるのに、少々手間取っていた」

 低く落ち着いた声が、燃える空気を押し分けて届く。次の瞬間、視界の上を無数の影が走った。ワイヤーが、音を立てて空を裂く。青い繊維は、生き物のようにしなり、男の腕と胴へ正確に絡みついた。逃げ場を奪うための角度で、抵抗を許さない締め方。迷いのない動きだった。

「遅いって顔してるわね」

 艶を含んだ声が、天井のほうから降ってくる。軽やかな気配が着地し、空気が一段、柔らいだ。

「でも、ま。間に合っただろ」

 続いて、床を蹴る乾いた音。しなやかな脚が、距離を詰め、男の足元を払う。鉄の棒が弾かれて床に落ちると、甲高い音を残した。

「暴れるな。これ以上、君にさせることはない」

 冷えた声が淡々と告げる。糸が締まり男の体は完全に制圧された。その光景を、私はただ呆然と見ていた。理解が追いつくより先に緊張がほどけて、まるで糸が切れたみたいに膝の力が抜けた。視線が自然と、腕の中へ落ちていく。血の匂い。掌に伝わる熱。浅く、かすれる呼吸。

「……ホークス……」

 呼ぶ声は、祈りに近かった。助けは来た。それでも、終わっていない。ここから先が、いちばん怖い。彼の体温が、まだ確かにあることを何度も確かめるように、抱きしめ直す。

「対象、完全拘束」
「医療班、急げ!」

 指示が飛びセンターの空気が一気に動き出す。緊張は役割に分解され人の流れになって広がっていく。その中心で、私は、動けずにいた。ただ、腕の中の重さを支え続ける。そのとき彼の唇が、かすかに動いた。

「……ごめん……な、さい……」
「……え?」
「……守れ……た……?」

 問いはひどく小さくて、でも真っ直ぐだった。私は首を縦に振る。それしかできなかった。喉が詰まり言葉は形にならない。ホークスが、震える手を伸ばしかけて、途中で止める。
 
「……すみ、ません……」
「……」
「こんな、手じゃ……あなたに、触れられない、汚れ、ます……」
「じゃあ、私が触る」

 胸が、ぎゅっと縮んで、考えるより先に、そう言っていた。彼の手を取り自分の頬へと、そっと添える。血の温度も震えも、すべて受け止める。ホークスは安心したみたいにほんの少し笑った。その直後から呼吸の音が、少しずつ、遠くなっていく。

「……ホークス? 大丈夫だから。ね、大丈夫」

 自分に言い聞かせるみたいに、同じ言葉を繰り返す。そうしないと、崩れてしまいそうだった。
 すると、「あ、あの……」と、かすれる音が、胸元から伝わってきた。顔を近づけると、焦点の定まらない視線が、必死に、私を探しているのがわかった。

「ん? なに?」
「名前……さん……」
「いるよ。ずっと、ここにいる」

 逃げない。置いていかない。その約束を、言葉じゃなく、距離と温度で示す。

「…………キ、ス……して、ください……」

 その一言に思わず肩の力が抜けた。泣きそうになって、でも躊躇はなかった。私は身をかがめて彼の唇にそっと口づける。血の匂いと、かすかな体温。それは、生きている人の感触だった。

「俺は……死に……ません。約束、します……」
「わかった。……こんな別れ方、最悪だもんね」

 冗談みたいな言い方になってしまったのに彼はほんの少しだけ、口角を上げた。遠くで、足音が重なり始める。救急隊の声。担架が床を滑る音。止まっていたはずの時間が、堰を切ったみたいに一気に流れ込んできた。
 彼が、最後の力で私の前に出ようとしたこと。その事実が胸に重く痛く、そして、どうしようもなく愛しかった。世界はようやく暴力を止めた。けれど、私の中ではまだ、赤い羽根が落ち続けている。

「担架、こっちだ!」
「出血量が多いぞ、止血急げ!」

 声が重なり空気を叩く。さっきまで凍りついていたセンター内が、嘘みたいに動き出す。誰かが通信端末を耳に押し当て、誰かが床に膝をつき、誰かが彼の翼を避けるように回り込む。炎は抑えられ、繊維はほどかれ、役割が瞬時に分配されていく。私は、その輪の中心に、取り残されたままだった。

「すみません、離れてもらってもいいですか?」

 肩に触れた手はひどく優しく、ためらいのない丁寧さを帯びていた。正しい判断だということは頭では、痛いほど分かっている。それでも身体は応えてくれず私は小さく首を振ったままその場を動けなかった。

「搬送する!」
「ストレッチャー上げるぞ!」

 号令と同時に、彼の身体が私の腕の中から引き剥がされた。引き離されるというより奪われたに近い。指を外される瞬間、胸の奥が裂けるみたいに痛んで思わず、彼のヒーロースーツを掴む力が強くなる。さっきまで確かにそこにあった温度が指先から急速に、失われていく。代わりに残ったのは血の匂いと羽根が触れていた感触と抱きしめていたはずの場所にぽっかりと空いた埋めようのない空白だった。

「……大丈夫です。私たちに任せてください」
「輸血の準備は!?」
「搬送ルート、確保できてるのか!」

 視界の端で赤い羽根が床に散らばっているのが見えた。踏まないように、誰かが無意識に避けて通る。その仕草がやけに慎重で、それが、たまらなく胸に刺さる。
 ホークスは、もう私を見ていなかった。意識があるのかどうかも分からない。それでも、担架に乗せられる直前、ほんの一瞬だけ、彼の指が私の袖をかすめた気がした。それが偶然なのか最後の意思なのか。確かめる術は、もうない。

「二十代男性、プロヒーロー。右胸に銃創、重体だ!」
「救命士に引き渡せ!」

 誰かが私の肩を支え、誰かが背中に手を添えて壁際へと導く。それでも、足は言うことを聞かなかった。視線だけが、最後まで彼を、追い続けていた。担架の上で、彼の腕と赤い翼が脇にだらりと垂れている。あんなふうに力なく見えた事なんて今まで一度もなかったのに。

「乳酸リンゲル液、急げ!」
「濃厚赤血球液、準備!」
「救急車に乗せろ! 最寄りの総合病院へ、搬送連絡!」

 声が飛び交い、人々が走り、ストレッチャーの車輪が床を擦る音が遠ざかっていく。扉が開き、冷たい外気が一瞬だけ流れ込み、そして閉まる。その音ですべてが区切られてしまった気がした。
 センターには、役割を終えたあとの緊張だけが残る。湿った空気。微かに焦げた匂い。血の痕。私は、その場に立ち尽くしたまま、呼吸の仕方を思い出せずにいた。さっきまで確かにここに彼がいた。私の前に立って、翼を広げて世界を遮っていた。なのに今は、いない。
 視線を落とすと床に一枚の羽根が落ちていた。誰にも拾われることなく、踏まれることもなく、静かに横たわっている。赤くて、軽くて、あまりにも彼らしい色。それを見つめたまま、私は声を出さずに泣いた。涙は静かに落ちて床の冷たさにすぐに吸い込まれていった。


 *


 人生は選択の連続だ。イエスか、ノーか。中か外か。上か、下か——。軽いものもあれば背骨に重さが残るような選択もある。愛か、憎しみか。英雄になるか腰抜けになるか。闘うか諦めるか。生きるか、死ぬか——。まさに、重大な選択だ。
 そしてそれは必ずしも、自分で決められるとは限らない。

 気がつくと俺は白い世界を歩いていた。足音はするのに、風の抵抗だけが、やけに薄い。背中が驚くほど軽い。
 翼がない——その事実を、触れられない場所の空白として理解するまでに少し時間がかかった。羽根の重みが消えただけで、世界はこんなにも、静かになるのか、と、俺は、妙に落ち着いた頭で考えていた。
 しばらく歩いていると、目の前に見えたのは、ヒーロー緊急支援センター。見慣れているはずの建物なのに入口の自動ドアが、よそよそしく見える。ガラスに映る自分は輪郭だけがそこにあって実感がない。中へ入っても、誰も振り向かない。警戒の視線も、名前を呼ぶ声も、通信越しのざわめきも、俺には向けられない。
 ——ああ、なるほど。俺はここにいない。この場所に立っているはずなのに、誰の視線にも引っかからない。呼び止められもしないし、名前も、落ちてこない。理由は分からない。ただそれでもはっきりと理解してしまう。俺はここでは��存在していない人間�≠ネのだ、と。

 フロアは、穏やかだった。怒号も、泣き声も、張り詰めた沈黙もない。通信の音声が淡々と流れキーボードを叩く音が、規則正しく重なる。床はきれいで血の跡ひとつない。誰も傷ついていないし、誰も守られる必要がない。そうだ。この世界では、あの通報は、繋がらなかった。俺は、あの空を飛ばなかったのか。
 ガラス張りのセンタールームの向こうに彼女がいる。見慣れた横顔。なのに、どこかが、違う。肩の力が抜けていて目の奥にあの夜の影がない。緊張で固まる癖も唇を噛みしめる仕草もここにはない。彼女の隣には、男性が立っていた。年は、近そうで、同じ、制服。首から下げたIDの色が、彼女の同業だと教えてくる。

「今日の通報、あれ完全に空振りだったよな」

 男性が笑いながら言う。距離が、やけに近い。業務上のそれじゃない。肘が触れても、どちらも避けない距離。慣れている、というより、当たり前になっているような近さ。

「うん。肩透かし。でもさ、平和なのはいいことだよ」

 彼女は、モニターから目を離して、彼のほうを見る。優しい顔。声が、やわらかい。

「言うねぇ。昔の君なら、もっと神経すり減らしてた」
「そうだったかも。今は、帰る場所があるから」

 男が、少し照れたように頭をかく。それが正解だと分かっているからこそ俺はただ静かにここで立ち尽くすしかなかった。

「あー、それ言われると弱いな」
「でしょ。だから、今日は早く切り上げるって、約束」

 彼女が小指を差し出す。迷いなくそれに応じる男。自然なやりとりだった。言葉の端々に、穏やかな生活が混じっている。このあと同じ帰り道を歩くことを、疑っていない声。
 彼女は、男の冗談に、小さく笑っていた。俺の知らない誰かに。その笑顔は正しい。何も失っていない人の揺れのない表情だ。胸の奥で、何かが音もなく剥がれる。痛みはない。ただはっきりと分かる。俺は、この距離を選ばなかったんだな、と。選ばなかった世界では、彼女は、誰かの腕の届く場所でちゃんと笑っている。守られなくてもいい人生を、穏やかに、生きている。

「お、新たな通報か」
「このあたりだと、シンリンカムイが近いかな」
「じゃあ、俺が出動手配するよ」
「ありがとう」

 彼女の名前を呼ぼうとして喉が動いた。けれど声は出なかった。いや——出るはずがない。そもそも呼ぶ理由がない。ここでは、彼女は俺を知らない。知らないままで、毎日を積み重ねている。それは、正しい世界だ。誰も、撃たれていない。誰も血に濡れていない。床はきれいで、空気は、平常を保っている。彼女も泣いていない。震えてもいない。俺はただ、その背中を、眺めている。ガラス一枚分。あるいはそれ以上に遠い距離から近づけない距離で。近づいてはいけない立場で。
 背中が、ひどく寒い。翼がないからじゃない。守る理由が、もう俺には、残っていないからだ。

「……」

 視線を落とすと足元に赤い羽根が落ちている。見覚えのある色。かつては俺の一部だったもの。拾い上げようと指を伸ばすけれど、触れたはずの感触はなく、ただ空を掴むだけだ。指先が、すり抜ける。ここでは、もう、俺のものじゃない。
 そのとき、彼女がふと顔を上げた。一瞬だけ、視線が合った……気がした。ほんの、刹那。期待するには短すぎて、諦めるには十分すぎる時間。
 何も起こらない。認識されない。呼び止められない。選ばれていない。俺は、生きているのに、存在していない。胸の奥が、じわりと痛む。撃たれたときの鋭さとは違う、時間をかけて沈み込むような鈍い痛みだ。逃げ場のない、深さ。しかしその瞬間——。

 『ホークス』

 遠くで声がした。必死で、壊れそうな声。呼ぶたびに何かを削り取っていくような切実な響き。

 『ホークス……!』

 名前を呼ばれる。何度も。何度も。それだけがはっきりと、現実の重さを伴って俺に届く。
 背中に熱が戻る。皮膚の内側から焼けるような感覚。骨の奥に重量が宿る。羽根が生える感触。痛みと引き換えに、役割が戻ってくる。
 俺は、振り返らない。振り返ったら、きっと、戻れなくなるから。

 ——大丈夫。俺は、こっちを選んだ。世界が、赤く滲んで、砕ける。静かな平和は、音もなく、夢の底へ沈んでいった。
 次に感じたのは、消毒の匂いだった。鼻の奥を刺す、現実の匂い。それから、誰かの手の温度。確かにそこにある現実の、人のぬくもりだった。


 *


「……間もなく、目を覚ますと思いますよ」

 看護師の声は低く抑えられていて、まるで眠っている人を起こさないための作法みたいだった。私は小さく頷いて、白いカーテンの向こうへ足を踏み入れる。床はよく磨かれていて、靴底の感触だけが妙に、現実的だった。
 病室は、静かだった。機械の規則正しい音と、消毒薬の匂い。窓から差し込む午後の光がベッドの白さをやわらかく縁取っている。その中央に、彼がいた。
 ヒーロー・ホークス。翼は見えない。包帯と、シーツに覆われた身体は、驚くほど静かで、胸の上下だけが、かろうじて生きていることを教えてくれる。私はベッドの脇に立ったまま、しばらく動けなかった。近づいてしまったら何かが崩れてしまいそうで——。

「……ホークス」

 声は、思ったよりも弱かった。返事は、ない。それでも私は名前を呼ぶのをやめられなかった。呼び続けることで、彼をこの世界につなぎ留められる気がして。

「ねえ、ホークス……聞こえてる?私、ちゃんとここにいるよ」

 言葉に出したのは確認というより、縫い止めに近かった。今この瞬間を、彼と同じ場所に留めておくための。指先が勝手に彼の手を探り当てる。力なく少し乾いた感触。それでも逃げない温度があった。そのぬくもりを確かめた途端、胸の奥で何かが軋んだ。壊れそうで、でも、壊れていないぎりぎりの音。
 どれくらいそうしていただろう。ほんのわずか彼の睫毛が、揺れた気がした。最初は私の願望が作り出した錯覚だと思った。けれど、次の瞬間。瞼が重たそうに持ち上がる。琥珀色の瞳が天井の白を彷徨い、それから迷子みたいに私のところへ戻ってきた。

「……ぅ、」

 喉の奥で擦れた、小さな音。生きている人の、声だった。呼びかけると、彼は短く息を吐いて、どうにか、いつもの表情に近づこうとする。成功しているとは言い難いのに、それでも、あのヒーロー特有の、軽さが滲んでいた。

「おはよう、ございます……」
「……おはよ」
「言った、でしょう……」
「ん?」
「俺は、死んだりなんか、しないって……」
「……」
「……ほら、もう……大丈夫、です……」

 その言い回しが、あまりにも彼らしくて。張り詰めたまま固定されていた何かが、ついに、音を立てて崩れ落ちた。

「……よかった。史上最悪の別れ方をするところだった」

 意識する前に、言葉が、零れてしまっていた。言い切った瞬間、喉の奥が、熱を持つ。笑おうとしたはずなのに声は震えていて、私は堪えきれず彼の手を、強く握っていた。無意識だった。離したら、また遠くへ行ってしまいそうで。

「イタタタ……」

 彼は、少しだけ大げさに眉をひそめてみせた。その仕草に胸が跳ね、私は慌てて指の力を抜く。

「あ、ごめん……」

 手を離した途端に、今度は彼のほうが、逃げるみたいに引いた私の手を逃がさない。不服そうにけれど、弱々しく指を絡めてくる。その温度が、さっきよりもはっきりと伝わってきて、胸の奥がまた小さく揺れた。そして彼は、掠れた声で息を含むように笑う。

「強く、握りすぎちゃった……?」
「いえいえ……元気な証拠、ってことで……」

 その笑顔を見て、ようやく私は、息ができた。それでも言い方が、どこか、照れ隠しみたいで、私は何も言えなくなったまま、ただ握られた手を見つめていた。白いシーツの上で、重なった指先だけが、この静かな病室で確かに��生きている�≠アとを、主張しているみたいだった。
 病室の白い壁も、規則正しく鳴る機械の音も、消毒の匂いも全部が現実として輪郭を取り戻す。
 しばらく言葉のない時間が流れた。病室の空気はどこか薄く、けれど、張り詰めているわけでもなくて、無菌の匂いと微かな消毒薬の残り香が、静かに肺の奥へ沈んでいく。点滴が落ちる一定の音だけが時間を刻む代わりをしていて私はそれに耳を預けながら、椅子をそっと引き寄せた。腰を下ろしても彼の手から完全に離れる勇気はなくて指先だけを残すように、浅く触れたままでいる。触れていないようで、触れている。そんな曖昧な距離が、なぜか今はちょうどよかった。

「……ごめんなさい」

 喉の奥で一度引っかかってからようやく零れた言葉だった。彼はわずかに首を傾ける。その仕草が、問いかけというよりは私の言葉を丁寧に拾い上げようとしているみたいに見えた。

「何が、ですか?」
「たくさん……怖い思いをさせた」

 自分で言いながら、胸の奥が、ひくりと痛む。思い返すほどに彼の立場も選択も、すべてがそうなる結果だったと、わかっていたはずなのに。

「逆ですよ」

 それでも返ってきた声は思っていたよりも芯があった。弱々しさはあるのに、揺らぎがない。

「守りたい人が、はっきりしてるほうが……俺は楽なんで」

 そう言って、彼はほんの少し目を細めた。その視線が、逃げ場を探す暇も与えずに、私の奥まで届いてくる。誤魔化す余地も、軽く笑ってかわす余裕もなくて私はただ、まっすぐ受け止めるしかなかった。

「……また、ヒーロー活動に戻るの」

 声は小さく臆病だった。聞いてしまえば答えが返ってくるとわかっているのに、それでも聞かずには、いられなかった。彼は一度、天井に視線を向ける。白い光に目を慣らすみたいにしてほんのわずか間を置いてから、ゆっくりと頷いた。

「戻りますよ。まあ、さすがに……すぐじゃないですけど」
「……そう」

 それ以上は、続かなかった。止めたい気持ちも引き留めたい衝動も、もう何度も胸の奥で、噛み砕いてきた感情だ。言葉にしたところで彼を縛ることはできないし縛りたいとも思わない。だから私は、理由を探すのをやめて、黙って、彼の手を握った。少し遅れて彼の指が動く。弱々しいのに迷いのない動きで、今度は包み込むように、私の手を返してきた。
 そのぬくもりに触れた途端、胸の奥で固く結ばれていた糸が、音もなくほどけた。彼が今、この場所に、こうして存在しているのだという事実が遅れて身体に沁み渡ってくる。それは疑いようもなく、生きているものだけが持つ温度だった。

「ね」

 不意に呼ばれて顔を上げる。軽い口調なのに、視線だけは真剣で、相変わらず、逃げ場を与えてくれない。

「生きて戻れたご褒美、もらってもいいですか」
「……ご褒美?」
「——キス。してもらっても?」

 一瞬、病室の音が遠のいた。看護師が来るかもしれないとか、ここがどんな場所かとかそういう現実は全部、あとから追いついてくる。今はただ彼が生きていて、私の前で、そんなお願いをしている、その事実だけが胸に残っていた。
 私は小さく息を吸って、椅子から立ち上がる。ベッドに身を乗り出すと彼がほんの少し緊張したように瞬きをして言った。

「……動けないんですからね」
「わかってるよ」

 そう返す自分の声は、どこかくぐもっている。私は彼の額に触れ、それから唇に、そっと口づけた。長さを持たせない、確かめるための、静かな触れ合い。離れたとき彼は目を閉じたまま、安堵したように息を吐いた。

「……効きますね」
「それは、よかった」

 私はまた椅子に戻る。今度は、さきほどよりも世界の輪郭がやわらいで見えた。選択は、いつも残酷だ。生きるか、死ぬか。守るか、失うか——どれも、簡単に選べるものじゃない。
 それでも彼は生きるほうを選んだのだ。意識があったかどうかなんて関係なく、傷だらけになりながらもこちら側へ戻ってきた。私はその選択のそばにいる。選ばなかった世界は、もう、遠い。そこには、別の結末や、取り戻せない可能性が、きっとあったのだろう。でも今ここにあるのは、血と恐怖と、それでも、生き延びたヒーローの、手の温度だけだ。私はその温度を忘れないようにそっと、指先を重ねた。

 窓の外では、夕方の光が街を静かに包み始めていた。叫び声も泣き声も、銃声の音も聞こえない穏やかな時間。
 今日も、世界は続いている。そして私は、彼の手の温度を確かめながら、その続きの中を一緒に歩いていく。





サンクチュアリ、
    ——還る場所はひとつ



(あの、聞きたいことがあるんですけど)
(なに?)
(あのガチ恋距離のセンターの男は誰ですか?)
(……はい?)
(こう、シュッとしてて、きちっとした感じの)
(待って。情報がざっくりしすぎ)
(いいから! 誰です!?……イッタタタタ)
(その元気があるなら少し、安静にしよっか)
(はい。もう口閉じまーす……で、誰すか?)


※image song『 一輪/Little Glee Monster 』


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