朝と呼ぶにはまだ頼りない薄明の中で私は眠りから引き上げられた。夢の温度が肌の奥に残り、すぐには起き上がれない。浅い呼吸を整える間に窓の隙間から差し込む灰色の光が、夜の名残りを静かにほどいていく。
あの人はもういない。翼の音一つ残さず夜明け前の空へ溶けていったのだと、すこし遅れて理解する。ベッドの皺に残る体温に指を触れると胸がきゅっと痛む。けれど同時に、確かな満ち足りもあって、その痛みは悲しみにも喜びにも振り切れない曖昧な、幸福の形をしている。言い訳の利かない幸福の一部。だから泣くほどでも、笑うほどでもない。ただ、冬の朝だけが知る中間の気配の中にぽつりと置かれているのだと思った。私は、無音を追い払うようにして、テレビをつけた。
『——それでは、次のニュースです。』
洗面所の鏡はあくびの形に曇り、目の下には、紅茶色の夜更けの影が、淡く残っている。湯気に指で小さな窓を描いては消し「今日の予定は」と心のなかで確かめる。昨夜と変わらない並びを、静かに書き写すように。
今日はヒーローのクリスマスイベントの手伝いだ。人手不足を告げる上司の早口なメールには、現場補助、導線管理、救護テントの連絡係——と逃げ道のない役割が簡潔に並んでいた。こわばる指を一度握ってまた開き、もう一度だけ手の平を見つめてから、身支度を整える。
早々と家を出て歩きながら、クリアファイルを取り出す。参加ヒーローのリストだ。その中に彼の名前はない。他のヒーローたちの名前の黒い文字が朝の光を浴び、やけに硬く見えて反射を避けるようにページを裏返す。それだけで胸の奥が少し、冷えた気がした。
午前の業務を終えて、イベント会場へ向かう。午後二時前。裏手の搬入口には無線の声がひしめき、見慣れたヒーローたちの気配が静かに集まり始めていた。
『入場列——最後尾移動します。係員二名は補助をお願いします』
『救護班、発熱一名、母子。巡回の看護師を呼びます』
硬質な声が冬の空気を縫う。私はチェックリストをクリップで留め直し人波の流れを読む矢印を脳裏に立てていく。ステージ袖の照明はまだ眠たげで、テントのビニールが風に鳴る。その音が、夜更けに聞いた羽音の記憶にふと触れイヤマフを押し上げた耳の奥で自分の鼓動を拾った。だめ、今日は働く日。そう、心のなかで繰り返し、足を早める。
ヒーローたちの控え室にはベストジーニストがいた。壁に沿って並ぶデニムの色見本、糸くずを静かに払うスタッフ。扉越しに聞こえる低い声は、端正で「子供たちの前では糸一本たりとも乱れを見せない主義で」と笑う。その硬度のある笑みに私は無線で五分前コールを返す。扉が開いた瞬間、目が合い、彼は礼儀正しく頷いた。その眼差しが「任せたよ」と告げた気がして私はそれを確かに受け取った。
午後四時。司会者の声に歓声が弾けて、空気が一枚、縫い上げられる。
ベストジーニストはロープバリケードを跨ぎ、手を掲げて観客の呼吸を束ねた。コートの裾から覗くデニムは、冬の光を内側から返すように凛としている。
「みんなの糸は、きちんと結ばれているかな」
子どもたちは靴紐に目を落とし、親は肩に手を置く。会場に自分の結び目を確かめる小さな時間が生まれる。その風景が私は、好きだと思った。秩序は上から強いられるより、互いの手の温度の方が、はやく宿るから。
「名字さん、休憩取っていいよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
イベントは和やかに進み、クリスマスツリーの前で箱を開ける子供たちの瞳は星みたいに輝いていた。休憩スペースへ向かう途中「糸って目には見えないの?」と、幼い声がベストジーニストに投げかけられる。
「見えないけれど確かにあるよ。誰かの手を握るとき、いちばんよくわかる」
その答えを背に通り過ぎながら私は昨夜、指先に触れた、彼の髪のなめらかさを思い出す。それもまた見えない糸の一種だと、勝手に胸の奥で分類して少しだけ温かくなる。けれど、その温もりは長い息となって白くほどけ、空に消えた。
休憩明け、搬入口に向かうと音もなく影が形を結ぶ。黒と銀の調子が、静けさをまとって抜けていく。エッジショットだ。入退場を記録しながらその所作の端正さに、目を奪われる。ふと視線が交わり、目じりに笑みを渦巻かせずに、しかし、確かに、柔らかな合図だけをくれた。
「ご苦労様」
そう聞こえた気がして背の芯まで空気が澄む。彼は、最小限の動きで場を整える。歓声が膨らみすぎる前に子供の頭を撫で、迷子の気配に視線を走らせ、合図ひとつで事が収まる。その一連は、絹のように滑らかで私は舞台袖からあのヒーローの��速さ�≠ニは別の、静かな速さを胸に並べた。
やがてファットガムが現れる。鍋の蓋が開いたみたいに場に溜まっていた緊張がほどけ、湯気のような安心が一気に回った。
「腹減ってる子、おらんかー?」
彼が笑えば、子供たちは自然に集まり、冗談と飴玉と、ふかふかの手が行き渡る。
「重さはなァ、守るもんがあるほど増える。でも、分け合えば、軽なるんやで」
その言葉が場に溶ける。私は遠くで聞きながら昨夜の重み——呼吸が寄り合って生まれた重さが少しだけ、軽くなった気がした。足元の地面が、わずかに弾力を取り戻す。そのとき無線が走る。
『会場上空ドローン二機、撮影班。風速北西二』
『——了解。上空安全確認、進行に影響なし』
上空、という言葉だけで喉の奥がわずかに乾き私は空を見上げないようにして、でも見上げないようにすればするほど、瞼の裏に赤い色が滲む。クリップボードの隅からはみ出したメモ紙の端が折れていて、それを直そうとして親指の腹にかすかな感触を得る。薄く、軽く、そしてありえないほど見覚えのある手触り。
羽根。赤、ひとひら。昨夜ベッド脇のシーツに落ちたそれを出がけに、何も考えずメモと一緒に挟みこんでしまっていたのだと気づいて胸の奥に素早く潮が満ちる。けれど、私はそれを見ない。見ないで、ただ指先に預けておく。今日の私は、現場の歯車。歯車は泣かないし、立ち止まらないから。
サブステージ。時刻は午後五時を回ったところだ。子供向け防災ミニ講座はベストジーニストとファットガムの掛け合いで進む。布と炭水化物という異色の組み合わせに見えて実のところ秩序と栄養という生活の両輪が並んで立っている。
ジーニストがロープで簡易スリングを作れば、ファットガムが「中におにぎり入れてもええか」と笑わせ、会場がひと揺れした。
私はテント間の連絡を往復し、救護からの水分補給メモを控え室へ回す。戻る途中スマホが震えた。差出人も本文も表示されない『新着メッセージがあります。』という、一行通知。それでも、そういう速度で言葉を送る人を私は知っている。画面を伏せると心拍が一度だけ跳ねてまた静かになった。
本ステージ、フィナーレ。定位置確認と、音響のチェック、紙吹雪の角度修正。袖でカウントを取りながら出とハケを矢印に変換し無線の返事を短く刻む。
「……3、2、1、」
灯体が上がり、ベストジーニストの裾が、風を掴む。客席では子供がサンタ帽を被り直し、その無邪気さまで段取りの一部みたいで、私は思わず笑いをこらえた。段取りとは世界が一瞬だけ合意することなのだ。
「君たちに、守りたい糸はあるかな?」
その問いに「ある〜!」と声が弾ける。ほかのヒーローたちは紙吹雪を一欠片、観客の掌へと、そっと移す。ファットガムが「帰ったらちゃんと、ごはん食べや」と締め拍手は波のように押しては引いた。私はその合間の静けさを拾い、孤独ではない静寂もあるのだと小さく頷く。
撤収はいつも小さな祭りの後片付けだ。紙吹雪は靴底に絡みテープは人の手の温度を含んだまま曲がり、サンタ帽は子供から親の手へ渡る。私は無線を外し、マイクを回収箱へ落とした。背中が少し軽くなった気がして今日一日を反芻しかけるが、その問いはすぐに消える。残ったのは、長いため息と手袋の内側で柔らかくなった掌の感触。クリップボードに挟んだ赤いひとひらが、確かな返事のように思えて、私は鞄の口を閉じた。
「名字さーん!打ち上げ行かない?」
「……あー、いえ。今日は、帰ります」
「そっか〜残念。じゃあ、お疲れさま」
「はい、お疲れさまでした」
「あっ、あとメリークリスマス!」
「……、ええ。メリークリスマス」
夜はもう深い青を着こんでいて会場前の街路樹には、昨夜とは違う種類の光が灯っていた。イベントの電源が落ちたせいだろう、光は少し弱く、温かい。私は、吐く息の白さを数えて、三つ目でやめる。数え続けると切なさが余計に増えるから三で切るのが、ちょうどいい。
誘導用のコーンが、トラックに乗せられていく音を背に、ポケットからスマホを取り出す。予想はしない、期待はしないと言い聞かせてから画面を開いた。

おつかれさまです
時間のない場所から届いたみたいな短い文字がそこにあった。でも足は止めず返す言葉を選ぶ。こんな日は長文など似合わない。「お疲れ様」とだけ小さく呟き送信はしない。秘密は、守られるときだけ正しい。そう決めて、画面を閉じた。
横断歩道が青に変わり、冬の風がコートの裾をめくる。襟を正し、もう片方の手で鞄の中のクリップボードに触れる。乾いた紙の奥で赤が微かに擦れる気がした。名簿にない彼の速さはそれでも今日の空のどこかに残っている。私はそれを私の速度で、歩く足取りに織り込む。仕事で重かった身体が今夜は少しだけ軽い。軽さは努力ではなく寄り添う記憶が運んでくるものだと、ようやく、わかった気がした。
「糸は、ほどけないうちに結ぶのがいい」
遠くで、ベストジーニストの声。まだ弾む笑い声の中ファットガムが最後まで手を振っている。私も同じように手を振り返す。それからまた息を吐いた。その呼吸が夜に混じってしまっても消えずに残るものがある。そう信じていい夜だ。
信号が赤に変わり立ち止まる。空の端をドローンの白い点が、二つ滑った。見上げないつもりで見上げてすぐに視線を戻し、白線を丁寧に踏む。家に帰ったら湯を沸かそう。少し硬い水でいい。マグカップの底に渦を作り、落ち着くまで待つ。待つことならできる。昨夜から今朝へ、今日から明日へ、次に会える日まで——私の、速度で。
クリスマスの夜は、会場を離れればただの冬の夜に戻る。それでも私には少し違う輪郭で続いていく。子供たちの歓声の余韻が見えない糸のように街を渡る。私はその端を胸に結び、指で一度、固結びを確かめる。大丈夫。結ばれている。結び目は小さいが強い。昨夜の温度と今日の掌とで、きっと、ほどけない。
「ねえ、クリスマスの定番ソングってなにー?」
「えー?やっぱ、マライアキャリー?」
「うそ〜?あれじゃない?ク〜リスマスが今年もやってくる〜♪ってやつ!」
「ああ!ケンタッキー!!」
街の声を聞き流しながら歩き鞄の中のクリップボードから、赤いひとひらを取り出す。イルミネーションにかざすとそれは赤というより、闇の中でだけ輪郭を持つ色だった。思わず笑ってしまう。言葉にすると逃げてしまいそうだから笑うだけでいい。これでいい。いや、これがいい。私のクリスマスは、働く手と、結び目と、このひとひらの赤で、静かに完成するから。
街の光が雪のように降っていた。見えない糸に無数の星が吊られているみたいに、冬の都会は、一面の光に包まれている。人々は立ち止まって、カメラを掲げ、笑い声と白い息を夜に混ぜる。その中を私はゆっくり歩く。イベントが終わり、ようやく、自分の足で帰る時間だ。身体は疲れているのに、心だけがまだ喧騒の余熱を残していた。
「……はぁ」
通りの先で、青と金のイルミネーションが絡み合う。枝に巻かれた電飾が呼吸するみたいに明滅して、やけに生きて見えた。私は歩道の端で足を止め、見上げる。人の声が遠のき光だけが主役になる。風が吹くたび、光の粒が震える。綺麗だと思う。その綺麗さが、少しだけ痛い。昨夜の夢の名残のように。彼の存在は体温でも声でもなく、空気の流れとして、残っている。明け方に去った羽音の記憶が、街の風に混じっている気がして、無意識に空を探した。
そんなはずはない。彼はもう、遠い街にいる。それでも私はイルミネーションの下で立ち尽くし手袋越しに指を組んで、胸に当てた。祈りに似た仕草で。誰に向けるでもなく。
そのとき背後でふいに弾けるような女性たちの声が聞こえた。
「きゃー!あれ、ホークスじゃない!?」
「うわ!ほんとだっ、なんでいるの?やばっ!」
その高い音が、夜の冷たい空気を破った。
──ホークス。その名前が、耳に届いた瞬間、心臓が止まるかと思った。まさか、と思いながら振り返る勇気が出なかった。人違いだろうと自分に言い聞かせた。だって彼はもう遠くにいるはずなのに。けれど、足音が、近づいてくる。地面を擦る軽やかな靴音。羽根の擦れるような、微かな音。その音を、私は知っている。
「はぁ……。や〜っと、見つけました」
背中のすぐ後ろで聞き慣れた声がした。思わず振り返ると、イルミネーションの光が彼の輪郭を縁取っていて、赤い羽根が、街の光を受けて淡く煌めいている。人垣の向こうでは、まだ誰かが、彼の名前を呼んでいた。けれど彼の視線は私だけを、まっすぐに見ていた。
「……どうして、いるの」
声が震えた。冷たい空気のせいだと自分に言い聞かせたけれど、それはたぶん嘘だった。心臓が胸の奥で不器用に跳ねている。彼はまるで空港で遅延のアナウンスでも聞いたかのように、軽々と肩をすくめた。
「いやぁ〜北海道行きキャンセルになりまして」
ふっと笑う。いつも通りの軽やかさ。けれど、その奥で目だけがわずかに赤く、笑顔の縁に滲む疲労を隠しきれていないように見えた。
「福岡戻る前に……なんか、こっちの方に足が、向いちゃったんですよ」
その言葉に胸が熱くなった。嬉しい、でもそれ以上に怖かった。また夢を見ているんじゃないかって。けれど、その『なんか』の裏側にたぶん一晩では足りないほどの思いが詰まっているのを私は知っていた。
理由になっていない理由で、距離を縮めようとする彼のやり方も、それを聞いてしまった自分の心が一瞬で揺れる事も全部、身体が覚えていた。まわりの人の靴音さえも吸い込む静かな空間に、ふたりの息だけが淡く溶けていく。
「ヒーローイベント、終わったんですか?」
彼が少し身をかがめて、私の顔を覗き込んだ。イルミネーションの光が、彼の髪に散っている。それが、あのヒーローの横顔を光の粒で縫い止められているみたいに見えて、私は、目を逸らせなかった。
「……うん。全部、無事に」
「よかった」
ああ……。そのひと言が、どうしてこんなにもやわらかいのだろう。
「あなたが頑張ってるとこ上から見てましたよ」
「……え?」
「遠くの空から。ドローンと一緒に」
「え、うそ」
「え、ほんとですよ?」
彼は笑って目を細めた。その笑顔が私の記憶と現実のあいだを溶かす。ああ……やっぱり、夢じゃない。いや、これは——夢よりも儚い現実だ。
「……ねえ」
私は、彼の袖を掴んだ。革の感触が冷たくて、でも、その下の体温だけは、いつもと変わらずに確かで——。
「……ほんとに、足が向いただけ?」
「いえ?実はどうしても顔見たくなっちゃって。寄っちゃいました」
「ほんとに、サンタさんになって来ちゃったね」
「ええ……会いたかったんで」
言葉が、光の粒の中に吸い込まれていく。彼が一歩近づくと、風がそのすき間を抜けていった。街の光が滲んで、彼の輪郭がぼやけて見える。
「……寒いでしょ?」
「うん……少しだけ」
「じゃあ、温めます?」
彼はそう言って軽く手を広げた。まるでイルミネーションの光を抱きしめるみたいに。その一言に私は思わず目を見開いた。冗談だろうと思ったのに彼の瞳はどこか本気の光を宿していて、あの淡い金色が街の明かりを受けて、柔らかく揺れていた。驚きのあまり息を飲む私を見て彼は広げた手を下ろして、ふっと笑った。
「——ほら、来て。」
そう言って彼は、突然、私の手を取った。その瞬間、手袋越しに伝わる体温が現実の輪郭を取り戻させた。
「……え、なに?」
問いながらも私は抵抗できずに彼の手に引かれていく。人通りの多い通りから外れて一歩、また一歩。光の粒が背後で遠ざかり足音だけが路面に落ちていく。彼の背中を追うたびに、街の喧騒が薄れて、夜の呼吸が、はっきりと聞こえるようになった。彼の手は離れない。指先の現実が寒さのすべてを、塗り替えていく。
「……ねえ、ホークス。どこ行くの?」
「いいから」
やがて、狭い路地に出た。壁沿いの植え込みに絡む電飾が遠くのイルミネーションの余光を拾って淡く光っていた。人の声も車の音も届かない。そこだけが冬の一つの静寂として閉じこめられていた。
「……うん、この辺で大丈夫そうですね」
彼はそう言って立ち止まり、私の手を、そっと離した。風が少し吹いて彼の羽根が微かに鳴る。それからいつものように軽く肩をすくめてまるで舞台に立つように、またその手を広げた。遠く、背後のイルミネーションの光が、その腕の輪郭を縁取り、夜空のなかで、光を抱きしめているようだった。
「……もう、そういうこと?」
私が小さく笑うと彼も悪戯っ子のように口角を吊り上げる。その笑顔に、どんな言葉も追いつけなかった。
「だって、寒いんですよね?」
私は笑って一歩、彼に近づいた。そして、彼の腕の中に入り込む。胸の奥で、音がした。世界がひとつ息を呑む音だった。空の色も、風の音も、もうどうでもよかった。ただ、彼がここにいる。それだけで、世界はもう満ち足りていたから。
彼がそっと腕をほどき、わずかに距離を取る。冬の風が二人の間をすり抜け、遠くでイルミネーションの光が、その動きの跡を追いかけるように瞬いた。彼は、ジャケットのポケットに指を滑り込ませると、何かを確かめるように一度、指先で触れ、そして静かに取り出す。
「これを、あなたに」
差し出されたのは深いボルドー色のベルベット調の小箱だった。夜の光を受けて表面がほのかに艶めく。それはまるで冬の街角に落ちた赤い羽が静かに休んでいるみたいに見えた。私は息を飲み両手でそれを受け取る。指先がわずかに震える。そっと蓋を開けると、内側の暗がりから柔らかな金色の光が立ち上がった。そこにあったのは細い金の環に同色のチャームが揺れるブレスレット。掌に乗せると金属のひんやりとした感触と確かな重みが伝わってくる。小さなチャームの中心には赤い石が沈み光を受けるたび、きらりと瞬いた。その赤は、金属の奥で小さな灯りが、静かに息をしているようだった。
「……ブレス、レット?」
「はい。でも——、ただのブレスレットじゃないですよ?」
「……え?」
「特殊な、機能付きです」
彼はからかうような声でそう言うけれど、その目はまっすぐで、冗談よりも深い気持ちが沈んでいた。
「……特殊な、機能って?」
「緊急救難信号を送れます」
私は瞬きをした。よく見るとチャームの側面にごく小さな窪みがある。そこに埋め込まれた赤い羽のような形をした石。押されるために存在しているような、わずかな境界線。
「え、っと……つまり、」
「はい」
「24時間、毎日、私の居場所を追跡してるってこと?……24時間体制の、監視?」
「……もう、違いますって」
彼は笑った。月光よりも、あたたかな笑顔で。そうして彼は私の手元に視線を落とすと、ひとつ静かに息を吸いその言葉の続きを形にするような仕草で、そっと私の右手を包んだ。
「追跡じゃなくてさ。これは、ビーコンです」
その指先は驚くほど温かく冬の夜に冷えきった私の肌へ静かに溶け込んできた。私は思わず息を止める。胸の奥で何かが零れ落ちそうになるのをただ堪えながら。彼は私の手からブレスレットを受け取り、細い金の輪をゆっくりと手首の内側へ滑らせる。冷たい金属が触れた瞬間、なぜか胸の奥が熱を帯びた。冬の光をかすかに反射したチャームが彼の指先と私の脈のあいだで小さく震えていた。
「……動かないで」
囁きは風よりも静かで、けれど命令にも似て、甘い響きを持っていて、私は微動だにできず、彼が留め具を合わせる指の動きをただ見つめる。
カチと小さな音がしてブレスレットはようやく私の肌の上に定着した。
「あなたが押したときにだけ、信号が送られる」
「……」
「ヒーロー、ホークスのもとに——。」
その一言は、夜気を震わせて胸の奥に届いた。その瞬間、金色の輪はまるで心臓の一部になったみたいに、じんわりと、存在感を主張する。彼はほんの一瞬、私の手首に触れたまま動かず、安堵するように親指でチャームをそっとなぞった。私は息を吸って吐けずにいた。
「ホークス……」
その名を呼ぶ声が自然と細くなる。ヒーローにそんなことを言われてしまったら泣くに決まっている。しかし彼は、その反応をすべて知っているみたいにして、視線を絡めてくる。
「地震でも、火災でも、洪水でも……とにかく、困ったら、このボタンを押してください」
「……」
「何かあったら……いや、何かなくてもいつでも好きなときに、押していい」
「……、」
「俺が、必ず助けに行きます」
彼がそんなふうに言うものだから、私は堪えていた涙がいまにも零れ落ちそうになるのを必死で抑えた。彼はただ笑っていた。見つめ合う視線の熱が、冬の冷たさを一瞬で無効にする。
「……すごく嬉しい。最高の、プレゼント……」
言葉の終わりが少し震えた。ふたりの距離が、自然と近づく。
「私のプレゼントは、マフラー。でもね、職場のロッカーに置いてある」
「ははっ。でも——絶対に、気に入ります」
「うん……よかった……」
気づけば互いの腕が自然に背中へ回っていた。夜風のなかで、ぬくもりが行き交い、胸の鼓動が重なる。二人を包む空気がやわらかく、ひとつに馴染んでいく。彼の腕の中は、思っていた以上に温かく、冬の路地にあったはずの冷えが背中から静かに溶けていった。頬に触れる彼の呼吸は音もなく、それでも、羽根の気配を含んでいて、その密やかな熱が、胸の奥をじんわりと満たす。
遠くのイルミネーションが、二人だけを見守る星のように瞬いている。静かな抱擁の最中、袖の下でブレスレットが微かに光り、小さな金の輪に隠された��救難信号�≠�思い出して胸がの奥が、むずがゆくなる。視線を落としたその変化を彼は見逃さなかったらしく、首筋に顔を寄せて低く、ゆるく笑った。
「……ねぇ、」
「はい」
「ほんとにこのボタン押したら来てくれるの?」
腕の中で小さく問いかけると彼は私の髪に唇が触れるくらい近い距離で低く、やわらかく、息を弾ませた。
「来ますよ。最速で」
——最速。その言葉がこのヒーローらしくて、このヒーローにだけ許された、合言葉みたいで、思わず笑いそうになりながらも私は小さく、肩をすくめた。
「最速って……音速、超えるの?」
「場合によっては、超えますねぇ」
「それって、違法じゃないの?」
「でもあなたのためなら、減速はしません」
路地裏の薄い影のなかで、彼の言葉の軽さが、かえって胸に深く沈んでいく。ほんとうに、このヒーローは、躊躇いなく言う。あなたのためならなんて歯の浮くような台詞を。けれど疑問はまだ尽きなかった。
「……じゃあさ、誤作動で押しちゃったら、どうするの?」
「そのときはそのときです。すっ飛んできます」
彼ならばたぶん本当に、羽根の音ひとつ残してすっ飛んでくるのだろう。思わずその光景を思い浮かべてしまって、胸の奥が可笑しくて苦しくてきゅっと鳴った。
「いや、困るでしょ。任務中とかだと……」
「名前さんからの呼び出しに困る任務なんて俺、してませんよ?」
冗談めいて聞こえるのに目は嘘をつけないまま真剣で。だから余計に、彼の言葉が、あたたかく刺さる。
「……じゃあさ、寝ぼけて押したら?」
「寝ぼけて俺を呼ぶって……それはそれで可愛いですけど」
「……やめて。なんか、自分で言って恥ずかしくなった」
「でも、本気で来ますからね?寝起きのまんまで救出しに行く覚悟はありますから」
「もう。ほんとに、来そうで……怖い……」
「来るでしょ。名前さんのためならどこでも」
彼は楽しそうに私を抱き寄せ、私は、それ以上何も言えなくなる。自分の名前を呼ばれるたびに心臓の奥の薄膜が震えて、言葉がどこかへ逃げていく。
「じゃあ……」
そこまで言ったところでふいに彼がくすくすと笑った。私は彼を見上げ、怪訝そうに問う。
「え、な……なに?」
「いやぁ。今日はやけに質問攻めだなーって思いまして」
「……だ、だって。」
「その小さなカラダにハテナがたくさん詰まってるんですね」
そう言ってわざとらしく私のこめかみあたりを指でつつく。その距離の近さと冗談めいた口調の裏にある優しさが、妙にくすぐったい。逃げ場はあるはずなのに、離れる気にはなれなくて、私は結局そのまま、彼の腕の中に留まってしまう。
「ごめんなさい。はい、続き、どーぞ?」
彼は私を抱きしめたまま、やや肩をすくめて、余裕たっぷりに、そう続けた。
「なに?」
「それで? 次の質問は?」
「……料理してて、つい、押しちゃったら?」
「ん?ああ……」
彼は、少しだけ考えるふりをしてから、すぐに笑う。
「料理中でもつい押しちゃうくらい、肌身離さず身につけてくれるってことです?」
「……っ、」
「それがほんとなら俺、ばり嬉しいんですけど」
逃げ道を塞ぐみたいに、でも、決して追い詰めない距離で、彼はさらに言葉を重ねる。
「——で、あなたが料理してるなら」
そして、何でもないことみたいに、軽く。
「ついでに夕飯、食べていきますね」
「——っ、ちょっと!」
「え、違うんですか?救助と晩飯は、セットじゃなくて?」
きょとんとした顔で首を傾げる彼は確信犯だ。冗談だとわかっているのに、その声音があまりに自然で胸の奥がまた小さく跳ねた。
彼はいつだってこんなふうに距離を詰めるのがうまい。軽やかで、やさしくて、そしてずるい。二人のあいだを笑いが灯り冬の夜気がその笑いに押されて、少しあたたかくなる。彼の腕の強さ、声の色、ふざけた返しさえもすべてが愛おしくて胸の奥で言葉が先に溢れてしまった。
「ホークス、ほんとに……」
「はい?」
その柔らかな返しに胸の奥で何かがほどける。名前を呼んだ瞬間、自分の声が少し、震えていたことに気づいていたけれど彼は私のわずかな揺れまで拾うようにすぐに顔を上げてこちらを見る。イルミネーションの光が彼の瞳の奥で小さく瞬き雪の粒みたいに散っていた。
「……だいすき。」
言葉にした途端、彼の指が私の背中をゆっくりため息みたいに、やさしく撫でた。押すでも抱き寄せるでもなく、ただ触れるだけのやさしさが、私を慈しむようで、逆に、泣きたくなるほど深く染みていく。
「………はぁ。」
「ん? なに?」
「急に甘くなるの、やめてくれないかなぁ……」
「え?」
「急に来ると……ちょっと、追いつかんです」
「ふふ。だから、私はいつもこうなの」
「もぅ……ずるいですって」
彼の声はかすかに掠れていてきっと私の言葉が思った以上に響いたのだとわかる。
「押されたみたいに、心がすぐ反応するんで」
「……それ、ビーコンと同じ扱い?」
冗談めかして囁くと、彼は、短く息を落として笑った。その笑い方が世界で一番、好きだった。どんな街の明かりよりも、彼の微笑みのほうが、あたたかいから。
「はい。あなたの言葉が一番の
胸の奥がきゅっと熱くなる。こんなふうにヒーローに言われて心が動かない人など、この世にはいないだろうと思う。それが今、自分だけに向けられていることが、たまらなく嬉しかった。
「……ねぇ、ホークス?」
彼の胸にそっと頬を寄せて、世界に一人だけのマイヒーローの名前を呼ぶと羽根越しにふわりと熱が伝わってきた。
「はい?なんですか、名前さん」
イルミネーションの反射が、彼の声に混ざったみたいに、やわらかく耳に落ちる。
「今日、ほんとうに……来てくれてよかった」
「来ますよ。だって……あなたのクリスマスに、俺がいないなんて、ありえないでしょう?」
「ふふ……言いすぎ」
「え、事実ですよ?」
照れたように笑いながら、彼は私の頭を撫でる指先を緩めない。指のあいだから、あたたかさが静かに滴るみたいに、こぼれていく。
「……ねぇ、来年も……」
「はい、来年も……?」
「一緒に、いられる……?」
自分でも胸がきゅっと痛くなるほど真剣な問いだった。問うというより、胸の奥にそっと触れるみたいな声になっていたと思う。彼はその重さを真っ直ぐ受け止めるように、一拍の間を置いて、呼吸を整え、私を抱き寄せる腕の力をほんの少しだけ強める。
「もちろん。……来年も、その次も、その先も」
「……ずっと?」
「はい。あなたが呼ばなくても……勝手に会いに行きますから」
息が詰まるほど嬉しくて、私はもう、笑うしかなかった。冬の夜は冷たいのに彼の腕の中だけはどんな灯りよりも、あたたかかった。
「……ずるい。そんなの反則だよ」
「反則でもいいですよ。だって、クリスマスですしね?」
そう言って、彼はそっと、私の額にキスを落とした。夜の光が二人の間でかすかに揺れている。私たちは見つめあって、それからようやく、唇が触れあう。深くではなく、浅く。互いの存在を、確かめるように、何度も。それはまるで、凍える夜に指でそっと火を灯すみたいな、甘くてどんなメロドラマよりも、ロマンチックなキスだった。
「……離したくないです」
彼の声が首筋に触れた息と一緒に落ちてくる。金のチャームが袖の下でかすかに揺れ、彼の腕の中で私は静かに、目を閉じた。
風の音も、イルミネーションの色も、もう何もいらない。彼の声と腕の強さだけが、私の世界を満たしていたから。
「離れないよ」
私も、同じ温度で返す。胸の奥の震えがそのまま声に乗った。
「ほんとです?」
「……うん。ヒーローホークスが来てくれた夜はずっと覚えてる」
「じゃあ、もっと覚えさせます」
彼はそう言って抱きしめる腕をさらに少しだけ強くした。ちょっとだけ苦しくて、でもこのまま息が止まってしまっても、いいとすら思えた。
「……そんなこと言われたら、また泣いちゃう」
「泣いてもいいですよ。俺が全部、受け止めますから」
「……ほんと、ずるい」
「ずるいのはどう考えてもあなたのほうですよ」
「え……?」
「こんなふうに俺を、飛ばせるんですから……」
その言葉に胸の奥がまた音を立てた。ふたりの体温が冬の闇の中で、ひとつの形になっていく。
「ねぇ、啓悟くん」
「……はい?」
「愛してるよ」
「俺もですよ。愛してます。ほんと、どうしようもないくらい」
イルミネーションの光が遠く背後で瞬き、その光の粒ひとつひとつが、今夜の出来事のすべてを祝福している気がした。
本当は、クリスマスプレゼントなんて何ひとつ望んでいなかったのだと思う。何か形あるものを手に入れたい気持ちは、最初からなかった。
私の願いは、いつだって、ひとつだけ——。
どうか、ずっとずっと、私のそばにいてほしい。ただそれだけ。大好きなあなたが息をして笑ってここにいることを同じ時間の流れの中で見つめていたい。それ以上の贈りものなんて、きっとこの先も、要らない。
ああ……この夜はきっと、忘れられない。
胸に抱いた金の輪の重みと彼の腕が伝えてくる揺るぎのなさと、冬の空気に紛れきれず、まだ唇に残っている、キスの余韻と——。
世界が、静かに冷えていくほど、私たちだけの小さな灯りはかえって輪郭を強めて確かにそこに在り続けていた。やがて聖なる余韻がゆっくりと降りてきて、言葉を必要としないまま、ふたりをそっと、包み込んだ。
冬の空を渡る声は、私だけに届く
(あ……ホークス、見て?雪……)
(タイミング、良すぎじゃないです?)
(ね、なんか……ドラマみたい)
(んー、ドラマより綺麗ですよ)
(ふふ。今年は、ホワイトクリスマスだね)
※image song『 メリクリ/BoA 』