夜の匂いが深くなるころ、私はそのバーの扉を押した。いつものようでいて、なにかが違う気がする——そんな気配を街の空気が運んできた気がしたから。
どこかで見たことのあるような無数のグラスの並び。ウイスキーの琥珀が、照明にゆらめいて、ほんのわずかに、仕事のあとに染みついた緊張をじわりと溶かしてくれる。けれどそれよりも私の足を止めたのは、奥のブース席からふっと漏れたあの声だった。
「独り身に戻ったら世界が違って見えますねー」
瞬間、胸の奥が、かすかに収縮する。
「おン?ホークス、なに言うてるんや? お前はずっと前から独りやろ〜?」
飄々と返すのは、ファットガムの声。間違いない。そしてもう一人。あの落ち着き払ったようでどこか苦さを含む抑揚。私はその音の温度を誰よりも知っている。いや、知ってしまったのだ。
「状況的にはですよ?まあ彼女と別れてしばらく経ちますけど……でも、頭ン中ではずっと、一緒でしたもん」
私がここにいることも知らずに話すその言葉は無防備な本音に似ていて、不思議と胸のどこかで眠っていた痛みの感覚が目を覚ました。
「へえ」
乾いたようなファットガムの相槌。それもまた彼の優しさなのだと思う。
「まあ……別れちゃってからはこうして、チームアップの際には——」
「彼女んとこ行けんからって俺のセーフハウスで寝泊まりしとるなァ」
「だっ、だから!それは、感謝してますって!」
ホークスが思わず語気を強めたその調子に私の唇がわずかに揺れる。笑ってしまう。まだ、変わらない。相変わらず不器用で、でも正直で。
「お役に立てて嬉しいんやけどなぁー。最初だけ泊まって、あとは自分で手配するもんやと思っとったで」
「俺だって……不安なんすよ」
「ん?また新たな
「もう戻りたくないんすよ。昔の俺——ホークス1.0には。もう戻れねぇな〜、って話っす」
彼の口からこぼれたその言葉は笑うような抑揚をまとっていたはずなのに、なぜだか聞いていられないほどに、痛々しかった。それは、冗談でも強がりでもない。自分で過去の自分を脱ぎ捨てようとしている人間のどこか祈るような声だった。そういう声を私は誰よりも知っている。なぜならそれはあの日、センターに突如現れて別れを切り出す代わりに、彼が沈黙の背中で伝えようとしたものとまったく同じ温度だったから。
あのとき口にされなかった「ごめん」の代わりに滲んでいたもの。そして今こうして再び出会ってからも、決して言葉にはされなかったけれど、確かに息をしている「また、付き合おう」という未完の問いと、よく似た響き。
「また独りになりましたけど、今度はバージョンアップして、ホークス2.0になりたい」
そう呟く彼の横顔がブース席の灯りにほんのり照らされていた。前より少し疲れて見えるけれどそのぶんだけ、深くなったものがある気がする。無理に笑って、取り繕うようなところは減って、でもどこかまだ愛されることに臆病なままの少年のような表情も残っていて。私は胸の奥でひとつ大きく息をした。ファットガムは、グラス片手にうんうん、と頷いていた。親のような眼差しで、ただ黙って話の続きを待っている。そこにはもうふざけ合うだけの軽さはなくて、どこか、未来というものを見据えるような、真っ直ぐな静けさがあった。
「ここに彼女と来てたら、向こうの金髪美女は、目に入らないです」
突如彼の声色が少しだけ軽くなった。それでもどこか、寂しさの名残を孕んでいるのが分かる。
「金髪美女やて?」
ファットガムが軽く笑いながら問い返して振り向いた。その隙にホークスの視線が、探るように店内を横切る気配がして私は思わず身をすくめるように顔を伏せる。まるで、なにか大きなものに見つかってしまいそうなそんな子供のような逃げ腰だった。けれどそのくせ、心のどこかでは彼に見つかりたかった自分がいた。
「いくらグラスの塩を舐めながら、こっちに熱い視線を送ってても、ね。」
「本当にそんなヤツおるかぁ?」
その会話を遮るように彼は言葉を継いだ。まるで自分の中の未練を淡々と物語に変えて他人事のように並べていく。
「で——あっちに行くじゃないすかぁ。それで、声かけて冗談言って二人で笑い合う。肩が振れる瞬間があって、俺は少し身体を寄せるけど女性は拒まない」
「ほう……」
「お酒をご馳走して、褒め合って、結局ベッドになだれ込んで——意味のないセックスをする」
「そらまあ……ひどいなぁ」
「そんな男には二度となりたくないすね、俺は」
そこまで言ってホークスはグラスの縁を指先でなぞった。それがまるで過去の自分を罰するような所作に見えて、私は思わず、目を逸らしたくなった。
「ならなきゃええやろォ?」
ファットガムの返事はあまりにもあっけなくてけれど、たしかに温かかった。まるで、ぐらついた魂の芯を、そっと支えるような一言。それだけでホークスの肩の力がほんの少しだけ抜けるのが、遠目にも分かった。そのとき、タイミングを見計らったように「追加のご注文は?」と女性スタッフが、二人に声をかけた。彼はすこしだけ表情を整えてから、愛想よく口角を上げる。
「あ、じゃあハイボールで。氷は少なめでお願いしまーす」
それは、見慣れた笑顔だった。誰にでも平等に向けられる、ヒーローの顔。明るくて気さくで、何ひとつ抱えていないようなふりをしてちゃんと周りを気遣う笑顔。けれど私は知っている。その微笑みの下にどれほどの迷いとどれほどの孤独を押し込めてきたのかを。
きっと彼も気づいていた。私がこの店内にいることに。でも、あえて振り向かなかった。たぶんそれは、彼なりの待ち方だったのだと思う。私もまた、呼ばれるのを待っていた。もう一度、彼の隣に座るのが偶然なんかじゃなく意志のある選択になるように。
——ホークス2.0は、果たして、私を迎え入れる準備があるのだろうか。それともこのバーの灯りの下で今日もまた「何もなかったふり」を選ぶのだろうか。その答えを知るにはもうほんの少し、夜が深まるのを待たなくてはならない気がした。
「おー、あとシャルドネもグラスで頼むで」
ファットガムが追加の注文をする。その一言に彼の大人の余白を感じて思わず口元がゆるんだ。
「かしこまりました」
女性スタッフが軽く会釈して、その場を離れていく。
「……え、他にも誰かくるんすか?」
ホークスが軽く驚いた声でファットガムにそう尋ねる。
「ベストジーニストや」
「えっ!? ジーニストさんも呼んだんすか?」
その驚きを皮切りに、「すまない、遅くなったかな」というよく通る声とともに、背の高い影がファットガムの横に腰を下ろす。いつの間にか、今ではいつメンになってしまった三人のゆるやかな宴が始まっていた。ジョークが飛び交い氷が鳴りグラスが軽くぶつかる音が心地よく店内に広がる。
「なあ、ホークス」
ファットガムがふと、声のトーンを落とした。ふざけ合っていた場の空気がすっと静まる。その一瞬の沈黙に、彼の本音がにじむ。
「戻る必要なんてあらへんやろ?お前はもう進んどる」
その言葉がこの夜の会話の温度を、ほんの少しだけ別の色に変えた。その場にいる誰もが言葉を失わないよう、呼吸の速度を調整しているような空気。ホークスは目を伏せたままぽつりぽつりと語り出す。
「……昔のほうが良かったって言う人も、多いんですよ。軽口だけ叩いてりゃ周りが笑って言い訳なんて必要なくて」
彼の声はどこまでも静かだった。まるで自分の輪郭をひとつずつ削っていくような語り方。
「でも今は目の前の誰かを守ったあとに、自分がどう感じたかまで考えるようになっちゃって」
ホークスは一度だけ、ふっと息を吐いた。
「……めんどくさい男になりましたよ、俺」
その言葉にファットガムもベストジーニストもすぐには返さなかった。けれど沈黙の中にあったのは拒絶ではなく受容だった。彼の変わりたいという痛みと努力を、もう彼は誰かに笑ってほしいわけじゃなく、ただ受け取ってほしいのだと——そのことだけが、痛いほど伝わってくる。
私は、思った。めんどくさくていい。めんどくさいままの彼がもう一度、私のそばに来てくれるなら。もう一度、あの誰にも言わなかった言葉を今度はちゃんと聞かせてくれるなら……そのとき私は、ようやくこの夜の深さを意味のあるものとして、抱きしめられる気がした。
彼の背中は、少しだけ広くなっていた。いや、本当は、ずっとそうだったのかもしれない。ただ私はその背に揺れる剛翼ばかりを見ていてそこに宿る重さには気づこうとしなかっただけだった。彼の笑顔と翼の軽やかさにどこか安心して甘えていたのかもしれない。
「そりゃあな、守るってのは進化や。何かを抱えるってのも愛やし覚悟や。強くなるって、そういうことやろ」
ファットガムの声は丸く、あたたかい。それは包むというより静かに寄り添う言葉だった。ホークスはその言葉を聞くと、グラスを持ったまま、ふっと視線を伏せた。
「……たまに思うんすよ。俺のこと、ずっと軽い奴だと思っててくれればよかったのに、って」
軽く笑ったつもりなのだろう。けれどその声音には、自嘲にも似た影が差していた。強がるには少しだけ、疲れすぎている夜。
「でも、あの子には見せたやろ?ほんまのお前」
ファットガムの言葉に、空気が静かに震えた。その「あの子」というひとことがあまりにも唐突すぎて。彼が顔を上げる。そして、その目がまっすぐに、私とぶつかった。逃げ場など、もうどこにもなかった。私は一瞬呼吸を忘れた気がした。ファットガムとベストジーニストがふっと目配せする。「ほら、行け」とでも言うように、どこかおかしそうに、けれど、優しい眼差しに押されるようにしてホークスが、ゆっくりと席を立った。手には空になったグラス。そのまま返却口へ向かうふりをして、彼がカウンターのほうへと歩いてくる。私の背筋がほんの少しだけ伸びる。視線を合わせるべきかどうか、それすらも迷いながら、私はただそこに座っていた。
その刹那、バーテンダーが、彼の前にグラスを差し出した。
「……ん? 頼んでないすよー?」
戸惑いをにじませる彼にバーテンダーは淡々と告げる。
「バーボン、ストレートです。あちらの女性が——真の英雄に、と」
その言葉に、彼の瞳が揺れた。驚きと戸惑い、そして諦めにも似た覚悟の光がその奥に差した。私はただグラスの水面を見つめていた。それでも彼の動きは見えていた。彼は、ためらいがちに、でも確かに、なんとなく誘われるようにして私の隣のカウンター席へと腰を下ろした。ゆっくりとでもごく自然な動作で。まるでこの席が最初から彼のために空けられていたかのように。
「……来てたんすか」
掠れたような声だった。それがなんとも言えず愛しかった。どうしてだろう、少しだけ泣きそうになる。
「うん。偶然……じゃないけど」
私は、嘘と真実のあいだで揺れる言葉を選ぶ。あの頃とは、何もかもが違うふりをして。だけど本当は今夜、彼に会いたかった。ただ、それだけだった。ごまかすように笑ってみせた私に、彼はほんの一瞬だけ、眉を下げる。その仕草が優しくて切なくて、どうしようもなくヒーローだった。あの頃と変わらない、でも少しだけ疲れたような目をして。グラスの中の氷がひとつ音を立てる。その乾いた響きが互いの距離にできた空白を淡く満たしていく。
「今どきいるんすねー『あちらのお客さんから』って、口説き文句」
彼が笑いながら言う。けれど、その笑みの裏にほんの少しだけ困惑が滲んでいた。
「レトロで、いいでしょ?」
軽く肩をすくめて返すと、彼はふっと笑って、グラスのふちを指でなぞった。
「確かに、レトロ……そんなことより、あなたのような華やかなオペレーターさんがこんなことで何してんですか?」
「え?」
「なんていうか、こんな伐性のバーでさ」
言葉の響きとは裏腹にその言い方が妙に優しくて、だから私はすこしだけ、悪戯っぽく返した。
「あなたのストーカーだからね、私。」
一瞬、彼の目が止まる。そして眉の奥がほんのわずかに跳ねた。
「あはは、冗談だよ」
「あ、ジョーダン……」
「社会勉強に来たの。あなたのほうは?こういうお店、よく来るの?」
少し引くように問いかけると彼は照れくさそうに後頭部をかく仕草をして答えた。
「あー、昔はよくこーいうとこ出入りしてましたよ。でも今日は久しぶり」
「……どうして?」
私の問いは、たぶん少し踏み込みすぎていた。けれど、彼は逃げなかった。
「真剣に付き合ってる人がいた。でも彼女とは、もう終わったんで……たぶん」
��たぶん�≠ニいう曖昧な言い回しに、私は息を止めた。その真ん中にある「私」の影を、私は、いまだに割り切れずにいる。
「はっきり、しない?」
乾いた声になってしまったのは、どこかで期待してしまった自分への戒めかもしれない。
「いや、はっきりしてる。終わってる。でも……今は頭をよぎってますよ?また、恋愛に足を突っ込むのもいいのかなって」
「……ふーん、足だけ?」
声に皮肉を混ぜるつもりはなかったのに思ったよりも鋭く響いてしまった。彼は少し笑って肩を落とした。
「はは……うーん、でも責任感を持って真面目に付き合いたいと思ってる。なんて言うかゆっくり時間をかけて、遊びじゃなく」
そこまで言って彼はふっとグラスを見つめた。グラスの底に沈む琥珀色の液体が彼の言葉の続きを奪っていくようだった。沈黙が落ちる。私達は黙ってその沈黙を共有した。やがて私はグラスを少し傾けて、そっと言った。
「——自制心に。」
彼は一瞬だけ目を丸くした。でもすぐに、目を細めて微笑む。心の底からではないけれど、それでもどこか、確かに救われたような笑みだった。
「……自制心に。」
カチンと静かに、けれどはっきりと、グラスが触れ合う音がした。それはまるで、失った何かにもう一度触れようとするような、乾いた、祈りのような音だった。
「……ねえ。ホークス1.0が、嫌だった?」
そう尋ねると彼はすこし目を丸くして、呆れたように肩をすくめた。
「え? やだなー、盗み聞きしてたんすかー?」
軽く笑って、冗談で逃がそうとするその調子も昔のままだった。だけど、すぐにそれが照れ隠しだと分かるくらいには、私たちはまた、少しずつ近づいていた。
「まあね。私、地獄耳」
「まあ……うーん。嫌いだったわけじゃないです。あれがあったから、今がある。でも——」
彼は少し考えてから言葉を選ぶように続けた。
「あのときは、誰にも本音を話す場所なんてなかったんですよ。ヒーローなんて孤独なもんだって思ってて」
グラスの中の氷が静かに揺れた。それはたぶん彼の声の震えに呼応したのだと思った。
「でも今は、少なくとも、話したいって思う人がいるから」
その言葉に胸の奥がふいに波打った。彼が変わってきていることは、ずっと前から感じていた。でもそれが、こんなにも温度を持った実感として自分の元に届けられると息が詰まりそうになる。
「啓悟くんは……2.0でも3.0でもずっとあなたのままだよ」
そう言うと、彼は少し照れくさそうに笑って、ゆるく目を細めた。その横顔が、無性に愛おしかった。あの羽音も皮肉めいた台詞もぜんぶ、抱きしめてしまいたくなるほどに。
「じゃあ——バージョンアップ、付き合ってくれます?」
「え?」
「名前さんがちゃんと、アップデート付き合ってくださいよ?」
いたずらっぽく笑いながら、けれどその声の奥にはどこか本気の響きが宿っていた。私はふっと目を細めた。軽く握ったグラスの温度が少しだけ手のひらに沁みてくる。この人がふざけるときは大抵その奥に本音を忍ばせている。昔はそれに、気づかないふりをした。でも今はちゃんと、受け止めたいと思っている。
「うん、わかった。でも、条件つき」
「条件?」
「ちゃんと私のことも、最後まで、アップデートしてね。もう、置き去りには……しないで」
その瞬間、彼の笑みがわずかに揺れた。ほんの少しだけ、胸の奥に触れたような表情だった。
「えー、あなたが言うんです?その言葉」
「言う。」
「置き去りにされたんは、俺んほうっちゃけど」
「はいはい。で?私のこと置き去りにしない?」
彼は溜め息を吐いた後、ゆっくりとうなずく。私の手に触れるでもなく、でも離れることなく。そこには、言葉以上の約束が確かに宿っていた。
店の外では少しだけ、風が吹きはじめていた。窓ガラスの向こう、ネオンの滲む街が、夜の底でゆっくりと回り続けている。私たちもまた、もう一度、回りはじめるのかもしれない。同じ地点に戻るのではなくほんの少し先の未来のどこかで。
今夜はそれで十分だった。でももしこの時間の続きを望んでもいいのなら、彼と同じ場所で目覚める朝をいつかまた迎えたいと思ってしまった。
プロヒーローの、その進化
(……さて。どうします?)
(どうって?)
(ほら、そろそろお開きの時間かなーって)
(あ、ああ……)
(俺としては、帰すのも名残り惜しいんすけど)
(じゃあ……送ってくれるの?)
(もちろん。あなたが望むなら、どこまでも)
※image song『 だから終われない恋/MACO 』