昼下がりの光は春の名残をどこかにひきずったまま、窓辺の植木の葉に、柔らかく落ちていた。ベランダの鉢に水を与えると、濡れた土の匂いがほのかに立ち上り、風に溶けていった。そのまましゃがみ込んで葉先の様子を指先でそっと確かめていたとき、ポケットのなかでスマホが震えた。ほんの小さな振動。それなのに、胸がひんやりと揺れるのは、そこに映る名前が、いつも遠い空にいる彼──ホークスだからだ。
 昼間に連絡なんて珍しい。ヒーローは忙しい。彼はその中でも、もっと忙しい。だから、思わず背筋をのばしてしまう。何かあったのかと、変な緊張をしてしまう。けれども、画面に表示されたメッセージを見た瞬間、張りつめた心がふわりと溶けるように緩んだ。


ホークス

オフ、たぶん取れそうです
今週末


ホークス

名前さん
空いてたりします?






 その文字列だけで、不意に胸の奥が擽られる。
 ��オフ�>氛氓サれは彼にとってほとんど奇跡のような言葉だ。彼が自分の時間を持てることすら稀なのに、その最初の行き先を迷わず私に向けてくれるなんてそんな事が嬉しくないわけがない。けれど同時に小さな溜め息が漏れた。なぜなら、今週末は……。


名前

今週末ごめん


名前

来週の同窓会の事で
大学の友達と打ち合わせを
兼ねて集まることになってて






 私は、できるだけ柔らかい文面を選び、丁寧に返信した。そしてほんの数秒。それをテーブルに置く暇も無く、手の中のスマホが再び震えた。


ホークス

えー


ホークス

嫌です






 ……嫌、です?
 私はスマホを持ったまま固まった。
 「嫌」って。そんなストレートな拒否、句読点すらつけない投げつけるような感情の塊。こんな反応はこれまでに、あまり見たことがなかった。彼はいつも、余裕をかけらのようにまとっていて『大丈夫ですよ』『わかりました』と、軽やかに受け入れてしまうタイプで、私がなにを言ってもすぐに引いてくれる。それなのに、今日は……。しかし、続いて届いたメッセージに思わず口元が緩んだ。


ホークス

俺のための奇跡の休日なのに……


ホークス

あっさりフラれました


ホークス

ほんと、あっさり……


ホークス

フラれた……(2回目)


ホークス

つら……


ホークス

えっと、べつにあれです
ダメって言ってないっすよ?


ホークス

ただ、嫌なだけです


ホークス

ソファの隅で体育座りしてます






「………。」

 え……こわ。いや、かわいい……?いや、怖い。いや、やっぱりかわいい……?
 スクロールする指が震えるほど面白くて笑いを堪えるのに必死だった。浮かんでくる。ソファの隅で赤い羽根をしゅんとさせて、膝を抱えている想像上のホークスが。その姿があまりにも健気であまりにも彼らしくて、胸の奥がじんと疼いた。
 彼は普段、いつも、大人の男の顔をしている。軽口ばかり叩きながら相手との距離を絶妙に測って周りを一歩引いた位置から見つめるタイプだ。だけど最近、こうして時々とても素直に、わかりやすく、寂しがってくる。『会いたい』と言ったことを断られるのが、本当に悲しいみたいに。
 ほんとうに子どもみたいだ。そしてその子どもっぽさを私だけに見せてくれることがどうしようもなく可愛い。私は指先でためらいながら返信を打った。


名前

じゃあ日曜の夜とか
ちょっとだけ顔見る?


名前

あまり得意じゃないけど
テレビ電話とか






 そう返すと、秒速で既読がついた。さすが……��速すぎる男�≠フ異名は、伊達ではない。


ホークス

マジすか!?
いや、マジで!?やった!


ホークス

今からシフト
全部ぶっ壊します


ホークス

その時間は
誰にも邪魔させません


ホークス

名前さんが好きです


ホークス

やっぱり名前さんしか勝たんです


ホークス

ほんと世界で一番好き






 彼の職務のことを、��シフト�≠ニ呼ぶなんて、初めて知った。ヒーローという職業が、一瞬だけ身近に感じられて、同時に私の胸の奥のどこかが急に甘くなる。大袈裟で、少し子どもっぽくて、でも全部が本気で。その本気さが何より嬉しい。まったくもう。勝手に拗ねて勝手に浮上して……

「ほんと……忙しいヒーロー」

 思わず独りごちる。窓の外では早くも夏を知らせる蝉の声が響いていた。その声を聞きながら、私はなんとなく確信した。この夏も、きっと彼に振り回される。そして彼も、たぶん私に振り回されるのだろうと。
 どれだけ不器用で、わかりやすくて、でも真っ直ぐで。��好き�≠フ形がこんなふうに日常へしみ込んでいくのなら遠距離だって職の違いだって、忙しさだって、たぶんきっと、たいした問題じゃないのだろう、って。


 *


 日曜の夜は昼間よりも静かだった。週末の終わりにあるはずの喧騒やざわつきのようなものが、今日はどういうわけか、部屋の空気からひっそり消えてしまい、代わりに自分の呼吸だけがやけに鮮明に聞こえる。
 ベッドの端に腰を下ろして、スマホを胸の前でそっと抱えたまま、時刻表示の数字を何度も確かめた。──あと三分。それだけの時間がずいぶん長く感じる。彼の送ってきた『その時間は誰にも邪魔させません』というメッセージを、思い出すたび、胸の奥が、あたたかい水を張ったみたいにじわりと、満たされていく。画面越しとはいえ、久しぶりに、顔を見るのだ。会えない日が続けば続くほど、声の温度や、目の動きひとつでさえも、特別な宝物のように思えてしまう。
 決めていた時間になるとスマホが震えた。短くでも遠くない振動。呼吸を整える間もなく、画面には彼の名前が表示されていた。私はゆっくりと通話ボタンを押す。数秒の静寂。そのあとにふいに光が差し込むように彼の姿が画面に現れた。

『……名前さん?』

 その声の柔らかさに、胸の奥が一度だけ、強く鳴った。画面いっぱいに映る彼は思っていたよりも少し疲れていて、けれどその疲れさえ愛しさに変えてしまうような、あたたかい瞳で、こちらを見ていた。

『……やっほ〜。』

 変わらぬ笑顔で手を振る彼。それだけで、泣きそうになってしまう自分が少し情けなくて、でもそれ以上に嬉しくてたまらなかった。

「——あれ?髪、少し伸びた?」

 そう問うと彼は、冗談めかして『バレました?実はエクステつけました』とか大嘘を言いながら画面の中で、襟足を撫で付ける。

『そっちも、なんか……綺麗になってません?』
「こらこら。適当なこと言わないの」

 笑いながら返すと、彼もくすっと目を細めた。

『いや、ほんとですよ?……それにしても、会いたかったっす』

 画面越しなのにその言葉だけで距離が縮まった気がした。胸がじんと温かくなる。会えない時間の寂しさが、一気にほどけていくようだった。

「あの……せっかくのオフ、ごめんね?」

 そう言うと、彼はすぐに首を横に振る。

『いや謝らんでいいですよ。俺が勝手に拗ねてただけなんで』
「勝手に拗ねて、勝手に拗ね直してたよね」
『……うっ』

 彼はわざとらしく肩を落とし、すこしだけ上目遣いでこちらを見る。本当に、子どもみたいだ。

『でも、夜にこうして顔見れるって思ったら……今日一日ずっと、嬉しかったですよ』

 その言葉は、画面の向こうで照れながらこぼれ落ちたみたいで、私はスマホを少し持ち上げて、彼に向けて静かに笑った。

「ホークス」
『はい』

 名前を呼ぶだけで胸にあたたかいものが灯る。この人の名前を呼ぶことが、こんなに幸福だったなんて、今、あらためて知った。

「会いたかったのは……私もだよ」

 画面の向こうで彼の表情が一度だけ止まった。それから、ゆっくりと、どうしようもないほど、柔らかく笑った。

『……その一言で、ぜんぶ報われますね』
「なに、それ」
『いや、ほんとに。……名前さん、ずるいっす』

 彼は画面に近づき、まるで額を寄せるように、視線をそっと落とした。

『ねぇ……名前さん』
「うん?」
『次、いつ会えます?』

 その声は、少し掠れていて、画面越しの距離を越えて胸に触れてくる。

「……会えるときに、会おうよ」
『ダメです。俺が今、会いたいんです』
「……っ」

 彼の真剣な瞳に射抜かれて心臓が脈打つ。画面越しでも彼がどれだけまっすぐ私を求めているのかがわかってしまうから恐ろしい。

「……そんな顔、しないで?」
『どんな、顔です?』
「……好きって、言いたそうな顔」

 照れながら言った瞬間、彼も照れたように髪を掻いた。そして、少し小さな声で——

『……言ってますよ』
「うん」
『好きです。……やっぱり、一番好きです』

 その言葉の重みが、ちゃんと胸に落ちて、涙が出そうになって、私は慌てて天井を仰いだ。

『あ……泣いたらダメですよ?』
「泣いてないし」
『泣きそうじゃないです?』
「まあ、ちょっと……泣きそうだけど」
『ほら、泣いてる』
「まだ、泣いてないってば」

 ふたりで笑い合う。画面越しなのに、こんなに近い。夜が静かに降りてくる。この距離も、このもどかしさも全部ふたりの一部なのだとようやく思えるようになった。

「ねぇ、ホークス」
『はいはい』

 呼んだ時点で胸の奥が少しだけきゅっと縮む。本当は言いたい言葉があったのに、言えばきっと本当に泣いてしまいそうで、私はほんの少し間を置いてから首を振った。

「……ううん、なんでもない」

 その瞬間、彼はわずかに息を止めたように見えた。画面越しでも伝わるほど、目の奥の色が深くなる。まるで、本当は何を言いたかったのかを、静かに理解したかのように。

『……俺も、ずっと想ってますよ。大好きって』

 不意打ちのように、でも、必然のように、その言葉が静かに落ちてくる。胸の奥にそっと触れる優しい指先のように。私は言葉を失い、ただ呼吸だけが細く震えた。

『遠くても、近くても、どこにいても——』

 画面の向こうの彼の声が夜の静寂の中で一つの灯りになった。距離に阻まれて触れられないはずの温度が、光越しに胸へ届いてくるように感じられて思わずスマホを胸元へ抱きしめる。遠距離の夜はいつも少しだけ心細い。会いたいと口にするほど切なくなる夜もある。けれど、こうして彼の言葉が降りてくるたびその距離すら愛のかたちのひとつに思えてくるのだ。
 救われていく。静かに、でも確実に。遠距離の夜は、こうやってそっと温まっていくのだろう。


 *


 髪を巻き終えて鏡の前に座ったまま、私はふと手を止めた。ヘアアイロンのあたたかい余韻が、まだ首筋に残っている。
 今夜は、大学時代の友人たちとの、久しぶりの集まりだ。言ってみれば同窓会ほど大げさなものではないけれど互いの近況でも話そうとグループチャットで勝手に盛り上がっていた結果が今日になった。なので軽く打ち合わせだけでもしようと数名で集まったのが先週の日曜日。

 メイクも仕上がって、服も選び終えて、あとはヒールを履くだけ。そんな段階に来て、胸の奥で、一つ小さな波が立った。そういえば私はきちんと「好き」と言えたことがあっただろうか。唐突に浮かんだ疑問は思った以上に重く、心に沈む。
 彼から「好きだ」と言われた回数は、数えきれないほどある。照れ隠しのように軽く言うときもあれば、拗ねながらぶつけてくるようなときも。他にも、あからさまな甘さで言ってくることすらある。その全てが私の胸の奥に静かに沈殿して、日々の支えになっている。でも、私からは、どうだっただろう。あの夜『付き合ってください』と言われた瞬間に私が返したのは「遅いよ、ばか」だった。「好き」は……ベッドの中では、言った気がする。でもそれはまともにカウントしていいのだろうか。彼の目をまっすぐに見て、真面目に伝えたことはまだないような気がした。
 そんな思いが、胸にかすかに疼いたそのとき、スマホが震えた。まるで、こちらの考えをふいに断ち切るように。表示された名前を見て、心臓が小さく音を立てる。

「……はい、もしもし、」

 声を整えたつもりだったのに、少しだけ語尾が震えてしまった。

『あ、名前さん? 今、大丈夫です?』

 彼の声は穏やかで、それなのに、わずかに落ち着かない色を宿している。きっと私の本日の予定を覚えていたのだろう。そういうところだけ妙に記憶力がいい。

「もうすぐ出るとこだけど……なにかあった?」
『いえ、別に。ちょっと声が聞きたくなっただけですよ』

 その軽い言い方の奥に、数日前のビデオ通話と同じ柔らかい寂しさが滲んでいて、思わず笑ってしまう。

「ふふ、珍しい」
『そうですか?俺わりと声、聞きたがりなんで』

 言葉は軽い。だけど返答の間が少し長い。その長さに彼特有の��拗ね性�≠フ影がそっと混ざっているのがわかる。

『できればこまめに連絡してくださいねー』

 なんて冗談めかした口調のはずなのに、なぜか胸がきゅっと掴まれる。やっぱり少し寂しいんだろうな。そんな彼の想いが自然と伝染したのかもしれない。

「忙しくて……返せないでしょ?」

 からかうような口調で返すと、電話の向こうで小さな沈黙が落ちた。それから少しぶっきら棒に返される。

『まあ、返せんですけど。ずっとスマホ触ってるつまらなそうなヒーローにはなるでしょうね』
「なにそれ、可哀想なヒーロー。任務に集中してください?」
『だってほんとにそうなりますもん。誰がが話しかけてきても『あ、いま、返事待ちなんで』って空返事して、結果スマホばっか見てます。ね?最悪でしょ』

 彼はわざと棘のある言葉を選んでくる。でも、その棘は全然痛くなくて、ただただ甘くて、くすぐったい。全部が『好き』と『寂しい』と『自分を見ていてほしい』の混ぜ合わせなのだとすぐにわかってしまうから私は肩の力が抜けてしまう。

「わかりました。できるだけ返すようにするね」

 そう言うと彼の反応は一拍遅れて返ってきた。

『できるだけ……まあ、それが限界っすよねー。
……はぁ』
「え。なんで最後、溜め息ついたの」
『べつに?……期待した自分が悪かったです』

 まったく……溜め息にまで愛しさを混ぜてくるヒーローなんて、扱いづらいにもほどがある。
 国を守るその手が、私には、こんなにも子どもみたいで面倒で可愛い。こんなヒーローが日本の空を守っていると思うともう笑うしかなかった。


 *


 夜がようやく落ち着いて、私が帰宅したのは、二十二時を少し回った頃だった。バッグを置いて靴を脱ぎ、部屋の空気に身体を預けるように深く息を吸ったあと、シャワーを浴びてようやく一息ついたそのときだった。インターホンが、唐突に鳴り、胸がひやりと揺れた。こんな時間に誰?と思いながら玄関へ向かい、慎重にドアを開けるとそこに立っていたのは……。

「ヒーロー、来ました。」

 満面の笑みで、両手を広げるようにして佇む、マイヒーローだった。夜の廊下の照明が彼の髪をやわらかく縁取っていて、その姿がまるで映画のワンシーンみたいで、私は思わず言葉を失った。

「……うそ、なんで、いるの?」
「電話で『できるだけ返す』って言われたんで、なら、直接来ればいいじゃんってなりました」
「……はい? どういうこと……」

 理屈がむちゃくちゃで、もはや日本語の形すらあやしい。けれど、ここ数日まともに連絡を返せなかった私には反論する資格などないのかもしれなかった。苦笑する私と視線が合った瞬間、彼の背中の赤い羽根が、ふわりと揺れて、そのうちの一枚が、私の肩に落ちた。それだけで、胸の奥が温かくなる。

「……今日、泊まってってもいいですか?」

 あまりにも急で、あまりにも素直すぎる問いに私は固まった。

「え……あ、あの……」

 言葉がまとまらない私に、彼は、少年みたいな笑みを向けて言う。

「断ってもいいですけど、たぶん拗ね度が今日の三倍になりますよ」

 その未来図を想像してしまい、私は思わず息を呑んだあと、小さくうなずいていた。

「……いい、よ?」

 それだけで、彼の顔がぱっと明るくなる。夜の玄関が彼の笑顔だけで一段階明るくなったように思えた。部屋に上がった彼はいつも以上に甘えてきた。ソファに腰を下ろした瞬間、隣にぴたりとくっついて、私の髪をくすぐるように触ったり、香りを確かめるように鼻を寄せたり、指先を絡めたり。まるで今日一日の距離を一気に埋めようとするみたいに。

「今日、俺のオフだったのに使いどころを完全に間違えましたね」
「でも、会えたじゃん」
「いやいや、もっとちゃんと予定組んで名前さんに全部の時間使ってもらえばよかったなって」
「はいはい……ごめんね。」
「いや、俺が忙しすぎるせいなんで。今度こそ俺の休日を名前さんで埋めたいです」

 その言葉には、笑ってしまうくらい真っ直ぐな熱がこもっていて胸の奥がじんと痛む。私はまだ「好き」と言えていなくて、それでも彼は惜しみなく与えてくれる。そう思うと胸の奥から何かが膨らんで今すぐ抱きしめてしまいたくなる衝動に襲われた。でも、言うなら夜がもっと深くなってからがいい。彼がうとうととして、羽根の音すら静かになった頃に、そっと渡したい。今はただ、隣に寄り添って体温の隅々まで確かめているような距離でいたかった。彼が甘えてくる分を、言葉じゃない方法で返していたかった。

 深夜一時を過ぎた頃、彼はソファでゆっくりと瞬きを重ねて、そのまま眠りに落ちた。間接照明だけが天井の隅を静かに照らしていて、カップに残ったお茶は、すっかり冷めている。夜は深く、静けさは柔らかな膜のように私達を包んでいた。私はそっと毛布を直しながら眠る彼の肩に視線を落とした。深くゆっくりとした呼吸。そのたびに膨らんで、しぼんで、揺れる胸元。目尻の優しい線。手放しで誰かを救おうとする人の顔。
 きっと、聞こえない。たぶんもう眠っている。でもだからこそ言える気がした。ずっと胸の奥の奥で温めてきた言葉をやっと取り出す瞬間が来た気がして——。

「……ホークス、」

 その名を呼ぶだけで胸が震えた。返事はない。けれど、それでよかった。

「……私ね、ちゃんと好きって言ってなかったなって、今日思ったの」

 彼のまぶたは閉じられたまま。夜の静けさが、私の声を優しく抱きとめる。

「いっぱいもらってばっかりで、私のほうはぜんぜん伝えなくて。言葉にするのって、少し怖かったり、タイミングがわからなかったり……」

 彼の胸が、ゆっくり上下する。微かにまぶたが動いたように見えた。

「……好きだよ、ホークス。」

 その言葉は、夜の深みのなかで、そっと波紋になった。彼に届いたかどうかさえわからないほど小さな声。けれど、私はそれでよかったのだ。
 ようやく自分の声で言えた事が胸の奥に小さく確かな灯りをともした。彼の頬にかかった髪を、指先でそっと払って、毛布を掛け直す。その瞬間、彼の羽根がふわりと動いて、まるで私の背に寄り添うように一枚巻きついた。ただ寝返りをうっただけなのかもしれない。あるいは、私の言葉に、気づいていたのかもしれない。

「……おやすみ、マイヒーロー。」

 かすかな声で囁くと、その夜の空気は、さらに静かになり私はゆっくりと彼の側に身を預けた。
 ��好き�≠ニいう言葉が、こんなにも柔らかく、こんなにもあたたかい夜を運んでくるなんて私は今日まで、知らなかった。


 *


 夜と朝の境目がゆっくりほどけはじめるころ、カーテンの隙間から淡い光がこぼれてきて、私はその温度に、うっすらと目を開いた。ぼんやりと視界が慣れていくと、すぐ近くで、小さく羽根が揺れているのが見えた。
 緋色の、彼の羽根。朝日に透かされると、その色は夜よりもずっと薄くやわらかくて、まるで、水に沈めた色紙みたいに、淡く脆い美しさをしていた。一本、また一本と光を受けて震えるたび、私の胸の奥で昨夜の言葉が静かに思い返される。
 彼はまだ眠っていた。寝顔は驚くほど幼くて、昨日あれほど甘えてきた人と同じ顔だなんて信じられないほど無防備で、仕事のときの��プロヒーロー�≠ニいう仮面は、跡形もなかった。こうして朝日に照らされる羽根と寝息だけが、彼をただの青年に、戻してくれる気がした。私だけが知っている、彼の静かな姿。このひとを好きだと言えてよかった。昨夜、やっと言えたその事実が、胸の底でぬくもりを広げていく。
 やがて彼はゆっくり目を開け、少しだけ欠伸をして、寝起きの低い声で柔らかく笑った。

「……おはようございます、名前さん」
「おはよ……」

 その声を聞いただけで、朝が満ちていくようだった。けれど幸せな時間はいつだってゆっくりと終わりに向かう。彼は羽根を静かに揺らしながらソファの上で身を起こした。

「そろそろ……行かなきゃ、ですよね?」

 彼の言葉に胸が少しだけ沈む。彼には��空�≠ェある。私には��街�≠ェある。それぞれの場所へと戻らなくてはいけない朝は、いつだって少しだけ切ない。

「うん……無理させて、ごめんね」
「無理なんてしてないですよ。来たの俺ですし」

 眠気を含んだ声でそう言いながら彼はふわりと柔らかく微笑んだ。その笑顔が昨日の夜と今朝を繋いでくれるような気がした。
 玄関へ向かうとき、剛翼が朝日を受けて、また薄く光る。その光は夜よりも儚くて、でもどこか未来の約束みたいに見えて、私はつい彼の背中をじっと見つめてしまった。
 靴を履き終えた彼が、ふと振り返る。その目は昨日より少し照れたようで、それでいて、静かに決意めいた色を湛えていた。

「……また、すぐに飛んで来ます。」

 そのひと言に胸の奥がぎゅっとなる。��また�≠ェ、いつかはわからない。けれど彼がその言葉を言うとき、いつも確かに未来がそこに生まれる。

「うん……待ってる」

 その瞬間、彼は小さく眉を下げて少年みたいに笑った。

「今度は、泊まる理由くださいね」
「……もう、あげたよ、昨日。」

 そう言うと彼は小さく吹き出して、私の頭に、そっと手を置き、ふわりと撫でた。

「じゃあ……行ってきます、名前さん。」
「うん……いってらっしゃい、ヒーロー。」

 ドアが静かに閉まる。その向こうで彼の羽根の音が遠ざかっていく。それが朝の空に吸い込まれた頃、私はようやく息をついた。
 好き、って言えてよかった。そう思いながら、静かな朝の光の中でもう一度だけ胸の奥が温かくなった。





翼の音を初めて近くで聞いた夜




ホークス

さっきの最後のいってらっしゃい
今日のエナジーになりました


名前

いつでも帰ってきてね
今日も気をつけて


ホークス

もちろんです。帰る理由
今もうできましたから






※image song『 us/milet 』


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