チャイムを鳴らすと、思っていたよりもすぐにドアが開いた。その瞬間ホークス——いや、啓悟くんは、そこにいた。ただ黙って、驚いたようにほんの少しだけ目を見開いて、けれど何も言わずやっぱり出会った頃と変わらない、優しい笑みを浮かべてくれたのだった。
玄関の灯りはあの頃と変わらず冷たい白のLEDだった。空気の重さも匂いも、何ひとつ変わっていないはずなのに、私はなぜだか息の仕方を忘れそうだった。まるで過去の時間と今とがひとつの場所に重なり合ってしまったように。
足音を吸い込んでいく玄関マットの上。私は、自分でも驚くくらいに、冷静なふりをしていた。けれど胸の奥では、ずっと続いていた不協和音のようなものがやっと収まってくれそうな気がしていた。
「どうぞー。適当に座ってくださーい。部屋ね、ちょっとだけ、模様替えしたんですよー」
彼はそう言って少し照れたように笑った。その笑顔になぜだろう、喉がきゅっと詰まった。私は彼のあとを追ってリビングへ向かう。午後の光をたっぷり吸ったソファは、以前と何も変わっていない。だけど私たちはきっと、昨日までとは少し違っていた。
彼からマグカップを受け取って、ふたり並んで腰を掛けると不思議な沈黙が落ちた。言葉はあるのに、音にするにはどこか惜しいような、そんな気配が部屋の中に漂っている。
私たちはしばらくただ黙ったまま視線を絡ませたり逸らしたりしていた。何か言わなきゃと焦るのにどんな言葉も足りない気がして。けれどその沈黙を今日だけは私のほうから破ろうと思った。
「……あ、見たよ。インタビュー番組」
「え?……ああ。あれ、録画です」
「今朝も大型ビジョンで見た。ヒーロー活動中のホークスの姿」
「そっか……」
「うん……」
「来てくれて、嬉しかったです。ちゃんと、俺……伝えようと思ってたんで」
「……うん」
彼の声は静かだった。何かを怖れているようなそれでも、諦めたくない、手放したくないという思いが、ひしひしと伝わってくる。私は、手元のマグカップを両手で包むようにして、ぽつりと、言葉を落とした。
「……あの日、あなたが職場に来て、急にあんな顔して……」
けれど、あらためて言葉にしてしまった途端、思い出すのはあの時の自分の情けなさと無力さで自然と口元が、苦く歪んだ。そんな私を彼はただ黙って見つめて、どこか懐かしむように、静かに笑っていた。
「でも、あのとき……ああやって突き放してくれなかったらきっと私はそのまま、また逃げてた」
そんな私の言葉に彼は少しだけ視線を逸らしてから、ふっと息を吐くように言った。
「逃げたっていいんですよ。俺がまた、追いかけますから」
その一言にまた胸がぎゅっとなる。言葉よりもあたたかさが先に伝わってしまう不思議な人だと何度、思っただろう。
「でも……ねぇ。鍵、ほんとにどっちにも入ってたの?」
問いかけると、彼は少しだけ驚いたように目を丸くして、それから照れ笑いを浮かべた。
「……内緒です。言ったら、意味ないですから」
「……そっか」
「でも……どっちでもあなたが選んだならそれでよかった」
「……」
「どっちでも、連れていくつもりだったんで」
不器用に笑ったその顔を私はそっと見つめた。すると彼の手が遠慮がちにこちらに伸びてくる。
「……手、貸してもらっても?」
その声がやけに頼りなくて。私は何も言わずに自分の手を差し出した。触れた瞬間、指先から、熱が伝わってきた。彼の手はほんの少しだけ震えていた。それは彼が泣いているのではなく多分、心のどこかがようやく安堵してその余韻で震えていたのだと思った。
「やっぱり、震えてない」
「前にも言ったでしょ?私、ストレスには慣れてるって」
「うん、かっこいい。オールマイトみたいで」
互いに顔を見合わせて、ふっと笑い合う。肩の力が少しだけ抜けたようなそんな柔らかな空気が二人の間に流れた。彼はその笑みに余韻を残したまま、そっと視線を落とし、少しだけ声を潜めるように言った。
「俺……ずっと思ってました。たぶん俺のほうがずっと、好きなんだなって」
「……ううん、そんなことない」
「あるんですよ。だって……あなたは、きれいに笑えるけど、時々、俺の前では意地悪なんで」
「え……それ、悪口?」
「いえ、褒めてんですよ。俺にだけ、素直になれないとこも……全部、好きなんです」
「……」
「もうほんと、やんなるくらい——ずっと、好きでした」
その瞬間、私の目尻から、すうっと涙がこぼれ落ちた。なのに不思議と笑えてしまって、そんな私を見て彼は黙って人差し指を伸ばし、涙の跡をそっと拭った。その仕草が、やけにやさしくて、切なくて、私はまた、泣きたくなった。
「まった、泣きよーし……」
「……啓悟くんのせい」
「責任、とりますよ?」
静かな部屋に、ふたりの笑い声が、ゆっくりとほどけていった。遠回りした時間も、すれ違った夜も、ひとつずつ手を取り戻すように今私たちはお互いの距離を、もう一度たしかめ合っていた。
しかし、その直後。彼が眉間に皺を作り苦渋の表情を浮かべて、私の両手を、ぎゅっと掴んだ。そして──。
「すみません……俺、あんなひどいこと言って」
声が震えていた。言葉に詰まったせいかそれはまるで本当に泣いているようにも聞こえる。顔を下に向けてしまったため、表情まではうまく伺えなかった。
「でも……俺、ああするしか、なくて。あなたを突き放す以外の方法が、思いつかんで……」
「いいよ、大丈夫だよ」
「いや、ダメです。謝っても、償いきれんです」
「ううん。だって……あれが本音じゃないって、ちゃんと、わかってたから」
その言葉に、彼がそっと顔を上げた。予想通り目尻にはうっすら涙が滲み瞳の縁は少し赤くなっていた。強く寄せていた眉間の皺が、ゆっくりと解けていく。そして彼は、握っていた手をそっと離した。
「……あなたがいないあいだずっと、平気なふりしてたんです、俺。」
唐突なその一言に私は息を呑み言葉を飲み込んだ。彼は困ったように口角を上げたがそれは笑ってなんかいなかった。痛みを抱えた顔だった。
「会いたくないって言われるのは、わかってて。嫌われたんだろうなってちゃんとわかってても」
「……」
「それでも、ダメだったんですよね。ずっと考えてて……どう頑張っても、頭からあなたが消えてくれなくて」
その声は、いつもの軽口じゃなかった。痛みを剥き出しにした、ひとの形をした叫びだった。
「嫉妬もしました。あん人のとこに行ったことも頭下げてまで、俺を守ってくれたことも」
「……」
「全部……嬉しかったはずなのに、苦しかった」
彼は俯いたまま、小さく笑った。笑いながら、どこか、自分を責めるように。
「俺、こんなに執着するタイプだとは思わなくて正直……疲れちゃいましたね。自分に」
私はソファの上、さらにそっと彼に近づいた。その手にもう一度、触れたかった。けれど彼は、わずかに手を引く。
「ごめん、なさい。今、優しくされると……また期待しそうになるけん」
「でも——」
「あなたを好きすぎて俺、ちょっと壊れとったんやって思う」
「……」
「あなたを好きでいる自分ごと……どうでもよくなりそうな日もあった」
それでも、私はその手を掴んだ。今度は彼も、もう、引かなかった。
「期待、していい」
「……」
「私、ちゃんと啓悟くんのとこ、戻ってきたよ」
泣きそうになりながら言葉を紡いだ。胸の奥がじくじくと熱を帯び、声に出した瞬間、その熱が喉元までこみ上げてくるのがわかった。それでもその一音一音に、離れていた時間のすべてを抱え込むような重みがあった。
「一度は離れた。でも私も、ずっと、想ってた」
「……嘘つき」
「ほんと」
「じゃあなんで——」
「怖かったから。大切すぎて、壊すのが怖かったから……」
「……」
「でもね、壊れたのは私じゃなくて、啓悟くん。あなたのほうだったんだね……ごめんね」
彼は私の手をきゅっと握り返した。そしてようやく、ほんとうの心のうちを差し出してくれた。
「まだ間に合いますかね……有効期限、切れとったりして」
「ん?」
「俺の、心の鍵——開けてくれます?」
「……」
「名前さん、あなたにしか開けられない」
「……」
「もう……ほんとに俺を、これ以上……」
「……、」
「ひとりに、せんで——。」
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。私は笑って、静かに頷いた。握られた手は、あたたかかった。けれどそれはただの体温ではない。何かがそこにたしかに流れていた証。言葉にするよりも先に、そのぬくもりが、心の奥深くをほどいていくのがわかった。
「じゃあ——このまま、また何も言わずに距離を置いたりしない?」
私の問いかけに彼は目を細めるように微笑んで静かに首を振った。
「もう、しないですよ。……する理由、なくなりましたから」
「ほんとに?」
「ほんとに。信じてください、って言いたいとこだけど」
「……」
「信じてもらうんじゃなくて、これから、信じていいって思ってもらえるようにしたい」
照れくさそうに言って、でも目だけはまっすぐに見つめてきた。その瞳の奥に、あの空より深い色を見つけるたびに私は思う。この人が、自分の心に嘘をつけない人だということを。そしてだれよりも愛情に満ちたヒーローなのだということを私はもう知っている。
「俺、立場上……どうしても言えないこととかも多くて」
「うん」
「だから、もしもまた……離れることがあったとしても」
「うん」
「今度はもう、逃げたりせん。ちゃんと伝えます。ちゃんとあなたには、ぜんぶ話す」
「私も逃げない。ぜんぶ見せるよ、あなたには」
それは未来への小さな約束。きっと紙に書いて交わす契約よりもずっと重くて、やさしい約束。
すると彼が突然が、すっと、小指を差し出してきた。首を傾げる私に、彼は優しく笑って言う。
「約束ですね」
私はふっと微笑み、差し出された小指に自分の小指を絡めた。その温もりが、ほんのわずかに、鼓動を早める。
「うん。啓悟くんも、ちゃんと伝えてね。寂しいときは、寂しいって」
「はい。じゃあ今、さっそく言っていいです?」
「なに?」
「さっきまで……寂しかったです。ものすごく」
言葉の余韻と一緒に笑ってしまった。私たちはこうして何度でも、もう一度、始められるんだと思った。たとえ風が強くても。たとえ誰かがまた過去から現れたとしても。私たちはあのときとはもう違う。そのまま彼が、私の指先にくちづけを落とす。やさしい時間が指の間からこぼれて、また重なっていった。
その夜、私たちは何も決めなかった。やり直すとも、また恋人に戻るとも、ひと言も交わさなかった。ただ、手を繋いだままソファの上で静かに肩を寄せ合い、長い沈黙を分け合っていた。
テレビの音が遠くで鳴っていて窓の外では風がやわらかく夜を撫でていた。言葉にはしなかったけれど、それでもたしかに何度でもここから始められる——そんな気がしていた。何度でも、この人を、好きになれると思った。
*
夕暮れ前の空はほんの少しだけためらいながら茜を混ぜていて、いつもこの屋上から見る景色はもっと人工的で無機質だった気がするのに今日はやけにドラマチックな光に包まれていた。ビルの谷間にこぼれるその斜陽に誘われるようにして、私は屋上へと足を運んでいた。
仕事が終わったあと、特に理由もなく、でも、どこか心の片隅で「今日かもしれない」と思っていた。それは単なる予感だったはずなのにどこか確信めいていたのが少しだけ、怖くもあった。
そしてその気配は、唐突に、でもとても静かに現れる。背後から差す光が長く伸ばした影を引き連れて、誰かがそこに立った。振り返らなくてもわかっていた。その風のような気配を、私はもう何度も知っていたから。
彼は、何も言わずに私の隣に立った。ただそれだけで風の流れがふっと変わった気がした。言葉ひとつなく、音もなく、そこにいるだけで、この景色の一部になったかのように、しっくりと溶け込んでいた。それが、涙が出るほど綺麗だった。
「ねぇ、名前さん」
その声がようやく耳に届いたとき彼はまだ前を見たまま私のほうを振り返ろうとはしなかった。
「……初めて会話した日のこと、覚えてます?」
私は、ほんの少しだけ微笑んだ。その問いが、なんの前触れもなく、でも、心の奥にそっと手を差し入れるように届いたからだ。
「うん。覚えてるよ。ちょっと笑わないでほしいんだけど——って、言ってた」
私がそう言うと、彼はすぐに言葉を返す。
「はいはい、それで?」
「今、木の上に引っかかっててさぁ〜」
「うんうん、そのあとは?」
「さすがにヒーローが降りられないは、ダサすぎないかなぁ〜?……って」
そこで私が笑いかけると、隣に立つ彼がふっと目を見開いた。
「……えっ? それ、ほんとに言いました?」
驚いたように聞き返してから、彼は、くすりと笑った。夕陽のせいかその横顔のまつ毛がひどく長く見えた。
しばらくの沈黙のあと彼はわずかに首を傾け、遠くに見える夕景を見つめたまま、ひとりごとのように呟く。
「俺の第一印象って……どんなでした?」
「んー。若くて、イケイケなヒーロー」
からかうように言ってみせると彼は思わず吹き出して、短く笑った。
「イケイケて……死語ですよ、それ。今どき誰も言わんってぇー」
その口調が妙に楽しげで、私もつられて小さく笑った。そしてふと、問い返す。
「じゃあ……私の第一印象、どうだった?」
そのときだけ彼の笑みがすっと静かになった。間を置かず用意していた言葉のようにぽつりと。
「綺麗だった」
即答だった。まるで、それ以外に言葉が見つからないような声音で。
私は思わず彼の横顔を見つめ返す。しかし彼は、こちらを見ようともせず、それでもどこか誇らしげに優しく目を細めて、ゆっくりと笑っていた。
「えっ、ちょっと待って。嘘でしょ? 冗談だよね?」
あまりに突然の言葉に思わず笑いそうになってしまった。でも彼は、まるでそれが当然だというように、真顔のまま頷いて言い切った。
「いや、ほんと」
「……」
「見た目の事だけ言ってるわけじゃないっすよ?あっ、見た目も、充分に綺麗ですけど」
「いいよ、フォローしてくれなくても」
照れ隠しのように口を尖らせると彼は少しだけ視線をそらしてから、静かに続けた。
「怖そうだった。でも……綺麗で、強そうで。」
「……」
「なのにどこか、寂しそうで」
その言葉に、思わずまばたきが増える。彼は、あのときから——いや、実はもっと前からそんなふうに、私を見ていてくれたのだろうか。
「だから……話したかったんです。あなたと」
「……」
「もっと、知りたくなった。あなたのすべてを」
その声はあまりに優しくて、でもまっすぐで、だからこそ、胸の奥にすっと入ってきて。あぁ、私は本当にこの人といるとブランコみたいに心が揺れてしまう。高く、低く、柔らかく。そして、ときどき、怖いくらいに。
すると彼は不意にポケットに手を入れ見覚えのあるものを取り出した。
「これ、今日も買ってきました。」
そう言って差し出しされた缶コーヒー。それはあの日、福岡の夜。彼が私にそっと渡してくれたものと、まったく同じだった。あのとき私は泣き出しそうな気持ちを堪えてその缶を受け取った。そしてあの夜の甘くてあたたかな味を今もまだ、舌のどこかが覚えている。
「……ありがとう。」
私が感謝を述べたあとふいに、彼の表情が変わった。夕陽に照らされたその顔には茶化すような軽さはもう、どこにもなかった。ただ真っ直ぐな眼差しで、私を見つめてくる。
「名前さん」
「……ん?」
「今日は——��はじめまして�≠チて言ってもいいです?」
胸の奥がふいに揺れた。そんなこと、言われるなんて思ってもいなかった。思わず小学生みたいな言葉が口をついて出てしまう。
「……なんで?」
「だって、もう一度ちゃんと出会いたいんで」
「……」
「ぜんぶ、一度、終わった俺たちだから」
「……」
「だからこそ……またここから、始めたい。」
その声は静かで、でも確かに熱を帯びていた。
「……ずるいなぁ、ほんとに」
私は、そう呟きながら笑った。空に滲む夕陽が目に染みて、でもそれがきっと今なら彼のせいにできる気がして、また笑えた。
風が通り抜ける。その気配のなかで、私は少しだけ姿勢を正し、彼に向き直った。
「——はじめまして。ヒーロー緊急支援センターオペレーターの、名字名前です」
手を差し出すと彼はほんの一瞬、照れくさそうに笑って、私の手をとった。
「はじめまして。こちら、ホークス。……通信、確認オッケーです。どうぞ」
二人の手が、そっと触れ合う。長いようで短いその一瞬。けれど確かにそこには、過去ではなく——未来があった。
「ホークス、あなたのこと……たぶん好きです」
その言葉に彼はふっと目を細め少しだけ視線を落とした。その背に生える剛翼の羽根が、静かな風を受けてわずかに揺れたような気配があった。そして、その羽音のように優しく、けれど迷いのない声音で、彼は言った。
「名前さん。俺は絶対に——あなたが好きです」
沈んでいく夕陽が、ふたりを赤く染めていく。けれど、その光の先にはもう夜ではなく、明日があった。過去に手を振ってもう一度はじめましてを交わしたふたりは、今度こそ、同じ方向を見ていた。
——きっと、大丈夫。風がそう、背中を押してくれていた気がした。
こゑのみぞ知る、きみの名は
(名前さん、キスしても?)
(まだダメ。早すぎ、展開が)
(じゃあ……抱きしめても?)
(……ちょっとなら、いいよ)
(はは。じゃあ、失礼して……はい、捕まえた)
(……)
(名前さん、大好きですよ。)
(私も啓悟くんが、大好きだよ。)
※image song
『 SAD SONG/ちゃんみな (from THE FIRST TAKE)』