残業もなく、いつもよりも少しだけ早く自宅へ帰って来た日。玄関に靴を脱ぎ捨て、リビングに鞄を置き早々にバスルームへ向かおうとしたそのときスマホが小さく震えた。着信だ。画面に表示された名前を見た瞬間、胸のどこかがそっとあたたまり、呼吸がゆるくほどけていくのを感じた。きっと彼からの着信は私だけのラッキーナンバーなのだろう。

「──はい、もしもし?」
『名前さん、こんばんは!今、大丈夫ですか?』
「うん、ちょうど帰ってきたとこ」

 電話越しの声は普段よりわずかに明るかった。その響きの理由は、すぐにわかる。

『実は明日オフ取れまして。金曜日。久しぶりに奇跡的に、です!』

 声に宿る抑えきれない嬉しさ。本当に珍しく、自由になれる時間なのだろう。そしてその貴重な一日を迷わず私に使おうとしてくれていることが胸の奥に静かにしみた。

『で、よければ……夜、ご飯にでも行きません?俺、そっち飛んで行くんで。んで、できれば帰りは泊まらせてもらって——』

 その言葉を聞いた瞬間、私は咄嗟に息を飲み、「……あ、」と、小さく声が漏れた。たったそれだけで彼は何かを察したのだろう。声のトーンが一気に急降下する。

『……え。まさか……予定あり、です?』
「ごめん……会社の子と飲み会があって。前から決まってて……」

 その途端、電話の向こうに、静けさが落ちた。風が止まったような一瞬の空白。そして、さらにトーンを落とした声で彼がこぼす。

『そっかー……いや、そりゃそうっすよね。名前さん、予定ありますもんね。忙しい人ですもんね、人気者ですもんね』
「……い、いや、」
『普通に、いろいろ、ある人ですもんねぇ……』

 意味深な言い方が可笑しくて、思わず苦笑してしまう。あからさまに、ネチネチしているのに、どうしようもなく愛らしい。

「ホークス……拗ねてる?」
『え?拗ねてないっすよ?むしろ、感心してます。ああ、ちゃんと予定入れてるんだなぁーって』
「……」
『人間的にまともで安心しましたよ』
「ねえ……皮肉すぎるでしょ」

 けれど、私はわかっていた。彼が本気で怒っているわけではないことも、ただせっかくの奇跡のオフを私と過ごしたかった気持ちが、すこしだけ肩透かしを受けているのも。

『まあ……しょうがなかねぇ〜……』

 電話の向こう、ふうと彼が息を吐く音がした。私も相手に聞こえないように、そっと息を吐く。

『交流、大事っすからねー。俺、そういうの否定しない派ですし……たぶん』

 最後にぽそっとついたその『たぶん』が、なんとも可愛すぎて、こらえきれずに笑ってしまう。だが彼は、かまわず言葉をつづけた。

『でもちょっとだけ期待してたんですよ?じゃあ二軒目から合流しようかーとか、言われないかなって』
「それは、近くに住んでる人同士の会話だねぇ」
『いやいや、俺なら二軒目がどこだろうと飛んで行けば秒ですから。たとえ東京と福岡でも飛んで行って合流できますし』
「めちゃくちゃで、わがままなこと言ってるって自覚ある?」
『ええ、めちゃくちゃあります』

 その即答があまりに潔くて、私はついに、声を上げて笑ってしまった。

『……いやぁ、笑ってますけど。』
「あはは、ごめんごめん」
『でも俺のオフってマジで少ないんで。ちょっとくらい、わがまま言っても許されません?』

 その声に滲んだ甘えと、寂しさと、まっすぐな��好き�≠ェ電話越しでもしっかり伝わってきて、胸の奥が静かに熱を帯びていった。

「……ごめんね。でも、今度ちゃんと埋め合わせさせてください」
『えっ?』
「次のホークスの休みは、空けておくから」
『ほんとです?じゃあ、信じますよ? ガチで』

 しばらく言葉のない時間が流れた。重くもなく気まずくもなく、ただ、すこしだけ足並みの違うふたりが、それでも離れず横に並んでいるような静かな間。

『……じゃあ、明日、楽しんできてください。』
「ありがとう。ホークスも、ちゃんと休んでね」
『ええ。たぶんスマホ見ながら、ふて寝してますけどね』
「……ふふっ」

 可笑しくて、でも、どこか愛しくて、やっぱり最後も笑ってしまう。そしてそのまま電話は特に問題もなく穏やかに終話した。
 しかし、まさかその翌日。思いがけない形で、あのヒーローに会うなんて。このときの私はまだ夢にも思っていなかった。


 *


 翌日の夜。時計の針が二度目の二十三時を過ぎ「もう一軒だけ寄っていきましょうよ」と会社の子に言われて足を運んだのは飲み屋街の喧騒から少し外れた裏通りにひっそりと佇む看板の灯りも控えめな、小さなカウンターバーだった。知らなければ通りすぎてしまいそうな店構えで木の扉を押すと、そこには、静けさの気配が満ちていた。
 天井のライトは低めに落とされ、ジャズとも、アンビエントともつかない旋律が空気の奥でひっそりと揺れている。声を張らなくても隣と会話ができるような落ち着いた距離。深い色をしたカウンターは奥まで一直線に続いていて、常連らしき人が、ぽつぽつと酒を楽しんでいる姿が見えた。

「いらっしゃいませ」

 グラスを磨いていたカウンター内の男性が穏やかな声で出迎えてくれる。すらりとした体つき、涼しげな目元、どこか丁寧で硬質な物腰——その横顔に目を留めた瞬間、胸がきゅっと冷えた。

「………、」

 ……あ。

 大学時代、短い期間お付き合いをして、短く、終わった相手だった。恨みもなければ大きな傷もない。ただ静かに連絡が途絶えて自然に終わっていった関係。淡くて薄くて、でも消えてはいない記憶の一欠片。彼は一瞬だけ私を見て、すぐに、微笑んだ。あの日と同じどこか大人びた微笑み。

「あれ、名前ちゃん? お久しぶり」

 名前を呼ばれた瞬間、時間がすこし巻き戻ったような錯覚に包まれた。私は笑う。あくまで大人の距離で社会的に、それでも丁寧に。

「久しぶり。まさか、こんなとこで会うなんて」
「だね。今、この店任されててさ。えっと……、何、飲みます?」

 差し出されたカクテルリストを持つ手が、あの頃と変わらず丁寧で、その姿を見ていると過去の自分と今の自分の境界が、ほんの少しだけ曖昧になる気がした。会社の子は、当然何も知らない。私に元カレがいたことも、それが目の前の彼だということも、今の私の心が別の誰かで満ちていることも。

「よかったら、オススメお作りますよ」
「え?」
「久しぶりだしね。お二人分、サービスで。」

 柔らかく笑うその表情につられて私も目を伏せ笑った。隣に座る会社の子は今にも眠ってしまいそうな夢見心地の声で「ラッキー」と呟き、そのままカウンターに突っ伏して寝てしまった。

「あらら。お疲れだったのかな?」
「みたいだね。一軒目ですごい飲んでたから」
「じゃあ、作るのは一杯でいい?」
「あ、うん。ありがとう……じゃあ、オススメ、お願いしようかな」

 そう言い返した瞬間だった。背後の扉がカランカランと鈴を鳴らして開き、風がひとしずく流れ込む。空気が変わった。まるで羽ばたきの気配が店内の静けさをそっと揺らしたように。
 視線を向ける前にわかった。そこにいるのが、誰なのか。ホークス。昨夜まで電話越しに拗ねて『まあ、しょうがなかねぇ』と渋々引き下がってくれた、あの、ヒーローだった。

「あらっ? 偶然ですね〜」

 変装こそしていたが、その笑顔は隠しきれなかった。彼の黒いサングラス越しに目が合った瞬間彼の笑みには、わずかに探るような色と躊躇いとそれでも私に近づいてきてしまう衝動が混ざっていた。

「ここ、空いてます?」

 そう言って迷いなく私の隣に腰を下ろす。二人の関係を隠しているのに、誰に見られるかもわからないのに、彼は、そんなことどうでもいいとでも言いたげな自然さで私の隣に座った。

「近くで飲んでるってわかってたら、もっと早く来たのにー」
「……え、待ってよ。どうして……いるの?」
「えー?どうしてって……もう、言ったでしょ。オフだって」

 ただの言葉なのに、隣に座る距離がいつもよりわずかに近い。彼の左手が、私の右手のそばに、そっと置かれる。触れてはいない。けれど、そのたった数センチの空白が、呼吸を奪うほど、熱を含んでいた。

「お連れさん?」

 カウンターの奥からマスターもとい、元カレが声をかけてきた。どうやらプロヒーローホークスだということには、気づいていないらしかった。よかった。私は笑って、曖昧にごまかす。

「……あっ、友達……というか、知人で」

 そう言った瞬間、胸のなかがわずかに痛んだ。彼——ホークスは笑ったまま何も言わなかった。ただ、メニューも見ずに「じゃあ俺、シャンディガフで」と、だけ告げる。その横顔はいつもよりずっと静かで、その沈黙が何より雄弁だった。

「なに、飲んでんすか?」

 横目だけで問いかけられたその口調はあまりに自然で、あまりに、さりげなくて。なのに——

「あ、えっと……私は、まだ。」
「まだって?」
「う、うん。サ、サービスで……カクテル、作ってくれるって」
「へえー、やさしいですね。──誰にでも?」

 その問いかけにマスターが、肯定とも否定ともつかない笑みを返す。彼も合わせて、作ったような笑みを返していた。しかし、私は気づいていた。彼の声には紛れもない嫉妬が滲んでいることに。それを思うと、どうにも喉の奥が詰まって仕方がなかった。

「——はい、どうぞ。名前ちゃんスペシャル」
「わ〜、綺麗。素敵な色だね、美味しそう」
「ありがとう。なんか昔からイメージカラーが、そんな感じだったから」
「わー、いいっすね。名前ちゃんスペシャル」
「……、何かあったら呼んでね。ごゆっくり」

 マスターは曖昧に笑みを返してから、あえて、私だけに向けるようにそう言い置き常連客のいるカウンターの端へと隙のない足取りで向かった。
 きっと気づいている。目の前にいた彼がただの店員ではないことに。かつて近しい関係にあったことを。けれど彼、ホークスは追及しなかった。責めることもしなかった。ただ隣にいて静かに、アルコールを飲むだけ。なのに私の手元のグラスを見つめる視線だけが、いつもより真っ直ぐで、鋭くて、なんだか痛いほどだった。

 私はあの夜、彼の寝息に溶けるように「好き」と伝えた。けれどあの囁きはきっと眠りの境界線の向こう側に落ちていって、彼の耳には届かなかったのかもしれない。届かないまま、そっと朝の光に消えてしまったのかもしれない。
 でも、それでもいい。なぜなら今夜、こうして私の隣に座って、グラスを静かに揺らしながら、気づけば私の空気を吸うみたいにすぐそばにいてくれるこの人は間違いなく誰よりも私の��今�≠ノいるからだ。その事実が、届かなかったかもしれない囁きよりずっと明確で、胸の奥にあたたかく灯り続けていた。


 *


 久しぶりに奇跡みたいにオフが取れた金曜日。本当なら昼間からゆっくり羽を伸ばして、好きなコーヒーでも飲んで、やっとできた休みを休日として味わうはずだった。なのに、蓋を開ければ、俺は昼から何度もスマホを開いては閉じてまるで落ち着かない子どもみたいに時間を潰していた。
 彼女の予定はわかっていた。会社の子との飲み会。前から決まっていたこと。それでも、ほんの少しくらいなら連絡がくるんじゃないかと連絡が来るかもしれないと、期待してしまっていた。
 情けない話だが俺という個体は、彼女の��かもしれない�≠ノ弱い。その��かもしれない�≠ノ救われて、その��かもしれない�≠ノ、振り回される。

 気がつけば、彼女のいる地に飛んできていた。
 時計が二十三時をすぎ、ヒーロー仲間と、軽く飲んだ帰り道。ふらりと入った裏通りで、視線の先にあの店の扉が開くのが見えた。なぜか、導かれるみたいに目が向いた先に、彼女がいた。知らない空気のなかで、知らない過去と並んで笑っていた。その瞬間、心臓が一拍、本当に止まった。でも、次の拍動が戻ったときには、身体が勝手に動いていた。

「あらっ? 偶然ですね〜」

 何も知らないふりをして、何食わぬ顔で彼女の隣に座った。会社の子らしき人物はすでに酔って眠っていて、彼女の隣には、心配する必要もなさそうだったけど本当はあんな場所に彼女の特別(・・)として現れるなんて、最も避けるべき行為だった。でもそのときの俺は��ヒーロー�≠カゃなかった。ただの男。彼女の横に座る権利が、誰に知られてなくても、世界のどこにも書かれていなくても、自分にはあると、どうしても信じたかった。

 カウンターの中にいた男性——彼を見た瞬間、全て悟った。こういう勘は変なところで当たる。視線の交差、名前を呼ぶ声に滲む、古い親しさ、彼女が一瞬浮かべた驚きとも戸惑いともつかない微妙な表情。ああ……元カレ、なんだなーって。
 驚きはなかった。こんなに素敵な人に、過去の恋がないなんて思っていなかったから。それでも胸の奥が、ぎゅっと縮むように、苦しくなった。
 彼女が俺のことを「知人」と言ったときそれはきっと今のふたりに必要な距離だった。必要で、正しくて、守らなきゃいけない線。なのに、その線が胸のどこかを静かに崩したのも確かだった。

「……誰にでも?」

「わー、いいっすね。名前ちゃんスペシャル」

 口から勝手にこぼれた言葉。声に出した瞬間にどれだけ小さくてどれだけ情けない嫉妬だったか自分でもわかった。グラスの中で、泡が弾ける音だけが、やけに耳に残る。本当は手を握りたかった。名前を呼びたかった。『俺の彼女です』と、堂々と言いたかった。でも、それができないのが俺たちの現実で——。
 彼女から、まだはっきりと「好き」って聞いていない。もしかしたら、言ってくれていたのかもしれない。寝息と一緒に溶けて、俺が聞き逃しただけなのかもしれない。それでも、俺にはまだ、届いていない。だから今は、ただ彼女の��今�≠フ隣に座ることでしか存在を示せなかった。彼女の過去の前で自分が��今�≠ナありたいと願うだけで精一杯だった。
 せめて、帰るときまではちゃんと隣にいたい。たとえ彼女が会社の子と一緒でも、あの店を出る瞬間だけは俺が彼女の��今の隣�≠ナいたかった。いつかきっと、ちゃんと名乗れる日が来るなら。そのときは堂々と彼女の名前を呼ぶ。誰の前でもためらわずに。その日が来るまで、この胸の奥に静かに渦巻く、聞こえない想いを信じて待ち続けたい。

 でも、この夜だけは。少しくらい独占しても、いいですよね、名前さん。
 子どもだ、嫉妬深いね、って笑ってください。だって俺は、あなたがこんなにも、好きだから。


 *


 店を出てすぐに私は、逃げるように足を速めていた。会社の子とお店の入口で別れ、飲み屋街の灯りが途切れて、小さな通りに出るまでのほんの数十歩の距離ですら彼と並んで歩くことが、どうしようもなく苦しく感じられた。
 胸の奥に、さっきの店内の空気がまだまとわりついている。だけど背後に聞こえる一定のリズムの足音が誰のものかなんて、振り返らなくても、わかっていた。

「……ホークス、」

 ふり返らずに呼びかけた声は自分でも驚くほど低くて、弱かった。返事はない。ただ、彼の足音だけが確実に、私を追ってくる。

「バレちゃうから……追いかけてこないでよ」

 反射的に吐き出したその一言は口に出した瞬間自分の胸に刺さった。止めればよかった。こんな言い方、するべきではなかった。だけど足だけが止まらない。
 心の整理がまるでつかずに、みっともないほど焦っていて。そのとき後ろの足音がぴたりと止まった。その沈黙がどんな意味を持つのかは、振り返らずとも空気が教えてきた。

「……そっか。バレたら困る——ですか……」

 風に押されて届いた彼の声は、ひどく静かで、ひどく冷たかった。いつもみたいに、軽く笑って誤魔化すような声音じゃない。あの、感情をそぎ落としたときのような声質だった。私はようやくゆっくりと足を止める。

「ご、ごめん……そういうつもりじゃ——」
「じゃあ、どういうつもりだったんです?」

 振り返った先、間を置かずに彼の声が刺さる。夜風が吹くなか、胸の奥が痛く震えた。

「名前さん、俺に��秘密でいるべきだよね�≠チて前に言ったじゃないですか」
「……う、ん……」
「でも今日。俺が隣に座ったとき、友達じゃなく知人って」
「……」
「さすがに、そんなふうに、遠い存在として紹介されるとは……正直、思ってなかったんで」
「……」
「俺なりにちゃんと変装して行ったんすけどね」

 彼の声には怒鳴る色も責める響きもなかった。ただ淡々としていて抑揚がなくて、その無色さがかえって胸を締めつけた。

「俺、堂々と隣に座ったつもりだったんですよ。別に触れてないし、何も余計なことだって言ってない」
「……」
「ただ、名前さんがそこにいたから。それだけで隣にいたんです」
「……、」
「深い意味なんてなくて。ただ……あなたの隣にいたかった」

 静かな沈黙が落ちた。本当は、誰も傷つけない方法だったはずの選択。でも私のさっきの言葉はその彼の��選択�≠�、正面から否定してしまっていたのだ。

「……ねえ、」

 視線を落とすしかない私に、ふいに彼が、問いかけた声。私はそれに小さく身を強ばらせた。

「もし俺じゃなくて、あの元カレ(・・・)だったら——」
「……」
「隣に座られても��バレちゃう�≠ネんて、言わなかったですか?」

 心臓が脈を打った。彼の声の奥に苦さと皮肉とヒーローではない、男の本音が混じっていた。

「なんで俺じゃだめだったのか、聞いてみたい」

 言い方は優しかったのに、声の底に確かに傷があった。追及するつもりなんて、なかったのかもしれない。でも、あの店でのやり取りが彼の胸に確実に傷を残してしまっていた。私は顔を上げて初めてその顔を見た。街灯の光の下で立ち尽くす彼は余裕も軽やかさも全部を脱ぎ捨てた、ただの私と同じ、一人の人間の姿だった。
 どうして私は、あんな言い方をしてしまったんだろう。ただ、バレたら困ると、怖くなっただけだったのに。彼を、守りたかっただけだったはずなのに……。

「はぁ。ダンマリすかぁ……」

 ……違う。なんでとか、あなたじゃダメだったとか、そんなことは決してなくて。私は彼が恋人だと名乗れない関係を、どこかで、後ろめたいと思っていたのだ。私の胸の奥にあった臆病さが、醜い言葉になって彼を刺した。気づいた瞬間に、息が苦しくなった。一歩、彼へと近づく。彼は、動かなかった。ただまっすぐに私の顔だけを見ていた。たったひとこと、謝ればよかった。でも、言葉にしたら何かが壊れてしまいそうで私は声が出なかった。
 私は彼の前に立つだけしかできなくて。夜風が彼の羽根を、ふわりと揺らした。このまま黙って歩き出せば、きっと、取り返しがつかなくなる。どちらかがほんとうのことを言わなければ、この夜は終わらない。でもその一歩が踏み出せない。さっきの一言が、まだ自分の胸の奥で痛んでいたから。

『なんで俺じゃだめだったのか、聞いてみたい』

 あれは、冗談じゃなかった。本気で、傷ついていた。私は謝りたかった。バレたら困るなんて、そんなこと本当は、思っていないと。ほんとうにあなたを守りたかっただけなのにと。でも、私が言っても安っぽく聞こえそうで、やっぱり上手く言葉にできなくて、喉の奥で詰まっていく。

「……だって、」

 気づけば口が勝手に動いていた。酔いのせいでいつもよりずっと強い声音だったと思う。

「だって……公にできないって空気出してたのはホークスのほうも、でしょ……」

 謝罪とは程遠い逃げの言葉。責任転嫁。最悪の一言だった。彼の瞳が一瞬だけ細められて、そのまつげが、わずかに伏せられた気がした。

「待ち合わせだって……ここじゃないとダメって場所ばかり選ぶし」
「……」
「人目があると急に繋いでた手を、離されるし」
「……」
「私、ちゃんと彼女でいようとしてるのに……。なんかいつも、どこか遠くにいるみたいで……」

 言ってしまったその瞬間、自分の手が、震えていることに気づいた。でももう止まらなかった。

「だから……今日、隣に座ってきたことだって、嬉しい反面、どうしたらいいかわからなかった」
「……」
「今も、私ばっかり責められてる気がして……」

 伝えた言葉はぐちゃぐちゃだった。でもそれが私の正体だ。醜くて弱くて、臆病で、愛しているのにうまく言えない自分そのもの。彼はしばらく黙っていた。夜の音だけが、二人の間を流れる。

「ああ、なるほど……」

 ようやく納得したらしい彼の声には、怒りも、皮肉もなかった。ただ、静かで、ため息のようでいて、どこか、遠い。

「……すみませんでした。俺、名前さんのためにやってたつもりだったんですけどね」

 それは、彼が一歩だけ身を引いた音だった。

「……じゃあ、もういいっす。今日は帰ります」
「……、ホークス……」

 呼び止めようとした声は弱すぎて、伸ばそうとした手は、空気をつかむことさえできなかった。羽根は広がらず彼の背中はただ静かに遠ざかっていく。灯りが冷たく見えた。風が、痛かった。
 ほんとうは『好きだよ』って、今日こそ直接、言うべきだったのに。どうして私はあんな言葉を選んでしまったんだろう。一歩届けばよかった。一言伝えればよかった。それができない私たちはきっとまだ、��恋人�≠ノなりきれない、不器用なふたりだったのだろう。


 *


 翌日。気分転換に外に出て、コンビニで買ったペットボトルの冷たさが、まだ指先に残るまま、エレベーターの中でそっと、スマホを確認した。通知はなし。その二文字すら表示されない沈黙が思っていた以上に胸の奥をざわつかせた。
 昨日の光景が、気づけば身体の内側で、何度もループしている。

「バレちゃうから……追いかけてこないでよ」

 あんな言い方、ほんとうは、いちばん言ってはいけなかった。彼を守りたかったはずがあの瞬間の私はまるで彼の存在そのものを否定したみたいだった。謝りたかった。傷つけるつもりなんて、なかったと伝えたかった。でも口を開けば自分の不満や弱さばかりが先に出てしまいそうでそれを恐れているうちに、ふたりは昨夜、他人のように背を向けて別れた。
 朝、目を開けたとき。昼間、コーヒーを飲んだとき。窓を開けて、風に揺られているとき。ふとした拍子にスマホを開いては、来ていない通知を眺めてまた閉じる。そのたびに期待してる自分に気づいてしまって自己嫌悪に似た情けなさが胸の底に沈んでいく。

「連絡……ないかぁ。」

 わかっていた。彼が黙っているのは怒っているからじゃない。彼は、怒りをぶつけるタイプじゃない。むしろ私の方こそ彼の沈黙に甘えてきた。これはきっと傷ついたときの彼なりの距離の置き方だ。だから本当に私から言うべきだと思った。怖くても、言葉がうまく選べなくても、逃げずに触れなきゃいけない距離なんだと思った。私は、メッセージアプリを開き、指先で文字を綴る。


 ――――――――――――――――

名前

昨日はごめんね。
疲れてない?



 ――――――――――――――――


 見た目だけは気負わない一見軽い言葉。けれどその短い文にどれほどの情けなさや後悔や臆病な愛情を詰め込んだか、自分でわかっていた。すぐ既読がつくと思った。いつもなら、そうだった。

「既読、一生つかなかったりして……」

 彼は、だれよりも早い返事をくれる人だった。それなのに数分経っても画面は沈黙を続け、冷蔵庫のモーター音だけが、妙に大きく耳に刺さる。テレビをつけても内容は流れて込んでこず部屋の隅に落ちる影ばかりが濃くなっていく。スマホは静かなまま。まるで、それ自体が私を責めてくるようで……。

「……何してんの、私……」

 ソファに沈み込んで、天井を見上げる。連絡が途絶えるのは彼にとっては特別なことではない。任務に出れば丸一日、いや二日だって連絡が取れないことはあった。でも、理由はいつも、世界を守るためだった。だが今は違う。沈黙の理由が、紛れもなく「私」だということが、どうしようもなく、胸に重くのしかかる。
 嫌われたかもしれない……そんなふうに考えてしまう自分が、とても幼稚で、でも同時に、彼を大切に思っている証拠でもあるように思えてしまって、余計に苦しくなる。

 昨日、あと一言「好きだよ」と言えていたら、何か違っただろうか。いや、それを言う勇気がなかった臆病さこそ、いまのこの沈黙を生み出しているのだと思った。
 夕陽がカーテン越しに部屋を薄く染め始めてもスマホの画面には何の変化もなかった。あの人はいま、どこで風に吹かれているんだろう。剛翼の赤い羽根は、ちゃんと動いているだろうか。私の言葉で止まったりは、していないだろうか。
 「ごめんね」の次の言葉が「好きだよ」なら、良かったのに。それさえ言えない私は今日もただ光らない画面を見つめていた。


 *


 夜は、どうしてこんなにも長いのだろう。外の世界は、いつの間にか闇に沈んで、マンションの灯りだけが魚の群れのようにぽつぽつと浮かんでいる。
 スマホを見る。伏せる。また、見る。伏せる。通知音は切っているのに、その沈黙が、逆に音になって胸の奥を叩いてくる。

『昨日はごめんね。疲れてない?』

 この一文が、どれほど取り繕われた表情をしているか自分が一番よく知っていた。本当は「寂しかった」とか「会いたいよ」とか「好きだよ」とか吐き出したい言葉は山ほどあった。それなのに抑えて、抑えて、あの短さにまとめてしまった。二十時が過ぎても返事はない。二十一時になっても既読はつかない。既読がつかない時間だけが、やけに増えていき、その間にSNSのタイムラインでは、彼のヒーロー活動の小さな更新が流れる。

 ——元気そう。

 たったそれだけで、胸の奥が、きゅっと縮む。こんなふうに思う自分が嫌なのに、どうしても、止められなかった。涙が出るほどの大事件なんて何も起きていないはずなのに涙は出てきた。声も立てず音も立てず、誰にも気づかれないように。
 彼にとってはほんの一日なのに。私にとっては返事の来ない一日になってしまった。震える指でもう一通だけ、メッセージを打つ。


 ――――――――――――――――

名前

私のこと、嫌いになっちゃった?



 ――――――――――――――――


 無意識に送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ね上がった。ああ、私って、こんなにも女々しい女だったんだ……と、自嘲にも似た感情が喉の奥をかすめる。本当は送りたくなかった。でも、耐えられなかったから。胸の中で彼の沈黙が広がっていくのが、怖かったから。
 しかし今度は10秒も経たないうちに、スマホが震えた。しかもメッセージではなく、コール音。鳴り響くその音のひとつ一つが胸を締めつける。私は深く息を吸って、震える指先で通話ボタンを押した。


 ――――――――――――――――

名前

私のこと、嫌いになっちゃった?



 ――――――――――――――――


 その夜——彼女から届いた短いメッセージが、画面に映し出された瞬間、胸の奥で、鈍い衝撃が走った。嫌いになる?……俺が、あなたを?
 思うよりも早く身体が反応した。自分でも信じられない速度でスマホを掴んで相手に電話をかけていた。そこに、ヒーローとしての冷静さなんて一切なかった。��速すぎる男�≠ニ言われているが故にコールの音が鳴る数秒が、どうしようもなく長く感じた。

『は、はい……』
「……っ! 名前さんっ!?」

 繋がった声はかすかに揺れていた。泣きそうで泣くまいとして喉の奥がきゅっとつまったような声。その瞬間、それまで必死に押さえ込んでいたものが全部ほどけて、気づけば口が勝手に叫んでいた。

「俺の片思い歴、なめんでくださいよっ!」

 言った瞬間、あまりに本音すぎて自分で自分に驚いた。心臓がうるさい。でも止まれなかった。

「ずっと好きだったんですよ、俺!あんな一言で嫌いになるわけないでしょうが!」

 電話越しで、彼女が小さく息を呑んだ。驚いているのがわかったけれど、それでも止められなかった。胸の奥が痛くて、その痛みのまま、言葉があふれてくる。

「ほんとうは、すぐにでも連絡したかったんです。でも俺、どう整理すればいいかわからなくて」
『……』
「ちょっとだけ、考えたかったんですよ」

 『考えたかった』なんて、この流れで言ったら彼女が不安になるのは、わかっていた。それでもこの人に、嘘だけはつきたくなかった。

「……あなたが、バレたら困るって言ったとき。ああ……俺ってまだ信頼されてないんだなって、思っちゃって」
『ちがうよ……』

 その声があまりにも弱くて切なげで、胸が締めつけられた。自然と眉間にもシワが寄る。

「わかってます。頭では、わかってるんです。でも言われた瞬間……それしか、浮かばんかった」
『……』
「俺……どこまで近づいていいのか、わからなくなったんです」

 言葉にした途端、胸の奥が、ずきっと痛んだ。本当にそうだった。昨日の路地裏で、彼女が少しだけ距離をとったそのたった一歩が自分の中では驚くほど深い溝に見えてしまっていた。
 電話の向こうで、彼女が黙り込む気配がする。同時に、息を整えようとしている気配も。だからこそ次の一言を言うとき心臓がひどく重かった。

「……ほんとに、少しだけでいいんで。」
『……』
「ちょっとだけ、距離を置かせてもらっても……いいですか」

 こんなこと、本当は言いたくはなかった。でも言わなきゃ同じところでまた傷つけ合うと思ったから——。

「安心してください、嫌いじゃないですよ、ほんとに。」
『……』
「でも、好きだからこそ、ちゃんと整理したいんです」

 それが俺にできる唯一の正直さだった。言葉が静かに切れたあと、耳の奥に、彼女の泣きそうな『……うん』という声だけが残った。その一言が夜のなかで、ずっと反響していた。
 羽根を広げる気力も夜風に乗って飛び立つ気も生まれないまま、ただ胸の奥に沈んだ痛みだけが彼女の声の余韻とともに静かに残りつづけ、どれだけ目を閉じても、この夜が、終わってくれない気がした。


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