カーテンを閉め切った部屋のなかで、スマホの小さな光だけがやけに強く浮かび上がって、その光が、胸の奥のどこか痛い場所をじわじわ照らすようだった。
 ホークスからの電話が静かに切れたあと、私はそのままソファの上で膝を抱え、部屋のどこにも属さないような姿勢のまま固まっていた。テレビの音も、冷蔵庫の規則的な稼働音もすべてが遠い世界のノイズのように感じられた。


 『距離を置かせてもらっても、いいですか』


 その言葉が静かな部屋のなかを何度も、何度も反響していた。彼は優しかった。責めなかった。冷たくもしなかった。だから、悲しかった。嫌いじゃないってちゃんと言ってくれた。整理したいだけだと、まっすぐ伝えてくれた。それなのに、どうしてこんなにも、胸が痛むのだろう。
 指先が震えていた。触れたかったものに、あと少しのところで、自分から手を引いたみたいな、そんな感覚。彼の羽根が私の目の前で、ふわりと揺れて、そして、消えてしまったような喪失感。でも、わかっていた。今は、そっとしておくしかないってことを。これ以上追いすがれば彼が自由でいること自体を壊してしまいそうで、行き場のない想いを抱えたまま、私は静かに決めた。待つことにしよう、と。
 待つことは、これまでも何度もしてきた。彼が任務に出て風の音だけが頼りの日だってあった。返信が遅れる日も、音信不通になる夜も。だから待つことしかできない自分を、嫌いになりかけていたけれど、もしかしたらそれが私の知っている唯一の愛し方だったのかもしれない。

 窓の外では深夜の街が淡く息づいていて遠くに光るビルの明かりが、まるで、彼の羽根の先端についていた微弱な光の粒を思い出させた。今夜の空は、不思議なほど広く見えた。空気そのものが彼の飛んでいる気配を薄い記憶として抱きしめているようで。
 彼がまた戻ってきてくれるなら、私は、ここにいる。何も変えずに、彼を待っている。だって、好きだから。それを、やっと自分の言葉で言えてしまった夜だった。


 羽根が、重い。ヒーロー活動を終えて、戻ってきた身体は、まだ街の冷たい空気をまとったまま何をしても落ち着かない、何か別の生き物のようだった。部屋の明かりをつけても笑い声は返ってこない。電話越しの彼女の気配が、ここに響いていたのは、いつの夜だっただろう。
 「距離を置きたい」──そんな言葉を、自分の口から出したとき、本当は胸のどこかがちぎれるように痛んでいた。それでも言ったのはあのままだったら彼女がまた苦しくなる気がして逃げ道のない場所に追い込んでしまいそうで、自分なりに考えた末の��誠実�≠セった。

 ベッドに倒れ込むと背中の羽根が何枚かだらりと横にこぼれた。会いたい——ただ、それだけ。酔っていた顔も、泣きそうに潤んだ目も、笑いながら見せたあの強がりも喉の奥がかすかに震えるような「大丈夫」の声も。どれもこれも思い出すたびに胸の奥があたたかく、そして同時に痛む。触れたいのに触れられない距離が不自然に思えるほど、近くて遠い。
 「考えたい」と言ったのは確かに自分だった。そのくせ、離れてみたら、こんなにも寂しくなるなんて、まったく想定していなかった。
 スマホを開く。そこには、返信しないままの、たった一行。


 『私のこと、嫌いになっちゃった?』


 胸の奥がきゅっと掴まれた。どうして、こんなこと言わせたんだろう。どうしてこんなに不安にさせてしまったんだろう。
 目を閉じると、誰もいない部屋は静かすぎて、彼女の声がどこかから響いてきそうで慌てて耳をふさぎたくなる。
 もし、いつも通りだったらこの時間には「おやすみなさい」とメッセージが届いていた。俺は、それにふざけた絵文字を返し彼女が呆れた返事を打ってくれるのを待つ。それが二人で作り上げたごく普通の夜のかたちだった。
 ──好きだ。誰よりも。人として、一人の女性として、彼女という存在を、どうしようもなく、愛している。彼女が隣にいることが、こんなにも当たり前だったなんて今日、初めて思い知った。

 会いたい。でも、まだ会えない。距離がすこし開いた夜だからこそ、触れられない沈黙を抱きしめる必要がある。窓の外の空も、星も、月も見えない夜。けれど、そんな闇の中でこそ心は静かに鍛えられていくのだと信じたかった。
 ただひとつ願う。この沈黙が、ほんのすこしのあいだだけで終わってくれますように、と。


 *


 スマホの通知音が鳴ったのは、仕事が休日の、午後のことだった。洗濯機が低く回転する音を、背中で聞きながら、私はカフェオレの湯気を手のひらで包み、何気なく、ソファに腰を落ち着けていた。そのとき、画面に表示された名前を見て、呼吸が浅くなる。
 ——大学時代の、元カレだ。あのバーで偶然、遭遇して以来やりとりは一度もなかった。だからこそ、唐突な通知に、鼓動がひとつだけ、無防備に跳ねてしまったのだ。

『前に借りたままになってたCD返したいんだけど
住所わからないからどこかで渡せたらと思って』

 文面は淡々としていて、誠実そのものだった。やましさも未練も、気配すらない。だから余計に迷った。ただのCD。何年も前に貸したまま忘れていたような物。受け取る必要もない。でも、断る理由も──ない。

「え……どうしよう。」

 けれど、この戸惑いは物の受け渡しだけの問題じゃなかった。あのヒーローの声の抑揚、沈黙のわずかな重さ、あの夜ふと見せた傷に似た表情。そのすべてが私の中でまだ片づけきれず積もったままだった。そしてふいに胸の奥で名前が響く。
 ホークス──。その名を呼ぶだけで、胸の奥がうずいた。まだ、距離を置いている。ちゃんと、話していない。でも、こんなときこそ隠しごとはしたくなかった。弱いところを見せたくない相手ほど、正直にいたかった。私はスマホを握りしめメッセージアプリを開く。


名前

突然、連絡してごめんね


名前

ちょっと変な話なんだけど
この前偶然会った知人から
連絡がきて昔貸したCDを
返したいって言われてて


名前

どうしたらいいか
正直わからなくて。
距離を置いてるのに
こんな連絡してごめんなさい






 送信ボタンを押した瞬間、指先が、すっと冷えた。既読はすぐにはつかない。きっと今ごろ彼は空のどこかで世界の一部を守っている。
 時間だけがぽつぽつと進んでいく。そうして、二時間ほど経った頃、ようやく通知音が鳴った。


ホークス

すみません
任務中で返事が遅くなりました


ホークス

名前さん
それ会わないでほしいです


ホークス

知人っていうか元彼ですよね?


ホークス

そんなん俺が買ってあげますから


ホークス

CDだろうと
カセットテープだろうと
レコードだろうと
そんなのなんぼでも


ホークス

だから会わないでください






 文字にこめられた息づかいが伝わってきて私は心臓をぎゅっと掴まれたような気持ちになった。なんとも彼らしい。子どもみたいな勢いと、どうしようもなく不器用で真っ直ぐで、少しだけ幼い確かな��好き�≠フかたち。なのに私はまだ迷っていた。だって、彼とはまだ『距離を置いている』途中なのに。
 彼は彼氏としてじゃなく、ヒーローホークスとして、その言葉をくれただけなのかもしれない。私は、どう応えればいいんだろう……ただ、彼の気持ちを受け止めるだけでいいのか、それとも、「まだ私たち整理できていないよね」という事を突きつけるべきなのか。けれどひとつだけ確かなことは、彼が私に正直でいてくれたこと。それがなにより、嬉しかったこと。そして私も今それに応えられたことが少しだけ、彼との関係にあたたかさを取り戻してくれたことだった。
 答えはまだ出ない。けれど、もう、逃げるのはやめよう。あの、美しく強い羽根が、いつか私のもとに戻ってくる日を信じて——。

 メッセージアプリの画面を見つめたまま、私は長いこと動けずにいた。それでもホークスからの返信は、まっすぐだった。

『そんなん俺が買ってあげますから』
『CDだろうと カセットテープだろうと レコードだろうと、そんなのなんぼでも』
『だから、会わないでください』

 そう言ってくれる彼の気持ちはきっと過保護で不器用で、でも、それ以上にちゃんと私を想ってくれているという証の何ものでもなかった。彼はまだ距離を置いているという前提のなかで、それでも自分の感情を押し殺すことなく��お願い�≠フように、私に言ってくれた。私はその気持ちを、裏切りたくなかった。
 スマホのキーボードに指を滑らせる。打ち込んでは消して、また、打ち込んでは消して、たどり着いた言葉は、意外なほど短かった。


名前

わかった。会わない






 すぐに既読がついた。胸の奥で、なにかがきゅっと沈む音がした。切なくても、触れたくても、もっと近くで息遣いを感じていたくても、いまはその弱さを、見せるわけにはいかない。せっかく残った、この小さな幸せのカケラだけは、たとえ指先が震えていても壊さないように、そっと心のいちばん奥にしまっておこうと思った。そうでもしないと私はきっと今夜も、泣いてしまうから。


名前

私が貸したものだから
手放すだけ


名前

買い直す必要もないよ
ありがとう






 ��ありがとう�≠ニいうその一言には、彼が私のために不器用に焼きつけてくれた優しさも嫉妬も独占欲もその全てに対しての感謝を込めたつもりだった。送信ボタンを押したあとは、もう何も、求めなかった。既読も返信もいらないと思えた。ただ彼のあたたかさに、ようやく心が追いついてきた気がした。


 *


 そうして迎えた金曜日。あの夜からちょうど、一週間が経っていた。彼に、会いたいと思った。でもそれはこちらから言い出すことではない気がして。
 ふたりの間で揃えそこねていた小さな羽根を、一枚ずつ丁寧に拾い集めるようにしてただ静かに夜を迎えようとして、そして、午前零時を過ぎた頃だった。インターホンが乾いた音を立てて鳴った。こんな時間に。こんな夜更けに、彼以外ありえないと、身体の奥が先に理解していた。
 玄関の扉を開ける。濡れた羽根を背に少しだけ肩を落としたマイヒーローがそこに立っていた。


 足が勝手に向かっていた。何も考えずに、ただ風をたどるように。背負う羽根の感覚が、彼女のいる方角を指していた。
 「少し距離を置かせてほしい」なんて自分から言ったくせに。こんなふうに、勝手に会いに来るなんて。格好悪いって自分でも思っていた。でも彼女の『わかった。会わない』との返信が届いてから、胸の奥がぎゅっと詰まって、これ以上何を待てば心が決まるのかがわからなくなっていた。
 この人を失くしたくない。ようやく、ちゃんと思えた。誰と連絡を取っていようが、何を貸していたかなんて、正直どうでもいい。大事なのは、この人が、俺のもとへ戻ってきたいと思ってくれるかどうかだった。

 インターホンを押す指が少し震える。けれど、その扉が開いた瞬間──室内からこぼれた灯りのなかに、ずっと思い描いていた顔が、ほんとうにそこにあった。

「……こんな時間に、すみません」

 雨で濡れた羽根を畳みながら苦笑する。彼女はなにも言わずに、ただ黙っていた。その沈黙が、かえってあたたかかった。

「言ってたくせに……ですよね。距離を置くとか整理したいとか」

 苦笑しつつも、俺は言葉を探しながら、彼女の目を見た。彼女から、目を逸らせずにいた。

「でも、あれ、もう限界です。距離とか……やっぱ無理でした」
「……」
「会えない時間が長すぎました。だから俺──」

 言葉がうまくまとまらない。ぐちゃぐちゃだ。でも、本音はただ、ひとつだけだったから——。

「あなたに……会いに来ました。」

 まるで映画のタイトルのような響きで、思わず自嘲する。沈黙。でも、それはもう、重たいものではなかった。彼女の肩がわずかに揺れる。俺は呼吸をひとつ整える。

「ちゃんと、考えましたよ。整理もした。んで、結論、出ました」
「……」
「俺、名前さんの隣じゃなきゃ、だめです。」

 彼女は、ほんの少しだけ目を伏せて、それからゆっくりとうなずいた。

「……あのね、わたしも、そう思ってた。」

 その声は小さかったけれど、俺のなかでは空を割るような大きな音だった。背中の剛翼がふわりと揺れる。もう彼女に触れてもいいと、許された気がして。
 そっと、手を伸ばす。指先が彼女の頬に触れたとき、やっと戻ってきた気がした。長かった夜がようやく明けようとしていた。


 彼が部屋に入ってきたとき、私は言葉を失っていた。わざとらしく軽い声も飄々とした微笑みもなく、ただ「会いに来た」とだけ言った彼の瞳に冗談も防衛線もなかったからだ。
 そのまま彼を中へ招き入れ、ふたりでソファに座った。すぐ隣にいるのにどこかまだ心の距離がふわりと漂っていて。心がそっと寄り添う準備をしている時間がくすぐったいほど愛おしかった。でもそれは苦しさではなく緊張でもなくほどける直前の糸のような、糸が互いの手の温度であたためられていく、静かな予感だった。すると彼が、ふいに言った。

「……もう、離れませんからね」

 その静かな宣言が、胸の奥に落ちて、じわりと灯りになった。でもその響きは鼓膜よりもずっと奥。胸の真ん中に、やさしく届いた。私は、何も言えなかった。言おうとしていたのに言葉がうまく形にならなくて。けれどもう逃げたくなかった。だから勇気を振り絞って、彼をまっすぐ見つめて言った。

「……好き、だよ。大好き。」

 声は小さく震えていたと思う。でも、ちゃんと自分の口から出た。ちゃんと、彼に届けた。その瞬間、彼の瞳の奥が、はっきりと揺れた。

「……やっ、ば。」

 と、彼は小さく呟いた。ほんの少し目を伏せてそれから唇を噛んだような仕草をしたあとまるで堰を切ったように、そっと、けれど確かに、私に身体を寄せてきた。

「……キス、していいですか」

 その言葉の甘さに喉がひくりと熱く鳴る。私は突然どうしてこんな展開になったのか理解できず瞬きを繰り返して、言葉を詰まらせる。

「え……、」
「キスです」
「は、はぁ……」
「して、いいです?」
「う……うん、」

 それだけで、彼の唇がそっと触れた。最初は、おそるおそる重ねるように羽根の先で撫でるような優しいキスだった。でもすぐに彼の唇の温度が上がるのがわかった。角度を変え、深さを変え、くちびるの形をなぞるように何度も重ねられる。

「わかってないですね、名前さん……」
「……、」
「……好き、なんて聞いたら、そんなん、止まんなくなりますよ」

 かすれた声が落ちてくる。次のキスはもうためらいがなかった。吸い寄せられるように唇を重ね舌先が、そっと触れる。奥まで届かない、けれど求める熱だけは伝わる、焦らすようなキス。私はされるがままだった。でもそれは無力さではなく彼に全て預けてもいいと心が決めたからだった。

「……名前さん、」

 キスの合間に囁くような声とともに首筋に熱が落ちた。喉のラインを辿るようにゆっくりと唇が触れる。

「ずっと、触れたかったです。ずっと……」

 耳のうしろ、えりあし、首をたどって、鎖骨のすぐ上。やわらかなところに、彼の熱が重なっていくたびに身体がじんわりと熱を帯びていく。

「ホ……ホークス……ちょっと……、」

 彼の胸を軽く押して息を漏らすと、その声すら彼の口づけに塞がれてしまった。

「キスだけです、今日は……でも、お願いやけん」
「……、」
「止めないで、ください——」

 ソファの背に、押し倒されるほどではなかったけれど、彼の身体が、完全に重なってくる直前、ぴたりと、その動きが止まった。息が、忙しなく上がる。互いの息が、重なっている。

「でも……これ以上したら、もうたぶん俺……」

 彼の肩が、ほんの少しだけ震えていた。我慢をしているのだとわかった。

「……それでも、いい、ですか?」

 彼の目は真剣だった。怖いくらいに。その瞳にからかいも計算も何ひとつない。ただ私の答えを待っていたのだ。私はそっと彼の頬に手を伸ばしそれでも、ふるふると、首を横に振る。

「だめ……。今日は、ここまでにしよ?」
「…………はい。了解です」

 少し困ったように眉を下げて、彼はそう言い、唇を私の額に落とした。そのキスはさっきまでのどれよりも熱くて、でもいちばんやさしかった。息を整える間もなく私は、彼の胸にそっと身体を預けた。ふたりで過ごす、和解後の最初の夜。
 触れ合ったのは、くちびるだけだったけれど、たぶん心はもうすっかりひとつに戻って重なっていたと思う。そう、思いたい。


 *


 羽根の重みで、目が覚めた。といっても、ほんとうに羽根がかかっていたわけじゃない。でも、体温と匂いと、夜の熱の余韻が、まだうっすらと私の身体にまとわりついていた。
 『好きだよ』と伝えた夜。キスだけで、終えた夜。でも、ただの、キスじゃなかった。すべてを肯定されたような、誰にも触らせなかった心に、彼の熱がじんわりとしみ込んでいくようなそんなキスだった。ベッドにいなかったのは、彼が気を遣ってソファで寝たからだ。けれど、私は何度も目が覚めてドアの向こうの気配を確かめてしまっていた。リビングへそっと足を運ぶと彼はすでに起きていて私のカップにコーヒーを注いでくれている。

「あっ……おはようございます、名前さん。」

 振り向いた彼の声が、いつもよりすこし掠れていた。それがなんだか新鮮で、特別な気がして、不意に、心の中があたたかくなる。

「おはよう……もう、起きてたの?」
「はい、さっきです。緊張してたのか、ほとんど、寝れてないですけど」
「緊張って……なにに?」

 私が笑いながら聞くと、彼はマグカップを手にして、ほんの少し照れたように視線を逸らした。

「だって……昨日、好きって言われたんで。」
「──!」
「好きな人からの��好き�≠フあとに過ごす朝ってもう、爆発もんですよ?」

 私は笑った。そして、自分の頬がほんのり熱くなるのを感じた。

「……好きって言葉、そんなに?」
「はい。そんなに、です。」
「そんなに、すごい力持ってる?」
「はい、めちゃくちゃ。」

 それは冗談半分の口調だったけど、目だけは、ちゃんと真っ直ぐだった。二人でカップを持ったままソファに腰を下ろす。
 昨夜、彼が、覆いかぶさるようにして、キスをくれた場所。それを思い出してしまって私は一口苦めのコーヒーでごまかす。

「……ねぇ?」

 私がふいに切り出すと、彼はいつもと変わらず「なんですか」と、優しげに目を細める。

「私たちの関係って、さ。まだ誰にも言ってないじゃない?」
「はい、言ってないですね。言ったら、大騒ぎになるの、目に見えてますし」
「うん。でも、いつかちゃんと��恋人�≠チて公にできたら、いいなって」

 私の声が震えなかったのは、たぶん、彼の隣に座っていたからだ。すると、彼はすぐに答えた。

「——ええ。その��いつか�≠�、ちゃんと俺が、用意しますよ」

 彼は少しだけ眉を寄せて、それでもやわらかく笑って続けた。

「公にできない関係だからって、名前さんに我慢させたままには、したくないです」

 私の手の上に、彼の手が重なった。その手は、昨日よりもすこしあたたかくて、なにも言わなくても、すこし強くなっていた。

「だから、もう一回言いますね」

 彼が真剣な目で私を見つめる。私はそれにしっかりと応えたくて、彼の目を見つめ返す。

「俺、もう離れません。あなたの隣にいつづける方法、ちゃんと探していきます」

 その宣言は小さくても確かな��約束�≠セった。私はそれに頷いた。それからゆっくりと、ひとつ呼吸を置いて。

「ホークス……好きだよ。」

 もう一度ちゃんと。夜の熱を思い出しながら、でも、朝の光の中で。
 彼の背にある剛翼がふわりと揺れた。その赤い羽根の一枚一枚が、小さく鼓動するように震えたように見えて、私は息を呑んだ。まるで、彼の心そのものが、私の言葉に応えるみたいで。そしてその瞬間、静かな朝の光のなかで、これからまた恋人として歩き直していけるのだと、ゆっくりと胸の奥で、確信が芽吹いていくのを感じた。


 *


 彼が東京遠征で、珍しく早く任務を終えた日。私のマンションで食後の洗い物を済ませたあと、キッチンの明かりを消して、ふたりで、ソファに並んで座った。やわらかく香るコーヒーの湯気と背もたれ越しに流れる静かな音楽。なんともささやかな夜。何でもない、日常のひとコマ。そう、思っていたのに……。

「ねえ、名前さん」

 不意に彼がぽつりと切り出した。マグカップを唇へ運ぼうとしていた手がほんのわずかに空中で止まる。空気そのものが一拍だけ脈を打ったような、そんな沈黙ののち──。

「セーフハウスに引っ越しません?俺、あそこ、買い取るんで」
「……ん?」

 その声音はどうしようもなく軽やかで深刻さの欠片もなくて、まるで「今日ちょっと風強いですねー」なんて他愛もない天気の話題を投げかけるくらいの気楽さをまとっていた。それなのにその言葉は胸の奥にふっと沈んで重くもなければ軽くもない不思議な温度を残した。マグカップを支えた指先だけが、少しだけ固くなる。けれど、心のどこかではその言葉の本当の意味、彼の無防備な欲しさや願いの形が、ゆっくりと溶けて広がっていくのを感じていた。
 あの夜、ようやく繋がり直した距離が、今またこんなふうに、彼の口から伸びてくる。軽い声の奥で、確かにあたたかいものが光っていた。

「もう、住んじゃいましょー!あそこで一緒に」
「え……住むってそれ。同棲、ってこと……?」

 私が慎重に聞き返すと、彼は目を細めたまま、うんうんと頷いた。

「ですです。まあー、半単身赴任みたいになりますけど、当分のあいだは」
「……」
「いやだってさ、考えてみてください?俺、名前さんのこと好きですし」
「……」
「いつでも会える方が絶対いいに決まってるじゃないですかぁ〜」

 常日頃、彼はさらりと歯の浮くようなセリフを言ってくれるけれども。私の心臓は、その一言でまたしても、ドクンと跳ねた。でも──

「いや、今でもこっちに来たときは会えてるほうだと思うんだけど……」
「んー、なんか違うんすよねー。一緒の部屋に、帰ってくるってのが、ミソって言いますか」
「うーん……」
「……だめですか? 嬉しく、なか?」
「う……ううん? 嬉しい、けど——」

 私は小さく笑ってそっと彼の目を見た。すると彼は捨てられた子犬みたいに私を上目遣いした。

「いきなりはちょっと……びっくりしちゃって。まだお互い知らないこともあるし。きっと一緒に住むって、甘いだけじゃ済まないでしょ?」

 できるだけ穏やかに言葉を選んで伝えたつもりだった。でもそのとき彼の表情がほんの一瞬だけ曇ったのがわかった。

「……そう、すね。まあ俺、未来に飛び込みがちですから。速すぎる……男なんで、あはは……」

 冗談めかして笑いながらも、だいぶ、さびしげだった。私はすぐに何か良い言い回しはないかとフォローの言葉を探した。でも、正直なところ、嬉しいけど怖い──が、今の自分の正直な気持ちだった。

「……じゃあ、さ。こっちから、提案返し」

 少しだけ考えてから、私は言った。彼はまた、捨てられた子犬のような目で私を上目遣いする。

「いきなり一緒に暮らすのは、もう少し、先でもいいかなって思うんだけど……」
「はい……」
「た、たとえばさ?遠征に来たときとか泊まりに来るってのは、どう?」
「……」
「まあ、今もそれに近いことはしちゃってるけど必ずお泊まりするっていう、約束事っていうか」

 彼は途端にいつものような表情に戻って今度はうーん、と唸るように首をかしげた。

「遠征時にだけですかあ。んー、少ないっすね」
「え……。そ、そっか。」

 答えた私の声が、わずかに萎んだ。というか、そもそも私は、いつでも会えるけれど。あなたがいつでも忙しいから、会う頻度が、少なくなってしまっている気がするのですが……なんて思っていると、彼がふっと肩をすくめて笑った。

「でも、まあ。名前さんが提案してくれたこと、俺、無下にはしたくないですし」
「え……。いい……の?」

 心の片隅で、なぜ私が提案したみたいな空気になっているのだろうと思いつつ目を見て尋ねると彼は少しだけ照れくさそうに言った。

「いいですよー。好きなんで。遠征だろうと週一だろうと月一だろうと待ってる日があるなら俺は頑張れますから」

 心臓がきゅっとなる。いつも言葉が早くて未来まで飛んでいってしまいそうな人なのに彼はちゃんと、私の歩幅に合わせようとしてくれていた。

「あ、ありがとう……?」

 やっぱりどうして私からの提案みたいになっているのだろう、という疑問が拭いきれず、疑問系でそう呟いた私の手に、そっと、彼の指が重なる。繋いだ手の中で羽根が小さく揺れるような気配がした。
 細かいことはもういいや。私の��こわさ�≠焉A彼の��まっすぐさ�≠烽ォっと正解でも間違いでもなくて。でもこうしてふたりで間を埋めていけるのなら、未来は少しずつ、ほんとうの��ふたりの居場所�≠ノ、なっていくのだと思った。


 *


 遠征時のお泊まりが少しずつ当たり前になってきた頃、彼は何も言わずにふいに��その習慣�≠�始めた。

「──あ、羽根……」

 彼が帰ったあと、ベッドの脇にふわりと落ちていたものを拾い上げたのはまだ春の気配が冷たさの中に混じっている、ある朝のことだった。床に舞い落ちたそれは、彼の個性。とても小さくて、赤くて少し柔らかい。けれど触れた瞬間、そこに熱が残っているのを感じた。

「え……忘れてった?」

 ひとり言のように呟いて、でもすぐに、違うと気づく。彼の羽根は、意思を持って動く。こんなところに落ちているわけがない。意図的に置いていったのだ。まるで『いつもここにいますよ』とでも言いたげに。そしてメッセージは、あとから届いた。


ホークス

羽根、ひとつ置いていきました


ホークス

とくに深い意味はないですよー


ホークス

勝手に舞い降りちゃって


ホークス

防衛用ってことに
しといてください


ホークス

それ以外の意味は
口にしないでおきますね






 その最後の一文を読んだとき、胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。彼は守ろうとしてくれている。この部屋を。ここで暮らす私を。そして��ふたりで過ごした時間�≠サのものを。
 けれど同時に彼はここに帰ってくるつもりなのだとも思った。ただの警戒でも、職務でもない。この部屋に羽根を置くという事は自分の居場所のひとつに、私の部屋を数えてくれたということ。

「ほんと……ずるいヒーローだなぁ」

 思わず呟いた声は、少しだけ笑っていた。カーテンを閉めたあとの部屋の静けさの中で私はその羽根をそっと手のひらにのせる。たった一枚なのに不思議な安心感があった。赤い色が灯りの中で静かに呼吸をしているように見えた。
 「おかえり」って、いつかこの羽根に向かって言えたらいいなと思う。それまではここに置いておこう。彼の少し不器用で、でもたしかな��愛し方�≠フ証として。それは��好き�≠謔閧熕テかで、けれど��好き�≠ニ同じくらい、熱い合図だった。


「ちょ〜っと、明からさま過ぎやったかなぁ〜」

 たった一枚の羽根。それを部屋に残すのに理由なんてなかった、なんて嘘だ。彼女の部屋を出るときドアノブに手をかけた瞬間、羽根がひとつ、勝手に舞い降りた。そんなふうに彼女には伝えたけれど。実際は、ベッド脇のカーテンレールに、俺自身が、留めていっただけの話。防衛用というのもまあ、半分は本当。万が一何か起きたときのために、彼女の身に危険が及ぶ可能性が少しでも減るならそれに越したことはない。
 でももう半分は明らかに俺のわがまま。ただの羽根じゃない。��俺の一部�≠セ。それを、彼女の部屋に置いておくこと──それはつまり俺自身がそこに、居座りたかったってだけの話。

 目に見える安心。触れられる気配。彼女が俺を想うとき、その羽根が心のどこかに引っかかってくれたらいいと思った。
 言葉で縛るのは、怖かった。「会いたい」も、「好きだよ」も何度言っても足りない気がして。けれどそばにいられない時間の中で彼女がひとりきりになってしまうのが、どうしようもなく不安だった。だから俺は羽根を置いた。守るため、という言い訳をしながら、本当は『忘れないで』という自分の声を、黙って託した。


名前

これたくさん集めて
羽毛布団でも作ろうかな






「……はっ。ほんなこつ、愛らしかぁ〜。」

 いつか彼女が疲れて帰ってきてふとそれに目をやって「おかえり」とでも、口にしてくれたら、それだけでたぶん俺はまた、どんな空でも飛んでいける気がした。「ただいま」って言える場所を彼女がつくってくれてるって、わかってるから。だから羽根を一枚そっとそこに置いていく。触れられないときも飛び立たなきゃいけないときも、俺はここに戻ってきますって。ちゃんとあなたの傍にいます、って。

 言えなかったぶんを、命と同等の、この個性で語れたら、少しはいい男になれた気がするから。








ふたりで住む、未来の余白




ホークス

あの、一個だけお願いがあって
羽根あまり触らないで欲しくて


名前

え、ごめん!
気持ちよくてつい


ホークス

それ、本体にして欲しくて!!


名前

私の気が変わらないうちにおいで


ホークス

今すぐ飛んでいきます!!!







※image song『 Darlin'/BENI 』


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