十一月、初旬——。
 空気は、目に見えないかたちで少しずつ乾き、朝晩の冷えが皮膚の上ではなく、内側にまで入り込んでくる。街路樹の色もどこかくすみはじめて季節が一段階、静かなほうへと傾いていく気配があった。何かが終わるわけでもないのに終わりに向かっているような感覚だけが、日々の隙間に、じわりと滲んでいる。

「名字さん、もう上がりですか?」
「うん、今日は珍しく残業ナシ」
「良かったですね。このまま一緒にご飯でもどうですか? 私たちも、これから行く予定で」
「あー......ごめん。また今度、誘って」
「は〜い! お疲れさまでしたっ!」
「うん、お疲れさま」

 それは、ある日を境にはっきりと始まったわけではなかった。ただ少しずつ、ほんのわずかずつ私のほうがホークスから距離を取るようになっていた。飲みの誘いに『今日は無理』と返す回数が増え任務後の『今どこです?』に『まだ残業』と短く返すようになって、彼のセーフハウスにも、私のマンションにも、理由をつけて足を向けないように自然を装って交わし続けた。どれも些細な変化で、決定的な拒絶ではないはずなのに、積み重なるほど、見えない線だけが、確実に引かれていく。
 きっかけは、いろいろある。でも一番の要因はやはり、あの夜のことだった。二度目の口付けを交わした日。彼は、独占欲をむき出しにしたり、突然抱きしめてみたり誰かを紹介されて不機嫌になるわりには何事もなかったようにそれを流してしまえる。やり方が、時間が経つほどに胸の奥で引っかかり続けたのだ。
 それが彼なりのやさしさだと、分かっている。境界を守るための選択だということも。けれど、それがあまりにも自然で、あまりにも彼らしくてだからこそ私はそこに甘えてしまっていたのだとあとから気づいた。もしかして、私が誰とも長く続かないのはこの人がいつもここにいるからなんじゃないかと。考え始めると、止まらなかった。安心できる場所があるから。帰れるところがあるから。無意識のうちに、他の誰かに対して本気になりきれないのではないか、と。
 そこに責任を押しつけるつもりはないし、ヒーローのせいだなんて軽々しく言えるはずもない。それでも彼がいることで私はどこかで足を止めている気がしてしまう。もちろんそれは、彼自身も同様に。だから、距離を取ることにした。これは自立のため。親友としての正しい距離。そのはずだと、何度も自分に言い聞かせながら。
 なのに——。引いたはずの距離の分だけなぜか彼の存在だけがはっきりと、輪郭を持ちはじめていた。

「名前さん」

 その呼び方をこんなふうに街中で受け取るのは久しぶりだった。夕方、最寄りのスーパーの前。いつもの帰路に身体を預けていたはずなのにその一声だけで、足元の感覚がふと曖昧になる。
 振り返ると当たり前みたいな顔で、ホークスが立っていた。まるでここで会うことが予定されていたかのような自然さで特別な再会でも偶然でもないみたいに、ただそこにいる。時間がわずかに遅れる。
 いつもなら「ストーカー?」などと軽く返せたはずの距離なのに、その言葉が、喉の奥に引っかかったまま出てこなくて、冗談に逃がす余白が、もうどこにも残っていなかった。

「最近、忙しそうですね」

 穏やかな声音だった。探るでも責めるでもなくただ、事実を確認するような調子。「まあ」と、短く返す。自分で削った言葉の分だけ、沈黙が、はっきりと形を持つ。

「飲み、行ってないすね」
「行ってないね」

 それだけの会話なのに以前よりもずっと距離がある気がした。言葉を減らしているのは私のほうだと分かっている。そのたびに、彼とのあいだに引いた線を自分でなぞり直しているみたいで。
 ホークスが、少しだけ首を傾げる。その仕草に微かな違和感が混じる。理解していないわけじゃない、でもそのままにしておかないと決めている人の動き。ああ、そうだ。この人は言っていた。逃げない——と。

「じゃあ」

 軽く置かれたその一言に、胸の奥がわずかに、強張る。この先に続く提案を私はちゃんと断れるだろうか。そんな予感が言葉より先に身体を緊張させた。

「買い物終わったら、軽くご飯でもどうです?」

 あまりにも、いつも通りだった。遠慮も探りもなくただ自然に差し出される選択肢。昨日までの延長線みたいに何も変わっていない顔で。だからこそ、こちらの変化だけが際立つのだ。

「ごめん、やめとく。疲れてるし」

 言葉にする時、ほんのわずかに息が詰まった。こんなことならば、職場の子たちと食事に行けば良かったと。それでも、きちんと今、断ることは私にもできる。彼は「了解です」とすぐに引く。その速さに胸の奥が少しだけ痛んだ。受け入れられたことへの安堵ではなく、深追いされないことへの物足りなさのようなものが、遅れて浮かぶ。けれど、それで終わらないことも私はもう知っていた。

「じゃ、明日は?」
「……たぶん、無理かな。残業、あると思う」
「ふうん。そ、すか」

 やり取りは、それだけだった。責めない。問い詰めない。こちらの選択を、そのまま受け取る。それなのに、その静けさの中に退くつもりのない気配だけが残る。それでもその場ではそれだけで終わった。何事もなかったみたいにして、互いに別方向へ、歩き出す。けれども背を向けたあともさっきまでの距離がそのまま身体に残っていて、うまく切り替えられない。
 そして翌日。仕事中、手元のスマートフォンが震えた。画面には短いメッセージが二通。余計な言葉のないその簡潔さだけが、かえって逃げ道を残さなかった。



ホークス

今、近く通ったんで


ホークス

差し入れ置いておきますね





 その内容には、余計な説明も意図を補う言葉もない。ただ事実だけが置かれているみたいな文面だった。
 それに返信はしないまま仕事を終えて、自宅の前に立ったとき、ドアノブに掛けられたコンビニ袋が視界の端に入る。見慣れた袋の中身は今さら確認しなくても分かる。分かってしまう。いつも飲み会のあとに、何度も一緒に選んできたもの。二次会に向かう一つの要因として。私が何を好むのか、どういう順番で手に取るのか、きっともう身体で覚えている人の選び方だ。

「まったく、もう……」

 思わずひとりごちてその袋をそっと手に持つ。鍵を回す手先がわずかに遅れた。避けているのは明らかに私のほうなのに彼は何も変えてこない。距離も温度も、言葉の置き方も。こちらが引いた分だけ、そのままの形で残り続けている。それが思っていた以上に、きつかった。
 部屋に入って袋をテーブルに置いたあと、しばらく動けなかった。そのまま立ち尽くして、ようやく息を吐いてから、鞄の中のスマートフォンを取り出す。画面に触れる指が、ほんの少し迷う。それでも、躊躇いを押し切るように発信ボタンを押した。
 コール音が二回。三回も鳴らないうちに通話が繋がり、『……はい』と、低く抑えた声が戻ってきた。想像していたよりも、ずっと近くに感じる響きで、思わず言葉に詰まった。

「……ホークス?」
『あ、はい。そうですけど?』

 呼び出した側なのに、確かめるみたいな響きになってしまって名前を呼んだ声が自分のものとは思えないほど静かに落ちた気がした。それなのに彼の声はもう緩んでいる。わざとらしく軽く返すその調子がいつもと変わらない輪郭を保っていてそれだけで、胸の奥の張りがほどけて、変わっていないという事実に思いがけず救われてしまう。

「今、大丈夫?」
『大丈夫ですよ。どうしました?』

 間を詰めすぎない、けれど離れもしない距離の彼らしい、間合いの取り方。その声が耳に届いた瞬間こちらの呼吸だけがわずかに乱れた。けれどそれを悟られないように声の高さも言葉の速さもできるだけ均して整える。ほんの少しでも揺れを見せたら、全部、見抜かれてしまいそうで。

「あの……差し入れ」
『ああ、見つけました?』
「……なんで、こんなことするの」
『え、なんでって……近く通ったんで、ついでに置いただけですよ?』

 言葉を選ぶような沈黙が数秒ほど落ちてやがてさらりとした調子で返ってくる。その短いはずの空白がやけに長く感じられた。こちらの耳だけが敏感になって通話の向こうの気配を拾おうとしているみたいだった。
 けれど、その��ついで�≠ェ、どれだけ意図的なものかくらい、もう分かっている。分かっているからこそ余計に逃げ場がなくなる。軽く置かれた言葉の裏にあるものを見なかった事にできない。だから、こんなにも苦しい。

「……こういうの、もう、やめて」

 拒絶の形を取っているくせにその言葉が自分のほうを傷つけているのが分かる。それでも彼は、『うーん』と曖昧な返事をした。否定もしないし肯定もしない。ただ一度そのまま受け取るような音だけが返ってくる。その受け止め方が逃げ道をなくしていくため、反発されるよりも、ずっと、厄介だった。

「……やめてほしいっていうか、その」

 続けようとする言葉が途中で、形を崩す。責めたいわけじゃない。突き放したいわけでもない。ただ、このままでは自分のほうが揺れてしまう。それだけなのにそれをまっすぐ言葉にすることができない。

「……勘違い、するから」

 ようやく口にできたのは、ひどく曖昧な言葉。自分でも逃げていると分かる言い方だ。それでもそれ以上は踏み込めない。
 電話の向こうで息を吸う音がする。そのあとに続く沈黙が先よりも少し重い。言葉を選んでいるのかそれとも選ばないまま飲み込もうとしているのか。そのどちらかを私は判断できない。そして少しだけ言い淀む気配のあと、声が落ちる。

『……して、いいんじゃないですか』

 小さく、抑えた声だった。冗談にも、軽口にも聞こえない。ただ、そのままの温度で置かれる。思わず「なにそれ」と返すとわずかに間が空く。

『いや、だって』
「……」
『俺、別に、やめる理由ないですし』

 静かな声だった。強くもなく軽くもない。ただ自分の立っている場所を動かさないまま、そこにある事実だけを、差し出すみたいな言い方。引く気がないのではなく、最初から退く前提で立っていない、という感じだ。

「……私が、困るって言っても?」

 問いかけながら、自分でも答えを予測してしまっている。

『困らせたいわけじゃないですよ』

 すぐに返ってくる。迷いのない、速さで。その素直さに胸の奥がわずかに緩むのと同時に、別のところが締めつけられる。ほんの少しだけ、間が落ちた。返す言葉がすぐには出てこない。それを察知したみたいに『ただ——』と言いかけた彼の声が止まった。その先にあるものを今、口にするべきかどうかを、測っているようにして。

「ただ?」
『……いや、なんでもないです』

 引いた。いつものように、踏み込みすぎないところで止める。その加減が今は余計に息苦しい。気づけば「ねえ」と、声が少しだけ低くなる。

「普通にしててくれればいいのに」

 それはある意味、願いに近かった。また沈黙が落ちる。今度は、彼のほうが少し長く黙る。それから、苦笑まじりの声が耳を掠めた。

『……俺、普通にしてるつもりなんですけどね』

 電話越しの声は、どこか力を抜いた調子のままなのに、その奥にある温度が少しだけ、低い気がした。いつもの軽さをなぞりながらも、こちらの反応を静かに見ているような気配がある。言葉が出てこない。否定も、肯定もできないまま、沈黙だけがそのまま落ちる。

『むしろ、名前さんのほうが、ちょっと普通じゃない感じしますけど?』

 軽く言う。けれど、その言い方は決して無神経ではなくて、こちらの内側に触れる位置を正確に選んでいる響きだった。
 図星だ。だからこそ何も返せない。言葉にしてしまえば全部認めてしまうことになる気がして。それを知ってか知らずか、彼の声が、やわらかく続く。

『無理に、変えなくていいと思いますよ』

 押しつけるでも慰めるでもない。ただ選択肢をそのまま、差し出すような言い方。そこで一度、間が置かれた。こちらが何かを返す余地を、残すように。けれど私は何も言えないままその隙間をまだ、埋められずにいる。

『距離取りたいなら、それでもいいですし』
「……」
『でも、俺までそれに合わせて変わる必要はないかなって思ってます』

 言い方は強くもないのに、なぜか、後戻りできない場所まで、連れていかれるような感覚だけが残る。逃げ道は確かに用意されているはずなのに選ぼうとすると、そのたびに、別の道が塞がっていく。思わず「ずるいね」と息が零れる。責めているのか、縋っているのか、自分でも分からないまま。

『ええ、よく言われます』

 いつもの調子で返す声。けれど、その奥にあるものは、さっきよりもわずかに重く沈んでいる。
 それきり、どちらも言葉を続けられなくなる。通話の向こうから生活音がかすかに混じる。水の流れる音か何かを置く小さな音。こちらの部屋の静けさと、あまりにも対照的で、余計に現実感が揺らぐ。それから私はようやく言葉を引き出す。確かめるようでいて、ほとんど答えを知っている問いを——。

「最近さ……私が避けてるの、分かってるよね」
『分かってます』

 その一言で、呼吸を止めた。間を置かず返ってくる迷いのない速さに胸の奥がわずかに締まって続ける前に言葉が少しだけ引っかかってしまう。責めたいわけではないのに、問いの形だけが鋭くなる。

「じゃあ、なんで」
『避けられる理由、たぶん分かるんで』
「……なにそれ」

 無意識に声が少しだけ拗ねているみたいにして低くなってしまった。見透かされていることへの抵抗が、遅れて浮かぶ。

『名前さんってさぁ、たまに、自分が誰かの足を止めてるって思い込む癖、ありますよね』

 淡々とした指摘だった。責める響きはないのに逃げ場だけがなくなる。否定できない。むしろ、その通りだと分かってしまうからこそ、何も言えない。

『俺がいるせいでって考えてるなら、それ、俺の選択でもありますし』
「……」
『俺が、ここにいるって選んでるだけなんで』

 相変わらず静かな声だった。誰かに委ねたものではなく自分で引き受けているという、ただそれだけの言い方。責任を押しつけない。けれどその分、こちらにも逃げる理由を与えない。思わず、ため息のような頼りない声が漏れてしまう。想定していなかった返しに思考が、やや遅れる。

『だから、あれです。名前さんが、距離取っても俺は、離れる理由にならない』
「サイアク。」
『わお。傷つくなあ〜』
「ほんと……ずるい人」

 もう一度、さっきと、同じような言葉が出る。それ以外にうまく、表現できそうもない。ただ、彼の言った言葉だけが静かに胸の奥に重く落ちていくだけ。

『もう、何回も言わんでも『知ってます』しか、言えんですよ』
「あ、そう。」
『でも、安心してください』
「なに」

 短く返す声に自分でも気づかないような緊張が混じる。続きが来る前に胸が先に反応する。拒絶されていないのに、むしろ、受け入れられているのに、どうしてこんなに息が詰まってしまうのか分からない。

『俺が原因で、名前さんの人生が止まるなら』
「……」
『ちゃんと、俺が引くんで』

 静かだった。あまりにも静かで、冗談にも軽口にもならない。その言葉だけがはっきりと残る。それは優しさの形をしているのにどこか一方的で逃げ場を奪うような響きを持っていた。選ばせるようでいて、最後の決定権を手放さない言い方。守るための距離の取り方なのに、同時にすべてを引き受ける覚悟を含んでいる。だからこそ一番、残酷だった。

「……引く気、ないでしょ」
『今はね。全然、まったくゼロ』
「だろうね」
『名前さんが避けても俺は、寄るほう選びます』

 それは宣言でも脅しでもなく、ただ、彼の中で決まっている一つの事実だった。選択というよりもう変えようのない前提みたいに置かれる言葉。

『——じゃあ、これで仲直り成立です?』
「喧嘩、してたっけ?」
『胸に手当てて聞いてみてください、そこは』
「じゃあ……って、ことにしておこうか」
『はい、成立ね』

 相変わらず、迷いのない返事の仕方だと思う。軽く聞こえるのにその奥にある意志だけはいつも揺るがない。冗談に寄せることもできたはずで、けれどそうしない選び方が、この人らしかった。電話の向こうで、あのヒーローはきっといつもと変わらない顔で笑っている。肩の力を抜いたままそれでも一歩も引かない距離で。そして、話題を戻すのは、やはり彼のほうだった。

『それ、食べてくださいね』
「……うん」
『ちゃんと、好きなやつ選んだんで』

 それ以上は言わない。言葉を足さないことで、かえって伝わってしまう距離を選ぶのだ。何事もなかったように差し出される日常。さっきまでの会話をなかったことにするわけでも引きずるわけでもないその中間の置き方。胸の奥に残るものをうまく言い表せないまま、口から出てきたのは、やっぱり、あの一言だった。

「……ありがとう」
『どういたしまして』

 短い返事。それだけで、会話は終わってもいいはずなのに、どちらも通話を切らない。
 沈黙が続く。切るタイミングを測りながら決めきれないまま時間だけが伸びていく。通話越しのわずかな気配がまだ繋がっている証みたいに残り続ける。

「……じゃあ、切るね」
『あ、はい』

 私がようやく言葉にすると素直に返ってくる。それでもすぐには終わらない。それから少しだけ間を置いて、付け足される声が耳を震わせた。

『おやすみなさい』
「……おやすみ」

 通話が切れて画面が暗くなり、ようやく自分がどれだけ、息を詰めていたのかに気付かされた。肺の奥に溜まっていた空気が、一気にほどける。それと同時に、さっきまでのやり取りが、遅れて身体に沈んでいった。
 距離を取ったはずだった。言葉を選んで、線を引いて、関係を整えようとしたはずだった。それなのにテーブルの上に置かれたコンビニ袋だけが変わらない距離を、そのままの形で、示し続けている。触れれば届く場所にあるのに、そこに含まれているものは、簡単には扱えない重さを持っていた。

 その夜、私はようやく理解した。彼がいるから前に進めないわけじゃない。彼がいるから、私は逃げる理由を持ち続けていただけだ。避けても、距離を取っても、彼は変わらず、そこにいる。
 こちらの都合では揺れない場所に、静かに立ち続けている。それが、どうしようもなく怖くて。同時に抗えないほど、優しかった。夜は、なにも言わずに深くなる。保っていたはずの距離だけが確かに残っている。手を伸ばさなかったことも、引かなかったことも、どちらも選びきれないままただそこに置かれている。そして私はその曖昧さの中に身を置いたまま、しばらく動けずにいたのだった。


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