恋をすると理性をつかさどる前頭前野は静かに働きを緩め、まるで意識の奥へ沈むみたいに判断の輪郭を曖昧にしていく。そして同時に、恐怖や警戒を司る扁桃体までもが、その鋭さを手放してしまう。つまり、無防備になるということだ。
 危険を測るはずの感覚が鈍り、引き返すための理由も見失っていく。守るべき境界線が、気づかないうちに溶けていく。そうなると、もう脳は、守ってはくれない。どこまで踏み込んでいいのかどこで立ち止まるべきなのか、その判断さえも、自分の手から離れていく。そしてふとした瞬間に気づくのだ。思いもよらないほど深く、引き返せない場所に立っている自分に——。

 奪うのが恋で、与えるのが愛だと、人は言う。すぐに消えてしまうのが恋で、ずっと残り続けるのが愛。伝えるのに悩むのが恋。伝えなくても、伝わるのが愛。一瞬で生まれるのが恋で、一生をかけて育てていくのが愛。
 叶わないこともあるのが恋。叶えることが愛。理由を作って会うのが恋で、理由もなく会うのが愛。相手の嫌な部分を見ないのが恋で、すべてを受け入れるのが愛。
 ——だったら、私たちの関係は何なのだろう。恋なのか。愛なのか。それとも、そのどちらにも名前を与えられないまま、ただ曖昧な高さに浮かんでいるだけのものなのか。答えのない問いは、夜の空気に似ている。掴もうとするとすり抜けていくくせに、確かに肌の上には触れている。

 *

 その日も、ただのいつも通りの帰り道で、仕事終わりに連絡を取り合い、二人で飲んで終電前の街を並んで歩いていた。雨上がりの舗道は、まだ少し湿っていて、街灯の光を鈍く反射している。靴の裏が、アスファルトに触れるたびに、小さな水音が混じる。
 夜はもう遅いはずのに街はまだ完全には眠っていないようだ。遠くからは、車の走る音が届き、信号機の色が静かに変わっていく。

「今日、結構飲みましたねー」

 隣から、いつもの調子で軽い声が落ちてくる。それだけで無意識のうちに私は少しだけ肩の力を抜いてしまうのだ。

「うん。久しぶりにいつもの顔ぶれ揃ったしね」

 言いながら酔いがまだ残っているのか足取りがほんのわずかに、浮ついているのを感じた。隣を歩いているヒーローは、それに気づいているはずなのに、支えようとはしない。ただ、歩幅だけを私に合わせてくる。その距離感が相変わらず絶妙だと思う。
 沈黙が少しだけ続いた。雨の匂いがまだ残っている街灯の下を通るたび、影が伸びたり縮んだりして、その動きになぜか気持ちが緩んだ。だからだろうか。ふと「そういえばさ」と、口をついて出た。彼は「はい?」と、いつも通りの柔らかい返事をする。

「このあいださ、ホークスが来なかった飲み会の帰り道」
「はい」
「技術側の先輩が、送るって、言ってくれたの」

 言ってから少しだけ後悔する。どうしてこんな話を今したのか自分でもよくわからない。ただ、懇親会の席で交わしたやり取りを、そのまま持ち帰ってしまっただけのことなのに。そして、その男性の特徴を話し出した瞬間だった。ホークスの歩調がほんのわずかに変わった。止まるほどではない。でも確かに何かが引っかかったみたいに。

「……それ、女性のセンパイではなさそうすね」
「だね」
「その人が、あなたを?送ってくれるって?そう言うたと?」

 やや執拗ぎみではあるが、聞き返す声は軽い。軽いのに、どこか落ち着かなさを感じる。信号が青に変わる。濡れた横断歩道を渡るとき、街灯の光が細かく揺れた。私は、前を向いたまま淡々と答える。

「うん。でも断った」
「へぇ。なんで断ったんですか」
「んー、なんとなく?」

 それだけなのに妙に間が残る。口にしてから、自分でも曖昧だと思う。でも、それ以上の言葉が浮かばない。彼の声に責める空気はない。ただ、理由を確認するような調子。彼はその後すぐには何も言わなかった。しばらくして視線を私と同じように前に向けたまま続ける。

「なんとなく、で断るには……」

 ホークスはそこまで言ってその先の言葉を飲み込んだ。信号がまた変わる。赤い光が彼の横顔に落ちる。

「だいぶ親切な人ですよね、その人」
「そう?」
「ええ。下心ナシって確定なんでしょ」
「そりゃそうでしょ。同じ職場だよ?」
「へえ。やっぱ親切。下心ない男、珍しいんで」

 あまりにも平然と言うものだから私は吹き出しそうになった。彼はそんな私の様子を横目に見てわずかに肩をすくめた。

「下心あったに一票、入れまーす」
「ないってば。疑いすぎじゃない?」
「疑ってるんじゃなくてさ。これは経験則です」
「じゃあ、ホークスもあるんだ? 下心」
「俺んは、真心です」

 そう言い切りちらりとこちらを見るその視線が夜の空気よりも静かで少しだけ重い。私は、その重さの意味を考える前に、歩き続けようとした。そのとき。「名前さん」と名前を呼ばれる。足が自然と緩む。「なに」と振り向くと彼は立ち止まっていた。ほんの少しの沈黙のあと、彼は言う。言葉を選ぶように、視線をわずかに落として。

「俺の前で、他ン男の人の話題、出さなくていいですよ」
「……え?」

 思わず足が止まった。一瞬、意味がわからなかったから。濡れた舗道の上で街灯の光が二人分の影を伸ばし続けている。その距離が、いつもよりほんの少しだけ近く感じられた。足を止めたまま私は彼を見上げていた。夜の街灯が濡れた舗道に反射して光が揺れる。その揺れが私の胸の奥にもそのまま、落ちてくるみたいだった。

「それって、牽制ってやつ?」
「正解。立派な牽制ですね」

 返事は、迷いなく落ちてきた。自分でも少し、意地の悪い聞き方だと思いながら口にしたのに、彼の声は低く静かで、変に熱を帯びてもいない。ただ、事実を確認するみたいに落ち着いていた。私は思わず、眉を寄せる。

「ずるくない?」
「どうして?」
「どうして、って……」

 問い返されて、言葉が少し詰まる。うまく説明できない。それでも、胸の奥に引っかかるものは確かに存在している。

「自覚はありますよ。ずるいってことは」
「……」
「あなたの言いたいことはわかってますよ」
「私が……誰と帰ろうと、自由でしょ」
「もちろん」

 やっぱりさらりと言う。否定しない。その言い方があまりにもあっさりしていて私は苦笑した。ホークスはそのまま、ほんの一歩だけこちらへと近づいた。触れない距離。それでも、さっきまでより、空気が近い。そして彼は、視線を外さないまま言った。

「でも、自由だからって」
「……」
「俺が平気だと思う必要、ないですよね」

 胸の奥がじんと熱を持つ。思わず「何それ」と呟くと、彼は笑って、肩をすくめるだけだった。そして視線を少しだけ夜景の方へと流す。街灯の光が濡れた舗道に広がり遠くで車のテールランプがゆっくり動いている。彼は近くの手すりに肘をついて夜空を見上げる。雨上がりの金属が微かに光を反射していた。

「正直に言ってるだけです」

 彼はそう言って、言葉を置いたまま動かない。余白を作らない言い方。引き返す余地を残さないあまりにも素直な選び方に私は一瞬、息の仕方を忘れる。

「名前さんが、誰かに送られてるの想像するの、結構、不快なんで」

 飾らない。濁さない。言葉を選ばない。逃げ道も作らない。誰かを責めるわけでも自分を正当化するわけでもなく、ただ感情だけをそのまま差し出してくる。その潔さに、胸の奥が、静かにざわつく。こんなふうに逃げ道のない形で感情を渡されることに、私はまだ慣れていないらしい。
 長く一緒にいるからといって、必ずしも名前がつくわけではない関係。見返りを求めた瞬間に、壊れてしまうものがあることも、頭では、知っている。なのに今この場にある感情は理屈の外側でじわじわと輪郭を持ちはじめている。

「……恋仲じゃ、ないのに?」

 ようやく絞り出した言葉は、確認というより、自分自身への問いに近かった。彼は、ゆっくりとこちらを振り向く。その動作が妙に丁寧で、逃げないと決めた人の、それだった。

「恋仲じゃないから、です」
「……」
「俺がまだ何も、もらってないのに」
「……」
「他の人が距離だけ先に縮めるのは、嫌です」

 静かな声。けれど、その静けさの奥に、確実に一線を越えた、響きがある。戻ることを想定していない言葉の重さ。言い切れるその潔さが、残酷でもあり、誠実でもある。私は一度、ゆっくりと息を吸った。胸の奥で曖昧だったものが少しずつ形を持ちはじめる。夜風が頬を撫でて、街路樹の葉が揺れる音だけが、やけに鮮明に耳に残る夜。

「ホークス……独占欲、増してない?」
「はい。マシマシ」

 軽く言ったつもりだった。空気を少し、緩めるための、逃がし方のひとつとして。それでも彼は迷わずにあまりにもあっさりと返してきた。私は思わず笑ってしまう。彼もわずかに口元を緩めるけれどその視線だけはまっすぐにこちらを捉えたままだった。

「隠す気も、ないんだ……」
「隠すと、嘘になるんで」
「……」
「だから今日は、俺と帰ってください」
「……もう、帰ってるじゃん」

 声の奥にわずかな揺れが混じる。ホークスは、「そうすね」と軽く言い返して手すりから離れてもう一歩、距離を詰める。触れないまま、確実に近づく。その圧に私は思わず、瞬きをした。
 お願いとも命令ともつかない声音だった。ただ選択肢として差し出される形。そのまっすぐさに逃げ道が見えなくなる。彼は小さく息を吐いた。自分の内側を抑えるみたいにして。

「今日も、これから先も、ずっと——」

 言いかけて、止まる。最後まで言わない。その未完成の言葉が、かえって意味を濃くする。彼は何も押しつけない。ただ、選ぶのはこちらだと、私のほうへ、選択を差し出す形を取るのだ。私はその沈黙の中で、自分の心臓の音だけを、やけに近くで聞いていた。

「ずるい」
「知ってます」
「……」
「言ったでしょ? 自覚あるって」

 暗い空からぽつりと、雨粒が落ちてくる。彼はジャケットの内ポケットから折りたたみ傘を取り出した。それを開く音が、夜の静けさに、小さく響く。
 今日も傘は、一本しかない。それでもそうすることが決まっているかのように飄々とした顔で、「ほら、濡れちゃいますよ」と、差し出される。

「え? 一緒に?」
「え? 当たり前じゃないですか」

 私は少し迷ってからその中へ入る。肩が触れるほど近い。けれどそれ以上は踏み込まない。傘の内側は思ったより狭くて、彼の体温が近い。雨は小雨程度なのに、私たちはわざわざ、その小さな屋根の下を並んで歩くのだ。

「ねえ、ホークス」
「はい?」
「そんなことばっか、言われるとさ」
「うん?」
「なんか……」

 勘違いしそうになるとは言葉にできないまま、私は小さく笑った。沈黙が流れる。ホークスは、視線を前に向けたままで静かに息を吐く。そして「あー、それは……」と続く言葉を一度だけ飲み込んでから、声の調子を上げた。

「聞かなかったことにしまーす」
「もう。なんでよ。そもそも何も言ってないし」
「言質、取りたくない夜もあるんで」

 それだけ言うと、彼は黙った。彼が無口になる理由を、私は知っている。苛立っているときほど言葉を減らすのは、衝動のままに言葉を出せば、それが、どれだけ人を傷つけるかを彼自身がよく知っているからだ。だから彼は黙るのだ。自分の感情を、外へこぼさないために。
 雨は、きっともう、上がっている。さっきまで路面を濡らしていた雫の気配だけが残っていて、これは最初から通り過ぎるためだけに降ったものだったのだと、思い知らされる。雨上がりの夜の空気は少しだけ冷えて湿り気を帯びている。その中を私たちは並んで歩いている。肩が触れそうで触れない距離に互いの存在を押し込めるみたいにして完全に触れはしない。けれど、そのわずかな隙間にこそ意識が集まる。腕の動き、歩幅、呼吸の揺れ。どれもが近すぎて遠すぎて、曖昧なまま重なっている。それでも私は確かに感じていた。囲われているというよりも、逃げ場を少しずつ、減らされているような感覚を。ただひとりのヒーローが何も言わないまま私の外側の輪郭を静かになぞっているみたいに。

 案の定、雨はもう、上がっていた。ホークスのセーフハウスのベランダ——。さっきまで降っていた雨の名残が、下に見えるコンクリートに薄く残り街の光を歪ませて映している。夜の空気は、ひんやりしているのに冷たすぎるわけではない。その曖昧な温度が今の私の心と妙に似ている気がした。
 私は手すりにもたれて、街の灯りをぼんやりと見下ろしていた。指先が、落ち着かない。濡れているわけでもないのに、無意識に、擦り合わせてしまう。さっきから、同じことを繰り返し考えていると気づいていても、やめられなかった。
 「私はあなたが好き」という言葉を、どう噛み砕くべきなのか。それはきっと、どんな関係にも訪れる問いなのだろうけれど私たちの場合は少し事情が違う。関係が曖昧なまま続いてきた時間が長すぎて言葉の意味が簡単には定まらないのだ。
 恋なのか愛なのか。あるいは、そのどちらでもない何か。はっきりさせた途端に、崩れてしまうものもある気がして、私はずっと、その境界線の上を歩いてきた。

「……ねえ」

 自分でも驚くくらい、声が弱かった。背後からすぐに、「はい?」と、短い返事が落ちる。振り返らなくても分かる。彼はいつもの距離に立っている。近すぎず遠すぎない、あの絶妙な位置に。なのに今夜はそれが急に、すごく遠くに感じた。

「さっきさぁ、牽制って、言ってたじゃん?」

 言葉にすると胸の奥が少しだけざわつく。先にそう言ったのは私だったのに、彼は何も否定しなかった。否定しないことのほうがかえって重い。
 私は視線を夜景へ逃がした。ビルの窓の灯りがどこまでも連なっている。言葉を探しながらも、なんとか先を続ける。

「ああいう言い方、されるとさ」
「はい」
「私、ちょっと、不安になるかも」

 自分で言っておいて胸の奥がきゅっと縮んだ。この関係において、不安なんて言葉を、彼の前で使ったことが、あっただろうか。思い出せない。今夜はどうしてこんなにも、喉が乾くのだろう。すると、少し間があってから彼が口を開いた。

「不安?」

 声音が、わずかに低い。完全に怒っているわけではないけれど、機嫌がいいわけでもなさそうな温度。私は、手すりから目を離さないまま言う。

「うん。ホークスが、どこまで本気なのかとか」
「……」
「私って、どの立ち位置なのかなって……」

 風が吹き、部屋のカーテンがゆっくり揺れる。その布の動きが、やけに視界を邪魔して、思わず目を細めた。胸の奥に、ずっと引っかかっていたものが形を持つ。

「大丈夫って言われても。触れないから、大事にしてるんだって、言われても」
「……」
「それが、いつまで続くのか分からないと……」

 声が、少し震えた。自分でも、それが分かる。背後の気配がわずかに動く。それでも私は正面を向いたまま言葉を選びながら、ゆっくり続ける。

「私だけ、勝手に近づいて」
「……」
「ホークスは、ちゃんと遠くにいるままなんじゃないかって」

 そこまで言ったとき。ふいに、背中のあたりに温度が触れた。手だ。私の物ではない、彼の手。強くもなく、乱暴なわけでもない。ただ、逃げ道だけをそっと塞ぐような角度で、静かに触れる。思わず小さく息が漏れた。
 そのまま、引き寄せられると思った次の瞬間、彼の身体がわずかに動いた。腕が滑るように位置を変え気づけば身体の向きがゆっくりと反転している。いつ、どうやってそうなったのか自分でもよくわからない。さっきまで私は手すりを持ち、彼のほうに背を向けて立っていたはずなのに——こういうとき、彼が��男�≠セと知らされる。

「それ」

 耳元で落ちてきた声は低く先までの夜風よりも近かった。気づいたときには正面から抱き込まれていた。逃げ場を塞いでいた腕がそのまま自然な形で私の背へと回り今度は完全に囲う形になっている。頬が彼の胸に触れた。驚くほど近い距離。呼吸の動きが、そのまま伝わってくる。布越しの体温が、じわりとこちらへ移ってくる。鼓動が、互いにぶつかる距離だ。

「一番、言われたくなかったやつです」

 とても、静かな声音だった。責めるような調子ではない。けれど、その言葉の奥にある重さが、胸の奥へとゆっくり沈んでいく。視界が一度だけ揺れて彼の胸が、すぐ目の前にある。初めてではない。けれど数えるほどしかない出来事だった。ほんのわずかな動きで、距離の意味が、変わってしまう。その変化の中に立たされていることを、私はようやく理解した。
 記憶が一瞬だけ遡る。あの日——私が元彼との関係を終わらせた夜。あのときも、同じだった。迷いのない動きなのに、どこか慎重で触れていい場所を確かめるような腕。私は、動けなかった。動く理由が見つからなかった。夜風がベランダを通り抜け、部屋の中の灯りが視界の端で揺れる。その中で彼の腕だけが確かな重さを持っていた。どうするべきか考えあぐねて、反射みたいにして口から出たのは、謝罪の言葉だった。

「ごめん……」
「謝らんで」

 すぐに返ってくる。その代わり彼の腕にほんの少し力がこもった。逃げ道を塞ぐほどではない。ただ、ここに留めるための重さ。
 距離が近すぎるから彼がゆっくり言葉を選んでいるのが直に伝わってくる。

「名前さんが不安になるほど」
「……」
「俺、何も渡してなかったってことなんで」

 その言葉を聞いたとき胸の奥で何かが揺れた。呼吸が近い。けれど触れているのは腕と胸だけでそれ以上には踏み込まない。その境界がなんとも彼らしいなと思う。最後までは、奪ってくれないあたりが。

「ずっと、選ばせるみたいなこと、してきましたけど」
「……」
「離れる気、ないんで……最初から」

 言い切ったあと、彼は一度、息を整えた。私の髪に触れる呼吸がわずかに温かい。生きていると知らせる温度だと思った。私はいつの間にか彼の黒いアンダースーツをぎゅっと掴んでいた。意識していない動きだった。布の感触が指先に残る。声が自分でも、驚くほど小さくなる。

「だったら……離れそうな顔、しないでよ……」
「……」
「こんなこと、しないで……」

 言いながら、胸の奥がきゅっと縮む。それは、責めているわけではない。けれどずっと見てきた彼の距離の取り方を、思い出してしまったから。近づいて離れて、また、こんなことをするから。すると胸元で、彼が小さく笑った。息が触れる。

「……無理です」
「なんで」
「こうしてないと」

 その瞬間、ぎゅ、と腕に力がこもる。今までのどの抱き方とも、少し違う。遠慮がないわけではないのに、明らかに意志のある抱き方だった。

「あなたが、不安になるって分かったんで」
「……」
「こうでもせんと、伝わらん人なんで」

 それは説明というより確認のようだった。私は彼の腕の中で動けなかった。動く必要も、逃げる理由も見つからなかったから。
 私たちの関係って、一体なんなんだろう……。恋なのか。愛なのか。それとも、そのどちらでもないものなのか。考えようとするといつも途中で止まってしまう。答えを知りたいのか、知りたくないのか、自分でもよくわからない。
 彼の腕の中は思っていたより静かだった。強く締めつけるわけでもない。けれどほどける気配もない。ただそこにある重さが、確かに私を囲んでいる。逃げ道を塞がれているという感じではなくむしろ逃がさないと決められた距離。私は胸元に額を預けたまま小さく息を吸う。アンダースーツから柔らかな洗剤の匂いがする。あと、やっぱりあの、香水の残り香——。

「……ねえ、これも、」

 言葉を探すようにゆっくり口を開く。彼の胸がわずかに上下するのが分かる。私は、わざと少しだけ間を置いた。

「ルール違反に、なるの?」

 軽く言ったつもりだった。けれど自分でも分かるくらい心臓の音は正直だった。彼は、すぐには答えなかった。私を抱いたまま、ほんの少し顎を引く。額が私の髪に触れる。

「……違反、ですね」
「やっぱり」
「はい」

 低い声が、胸の奥へ落ちる。あまりにも素直に認めるから逆に少し不安になる。そのとき彼が、小さく「——でも、」と続けた。

「……でも?」
「これは、仕方なかばい」
「うん?」
「あなたが不安になるの、放っておくほうが」
「……」
「俺にとっては、もっとアウトなんで」

 彼は一度、息を整えてから静かに言った。その言葉が落ちた瞬間に胸の奥がまた、きゅっと締め付けられた。安心なのか。恋なのか。それとも、ただの温度なのか。私にはまだ分からない。
 酔っているわけではない。頭もちゃんと冷えている。それでも答えをはっきりさせる気にはなれなかった。たぶん私はまだ、その答えを知りたくないのだと思う。

「じゃあ、さ。」

 彼の胸に額を預けたまま、私は小さく口を開いた。声を出す前に、ほんの少しだけ息を整える。こうして触れていると、言葉の重さがいつもより増す気がするからだ。「うん」と頭上から落ちてくる声は低く、短い。けれどそれは逃げ場を与えない、静けさを持っていた。私の髪に触れている彼の呼吸が、わずかに揺れる。

「罰とか、あるの?」

 半分は本気。もう半分はきっと逃げ道だ。この距離の意味を、軽い冗談にしてしまいたかったのかもしれない。
 少しの沈黙のあと、彼が小さく息を吐く気配がした。困ったような、でもどこか、諦めたような笑いが混じる。しかし返ってきたのは予想よりもあっさりした返事だった。

「ありますよ」
「どんなの?」

 顔を上げないまま聞くと、彼は少しだけ言葉を選ぶように間を置く。胸に触れている額越しに、その呼吸の流れが伝わってくる。

「……これ以上は、しないっていう罰」

 やっぱり。どこかで予想していた答えだった。思わず私は、小さく息を吐いた。私たちの関係はいつもそこに戻る。近づいても、そこで止まる。触れてもそれ以上には進まない。それが、暗黙の形だったから。
 私は少しだけ顔を上げて、彼の胸元に、視線を落としたまま言う。

「なに、それ」
「自制心、総動員です」
「全然、罰になってないじゃん」
「俺にとっては、かなり罰です」

 淡々とした声だった。けれど、その言葉の奥にある緊張は腕の力から伝わってくる。そのあと、ホークスが、ため息のような息を漏らした。夜の空気の温度に近い、静かな音。

「名前さん」

 名前を呼ばれる。ただそれだけのことなのに、胸の奥が、ゆっくりと鳴る。大きな音ではない。けれど、確かに存在を主張する鼓動だった。
 彼の額がそっと私のこめかみに触れる。触れているのは、ほんのわずかな面積なのに、その温度だけが、妙に鮮明だった。

「今のは、触れたかったから触れたんじゃない」
「……」
「離れる気がないって、ちゃんと、伝えたかっただけです」

 その言葉はどこか説明のようでもあり、告白のようでもあり、けれど、どちらにも完全には寄らない曖昧な場所に落ちてきた。私は、答えない。ただ黙って時間が経つのを待つ。彼の呼吸が少しだけ深くなった。それでも胸の奥のどこかには、静かに届く。
 しばらくして彼の腕の力がほんの少し緩んだ。解放されたわけではない。ただ囲われている形が少しだけ、柔らかくなった感じ。それでも彼は、私から離れようとしない。まだ、そこにいる。

「じゃあ……今日だけは、見逃してあげる」

 少しだけ間があって、彼が声を殺して笑った。胸の奥で振動が伝わる。たぶん今日、ルールは、破られた。でもそれは衝動というより、選ばれた動きだったと思う。私は小さく息を吐いて、もう一度、彼の胸に頬を寄せる。さっきより少しだけ自然な形で。

「助かります」

 短い返事だった。それ以上、言葉は続かない。雨上がりのベランダにはまだ湿った空気が残っている。夜の温度はゆっくり下がっていくのに腕の中だけが妙に、あたたかいままだ。
 触れているのは、ほんの少しだけ。抱きしめている腕と、胸に預けた頬。けれど、心の距離は、今までで、いちばん近かった。言葉にしなくても伝わることが本当にあるのだとしたら。たぶん、この夜の静けさが、それだったのだと思う。


 *


 そのあとも日常は驚くほど何も変わらない顔をして続いていった。彼との連絡の頻度も、言葉の温度も、そして時々——本当に困ったような顔をして、壊れた端末を持ってくる回数も。
 あの夜に交わした唇の感触も、雨上がりのベランダで抱きしめられた温もりも、確かに胸の奥に沈んだままだったのに表面の生活だけは、まるで何も起きていないかのように、整然と動き続けている。ただ、私の中だけが少しずつ静かに軋んでいた。あの日、見てしまったメッセージのことも満月の夜に公園で起きた出来事もすべてを話題にできない代わりに私はたぶん、最悪の方向に舵を切ってしまったのだと思う。
 自分でも分かっている。これは前向きなお節介なんかじゃない。誰かのための、善意でもない。ただの焦りと、逃げ場を作ろうとする自己防衛が妙な形で混ざり合っただけのものだ。それでも、その夜、私は口を開いてしまったのだった。

「ねぇねぇ、ホークス」
「はぁい」

 気の抜けた返事が返ってくる。それが、いつも通りすぎて、余計に胸がざわついた。
 仕事帰りの、いつもの居酒屋。カウンター席のいつもと同じ場所。油の匂いとアルコールの混ざった空気の中で、彼は、グラスをゆっくり傾けていた。福岡から飛んできたばかりらしく肩の力は抜けているのに、目の下にほんの少しだけ疲労が浮かんでいる。それは、ヒーローの顔ではなく、任務のあとにようやく息をついた人の顔だった。

「いい子、紹介しよっか?」

 言葉を落とした瞬間、空気がほんのわずか遅れて止まった。音が消えたわけではない。周囲では相変わらずグラスがぶつかる音も笑い声も店員の呼び声も流れている。ただ、私たちの間だけが、わずかに時間を外したみたいに静まったのだ。
 ホークスがこちらを見る。その視線は、怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、信じられないものを見たときような、ほんの少しだけ理解を止めたような目。私はその視線を正面から受けることができなくて、逃げるみたいに、メニューを手に取った。紙の手触りが、妙にざらついて感じる。

「……はい?」
「だから、いい子。職場の子でさ。性格いいし、ちゃんとしてる子だよ」

 聞き返し方が、完全に想定外の事象に遭遇した人のそれだった。対して返した言葉が、自分でも軽いと分かる。いや……軽すぎるくらいだろう。それでも、ここまで出てしまったら止まらない。

「……ほら、ヒーローの仕事にも理解あるし!」

 口に出しながら、私は内心で、首をかしげる。��ちゃんとしてる�∞�理解がある�≠チていったいなんだろう、と。何を基準に私は、そんな言葉を使っているのだろう。メニューを見ているふりをしているけれど料理の名前はひとつも頭に入ってこない。文字はただの模様みたいに視界を滑っていく。自分でも、止めた方がいいと分かっているのに、それでも言葉が続いてしまう。救えない。

「ホークスもさ?」
「……」
「そろそろ落ち着いた方がいいんじゃないかなーって、思ったり? 思わなかったり」

 言った瞬間、胸の奥で小さく何かが崩れる音がした。最悪の一言だ。どの立場で。何様のつもりで。自分で自分の頬を、殴りたくなる。
 カウンターの真横で、ホークスが、ゆっくりとグラスを置く音がした。氷がガラスの中で小さく鳴る。きっと、笑ってはいない。でも怒っているとも思えなかった。恐る恐る横目で見ると、彼はただこちらを見ていた。少し疲れたような、でも完全に感情を閉じているわけでもない、観察する人の目で。

「……急に、なんすか」
「急じゃないでしょー。前から言ってたじゃん」
「言ってません」
「じゃあ……思ってた」
「……それは、否定しませんけど」

 ホークスは一度だけ、視線を外した。それからまた、こちらを見る。私は、メニューのページをめくるふりを続けていた。紙の端を指で押さえているのに、次のページをめくる勇気はなかった。

「でも、俺に言います?」

 その問いは、驚くほど静かだった。声を荒げるでもなく責めるでもなくただ事実を置くように。その静けさが、胸の奥に深く刺さる。

「だって、ホークスは人気者だし」

 口をついて出たのは苦しい言い訳だった。言いながら自分でも分かる。これは理由でも説明でもない。ただの逃げ道だ。私はメニューを閉じて、脇に置いた。それからグラスを持ち上げる。氷が溶けた酒を、一口飲み込む。視線は、前に向けたままで。

「選択肢が、山ほどあるじゃん?」
「……」
「でもさ、変な子に引っかかっちゃうのはほら。親友としては、ちょっとね」

 言葉が少しだけ掠れる。それに気づかないでと願う。自分で言っていて胸が痛むことも含めて。

「お節介かもだけど。ちゃんとした人とちゃんとした関係、築いたほうが——」
「名前さん」

 言葉が遮られる。声は驚くほどに低い。でも、鋭くはない。それが逆に、苦しいのに。

「それ、誰のための話です?」

 その問いが落ちた瞬間、言葉が全部止まった。答えは、きっと分かっている。でも、それを口にする勇気は、どこにもない。
 沈黙が静かにカウンターの上に落ちた。周りでは相変わらず誰かが笑い誰かが注文をして店員が忙しそうに通り過ぎていく。けれど、その音は、遠くで流れているだけみたいに感じた。私は手にグラスを持ったまま、動けなかった。その問いに答えた瞬間、きっと、もう今までと同じ顔でこのヒーローの隣に座ることができなくなると、分かってしまったから。

「……俺、」

 ホークスが口を開いた瞬間に、彼の手にあったおしぼりが軽く弧を描いてカウンターに落ちた。投げ捨てるというほど乱暴ではない。ただいつもの丁寧な所作から、ほんの少しだけ、外れた動きだった。その小さな乱れが、胸の奥に鋭く響く。私はグラスを持ったまま動けない。彼はこちらをまっすぐ見ているのに。

「紹介されるほど、困って見えます?」

 相変わらず声は低い。けれどやはり、怒鳴っているわけではなさそうだ。むしろ抑えられている分だけ、輪郭がはっきりしている。

「いや、困ってるとかじゃ、なくて……」

 言いながら自分でもそれが答えになっていない事が分かる。言葉がうまく形にならない。口から出てくる物は全て薄い言い訳みたいに聞こえる。

「じゃあ、何すか」

 完全に、逃げ道がなくなった。その短い問いのあと、店内のざわめきが急に遠くなる。隣の席の笑い声も皿が当たる音も全部、どこか別の場所で起きている出来事みたいに思えた。

「なるほど」

 彼が小さく言う。ほんの少しの間。その間が、やけに長く感じる。

「俺を��整理しよう�≠ニしてます?」
「……」
「そういう話?」

 喉の奥がひゅっと鳴る。自分でも気づくくらい乾いた音だった。私は答えられない。答えようとすれば、きっと全部、認めることになるから。

「それ、やめてほしか」
「……」
「俺、モノじゃないんで」

 決して強い言い方ではなかった。けれど、その意思だけは、はっきりしていた。胸の奥が静かに痛む。私はようやく「ごめん」とそれだけ言う。ホークスは一度だけ息を吐いた。私もほんの少しだけ、肩の力が抜ける。

「謝られるほどのことじゃないです」

 そう言ってから彼は「ただ」と続ける。視線がまっすぐ私に向く。

「名前さんが、俺を誰かに渡そうとするの」
「……」
「正直、結構……萎えます」

 そこで、言葉が止まった。胸の奥が、ぎゅっと縮んでいく。私はグラスを握る指先に、無意識に力を込めた。氷が小さく、音を立てる。出てきたのは、自分でも情けないくらい小さな声だった。

「……嫌?」
「嫌です」

 返事は迷いなく落ちてきた。照れもない。冗談でもない。ただ事実を言うみたいにして。そしてその即答が、かえって胸を締めつけるのだ。彼が大きく溜め息をつく。それから声の調子が、少し低くなった。

「俺、いま。自分の気持ちに、嘘ついてまで」
「……」
「誰かと会う余裕、ないんで」

 その言い方はあまりにもまっすぐだった。飾りも逃げ道もない分だけ、受け取る側の余白まで、塞がれてしまうようで、息の置き場に一瞬迷う。それでも彼は次の言葉をすぐには続けなかった。わずかに視線が揺れて何かを選び直すような間が落ちる。その短い逡巡がかえって誠実さを裏打ちしているように見えた。
 やがてホークスは、グラスの縁に指をかける。触れるか触れないかの力加減で、そのまま静かに息を吐き言葉をひとつずつ掬い上げるようにして紡いでいった。

「名前さんが心配してくれてるのは、分かってますけど」
「……」
「でも、それは俺の問題なんで。それに——紹介されるくらいなら」

 それからホークスは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。そして、グラスを持ち上げながら言う。その琥珀色の瞳がまた、こちらに向けられる。

「名前さんに直接、文句言われる立場のほうがいい」
「なにそれ……。なんか、怖いよ。別に誰か紹介しようか、って軽く聞いただけじゃん」
「はっきり言わんとまた同じことが起こるけん」
「……」
「——それでもまだ、そんなくだらんおせっかい続けると?」

 思わず息が漏れた。私は少し、肩をすくめる。二人の間に、静かな沈黙が広がった。怒鳴り合いでも気まずい空気でもない。ただ、これまで曖昧だったものが少しだけ、形を持ったあとに訪れる静けさだった。

「残念ですけど俺、逃げませんよ?」

 グラスの中の氷がゆっくり溶けていく。店の奥では誰かが笑い隣の席では新しい料理が運ばれている。世界はいつも通り動いているのに私の胸の中だけが、少し遅れて揺れている。

 その夜、私は、気づいてしまった。避けても。距離を取っても。誰かを、あてがおうとしても。ホークスは自分からこの場所を降りる気がない。それは、困ることだった。とても困る。だって、そうなれば、次に選ぶのは私になるから。
 カウンターの上でグラスが静かに光を反射している。私は、その光をぼんやり眺めながら思う。おせっかいを焼き始めたはずの夜は、気づけば、私の逃げ道だけを、静かに塞いでいた。それでも不思議なことに、その閉じられていく道の先に、どうしてか少しだけ安心している自分がいる事を私はまだ、彼には言えないでいた。


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