その日、街の喧騒がほんの少し遠く感じられる夜だったことだけは、はっきりと、覚えている。耳に届いていないわけではないのに、どこか膜を一枚挟んだみたいに音だけが外側に置かれているような感覚。自分だけが少し遅れてその夜の中に立っているような不思議な距離のずれがあった。
選んだ店は派手さのない小さな居酒屋だった。個室ではないけれど、肩が触れ合うほどでもない適度に余白のある、カウンター席。仕事終わりの人たちの声が、一定の高さと速さで流れていく。グラスに酒が注がれる音や、氷同士が触れ合う、乾いた響き。それらが規則的に重なって、店の中だけで完結する時間を作っている。
今日の彼は、ヒーロースーツではなく、ラフな私服姿だった。けれど姿勢の取り方や視線の運び方、ふとした瞬間の立ち居振る舞いだけが、どうしても隠しきれずに��ホークス�≠�残している。人混みの中でも見失わない理由は、きっと、そういう部分にあるのだと、改めて思う。
乾杯をして最初の一口を飲み終えたあたりで、私はふと思い出したように「あ、そうだ」と声を落とした。グラスを持ったまま気だるそうにしていた彼の視線が、ゆっくりとこちらへ向く。その動きが思っていたよりも丁寧で、少しだけ言葉を続けるのに間が必要になる。
「ヒーロービルボードチャート。今年も、トップ3入り、おめでとう」
言いながら自分でも今さらだったかもしれないと思う。それでも伝えないまま流してしまうのは違う気がして。
一瞬だけ彼の表情が止まった。驚いたような、けれど、それをそのまま出すことに慣れていない人の、曖昧な間。そこにわずかな照れが混じる。
「あ〜......ありがとう、ございます」
少しだけ間を置いて肩をすくめるように返す。軽く見せているのに、その一瞬の止まり方だけが素直な反応だった。
「もうすぐ本当に、一位になっちゃったりして」
「それはどうかなぁ。ないと思いますよ」
「えぇー?前は『まあ』って、まんざらでもない顔してたくせに」
「まあ、上位キープもだいぶ、慣れちゃいましたけどね」
淡々とした言い方だった。自慢でも、謙遜でもない。ただ結果を、そのままの重さで受け取って処理している人の声音。若くして結果を出し続け評価され続ける事に特別な意味を持たなくなってしまった人の、どこか日常的で、乾いた温度。
「慣れるものなの、それ」
「慣れないと、しんどいんすよ」
グラスを傾けながら彼は、視線を少し落とす。その横顔を見て、まつ毛が長いなぁと思う。個性由来らしき線の強い目元が思ったよりも柔らかく影を落としていることにも気づく。自分が、同じように描こうとしても、きっとこうは、ならないだろうと、どうでもいい比較が頭をよぎる。
「上半期も下半期もありますしね。気づいたら、次の数字の話されてるんで」
その言葉の奥にある疲労にはあえて触れない。掘り下げもしない。触れたところで軽くなるものではないと分かっているから。だから代わりに、笑って返す。
「それでも、ちゃんと結果を出してるのは事実でしょ」
「まあ……それは、はい」
彼は小さく笑う。その笑い方はテレビや街中の大型ポスターで見るものよりもずっと柔らかい。作られていない分だけどこか無防備に近いものがある。
「こうして祝ってもらえるのは、悪くないです」
「ささやかすぎるけどね」
「ちょうどいいですよ。派手なの、苦手なんで」
そう言って彼はグラスを軽く持ち上げる。その仕草が、肩書きの重さを外して見せるから、私は少しだけ安心する。トップヒーローという立場と目の前でビールを飲んでいる一人の青年との間にある距離がほんのわずかに縮まる。そのわずかな変化を、私は無意識のうちに確かめていた。
料理が運ばれてきて、箸を進めながら、他愛のない話を続ける。今日は悲惨な現場だったと夕方ネットニュースで見たので、彼の任務の話には、触れない。代わりに最近観た映画やどうでもいい出来事。意味を持たせない会話を選ぶことでようやく保たれる均衡がある。
彼は時折こちらの反応を確かめるように視線を向けてくる。そこに所有欲や探り合いの色、何かを奪おうとする気配もない。ただ、この時間が、ちゃんと同じ場所に流れているかどうかを静かに確かめているだけのような眼差しがあった。その穏やかさが逆に、少しだけ怖かった。この人は、こうやってなにも壊さずに近づいてくる。そんなことをぼんやりと思った、そのときだった。
「こういうのが、好きなんですよねー」
不意に落ちてきたその言葉は、店のざわめきに紛れるようでいて、なぜだか、こちらの耳には、はっきりと届いた。
「ん?」
「順位とか評価とか関係なくてさ。ただ飲んでるだけの時間」
「ヒーローらしくないね」
「ですよね。でも俺は、こういうほうが長く続く感じがして」
その��続く�≠ニいう言葉が胸のどこかに引っかかる。そのときはまだそれが何を指しているのか深く考えようとはしなかった。ただ、言葉の端に触れたまま、意識の奥に沈んでいく。こうして、並んで飲んで、ささやかに祝って、特別な約束も交わさないまま夜が進んでいく。その曖昧さが、どこか心地いいのに、同時に輪郭を持たないまま揺れていることへの不安も孕んでいる。それでも確かに、大切だと思えてしまう時間だった。
私はグラスをテーブルに置く。わずかに残った冷たさが、指先に触れて、その感覚を、確かめるみたいにしてから会話の延長のような調子で口を開いた。
「何か、欲しいものは?」
言ってから、自分でも少しだけ唐突だったかもしれないと思う。けれど流れを変えたかったわけではなく、ただこの時間に何かを残したかった。
一瞬、意味を取り損ねたように、彼の視線が、こちらに向く。
「へ?」
「ランキング、頑張りましたのお祝い?」
軽く言う。軽く言っているつもりなのに、その奥にあるものだけが、自分でも隠しきれていないのが分かる。きっとそれは、このヒーローにも、悟られていることだろうと思う。
「なんか……急すね。」
苦笑に近い声が落ちる。けれど、その目は少しだけ、こちらを探るように静かに留まっていた。
私は、すぐに答えを思いつけなかった。欲しいもの——。形のあるもの。値段がつくもの。そういう単純な選択肢がこのヒーローとのあいだではどうしても、現実味を持たない。言葉にしようとすると、どれも、少しだけ違う気がしてしまう。
彼は、そんな私の沈黙をしばらく眺めてから、ほんのわずかに口角を上げて言った。
「もしかして、貢ぐタイプです? 名前さんって」
軽い調子だった。けれど、その軽さの中には、こちら側の思考の流れを、見透かすような感覚が混じる。私は思わず「え?貢ぐタイプ?」と同じ言葉を繰り返してしまう。自分の声が少しだけ、遅れてついてくる。
「だって俺がご馳走するたび、怪訝そうな顔してますし」
「……」
「それにいつもそうやって聞くじゃないですか。何が欲しい?って。軽い感じで」
あなたには言われたくない、と思う。けれど、それをそのまま言葉にする事ができない。否定も肯定もできないまま、視線だけが、宙を彷徨う。
グラスの縁を指でなぞりながら彼は小さく鼻先だけで笑った。その仕草がやけに自然で、言葉のほうだけが少しずつ輪郭を持ってくる。
しばらくのあいだ、沈黙が落ちた。気まずさはない。むしろ、その、沈黙の中で言葉になる前の感情だけがゆっくりと浮かび上がってくる感覚。形を持たないまま、けれど確かにそこにある物。彼はそれを、待つようにしている。急かさない。埋めようともしない。ただそのまま差し出されるのを待っている。ただ、視線だけは逸らさずに。
「誰にでも言ってるわけじゃ……ないけどね」
「いやいや、そーいう意味じゃなくてさ?」
「……?」
「俺はさ。こうやって一緒に笑ったり、無言でも気負いしないでいられる、その時間だけで、十分なんすよ」
その言葉は欲しがる響きではなかった。何かを求めるでも、遠慮するでもなく、ただ自分の中にある輪郭を確かめるみたいに、静かに置かれる。誰かに差し出すためというよりむしろ自分自身に言い聞かせているような温度。それなのに、その一言だけで、こちらの胸の奥がわずかに揺れる。私はまだ何も返せないままグラスを持ち上げた。氷が触れ合う乾いた音がやけに大きく響き指先に伝わる冷たさとその音の余韻だけが会話の隙間を埋めていく。
彼は、それ以上、言葉を重ねなかった。沈黙を怖がる様子もなく、ただそのまま箸を動かして、料理を口に運ぶ。その自然さがかえってこちらの内側を、浮き彫りにする。十分だと言った、その言葉の軽さと重さが、同時に胸に残る。
「……ほんとに?」
気づけば声が先走って勝手に出ていた。問いというより確かめたいだけの響き。彼は一度、箸を止めて、ゆっくりこちらを見る。
「何がです?」
「それだけで、いいの」
言いながら、自分でも曖昧な聞き方だと思う。その��それだけ�≠ノ、どこまでを含めているのか自分でも定義できていない。彼は少しだけ考えるように視線を落として、それから、肩の力を抜くように息を吐いた。そこに一度、言葉を選び直すような間がある。
「いい、というか」
「……」
「それが、いいんすよ」
言い換えられたその一文は、さっきよりも少しだけ強い輪郭を持っていた。その強さにわずかに息が詰まる感じがした。
「……欲、ないね」
「えー? ありますよ?」
すぐに返る。けれど、そのあとに続く言葉は、少しだけ慎重に置かれる。
「でも、増やすと、壊れるじゃないですか」
冗談めいた口調ではなかった。軽く言っているようでいて、その実、どこまでを、守ろうとしているのかが、透けて見える。
「……壊れる、ね。」
その言葉を口の中でなぞる。何が壊れるのかはわざわざ聞かなくても分かってしまう気がした。彼はそれ以上、説明しない。こちらに考えさせる余白だけを残して、またグラスに、手を伸ばす。
その距離の取り方が、やけに優しい。優しいのにどこかで線を引かれているようでもある。
私は何も付け足さないまま同じようにグラスを傾けた。冷たい液体が喉を通っていく感覚だけがさっきよりも少しだけはっきりしている。言葉にしなかったものだけが、静かに残る。
このときの私は、まだ知らなかったのだ。彼が何かを欲しいと言うとき、例えば『時間』とか。それが、どれほど勇気のいる願いなのかを。形のあるものではなく確約もできないものを、あえて選び取ることの重さを。
ただ、その夜の空気だけが、静かに、胸の奥に沈んでいく。触れればほどけてしまいそうなほど繊細で、けれど消えてしまうにはあまりにも現実として心の奥に居座る温度として。
気づけば、時計の針は二十二時を指そうとしていた。壁に掛けられたそれを見上げたとき時間が思っていたよりも滑らかに、気配を残さないまま流れていたことに、少しだけ驚く。
本当は欲しいものを聞いた理由は別にあった。今年は、彼の誕生日当日に祝ってあげられない。ただそれだけの事のはずなのに、その事実だけがどこか、居心地の悪い棘みたいにして、胸の奥に引っかかって、抜けないままでいる。
「あ、もうこんな時間なんすねー」
「……だね。出る?」
「んー、いや。もう少し飲んでいいすか?」
「いいよ。じゃあ私も追加、頼んじゃおっと」
会話は軽く流れていく。どちらもその奥にあるものには触れないまま、表面だけを丁寧になぞるみたいにして。
別に毎年約束していたわけじゃない。義務でもなければ守らなければならない決まりでもない。それでも、出会ってからの三年間、気づけば私は彼と何かしらの形で誕生日当日を一緒に過ごしてきた。それが今年はできない。日曜日で、友人の結婚式があるから。動かせない予定だ。欠席する理由も選択肢もない。むしろ、祝福すべき日で、迷う余地なんて本来ないはずなのに。
それでも、カレンダーを確認するたびに意識の隅で、小さなため息がこぼれた。誰に向けるでもない、説明のつかない感情だけがうまく処理されないまま、残り続けている。
「なに飲みます?まとめて注文しちゃいますよ」
「あー、どうしよう。ホークスと同じのにする」
「わお! なかよしぃ〜」
「もう。調子に乗らないの」
くだらないやり取りのはずなのに、その軽さに少しだけ救われる。なにも、深刻にしないでいられる距離。踏み込まないまま成立する会話。
当日の話をするつもりはなかった。わざわざ、言葉にして、意味を持たせてしまうのが怖いだけかもしれないけれど……グラスの中で溶けかけた氷が小さく音を立てる。その規則的な揺れに合わせるみたいに思考もまた、同じ場所を行き来している。彼は、いつも通りの調子でタッチパネルを操作している。注文を決める手つきも言葉を選ぶ間も過不足なく整っている。その落ち着き方が、二十二歳を目前にした人間のそれだと頭では理解しているのに、どこか実感が伴わない。むしろ、誕生日を迎える本人よりも祝えない側の私の方がどうしてこんなにも落ち着かないのか……。その理由をまだ言葉にできないまま、私はグラスに、指をかけた。
「オッケー、注文しましたー!」
「ん、ありがと」
——やっぱり、なかったことになんてできそうにもない。頭の中で何度も整えようとしたはずの理由や理屈はこうして彼の隣に座っているだけであっけなく、形を失っていく。残るのは、言葉にしきれない違和感と、それでも、無視しきれない感情のほうだった。
「そういえば、さ……」
会話の切れ目で、私はグラスをテーブルに戻しながら口を開く。できるだけ、なにかのついでのように、深い意味を持たせない声音で。ちょうどそのとき、注文していた新しいグラスが運ばれてきた。
「来月、忙しそう?」
彼は店員からそれを受け取りながら、一瞬だけ考える顔をする。わずかに視線を上に泳がせて、それから曖昧に首を傾げる。その仕草が意図的に考えているというより体に染みついた癖みたいに自然だった。新しいグラスが彼の手によって私の前に、そっと置かれる。その動作の滑らかさに、言葉より先に、気を取られてしまう。
「まあ……例年通り、って感じですかね」
特別な変化はない、という言い方。けれどその裏にある忙しさの密度は、きっと私の想像よりもずっと重い。私は「ふうん」と、短く返す。それ以上は、踏み込まないように。
「名前さんは?」
しかし、間を置かずに返される問い。こちらが投げたものを、そのままの温度で差し返される。その速さと鋭さに思わず内心で小さく舌を巻く。探るつもりで投げたはずの言葉が簡単にこちらへ戻ってきてしまう。その自然さには感心すらしてしまうほどだった。
「私は……ちょっと、週末は立て続けに、予定があってさぁ……」
言いながら自分の声の輪郭を確かめる。軽く、何気なく、特別な意味を持たせないように。彼はそれ以上、深くは聞いてこない。「へえ」と軽い相槌だけが、返ってくる。聞いてこないけれど、聞いていないわけではない。その沈黙のあり方を私は、もう、知っている。言葉を挟まないまま、ほんの少しだけ、間が伸びる。グラスの中の氷が静かに溶けていく音だけが、その空白を埋める。言うべきなのか。それとも、このまま流してしまっていいのか。ほんのわずかな時間のはずなのにその選択だけが、やけに、重く感じられた。口を開こうとして閉じる。その繰り返しの中で自分の中の迷いだけが少しずつ輪郭を持っていく。それでも彼は、なにも急かさない。視線だけを静かにこちらへ向けたままただ待っている。その待ち方が、余計に逃げ場をなくす。
「あ、あのさ。その、今年は……、」
言い出した瞬間、自分でも驚くほど、声が頼りなく揺れていることに気づく。ここまで引き延ばしておいて結局こうして言葉にしてしまうのは、たぶん逃げきれなかったからだ。視線はグラスの縁に落としたまま、そこに残った水滴を、指先でなぞるようにして余計な意味を持たせない形だけを整える。
「当日、あれなんだよねぇ……」
主語も理由も曖昧に濁す。目ざとく耳ざとい、空気の変化を取りこぼさない彼なら言わなくても伝わるだろうという前提で、委ねる言い方。
彼はほんの一瞬だけ目を瞬かせた。驚きというより与えられた断片をすばやく組み立てるためのごく短い沈黙。そのあいだに、私の中では余計な想像ばかりが膨らんでいくのに彼のほうはもう、次の表情を用意していた。
「ああ……なるほど」
「……うん。友達の、結婚式が入ってて……」
「へえ。そうなんですねー」
柔らかな声音。いつも通りの、角の取れた受け止め方。けれど、そのなめらかさがかえって何も問わないという選択を、さらに際立たせていた。
「ほんと、多いっすねぇ。お友達の結婚式」
「……ね。ご祝儀貧乏は健在だよ」
「それは……御愁傷様デス」
「もー、入れたふりして空の袋わたそうかな」
「それは最低っす。まあでも、めでたいすね」
軽く笑い合う。言葉の表面は、どこまでも穏やかに整えられている。ちゃんと祝福しているし、冗談の温度も返しの速さもいつもと変わらない。それでもその軽さの奥にに挟まる��間�≠フ長さが普段と違っていたのを、私は見逃さなかった。
彼は何も聞き返さない。招待された相手がどういう人なのかも、どれくらい時間がかかるのかもそのあとの予定がどうなっているのかも。問いを差し込めば、いくらでも続けられる話題なのに、それを選ばない。聞かないことでこちらの言葉の余白を、そのまま残しておく。それが、この人のやり方なのだと分かってしまう。
「なので!」
だから私は、わざと少しだけ声を明るくする。このまま沈んでいくであろう流れを、自分で断ち切るために——。
「別にその……好きに過ごしてくれていいから」
「好きに、と、言いますと?」
「誕生日、当日。」
言ってしまってから、ほんの少し、後悔する。あまりにも直接的だったから。遠回しにしていたはずの話題を自分の手で真ん中に引き戻してしまったような感覚。言わなくてもよかったかもしれないという後悔と言わなければ伝わらないという諦めが、同時に胸の内側で擦れ合う。彼は視線をグラスに落として、氷をひとつ指先でゆっくりと転がす。カランと、小さな音。それだけで、時間の流れがほんの少し引き延ばされる。言葉にしないままの何かがその音に紛れて沈んでいく。私はその様子を見ていることしかできなかった。目の前にいるのに、触れられない距離だけが広がった気がして。
たぶん彼は、分かっている。私が何を言おうとして、どこまでを言わずに残したのかも。だからこそ、何も聞かないのだろう。その優しさが少しだけ、痛かった。
「今年は、どうしようかな、とは思ってました」
ようやく落ちてきたその言葉は思っていたよりずっと静かでどこにも引っかからずに、そのまま胸の奥へと沈んでいくような響きだった。軽くもなく、重くもなく、ただ事実として差し出される声音。一応、考えていたんだな、と、遅れて理解した瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った。期待なんてしてはいけないとどこかで先回りして線を引いていたはずなのに、その内側にそっと、触れられてしまったような感覚だった。
約束なんてひとつもしていない。それでも彼の中にも「どう過ごすか」を考える時間がちゃんと存在していたという事実だけが、確かな重さで、胸のうちに残る。
「毎年、別に特別なことしてるわけじゃないですけど」
「うん」
「誰かさんが?一緒に? いてくれてたんで?」
あまりにも自然な言い方で、私は一瞬、返事の形を見失った。��誰かさん�≠ニいう、曖昧な言い換えが、かえって逃げ場を奪う。具体的な名前を出さないことで、逆にそれが、自分のことだと、逃げようもなく、分かってしまうから。特別じゃないと前置きしながら、その言葉の奥には、積み重ねてきた時間をきちんと覚えている人間の温度が滲んでいる。数えていないふりをしながらも、きちんと、数えているような声だったから。
「何もないのも、変かなー、ってね」
語尾がわずかに緩む。私に向けているようで、自分に言い聞かせているみたい声音。その距離の取り方が、この人らしいなと思う。私はグラスを持ち上げる。氷が溶けてさっきよりも軽くなった感触が、手の中でわずかに揺れた。
「じゃあ……誰かと、飲むとか?」
「誰か、ですか」
彼は、少しだけ笑う。否定もしないし、肯定もしない。どちらにも進める余地を残したままで、ただ言葉の表面だけを軽く撫でるような逃げ道を残したような、お得意の笑い方。
「まあ……可能性としては。ただ——どうだろ」
続きかけた言葉の前で彼は一度だけ視線を落とした。グラスの縁を指先でゆっくりとなぞるその動きに合わせて透明な水滴がわずかに揺れてテーブルに滴る。言葉を探している、というよりも、言い方を選んでいるようにも見えた。
「でもまあ。当日は、仕事終わりで真っ直ぐ帰る気は、あんまりないすね」
落ちてきたその声は低く、とても静かだった。一緒に過ごしたいとは言わない。けれど、一人で終わらせるとも言わない。そのあいだにある余白だけを、こちらに差し出してくるような言い方。
踏み込めば変わってしまう距離を、ぎりぎりのところで保ったまま。私は、その余白を受け取ることも拒むこともできないまま、ただ頷くだけ。
「そっか」
それ以上は言葉を重ねない。重ねてしまえば、この曖昧さはきっと、形を持ってしまうから。
グラスの中で、氷がまた小さく触れ合う。その乾いた音が二人のあいだにある見えない境界線を静かに、示している気がした。いまはまだ、その手前にいる。踏み越える理由も、引き返す理由もどちらも、揃ってしまいそうな場所に。
「——じゃあ、前後でね。」
「はい? 前後?」
「うん。どっかで、埋め合わせしよ」
口にしたあとで、自分の声の軽さに、少しだけ救われた。深く考えた末の提案ではなく思いつきの延長のように聞こえるように、整えた言い方にできたから。けれどそれは、その奥にある意図をあえて見えにくくしておくための、私のいつもの逃げ方でもあった。ホークスは一瞬だけ、驚いたようにわずかに目を見開いた。その反応があまりにも正直で、こちらのほうが息を詰めてしまう。しかし彼はすぐに視線を逸らしグラスのほうへと落とした。考えを隠すみたいにして。けれどその沈黙が拒否ではないことを私はもう知っている。むしろ、言葉を選んでいるときの静けさだということも。
「それ……」
「なぁに」
「期待して、いいやつです?」
言い方だけなら軽いのに声の芯が妙に真っ直ぐで思わず視線を上げる。冗談に紛れ込ませるには少しだけ真面目すぎる温度。流してしまえばいい問いのはずなのに彼はそれを拾い上げる。曖昧にしておけば楽なところを、わざわざ形にしようとする、その不器用な誠実さに、胸の奥で何かが、わずかに引っかかる。
私はすぐには答えない。急いで言葉にしてしまえば、今の距離が変わってしまいそうで、ほんの少しだけ間を置く。そのあいだにも、彼の視線は逸らされたままこちらに戻ってくる気配はない。待っているのに急かさない。その姿勢がこちらの呼吸を浅くする。
「もう……期待してたんかいっ」
「まあ、男の子なんで?」
「なにそれ」
「はは」
「まあ、期待しすぎない程度に」
「それ、一番むずかしいやつじゃないすか〜」
軽口の応酬に戻す。戻してしまえば、この空気は壊れないで済む。彼は小さく笑う。その笑い方がほんの少しだけ、緩んでいることに気づく。
グラスのなかで触れ合う氷の音がまた、二人のあいだにある、この曖昧な輪郭を、そっとなぞるみたいに響いた。
今年は誕生日の当日に祝えないかもしれないというその事実は、もう変えようがない。それでも��誕生日�≠ニいう、ひとつの区切りが確かに今の二人のあいだに横たわっていることだけは、もう誤魔化せなかった。約束は、していない。名前をつけるほどの関係でもない。けれど何もなかったことにはできない。
そういう距離のまま、私たちは向かっていく。彼が二十二歳になる、その日へと——。
料理のラストオーダーが告げられてテーブルの上の皿が、少しずつ片付いていくころ、お互いのグラスの中身も同じように減っていて満たされていたはずの時間が、終わりに向かって静かに形を変えていく。その流れに逆らう事も、止める事もできないまま私たちはまだ同じ席に座っている。
意識して振ったわけではないのに、話題はまたそこへと、戻ってきてしまう。避けていたはずの一点。けれど、完全に外すこともできない中心。たぶんどちらも同じ場所を見ないようにしながら同時にそこを意識している。
「今回の結婚式は、どんなコンセプトなんす?」
ホークスが箸を置きながら聞いてくる。それは何気ない質問の形をしていて、声の温度もほんの少しだけ軽い。意図的に重さを抜いているのが、分かるくらいに。
「え?あー、確かドレスコードがあったかなぁ」
「へー。どんな?」
「赤」
「雑」
間髪入れずに返ってくるから、私は吹き出してしまった。肩が揺れて少しだけ体勢を崩す。彼は「きたなっ!」と、顔をしかめながらも、手早くおしぼりを取り、こぼれた雫を丁寧に拭き取っていく。手つきが無駄なく、迷いがない。その自然さに、思わず見入ってしまう。こういうところがどうしようもなく、彼らしいなと思う。
「あ、ホークスの色じゃん」
「貸しましょうか? 剛翼」
「タダで?」
「一時間、20万っすね〜支払いは現金のみで」
「うわ、リアル〜。汚い大人になちゃったねぇ」
冗談めいたやり取りの間に二人のグラスが軽く触れ合う。その音がさっきよりも少しだけ澄んで聞こえた。
ついさっき言った��赤�≠ニいう単語に彼は一瞬だけ、眉を上げていた。ほんのわずかな反応だ。けれど、その先には踏み込んでこない。似合う、とも言わない。言わないことで何かを保っているみたいに。その沈黙の選び方に、また少しだけ、胸がざわつく。
「結婚式、何時からなんすか?」
少しだけ間を置いて、また彼のほうから問いが落ちてくる。さりげなく。けれど、確実に、次へ進めるための質問が。
「えっと……今回の式はね、夕方から」
「へぇ。じゃあ、あれだ。花火あがるやつ」
その返答の速さに私は思わず箸を止める。顔を上げると、彼は「へ?」とでも言いたげな、少しだけ間の抜けたような表情をしていた。
「やだ、なにー? 詳しいじゃーん」
「なんすか、ニヤニヤして」
「どうしてそんなこと知ってるわけ〜?」
「名前さんの結婚式レポート、何回聞いたと思ってんすか」
なんともさらりとした言い方だ。誇るでもなく照れるでもなく、ただ、事実を置くだけの声音。けれど、その記憶の正確さが自分でも忘れていたような細部までどこかでちゃんと覚えられていたみたいで、胸の奥をくすぐった。
「ははっ。それは、間違いない」
笑いながら答える。けれど視線は彼から逸らせなかった。彼はもう、次の料理に、手を伸ばしている。何事もなかったかのように。
花火という単語。その先にある時間。夕方から始まって、夜へと移っていく流れ。終わる時間。そのあとに残る、夜の余白——。
彼は何も聞かない。けれど、聞かなくても分かっているのだと、分かってしまう。頭の中では、時間の流れをすでに、組み立てていること。その計算の中に、自分が含まれているのかどうかを、確かめる勇気が持てないまま。その事に気づいてしまって私は少しだけ、グラスを持つ手に、力を入れた。約束は、していない。けれど、こうして話しているだけで、その日はもうただの不在ではなくなっていく。何も決まっていないのに何かが動き出してしまっているような感覚。
店内の空気は、相変わらず賑やかで、笑い声やグラスの音が絶え間なく重なっている。その中で私たちの会話もまた軽口ばかりで繋がれている。それでも——その奥に、言葉にならないまま共有されている時間の気配だけが静かに沈んでいる。消えないまま、底のほうに、ずっと。
「二十二歳って、どう? 実感ある?」
「急にくるんすね」
何気なく投げたつもりの問いに、彼は少しだけ目を細める。考えるというより言葉を探すための短い沈黙だ。そのあいだに、私のほうが先に落ち着かなくなってしまう。彼はやがて、首を傾げるようにして言った。
「まだ、ないです」
「でしょー」
「今と、そんな変わらない気がします」
「それ言い出したら、たぶん三十まで同じだよ」
「え、そんなに?」
「うん。気づいたら数字だけ増えてるやつだよ」
軽く言ったつもりだったのに、彼はわずかに、眉を寄せた。その反応が妙に真面目で、少しだけ可笑しくなる。
「それ、ただの怖い話じゃないですか」
「現実。実話の怖〜いはなし。」
「じゃあ、二十二歳の目標とか立てたほうがいいやつですね」
「なにそれ、自己啓発本?」
私がくすっと笑うとホークスもつられるように笑った。その笑顔を見ているとどうしても思ってしまう。太陽みたいだな、と。ああ、この人は、本当に明るい光のほうへ向いている人なのだと。
それは眩しい、というよりも、逃げ場をなくす種類の温度だった。
「じゃあ、名前さん的には?」
「なに?」
「俺、二十二歳に見えます?」
問い返されて、私はわざと「うーん」と曖昧に相槌を打ってから少し間を置く。すぐに答えればいいはずなのに、その数秒を挟むだけで、言葉の重さが変わる気がしたから。
彼は待っている。急かさずに、けれど目だけは逸らさずに。店内の照明を受けて、その琥珀色の瞳がやけに明るく見える。
「ヒーローのときは、もうちょっと、上?」
「えー、クエスチョン?まあ、ですよねー」
「こうしてると、年相応」
「それ、褒めてます?」
「たぶんね」
「でた、たぶん〜」
ホークスは、納得していないような顔のまま、グラスを軽く持ち上げた。その曖昧さをそのまま受け取るところが、彼らしいとも思う。
「じゃあ、ひとつ。助言しておくね?」
「はい」
「年相応の二十二歳として、飲みすぎないように気をつけなね」
「それ、前にも聞いた気がします」
「デジャヴだね」
「毎年、同じ注意されてる気がするんですけど」
言いながらもホークスは手にしていたグラスを静かにテーブルへ戻した。まるで、こちらの何気ない注意をそのまま受け取った証みたいにして。それが軽口に応じただけなのかそれとも無意識に染みついた配慮なのか。その境界が曖昧なまま、私はその仕草を、目で追っていた。
特別な意味はない。ただのありふれたやり取り。それでも、こういう会話ほどあとから妙に、鮮明に残ることを私はもう知っている。箸を置く音が同時に重なる。小さな衝突音が二人のあいだに、ひとつの区切りを落とす。会話がゆるやかに途切れる。その隙間が思っていたよりも広く感じられて私は無意識に息を整える。
いまならば、言えるかもしれない。そう思ってしまった時点でもう半分は、言っているのと同じだった。視線を少しだけ逸らす。真正面からではなく、逃げ道を残した角度で。それでも言葉は、静かに口元へと上がってきていた。
「……そういえば、さ」
グラスの底に残った氷が溶けかけた輪郭のまま音を立てる。そのかすかな響きに、押し出されるみたいに、私はふと口を開いた。何気ない会話の流れに紛れ込ませるようにして、けれど内側ではきちんと、意図を持った問いだった。
ホークスは「はい?」とすぐにこちらを見る。軽い調子の返事なのに視線だけは逃げない。その癖が、どうしても、ただの会話にしてくれない。
「今年も一応、聞いとこうかなって」
言いながら、自分の声が少しだけ曖昧に揺れていることに気づく。何を、とは言わないままでも通じてしまう関係の便利さと危うさが、同時に、胸の奥で擦れた。彼は一瞬だけ、首を傾げる。
「聞く?」
「うん」
「何をです?」
「なにか、欲しいもの」
分かっているはずなのに、あえて輪郭をぼかす問い返しだなと思った。だから私は、小さく息を吐いて言葉を軽くしたのにその瞬間、彼の反応がわずかに遅れたのがわかった。視線が一度、宙に外れて、それからこちらに戻ってくる。その短い間に、彼の心のうちが少しだけ透けて見えた気がした。
「急ですね」
「急じゃないよ」
「いや、急ですって。やっぱ、貢ぎ癖がある」
「ないよ。ほら、一応? 聞いてるから。毎年」
言い切ったあとで、自分の指先がグラスの縁をなぞっていることに気づく。癖みたいな動きだ。触れていないと、落ち着かないから。そのとき、彼の表情が、ほんのわずかに変わった。驚きと、思い当たる節と、確かめるような。そして、少しだけ、照れを含んだような柔らかさ。
「ああ……そういえば」
「でしょ」
「毎年、聞かれてますね」
「聞いてる」
軽く言い返しながらも、その��毎年�≠フ重みを私は自分で思っている以上に、大事にしているのかもしれないと、遅れて気づく。当日一緒にいられないという事実の代わりに、こうして言葉だけでも残そうとしている自分の小さな執着が、少しだけ可笑しくて、少しだけ、切なかった。
「今年は、どうする?」
問いは短いのに、その先を委ねる響きを持ってしまう。彼はすぐには答えない。視線を落とし、グラスの中の氷を、ゆっくりと回す。溶けた水が透明な膜みたいに、その縁をなぞっていく。
「……難しい、質問すね」
「毎年、言ってない?」
「ははっ、言ってますねぇ」
小さく笑う声。その軽さの裏で、何を選ぶかを一瞬だけ考えているのが分かる。その時間を邪魔しないように私は何も言わずにただ、待つだけ。
「正直、必要な物は、だいたい揃ってるんで」
「出た。またそれ」
「事実なんでねー。でも、あれっす」
「うん?」
「聞いてもらえるのは、嬉しいですよ」
その一言は、驚くほど静かに落ちた。冗談にも逃げず、照れにも寄せず、ただそのまま差し出される声音。その素直さに不意に言葉が途切れる。胸の奥が、わずかにほどけるような、でも同時に触れてはいけない場所に触れたような感覚。
「そっか」
「はい」
それ以上、彼は、踏み込まない。欲しいものの具体を口にしないままで、余白だけを残す。その距離の取り方が、あまりにも彼らしくて私は一度視線を逸らした。それから「じゃあ」と少しだけ肩をすくめる。
「また、考えといて」
「それ、宿題です?」
「そ。毎年恒例のね」
「期限は?」
「んー、誕生日当日まで」
「それは、また。猶予がある感じで」
そう言いながらも彼はどこか楽しそうだった。その往復の中で、さっきの静けさが完全に消えるわけではなく、むしろ底のほうに沈んで、ゆっくりと残り続ける。彼は変わらずヘラヘラと笑っている。けれど、その笑みの奥で何かを保留にしたままにしていることを、私はもう知っていた。
当日を一緒に過ごせるかどうかには触れない。触れないまま、それでも、��誕生日�≠ニいう一点だけが、確かに二人のあいだに置かれている。
欲しいものはまだ、言葉にならない。けれど、こうして問いかけた事、受け取られた事——その往復だけで、今年も変わらず��特別�≠ナあることだけは互いにちゃんと、わかっていた。何も約束していないのに、何もなかったことにもできないままグラスの中の氷が、またひとつ、小さく音を立てた。まるで、言葉にならないものの代わりに時間だけが、静かに進んでいることを、知らせるみたいにして。
店を出ると、夜気が思ったよりも冷たかった。身体の内側にはまだアルコールの熱が残っているはずなのに、その温度差が輪郭を持ってこちらに迫ってくる。肩をすくめると隣を歩く彼の歩調がごく自然に、わずかに緩んだ。その変化はあまりにもさりげなくて、意識して見ようとしなければ見逃してしまいそうなのに、なぜか私はそういう細部だけは、きちんと拾ってしまう。
駅へ続く道は、取り立てて、記憶に残るようなものは何もない。車の往来が途切れず信号の色が淡々と切り替わり、靴底がアスファルトに触れるたびに同じ音を繰り返す。それなのに今夜の空気だけがどこか収まりきらずに揺れている。言葉にしてしまえば、簡単に崩れてしまいそうな何かが沈黙のあいだに漂っていた。
「今日は、ありがとうございました」
先に口を開いたのは、ホークスのほうだった。きちんと整えられていて落ち着いた声音。飲みの終わりに必ず添えられる、区切りの言葉。その、いつも通りが、逆に胸の奥をかすかに撫でる。
「こちらこそ。ご馳走さまでした」
「いえ。久しぶりに、ゆっくり話せましたし」
「……うん、だね。」
返しながら、喉の奥に、わずかな引っかかりを感じる。うまく処理できない感情が、言葉の形を借りて通り抜けていくみたいだった。
��ゆっくり�≠ニいう単語が、思った以上に長く残る。時間の速さではなく、距離のことを言っているのだと、遅れて気づく。誕生日当日を一緒に過ごせないという事実には触れないまま——それでも、こうして並んでいる時間が特別だったことだけは、どちらも理解しているような、そんな、言い方だった。
駅の灯りが見えてきて、足が自然に減速する。この場所で別れるのが、いつのまにか当たり前になっている。その当たり前の手前で、ホークスが完全に足を止めた。「あの、」と呼び止められて私は振り返った。
「決めました」
「なにが?」
「欲しいもの」
短い言葉だった。けれどその中に含まれているものの重さを、すぐには測りきれない。喉の奥で音にならない呼吸がひとつ、引っかかる。居酒屋でのさっきまでの会話が時間を遡るみたいにして静かに繋がっていく。思わず、喉の奥が鳴る。
「……なんの、話?」
「え? 今年の誕生日に、欲しいもの?」
「……」
「やだなぁ。さっき、聞いてくれたじゃないですかぁ」
彼は、視線をこちらに向けないまま、少しだけ斜め上に逃がして言う。その曖昧な焦点が、逆に彼の内側を、隠しきれていないことを示している気がして、私は目を逸らせなくなる。
「聞いた、けど……それで?」
「当日。予定、あります?」
「うん?」
「……その、結婚式が終わったあとって」
問いの形をしているのに、どこか唐突で慎重に置かれた言葉だった。踏み込みすぎないようにしながら、それでも引かない距離。
胸の奥がゆっくりと締め付けられる。私は少しだけ考えるふりをしてから、小さく首を振った。
「……え、とくには」
声が、思っていたよりも静かに落ちる。返した瞬間、もう戻れない選択をしたような気がして、わずかに息が浅くなる。「じゃあ」と続く一言と同時に、視線がようやく交わる。街灯の下で彼の瞳の色だけが、やけに鮮明に見えた。
「その、終わってからの時間で」
「……え?」
「俺の今年の欲しいもの、それで」
言葉が追いつかないまま、呼吸だけが先に乱れる。秋の夜風が二人のあいだをすり抜けていく。冗談に逃げる気配も押しつける強さもない。ただ選び取った言葉をそのまま差し出すみたいな声音だった。
その一言で、これまで曖昧に保っていた境界がほんのわずかに形を持つ。特別な約束ではない。けれど、何もなかったことにもできない、確かな輪郭。私はすぐには答えられないまま彼を見た。断る理由も受け取る覚悟も、どちらもまだ言葉にならないまま、ただ胸の奥で何かが静かに動いている。夜は相変わらず同じ速度で流れているのにここだけ、時間の密度が違うような気がした。
「それって……」
言葉の先を自分でも掴みきれないまま零すと、彼は迷いなく「はい」と頷いた。その動きがあまりにも自然で、ためらいが一切、混じっていないことに逆にこちらの呼吸だけが遅れる。その短い肯定だけで、今しがた差し出された提案が、軽い思いつきではないことを思い知らされる。
ホークスはさらに一歩、距離を詰める。触れるわけではない。ただ、逃げ場を曖昧にするには、十分すぎる距離だ。
「当日に祝えないってこと気にしてるの伝わってたんで」
視線は柔らかいのに言葉は妙に正確で逃げ道をひとつずつ、拾っていくようだった。胸の内側に隠していたはずの感情が形を与えられて外に引き出される感覚に、思わず足元に視線を落とす。
「だから、無理にとは言いません」
その一言に、ほんのわずかに余白が生まれる。強制ではない、という形をきちんと残したまま、それでも引かない立ち方。短い沈黙のあと、彼は先を続ける。
「でも、空いてるなら」
言葉は途中で止まっているのに、その先がもう見えてしまう。選択肢を渡されたはずなのに気づけばどちらを選ぶかはほとんど決まっているような、そんな静かな確定の感触が、胸の奥に落ちていく。約束ではない。ただの提案。それなのに、断る理由がどこにも見つからないことに自分でも少し驚いていた。
「……何時に帰ってこられるか、わからないよ」
ようやく絞り出した言葉は、確認というより、言い訳に近い響きを帯びていた。時間の不確かさを盾にして、ほんの少しだけ距離を保とうとするみたいに。
「いいですよ」
「十二時、過ぎちゃうかもしれない」
「ええ」
間を挟まずに返ってくる肯定が軽やかすぎて、かえって重く感じる。彼の中ではもうその程度の遅れは何の問題にもならないのだと言葉にされる前から理解してしまう。
「一回、着替えに帰りたいし」
「ドレスのままでいいですよ。見たいし、ね」
さらりと言われて、思わず顔を上げる。視線がぶつかる。その言い方は、冗談でもからかいでもなくただ��そうしてほしい�≠ニいう単純な希望に近かった。
「でも……そんなもので、いいの?」
「それがいいんです」
迷いのない返事だった。選び直す余地を残さないくらいまっすぐに。その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけていく。整えようとしていた理屈や引き延ばしていた距離の意味が、急に薄くなる。彼はずっと同じ場所に立っていて私はその周りを遠回りしていただけだったのかもしれない、と、そんな考えがよぎる。
それなのに私は、まだどこかで言葉を選ぼうとしている。整えようとして余計に不格好になっている自分を、自覚してしまう。恥ずかしさに似た熱がじわりと頬に上がる。彼は何も急かさない。ただそこに立って、こちらの答えを待っている。その静けさが優しさなのか、確信なのか、判別がつかないまま。けれどもう、戻る方向だけはどこにも、残っていなかった。
「ずいぶんと、無欲なヒーローだね」
思わずこぼれた言葉は、半分は、冗談のつもりだったのに、口にした瞬間に、自分でもどこかで本気に触れている気がした。彼は軽く肩をすくめる。その仕草はいつもと変わらないのに、返ってくる言葉の温度だけが、ほんの少し違っていた。
「そうです? 時間は有限ですよ?」
「ま、まあ……」
「お金じゃ買えない」
あまりにも滑らかに、考える間もなく出てきたその一言に、私は不意に言葉を失う。飾り立てた理屈ではなく、もっと手前にある、呼吸みたいな感覚で選ばれている言葉。考えてから言っているわけじゃない。たぶん、ずっとそうやって生きてきた人の価値観だ。彼にとっては当たり前の前提なのだろう。だからこそ、その自然さが少しだけ眩しく感じられた。
私は彼の横顔を見つめたまま返す言葉を探す。けれど、うまく整ったものは見つからない。ただ胸の奥に静かに落ちてくる感覚だけが残った。
「……たしかに」
「でしょ」
彼は満足そうに小さく頷く。その短い肯定に、私は遅れて笑う。納得したというより納得させられた、に近い感覚だった。彼の中では、最初から答えがひとつに定まっていて、私は、そこに辿り着かされただけなのかもしれない。それでもその道筋が不快ではないことに、少しだけ戸惑う。
「……考えとく、って言ったら?」
自分でも分かるくらい、逃げ道を残した言い方だった。完全に受け取るでも拒むでもない、中途半端な位置に身を置こうとする声音。彼はそれを否定しない。むしろほんのわずかに口元を緩めて言った。どうせ、私がそう言うだろうという事を知っていたみたいにして。
「オッケーです」
「即答だね」
「慣れてるんで」
軽く言う。その軽さに紛れているものを、私は見逃さない。待つことを、選び続けてきた人の、無理に掴みに行かない強さと、引かない意志。
その声音を聞いた瞬間、胸の奥にわずかな痛みが走る。彼はずっとこちらの答えを急がずにいられる距離で立っている。それが優しさなのか覚悟なのか、もう、区別がつかない。私は視線を少しだけ逸らす。夜の空気がさっきよりも、わずかに冷えている気がした。
「ちなみにさ、他には?」
ふと、間を埋めるように投げた、言葉だった。さっきまで胸の奥に残っていた温度を、少しだけ軽くするための、逃がし方に近い問い。
「なにがです?」
「お金で買えないものリスト」
自分で言いながら少しだけ笑ってしまう。深く考えれば、きりがない話なのに、あえて軽く扱うことで、触れすぎないようにする。そんな調整を無意識にしている気がした。彼は一瞬だけ考える仕草を見せて、それから迷いなく口を開く。
「んー、命。」
「わー」
「なんすか」
「今めちゃくちゃヒーローっぽいなって思った」
「あのー、一応ヒーローなんすけどね」
呆れたような声なのに、どこか柔らかい。そのやり取りに私はようやく自然に笑えた気がする。さっきまでの少し重たかった空気が、ほんのわずかにほどけて私の笑い声が夜の闇に消えていく。その消え方を目で追うこともできないまま、ただ余韻だけが残っていた。
「それ考えると結構あるかもね、お金で買えないものって」
「そっすね」
並んで歩きながら、言葉だけが、軽やかに行き交う。けれど、その底には、さっき交わしたやり取りの名残が、まだ沈んでいる。
「たとえば、若さ」
「でた。それ、絶対言ってくると思いました」
「あとは、健康」
「いい線っすね」
彼は楽しそうに頷く。その表情を、横目で捉えながら私は少しだけ息を整える。こうして軽口を交わせる距離が、どれだけ絶妙なバランスの上に成り立っているのか、考えないようにしながら。
「じゃあ次、ホークス」
「俺? なんなんすか、その言葉遊び」
「いいから」
半ば押しつけるように促すと、彼は小さく肩をすくめる。それでも拒まないところが、やっぱり優しいなと思う。
「まあ、じゃあ……安心、尊厳、誇り、とか?」
「うわ! 手強いのきた〜。じゃあ、タイミング、機会、覚悟」
「そっち系もアリなんすね。じゃあねぇ……」
少しだけ間を置く。その短い沈黙の中で、彼の思考がどこに向かっているのか、なんとなく想像できてしまう自分がいる。
「失われた日常、一度しか言えなかった言葉——守れなかったはずの何か」
その現実的な並びに、私は思わず笑うより先に息を飲んだ。軽い遊びのはずなのに、急に重心が変わる気がした。
「重いって、それは」
「あら、すんません」
「……それ、オールマイトなら絶対言わない」
「別にそっち系ヒーロー、志してないんで」
さらりと返す声。その軽さに救われる。けれど今の言葉が、ただの遊びではないことも、同時に理解してしまう。
「じゃあさぁ。信頼、信用……愛情」
「あらぁ〜......負けました」
「勝ち負けでやってないよ」
言いながら私はコートの襟に顎を埋めた。冷えた空気が布越しに伝わってくる。その感触に紛らわせるように、呼吸を整える。軽口の応酬のはずなのに言葉だけが静かに積み重なっていく。形のないものばかりを並べているのに、その、ひとつひとつが妙に具体的に胸に残る。彼は隣でいつも通りの顔をしている。けれどその横顔の奥にあるものを私はもう見落とせない。言葉遊びみたいに始めたはずのやり取りが、いつの間にか触れてはいけない部分の輪郭をなぞっている。
私は息をひとつ、ゆっくり吐いた。夜の空気が肺の奥まで入り込んで少しだけ頭が冴える。それでも隣にいる彼の存在だけが、現実を曖昧にする温度を持ったまま、変わらずそこにあった。
「じゃあ——その時間、空けとくね」
それだけの一言。自分でも驚くほど、あっさりしていた。覚悟を決めたというほど大げさなものではなくて、ただ今ここにある流れに、逆らわなかっただけの選び方。それでも、その一言が持つ意味の重さを、私は遅れて理解する。言葉は軽く落ちたのに胸の奥では静かに何かが位置を変えていた。ホークスは、ほんの一瞬だけ言葉を失ったように見えた。視線がわずかに揺れて、それからすぐに、いつもの表情に戻る——そのはずなのに確かに、ほんのわずかだけ緩んだのを私は見逃さなかった。
「考える時間、もう終わったんす?」
「終わった」
短く返すと彼は小さく息を落とす。その吐息の温度が夜の空気に紛れて、かすかにこちらにまで届く気がした。
「……ありがとうございます」
その声は、さっきまでよりも少しだけ低くて、静かで、余計な飾りがなかった。いつもの軽さを一度手放して、きちんと受け取ろうとする声音。その変化に触れた瞬間、胸の奥が揺れる。
「でも……まだ、確定じゃないよ」
「ははっ。それでも、十分です」
言い添えたのはほんの少しだけ自分を守るための言葉だった。完全に決めきってしまうことへのかすかなためらい。それでも彼はあっさりと受け取る。条件も確約も求めない。その余白の残し方が、ずるいなと思う。追い詰めないくせに、こちらが逃げにくくなるような距離で、ずっと立っている。
改札の手前で、自然と足が止まる。人の流れは絶えないのにこの場所だけ少しだけ時間の密度が違う気がした。彼は一度だけ振り返る。こちらをまっすぐに見て、それから少しだけ目を細めた。
「二十二歳の誕生日」
「うん?」
「悪くないスタートに、なりそうです」
その言い方は、誇張も期待も、押しつけない。ただすでにそうなると決めている人の落ち着いた響きだった。軽く上げられた手に私は小さく振り返す。その動作が終わる頃にはヒーローの背中は人の流れに紛れていく。
約束はしていない。言葉にした確約はどこにもない。それでも予定だけはもう静かに動き始めている。当日に祝えないかもしれないという事実は変わらないのに、そのあとに続く時間が、確かに意味を持ち始めていることを身体のどこかが先に理解していた。
たとえ、その日が終わったあとでも、残された時間は彼にとって��欲しいもの�≠ノなる。そして私はその一部になることを、もう選んでしまっている。二人の関係はまだ、名前を持たないまま、続いている。けれど彼の二十二歳の誕生日だけはもう誰にも見えないところで、静かに動き出していた。