数えるほどではあるが、これまで何度か食事に行っている相手との約束の日。友人の紹介で知り合った男性で、話し方は穏やかで相手の話をよく拾う人だった。会話が途切れそうになれば自然と新しい話題を引き出してくれるし時間が遅くなりすぎる前にきちんと区切りをつけてくれる。店を出るタイミングも帰り道の距離感も、どこか礼儀正しく整っている。いわゆる��感じのいい人�≠ニいう類のやつだろう。欠点らしい欠点は、今のところ見当たらない。致命的な違和感もまだない。それでも何かを測りかねている自分がいることに私はうっすら気づいていた。
駅へ向かう帰り道。夜風は冷たくなっていて、昼間よりも空気が少し乾いている。歩道に落ちた街灯の光の中を、私たちは並んで歩いていた。
「今日も楽しかったです。落ち着いたお店、好きなんですよ」
隣の彼は今日の食事の感想を楽しそうに話している。素直な声だった。その言い方と声に作為はほとんどない。私は小さく頷きながら返す。
「それは、よかったです」
「いい感じのお店、たくさん知ってますよね」
その言葉を聞いた瞬間ふと別の顔が浮かんだ。そういう店をたくさん知っているのは、正確には私ではない。いつも探してくれる人が近くにいるだけだ。あの、ヒーローの顔が頭をよぎる。軽い調子で店を決めて何気なく予約を取ってこちらが迷わないよう道順まで整えてしまう人。私はその記憶を頭の隅へ押し戻して、笑って相槌を打つ。歩幅を自然に合わせる。並んで歩く距離も適度に保つ。ちゃんとしたデートの帰り方。そんな言葉がふと頭の片隅に浮かんだその時だった。前方の歩道が、急に、ざわつき始めたのだ。人の流れが少しだけ滞る。誰かが立ち止まりその後ろで別の人が足を止める。それに合わせるようにして隣を歩いていた男性が、急にぴたりと動きを止めた。私も反射的に足を止める。
視線の先——。街灯の下に数人のプロヒーローたちが、立っていた。ヒーロースーツではない。私服だ。任務帰りなのか、それとも、ただの外出なのかは分からない。それでも周囲の空気はすぐに変わる。そしてその中に、赤い羽根があった。胸の奥がひゅっと鳴る。ホークスはヒーロー仲間と何か話していたところだった。軽く体を傾け、相手の言葉に頷いている。その視線がふとこちらへ向いた。一瞬。本当に、ほんの一瞬だけ。目が合う。表情は変わらない。驚いた顔もしないし、笑いもしない。でも、気づいたのは確かだった。
「えっ……! あれ、ホークスですよね!?」
私の隣で男性が声を上げた。興奮を隠そうともしない声だった。ヒーローを目の前にした一般人の、ごく普通の反応だ。分かっている。それでもその高い声の温度が、今はやけに耳についた。
「初めて生で見ましたよ、うわぁ……本物だ」
「……」
「声、かけてもいいですかね……?」
そう言いながら彼は、もう一歩、前へ出ようとする。その腕を、私は反射的に引いていた。
「……やめておいた方が、いいかと」
「え? でも、せっかくだし——」
「今、ほら。オフっぽいから」
言葉は思ったより早く出た。自分でも驚くくらい迷いがなかった。男性は、一瞬きょとんとしたあと、すぐに「あ、そうですよね」と頷く。私もそこで、軽く掴んでいた彼の腕をそっと離した。
「なんだか興奮しちゃって……すみません。いやでも、本物だぁ……」
まだ少し興奮が残っているらしく、視線だけは何度もそちらへ向けている。その様子をホークスは、ちゃんと見ていた。そしてヒーロー仲間との会話を軽く切り上げて、周囲に集まりかけていたギャラリーを自然な仕草でかわしつつ、こちらへ向かって歩き出す。足取りはいつも通りだった。軽くて迷いがない。それなのに、近づいてくるにつれて胸の奥の鼓動だけがゆっくり大きくなっていく気がした。
「こんばんは〜」
その声は思っていたよりもずっと近くで聞こえた。軽く明るく、いつもと変わらない調子なのに耳に届いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。気づけばホークスはもう、目の前に立っていた。
「こ……こんばんは!」
私より先に返事をしたのは、隣の男性だった。少し上ずった声。さっきから、抑えきれていない興奮がそのまま言葉に乗っている。素直な人だなと思う。
「初めまして! あの、すごくファンで……!」
「まぁ!俺の? ありがとうございまーす」
ホークスは柔らかく笑って、軽く会釈をする。自然な所作だった。相手の熱量を受け止めながらも距離を崩さない、きれいに整った、ヒーローの対応。仕事の顔だとすぐに分かる。私がその姿を呆然と眺めているとホークスの視線が、こちらへ移る。
「名前さん」
呼び方は、いつも通りだった。特別な響きも、余計な含みもない。それなのに、その一言だけで胸の奥の空気が少し落ち着かなくなる。
「偶然ですね」
「ほんとにね」
短いやり取り。それだけで十分すぎるほど心拍が整わない。私たちの間にある距離は変わらないはずだった。それでもさっきまで別の人と並んで歩いていた自分の姿を、この人に見られていると思うと、なぜか、足元が少しだけ不安定になる。
「お知り合いですか?」
ホークスが私ではなく、私の隣の男性へ視線を向けて問う。声は穏やかで、どこにも棘はない。それはただの、世間話の調子だった。
「え、あ、はい!今日たまたま、ご一緒してて」
男性が慌てて答える。たまたま。その言葉が、胸のどこかに、小さく引っかかった。たまたまというには、いくつか段階があったはずだ。連絡を取り合い時間を合わせて店を決めて席に座って。それでも彼はそう言ったのだ。たぶんそこに深い意味はない。
「へー。そうなんですねー」
ホークスは軽く頷く。それ以上は何も言わない。視線が、もう一度こちらへ戻る。ほんの一拍だけ、じっと見られる。言葉はない。でも、確認するみたいな目だった。
私が何も言わないままそこに立っていると彼、ホークスは、ゆっくりと視線を外した。そして、あくまで自然な口調で言う。
「遅い時間ですし。お気をつけて」
「……うん」
それだけだった。それ以上何も踏み込まない。私の隣にいる男性にも私自身にも。余計な言葉を一つも足さないまま、距離を保ったまま、会話を終わらせようとする。その静かな引き方が、かえって胸の奥に残ってしまう。もし、少しでも棘のある言い方をされたら、たぶん私はもっと簡単に受け流せたのに。そんなことを、考えてしまう。そんな私の思考を知ってか知らずか、ホークスがもう一度だけ、こちらを見た。笑ってはいない。かといって怒っているわけでもなさそうだ。ただ目だけがまっすぐに私を捉えている。何かを確かめるような、あるいは、何も確かめないまま飲み込んでしまうような、そんな静かな視線だった。
「……じゃ。俺、戻りますね」
短い言葉。それ以上は、続かない。あまりにもあっさりしていて、まるで今のやり取りがただの通りすがりの挨拶だったみたいに思えてしまう。彼はそのまま踵を返し、ヒーロー仲間のほうへと戻っていった。赤い羽根が、街灯の光の下をゆっくり離れていく。私はただそれを見送ることしかできなかった。呼び止める理由もない。そうする関係でもない。分かっている。分かっているのに背中が遠ざかるたび、胸の奥のどこかがじわりと冷えていく。そのときだった。隣の男性がまだ、興奮の残る声で口を開いた。
「いやぁー、感激でした!ヒーローの知り合いがいるなんて、羨ましいなあ」
弾むような声だった。純粋な感想。悪意のない驚き。それは分かっているのに、その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥のどこかが、かすかに軋む。
知り合い。その呼び方は、たしかに間違ってはいない。でも、ぴたりと収まりきらない違和感が心の奥でゆっくり広がっていく。私は、何も言えないまま、立ち尽くしていた。男性は、まだ話し続けていて、つい先程まで静かにお酒を交わしていた彼とは、まるで別人である。
「いやぁ、ほんとかっこいい。オーラが違うっていうか……ほんと、彼はヒーローだ」
その言葉に私は曖昧に笑って頷きながら、先に歩き出す。剛翼のヒーローに、背を向けるようにして。すると彼も慌てて私の隣に並んだ。自分の足取りはさっきと同じはずなのに歩幅だけが少しぎこちない気がする。
ちゃんとした人。今、隣にいるこの人のことを私は嘘偽りなく、そう思う。話し方も穏やかで、気遣いもできて、距離感も、乱さない。今日の夜だって、きれいに整った時間だった。そうだったはず。悪くない夜。本当に悪くないはずなのに、ヒーローに会えて興奮している人の隣でヒーローに会って心が乱れている自分を、どう扱えばいいのか分からなくなる。胸の奥が落ち着かないまま揺れている。小さく振り返ってみると、もう赤い羽根は、人の流れの中に紛れていた。
あのヒーローは、一度も、振り返らなかった。それが、当然だと頭では分かっているのに、その当然が、なぜかいちばん深く胸に残る夜だった。
私は、歩きながら思う。振り返ってほしかったわけじゃない。呼び止めたかったわけでもない。それでも振り返らない背中を見送ったことだけがこの夜の中で、いちばん、鮮明に残ってしまっていた。
駅で男性と別れたあと、わたしはそのまま家に帰る気になれなかった。悪い人じゃない。むしろちゃんとしている。それでも胸の奥に残ったざらつきがコートの内側でずっと擦れていて、今夜は一人で飲み直したほうがいいという結論に、ほとんど反射で辿り着いた。
入ったのは、駅裏の小さなバー。カウンターが長くて、照明が落ち着いていて、誰かと来るより一人で来る人が多い店だ。端の席に腰を下ろしてハイボールを頼む。スマホを取り出して今朝から見返している短い動画を再生する。音は小さく、字幕だけ追う。意味も内容もほとんど頭に入っていない。
——あの、赤い羽根。思考が、勝手に戻ろうとするのを、グラスで押し流す。
「お一人ですか?」
不意に横から声がした。顔を上げると隣の席に座っていたらしい見知らぬ男性が、軽く、会釈をしている。年齢は、たぶん同じくらいだろうか。清潔感はある。距離の詰め方も、乱暴じゃない。私は「はい」とそれだけを答えて視線をスマホに戻す。
「この店、落ち着いてていいですよね」
「……そうですね」
私は短く返す。空気を乱さないような、控えめな話し方で。言葉だけならきっと感じよく聞こえるはずだ。でも自分でも分かるくらいそこに特別な温度は乗っていなかった。それでも彼は引かなかった。無理に踏み込むわけでもなく自然に話題を続ける。
「動画、何見てるんですか?」
「ショート動画です」
「時間潰しにはいいですね」
「ええ」
ほんの短い会話。それでも隣にいる人の視線がこちらへ向いているのが分かる。私は、グラスの縁を指でなぞりながらスマホの画面を眺めるふりをしていた。画面の中では、意味のない数十秒の動画が次々と流れていき、指先でスクロールするだけの時間が淡々と続く。
沈黙が落ちる。店内には、低く流れる音楽と、氷がグラスの中で触れ合う乾いた音だけが残る。そのあとだった。彼が少しだけ、声を落とす。
「良かったら連絡先、交換しませんか?」
唐突ではなかった。むしろきれいに整えられた流れだった。ストレートな言葉。でも押しつけるような強さは感じられない。きっと、慣れている人なのだろう、こういう展開には。
「今度、ゆっくり飲めたらなって」
その声の調子は落ち着いている。断られる可能性もちゃんと想定しているのがわかる。そういう余裕が言葉の端々に、にじんでいるから。
——ああ。胸の奥で、小さく思う。こういうの久しぶりだなって。不快ではない。怖くもない。むしろ、丁寧に扱われている感じすらある。それなのに胸の奥は、驚くほど、静かだった。何かが揺れるでもなく期待が膨らむでもなく、ただ水面みたいに動かない。互いのグラスの中の氷が触れ合う音が、やけに澄んで聞こえる。
私はグラスを口に運んで、冷たい液体を一口、飲み込んでから、ゆっくりとした口調で言った。
「……すみません」
「……」
「今日は、そういう気分じゃなくて」
視線は合わせない。グラスの縁を見つめたまま言葉を落とすだけ。断り方としては曖昧だ。でもそれ以上うまく言える言葉も見つからなかった。男性は、一瞬だけ驚いた顔をした。ほんの一瞬。それから、すぐに表情を整えて笑う。
「あ、そうでしたか。失礼しました」
引き際がきれいだった。それ以上、理由を聞こうともしない。気まずさを残さないように会話を終わらせる。その態度が逆に誠実で少しだけ胸が痛くなる。
「いえ……」
私がそう言うとその男性は軽く手を上げて席を立つ。椅子がわずかに動く音。それが収まると、カウンターにはまた元の静けさが戻る。スマホの画面では、いつの間にか、動画が終わっていた。次の一本が、自動で再生される。笑っている人。踊っている人。短く切り取られた、誰かの生活。私は指先で画面を止めてそのまま伏せた。番号を聞かれて断ることができる。誰かと繋がる選択肢は、ちゃんとある。今日だってほんの少し頷けばそれは簡単に始まったかもしれない。それなのに今、頭に浮かんでいるのは電話越しに降ってきた声とか、空から見つけられた日の夕焼けとか……そして、「偶然ですね」と言ったときの、あの、琥珀色の瞳だった。
グラスの中身はいつの間にか空になっている。追加を頼もうとして手を上げかける。でも途中でやめる。もう一杯飲めば、少しはこの静けさが、落ち着くかもしれない。それでも私は、グラスをそのままカウンターに押しやった。お会計の合図である。今夜の胸の奥の静けさはどうやら、お酒だけでは動かない種類のものらしかった。
「ご馳走様でした」
会計を済ませて店を出る。夜風が、思ったより冷たい。歩きながら私は気づいてしまう。誰かに声をかけられて選べる立場にいることが、こんなにも虚しく感じる夜があることを。
欲しかったのは新しい番号じゃない。たぶん。すでに知っている人に、もう一度、ちゃんと見つけてもらうことだった。
改札を抜けたところでふと足が止まった。人の流れは途切れない。仕事帰りの人たちがそれぞれの速度で通り過ぎ改札の向こうから次の列がまた押し寄せてくる。その流れの端、柱の影に一人の人影が立っていた。一見すれば、ただ、スマホを見ているだけの若い青年だ。駅では、いくらでも見かける、ありふれた姿。……なのに。遠目でも分かってしまうのが、腹立たしい。
歩きながら胸の奥が騒ぎ出す。近づくにつれて確信に変わる。帽子を深く被り羽も抑えて目立たないようにしているのに、それでも隠しきれない輪郭がある。私はその前まで歩いていき、小さく声を落とした。
「……福岡に、帰らないの?」
人の流れに紛れるくらいの声量。その人影が、顔を上げた。そして、ほんの少しだけ口角を吊り上げる。それでも目元は、やけに穏やかだった。まるで仏みたいに優しい顔。ああ、たぶん私は、まだ少し、酔っているらしい。
「もう、遅いんで」
帽子の影の下で彼は、そう言った。黄色い髪も帽子で隠し剛翼もきちんと抑えてある。それでもよく見れば分かる人には分かってしまうだろう。��ウイングヒーロー・ホークス�≠サれを悟られないようにするその気遣いが逆に彼らしいと思う。
「……ストーカー?」
「はい?」
「迎えに来たの?」
「いやいや。偶然、通り道だったんで」
「嘘」
「はい」
間を置かない返事だった。穏やかで、誤魔化すつもりがない声音。思わず小さく息が漏れる。
「もう、帰るところです?」
「うん」
「じゃあ、送ります」
「別に——」
「今日は、俺のほうから、そうしたい日なんで」
私の言葉に被せるように穏やかな声が落ちる。押しつけではない。でも断らせない温度の言い方だった。そう言われると断る理由が迷子になる。私たちは駅を離れ少し暗い道へと出た。人通りはそれなりにある。しかし会話の内容までは聞こえないくらいの距離だ。
「さっき、一人で飲んでました?」
「……見てたの?」
「見えました」
あっさりとした答え。胸の奥が、小さく鳴る。並んで歩き続ける。ホークスは私に歩調を自然と合わせながら、ちらりとこちらを見た。
「やっぱストーカーじゃん」
「かもですね。知らない人と話してた」
「……声、かけられただけだよ」
「へぇ」
それだけ。それ以上は、掘り下げない。追及もしない。ただ言葉を置いて流す。いつもならここで、軽い冗談でも続くはずなのに今日は違った。
しばらく歩いてから、不意に彼が言う。夜気に紛れるくらいの声音で。
「で——。今日の人は、どうでした?」
その問いは、思ったよりも近いところに落ちてきた。場所で例えるならば心臓のすぐ横あたり。
「……どっちの人だろ」
「俺のファンだって言ってた人」
隠さない。遠回しにも言わない。だから私は、正直に答える。
「悪い人じゃなかったよ」
「へえ」
「ちゃんと誠実だったし、楽しかった」
「そうすか」
それだけ言って、彼は前を向く。街灯の光が、横顔をかすめる。……あれ。いつもなら、ここで何か軽口が入るはずなのに。肩をすくめるとか、冗談めいた相槌とか。やはりそれが今日はない。その沈黙が妙に気になって、私は自分から続きを足してしまう。
「でも——帰り道で、ちょっと疲れた」
「どうして」
「わかんない」
本当に、分からなかった。楽しくなかったわけじゃない。相手が悪いわけでもない。それでも、帰り道でふっと力が抜けた。理由を探そうとしても、うまく言葉にならない。
しばらく沈黙が落ちる。足音だけが規則正しく重なっていく。夜の空気は少し冷たくて、さっき飲んだアルコールの余韻が、身体の奥でゆっくり温度を残している。隣を歩くこの人の存在だけがその温度の輪郭を、妙にはっきりさせていた。
「……ホークス」
名前を呼ぶと隣を歩く彼はすぐに顔を向けた。「はい?」と、短い返事。歩く速度は変わらないまま、視線だけがこちらへ寄ってくる。吐く息が身体の内側の温度をゆっくり外へ逃がしていく。酔いはもうほとんど残っていないはずなのに胸の奥だけが妙にざわついていた。
「変なこと、聞くけど」
「うん?」
軽い調子で相槌を打つ声。でも、その目はちゃんと、こちらを見ている。
「わたし、ちゃんと前に進めてると思う?」
言ったあとで自分の言葉の輪郭をなぞるみたいに、胸の内側が少し揺れた。ホークスはすぐには答えなかった。歩みは止めない。ただ、少しだけ考えるような沈黙が横に並ぶ。
「前に進む、というと?」
「新しい人と、会うこととか」
「……」
「それとも、ただ回ってるだけなのかな、とか」
夜風が髪を揺らす。仕事帰りに整えたばかりの髪の毛先が頬に触れて冷たい空気を連れてくる。歩きながら私は、自分の言葉をどこか他人事みたいに聞いていた。自分が本当に聞きたいことは、たぶん、もっと別の場所にある。ホークスは少しだけ息を吐いた。それから、静かに言う。
「名前さん」と私の名前を呼ぶ声がいつもより低い。
「前に進むかどうかってさ」
「……」
「本人が戻りたい場所を、ちゃんと分かってるかどうかだと思いますよ」
「……戻りたい、場所?」
「ええ」
彼のその言葉は思っていたより柔らかく落ちてきた。胸の奥が、ぎゅっと締まる。そのまま何も言えないでいると、ホークスが横目で、こちらを見る。街灯の光が、彼の目の色を一瞬だけ浮かび上がらせる。それから歩幅が、ほんの少し、緩くなる。
「今日の名前さん」
「……」
「誰かと会ってても、ずっと、別のところ見てた気がした」
言葉が出なくなる。否定もできないし、肯定もできない。ただその指摘が思ったより深いところまで届いてしまったことだけが分かる。
気づけば、マンションの前に着いていた。立ち止まると、ホークスも自然に足を止める。
「送ってくれて、ありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
短い会話。それでも、そのあとに残る沈黙が、やけに長く感じられた。私は、言葉を足さない。だから、ホークスが続ける。
「今日……連絡先、聞かれました?」
「……どっちの、人だろ」
「薄暗いBARで隣にいた人」
一瞬だけ驚いて私は小さく笑った。ホークスのそれは、迷いのない言い方だった。私は、正直に頷く。
「聞かれたよ」
「で?」
「断った」
その瞬間、彼は何も言わなかった。でも、分かる。肩の力がほんの少し抜けたこと。背中の羽が安心したみたいに下へ落ちたこと。
「理由は?」
「……そういう、気分じゃなかった?」
「疑問系?」
「そういう気分じゃありませんでした」
「そ、すか」
短い返事だった。それだけで会話が終わるはずの長さなのに、そのあとに落ちた沈黙が、やけに濃く感じられる。
夜の空気が少しだけ動く。遠くを走る車の音と街路樹の葉が触れ合う、かすかな擦れが、静かな隙間を埋めるように通り過ぎていく。
「それ、俺が聞いていいやつです?」
「さあ? わかんない」
私は肩をすくめるようにして答える。本当は、ここで笑って、流すこともできたはずだ。話題を変えることも曖昧な冗談にしてしまうこともできた。でも、逃げなかった。逃げる言葉を、あえて選ばなかった。ホークスは何も言わずほんの少しだけこちらに近づく。一歩分だけ。
距離はまだある。触れようと思えば触れられるけれど自分から伸ばさなければ絶対に届かない、その絶妙な間合い。夜灯の光が彼の横顔の輪郭をやわらかく浮かび上がらせる。帽子の影に隠れているはずの表情が、なぜか、はっきり見える気がした。胸の奥が静かに鳴る。大きな音ではない。でも確実に、自分の内側で響いている音だった。
「じゃあ——今度は」
「……」
「名前さんが��そういう気分�≠フときに、俺を、ちゃんと誘ってください」
その言葉は思ったよりも静かだった。強く迫るわけでも、甘く誘うわけでもない。ただ、そこにある事実を置くみたいに。それなのに、胸の奥で何かが大きく動く。言葉そのものよりも、そこに含まれている確信のほうが、強く伝わってくる。まるで、私がいつかそうすることを、もう知っているみたいにして。
「俺、見逃さないんで」
低い声だった。冗談の響きはない。でも、脅すような硬さもない。ただ静かに、言い切る声。
その一言を置くと、ホークスは、ゆっくり一歩下がった。さっきまで近かった距離がすっと元に戻る。ほんのわずかな動きなのに空気の温度まで変わったような気がする。近づいてきたときよりも、下がったときのほうが、その距離を強く意識してしまう。
「おやすみなさい」
彼はいつもの声でそう言った。さっきの言葉の余韻を、わざと残さないみたいにして。それ以上何も続けないまま、軽く手を上げて背を向ける。赤い羽根が夜の街灯の下で一瞬だけ光を受ける。その背中は急ぐでもなく振り返るでもなく静かに夜の道へ溶けていく。私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。さっきまで近くにあった気配がゆっくり遠ざかっていく。それなのに胸の奥にはまだ、彼の言葉の温度だけが残っていた。
見逃さない、と言った声。その確信の重さが、静かに胸の中で広がっていく。
誘うのは私のほう。そう言われたはずなのに。気づけば、私はもう、この人に見つけられてしまっている気がしていた。
ヒーローはやっぱりいつもと変わらなかった。でも背を向けて歩き出す赤い羽根を見送る瞬間、胸の奥でひとつの理解が静かに形になる。
この人は待っているふりをしている。選ぶのは私だと言いながら、ずっと迎えに来る側の場所に立っている。逃げ道を残しているようで実は一番逃げられない場所。それでも、そこに立っているのが、この人らしいと思う。赤い羽根が闇の中に溶けていくのを見ながら、私はゆっくり息を吐いた。優しいやり方だ。そしてきっと一番、残酷なやり方でもあるのだと思った。