その日は、ホークスの任務終わりの遅い時間に合流して彼のセーフハウスで軽くご飯を食べた。冷蔵庫の残り物と、コンビニで買い足した惣菜を並べただけの簡単な食事。それでも、彼が適当に皿に分けて缶を開けて「まあ、こんな感じでいいですかね」と言うだけで、妙に整った夜になる。食事を終えると私たちはいつものようにソファに移動した。並んで座る。距離は近いけれど触れるほどではない、いつもの位置。テレビはつけずにそれぞれがスマホを手に持って好き勝手に画面を眺めているだけの時間。

「寒くないす?」
「ううん」
「適当に温度上げていいんで」
「ありがと」

 会話は、ぽつりぽつりとしか続かない。でも、気まずくはない。むしろ、沈黙が落ち着くような夜だった。
 ソファの背もたれに身体を預け、私はスマホの画面を指で流していた。隣では、ホークスが同じように自分の画面を見ている。彼の肩越しに時折赤い羽根がゆっくり揺れるのが視界の端に映る。そんな、静かな時間の途中だった。

「……あ」

 不意にホークスがほんの小さく声を漏らした。驚いたわけでも困ったわけでもない。ただ思わず零れたみたいな短い音。「なに?」とスマホから目を離さないまま聞けば「いえ?」と言いながら彼はスマホの画面を伏せた。ほんの一瞬だった。それでもその瞬間に見えてしまった。
 ロック画面に浮かんだ通知。見覚えのあるアイコン。そして、その下に表示された短い文章。

『このあいだは楽しかったです!
 次は、もう少しゆっくり話したいです♡』

 胸の奥が、ひゅっと鳴る。その空気感を、私は知っている。特別な言葉じゃない。恋の告白ほど重くもないし冗談ほど軽くもない。でもそこには確かに好意の温度が含まれている。私だって過去に似たようなメッセージを受け取ったことがあるから。あるいは、送ったことだってある。だから分かる。これは、ただの社交辞令ではない。
 ホークスは何事もなかったみたいにして画面を伏せたままテーブルに置いた。指先がスマホから離れる。それ以上、触れようともしない。

「飲み物、足します?」

 届いたのは、いつもの声だった。何も見られていないと思っているのか、あるいは、見られても構わないと思っているのか。答えるまで、ほんの少し間があいてしまった。自分でも分かるくらい声が遅れる。

「……ううん、大丈夫」
「自分で取りに行ってもいいんで」
「うん」

 ホークスはそれ以上、余計はことは言わずに、スマホにも、手を伸ばさなかった。通知を確認もしない。返信もしない。ただ、何もなかったみたいにして、ソファの背もたれに体を預けるだけ。
 見てしまった。確実に。なのに、そこから先、彼は一切、その話題に触れなかった。まるで最初から存在しなかったみたいに。しばらくして私はゆっくりソファから立ち上がる。

「……そろそろ、帰るね」
「え、もう帰るんすか?」
「うん」

 少しだけ驚いた声を漏らした彼に返した答えはほとんど反射だった。でも、視線は合わせない。いや、合わせたくなかった。玄関まで送られる。いつもと同じ距離。同じ廊下。同じ、靴箱の前。

「送りますよ」
「ううん、今日は一人で帰るよ」
「え……あー。そ、すか。気をつけて」
「うん。今日はありがとう」
「いえ、こちらこそ」

 短いやり取り。ホークスがドアを開ける。そのとき不意に、鼻先をかすめる匂いがあった。嗅ぎ慣れた香水の匂い。ホークスの匂いだ。外の空気と混ざって、一瞬だけ強く香る。私は軽く会釈をして、外へ出た。ドアが閉まる。その瞬間、胸の奥がずしんと重くなる。理由は分かっているのにうまく言葉にできない種類の重さだった。
 その夜、家に帰ってから、私は何度もスマートフォンを手に取った。画面を開いて閉じる。また開いて閉じる。通知は変わっていない。私もあの男性からのメッセージはまだ返信していないままだ。返すべきか。返さないべきか。そんなことを考えながら、指先は画面の上で止まる。でも——本当に考えているのは、別のことだった。彼にも同じような人がいる。あの、メッセージを送ってきた誰か。『楽しかった』と言って、『また会いたい』と、文字には乗せず伝える誰か。それは、当然のことだ。あの人はヒーローで魅力的で私と同じように、誰かが惹かれても不思議じゃない。分かっている。分かっているのにその事実を頭の中で形にした瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。なぜだか、急に泣きたくなった。

 翌朝。目が覚めて、ぼんやりと枕元のスマートフォンを手に取る。画面を点けると、まだ完全に目が慣れていないせいか白い光が少し強く感じられた。通知は多くない。その中で、いちばん上にある名前に、視線が止まる。ホークスだ。届いた時間は、思っていたより早かった。



ホークス

おはようございます





 それだけだった。余計な言葉も絵文字もない。逆に、続きもない。ただの、朝の挨拶だけ。
 私はしばらくその画面を見つめていた。指先はスマホの縁を軽く支えているだけで、文字を打つ気配がなかなか生まれない。たった一言なのに、その向こう側の温度を測ろうとしてしまう自分に少しだけ苦笑する。やがて、短い返事を打つ。



名前

おはよ





 送信のマークを押すと、画面はすぐに、静かになった。その静けさが、昨日の夜から続いている言葉には出来ない何かを、そのまま延長しているようにも感じられた。

 それから数日間。彼は、何も変わらなかった。いつもと同じように連絡をしてくる。飲みにも、誘ってくれる。時間が合えば、軽く食事をして、そのまま二次会へ流れることもある。そして帰り道は必ず私の家の前まで送ってくれる。どんなに遅くなっても。歩く距離だって話す声の調子も。こちらを見る視線の温度も。何ひとつ、変わっていない。ただ、一つだけ。私の恋愛の話題を彼は二度と自分から口にしなくなった。それが、あの夜の通知のあとからだということは、言葉にされなくても分かってしまう。
 彼は触れない。何も聞かない。たぶんそれは、私のためでもあるし同時に自分のためでもあるのだろう。私だって、触れられたくない。だから、彼も振らない。その沈黙の理由が、妙にきれいに理解できてしまうのが、余計に、胸の奥を静かに痛める。
 問い詰めない。嫉妬もしない。何かを禁止することもない。ただ、見てしまった現実を、自分の中で処理する。それが私のやり方だった。そしてその静けさは、声を荒げるよりもずっと残酷だ。
 もし怒鳴ったなら、もし拗ねたなら、もしも、「嫌だ」と言うことが出来たのならば、どこかで安心できたのかもしれない。でも彼は、何も言わない。何も変えない。ただいつも通りに隣にいるだけ。そのことが、ゆっくりと、胸の奥に沈んでいく。普通のことだ。ただのメッセージ。ただの誰かからの一文。それなのに、こんなにも、心を傷つけるとは思わなかった。

 私はスマートフォンを手に取る。画面にはまだ返していないメッセージが残っている。あの男性からのメッセージだ。既読もまだつけていない。画面を開き、しばらく眺めてからそっと閉じる。指先が、少しだけ冷えている。返信を打てばいいだけだ。たった、それだけのこと。それなのに、今までなら軽く選べたはずの未来が、急に重さを持ったみたいに動かなくなっていた。


 *


 言わなかったというより、言えなかったのだと思う。あの男性から『彼女が出来たのでもう連絡返さなくても大丈夫です』という文字が、届いたことを。一週間も前のことだ。それは泣き崩れるような出来事ではなかった。胸が張り裂けるような別れでもない。ただ、画面に表示された一文を見た瞬間、胸の奥が少しだけ静かに沈んだ。それだけだった。怒鳴る理由もないし問い詰める相手でもない。むしろ、こちらのほうが連絡を返していなかったのだから、どちらかと言えば、謝る側だった。
 私は、スマートフォンの画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。それから、短く打った。

『 了解しました 』

 それだけ送って会話は終わった。それで本当に終わったのだと思う。悲劇でもないしドラマでもない。ただ小さく閉じた関係の話。だからこそ、ホークスには言わなかった。失恋報告というほどでもなければ、話すほど劇的な出来事でもない。それにもしも話してしまったら。またあの何とも言えない目で見られる気がして。心配と距離と、分別が混ざったあの瞳で。あの目で見られると、何でもないことのはずの出来事まで、妙に重さを持ってしまう。だから私は、黙ったままでいた。
 結果として、いつも通りの関係は、いつも通り続いた。

 その日の飲みも、何も変わらないはずだった。任務帰りのホークスと駅近の店で合流して、カウンターに並んで座る。店内は少しだけ騒がしくて氷の当たるグラスの音や、遠くの笑い声が絶えず流れている。
 仕事の話を少しして、それから、どうでもいい雑談へ流れる。ホークスはグラスを指先で揺らしながら、氷をゆっくり転がしていた。透明な音がカウンターの上で小さく響く。

「最近、落ち着いてます?」
「仕事?」
「そっす」
「まあね」

 嘘ではない。仕事は落ち着いている。忙しさもひと段落している。ただしその静けさは、独りに戻ったからの落ち着きだった。

「そっか」

 その一言に、なぜか、引っかかるものが残る。彼は私を見ない。視線はグラスの中の氷のほうへ落ちている。それでも、その相槌は妙に、確信を含んでいた。まるで、もう答えを知っている人の声みたいに。少し間が空き店の空気がゆっくりと流れていく。

「名前さん」
「……」
「振られました?」

 名前を呼ぶ声が、ほんの少しだけ低くて続いた言葉はストレートだった。あまりにも迷いのない言い方に、思わず固まって、一瞬、言葉を失う。

「……なんで、分かったの」
「勘です」
「嘘」
「はい」

 まただ。あっさりと認める。その軽さが、逆にずるい。ホークスはグラスを置いて先を続ける。

「連絡頻度と話題の選び方と、帰り際のテンポ」
「……」
「全部、変わってたんで」

 指を、一本ずつ折るみたいに、ゆっくり言葉を並べる。私はその指先を、ぼうっと眺めていた。
 胸の奥が、きゅっと縮む。自分では隠していたつもりだった。何もなかったみたいに振る舞っていたつもりだった。それなのに、こうして言葉にされると、全部見透かされていたことが分かる。

「……いつから」
「一週間くらい前すかねー」
「そう……」
「なんで、言わなかったんですか」

 問いただす声音ではなかった。ただ、確かめるみたいな響き。それでも正確すぎる推測に思わず笑うしかない。参りました、という感じの笑いに近いかもしれない。私は、手元のグラスをそっと口に運ぶ。冷たい液体が喉を通る。それから独り言みたいな調子で答えた。

「言わなくていいかなって」
「ふうん」
「別に、どう転ぼうと……気まずくなるわけでもないし」
「俺と?」
「……うん」

 一瞬、空気が止まる。店内のざわめきが、少し遠くなる。ホークスはそのまま、しばらく黙っていた。小さく息を吐く。それから、静かに言う。

「あー、それ」
「……」
「俺が一番、苦手なやつです」
「なに、それ?」
「名前さんが、大したことじゃないって顔して、ちゃ〜んと傷ついてるやつ」

 視線がこちらへ向く。逃げ場のない距離。図星だった。あまりにも正確すぎて、私はまた言葉に詰まる。何か言い返そうとしても喉の奥で言葉がうまく形にならない。どうすることもできなくてグラスの縁を見つめると氷が静かに溶けていく。その音だけが、やけに大きく聞こえた。

「心配されとうなかったと?」

 柔らかい声だった。責める響きはない。けれど曖昧な逃げ道も残さない問い方だった。私はグラスの中の氷を見つめたまま「たぶん」と答える。氷がゆっくり回り、グラスの内側に触れる小さな音が、会話の隙間に静かに残る。

「余計なこと、言われたくなかった系?」
「……それも、ある」

 自分でも、はっきりした理由を持っているわけではない。ただ、言葉にするとき、少しずつ形が見えてくる。逃げていた理由が、少しずつ輪郭を持っていく。ホークスはまた小さく息を吐いた。それから、ようやくこちらを見やる。その目は、落ち着いていて何かを見極めようとしているようでもあり、ただ、私の言葉を受け止めているようでもあった。

「じゃあ——俺が聞くのは、ダメでした?」
「……」
「最近、あえて避けてましたからねぇ、こういうネタ」

 静かな声だ。責めてはいない。でも引こうともしていない。やっぱり、ずるい男だ。

「ダメ……じゃない」
「じゃあ、なんで言わんやったと?」

 その問いかけからは、もう逃げられなかった。優しい声で聞かれると、かえって誤魔化しが効かない。私はグラスを持つ手を少しだけ緩めて息を吐く。「だって」と言葉を出した瞬間、自分でも分かるくらい、声がわずかに震えていた。

「言ったらさ……また、ここに、戻ってくる気がして」

 カウンターの端に指先を置く。指先が、冷たい木の感触を拾う。そのまま二人の間にある距離をなぞるように、そっと指を滑らせた。

「別に失恋って呼べるほど立派なものでもない。今回のは」
「うん」
「ホークスに話して、慰められて……結局、同じ場所に……」

 ホークスは、ただ頷くだけ。相槌は短い。でもそこに、急かす感じはない。
 言葉を続けながら自分の中の流れを確かめる。それ以上、言葉が出てこない。ホークスは、何も言わない。だから続けるしかなかった。グラスの中の氷が、また小さく鳴る。

「それが、ズルい気がして」
「……」
「ホークスに、対して」

 沈黙が落ちる。店の奥から聞こえる笑い声が、やけに遠く感じられた。しばらくしてホークスが口を開く。

「名前さん」

 何度も呼ばれてきたはずの自分の名前が、何か違う響きを持っているように感じた。彼の声は、低くて、でもどこか、穏やかでゆっくりと届く声だった。

「戻ってきた、なんて思ってるの」
「……」
「たぶん、名前さんだけですよ?」
「……え?」

 思わず顔を上げる。ホークスはグラスを指先で軽く回していた。氷がグラスの壁に当たり小さな音を立てる。「俺は——」と、そこで一度、手を止めて、グラスをテーブルに置いた。

「ずっと、ここにいるだけなんで」

 それは逃げ道のない言い方だった。その言葉の静けさが、胸の奥にゆっくり落ちてくる。
 戻ってきたのではない。最初から動いていないだけだと言われた気がした。

「言ってくれなかったの正直ちょっと寂しかったです」
「……」
「今さら俺たちの関係に、隠し事なんてさ……」

 はっきり言われて、胸がきゅっと痛む。視線を落とすとグラスの水滴がカウンターの上に小さな輪を作っていた。「でも」と、彼はそう続ける。それから、こちらを見る。まっすぐな目だった。

「言えなかった理由は分かります。だから——」
「……」
「次からは言うか言わないか、名前さんが選んでください」
「……」
「俺はもう、聞かないんで。今日みたいには」

 それは、優しい線引きだった。距離を守る言葉でもあり、同時に逃げ道を残す言葉でもある。

「……怒らないの」
「ええ? 怒る理由、ないですよ?」

 ホークスは、少しだけ笑った。冗談めいた調子ではあるけれど視線は変わらない。彼がグラスを軽く持ち上げる。

「ただ、黙ってるときは、ちゃんと分かるんで」

 それが、一番ずるかった。問い詰めもしない。束縛もしない。それなのに——全部を見えているみたいに言う。
 その夜、その話の詳しい内容は結局、それ以上しなかった。どんなメッセージだったかもどんなふうに終わったのかも何も話さないまま、会話はいつもの雑談へと戻っていった。いつものように飲んでいつものように店を出て、いつものように並んで歩いて帰る。外から見れば何も変わらない夜だった。でも、ひとつだけ、確かに違うことがある。もう隠れていない、と。お互いに分かってしまったこと。それは、関係を壊す一歩手前で、同時に逃げ道をひとつ静かに塞ぐ夜でもあった。


 *


 その日は仕事が休みだったので昼間は何となく部屋の中で過ごして、夕方になっても、外に出る気分になれないまま、気づけば夜になっていた。窓の外はもうすっかり暗くて、街の灯りがところどころで柔らかく浮かんでいる。そんな時間帯にチャイムが鳴った。犯人は例のヒーローだった。

「これ」

 開口一番、玄関の扉を開けて差し出されたのは細長い紙袋。受け取って中を覗き込むと、一本のワインボトルが入っている。ラベルは落ち着いた色合いでそこまで派手さはないけれど、いかにも丁寧に選ばれたものだと、分かる雰囲気を纏っていた。

「え……どうしたの、急に」
「たまたま、良さそうなの見つけたんで」
「たまたまね」
「今日は、赤にしました」

 彼はいつも通りの顔でそう言った。軽い口調で特別な意味なんてないみたいに。それでも、たまたまにしては、選び方が妙に丁寧だな、と思う。こんなふうに私の家にワインを持ってくることを他の女性にもしているのだろうか。ふと、そんな考えが浮かぶ。頭の中で思うだけなのに胸の奥がほんの少しだけざわついた。

「入っても?」
「……あ、うん。どうぞ」

 その日は、外に出る気分じゃなかった。だから正直、こうしてお酒を持って来てくれたことに、少しだけ救われた気もする。
 料理は簡単なものをウーバーで頼む。数十分で届いた箱をテーブルに並べてキッチンからワイングラスを二つ取り出した。コルクを抜くと小さく乾いた音が部屋に響く。ワインをグラスに注ぐと深い色が、ゆっくり広がり、香りが空気に溶けた瞬間、部屋の空気が一気に��夜�≠フ顔になった。

「美味しい」
「でしょー」
「さすが、センスがいい。あと、舌もいい」
「もー、なんすか? 褒めすぎですって」

 そんな軽いやり取りをしている間は、まだ普通だった。いつもと同じ夜。いつもと、同じ距離。ワインを半分ほど空けた頃だった。私はふと立ち上がってグラスを持ったまま、ベランダへ出る。
 外の空気は少し冷たくて、夜風が頬を撫でる。部屋の中にこもっていたワインの香りが、外気に触れてゆっくりほどけていく。
 気づけば、ため息が落ちていた。アルコールは回っているはずなのに、頭の中だけが妙に冴えていて、むしろ、冴えすぎていて、余計なことまで考えてしまう。

「飲みすぎました?」

 少し遅れてホークスが私の隣に立った。いつもの調子で軽く声をかけてくる。金色の前髪が風に靡いている。背中の剛翼の羽はきちんと畳まれていて動かない。任務帰りのままの姿。そのまま、ここへ来てくれたのだと思うと、胸の奥に小さな温度が残った。

「ううん。足りないくらい」
「足りないほうが問題です」

 軽口に私はかろうじて笑った。街の灯りが下に流れていてベランダの手すりに肘をつくと金属の冷たさが腕に伝わった。ホークスも何も言わずに隣で同じように、手すりへ両肘を乗せる。距離を詰めるわけでもない。逆に離れるわけでもない。ただ自然に、同じ場所に立つ。こういうところがずるいなと思う。

「ねぇ」
「はぁい」

 すぐに返ってくる声。いつも私が言葉を落とす場所を、ちゃんと待っているような声音だった。私は少しだけ間を置く。夜風が二人の髪を揺らしグラスの中のワインが手の中でゆっくり揺れる。そんな中、私は言葉を選びながら口を開いた。

「私さ。一生、独り身かもしれないなーって」

 本当は、冗談みたいに言うつもりだった。軽く笑いながら流せるような調子で。でも、出てきた声は思ったより低く、不安の色を隠し持っていて夜の空気に吸い込まれることなくそのまま二人のあいだに落ちた。

「それ、前も同じようなこと言ってましたよ」
「そうだっけ?」
「はい」

 彼は、淡々と答える。それが少しだけ救いでもあるし、逃げ場をなくす感じでもある。

「結婚とか、大袈裟なことじゃなくてさ?」
「ええ」
「ちゃんと選ばれる相手に、この先ずっと、もう出会えなかったらどうしようって」

 言ってしまってから少しだけ後悔した。これは重すぎる問いだ。
 少し前までなら、たとえば、出会って間もない頃だったら、こんな言葉ももっと軽く扱えたはずだ。冗談めかして笑い飛ばして何でもない話題に変えられたかもしれない。でも、今は違う。このヒーローの前で言うには、少しだけ残酷すぎる。
 それでもホークスはすぐには否定しなかった。夜風の中でただ静かに隣に立ったまま私の言葉が落ちる場所を、そのまま受け止めているようでもあった。

「……名前さん」

 隣から名前を呼ばれて、私はぼんやり、夜景を見ていた視線を少しだけ動かした。

「ん?」
「それ、酔ってるから出てくる思考ですね」

 落ち着いた声だった。揶揄するでも、否定するでもない。どこか、冷静に状況を整えるみたいな言い方。

「そうかもね」

 素直に答えるとホークスはそこでほんのわずか身体の向きを変えた。手すりに預けていた体重を少しだけこちらへ寄せる。距離が変わるわけでも触れるわけでもないのに視線の角度だけがこちらへ向く。その小さな変化に胸の奥がわずかにざわついた。

「でも、一生独り身って言葉の使い方、間違ってます」
「え? なにそれ」
「独り、じゃないじゃないですか」

 さらっと言う。責任を背負わないような、軽い口調で。けれど、言葉の芯だけは逃げない。私は思わず眉を寄せた。

「前にも俺、同じようなこと言いましたけど」
「……」
「俺が知ってる限りあなたは、困ったら、誰かに頼れるし、ちゃんと帰る場所もある」

 その言い方が妙に具体的で、胸の奥がきゅっと縮む。——帰る場所。その言葉の中に、彼自身が含まれているのかどうかを、私はつい、探してしまう。

「それと恋愛は、別でしょ?」

 私はグラスを軽く揺らしながら言った。ワインが薄く波を作る。彼はすぐには否定しない。ただ静かに頷いて少しだけ言葉を選ぶ間を置く。そうしてから、慎重に言葉が置かれる。

「別ですね」
「うん」
「でも、重ねられないわけでもない」
「……」
「名前さんが言ってる独り身って、たぶん孤独のことですよね」

 図星だった。答えようとしても喉の奥で言葉が止まる。私は何も言えないまま、夜の街へ視線を逃がした。遠くのビルの窓が、ぽつぽつと、灯りを持って浮かんでいる。ホークスは、その沈黙を追い詰めることはしない。ただ手すりから視線を外して、同じように街を眺めた。

「今までの恋愛事情、全部見てきましたけど」
「……やめて、なんか恥ずかしい」

 思わず照れ隠しでさえぎると「事実なんで」と彼は小さく笑う。その笑い方が、少しだけ優しかった。慰めるためでも、からかうためでもなく、ただ、色眼鏡を使わずに、真っ直ぐ見てきた人の笑い方だ。

「名前さん、一回も独りだったことないですよ」
「……そう?」
「はい」
「……」
「少なくとも、俺と出会ってからは」

 声は穏やかだったけれど、曖昧さはなかった。その言い方があまりにも自然で、あまりにも逃げ道を残している。断定しているのに、責任は押しつけない。近づくのに、踏み込まない。この人はいつもそうだ。私はわざと軽い調子で聞く。

「それって、慰め?」
「んー、半分?」
「残り半分は?」
「事実確認です」

 あっさり返ってくる。その簡潔さが、かえって胸に残る。私は、手すりから手を離した。冷えた金属の感触が指先から消えると、代わりに、夜の空気が肌に触れる。

「じゃあさ……」
「はい?」
「もしもこの先、誰とも上手くいかなかったら、どうする?」

 問いながら自分でも妙な質問だと思った。未来を決められる人なんていないのに、なぜかこの人なら、答えを持っていそうな気がしてしまう。
 ホークスはすぐには答えなかった。夜風が少しだけ強く吹く。

「そのときは」
「うん」
「また、飲みに行きましょ」
「もー。解決してなぁい」
「はは。してますって」

 今度はきっぱり言う。また二人の前髪が夜風に揺れて、彼の横顔に影が落ちる。彼はそこで少しだけ視線をこちらを向けた。

「名前さんが独りだって不安になったら」
「……」
「否定する係、俺がやりますよ」

 それは、約束ではない。告白でもない。未来を決める言葉でもない。でも、その言い方は、十分すぎるほど逃げ場を狭くする。
 夜風が少し冷たくなる。ワインの熱が、身体の奥で静かに揺れている。私はグラスを持ったままゆっくり歩き出した。ベランダの端から端まで、ほんの数歩の距離。それでも足を動かすと、胸の中に溜まっていた何かが少しだけ、ほどける気がした。さっきまでの不安は消えていない。将来のことも恋愛のことも、きっと何も決まっていないままだ。それでも——隣に同じ歩幅で歩いてくる人の気配を感じながら、私はようやく、少しだけ笑った。

「……ほんと、ずるいヒーロー」

 私がぼそりと呟くと、隣で、私の動向をじっと見つめていただけのヒーローは、肩をすくめる。

「はいはい。よく言われまーす」

 いつもの軽さ。聞き慣れた声。その気の抜けた返し方に、私は思わず小さく笑ってしまう。
 けれどこの夜、胸の奥に溜まっていた不安は、ただの絶望の形では終わらなかった。言葉にしてしまってもいいのだと思える相手が、すぐ隣を、歩いている。たったそれだけのことなのに、どうしてこんなにも息がしやすくなるのだろう。
 私は先に部屋へ戻った。室内の灯りが目に馴染むまで少しだけ時間がかかる。ベランダに残っていた夜の匂いが、まだ薄く身体にまとわりついている気がした。数秒遅れてホークスも同じ速度で部屋に入ってくる。急ぐでもこちらを急かすでもなく、いつも通りの距離のまま——。
 その流れのまま私は、キッチンの棚に手を伸ばした。奥に隠していたもう一本のワイン。自分でも理由はよく分からない。ただ、この夜だけはまだ終わらせたくない気分だった。二本目のコルクを抜く音が、小さく部屋に響く。

「え、まだいくんす?」

 ホークスの声が少しだけ驚いたように混ざる。それでもどこか半ば、諦めたような響きだった。

「少しだけ」
「少し、ね」

 ここは自分の家だし明日もそこまで早くない。そんな都合のいい理由を自分の中で並べながら、グラスにワインを注ぐ。深い赤が、ガラスの中でゆっくり揺れる。グラスが空くたびに、彼は特に言葉もなく自然な手つきでボトルを持ち上げる。頼んだわけでもないのに、次の一杯が注がれる。その流れが妙に落ち着いた。
 気づけば、頭の奥がふわりと軽い。身体の力が少しずつ抜けていく感覚がある。ソファに身体を預けながら、私は横目で彼を見る。

「ねぇ、ホークスってさ」
「はーい?」
「ほんとに、すごいよね」
「え、なにがです?」
「全部」

 彼は本気で首をかしげている。自分でも、雑な答えだと思う。でも、うまく整理する気にはなれない。グラスの縁を指先でなぞりながら、私は、言葉を続ける。

「仕事できるし気遣いできるし、距離の取り方も上手だしさ」

 口に出してみると、あらためて並べすぎた気もする。でも止まらない。だって嘘ではないから。そうして私はテーブルの上のワインを指差した。

「今日だって、これ?さりげない顔で持ってきてくれたけどさ」
「……」
「絶対、ちゃんと色々、考えてるでしょ?」
「別に……なにも考えませんよ。普通です」
「普通じゃなぁい」
「……」
「それを普通でやれるのが一番すごいんだって」

 ホークスは少しだけ視線を落として困った顔をした。褒められること自体は慣れているはずなのに、こういう褒め方は扱いに困るらしい。

「酔ってます?」
「うん。だって、自分の家だし」
「自分んちだからこそ、危ないんですけど」

 その言い方がおかしくて笑いがこぼれる。アルコールのせいなのか、距離の感覚が、少し曖昧になっている。私は少しだけ身体を前へ傾ける。

「ホークスって、ちゃんと人のこと見てるよね」
「……そう、すか」
「うん、見てる」
「……」
「私が、誤魔化してるときも、元気なふりしてるときも全部」

 はっきり言い切る。グラスを持つ手が、ほんの少し熱い。言葉にするほど、胸の奥がじんわりと温度を持つ。

「見てるのに、無理に触らないのが、いちばん、ずるい……」

 その瞬間、ホークスの喉仏がわずかに上下するのが視界の端で確かに捉えられて、次いで「名前さん」と呼び止める声が落ちてくるのだけれど、それはいつもの軽さとは、ほんの少しだけ違っていて戸惑いを隠しきれないままそれでも不用意に踏み込みすぎないよう慎重に距離を測ろうとする気配を、かすかに含んでいた。

「それ、褒めてます?」
「褒めてるよ? 大好きなタイプのずるさ」

 私は迷わず答える。言ってから、ふと気づく。踏み込みすぎたと。部屋の空気がほんの少しだけ張り詰めるような感覚。けれどホークスは、私を見ずに視線を逸らして、ゆっくりと息を吐いた。

「……二本目、早かったですね」
「だって、美味しかった」
「そういう問題じゃなくてさ」

 そう言いながら、彼は私の手からグラスを取り上げる。強引ではない。そっと。ただ、もう十分だと言うみたいに、静かな手つきで。

「今日はもう、ここまで」
「えー」
「えー、じゃないです」

 声は少しだけ呆れているのに、仕草は優しい。私はソファに深く沈み込んだ。身体の重さをそのまま預けるとクッションがゆっくり沈む。天井の灯りがぼんやり視界に広がり。ワインの熱と夜の空気と、隣にいるヒーローの気配。それらが全部混ざって、胸の奥が静かに揺れていた。私は少しだけ視線を横に動かした。すぐそこにホークスの横顔がある。それを見ながら私はぽつりと呟く。

「ホークスが、さ……」

 グラスを取り上げられて手持ち無沙汰になった指先をソファの縁に預けながら、私は、ゆっくり言葉を落とす。酔いのせいで身体は少し重いのに頭の奥だけが妙に澄んでいて、普段なら口に出さないようなことまで浮かび上がってしまう。

「噂通りでも全然おかしくないと思うんだよね」

 言ってから、自分でも、どこから出てきた話題なのか少し不思議になる。けれど次の瞬間、思い当たった。ちらっとネット記事で見たモデルとの熱愛の噂。あのときは仕事の合間に流し読みしただけだったはずなのに、なぜかその見出しだけは記憶の奥に残っていた。
 すぐにホークス事務所側が、フェイクニュースだと発表していたことも分かっている。けれど、そういう話題が出ても不思議じゃない人なのだとどこかで、納得していた。そして、ふとよぎる。あの、どこかの誰かから届いていたメッセージ。名前も、顔も知らない、どこの誰とも分からない相手からの、短い一文。

「だって、ちゃんと選ばれる人だもん」

 私がそう言うとホークスは何も返さなかった。ただ、ほんの少しだけ位置をずらして、隣に座り直す。触れる距離ではない。けれど、意識すればすぐ分かるくらいの近さ。その静かな動きに胸の奥が、音もなく揺れる。

「名前さん」
「……ん?」
「今、それ言われるの正直、結構きます」

 声は穏やかだった。けれど冗談の響きはなかった。私は思わず目を伏せて、「ごめん」と謝る。彼は「謝らなくていいですけど」と言う。けれどこちらを見ないまま続けるその言葉は、どこか、慎重だった。

「ただ、酔ってるときに言われると」
「……」
「本音なのか勢いなのか、判断つかないんで」

 その言い方が、胸の奥に、小さく引っかかる。そこで、少しだけ間が空く。私は視線を上げずに小さく言った。

「……本音。」

 自分でも驚くくらい静かな声だった。ホークスがこちらを見る。視線が合う。距離は近い。でも触れない。そのわずかな距離がかえってはっきりと意識される。数秒の沈黙のあと、彼はゆっくり立ち上がった。

「俺、帰りますね」
「……え? 泊まって行かない?」

 思わず口をついて出た言葉だった。彼は、首を小さく横に振る。

「今日は、もう寝ましょ」
「……」
「別々でね」

 少しだけ笑って付け加えられたそれはやさしい声だった。けれど、そこには確かな線が引かれている。軽く流すでもなく、曖昧にするでもなく。私はその意味を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。彼は、玄関のほうへ歩きながら言う。

「これ以上いたら——」
「……」
「俺、ちゃんとした選択できなくなるんで」

 その正直さが、ワインの熱よりも強く胸に落ちた。結局、その夜は、何も起きなかった。触れることも、抱きしめることもないまま、言葉だけが部屋の空気の中に残っている。さっきまで二人で並んで座っていたソファ。テーブルの上に残ったグラス。開けかけの、二本目のワイン。すべてがほんの少しだけ静かになった部屋に取り残されている。
 ドアが閉まる音がして数秒後、外から何かが、羽ばたく気配が聞こえた。私はそっとカーテンの隙間から夜空を見上げる。少なくなった街の灯りの上を、赤いが翼が、ゆっくり遠ざかっていく。そして、すぐに闇に溶けて見えなくなる。頭より先に胸が痛くなる。それはたぶん、ワインのせいじゃない。

 夜の静けさの中でようやく気づく。私はずっと彼のそばで、笑っていた。恋人でもなく、ただの知人でもない。でも確かに隣にいた時間の中で、触れない距離のまま触れてしまいそうな場所まで来てしまったのだと。
 窓の外では、夜風が静かに、街を渡っている。グラスの底に残った赤い液体がわずかに揺れる。私はそれを見つめながら、しばらく動かずに床に座っていた。夜はまだ終わっていないのに一つの時間だけが、静かに幕を下ろした気がした。


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