いつもの恒例の懇親会はいつもと同じ居酒屋で始まっていた。
 見慣れた暖簾と、油の匂いが染みついた空気、そして店内を満たすざわめきの中、仕事終わりの解放感が、ほんの少しだけ人の声を大きくして、グラスが触れ合う音や笑い声が半ば惰性のようにテーブルのあちこちを行き来している。私は奥の長テーブルの端から二番目あたりに腰を下ろしていた。座る位置もほとんど習慣みたいなものだ。気づけば毎回、このあたりに落ち着いている。
 そして隣にひとつだけ空けてしまう席がある。誰に頼まれたわけでもない。決めた覚えもない。ただ、自然にそこだけ余白が残る。それがいつのまにか当たり前になっていたことに、今さら気づいて、私はグラスの縁を指でなぞりながらほんの少し、居心地の悪さを覚えた。

「ここ、空いてます?」

 声がして顔を上げると同じ部署の男性が立っていた。仕事は丁寧で、会話も穏やかで、こういう席ではむしろ、安心できるタイプの人だ。

「あ、はい。どうぞ」

 私はそう言ってグラスを少しだけ引き寄せる。彼は軽く礼を言って、隣に座った。それ自体は、何も、おかしくないことだった。むしろ、自然な流れだ。しかしその直後だった。店の入口の方がわずかにざわつく。遅れて入ってきたのは一人のヒーロー。ホークスだった。

「すんませーん、遅くなりましたぁ」

 軽い調子の声が店内に流れる。いつも通りの、少し間延びした声。でも。視線だけは、まっすぐこちらに向いているのが分かった。
 ……あ。一瞬だけ、彼の動きが止まる。ほんのわずかな時間だった。けれど、私には、はっきり分かった。私の真横には、すでに別の人が座っている。いつもなら、何も言わずに隣に滑り込んでくるはずの男が今日は立ったまま、行き先を一瞬失ったように見えた。

「ホークス、こっち空いてるよ!」

 誰かが声をかける。彼はそこで小さく間を置きそれから笑顔を向けてそちらへ歩き出した。それでも、歩幅がいつもよりも少し、狭い気がした。彼が席についたタイミングで幹事が声を上げる。乾杯の音頭だ。グラスが一斉に持ち上がり、店のざわめきが、さらに膨らむ。けれど私はその間も何度か視線を感じていた。ホークスが席についてからも、何度かこちらを見ていたから。意識していないふりをしても分かる。笑顔がいつもよりも薄いこと。相槌は打っているのに、どこか、上の空なこと。

「——最近、対応が一気に増えましたよね」

 不意に隣に座っていた同僚が話しかけてくる。私は視線をテーブルに戻し、曖昧に笑った。

「まあ、確かにね。季節的なものかもよ」

 軽く、肩をすくめて答える。そのやり取りを、ホークスが見ていたのかどうかは、分からない。けれど、次にグラスを口に運んだとき、ちらりと彼の方を見たその瞬間、彼の眉がわずかに寄ったように見えた。料理が運ばれてきても、彼はなかなかこちらに来ない。代わりにこちらを見る回数だけが妙に増えている。不機嫌、というほど露骨ではない。それでも明らかにいつもの彼とは違う雰囲気。ああ、そういう顔もするんだ……そんなことを思ってしまう自分に、少しだけ苦笑する。
 別に、隣に座る約束をしているわけじゃない。いつだってそうだ。何も決まっていない。それなのに。彼は今、確実に落ち着いていなかった。
 しばらくしてホークスが席を立つ。お手洗いに向かうのだろう。私は、近くの人の会話に相槌を打ちながら料理に箸を伸ばしていた。そのとき、視界の端で彼がこちらへ近づいてくるのが見えた気がした。

「楽しそうすね」

 軽く耳元で言われる。声は、いつも通り軽い。けれど、その奥にはほんのわずかな棘が混じっている。この場では、席を立って話している人は、彼だけではない。だから誰も不審には思わない。それだけが、救いだった。

「別に? 普通だよ?」

 私も同じ調子で軽く返す。ホークスは一瞬だけ言葉に詰まったように、視線を逸らした。

「そっか」

 それだけを言う。そして、そのままお手洗いへ向かって行った。その背中が、ほんの少しだけ、不器用に見えた。胸の奥で、小さく何かが鳴る。それが困惑なのか可笑しさなのか、それとも——まだ、うまく名前をつけられない。

 グラスのなかで氷が溶ける音が、やけに大きく響いていた。店のざわめきは、相変わらず続いているのに、その小さな音だけが、なぜか耳の奥で長く残る。
 料理がひと段落し、場の熱気が、少しだけ落ち着いた頃だった。誰かが追加の注文をして、別のテーブルでは笑い声が大きくなる。そんな雑多な音の中で、私はグラスを持ったまま席を立った。さりげなくという動作を意識しながら壁際の席が空いていたのでそこに腰を落ち着けた。その瞬間ポケットの中でスマートフォンが震えた。一度。少し間を置いて、もう一度。胸の奥で嫌な予感が小さく揺れる。私はグラスをテーブルの端に置きスマートフォンを取り出した。画面を覗く。ああやっぱり——。



ホークス

ねえ ねえ


ホークス

まだその席いるつもりで?





 表示された名前を見て私は小さく息を吐いた。短い一文だ。けれど、返す間も無く、その直後にまた、スマートフォンが小さく震える。



ホークス

俺、ずっと端っこなんですけど


ホークス

なんか今日
妙に遠くないです?





 遠い、という言葉に、思わず視線を上げそうになって必死に画面に視線を留めた。物理的な距離のことを言っているのは分かっている。けれど、その表現の選び方がいかにも彼らしいなと思う。そして、すぐにまた通知が続く。



ホークス

いや
責めてるとかじゃないですよ


ホークス

ただ、その


ホークス

いつも隣だったなーって
思い出しただけで





 ……思い出しただけ。その割には送信の間隔が短すぎる気がした。私はちらりと視線を上げる。それから離れた席の方を見る。ホークスはグラスを手にして、周囲の会話に加わっている。口角はちゃんと上がっているけれど目の端だけがこちらを探している。距離があっても分かる。その視線の動きがやけに、はっきりしているから。そしてまたしてもスマホが震えた。ノールックで文字を打っているらしい。呆れるというよりも、逆に、感心すらしてしまう。



ホークス

あ、今
楽しそうに笑ってましたよね


ホークス

俺の見間違いじゃなかったら


ホークス

その人、同じ部署の人ですか


ホークス

いや
別に深い意味はないです


ホークス

ほんとに





 ——見てる。思っていたより、ずっと。まるでストーカーみたいに。
 深い意味はないと書いている時点で深い意味がある。私は返事を打たないままスマートフォンの画面を伏せた。ここで何か返してしまえば、彼の勢いに火を注ぐだけな気がしたから。調子に乗るのが目に見えているから。けれど彼はもう止まらなかった。再び小さく震える、伏せたはずの私のスマートフォン。



ホークス

いつもだったら


ホークス

名前さんの隣
空いてるかどうか


ホークス

先に確認してたなって


ホークス

今日、それ忘れてて


ホークス

いや、忘れてたっていうか





 言葉が途中で切れている。おそらく、送信前に消して、また、書き直しているのだろう。画面の文字の並び方だけでそれが分かってしまう。少し間が空く。それからまた、小さく数度、震えた。



ホークス

俺、いま


ホークス

ちょっとご機嫌ナナメかもです


ホークス

ちゃんと自覚してますよ?


ホークス

大人げないなって


ホークス

でも


ホークス

どうしても





 そこでまた一度、通知が途切れる。正直すぎて思わず笑いそうになった。けれども、続けて次に届いたメッセージを見た瞬間、私はもう笑えなくなってしまった。息を整えて、ゆっくりと画面を見つめ返す。周囲では誰かが大きく笑い、店員が皿を下げている。居酒屋のざわめきは変わらないのに、その数秒だけが、妙に静かに感じられる。



ホークス

名前さんが


ホークス

俺の視界の端じゃなくて


ホークス

ちゃんと隣にいないの





 その次のメッセージは、送信までに少し時間がかかった。私はその待ち時間の間、なぜか呼吸を浅くしていた。そして、最後の言葉が私の元へと届いた。



ホークス

思ったより


ホークス

だいぶ、きます





 その一文を、心の中で読んだ瞬間に、胸の奥が静かに締めつけられた。
 私はゆっくり顔を上げた。離れた席にいるホークスが、ちょうどこちらを見ていた。目が合う。一瞬だけ彼の眉が下がる。困ったような、照れたような、どう扱えばいいのか分からない感情を、隠しきれない顔。へらりと笑う。その笑顔を見た瞬間、私は、視線を逸らしてしまった。スマートフォンが、最後にもう一度だけ震える。手の中の小さな振動が胸の奥まで届く気がした。スマートフォンの画面にまた短い振動が走る。さっきまで続いていた通知の流れとは違って、今度はどこか落ち着いた間隔だった。私は壁際に座ったまま、静かに、画面を開く。まるで、宝物の箱を開けるみたいにして。



ホークス

あとで


ホークス

ちゃんと話したいです


ホークス

今は


ホークス

返さなくて大丈夫なんで





 その数行を読み終えたとき、胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくり形を持つのを感じた。
 押したい。返したい。でも、壊したくない——たぶん彼も同じことを考えている。だから最後の一文があんな書き方になるのだと。返事を求めるようでいて逃げ道を残す。踏み込む直前で、必ず手前に線を引く。それは、この関係を守るための彼なりの慎重さだった。
 私はしばらく画面を見つめたまま、動かなかった。指先は返信欄の上で止まっているのに文字を打つことができない。ここで何かを書けば、夜の温度が変わる。言葉というものは、そういう力を持っている。私は静かに画面を閉じてポケットにスマホを戻した。それから、グラスを持ち直す。氷が溶けてさっきよりも、軽い音を立てた。

「名字さん、おかわり何飲みます?」
「え? あ、ああ……じゃあ、レモンサワーで」
「はーい! 一緒に頼んじゃいますね〜」

 何も知らない顔をして周りに、笑顔を向ける。誰かが冗談を言い、別の誰かが大きく笑う。私はそれに合わせて笑い、会話の流れに戻っていく。
 外から見れば、ただの懇親会の一場面だ。仕事仲間と酒を飲んで、取り留めのない話をしているだけの夜。けれどテーブルの向こう側から伝わってくる視線の温度だけは最後まで消えなかった。顔を上げなくても、分かる。グラスを持ち替える仕草の合間や料理を取り分ける瞬間に何度かその方向を感じてしまう。だから、できるだけ自然に振る舞う。箸を動かし相槌を打ち笑うところではちゃんと笑う。それでも、胸の奥では別の時間が流れていた。さっき読んだメッセージの余韻が。『あとで』という、言葉の重さが。それからまだ交わしていない、会話の気配。そのすべてが夜のざわめきの向こう側で、静かに待っている。
 私は新しく届いたグラスを口元へ運んだ。氷がまた小さく音を立てた。この席では、何も起こらない。私たちは、ただ同じ空間で、別々に時間を過ごしているだけだ。それでもこの夜が終わったあとどこかで必ず続きを話すことになるのだと。私も彼も、もう分かっていたから。

 会計を終えて店の外に出た瞬間、夜気が一気に肺の奥まで流れ込んできた。店内に溜まっていた人いきれや酒の匂いが、身体の外へ押し出されていくようで胸の奥に残っていた酔いがゆっくりとほどけていく。
 外の空気は思っていたよりも冷たくて、思わず肩をすくめた。さっきまでのざわめきが、扉一枚隔てただけで、遠く感じる。店の前の歩道には、自然と、人だかりができていた。誰からともなく立ち止まり、コートのポケットに手を入れながら次の行き先の話が始まる。

「で、どうする? 二次会」
「前に行った駅前のBAR、空いてるらしいよ」
「まだ飲めるでしょ?」

 そんな声があちこちから飛び交って、先までの宴会の余熱が、外の夜にも少しだけ滲んでいく。
 私は、その輪の端に立っていた。まだグラスを持っているような感覚が指先に残っていて、空になった手のひらを、なんとなく、握り直す。そのときだった。すぐ横から、同じ部署の男性が顔を寄せてくる。

「名字さん、二次会行こうよ。せっかくだし」

 悪気のない、ただの軽い誘い。この場ではほとんど挨拶みたいなものだ。それは分かっている。頭では、ちゃんと。それなのに、胸の奥がほんのわずかに強張る。どう返そうか言葉を探しているその短い間だった。「あー!」と、やけに大きな声が割り込んだ。思わず瞬きをする。

「名前さん! 顔色、悪いですよ!?」

 言葉と同時に誰かの身体が、ごく自然な動きで私の隣へ入り込んだ。声の主は言うまでもなく、ホークスだった。私が何かを言う前に彼は矢継ぎ早に先を続ける。

「さっきから、ちょっとフラついてますよねぇ?無理してたでしょ」

 肩が触れそうな距離で、いつのまにか私の横の位置を完全に確保(キープ)されている。その動きはあまりにも滑らかで、まるで、最初から、そこに立つ予定だったみたいに見える。

「じゃ! 俺、送って行くんで!」

 迷いのない言い方だった。誰の返事も待たない調子で。周囲から「え、ホークス……大丈夫?」と、声が上がるが、彼はすぐに笑顔を向けた。

「あー大丈夫です大丈夫です。ヒーローなんで。こういうときこそ、俺の出番す!」

 のらりくらりと流しているようで、最後の一言だけは少しだけ力が入っていた。私に声をかけてきた同僚の男性が少し戸惑ったように私を見る。そばにいた他の同僚も、心配そうに私を気遣う。

「……そう? 名字さんも、大丈夫?」
「うそ!? 具合悪かったんですかぁ?」
「やだ、ごめんなさい……私たち、体調が悪いの気付けなくて」
「え、いやいや! だ、大丈夫です……」

 反射的にそう答えながらも、私はふと気づく。言葉の向きが同僚たちではなく隣に立つ彼の方へ向いていたことに。胸の奥にほんの少しだけ苦い感覚が残った。

「ほらほらぁ、行きましょ♪」

 ホークスは軽くそう言って、まるでヒーローの所作で、私を支えるように歩き出す。その自然さに誰も疑問を持つこともない。背中越しに聞こえる「じゃあまた、会社で!」や「お疲れ様ー!」という声がどんどん遠ざかっていく。同僚たちの二次会の話題は、そのまま、別の方向へと流れていった。
 気づけば私たちは二人きりだった。駅から少し離れた道。人通りはまだあるのに、さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠い。街灯の光が歩道に落ちて私たちの影を長く引き延ばしている。
 隣を歩くホークスはもう私に触れてはいない。それでも肩がいつもよりも近い。ほんの少し腕を振れば触れそうな距離。その距離を彼は、当たり前のように保ったままで歩いている。さっきまで大勢の中にいたのに今は急に夜の音だけが静かに広がっていた。

「……顔色、悪くないと思うんだけど」

 歩きながら私は小さくそう言った。夜の空気が頬を撫でていく。店の前で吸い込んだ冷たい空気が、まだ胸の奥に残っているみたいだった。私と歩幅を合わせて淡々と歩くホークスは前を向いたまま答える。

「知ってますよ?」

 あっさりとした声だった。「じゃあなんで」と問い返した私の声は思っていたより静かだった。歩道のアスファルトを踏む靴音のほうが、むしろはっきりと聞こえるほどに。

「なんででしょうねぇ」

 彼は笑って言う。その笑いは軽いのに、視線は前から動かない。街灯の下を通るたびに、横顔の輪郭が明るく浮かんでは、また影に戻る。

「二次会、行きたかったですか」

 不意にそう聞かれて私は少しだけ間を置いた。彼はほんの少しだけ歩調を緩める。追い越させない。でも急がせない。私の歩幅に合わせるような静かな速度。「別に」と、私はそれだけ答える。「ですよねー」と彼は、納得したように頷いた。それ以上、問いは続かない。けれど、沈黙の中で彼の存在だけがやけに近く感じられる。肩と肩の距離。触れない程度の曖昧な近さ。この距離を、彼は、自然に保ったまま歩いているのだ。

「今日、隣に座ってた人——」
「……」
「悪い人じゃなさそうでしたね」
「え。急に、何……」
「いや、事実として」

 唐突にホークスが口を開いてそんなことを言い出した。私は少しだけ顔を上げる。声は、淡々としている。けれどその奥にある温度までは誤魔化せない。それが何なのかを私は言葉にしないまま理解してしまう。彼はそこで、ほんの短い沈黙を挟んだ。それから「でも——」とその続きが少しだけ遅れる。夜の風が私たちの間を通り抜ける。

「今日は名前さんのこと、俺が送ります」

 宣言というより確認に近い言い方だった。私は何も答えない。否定もしないまま、ただ歩き続ける。靴の底がアスファルトを踏む感触が、妙に、くっきりしていた。肩と肩の距離はさっきよりも自然になっている。触れてはいない。でも確実に二人だけの空気の中に入っている。周囲にはまだ人通りがある。遠くで車の音が流れてコンビニの明かりが交差点を照らしている。それでも、この道だけはどこか、静かだった。
 夜はまだ深い。駅までの道はまだ続いている。今はただ、この静けさを壊さずに歩くことだけが正しい気がした。

「なんか、最近さ……?ホークス、やけに積極的だよね」

 もう少し歩いたところで、私は足元を見たままぽつりと言った。口にしたあとで、自分でも少し驚いた。ずいぶんと軽い言い方だったから。別に責めるつもりでも探るつもりでもなかった。ただ胸のどこかに引っかかっていた感覚を、そのまま外に置いただけの言葉だったのに思いのほか軽い調子で出てしまった。
 夜道に、私の声が溶けていく。その瞬間、隣を歩いていた彼の足音が、わずかに乱れた。ほんの一歩ぶん、歩幅がずれる。すぐにまた揃うけれどその小さな違いは思っていたよりはっきりと耳に残った。

「うそ……。え。そう、見えます?」

 ホークスは笑いを混ぜるように言った。照れをごまかすようないつもの軽さで。けれどその声の奥には、隠しきれていない緊張がある。いつもの調子へ戻そうとしているのにその努力がかえって目立ってしまう。だから私は、正直に答える。

「うん、見える」
「あらぁ〜」
「前はさ、もうちょっとこう……様子見って感じだったのに」
「わはは」

 短く笑って彼は一度だけ夜空を見上げた。街灯の光が横顔を斜めから照らしている。その輪郭は思っていたより落ち着いていてさっきまで居酒屋で見ていた顔よりも少しだけ大人びて見えた。

「様子見、してたんですよ。ずっと」

 彼は、そう言った。軽く聞こえる言葉なのに、そこには、長い時間が含まれている気がした。

「今は?」

 問い返したのは、私のほうだった。自分の声を聞いた瞬間、胸の奥が小さくざわつく。聞くつもりはなかったのに、言葉が先に出ていた。
 ホークスは少しだけ黙る。沈黙が長くならないようにするためか、ほんの短い間のあとで言葉を探す気配があった。

「……今は、逃したくないなって思ってます」

 答えはゆっくりだった。けれど曖昧ではない。足音が、静かなリズムで並んで続く。

「別に急かしたいとか、そういうのじゃなくて。名前さんが嫌なことは、絶対しないですし」
「……」
「ただ、前みたいに何も言わないままでいるのはちょっと、違う気がして」

 彼は前を向いたまま話す。その声は穏やかだった。強く押すわけでもなく遠慮しているわけでもない。ちょうど今吹いている夜風と同じくらいの温度。私は返事の代わりに、小さく息を吐いた。吐いた息は空気に溶けていく。息はまだそこまで白くはならない季節のはずなのに、胸の奥だけが冷えて、同時に温かかった。

「……正直だね」
「そう言われると、照れちゃいます」

 彼はそう言って、少しだけ笑った。その笑顔はさっき居酒屋で見せていたものよりずっと静かでそして、少し近くて眩しかった。
 横を歩く距離は変わらない。触れないし、手も伸ばさない。それなのに、今までよりはっきりと彼の存在を意識してしまう。歩くたび肩の近さを感じる。夜の空気の中に、彼の気配が、混ざっている。

「嫌だったら、ちゃんと言ってくださいね」
「……今のところは? それとも今後も?」
「……やっぱ言わないでください。落ち込む」

 困ったように言って、彼は、視線を逸らした。けれどその横顔にはどこか安心した色も混じっている。夜道はまだ続いている。先までの喧騒から切り離されたこの時間は、思っていたよりずっと静かで、そして、居心地がよかった。
 私は何も言わずに歩きながら考える。彼のこの��積極的さ�≠ェ、押しつけでも、勢いでもなく、彼なりの誠実さなのだとしたら——少しくらい、受け止めてもいいのかもしれない、と。
 しばらく並んで歩いたあと私は自分でも意外なほど軽い調子で、口を開いた。

「……他の女の子にも同じようなこと言ってたらどうしようとは、思うけどね」

 自分で言っておきながらその言葉が夜の空気の中に落ちていく音を、私は、はっきり聞いた気がした。笑って流してもらうくらいの、軽い牽制のつもりだった。ただの冗談。ありふれた言い方。会話の端に置く程度の言葉。それでも口に出してしまった瞬間、胸の奥が少しだけ、落ち着かなくなる。隣を歩く彼の足音が、わずかに重くなったのはそんなことを考えていたときだった。距離は変わらない。肩と肩の間隔も、さっきと同じだ。けれど空気の密度だけが変わったのが分かった。

「それ冗談? それとも、本気で言ってます?」

 声の調子が低くなる。責めるほど強くはない。でも、さっきまで残っていた軽さは消えていた。
 私は思わず彼の横顔を見た。街灯の光が斜めに当たり、目元に影が落ちている。

「え、冗談だよ。……まあ、半分くらいはね」

 そう答えると、ホークスは小さく息を吐いた。ため息というより、胸の奥に溜まったものを押し出すような呼吸だった。

「言ってないです」
「……」
「そんなこと、誰にでも言うわけないでしょ」

 言葉は、すぐに落ちてきた。私が何かを考える間もなく少しだけ語尾を強めに。彼は歩きながらちらりと、こちらを見る。その目の奥にある色を私は見逃さなかった。不機嫌というより少し拗ねたような、そして、どこか傷ついたような色。

「……俺、そんな器用じゃないんで」

 彼はそう言い切るとすぐに視線を前へ戻した。唇は、わずかに尖ったままで、その無意識の癖のような形が、言葉にしきれなかった感情の名残をそのまま残している。私はその横顔を見た瞬間、胸の奥で、小さな音がした気がした。怒っているわけではないと、すぐに分かる。むしろ取り繕うことをやめて、本音を零してしまった人の顔だと思った。だからこそその不器用さがどうしようもなく近くに感じられて、私は笑ってしまいそうになる。

「ごめん。からかいすぎた」

 私が言うと、彼はすぐには返事をしなかった。数歩分、沈黙が落ちる。足音だけが並んで続く。街灯の光がひとつ過ぎ、またひとつ後ろへ流れていく。そして、少し遅れて言葉が返ってくる。

「……別に、怒ってるわけじゃないです」
「うん……知ってるよ」
「ただ、そういうふうに思われてるのが嫌だっただけで」
「……」
「名前さんに言ってることは、名前さんにしか、言ってないです」

 夜風の中で、その言葉だけが、真っ直ぐ残る。押しつける調子ではなかった。断言というよりもただ事実を置くような言い方。私は何か返そうとして結局、言葉を見つけられなかった。代わりに歩く速度を、ほんの少しだけ彼に合わせる。それだけの小さな変化なのに、隣の肩からふっと力が抜けたのが分かった。次に聞こえてきた彼の声は少しだけ、いつもの調子に戻っていた。

「疑うのは、まあ……仕方ないと思いますけど」
「……」
「でも、他の人と比べられるのは、あんまり好きじゃないすね」

 その言い方に私は思わず視線を上げた。半分は探るように。もう半分は、確かめるように。

「ホークスって、どんな人にも独占欲強いの?」
「え? どう、でしょうねぇ……」

 彼は一瞬だけ言葉に詰まっていた。そして少しだけ考えてから先を続けた。

「否定は、しないですけど」
「……」
「でも、今のところ、一人しかいないすね」

 そう言って小さく笑う。その笑いは、軽口ではなかった。誤魔化しでもない。どこか覚悟に近い響きを持っていた。夜道の街灯が、ひとつ、またひとつ背後に流れていく。触れない距離は、そのまま保たれている。それでも冗談ひとつで揺れるほどには距離はもう近くなっていた。私は視線を落としながら思う。さっきの言葉はたぶん、冗談なんかじゃなかった。確かめたかったのは、彼の余裕じゃない。彼の、本気のほうだったのだと。

 それからしばらく無言で歩いた。言葉を探しているというより互いに少しだけ距離を測り直しているような沈黙だった。足は自然と私の帰り道の方へ向かっていた。駅の明かりが背後でゆっくり遠ざかり代わりに住宅街の静けさが夜の空気ごとじわじわと流れ込んでくる。
 隣を歩くホークスはさっきまでの軽やかな話しぶりが嘘のように口を閉ざしていた。歩幅はきちんと私に合わせているのに、それ以外の気配が、ほんの少しだけ、距離を取っている。私は横目でその様子を窺いながら、内心で小さく息をつく。なんてわかりやすいヒーローなんだろうと思う。感情を隠すことに慣れているはずなのにこういうところだけ、妙に隠しきれない。
 一定の間隔で並ぶ街灯の下をくぐるたび、彼の横顔が、断続的に浮かび上がる。光に照らされる瞬間だけ、表情がはっきりと輪郭を持ち、すぐにまた影の中へと沈んでいく。その繰り返しの中で見えたのは少しだけ口元を引き結んだ、納得していないときの顔だった。拗ねている、と言い切るには大人びていて、けれど受け入れきれていない感情がそのまま残っている。言葉にできなかった不満が、表情の端に留まったまま消えずにいる、どこか子どもみたいな顔。その不器用さが、夜の静けさの中でやけに近く感じられて、私は視線を逸らすでもなくその横顔をもう一度だけ確かめるように見つめた。

「……ホークス?」

 呼んでみるけれど返事はない。こちらを見ようともしない。こんなふうに、感情を露わにする人だったのかと少しだけ驚くと同時に、どこか安心している自分がいる。隣にいるのが遠い存在ではなく、触れれば揺れる温度を持った人なのだと、ようやく実感できた気がして。けれどその安心は同時に、別の感情も連れてくる。私にだけ見せている顔なのかそれとも誰に対しても同じなのか。そんな考えが一瞬だけ頭をかすめて、言葉にならないまま、胸の奥で静かに沈む。

「拗ねてるの?」

 私は、そんな考えを打ち消すように笑いながら少しだけ、彼に身を寄せて聞いた。そして指先で頬を軽く突く。反応はない。でも、抵抗する気はないらしい。もう一度今度は少しだけ力を込めて頬を突いてみる。

「ほぉーくすぅ〜?」
「やめて!」

 すぐに私の手を払いのけて、やっぱり、子どもみたいな声が返ってきた。あまりに反応が素直で私はまた、笑いそうになる。

「そんな顔してたら、触りたくなるでしょ」
「ならんでください!」

 語気は強いのに、進む足は止まらない。拒否の仕方がまったく本気じゃない。私は肩を揺らして噴き出した。その瞬間、彼が、足を止めた。勢いよくこちらを向いた顔はむすっとしたままなのにどこか、必死の形相だった。

「……なんで、笑うんですかっ」
「だって、可愛いから」
「〜〜〜っ! 可愛いって言わんで!」

 声が裏返る。完全に感情が先に出ている。ついさっきまで見せていた、ヒーローとしての整った輪郭はもうどこにもなくて、代わりにいるのは、どうしようもなく不器用で思ったことを隠しきれない一人の人間だった。そのギャップに胸の奥がふっと緩む。

「俺、さっきまで、ご機嫌だったんですよ?」
「知ってる」
「隣に座れなかったけど、一緒に帰れて」
「うん」
「それが、一瞬でこれですよ!」

 彼は、自分の胸元を指差す。悔しそうな顔で。理由は分かっている。さっき、私が言った言葉。他の女の子にも同じこと言ってたらどうしよう。あの一言が、きっと引っかかっているのだ。

「俺ばっか、い〜っつも必死やん!」

 その言葉が、夜の中へ落ちた。軽口の形をしているのに内側はまるで違う。彼はその先の何かを言いかけて言葉を止めた。視線が揺れて、また、逸れる。

「……名前さんは、余裕そうに笑って」
「……」
「俺だけ、気にしてるみたいで」

 そこまで言ってから、はっとしたように、口を閉じる。私は笑うのをやめて息を止めた。そして少しだけ真面目な顔で返した。

「必死なのって、悪いことかな?」
「……悪くは、ないですけど」
「じゃあ、いいじゃん」

 私はそう言って、今度は頬ではなく彼の袖口を軽く引く。さっき頬を突いたときよりも少しだけ控えめな触れ方で。

「必死なホークス、私は嫌いじゃないよ」

 その瞬間、彼は、完全に黙り込んでしまった。街灯の光の下で、耳まで赤くなっているのがはっきり分かる。そして、小さく、ぼそっと。

「……ずる」
「なにが?」
「そういうとこです!」

 それきり、彼はまた歩き出した。さっきよりもほんの少しだけ遠い距離で。私はその背中を見ながら思う。必死なのは、彼だけじゃない。笑ってごまかしている私のほうが、よほど卑怯なのかもしれない、と。夜は静かで少し冷たい。けれど、その冷たさの奥にどこかやさしさがある。二人の影が並んで伸びていく。やがて、別れ道に差しかかった。そこでホークスは立ち止まった。別れを言うタイミングを完全に失った人の立ち方で夜の歩道に突っ立っている。背中の羽根は畳んだまま腕も組まずただ所在なさそうに私の正面に立っている。
 ……ああ。分かりやすすぎる。きっと、セーフハウスで二次会をしたいのだろう。あのソファで一次会の続きみたいな、でも続きじゃない時間を過ごしたいのだろう。
 コーヒーか、もしくは冷蔵庫を開けて「わぁ〜偶然!お酒ありました」とか言って、笑うのだ。でも私からは言わない。今日は言わせたいから。

「……ホークス?」

 私が声をかけると、彼はぴくりと背筋を伸ばした。その反動で、剛翼も動く。反射みたいな動きだった。気を抜いていたところを、自分の名前で呼び戻されたような顔。

「はい」

 それだけ。続きはない。私は、バッグの肩紐を直しながら、わざと一歩後ろへ下がる。靴の底がアスファルトを軽く擦る音がしてその小さな音に彼の視線が揺れた。

「送ってくれてありがとう。ここで大丈夫だよ」

 区切りの言葉。夜道の終わりに置くごく普通の挨拶。けれど彼はぴくりとも動かなかった。ただ視線だけが落ち着かない。私の顔を見て次の瞬間には足元へ落ちて街灯の光へ逃げて、また戻ってくる。
 私は内心で小さく笑う。こんなに雄弁な沈黙、なかなか見られるものじゃない。

「ホークス?」
「……はい」
「なにか、言い忘れてることない?」

 少しだけ、意地悪に。問いの形をしたヒントをそっと投げる。彼は喉を鳴らした。小さな喉仏が上下にゆっくりと動く。一度、口を開いてから、また、閉じる。未練がましいのは好きじゃない。だから私はここで、諦めることにした。

「——じゃあ、私、帰るね」

 そう言い置いて、体の向きを変える。その瞬間だった。「ま、待って!」と子どもみたいな声が飛んできた。振り返ると、彼は一歩だけ前へ出ていた。けれど、距離を詰めきれないまま、そこで止まっている。

「そ……その、」
「……」
「よ……よかったら、なんですけど」

 言葉が途中で何度もつまずく。いつもの飄々とした口調は影を潜めて、代わりにどこか頼りない音が夜の中にこぼれていく。ホークスは、視線を上げない。私の目を見ることもできず肩のあたりを彷徨うように留めたまま、言葉の続きを探している。呼吸がわずかに深くなるのが分かる。胸が上下するたびにその内側で言葉が行き場を失っているみたいだった。軽く握られた拳。力を込めているわけではないのに、ほどくタイミングを見失っているような形。
 ねえ、ほら——心の中で、そっと背中を押す。さあ、言って。と、その続きを待っている自分がいる。

「……もう、ちょっとだけ、話せません?」

 やっとのことで出てきた言葉。ほんの少しだけ整っていない呼吸と一緒に、慎重に差し出されるみたいに置かれるその一言に、私は一瞬だけ目を細める。そして、わざと考えるふりをする。夜の空気がその沈黙を、ゆっくりと引き延ばす。彼の視線はまだ私を捉えきれないままで、でも逸らしきることもできずにいる。その曖昧な距離の中で私は、ほんのわずかに息を吐いた。

「ここで?」
「いや、えっと……」
「うん」
「……うち、寄って……行かんかな、って」

 普段ならもっと軽い言い方をするのに、今日はどこか不器用で、真っ直ぐで——だからこそ断りにくい。それでも私は、すぐには答えなかった。少しだけ間を置く。彼の眉が困ったように寄って吐く息が小さくなるのを見て私はそこでようやく笑った。

「最初から、そう言えばいいのに」
「……」
「ずっとバカみたいに立ってたよ、わたし」
「……はあ。言わせようとしてましたよね」
「うん」

 私は迷わず頷いた。彼は悔しそうに目を伏せてそれからもう一度、諦めたように息を吐き出す。

「……ずるい」
「お互いさま」

 そう言うと彼の表情が少しだけ緩んだ。さっきまで残っていた不機嫌も、拗ねた空気も、すっとほどけていく。「じゃ、じゃあ……」と私の声も彼の緊張が伝染してしまったみたいに遠慮がちになる。でも、期待は隠しきれていない。

「ちょっとだけ、お邪魔しよっかな」

 私がそう付け足すとホークスの目がはっきりと輝いた。ほんと、子供みたいなヒーローだ。
 夜は、まだ終わらない。触れない距離も言葉にしない感情もそのままにして。それでも、二人の向かう方向が同じになったことだけは、はっきりしていた。

「はい、ぜひ」

 嬉しさを抑えようとして、うまくいっていない彼の返事を聞き捨てて私はまた彼の横に並んだ。
 セーフハウスへ向かう途中、ホークスが急に、進路を変える。

「……ちょっと、寄っていいです?」

 彼が指さした先には、見慣れたコンビニの白い看板があった。私は笑って頷く。こういう「ちょっと」が、だいたい、ちょっとじゃないことを、もう知っている。
 自動ドアが開く。夜の店内は驚くほど静かで、蛍光灯の光が、床にまっすぐに落ちている。外の夜よりもむしろここは白くて明るい。ホークスはかごを手に取ると、迷いのない足取りで棚を回り始めた。

「飲み物、何がいいです?」
「……無難に、お茶とか?」
「はいはい、無難ね」

 そう言いながら、彼は同じ銘柄のお茶を二本、当然のように籠へ入れる。私が「これがいい」と言う前に、もう、決まっていたみたいにして。

「あと、甘いのね」
「さっき頼んでたでしょ?ビールの後になんか、甘い系のやつ」
「えぇ〜? どうして知ってるんです?まさか、俺のストーカー?」
「ねえ、怒るよ」
「ウソウソ。甘いもんは、別腹です」

 迷いのない返事。デザートコーナーの前で立ち止まり——プリン、アイス、チョコ菓子を順番に眺めていく。顔は真剣なのに、悩んでいるのが、全部甘味なのがなんだか不釣り合いで可笑しい。

「……それ、全部食べる気?」
「食べますよ。二人でね」

 ��二人で�≠ニいう言葉が、自然に混ざる。私は何も言わずに、彼のかごにポテトチップスを一袋足した。ホークスは一瞬きょとんとして目を丸くする。

「しょっぱいのも、必要でしょ」
「わかってるじゃないですかぁ」

 そう言ってホークスは満足そうに笑った。その笑顔はさっきまでの拗ねた空気をすっかり忘れている。それでもやっぱりどこか子どものようにも見えた。次に、冷凍食品の前で、彼が不意に立ち止まった。

「……あ、」
「ん? なぁに」
「これさ、前に名前さんが美味しいって言ってたやつ」

 思いがけず胸が鳴った。覚えていたことが少し意外で反応が遅れてしまう。「よく覚えてるね」と小さく独り言みたいに言うと、「覚えますよ。そういうのは特に」なんて、さらりと言って籠へ入れる。こういうときに思う。自覚のない優しさほど、厄介なものはないと。レジに並ぶあいだ、彼はスマートフォンを取り出した。私は鞄から、財布を取り出す。

「……いいすよ?」

 レジの列の途中で、ホークスがふいに、小声で言った。スマートフォンの画面には、何かのバーコードが表示されていて、すぐに、コード決済をしようとしているのだと理解する。その仕草が、妙に律儀で私は思わず横から覗き込んでしまう。

「なにが?」
「いや、その……。俺、払うんで?」

 言いながら、彼は視線を画面に落としたまま、どこか様子をうかがっている。当然のように払うつもりでいて、それでも、念のため確認している顔だった。

「なんで、疑問形」
「んー、念のため?」

 その一言に、彼らしい遠慮と気遣いが混ざっているのがわかる。私は小さく首を振った。

「半分こね」
「……はい」

 ほんのわずかに残念そうで、それでもどこか、嬉しそうな声だった。おそらく、彼にとっては、奢るかどうかよりもこうして二人で並んで会計をする時間そのものが意味を持っているのだろう。
 袋を受け取って店を出ると夜風が再び頬を撫でた。店内の白い光から離れると外の闇は少しだけ柔らかく感じられる。ホークスは、当然のように袋を二つとも持とうとする。

「重いよ?」
「ヒーローですから」
「はいはい」

 私は軽く笑って袋持ちの担当をそのヒーローに託すことにした。並んで歩きながら、袋の中身がかさりと鳴る。その乾いた音が、これから始まる特別じゃない夜の予告を告げるみたいに聞こえて私はわずかに頬を緩めた。するとホークスが前を向いたまま言う。

「なんか……こういうの、いいですね」
「どれ?」
「コンビニで、無駄に買いすぎる感じ」
「ほんと、無駄だよね」
「でも、楽しいです」

 思わず笑みがこぼれた。抑えようとする前に、零れてしまったそれは、さっきまでの張り詰めた空気をほんの少しだけやわらかくほどいていく。もうそれ以上の言葉はいらなかった。街灯の下、足元に落ちる二つの影が、歩幅の違いに合わせてわずかに揺れる。近づいては、また少し離れて、それでも同じ方向へと伸びていくその形が、今の距離をそのまま映しているみたいで私は一瞬だけ視線を落とした。夜は静かで、余計な音をすべて遠ざけるようにただ足音だけが規則的に重なる。その単調なリズムに、言葉にならない迷いも言いかけて飲み込んだ言葉も、すべてが、ゆっくりと馴染んでいく。
 彼のセーフハウスはもうすぐそこだ。終わりに向かっているはずの夜なのに、なぜかまだどこか続いていくような気がしていた。

 エントランスを潜り抜け、エレベーターに乗り込み、ドアが閉まると外の夜気がすっぱりと遮断される。その瞬間、空気の温度が一段だけ和らぐのがわかる。部屋の鍵を開けて、ホークスは靴を脱ぎながら、小さく息を吐いて言った。

「あれすねー。同棲しててさぁ」
「ん」
「偶然、外で会って一緒に帰ってきた〜みたいな感じすね」
「プロヒーローとは同棲したくありません」
「もー。気分の話ですってば」

 照明は落としたまま間接灯だけを点ける。やわらかい橙色の光が部屋の角をなぞり、昼間のヒーローの拠点とは違う夜のための空間がゆっくりと輪郭を持つ。
 私は、コンビニ袋を受け取って、ソファの前のテーブルの上に中身を並べていく。甘いものからしょっぱいもの、飲み物。それは、統一感のない並び方なのに、妙に生活の匂いがする。

「ねえ、買いすぎだよね、これ」
「はは……言われると思いました」

 彼はそのままソファへ腰を下ろす。羽も広げず背もたれに軽く寄りかかる姿は、ヒーローというよりも、ただの二十代の男のものだった。
 ペットボトルの蓋を開ける音が小さく弾ける。静かな室内でその音はやけにくっきりと響いた。テーブルの上には冷凍食品と適当に開けた菓子の袋。きれいに整ってはいないのに、不思議と落ち着く景色だった。

「はい、どーぞ」

 ホークスが、ペットボトルを差し出してくる。ラベルは、さっき彼が手に取った銘柄のものだ。二人で、お揃いのもの。

「開けてくれたの?」
「ええ」
「……ちゃんと、覚えてるんだね」
「ん? なにを?」
「私の、好みのお茶」
「はは。忘れませんって」

 それ以上は言わない。言わないけれど、ペットボトルを受け取る瞬間、指先が触れそうで、触れないところで止まる。私はソファの上で少しだけ身じろぎする。肩は触れない。けれど間に置いたクッションが、なぜか、やけに薄く感じられる。するとホークスが不意に聞いてきた。

「……今日、どうでした?」
「なにが」
「懇親会。楽しかったです?」
「普通かな」

 正直な答えだった。彼は小さく、曖昧に頷く。まるで、自分は違う意見だったと言いたげに。

「俺は正直ちょっとだけ落ち着かなかったです」
「知ってる」
「え」
「顔に出てたから」

 淡々とそう言うと、彼は苦笑した。自分でも、分かっていたらしい顔だった。
 ホークスはそのままポテトチップスを一枚だけつまみ静かに噛む。さっきまでの勢いが嘘みたいに、動きがゆっくりだ。それから、一度だけ息を整えてから続けた。

「……やっぱり、出てました?」
「うん」
「でも。最後にこうして二次会できたんで、結果オーライってことで」
「前向きだねぇ」
「前向きじゃないとやってられない仕事なんで」

 冗談めかして言うけれど、その奥にほんの少し疲れた影が差しているのを私は見逃さなかった。私は何も言わずに立ち上がって冷凍食品をレンジにかける。温めたパックを手に戻ってくるや否や彼の前へと差し出す。湯気がゆっくり立ちのぼり夜の部屋に淡く溶けていく。
 彼は一瞬だけ私を見て、それから、静かにそのパックを受け取った。ありがとうとは言わない。けれどその沈黙が言葉の代わりになっているのがわかるから、厄介なのだ。
 テレビもつけないまま、室内は、静かだった。ポテトチップスの袋が鳴る音。ペットボトルが、へこむようなプラスチックの音。それから、ときどき重なる呼吸。特別なことは何も起こらない。ただ、同じ部屋の空気を同じ速さで吸って吐いているだけ。それなのにどうしてだろう。こういう夜ほど、妙に胸の奥に残るのは。
 私はペットボトルの縁を指でなぞりながらふと彼の横顔を盗み見る。ヒーローでもなく、誰かに見せる顔でもない、少しだけ、気を抜いた表情。今にも口笛を吹き出しそうだ。その隣にいられる時間が、今夜はまだ続いている。

「ほら、どーぞ」

 外の夜は、深くなっていく。けれどこの部屋の中だけは時間の流れがゆっくりになったみたいに思えた。私が、また別の冷凍食品のパックを少しだけ彼の方へ押しやるとホークスはペットボトルを持ったまま、ほんのわずかに眉を吊り上げた。

「なん?」
「食べて」
「……気が、利きすぎで、怖いです」
「うん」
「自分で食いたいもんくらい、選べますって」

 軽く呆れたような言い方。子ども扱いされたとでも思ったのだろうか。けれどその奥に嬉しさが混じっているのが分かる。私はそっと目を伏せて肩をすくめる。

「食べないの?」
「食べます」

 短い返事。そこに迷いはない。私たちは、同じ皿をつつき始める。箸が、ぶつからないように。でも遠慮しすぎない距離で、同じ料理を少しずつ分け合う。ほんの数センチの間合いが妙に慎重に保たれている。テーブルの上には開けたお菓子の袋と飲みかけのペットボトル。コンビニで買ってきたばかりのものばかりなのにもうずっと前からここにあったみたいに馴染んでいる。そんな中、ホークスが、ぽつりと言った。

「最近……」
「うん」
「夜が、ちょっと静かすぎるなって思ってて」
「ヒーローなのに?」
「ヒーローだから、です」

 私は箸を止めた。どこか意味を含ませたような言い方だったから、反射的に視線だけを向ける。ホークスは箸を支える程度の力で持ったままテーブルの一点を見つめていた。視線は動かないのに思考だけが、遠くへ行っているような顔だった。

「前までは全然、ひとりとか、平気だったんですけどね」
「……」
「誰かと、こうやって何も考えずに過ごす時間、俺も人並みに、欲してたのかなァ、って」

 その言葉が落ちたあと彼の指先にわずかな力が入り箸を握るその手がほんの少しだけ強くなる。たぶん、本人は気づいていない。私が見ていなければその変化は誰の目にも触れずに過ぎてしまう程度の小さな動きだった。数ヶ月後、彼の誕生日が来る。今年で二十二歳。ヒーローとしての立場も任務の重さもきっとこれからさらに増えていく。誰かと肩の力を抜いて過ごす時間は今よりも少しずつ遠くなっていくのかもしれない。それが彼の背負った��ヒーロー�≠ニいう仕事のひとつの代償なのかもしれない。

「だから今日、誘ってよかったです」

 その言い方はとても静かだった。期待も確認も含まれていない。ただ今日という夜を振り返っただけの、ささやかな感想のように置かれる言葉。そういうところがやっぱり優しいと思う。そしてやっぱり、ホークスらしいな、とも。

「うん、私も」

 私は短く返す。それだけで彼の表情がゆっくり緩んだ。それからはしばらく、どうでもいい話をした。仕事の愚痴、コンビニの新商品、たまたま見たニュースの話。いつもと変わらない。笑ってまた黙って、その繰り返し。気づけば、ソファの背にもたれたまま、二人とも体の力が少し抜けていた。

「眠くなってきました?」
「……ん、ちょっとね」
「じゃあ、無理しないで」

 そう言う彼自身も、あくびを飲み込んでいる。夜は深い。けれど急ぐ理由はどこにもなかった。触れない。踏み込まない。それでも確かに一緒にいる。テーブルの上では空になった袋やパックが並んでいる。しばらく言葉が途切れたまま静かな時間が流れた。時計の音も聞こえない。外の気配さえ、この部屋では遠い。ソファのクッションが体温を吸ってゆっくりと沈んでいくのを感じる。
 そのときホークスが背もたれに預けていた体をほんの少しだけこちらへ傾けた。触れない距離を保ったまま、その��少し�≠セけを、縮める動き。

「……寒く、ないですか」

 小さな声だった。心配というよりも、確かめるような響き。「平気」と、そう答えたけれど彼は納得していない顔をした。剛翼を使ってソファの端からブランケットを引き寄せる。私の肩へ掛けようとして、途中で手が止まる。それから、少し迷って、自分の膝の上へと広げた。

「……こういうの、どこまでやっていいか、毎回迷うんすよね」
「迷ってるんだ」
「迷いますよ。めちゃくちゃ」

 苦笑する顔が、思ったより近い。私は少しだけ体をずらして、ブランケットの端に腰を寄せた。その動きの延長で、肩が触れる。寄りかかった、というほうが正しいかもしれない。
 ホークスの体が一瞬だけ固まった。それから、ゆっくり力が抜けていって、彼がぽつりと言う。

「……この距離、ちょうどいいです」
「……どのへんが」
「逃げなくていいし、追わなくていい」

 その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。私は彼の肩に体重を預けたまま天井を見る。視線の先にはいつもと変わらない白い面。けれど、感じている空気は今日の昼とも夕方とも、もう違っていた。今度は私が口を開いた。

「今日も、さ」
「はい」
「何も起こらなくて、よかったね」

 ホークスはすぐには答えない。ただ、少しだけ考える間があってから、静かに頷いた。

「……はい」
「それでも、ちゃんと一緒にいた感じがする」
「それ、俺も思ってました」

 声が少し低い。それは安心している音だった。ソファの奥で彼の指がクッションの縁をなぞっている。私の手とは触れない距離。それでも、その動きがすぐ近くにある安心感。

「……名前さん」
「なぁに」
「今日は、来てくれてありがとうございました」
「もう……何回、それ言うの」
「大事なことなんで、何回でも」

 少し照れたように笑う。夜はもうだいぶ深い。このまま眠ってしまってもおかしくない静けさの中で、私たちは寄り添ったまま動かない。
 触れない。踏み込まない。でも離れもしない。ソファの上で重なる体温が、今日という一日を、ゆっくり閉じていく。特別な出来事は何もなかった。それでもこの夜は確かに二人のものになっていた。


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