(ああ、やってしまった——。)
目を覚ました瞬間まず始めに、知らない天井が広がっていた。ホテル特有の余白ばかりが正しく整えられた白。視線を受け止めるでもなく、拒むでもなく、ただ無関心に広がっているその天井を見上げたまま、私は自分がどこにいるのかを理解するまで、ほんのわずかな時間を要した。空調が低く唸る音が部屋の隅から一定の間隔で流れ続けている。カーテンの隙間から差し込む朝の光は、柔らかい、というよりも鈍く、昨夜の続きを許さない色をしていた。それだけで胸の奥底が冷えるような感覚に陥った。氷水をゆっくり流し込まれたみたいに、意識が現実へと引き戻されていく。
次に気づいたのは隣の気配だった。人の体温がまだ、シーツに残っている。肌と肌が接していた名残の温度。視線を横にずらすと見知らぬ背中があった。完全に知らないわけじゃない。たぶん、昨日の結婚式で、新郎側のテーブルにいた誰か。二次会で少し話したような話していないような、そういう曖昧さの中にしか存在しない人物。顔を思い出そうとすると記憶の輪郭だけが滑っていく。まるで必要な部分だけが意図的に伏せられているみたいにして。
そして、自分。服を着ていないという事実が、遅れてやってくる。シーツの感触が、直接、肌に触れていることに気づいた瞬間、現実が確定してしまった。私は視線を逸らしたまま、呼吸を浅くする。心臓の音がやけに大きい。どく、どくと、逃げ場のない場所で、鳴っている。感情的な動揺よりも先に、身体だけが正直に反応しているのが余計に、嫌だった。
(——最低だ。)
後悔の言葉は、いくらでも浮かぶのに、それを並べて考える余裕がない。自分を責める準備すら整わないまま、ただ一つの衝動だけが先に立つ。
——早くここを出たい。今すぐ、この状況から離れたい。私は音を立てないようにベッドを抜け出し、床に落ちていた服を拾い上げる。
昨夜まで確かに気に入っていたはずの手触りの良いこの生地が、今はやけに他人行儀に感じられる。シワも匂いも、どうでもよかった。今の私にとって重要なのはこれが『外に出るための服』であるかどうか、それだけだ。
相手が目を覚ます気配はない。その静けさが、救いでもあり——同時に、都合のいい逃げ道でもあった。
荷物をまとめ、靴を履き、ドアに手をかける。閉める直前に、ほんの一瞬だけ振り返る。そこにあるのは、昨夜の結果であって、意味ではない。そう言い聞かせるための、確認のような視線。
廊下に出ると空気が変わる。ラブホテル特有の少し乾いた匂い。誰のものでもない足音が遠くで反響している。エレベーターの鏡に映った自分の顔はひどく冷静で泣いてもいないし取り乱してもいない。ただ、目の奥だけが、妙に疲れている。感情を置き去りにして身体だけが先に朝を迎えてしまったみたいな顔だった。
(私はどうしていつも、こうなるんだろう……)
その問いは、宛先を見つけられないまま、胸の奥へと深く沈んでいっただけだった。
恋は衝動。愛は寛容。そして、若気の至りは、抗いようもなく世界をかき乱していく暴風雨だ。そうやって名前を与えてしまえば昨夜の胸騒ぎも言葉にできなかった選択も少しだけ遠くに置ける気がした。濡れた地面がいつか乾くように感情もまた、時間の中で形を変えていくのだろうと信じながら、私は静かに息を整えて歩き出した。
*
結局、あのまま自宅へと帰った。昼過ぎからの出勤を控えていたので立ち止まる理由を探すこともせず身体を前へ運ぶことだけに意識を向けた。シャワーを浴び、髪を洗い、いつもと同じ手順でコンディショナーを流し肌に残る水滴をタオルで拭う。鏡の前に立ち、髪を整え、メイクをして、服を選ぶ。その一連の動作は、驚くほど滑らかで迷いがなかった。まるで何事もなかったみたいにして。
電車に乗り、窓に映る自分の輪郭をぼんやりと眺めながら私は思う。世界は、あまりにも平然としている。昨日と今日の境目など、どこにも存在しないかのように、人も街も、決められた速度で動き続けている。変な場所に足を踏み入れてしまったのは、たぶん、私だけだ。誰にも気づかれず誰にも止められず、ほんの一歩、ずれてしまっただけなのに。
昨夜から、今に至るまで、あのヒーローからの連絡は一切なかった。普段の動作の延長のふりをして端末を確認しても、通知欄は静かなままで、その静けさが、かえって昨夜の自分を戒める。
連絡がないという事実よりも、あるはずだった連絡が来ないことのほうが、頭の中で何度も反響していた。『なにか欲しいもの』そう聞いた私に彼はあの日、帰り道で言った。『当日』と。ただそれだけ。具体的な形も物の名前もなく、まるで選択肢をこちらに委ねるみたいな言い方だった。
『結婚式、終わったあとって予定、あります?』
『じゃあ——その、終わってからの時間で』
『名前さんにその日、話したいことがあります』
言葉は軽かったと思う。けれどその奥に、彼が慎重に差し出したものの重さを、私は確かに感じ取っていたはずだった。それに対して私はあまり深く考えもせず、言ったのだ。『わかった』と。約束というには曖昧で、でも取り消すにはあまりに明確な言葉。それでも私は、彼の誕生日の夜、知らない男とラブホテルに行った。そして翌朝、目を覚ましてすぐにその場から逃げ出した女だ。
あのヒーローと出会ってから、彼の誕生日は、十九歳、二十歳、二十一歳と結果的に一緒に過ごしてきた。型式ばった約束はなかったし、「毎年そうする」と決めたこともない。ただ、気づけば同じ時間帯に隣にいて、同じ空気を、吸っていただけだ。
それでも今年は違った。彼が下半期のヒーロービルボードチャートで、ついに二位に登り詰めた二十二歳を迎える年。若さと実績が、同時に光を帯びて、誰の目にも祝福されるはずだった、その節目に私は——見知らぬ男に抱かれていたのだ。その事実だけが、あとからゆっくりと、逃げ場のない重さで、胸に沈んでくる。ああ、私はなんて最低な女なのだろう。
その日の仕事が終わりに差しかかる頃、時刻は夜の八時過ぎ。自動ドアの開く音がした。ふわりと聞き慣れた羽音が空気を揺らす。私は無意識のうちに、短く目を閉じてから息を吸い、いつもの表情を作った。ほんの一瞬で整える仕事用の顔。感情を含ませない角度。視線の高さ。
私の立つ受付カウンターに現れたホークスは、相変わらずだった。ヒーロースーツに身を包み、黒いグローブを嵌めた手。額にかかる黄色いゴーグル。耳元にはヘッドホン。どこにも乱れはなくどこにも迷いがない。へらりという言葉が似合う笑顔をそのまま顔に貼り付けて軽く手を上げる。昨夜の景色も今朝の後悔も、その仕草の中に入り込む余地はなかった。
「ど〜も〜」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。あの、すみません、また……」
形だけは一応、申し訳なさそうな仕草でそっと差し出された端末は見事に水没していた。濡れた表面が照明を反射して鈍く光っている。
「今回も?」
「はい」
「どこで」
「噴水です」
「噴水?」
「いやぁ〜避けたつもりだったんですけどねぇ」
いつものやり取り——いつもの間合い。何度も繰り返してきた会話が決まりきった手順で進んでいく。私は、端末を受け取る。その瞬間、不意にグローブ越しの彼の指先と私の指先が軽く触れてしまった。ほんの一瞬。それでも私の身体は反射的に動いていた。思わず手を引っ込めてしまった私と、彼の目が合う。彼はわずかに驚いたように目を見開き、それから困ったように少しだけ情けなさそうに視線を落とした。
「……すみません」
小さな声だった。私は首を振り、何でもないという仕草で、今度こそ端末を受け取った。すぐに電源の状態を確認する。水の侵入。反応の鈍さ。手は震えていない。声も、いつも通りだ。少なくとも、外から見れば——。
「……完全復旧は、厳しいかも」
「ああ、ですよねー」
「代替機、出しますね」
「助かります」
彼は、いつもと同じように頷く。その仕草が、妙にきちんとしていて胸の奥がわずかに疼いた。そうして、ふと、こちらを見る視線。
「名前さん」
呼ばれたその瞬間。心臓が、はっきりと存在を主張した。胸の奥で一度、強く鳴って、それから少し遅れて喉の渇きを自覚する。無意識のうちに唾を飲み込んだ。
それでも「なに?」と聞き返した自分の声は、思ったよりも落ち着いていた。少なくとも、外側には、何も零れていないと思う。
「顔色、あんまり良くないですよ。てか、悪い」
一瞬だけ時間が詰まったような感覚があった。表情を作る前の、そのほんの隙間を、正確に指でなぞられた気がして、呼吸が浅くなる。
「そう?」
「はい」
その声は、責めるでも探るでもなく、ただ動かしようのない事実だけを、私たちのあいだにあるカウンターの上へと、音を立てないようにそっと置いていくような言い方だった。
「無理、してないですか」
——している。けれどそれを言葉にする理由も言っていい立場も、ここにはなくて。そもそも、そんな権利など、今の私にあるはずがなかった。
「大丈夫だよ」
私はほとんど反射のように迷いなく答えていた。迷っているふりをする余白すらもう手元には残っていなかった。大丈夫、本当に大丈夫——。そう言い切るための言葉だけは昔からいくらでも用意できる。こういう種類の誤魔化しにはたぶん慣れすぎているから。
「ちょっと、寝不足なだけ」
「……そう、ですか」
彼は、ほんの少し視線を落としてから、また、いつもの距離に戻る。それ以上は何も聞かない。昨夜、私はヒーローとの初めての��約束�≠轤オい��約束�≠�破った。それも、彼の誕生日の日に。それを彼は咎めない。そもそも確認すらしない。その優しさが救いなのか、それとも——。それを慎重に考えるには、私は少し疲れすぎていた。
「じゃあ今日は、早めに休んでくださいね」
忠告とも、願いとも取れる声だった。業務上の確認事項としては必要のない一言なのに、彼は、それを、まるで自然な流れのように添えてくる。その距離感が今の私には、ひどく沁みた。
「……それ、ヒーロー命令?」
軽く受け流すつもりで返した言葉に、彼はすぐ「いえ」と首を振った。ほんの少しだけ、口元を緩めて。
「ただの、お願いです」
その言葉の軽さが、かえって重い。命令でも、義務でもない。ただのお願い。だからこそ、拒む理由が見当たらないぶん、受け取る側の内側に、静かに沈んでいく。
私はこのまま、彼の端末を預かることにして、必要な作業内容と注意点を淡々と説明した。復旧の見込み、代替機を使う期間、いつもの手順。
彼はそれに相槌を打ちながら、真面目に聞き、最後にはきちんと頭を下げる。
「よろしくお願いします」
それだけ言って、彼はその場を離れていった。その背中を見送りながら、私は思う。昨日の私も今日の私も、どちらも紛れもなく私だ。間違いを犯した自分も、何もなかった顔で業務をこなしている自分も切り離すことはできない。取り返しのつかないことをしたような気がしても、時間は、止まらない。仕事は続き彼はまた水没した端末を持って現れる。私はそれを受け取り、点検して、代替機を、手配する。決められた流れを、何事もなかったように。そして世界は相変わらず平然と回り続けるのだ。
誰も私を責めない。誰も、気づかない。だからこそ、その何も起きていない顔つきが余計に胸に響いた。まるで、私だけがそこに取り残されて、現実に、追いつけずにいるみたいで。
*
年が明けても、ホークスから届くメッセージの頻度は変わらなかった。しかし、短い用件だけ。感情の余白を、極力削ぎ落としたような文面。

スマホ、問題なさそうです

冬は手が悴んで
落下する率は上がりますけど
気になることは、山ほどあるはずなのに、彼はそこには触れない。それでも私との繋がりだけは手放さないために踏み込みすぎず離れもしない。そのぎりぎりの位置を、彼はあえて選んでいる。それでも私は、すぐには返さなかった。読んで、画面を伏せてしばらくしてから返信する。理由があるわけじゃない。ただ間を置かないと、自分の呼吸の置き場が分からなくなる。言葉を返す前に気持ちの輪郭が崩れてしまいそうだった。
そんな状態が続いている中で、また彼が来た。受付から、名前が呼ばれる声を聞いた瞬間、胸の奥が小さく軋む。逃げる理由はない。隠す必要もない。そう分かっていても身体はほんの一瞬だけ正直に強張る。
「失礼しまーす」
無遠慮にも、作業スペースに入ってきた彼は、いつも通りだった。私服姿でキャップを軽く直しスマホを両手で差し出す。今回はどうやら、水没ではないらしい。聞けば、画面の反応が鈍いとのことだった。
「またです」
「今回は、水じゃないの?」
「今回は、ギリギリ無事です」
「��ギリギリ�≠ェ多いですね」
返した声は、我ながら平坦だった。私は端末を受け取り、手順通りに確認を始める。指先は迷わない。視線も画面から外れない。こういうとき、慣れた仕事の動作は裏切らない。
「カウンターから出てもらえます?お客様?」
「お客様て。はいはい……出ますよ、出ます」
「……ログ、少し荒れてますね」
「そうなんですか?」
「一度、初期化したほうがいいかも」
「あ、お願いしまーす」
彼は素直に頷く。その横顔を私は見なかった。目が合ってしまいそうで無意識に作業へと意識を寄せる。専用のケーブルに繋ぎ直して、チェックリストを進め必要な説明を淡々と口にする。仕事の言葉は安全だ。余計な感情を運ばないから。
「復旧まで、少し時間かかりますね」
「大丈夫ですよ」
「終わったら、連絡しましょうか?」
「あ、はい」
それだけで、会話は成立する。成立してしまうこと自体が少しだけ、苦しかった。しかし、そのとき——。
「名前さん」
呼ばれて、心臓がわずかに遅れた。「なに」と返す視線は、まだ、彼の端末に落としたままで。
「……最近、ラインの返信、遅いですよね」
「あ、ああ……なんだか、パタパタしてて」
嘘ではない。全体としては、たぶん。彼の声も責めるような調子ではなかったと思う。いつものように、ただ、事実をなぞるような声音だったと思いたい。
「……そっか。」
やはり彼はそれ以上、踏み込まなかった。踏み込まないという選択を、このヒーローはいつも、間違えない。その慎重さが、今の私には優しくもあり、少しだけ残酷だった。
「無理しないでくださいね」
「してないよ」
そう返してからほんのわずかな沈黙が落ちる。視線は合わせないまま。彼もそれ以上は追及せず小さく息を吐いてから「了解です」とそれだけを残した。声は淡々としていて、感情の端だけが、丁寧に畳まれている。踏み込みも後退もしない、あの絶妙な位置。互いに慣れてしまった、安全圏だった。
彼はそのまま、いつもの軽い足取りでフロアを出て行った。自動ドアが閉まる音は、思ったより静かで、だからこそ、空気だけが一段落ちたのがわかった。私は何事もなかったように端末に向き直り残りの作業を淡々と進める。ログを確認し、チェックを入れ、必要な処理を終えるころには、窓の外の光の角度が少し変わっていた。数時間がきちんと経っていた。
すべて終えてから貸し出していた代替機宛てに職場用の端末で簡潔な連絡を入れる。復旧の旨と返却の、タイミングだけ。復旧した端末を手渡す段になっても私は相変わらず彼の顔は見ず、手元だけを見ていた。画面に残る指の跡を拭うみたいに、余計な気配まで消そうとして。
「もう、問題なさそうです」
「助かります」
「次は、気をつけてくださいね」
「努力は、します」
言葉だけを並べれば軽口として成立している。けれど、視線は交わらないまま、どこか噛み合わない空気が残る。彼が出ていく足音を聞いてから私はようやく深く息を吐いた。
淡々と仕事はこなした。手順も、言葉選びも、何ひとつ間違っていない。それなのに胸の奥だけが、少し遅れて取り残されたままだった。きっと今夜も、彼は送ってくる。
『今日はありがとうございました』
『助かりました』
と、短くて丁寧なメッセージを。その返信は、今日も少し、遅れるだろう。理由を探さなくても許される距離を、私は今、どうしても必要としていたから。
*
それから私は意識して二人きりの食事の誘いを避けるようになった。理由を問われたら、きっと言葉に詰まる。忙しいからでも気まずいからでも嫌いになったからでもない。どれも、嘘ではないけれど、どれも、核心じゃない。ただ、これ以上同じ距離をなぞり続けることが、少しだけ怖くなった。それだけのことだった。だからもちろん、こちらからは誘わない。誘われても予定を理由にして、角が立たないように先延ばしにする。
世界から見れば誤差の範囲だろう。けれど私の中では、確かに線が引かれていた。戻れないわけじゃない。でも、戻らないと決めた線。
それでも、関係が完全に切れるわけじゃない。恒例の飲み会は、相変わらず定期的に開かれる。顔見知りが集まり、仕事の愚痴と近況報告が入り混じり、誰かが大きく笑って、誰かが少し遅れてやって来る。逃げ場があるようで、実はどこにもない空間。
その日も私は、いつもと変わらない時間に店に入った。先に来ていた数人に挨拶をして、空いている席に腰を下ろす。差し出されたグラスを受け取り、乾杯の流れに身を委ねる。周囲は賑やかで私ひとりの内側にある静けさなんて誰の視界にも入らない。
すると少し遅れて入口のあたりがざわついた。見なくてもわかる。ホークスだ。私が顔を上げるより先に、彼はもう場の空気に溶け込んでいた。軽い挨拶と短い一言で輪に入り場の温度を掴む。その様子はメディアで見る彼と変わらないようでいて、ここではどこか、肩の力が抜けている。
「久しぶりですね」
少し離れた位置からこちらを見てグラスを持ち上げながら彼が言った。その流れでまた他の人が入ってきて席が詰められて、結果的に、私と彼は斜め向かいになった。真正面じゃないその配置に理由もなく胸が痛んだり緩んだりする。思わず、私は、当たり障りのないような言葉を探す。
「……そう?」
「二人で、って意味です」
「二人じゃないでしょ。みんないる」
「……まあ、そうですね」
それ以上、どちらも踏み込まなかった。会話はすぐ別の話題に流れて、誰かの失敗談に、笑いが起きる。私は相槌を打ち、必要なところでだけ、口を挟む。
ホークスは終始、場を回す側にいた。誰に対しても同じ距離、同じ調子。私にだけ特別な視線を向けることも、あからさまに避けることもない。その均等さが、今の私には、ありがたかった。
それでも、ふとした瞬間、視線が触れる。一秒にも満たないほんの短い交差。それだけで互いに思い出してしまう。二十二歳の誕生日の日の事。私が彼を気軽に誘わなくなった事。視線や仕草、態度の微妙な変化を彼がきっと察していること。それでも彼は何も言わない。ただいつものように小さく頷いて、グラスを口に運ぶ。その仕草は、理解にも見えたし受け入れにも、あるいは静かな諦めにも見えた。
「そうだそうだ、ホークス。ビルボードチャート二位おめでとう!」
「あ、そうだった。おめでと〜!」
「おめでと。二位かぁ〜。すごいね」
「いやいや、あざーす」
私は視線を外し、氷が少しずつ形を失いかけているグラスを見つめた。透明だったはずの輪郭が曖昧になって、触れれば崩れてしまいそうなその様子が、今の、彼と私の距離感と妙に重なる。
二人きりの時間は、確かに減った。それでも、同じ場所にいることまではやめていない。完全に遠ざかることも無理に近づくこともしない。その中間に慎重に身を置いている。それが今の私たちの選んだ形なのだと、飲み会のざわめきに包まれながら静かに思った。そうして、その話題が出たのは、乾杯から三杯目に差しかかった頃だった。
「そういえばさ、見たよ。週刊誌」
誰かが悪気のない調子でスマホを掲げて言う。その瞬間、空気がほんのわずかに張りつめるのを感じた。
「え、また〜?」
「なになに、今度の相手は誰〜?」
「確か、モデル系じゃなかった?」
軽い声が重なり、すぐに笑いが起きる。私は、グラスの縁を指先でなぞりながら、あえて、顔を上げなかった。見なくても彼がどんな表情をしているか想像できてしまうから。案の定ホークスは場の中央で肩を小さく、すくめていた。
「ご想像にお任せします」
いつもの受け流し。軽くて余裕があって、ヒーローとしては、正解の返し。その姿を横目に追いながら、私は胸の奥で、どうしようもない計算をしていた。私も、やらかした。彼は、撮られた。理由も背景も違うのになぜか勝手に天秤にかけてしまう。釣り合っていると、思いたかったのかもしれない。そうでなければ、自分の選択を正当化できなかったから。
「……ねえ。今度ご飯、行かない?」
だから私は、その夜の帰り際、衝動のままに、そう口にした。店を出たばかりの夜風が、思ったより冷たい。酔いが少し引いて現実が輪郭を取り戻す。それでも彼は、驚いた顔をしなかった。
「二人で、ですか」
「うん」
言い切った直後、胸の奥で、小さく息をのむ。勢いでこぼれた言葉のはずなのに、取り消す気はなかった。躊躇も、不安も、遅れてやってくる。けれど、それらを抱えたままでも今夜は前に進みたかった。
彼の視線が、一瞬だけこちらに向く。その短い間に、私の中で何かが静かに、定まっていくのがわかった。
「……久しぶり、ですね」
「たまには、いいでしょ」
理由は言わない。言葉にしてしまえば、きっと形が変わってしまうから。彼も、聞かない。ただ軽く頷いて、夜の向こうへ歩き出す。その背中を追いながら、私は思った。戻ったわけでも、やり直すわけでもない。ただ、同じ時間をもう一度、隣で過ごすだけだ。それだけのことなのに、胸の奥では、ひどく静かな鼓動が続いていた。
*
——数日後。私が選んだのは静かな店だった。人目を完全に避けるほど閉じてはいないけれど、声を張らずに話せる程度の距離が保たれている、賑やかさから半歩だけ離れた逃げ道のある場所。
向かい合って座るのも思えば久しぶりだった。テーブル越しに見る彼の顔は、仕事の現場とも、飲み会とも違って、少しだけ無防備に見える。
「——で。例の、ゴシップだけどさ」
料理が運ばれ、箸をつけ始めてから少し時間を置いて切り出す。場の温度を確かめるみたいに。彼は先に箸を止め視線を落としたまま「はい」と短く返事をした。
「人気者の宿命?」
「まあ」
いつも通りの受け答えだが、でも、どこか間がある気がした。その証拠に、視線は目の前の皿に落ちたまま上がってこない。
「慣れてる?」
「慣れるもんやなかでしょ」
その言い方が、ほんの少しだけ硬く棘がある。私はそれを和らげるつもりで、軽く笑った。
「でもさ、正直、大変だなって思った。私も最近いろいろあったし」
「……」
「だから、なんていうか……おあいこかなって」
言葉を探すふりをして、逃げ道を作ったつもりだった。けれど、その瞬間、彼の表情が変わる。ほんのわずか。見逃そうと思えば見逃せる程度。でも、確実に、空気が変わった。
「……おあいこ、ですか」
「……うん」
「……」
「だから、こうして普通にご飯食べてるのも悪くないかなって」
沈黙が落ちる。彼は持ち直した箸を再度置き、そのまま、グラスに手を伸ばした。でも、口には運ばない。その仕草がいつもより慎重に見えた。
「名前さん」
低い声で名前を呼ばれる。顔を向けられない。声がひどく鋭かったから。
「それ、どういう意味で言ってます?」
「どういう、って?」
「俺のくだらんゴシップと、名前さんの話を同じ棚に置いてるなら、それは——」
言葉が途中で止まり空気が静かに冷えていく。詰まったのは、私のほうだった。彼は声を荒げることもなく、淡々と続きを置く。
「俺、ああいう記事は……」
「……」
「笑い話にしていいときと、そうじゃないとき、分けてるんです、一応」
「……」
「今日は、後者です」
ようやく視線を持ち上げた。そこにあるのは、珍しいほどはっきりした不機嫌さ。怒りではなく拒絶とも、少し違う。ただ、越えさせない線を、静かに示す声音だった。私は、考えるより先に、言葉が口をついた。
「ごめん。その、揶揄うつもりじゃ……」
「わかってますよ」
返事は早い。やや被せ気味で。でも表情はまだ戻らない。さっき引かれた線がそのままきれいにその場に残っている。
「ただ、軽く扱われると困ります」
その言葉はきっと、私を責めるためじゃない。私をどうこうしたいわけでもない。ただ彼自身がここだけは譲らないと決めている境界を、淡々と示しているだけで、その静かな強さが、かえって胸に響いた。私はグラスを持ち上げて、一口だけ飲んだ。アルコールの味が、今日はやけに輪郭を持って舌に残る。誤魔化しが効かない。
「……ごめん。私が、無神経すぎた」
「いえ」
短い否定のあと、彼は一度、深く息を吐いた。それからようやく、箸を持ち直した。
「続けましょ、冷めちゃうんで」
「うん」
料理はまだ温かい。照明も、店内のざわめきもさっきと何も変わっていない。それなのに私たちのあいだには目に見えない歪みが残っている気がした。大きな亀裂じゃない。ただ元には戻らない種類の、わずかなズレ。
��おあいこ�≠ネんて言葉で同じ秤に乗せたのは私だ。彼は、最初からそんな計算をしていなかった。その事実だけが、妙にくっきりと残る。噛み合っていないという感覚が静かに広がっていく。
店を出ると、夜気は思った以上に冷えていた。さっきまでいた室内の温度が、嘘のように、街の静けさが、はっきりと形を持って迫ってくる。
私はコートの前を押さえながら歩き、彼は半歩後ろをついてくる。距離は近いのに視線は一度も交わらないままだ。
『 今日は、後者です 』
あの言葉が何度も頭の中で繰り返される。私は勝手に、意味を膨らませていた。後者。つまり、あの記事に書かれている相手は、彼にとって軽く扱えない存在なのだ、と。本気で大切にしている誰かなのだ、と。そう考えると、あの不機嫌さも線を引く声も、すべてが綺麗に繋がって、辻褄が合ってしまう。胸の奥がゆっくりと冷えていく。
するとそのとき。店の角を曲がるその手前で、彼が不意に、足を止めた。
「……送ります」
いつもと変わらない声色だった。ただ、言葉が出てくるまでに、ほんのわずかな遅れがあった。
私は、ぶっきら棒に「いい」と返した。考えるよりも先に声が出ていて、ほとんど反射だった。言ってしまってから少しだけ後悔する。これじゃまるで、拗ねているみたいだ。
「いや、あの……ごめん」
「……」
「一人で、帰れるから」
「名前さん」
また、真っ直ぐに名前で呼ばれる。その響きを背中で受け止めながら私は鞄の中に手を突っ込み慣れた感触を探る。二十歳を超えた頃から彼は、会計を一切こちらに触らせなくなった。気づけばいつの間にか、すべて済ませている。理由を聞いても、「時間の節約です」とか「慣れてるんで」とか。いつも、輪郭のぼやけた答えしか、返ってこない。
それは便利で親切で、でも今日は、その全部がどうしても、受け入れられなかった。私は、歩きながら「これ」と封筒を取り出して差し出した。彼も、少しだけ慌てた様子で後を追ってくる。
「……なんすか、それ」
「今日の分」
「は?受け取れません」
「いや、受け取ってよ」
「無理です」
彼の足音が止まる気配がする。声が、わずかに硬くなっている。その変化が、余計に腹の奥を、嫌なふうに、ざらつかせた。それでも私は「どうして」と振り返る。すると、足を止めていた彼は困ったように眉を寄せていた。
「……事前に、支払ってるんで」
「知ってる」
「じゃあ、」
「だから」
私は彼の声を遮って言葉を強める。もう意地も抑えも、何もかもが、制御できなくなっていた。
「後からでも、いいでしょ」
「そういう問題じゃないです」
「じゃあ、どういう問題?」
一瞬、彼は黙った。夜の空気がその沈黙を必要以上に冷たくする。
「ほんと……気にしないでください」
その一言が、決定的だった。気にしないで——もう、そこまでの関係じゃない。勝手に、そう、聞こえてしまう。私は笑いきれない息を吐いた。
「気にするよ」
「名前さん」
「だって——」
喉の奥で、言葉が詰まってしまった。だめだ、泣きそうだ。それでも、止められなかった。
「……誰か、特別な人がいるんでしょ」
口に出した言ってしまってから、場の空気が、はっきりと凍ったのがわかった。取り返しがつかないところまで踏み込んだ感覚が、遅れて、押し寄せてくる。
「……はい?」
しかし、返ってきたのは、本当に戸惑っているような、作った調子が抜け落ちた声だった。素の響きが、そのまま、夜に落ちる。それでも私は、視線を逸らしたまま続けた。言葉が、少し遅れて転がり出る。
「だっ、だから」
「……?」
「さっき、後者だって言ったじゃん」
「それが、何と」
「軽く扱われたくないほど、その相手が大事な人ってことじゃないの」
彼は、すぐには答えなかった。夜の静けさが、その沈黙を、必要以上に引き延ばす。私は、その間を待つ余裕を持てなかった。答えを聞く前に、もう決めてしまっていたのかもしれない。沈黙は肯定。勝手にそう受け取ってしまう。私は封筒を半ば無理矢理に、彼の胸元に押しつける。
「ちょ、」
「だったらもう、こういうのやめたほうがいい」
「……、名前さん」
「おあいこでいいって言ったのも私が悪かった」
声は、不思議なくらい落ち着いていた。感情が整理されたからじゃない。ただもう引き返せないところまで来てしまっただけだ。
「でも……これだけは、ちゃんと返す」
「返す、って」
「これ以上、ヒーローには甘えられない」
「……や、待って、」
彼の声が状況に追いついていない。自分で口にして胸の奥がひどく冷える。彼の方も、いつまで経っても、封筒を受け取ろうとはしない。私は、封筒を彼の胸に押しつける代わりに近くの壁際に置いた。まるで、そこに置けば、関係ごと距離を取れるみたいに。そして、一歩、後ろに下がる。逃げるという言葉が、いちばん近い動作だった。
「……ごめん」
謝る理由はひとつじゃない。たぶん、たくさんあった。そして、言葉を誤解したことも、勝手に線を引いたことも全部まとめて、その一言に押し込める。そうして、そのまま背を向けた。数歩、歩いたところで後ろから足音が追いかけてくる。
「ねえ、止まって。待ってください」
必死に呼び止める声。低くて、いつもの余裕がなく、はっきりと焦りを帯びている。それでも、私は、立ち止まらなかった。
「名前さん!」
呼ばれたと思った次の瞬間、距離が一気に縮まる。視界が揺れ、手首に熱が宿った。掴まれたと理解するまでに、ほんのわずかな遅れがあった。
「待ってって」
「……離して」
声は、思ったより低く出た。拒絶というより、反射に近い。だって、そうでもしないと本当に、今にも涙が溢れ出しそうで——。
「誤解です」
「……」
「今の話、全部」
言葉は、迷いなく落ちてきた。その、切迫した響きに、胸の奥が、ざわつく。そんなふうに否定される準備を、私はしていなかったから。
「誤解、って……」
そっと振り返る。彼の表情は、見慣れた余裕をすっかり失っていた。軽口も、逃げ道もない顔。
「さっき、後者って言ったのは誰かを好きだからとかじゃなくて」
「……じゃあ、なに」
問いかける声が、思ったより静かだったのは、もう半分、答えを待つ気力を失っていたからかもしれない。彼は一度だけ目を伏せる。言葉を選ぶというより、自分の内側を確認するみたいに。
「俺が自分の扱われ方を、軽くされたくなかっただけです」
「……」
「仕事でも、私生活でも」
静かで、でも逃げのない言い方だった。街灯の光が横顔を縁取って、影と明るさの境目を、はっきりさせる。
「誰かの存在を理由にされるのが、嫌だった」
その一言で私の中にあった��後者�≠フ像が音もなく崩れた。誰かを守っている彼、という物語は最初から、私が勝手に作ったものだった。彼は、視線を逸らさずに続ける。
「だから……名前さんにああ言われて、きつかった」
責める調子ではない。ただ正直に差し出された感情。私は、すぐには言葉を返せなかった。噛み合っていなかったのは、彼が誰かを守っていると思い込んだ私と自分自身の線を守ろうとしていた彼。そのずれが今になって、はっきり形を持つ。
彼はまだ私の手首を掴んでいる。強くはない。振りほどこうと思えば、たぶん、できる。でも、そのままにしている自分に気づいて、胸の奥が、静かに痛んだ。
「お金の話も、上下とか、立場とかじゃない」
「……」
「単に俺があなたの分も、払いたいだけです」
いつもなら理性的で説明としてきれいに収まる言い方だ。でも今はその端正さが、ひどく切実に響いた。言葉の裏にあるものが、隠しきれずに、滲んでいる。私は視線を落とし、ゆっくりと息を吐く。冷えた空気が、胸の奥まで降りてきた。
「名前さん」
「はい」
「一分だけ、時間が欲しいです」
「……どうぞ」
彼は一度、声に出して、大きく息を吸ってから吐いた。覚悟を決める前の癖みたいな動作。そのあと、逃げ場を塞ぐように、真っ直ぐ私を見る。
「誕生日の、ことですけど」
「ちょっと待って、タイム」
「......何です?」
「もう......一分、経った」
「はあ? まだ三十秒も経っとらんし」
「経った。ほら、一分経った」
会話だけを聞けば、軽いやり取りに見えるかもしれない。けれど、私の内側では必死に、手綱を引いていた。ここでその話を聞いてしまったら、たぶん、もう戻れない。理解してしまうか、傷つくか、そのどちらかだ。私は視線を逸らしたまま言う。
「その話は、また……今度でもいい?」
「……わかりましたよ」
「うん」
「じゃあ、また今度で」
納得ではない返事。それでも彼は引いた。その判断に、少しだけ救われた夜。
何かが始まったとき人は必ず期待する。うまくいく未来とか得られるものとか失うものはないという、前提ごと。損失を受け止められないのは、弱さだと言われれば、きっと正しい。でも、向き合わないことが生き延びる方法になる夜もある。
今はまだ無理だ。夜はまだ終わらない。封筒は壁際に置かれたまま。そして私たちは、ようやく同じ誤解の場所に、立ったばかりだった。