それからの日々は、拍子抜けするほど穏やかに流れていった。
あの夜——確かに何かが決壊したはずだった。押しとどめていたものが形を持って外に出てしまったはずなのに不思議なことに何ひとつ壊れてはいなかった。��関係が変わった�≠ニいう実感も、はっきりとはない。ただこれまで曖昧に引かれていた境界だけが少しだけ濃く、そして、たしかにそこに存在していると感じられるようになった。踏み越えてはいけない線ではなく、踏み越えるかどうかを、互いに知ってしまった線。それがあることで、かえって安定しているような、そんな、奇妙な安定の中に、私たちはいた。
公安特別通信管理室の午後はいつも同じ匂いがする。微かなコーヒーの残り香と、稼働し続ける端末の熱。それに長時間同じ場所に留まる人間の気配が、空気の層として薄く積もっている。
音も光も温度も、すべてが一定に保たれている場所。だからこそ『何も起きない』ということがひとつの価値として、成立している。
私はカウンターでログを整理しながらその何の変哲もない時間のなか、今日もまた、小さく息をついた。安堵に似たそれは同時にどこか空虚でもあった。��何も起きないこと�≠ノ慣れてしまうとほんの少しの変化さえ、過剰に意識してしまう。
「お疲れさまで〜す!すいません、ちょっといいです?」
その声はあまりにもいつも通りだった。音量も間合いも語尾の軽さもすべてが寸分違わず、あのヒーローで。顔を上げる前から誰なのかわかってしまう自分に、私は内心でわずかに、苦笑する。これは、条件反射みたいなものだ。
「スマホがですねぇ、なんか挙動おかしくて」
彼は、そう言いながら慣れた手つきで、端末をカウンターの上へと置いた。置くというよりも、預けるに近い。そこには遠慮も躊躇もなく、かといって、距離を詰めようとする意図も見えない。あくまで業務の延長線にある動作として自然に、そこにある。その��自然さ�≠ェ、逆に少しだけ、くすぐったい。そうして次の瞬間には紙カップが視界に差し出された。
「はい、名前さん。淹れたてコーヒー」
湯気がやわらかく立ち上る。甘さを含んだ香りが空調に慣れきった空気の中で、わずかに浮く。
「懐かしいでしょ?」
そう言って彼は片目を閉じる。あの、少しだけ軽くて、それでも、決してふざけきらない慣れた所作のウインク。それを見た瞬間に胸の奥底で、時間が巻き戻る。まだ彼が十代で、羽根の数も、肩書きも、今よりずっと軽かった頃。無茶ばかりして、食事を抜いて、それでも平気な顔で現場に出ていた彼に私は、半ば強引に、手作りの弁当を押し付けていた。
『体が資本でしょ』
『わかってますって、もう』
そのやりとりは、何度繰り返したかわからない数えきれない、積み重ね。どこか、安心していた時間。彼はいつも照れくさそうにして、それでもちゃんと食べて、そして必ず洗って戻してきた。やがて彼は、お返しだと言い、コーヒーをくれるようになった。砂糖は控えめで、でも必ず少量のミルクが入っている。私の好みを、彼は驚くほど正確に覚えていたのだ。
「……懐かしいね」
私がそう言うと彼は満足そうに肩をすくめた。あの頃の彼は、今よりずっと無防備で、そして、どこか、必死だった。今の彼は、それを上手に、隠せるようになっているだけで。
「でしょ。あの頃の俺、わりと頑張ってたと思うんですよねー」
軽い口調。けれど、その裏にある、時間の積み重ねを、私は知っている。端末のログを確認しながらカップに口をつける。変わらない味。けれど同じではいられない時間。それでもこうして彼がここに立っていることだけが、なぜか、胸の奥に静かな温度を残す。安心とも違う、懐かしさとも違う、もっと、言葉にしきれない感覚。
「そういえば、懐かしいついでに」
操作手順をパソコンに入力して端末の再起動を試みたところで手にしていた端末を彼に戻そうとした、そのときだった。ホークスが、ふと、思い出したように口を開いた。羽根のようにいつもの軽さを、まとわせながら。
「また、お弁当作ってくださいよ」
冗談めかした声だった。けれど、その語尾にはほんのわずかに��逃げ道�≠ェ残されている。断られても大丈夫なように、でも、受け取ってもらえたら嬉しいという温度が曖昧なまま差し出されているのだ。私は端末を差し出しながらほんの少しだけ視線を上げた。
「どうかな……気まぐれだからね」
それは、断りでも承諾でもない、曖昧な返答。でも今の私たちにはそれくらいがちょうどいい。
「それで十分なんで。気が向いたら、ねっ?」
彼は笑った。それ以上を求めるでも、縛るでもなく、ただ、待つことを選べるようになった人の笑い方で。かつての彼ならばもう少し強引だったかもしれない。もう一歩、踏み込んできたのかもしれない。でも今は前よりも、その一歩を自分で選んで止めている。その距離の取り方が少しだけ寂しくて、少しだけ心地いい。
穏やかな日々は、こうして何事もなかったかのように続いていく。けれど紙カップ越しに伝わる温度と端末を預かるというささやかな行為の中に目には見えない何かが、確実に積もり続けていることを、私たちはもう、見ないふりをすることができなくなっていた。
翌日も、世界は何事もなかったかのように朝を迎えた。昨日と同じ二番カウンター。同じ角度で落ちる、照明の白さ。同じ間隔で鳴る、端末音の連なり。変わらないことだけが正しさとして保たれている場所で私はいつも通り、自分の役割を、なぞるように過ごしていた。けれど、その均質な景色の中で私の感覚だけがほんのわずかにズレている。視界の外側に、まだ、現れていないはずの気配を先回りして探してしまう。まだ、聞こえてこないはずの声を先に思い出してしまう。そんな自分に気づくたびに、少しだけ可笑しくて、同じくらい、怖かった。予感は、たいてい当たる。
「お疲れさまでぇーす……」
背後から聞こえたその声に私は振り返る前から小さく息をついた。
「ホークス……はい、お疲れ様です」
「今度は、さすがに言い訳きついんですけど」
手に持っていた書類を置いて振り返ると、彼は困ったように笑いながらタオルに包まれた端末を掲げていた。濡れている。わざわざ確認せずともわかるほど露骨に。そして昨日よりも、ずっと。
「……何、したの」
「水を張ったシンクに落としました……完全に、俺のミスです」
あまりにも潔い告白に、私は思わず息を吐く。言い訳を用意するでもなく誤魔化すでもなくただ事実だけを差し出してくるところが、彼らしい。
端末を受け取る。タオル越しにも、まだ、水の冷たさが残っていた。ついさっきまで、水の中にあった温度。それがそのまま、私の手のひらにも移ってくる。
「ほんと、あなたの来客履歴みせてあげたいよ」
呆れたふりで軽く投げると、間を置かずに彼の声が返ってくる。どこか、ほんの少しだけ調子に乗っている気配を含んで。
「お? 記録更新中です?」
「ええ。堂々のダントツ首位ね」
「あちゃ〜」
額に手を当ててわざとらしく肩を落とす仕草。けれどその軽さの奥にどこか安心している気配が混じっている。来ていい場所として、ここを認識している人間のささやかな安堵として受け取っておくことにする。
「けど最近は、感情に左右され気味ですけどね」
「はい?」
「気まずくなると、パタっと来なくなる」
言葉にした瞬間、私たちは同時に笑っていた。その笑いは短くて、音も立てずに静かで、周囲に溶けるような種類のものだったけれど胸の奥には確かに残る。昨日と同じように彼はカウンターの端に立つ。半歩だけ距離を残した位置。違うのはコーヒーがないことと、彼自身がほんのわずかに居心地悪そうにしていること。
「……昨日の、効いたんですかね」
「昨日の?」
「ほら、お弁当の話」
私は何も言わずに端末の状態を確認する。彼の声は軽いままだった。けれど、その軽さの中には確かに、様子を伺うような温度が混じっている。
「今日あたり、もらえないかな〜って考えてたら落としちゃって、スマホ」
「……」
「いやぁ〜。うっかり うっかり」
あまりに無防備な言い方に、私は一瞬、言葉を選び損ねる。冗談なのか、本気なのか。たぶん、そのどちらでもあるのだろう。私は端末に視線を落としたままで言葉を返した。
「確信犯ですね」
「わお、人聞きの悪い」
「事実でしょ」
「今日はコーヒーないんだ〜って思いました?」
「……さあね。人の記憶って、勝手に引き出しを開けるから」
「はは。ですよね」
軽口の応酬は、どこか懐かしいリズムを持っている。けれど以前と完全に同じではない。ほんの少しだけ、互いに踏み込みすぎないように、調整されている。それが、今の私たちの距離だった。
ふと、彼の視線が私の手元に落ちていることに気づく。濡れた端末を扱う指先をじっと見ているらしい。十代の頃の彼も、こうやって、人の手元ばかりを見ていた。お弁当箱を渡すとき。包みを開けるとき。箸を持つとき。欲しいものを欲しいと言えない代わりに、目だけが先に追ってしまう癖。あの頃と、何も変わっていない部分の一つ。
「ほんとさ……また、気が向いたらでいいんで」
「……」
「名前さんの、手作りお弁当」
一拍だけ置いて、彼はそう言った。私は、顔を上げる。彼は昨日と同じ距離に立っている。踏み込まない。動かない。ただそこに留まって待っている。その姿勢が少しだけ、ずるいなと思う。
「もう、しつこいなぁ。じゃあ、条件付きね」
「条件?」
「水没させないこと」
目を見開いてからの、一瞬の沈黙。それから、彼が突然、吹き出した。
「うわ〜、それ、難易度高かねぇ」
「じゃあ却下」
「いやいや、頑張りますって」
確かに変わってしまったものもある。それでもどこかで、約束に似たものが、交わされている。
私は彼と目線を合わせて完全復旧には、数日がかかること。代替機や、その他の、必要な説明を業務として淡々と伝える。言葉は事務的なのに、その合間に流れる沈黙だけがやけにやわらかい。彼が代替機を受け取り、立ち去ろうとした、そのときだった。ふと、彼の足が止まる。
「……来る理由、なくなったら」
思ったよりも小さな声だった。自分でも、なぜそれを口にしたのかよくわからないと言いたげなほどに。そして彼が振り返る。それから、ほんの一拍だけ考えるようにして——。
「俺、ちゃんと用事作りますから」
相変わらず、冗談とも本気ともつかない声音。でもそのどちらでもない場所にある言葉だった。私はすぐには答えない。ややあって手の中にある端末から目を離さず、ただ、ひとつだけ返す。
「更新、止まらないようにね。来客履歴の」
「ははっ、了解でーす」
彼はそう言って軽く手を振った。その仕草も、やっぱり変わらない。緋色の羽根が、自動ドアの向こうへと消えていった。穏やかな日々は今日も変わらず続いている。何も起きていないようで、何も変わっていないようで。
ただ、端末の不具合や水没という、取るに足らない理由を借りて、彼がここへ来る回数だけが、また少しずつ、増えていく。そしてその理由が、やがて理由でなくなる日が来ることを——私は、まだ、知らないふりをしていた。
*
数日後、私のほうから連絡を入れたのは特別な理由があったわけじゃない。ただその日、一日の終わりに誰かと並んでグラスを傾けたいと思っただけで。そして、その『誰か』に、迷いなくあのヒーローの顔が浮かんでしまった事実を少し前の私は否定をしなかったと思う。けれど今は違う。彼と前までの距離に早く、戻りたかったからだ。

今日、時間ある?
スマートフォンを持ったままふとカレンダーに目を落とす。ホークスの誕生日まであと一週間を切っていた。その瞬間だけ指先が少し彷徨った。それでも結局、打ち込む言葉は短かった。
スマートフォン越しのその一文に、返事は驚くほど早く、返ってきた。

あります

今、作りました
相変わらず調子がいいヒーローだなと、思わず頬が、緩んでしまった。けれど、その軽さの奥で彼がほんのわずかに背筋を伸ばした気配を、なぜだか私は、はっきりと感じ取っていた。
私が選んだのは以前にも来たことのある店だ。気取らないのに落ち着きがあって、騒がしすぎず静かすぎない。会話が途切れても沈黙がそのまま沈まないように、ほどよい雑音が薄い膜になってくれるような場所。
カウンター席に並んで腰を下ろす。料理を分け合いながら仕事の断片や最近のささやかな出来事を拾い上げていく。いつも通りの何も起こらない時間。それなのに、その「いつも通り」を今日は自分で選んだのだという事実だけが、良い意味として、胸の内側で静かに、波紋を広げていた。
「珍しいすね、名前さんから誘ってくれるの」
隣に座っていた彼がお通しの入った小鉢を軽くつつきながら言う。
「……そう?」
「はい。だいたい俺がスマホ壊して機嫌取りする側なんで」
その言い方に思わず笑いがこぼれた。肩の力が抜けるような、気づけば零れていた種類の笑い。その自然さに触れた途端、安心するという感覚が遅れて、静かに追いついてきた。
「今日は壊してないでしょ」
「壊してません。ちゃんと」
ホークスはそう言ってわざとらしく胸を張ってみせた。けれど次の瞬間には力を抜いてそのまま肩を落とす。その一連の仕草が、ほんの一瞬だけ十代の頃の彼に重なる。まだ、何も背負いきれていなかった頃の、あの無防備な笑い方。胸の奥で何かがやわらかくほどけていく。
グラスを軽く掲げてから乾杯をする。一杯目のビールが喉を通る。冷たさと、遅れてくる苦味。それが合図のように会話は緩やかに流れ出した。現場の話、通信の不具合の愚痴。最近よく眠れているかどうかなど、そんな他愛ない確認。彼は、よく笑い、よく、相槌を打つ。けれど、深いところには、踏み込んでこない。踏み込まないことが優しさであり、同時に臆病さでもあることを私はもう知っている。その距離を今夜は責める気にはなれなかった。選んだのは私の方だから。不意にそんなことを思っていた、そのときだった。
「ホークスだぁ!」
張りのある声が、空気を切り裂く。私は思わず顔を上げる。そこに立っていたのは、若い女性のヒーローだった。まだ、線の細さが残る体つき。ヒーロースーツの着こなしにもどこか初々しさが滲んでいる。緊張と高揚が、混ざり合った目で、彼女はまっすぐにホークスだけを見ていた。その視線には遠慮も迷いもない。そして同時に周囲が見えていない。私のことなど、最初から存在していないかのように。だから私は視線を落とした。箸先で皿の縁をなぞりながら音を立てないように気配を薄くする。こういう場面で、自分の存在を消すことには、もう慣れていた。それが、自然にできてしまう自分を少しだけ可笑しく思いながら同時に、どこかで——そのまま消えてしまえたら楽なのに、とも思っていた。
「お疲れさまでぇす♡」
「あ、お疲れー」
「ここ、よく来られるんですねぇ〜!」
「うん。たまにねー」
ホークスは、いつもの調子で、それを受ける。作ったような笑顔も声の角度も、距離の取り方もいつも通り。あまりにも変わらなさすぎて、逆に仕事モードなのだろうと、すぐにわかる。
「え、えっ! あの……お隣、いいですかぁ?」
「あー、あはは」
いや——聞いてるようで聞いてないな、これ。
彼女のそれは、問いかけというよりも、流れに乗せた既成事実。彼女は彼の返事を待たずに半歩ぶん距離を詰めている。お隣、いいですかって。あの......一応、私も、いるんですけどね。まあ、いっか。
「さっきから気づいてたんですけど〜、やっぱりホークスだなって!生ホークスかっこいい〜!」
言葉は一直線でブレーキがない。私はグラスを持つ手を止めて、氷が静かに溶けていく音だけを聞きながら、その様子を横目で眺める。
ああ……完全に仕掛けてきてるなぁ、この子。視線の当て方、声の張り、距離の詰め方。計算というより勢いと若さの塊みたいなやり方。しかし対するホークスは、やんわりと受け流している。
否定はしない。でも、絶対に話題は育てない。相槌は打つけれど広げない。距離は、それ以上、詰めさせないけれど拒絶もしない。きっと、この手の誘いが多いのだろう。慣れていると、すぐにわかる。さすがだ。思わず心の中で拍手を送る。
それでも、その慣れ方が少しだけ、胸に引っかかった。彼がここにいる理由も、この席の温度も何ひとつ説明しないまま、全部そのままにして、きれいに、バランスだけを取っている。
私は当たり前に何も言わない。ただ彼の横顔と若いヒーローの熱量とそのあいだに流れる空気を静かに見届けていた。
「ごめんねー、今日はお連れ様と一緒なんで」
「え〜!じゃあよかったら、今度ご飯でも——」
「あー、オレ忙しいからなぁ」
即答だった。でも、拒絶の角は立っていない。相手を気遣いながらできる慣れた人の断り方だと思った。顔がいいので許されてしまうのだろう。本当、こういうところが、ずるいなと思う。
「でもぉ、連絡先くらいは……」
「ん〜。それもちょっとなァー。事務所に、確認しないとね」
そう言いながら、ホークスがほんの一瞬だけ、こちらを見た。ほんの一瞬。巻き込まれるのかと思い、ひやっとした。けれどその視線がどうやら合図だったらしい。��空気�≠ゥら��関係者�≠ヨと立場が一瞬で引き上げられる。若いヒーローも、それを察したのだろう。言葉を詰まらせて、少しだけ、気まずそうに笑ってから言った。
「また、任務のときに!……失礼しましたっ!」
深く頭を下げて、その若い女性のヒーローが、そそくさと去っていく。足音が遠ざかるにつれて店のざわめきが、戻ってくる——はずだったのに何故かこの席だけが、空気がわずかに重くなる。
「……モテるじゃん」
その場に残っていたわずかな沈黙を切るように私はそう言った。冗談のつもりだったしちゃんと軽く聞こえるように、声の温度も、選んだつもりだった。けれど言い終えた瞬間、胸のどこかに、ほんの少しだけ違和感を残した。軽く投げたはずの言葉が、軽いままで着地していない感覚。
ホークスが、私の声に反応してこちらを見る。気だるそうにも見えるのに焦点だけはぶれない。まるで、何かを捉えに来る、鷹のような目。
「見てました?」
「見てたよ。隣にいたんだから」
「はは、そうでした」
軽く笑って、いつも通りに流そうとする。その��いつも通り�≠ェ、今日は少しだけ癪に障った。私はぐい、と姿勢を変える。逃げられない角度で体ごと、彼のほうへ向き直る。
「ねえねえ」
「はい?……え、なん? 近っ、」
「敵の動きってさ、目を見たらわかるんだよね」
「……え、なんすか急に。まあ、わかりますよ」
だったら——。私はそのまま、彼の目をじっと覗き込む。距離は、ほとんどゼロだった。呼吸がかかるくらいに近い。しかしホークスは、一瞬も逸らさないし、怯まない。むしろこちらの出方を楽しむみたいに、さらに距離を詰めてくる。この男は、本当に……逃げ場をなくすのが、うまい。
「なんです? 心理作戦?」
低く落ちてくる声。耳じゃなくて胸のあたりに直接触れてくるような響き。
「どうかな」
「……何が、知りたいんです?」
余裕のある声音だった。それが悔しい。私は、動揺を悟られないように、ほんの一拍ほど、息を整えてから、口を開く。
「……どう、思ったのかなって」
「どう、って? どれです?」
「さっきの、可愛い後輩ちゃん」
「あー」
彼は一度、視線を斜め上に逃がした。きっと、考えるふりだ。でもそれは、本当に考えているというより言葉を整えるためのわずかな間に近い。
そして、すぐに視線が戻ってくる。相変わらず距離は変わらない。至近距離のまま。いやむしろさっきよりも、わずかに近い気すらした。
「元気で、いい子そうだなって」
「模範解答すぎない?」
「え、満点回答じゃないです?」
さらっと言う。本当に、腹が立つ。この距離を崩さないのもたぶん、わざとだ。こういう狡賢いところは出会ったころから、上手い方だったとは思う。どうやら天は二物も三物も与えるらしい。だから、ほんの少しだけ——意地悪をしてみたくなった。
「じゃあさ」
「はい」
「私のことは?」
言ってから、ほんの一瞬だけ、時間が止まる。彼の呼吸が、わずかに揺れる。よし……勝った、と、思ったのに——。
「……それ、今ここで聞きます?」
低くて、少しだけ、困った声。ああ、と思う。これは、こちらが不利になるやつだ。私はすっと視線を外す。さっきまでの距離をなかったことにするみたいに体を正面に戻してグラスを手に取り口をつける。冷たい液体が、さっきまでの熱を、ゆっくりと、なぞっていく。
「やっぱいい」
「よくないでしょ」
間髪入れず返ってくる不服そうな声音。逃がさない声。でも、それは責める音じゃない。ただ、こちらを、手放さないようにするためだけの音。私は苦笑いして、肩をすくめる。
「……難易度の高い質問、しちゃったね」
「ほんとですよ」
そう言いながら、彼は少しだけ笑った。さっきまでの��外向きの顔�≠カゃない。少し力の抜けた��本来の彼�≠ノ、近い表情。その違いに気づいてしまうと、なんだかおかしくて私は思わず鼻先で小さく笑った。ほんの少しだけさっきより呼吸がしやすくなっていた。
「……ん? なんで笑ってんすか?」
彼の声に引き戻される。私は、グラスを唇から離して、その中の液体をくるりと揺らした。氷がゆっくりと回り、内側のガラスに触れて、小さな音を立てる。その音に紛らわせるみたいにほんの少しだけ、得意げに言った。
「だって、準備するってことを知らない。いつも本番ぶっつけ」
「はにゃ?」
ずいぶんと間の抜けた声。もしくはぶりっ子。目の端に彼が首を傾げる仕草が映る。その一瞬の無防備さに、思いがけず胸のうちが緩む。
「自分はいい男でチャーミング。思いつきで調子のいいことをペラペラ言える」
「ひど」
「だから、なんとかなると思ってる」
「ええ、実際なんとかなるんで」
迷いのない返し。それがあまりにも彼らしくて私はまた鼻先で小さく笑った。笑いながら同時に思う。そうやって、なんとかやってきたヒーローなんだろうな、と。その軽さの裏にあるものを、私は、知っているはずなのに——。
「……どうでした」
ふと、空気の密度が変わる。彼の声の調子が、わずかに落ちた気がした。それに重なるように、彼のグラスのなかの氷が鳴る。カラン、と。その乾いた音だけがやけに鮮明に残った。問いの形は雑なのに、声音だけが妙に真剣で、私はそのまま笑いに変えることができなかった。
「……分かりやすかった」
「どっちが」
「どっちも」
「でしょうね」
彼は小さく肩をすくめる。照れとも、諦めともつかない、その曖昧な仕草。どちらにも寄り切らないところがやっぱり、彼らしいなと思う。
「最近、ああいうの増えてまして」
「へぇ」
「年下、多いです」
「ふーん」
似たような相槌を繰り返しながら自分の内側で別の何かが、ゆっくりと動いているのを、感じていた。羨ましさでも、嫉妬でもない。ただ事実を突きつけられたような、静かな違和感。この人はちゃんと��誰かに好かれる側にいる人�≠ネんだということを。
追加した料理が運ばれてくる。湯気が立ち上りほんの一瞬、二人のあいだを曇らせる。その薄い膜が消えるころにはもう元の距離に戻っている。ホークスは箸を置いて、ふっと短く息を吐いた。その吐き方が、さっきまでと少し違って見えて、私は何も言わないままで横目に、彼の横顔を見ていた。それは、何かを決めた人の呼吸だった。
「……名前さん」
名前を呼ばれて、自然に、顔を上げる。視線が合う。逸らされない。そのままほんの少しの間を置いてから、彼は先を続けた。
「俺に、彼女できたら」
言葉の途中で、空気が一段、張る。店内のざわめきは変わらないはずなのに、この席の周りだけ輪郭が、くっきりしてしまったみたいに、音が、遠のいていく。
「どうですか」
不意打ちだった。でも、胸が跳ねるより先に、答えはもう、どこかで決まっていた。私は驚いた顔もしない。考えるそぶりも見せない。ただそのまま、口を開く。
「いいと思うよ」
自分でも驚くくらいに、声は、穏やかだった。波立たない水面みたいに静かでなめらかで余計なものが一切乗っていないように聞こえる。少なくとも、そう聞こえるように、したつもり。
「ホークスはさ、」
「……」
「ちゃんとした人と、付き合いそうだし」
事実を述べただけ。本当に、そう思っている。彼はきっと素敵な人をちゃんと選ぶし、選んだらちゃんと、大切にする。そういう人だと、知っているから。
「適当?」
「本当ー」
軽く言い返す。その軽さに逃げ込むみたいに。すると彼は、小さく息を吐いた。それは笑いにも似ていたし、何かを飲み込んだあとの、呼吸にも似ていた。
「そ、すか」
「うん」
それ以上、言葉は続かなかった。彼はしばらく黙り込み、テーブルの木目を見つめている。その視線はまるで、そこに何か、答えが刻まれているかのように、動かない。その沈黙がなぜかやけに長く感じられた。店のざわめきは変わらないはずなのに、この席の周りだけ、時間の進み方が少し遅くなったみたいに思える。
私は、グラスの縁にそっと指を添えた。冷えたガラスの感触が指先からじわりと伝わってくる。その感触でどうにか自分の呼吸を整える。やがて彼が顔を上げる気配がした。
「じゃあ、逆に……」
「……」
「名前さんにまた、彼氏できたら——」
「……どう?」
今度は私が問い返す側になる。同じ形の問い。けれど同じ意味ではないことを私たちはどこかでわかっている。ホークスはほんのわずかに言葉を選ぶ間を置いてから、答えた。
「……いいと、思います」
少し言い淀む気配は残しつつも、そこに迷いはなかった。だからこそ、その言葉がやけに綺麗に響いてしまう。濁りのない音ほど逃げ場がない。
「名前さんは、大事にされるタイプなんで」
「……他人事みたい」
「他人事じゃないです」
低く、はっきりとした否定。その声音に、妙な真面目さが混じっていて私は思わず視線を逸らしグラスを持ち上げる。氷がかすかに触れ合って、小さな音を立てる。その音が、言い損ねた何かを埋めるみたいに、静かに広がる。
「お互いさ」
言葉を続けようとしてほんの一瞬、間が空く。同じことを言っているはずなのに、どこかで少しずつ噛み合っていない。近いのに踏み込まない。わかっているのに触れない。その距離を私たちはちゃんと理解したまま、同じテーブルに、今日も向かい合っている。
「そうなったら、ちゃんと報告しようね」
「……そっちのは、毎回報告されてますよ」
「あー」
「頼んでもないのに、逐一報告してくるあたりが律儀なんすよねー」
皮肉めいた軽さで返してきたあと、ホークスは一度だけ、視線を外した。けれど、すぐに戻る。その一往復の動きが、必要以上に丁寧に見えた。まるで視線ひとつでさえ扱いを間違えないようにしているみたいに。言葉よりも、むしろそちらのほうに取りこぼしたものが残っている気がした。
「——ただ、今日みたいな場面で」
言葉の途中で、ほんのわずかな間が置かれる。考えているというより選んでいる沈黙。不用意にこぼさないための、慎重な呼吸。
「俺が断る理由、増えるなとは思います」
なんとも淡々とした言い方だった。事実をそのまま置いた、という顔。けれど、その一言が胸の奥のどこかを軽く叩いた。ひどく、乾いた音で。
「……なにそれ」
「事実なんで」
それ以上、彼は説明しない。言い訳も、補足も何も足さない。その潔さがかえって余韻を残す。言葉を削るほどに、意味だけが濃く残る。言葉を重ねれば何かが決定的に動いてしまう。どちらもそれをわかっていたから。だから無意識のうちに同じ場所で、ブレーキを踏んでいたのだと思う。
けれど。あの若い女性のヒーローのあまりにも分かりやすすぎるアタックは、確実に場の空気を変えていた。
口では「いいと思う」と言えた。それは嘘じゃない。でも、胸の奥には、言葉にならない小さな違和感が澱のように沈んでいる。触れれば揺れるくせに、触れなければただそこに溜まり続ける、曖昧な感情。彼はそういう微細な揺れを、見逃さない人だ。だから、今日のこのやりとりもきっと偶然なんかじゃない。
答えが欲しかったわけじゃない。正解を求めていたわけでもない。ただ、揺れるかどうか。その一点だけを、確かめたかったのだと思う。そして私は、きっと——思っていたよりも、ちゃんと、揺れてしまっていた。
「……ねえ。」
互いのグラスの中身が、もう何杯目なのか曖昧ではあるが、私は新しく届いたグラスを、指先で軽く回しながら、氷の揺れる音を頼りに、言葉のきっかけを探すみたいに口を開く。
「私から誘うのって、そんなに変?」
自分でも少し遅れてから気づく。これは質問というより確認に近い。ホークスは一瞬だけ視線を外した。目の前のテーブルでもグラスでもなく、もっと、曖昧な場所へ。
「……変、じゃないですけど」
そこで、わずかな間が落ちる。言葉を選ぶ、というより、選びすぎないようにしている沈黙。
「ちょっとなんてっていうか、油断しますよね」
「油断? 何に」
「距離、に?」
疑問形のまま置かれたその答えは、あまりにも素直で、余計な飾りがなかった。だからこそ私は小さく息を吐くしかない。逃げ場のない言葉は、だいたい、正しいことが多い。
「たまには、油断してもいいんじゃない?」
「それができたら、苦労しないんですけどねぇ」
そう言いながらも、彼の口元はわずかに緩んでいる。拒んでいるわけじゃない。ただ、まだ踏み出す準備が整っていないだけ。あるいは——踏み出した先で、何かが壊れることを知っている顔。
ラストオーダーで頼んだ料理が運ばれてくる。湯気が、先まで言葉にしていたものを一度ぼかすみたいに、空気の中を溶かしていく。私たちは、互いに箸を動かしながら、しばらく黙っていた。その沈黙は、決して重くはない。むしろ、どこか整っていて、会話がなくても、ふたり分の時間がちゃんとそこに在ると感じられる、静かな均衡。それを壊さないようにしているのがどちらなのかは、もうわからなかった。やがて、不意に彼が、ぽつりとこぼす。
「……こういうの、さ」
「うん?」
「ちゃんとしたデートって言われると、俺、逃げたくなっちゃう感じなんすよねー」
唐突でもその言い方は冗談のようでありながらどこも、冗談ではなかった。逃げるという言葉の軽さに反してその奥にあるものは、やけに重い。
「言わなきゃいいでしょ」
「まあ、そーですけど」
彼は苦笑して残りのビールを飲み干す。グラスの底がテーブルに触れて小さな音を立てる。それから、ほんの少しだけ間を置いて続けた。
「ネットにあがっちゃうかもすね、さっきカメラ向けられた気ィしたけん」
「えっ? 私と?」
「はい、あなたと」
「……ごめん。事務所側で揉み消しておいてね」
「ははっ。せんですよ、名前さんとこうして飲んでる時間は……逃げたくないんで」
その言葉が、胸の奥に静かに沈む。強さも熱も主張もない。それなのに、妙に深く沈んでくる。欲情でも独占でもない。ただ、一緒にいることを手放したくないという感覚だけが、形を持たずにそこにある。
私は、その言葉に対して、何も返さなかった。返せなかったというほうが近い。言葉にした瞬間何かの輪郭が、確定してしまいそうで、怖かったから。
「あ、それ。食べないならもらっていいすか?」
そうして何事もなかったみたいに彼はいつもの調子に戻る。その切り替えの早さに私は少しだけ救われる。同時に、少しだけ寂しくもなる。
「またぁ?……人のものばっか欲しがる」
「いや〜、欲しいと思ったら、どうにも我慢できない性分で」
箸を伸ばすその動きは軽く、冗談と同じくらい無邪気で、けれど、その裏側にある欲しがる理由までは決して、見せてはこない。その曖昧さが、彼らしいな、とは思う。
途端に、周囲の音が戻ってくる気配を感じた。店内の、ざわめき。食器の触れ合う、乾いた音。どこかの席で弾ける笑い声。現実が、ゆっくりと席に戻ってくる感覚。
正直に言えば、私は少し無理をしていた。この時間を軽いものとして扱おうとするための無理。勢いで片づけられるほど、軽くもなくて。納得と呼べるほどきれいに整理もできていない。ただ、『このままではいけない』というその焦りだけが先に立っていた。だから、私はまた、��今までの関係�≠ニいう言葉に無遠慮に手を伸ばしかけたのだと思う。
形があれば迷わなくて済むから。名前があれば距離を測らなくて済むから。でもそれが正しいかどうかは、まだわからない。この夜の中でさえ、答えはどこにも、落ちていなかったから。
ただひとつだけ、確かなことがあるとすれば。ホークスの一言一言が、思っていたよりも深く、私の中に残ってしまったこと。それだけは、どうしても、否定できなかった。
店を出る頃には夜風が更に冷たくなっていた。さっきまでの室内に溜まっていた熱が、音もなく剥がれていくみたいに、体温の輪郭だけが残り、冷え切った風が頬をなぞってアルコールで曖昧になっていた感覚を、ゆっくりと現実へ引き戻していく。
並んで歩き出す。歩幅は自然と揃うのに、肩と肩のあいだには相変わらず、指一本ぶんの距離がある。触れようと思えば、簡単に、触れてしまう距離。けれどその��平易�≠�、どちらも選ばないまま、同じ速さで夜を進んでいく。その均衡が、妙に心地よかった。そして同時に、やっぱり少しだけ、怖かった。
「名前さん。今日は、誘ってくれて、ありがとうございました」
隣から落ちてきた声は、いつもより、わずかに丁寧で、少しだけよそ行きだった。その温度差に私はほんの一瞬だけ呼吸を詰める。さっきまでは同じテーブルで、同じ皿を、つついていたのに。こうして外に出た途端、言葉の輪郭が整いすぎてしまう。
「……また、誘うかもよ?」
軽く返したつもりだった。けれど、その一言の奥に、自分でも気づかないうちに、何かを預けていたのかもしれない。
彼は、一瞬だけ、目を見開いた。ほんの刹那、反応が遅れる。それから、すぐに笑った。
「そのときは、スマホが無事でも絶対来ますね」
冗談みたいな返し方。でもその言葉の選び方が前より少しだけ正直になっている気がして、私はなぜか、目を逸らした。足元に落ちる街灯の光が私たちの影を並べて伸ばす。完全には重ならない影。それでも離れすぎもしない影。その距離感が今の私たちそのものみたいで少しだけ可笑しくて少しだけ、息苦しい。
「そういえばこのあいだ、元カレ見かけた」
「わお、それはそれは……御愁傷様でした」
「また違う女の人と歩いてたよ」
「あら、まあ」
「……もう、時効だよね」
「んー。どうでしょう。人の痛みに、時効なんてあるんですかねぇ」
穏やかな日々は、今日も変わらず続いていく。何も壊れないまま、何も始まらないまま、ただ、同じ温度で繰り返される時間。それなのに——。その��変わらなさ�≠フ中にほんのわずかに混じりはじめた違和感に、私はもう、気づいてしまっている。彼を呼び出す理由が、ただの偶然でも暇つぶしでもなくなりつつあること。そしてそれを、彼もまた同じように感じ取っていること。けれど私たちは、まだそれに、名前をつけない。つけてしまえば戻れなくなることを、知っているから。
駅前の明かりが、少しずつ近づいてくる。人の流れも、音も、さっきまでより、わずかに密度を増していて、現実が、こちらへ寄ってくるみたいだった。信号の変わる音、改札へ急ぐ足音、誰かの笑い声。そのすべての中に紛れながら私たちは同じ速さで歩いている。
やがて見慣れた曲がり角が見えてくる。ここでだいたい別れる。いつもと、同じ場所。いつもと同じ距離。それなのに今日はなぜかその距離感がほんの少しだけ近く感じられた。
「じゃあ……」
言いかけて、私は立ち止まる。彼も半拍遅れて足を止めた。何かを言おうとしたわけじゃない。ただ、流れのままに区切りをつけようとしただけだったのに、その瞬間、空気が、ほんのわずかに変わったのがわかった。ホークスが、動かない。視線も足も、その場に留まったまま。私は、その気配に気づいて、振り返った。
「ホークス?」
「……」
「……どうしたの? 具合、悪い?」
彼は少しだけ視線を落としていた。考えているというより言葉を選び損ねているような、そんな間。そして、小さく息を吸ってから「あの」と、声を出した。その呼びかけはいつもよりわずかに硬くて、でも、逃げ場を残していない音だった。
「今年の……誕生日の件、なんですけど」
「……うん?」
「あの、結婚式が終わったあとの、話です……」
言いながら彼はほんの一瞬だけ、目を逸らす。それは珍しい仕草だった。軽く、受け流すこともできたはずなのに、そうしないでちゃんと言葉にしようとしている沈黙。私は何も言わずに、その続きを待つ。夜の音が、ふたりの間をすり抜けていく。しかし、彼はそのまま、先の言葉を止めていた。迷っているというよりもどう言えばいいかではなく、どこまで言うかを測っているような、そんな、絶妙な間だった。それから、ゆっくりと顔を上げる。視線が合う。さっきまでの軽さは、もう、どこにもなかった。
「……名前さんに、その日——」
一拍。言葉がまっすぐに選ばれる。それを待つあいだに、心臓だけが先に、反応していた。静かだったはずの内側で、遅れて鼓動が立ち上がる。気づけば、口の中がわずかに乾いていた。
「話したいことがあります」
その声音は、静かだった。強くもないし、押しつけがましくもない。それでも逃げ場のない真っ直ぐさだけがはっきりとそこにあった。冗談でも何かの誘いでもない。予定でも流れでもなくて、ちゃんと、意味を持って差し出された言葉。
私はすぐには返事をしなかった。できなかったというほうが正しいだろう。胸の奥で、何かが、小さく揺れる。さっきまで、ただ穏やかに終わるはずだった夜が少しだけ形を変えてしまう気配。それでも、目は逸らさなかった。
「……重たい、話?」
ようやくそれだけを返す。冗談めかしたつもりだったのに声は思ったよりも軽くならなかった。言葉の表面だけが浮いていてその奥に沈んでいるものを隠しきれていない気がした。彼は、ほんの少しだけ口元を緩める。
「いや……たぶん、俺にとっては、ですけど」
曖昧な言い方だった。けれどその曖昧さの中に逃げるための余白ではなく、言葉を粗末にしないための慎重さが滲んでいるのがわかる。それで、十分だった。彼がそれを軽く扱わないことだけは疑いようもなく伝わってくるから。
「時間……もらえたら、ですけど、ね」
「……」
「もらえますかね、ちゃんと」
問いかけの形をしているのに声の奥ではすでに何かが、決まっている。引き返す気のない人の、静かな覚悟。
私は少しだけ視線を落とした。足元の白線が、街灯の光を受けて滲んでいる。まっすぐ引かれているはずの線が、どこか揺れて見えるのは、光のせいか、それとも——。ほんの一瞬だけ、逃げる理由を、探してしまう。断るための言葉。曖昧にかわすための余白。今までならいくらでも見つけられたはずのそれが、どうしてか見つからない。見つけようとすること自体がすでに少し、ずれているような気がして。
「……わかった」
気づけば、そう答えていた。声は、思っていたよりも静かで、揺れてはいなかった。断る理由がなかったのか。それとも断りたくなかったのか。そのどちらなのかは、自分でも判別がつかない。
彼は、小さく息を吐いた。それは安堵にも似ていたし、何かを引き受けたあとの、覚悟にも似ていた。
「ありがとうございます」
いつもより、ほんの少しだけ、丁寧な言い方。けれど今度は、その丁寧さが、距離を作るためのものには感じられなかった。改札の灯りが、すぐそこまで来ている。人の流れが、現実の速度で、動いている。私は、そこでようやく、一歩を踏み出す。
「じゃあ、また連絡するね」
「はい、待ってます」
短い返事。それ以上は、何も交わさなかった。交わせば、何かが決まってしまう気がしたから。背を向けたあとでわかってしまう。さっきまでと同じ夜のはずなのに、もう同じ場所には戻れないところまで、来ているということを。
振り返らなかった。振り返らなくても、その、視線の温度だけは背中に残っていたから。夜風がまたひとつ吹く。その風に押されるみたいに私は歩き出す。隣にいたはずの気配はもう触れられる距離にはないのに、それでも、消えてくれない。距離だけが離れて、意味だけが、近づいてくる。そんな、奇妙な感覚。
関係が壊れたとか、元に戻したいとか、そんな言葉で片づけられる段階は、もう過ぎてしまったのかもしれない。彼の伝えたいことは、きっと、二つに一つだ。この関係に、きちんと、終止符を打つか。あるいは、あの夜。言いかけて途切れた言葉の続きを、今度こそ最後まで、渡されるか。どちらにしてもそれは��今までのまま�≠ナはいられないということだ。そのどちらも私は受け取る準備ができていない。できる気も、しなかった。きっと、この先も、ずっと。
時間が経てば自然に整うような種類のものではないことを、もうどこかで、知ってしまっているから。だから、思った。いや、正確には——思い出した、に近い。ずっと、見ないふりをしてきただけで、最初からわかっていたことを。ここが、境目なのだと。
これ以上進めば、戻れなくなる場所。ならば、選ぶしかない。壊れる前に手放すか、壊れてでも残すか。そのどちらかしかもう残されていない。
*
それは、私にとっては、特別でもなんでもない一日だった。ただカレンダーの上では、きちんと意味を持っている日。街はどこも、同じ色をしている。飾りつけられた光と、理由のある笑顔と、どこか急かされるような空気。そういうものから少しだけ距離を置いたまま、私は、部屋の灯りを落として、ソファに身体を沈めていた。
——クリスマス。そう、言葉にしてしまえば、それだけで、何かを期待しなければいけない気がするから、あえて何も考えないようにしていた。
スマートフォンを伏せる。画面を閉じるだけで世界との接点がひとつ減るみたいで少しだけ楽になる。そのまま、ぼんやりと天井を見ていたときだった。テーブルの上で小さく震える音。一つ。続けて、もうひとつ。反射的に目を向ける。嫌な予感ではない。むしろ、どこかで、予期していた種類の音。
手を伸ばす。画面を点ける前から誰からなのかわかってしまっている。

メリークリスマス!

【写真を送信しました】
あまりに短いその一文に、思わず口元が緩む。軽くて、無防備で。それでいて、こちらの構えをするりと外してくるような言葉。添えられていた写真は、どこかのクリスマスツリーらしかった。返事を打とうとするその手が動くよりも先にまたスマートフォンが、小さく震えた。

今、空見てます?

今日の雲
羽根みたいじゃないです?
続けざまに届く言葉。会話というより、思考の流れをそのままこちらに流し込んでくるような、間のないリズム。ここまでくると、ほとんど日記みたいなものだろう。

いや、羽根って言うと
自意識過剰すね。気持ちわる

でもまあ俺の羽根じゃなくて
もっとこう、無害なやつ
私はまだ、何も返していない。それでも彼は、構わず言葉を投げてくる。まるで最初から、返事なんて期待していないみたいに。それでも届いていることだけは、どこかで信じているみたいに。
独り言の延長線に、私が、置かれている。その距離感が、妙に彼らしい。

さっきコンビニで
条件反射で手が伸びました

名前さんの好きなコーヒー
その一文に視線がほんの少し止まる。条件反射という言葉の軽さと、そこに含まれている時間の積み重ね。思い出すというよりもう身体のほうが覚えている種類のものだ。

買ってから気づいたんですけど
今渡せる距離じゃないなって

あ。今、福岡なんす

なので自己消費しまーす
思わず声を立てずに笑ってしまう。部屋の中に音にならない笑いが、少しだけ浮かんで消える。彼のこういうところだ。用件があるわけでもなく返事を求めているわけでもない。ただ思いついたことをそのまま差し出してくる。それが今ここにいない距離を、かえって近く感じさせることも、たぶん、知っているのに——。

今日はスマホ無事ですよ

水没も落下もしてません

一応、ご報告まで
そこまで受け取ってようやく私は指を動かす。画面の上に浮かぶ文字を、少しだけ選びながら。そして、あの、翼の生えたヒーローを思い浮かべながら。

今日はスマホ無事ですよ

水没も落下もしてません

一応、ご報告まで

進歩ね
短い返事。それだけでいい気がした。それ以上書いてしまえば、決意が揺らいでしまいそうで。そんな私の思考など置き去りにして誇張でもなく既読がつく前に次の通知が重なった。ほんとに、速すぎる男だ。

進歩ね

そうでーす

褒められた

これ、褒められてますよね?
画面越しでもわかる軽さ。ふざけているようでどこか、慎重な間合い。私は、知っている。彼はきっと確かめているのだ。会話が続くかどうか。この距離がまだ、切れていないかどうか。私と、『繋がっている状態』を——。
私は、すぐには返さなかった。画面を見たままほんの少しだけ、指を止める。このやりとりが、どこまで続いていいものなのかを、無意識に測るみたいに。部屋の静けさの中で、スマートフォンだけが、かすかに温度を持っている。離れているはずなのに確かに、そこにいる気配。その感覚に今の私は少しだけ、困ってしまう。
それでも、画面を閉じることはできなかった。次の振動をどこかで待っている自分がいることに気づいてしまっていたから。

さっきさ
福岡でも見かけましたよ

初めて一緒に行った居酒屋

あれ、チェーン店だったんすね

席、結構空いてました

別に意味はないです

ほんとに
意味がないなんて、嘘だ。けれど、その嘘を、わざわざ言葉にして否定するほど、私は野暮じゃない。むしろ意味を持たせすぎないための、その軽さに、どこかで救われている。
もしも彼が、あの日の思い出話を持ち出して、あの夜の温度を、なぞるような言い方をしたら、私はきっと、もっと、困っていた。だからこれは優しさの形なのだと思う。曖昧にしておくためのヒーローの、やさしさ。

仕事、忙しい感じです?

返事なくても大丈夫なんで

忙しいなら
それはそれで安心なんで

でも無理だけはしないで
矛盾した文面に私は一度スマホを伏せた。胸の奥で、じわりと温度が上がる。急激にではなく、ゆっくりと確実に、内側から広がっていくような熱。気にしているのに気にしていないふりをして繋がっていたいのに繋がらなくてもいいと言う。その不器用さが、あまりにも彼らしくて、それをそのまま受け取ってしまえば、また何かを見誤る気がして私は少しだけ目を閉じて呼吸を整える。それから、もう一度、画面を点けた。

あ、そうだ

お弁当の件
一拍。その間さえも、画面越しに伝わってくるような気がする。彼とのやり取りはまるで、呼吸そのものだった。

あ、そうだ

お弁当の件

気まぐれ、まだ有効ですか?
私は指を止めた。ほんの一瞬だけ言葉を選ぶ。何を返せばいいのか、ではなく、どこまで許していいのかを測るみたいに。それでも、結局は短く打つ。

気まぐれ、まだ有効ですか?

気まぐれは、期限未定
それ以上は、足さなかった。足してしまえば、それはもう気まぐれではなくなってしまうから。
すぐに既読がつく。そして少しだけ間が空く。そのわずかな時間の中に、彼が何かを考えている気配がある。やがてまた、返ってくる。

了解でーす

じゃあ気まぐれが来るまで

スマホ水没させずに

ちゃんと生きてまーす
思わず息が漏れる。笑いとも、ため息ともつかない曖昧な音。スマホを置く。天井を見上げる。部屋の静けさがさっきよりも少しだけ深くなっている気がした。
彼は欲しがらない。迫らない。ただ、たわいもない言葉を、いくつも、いくつも重ねてくる。
それは、独占でも、欲情でもないふりをした、��日常�≠ニいう名の接触。強くもなく重くもなくけれど確実にこちらの内側へ届いてしまう距離。そして私はその接触をもう当たり前のものとして受け取ってしまっている。拒まない事にも待ってしまう事にも、もう理由を探さなくなっている。
——潮時だ。そう結論づけたはずなのに。胸の奥でなにかがまだ静かに抗っている。はっきりとした形を持たないまま、ただ、そこに在ることだけを主張する、曖昧な感情。それが何なのかを、私はまだ言葉にできない。言葉にしてしまえば、逃げ場がなくなる気がして。
彼の誕生日まであと三日。指折り数えるほどの時間ではないのに、なぜか、その数字だけが妙に現実味を帯びている。
愛しているからこそ、手放す。そう、思うことでしか、整えられない感情があることを、私はもう知っている。
手放した先で、また違う形で繋がれると信じることも、きっとひとつの誠実さなのだと、自分に言い聞かせながら。あのヒーローのこれからが、そんな想いに——ふっと、心がやわらぐような、どうか穏やかなものでありますようにと願う。
その願いの中に自分が含まれていないことに、気づかないふりをしたまま。