昼下がりの空気は少し乾いていて窓を開けると遠くから、冬特有の匂いが風に乗って流れ込んできた。冷たさの奥に、どこか、金属めいた澄んだ気配が混じっている。
書類の紙を一枚めくる音が、やけに大きく聞こえた。フロアの隅で鳴った内線が短く途切れて、その余韻が消える間もなく受付からの連絡が私の内線へと転送されてくる。
『ホークスがまた、スマホの修理でお越しです』
受話器越しの声はいつもよりわずかに遠慮がちだった。あの人がわざわざ受付で名乗る。いつもなら半ば、当然のようにフロアを通り抜けてくるのに、今日はそうしなかったらしい。
私は受話器を握りながら、今さら名乗る必要があったのだろうかと一瞬だけ首を傾げる。けれど続いて告げられた『同伴者がいるため応接室での対応になります』という受付の一言で、遅れて、合点がいった。だからか、と。受付を通したのも私を呼び出したのも、たぶん、そのためだ。勝手知ったる場所だからこそ、今日はきちんと手順を踏んだのだろう。そう思うと妙に律儀で彼らしくない配慮が可笑しくもあり胸の奥で小さく苦笑が弾んだ。
それにしても一体、何度目だろう。あの端末。修理理由。この場所——。壊した経緯も、ここに持ち込む意味も全てがあまりにも分かりやすい。それなのに、その分かりやすさに、私は何度でも引っかかってしまう。それを少し嬉しいと思ってしまう自分が悔しくてそれでもどこか愛おしくもあった。
応接室に入ると彼はもうそこにいた。修理受付用の紙とペンを手にまるで決まった席であるかのように、ソファに収まってリラックスしている。
いつも通りの黄土色のジャケット、整えきれていない寝癖。肘掛けに片肘を預けた姿は仕事場というよりも、知人の家に遊びに来た人みたいでもあった。彼はこちらに気づくと、にこっと笑って手元のスマホを差し出してくる。
「おつかれさまでーす。……あー、壊れました」
ご機嫌そうな表情のみならず、声音まで、妙に弾んでいる。受け取った端末は画面の一角にヒビが入り角がわずかに凹んでいた。修理対象としては、見慣れた状態だ。それでも私の心をわずかに沈ませたのはその破損そのものじゃない。壊れた理由が、簡単に想像できてしまったことだった。
「ご機嫌ですね」
思わず零れた言葉に自分でも驚く。しかし彼は口元に小さな笑みを残したまま視線だけでこちらを見上げてくる。
「え、分かります?いやでも実際ご機嫌なんで。隠す気もないですし」
その無邪気さが少しだけ、ずるいと思う。私は一度、彼の手から受付票をそっと奪って、それに目を落としながら必要事項を書き込む。
「あ、そうだ。紹介しますね、こちら——」
「目良さんですよね」
「……あら、ご存知で」
「存じ上げております」
紹介されるまでもなく、彼の疲労は身なりにも滲んでいた。公安という肩書きが似合わないほど髪は無造作に跳ね、目元には睡眠不足の影が薄く溜まっている。スーツは、きちんと着ているはずなのに、ワイシャツの第一ボタンは外れたままでネクタイも喉元で気力を失ったように緩んでいた。だらしなさというより手をかける余裕が削ぎ落とされた結果と言ったほうが近い。本当に追い立てられているのだろうと妙に納得してしまう。それでも背筋だけは不思議と崩れておらず視線を合わせた瞬間、こちらを値踏みするような目が、一瞬だけ覗いた。疲弊と理性が同居するいかにも公安の人間らしい空気だ。
「あなたがホークスの担当だったんですね」
「担当、と言われると語弊がありますけど……。まあ、対応することは多いですね」
「今日、公安に用があって。名前さんの話をしたら、ぜひ会ってみたいなんて言われましてね〜」
「重要な業務の一環ですよ。正直に言うと私は、こんなことより、少しでも寝たいんですけどね」
彼の返しに、ホークスがくすりと笑う。しかしそのやり取りが、ほんの少しだけ引っかかった。『重要な業務の一環』とはどう言うことなのか。けれど、彼らの業務の内側など私が踏み込む場所じゃない。それに、こちらも早く本題を終わらせたい。私は、淡々と質問を始める。落下の状況、水濡れの有無、バックアップの有無。いつも通りの確認事項。その間ホークスは、出されたお茶を熱そうに、のんびりと啜っていた。まるで自分が原因で私が呼び出されている自覚など、最初から持っていないみたいにして。
「端末、今回はどうされたんですか」
「え?」
「落としたんですか?」
「いえ、飛びながらポケットから落ちたって感じですかねー」
「……なるほど」
「あっ、もちろん狙ったわけじゃないですよー?ただ、ちょっと、風が気持ちよすぎて」
「風が……気持ちよすぎて」
「あ〜、名前さん、今なにしてるのかなーって」
「……私が、何をしてるのかな、って?」
その一言に、思考が一瞬、追いつかなくなる。復唱するように口に出して私は小さく息を吐いた。苦笑に近いものだったと思う。まったく……どこまでも調子がいい。どこまでも自分の速度で言葉を投げてくる人だ。
それでもその軽やかな流れの中に当然のように私の存在が組み込まれていることが、胸の奥を、わずかに温めてしまう。その感覚に気づいてしまうのが少しだけ怖くて、私は、それ以上の感情を言葉にしないよう、喉の奥で抑えた。彼の口調はいつも通り軽い。けれど、その裏側にある意図はあまりにも分かりやすかった。私はそっと視線を落とす。
たぶん、本当に端末を落としたわけじゃない。落としてしまった、というよりも、落とすような状況を、どこかで自分に許しただけだ。わざわざここに来るための口実として——。それが何度目なのか、もう、数える気にもならない。
「落とした場所が、たまたま、ここから一番近い区画だった……という、話でもないんですね」
「んー、��たまたま�≠チて便利ですよね。じゃあたまたまってことに、しておいてくれません?」
その鷹の目が笑う。その視線はまっすぐで妙に無防備で、少しずつこちらの足場を削ってくる。��ご機嫌�≠ニいう薄い包装の下に、まだ取り扱い注意のままの気持ちが詰まっていて、それを隠す気もなく差し出されているようだった。
「……修理受付票、書いてもらえますか」
業務の言葉に逃げるようにそう告げると、彼は素直に「はーい」と、軽く敬礼の真似をしながら返してペンを取った。紙の上を走るペン先の音が応接室に静かに響く。その間私は特に理由もなく彼の顔を見ていた。癖のある髪の跳ね方も指先の動きも息を吐く間隔も、どれもが不思議なくらい見慣れている。伏せられた睫毛の長さに、ふと、目を奪われる。
こうして近くにいることがいつの間にか当たり前になっていて、その事実に気づいてしまって、慌てて視線を逸らした瞬間——彼の隣に浅く腰を掛けていた目良さんと目が合ってしまい反射的に咳払いをして誤魔化した。
自分の中で何がどう変わったのかはまだうまく言語化できない。ただ彼がここにいて以前よりも穏やかに言葉を交わせている。それだけは、確かだった。
仲直りはしたのだと思う。でもそれは、『元に戻った』という感覚とは少し違う。何かが解けて何かが結び直されて。それでも、まだ残っている隙間に触れるのが怖くて私は無意識の内に呼吸の仕方を探してしまう。そのとき、書類から視線を上げたホークスが、こちらを見た。
「——はい、書き終わりました。ちゃんと読める字で書いたんで、褒めてください」
「えらいですね」
「褒め方が上からですよねー、名前さんって」
「実際、年上ですから」
彼が一瞬、言葉を失ったように、口を閉じる。その沈黙のあと思い出したように「……あの」と声を落とした。
「今日、仕事終わりって……予定あります?」
その声は不自然なほど小さい。湿り気を含んだような慎重すぎる音で、まるで、告白みたいだと思った。その自覚に自分でも驚くほど胸が静かに鳴る。
問いかけの直後、彼は、わずかに眉を下げた。普段なら冗談で押し切るはずの人が言葉を選び、間を置き、私の反応を待っている。ペンを指先で転がす仕草が、緊張を隠しきれていなかった。
「……公安の人の前で、そういうお誘い、しても問題ないんですか」
「え?……ああ、目良さんは大丈夫です。ね?」
「私を巻き込まないでください。面倒なので」
「……ちなみに、予定がなかったら……どうするつもりなんですか」
二人のやり取りを挟むように、私は問い返す。彼はすぐに答えなかった。一度、天井を見上げ、それから、あらめて私を見る。今度は逃げずに、まっすぐに。私自身も自分の声が思っていたより柔らかく出ていたことにあとから気づく。警戒も呆れも、もうそこにはなかった。
沈黙が流れるあいだ、彼は、少しだけ笑った。けれどその笑い方は、どこか子供っぽくて不器用だった。
「ただ......一緒にご飯とか、どうかなって」
視線が絡む。わずかなためらいのあとで、断る理由が、どこにも、見つからなかった。やっぱりこれは——さっきから続いている��告白の途中�≠ネのだろうな、と思った。
*
仕事が終わる少し前、ふと確認した、スマートフォンの通知には、既読がつかないまま開かれているメッセージがいくつか溜まっていた。
空の写真。風に揺れる街路樹——急いで食べたらしいコンビニの弁当の写真。短い一文だけ添えられた、つぶやきのような報告。それらはどれも私に何かを求めるというより、ただ日常を置いていくためのものに見えた。そして、その下に一つだけ、やけに整った文面がある。

今日、あの店予約しました
『あの店』——としか書かれていないのに迷う余地はなかった。彼がそう言うとき、私たちが、向かう場所。ビルの奥まった地下にあって控えめな暖簾と、少し重たい木の扉が印象的な居酒屋。
スマホをしまいながら小さく頷く。返事はしなかったけれど、行くことは、もう決まっていた。仕事帰りの人波に紛れて、私は駅へ向かう。夜の帳が下りきる少し前。店の前にはもう彼が立っていた。待っていたというよりは時間を持て余して立っているような佇まい。けれど、私を見つけた瞬間、その背筋が、ふっと伸びたのがわかる。
「お疲れ様です、こんばんは」
「こんばんは」
「来てくれて、ありがとうございます」
「……どういたしまして」
気取った敬語と落ち着いた調子。でも口元にはどうしても隠しきれない安堵と喜びが滲んでいた。暖簾をくぐると店内には程よい喧騒と出汁の匂いが満ちている。案内されたのはいつもと同じ奥の小上がり。目立たず落ち着いていて、けれど並んで座ると、距離が近すぎる気もする席だ。
「とりあえず、生、いきます?」
「うん……。でも今日は、控えめにしようかな」
「……じゃあ、俺の方が多めに飲みます」
そんなやり取りをしながら注文を済ませると、彼は、箸袋を指先で器用に折り畳みつつ、時折、こちらの様子を窺うように視線を流してくる。
「名前さん、今日ちょっと疲れてません?」
「ん?」
「眉、いつもより少し下がってます」
「よく見てるね」
「そりゃ見ますよ……好きな人の顔くらい」
最後は少し間を取って、ぽつりと言い置いた。その瞬間、空気がわずかに張りつめた。私が言葉を探すより先に、彼は慌てたように付け足す。
「好きな��顔�≠チて意味ですから!見慣れてると落ち着くじゃないですか、そういうやつです」
「……ふうん。好きな顔、ね」
「あっ!ちが、待って。別に変な意味じゃ——」
ちょうどそのタイミングで、ビールが運ばれてきた。ジョッキを手に取り、縁を口元に当てる。冷たさが喉を滑り落ちていくのに、胸の内に残る熱は、なかなか引いてくれなかった。だから私はあえて、話題を逸らした。
「最近は、忙しい?」
「まあ、ほどほどっす。名前さんは?」
「それなり。忙しいふりをしてるほうが気持ちが楽なときもあるから」
「あー、それわかる。俺も、似たようなことしてました……ていうか、今もですね」
そう言って、彼は短く息を吐くように笑った。その横顔に、ほんのわずか影が差した気がした。けれど、それは長く留まらない。気づけばもう、いつもの柔らかい表情に戻っていた。そうして、言葉を選びながら、彼は視線を落とす。
「名前さんがもう少し喋ってくれてもいいのになって思うとき、あります」
「……黙ってると、嫌?」
「嫌じゃないです。ただ……黙ってるときの顔、少しずつ遠くに行く気がして」
「……不安になる?」
「不安っていうより……置いていかれそうになるんですよ。俺の勝手ですけど」
そう言いながら彼は、自分のグラスにビールを注ぎ足す。泡が少し溢れて慌てて口に運ぶ。その仕草がどこか不器用で可愛くて、見ているだけで胸の奥がざわついた。
「……そっか。じゃあ今日は、少しは話すようにする」
「ほんとです? やった……聞きたいこと、結構溜まってるんで」
そう言って笑う彼の表情が可笑しくて気づけば私も口元を緩めていた。
「でも、一問一答形式みたいなのはなしね」
「じゃあ、ちゃんとした対話式で」
なんでもないやり取り。取り留めのない冗談。言葉の端々に滲む感情を、互いに見て見ぬふりをしながら、時間だけが進んでいく。箸を取ろうとした指先が、ふと重なった。彼はすぐに引かなかった。数秒ほど、指先の熱が重なったまま、私は息を止めたように動けずにいる。
でも何も言わない。何も問わない。私は視線を落とし、またビールを口に運ぶ。彼は変わらず、少しテンションが高くて、それでいて丁寧で場を壊さない距離感を、守っている。誰にでも同じように笑顔を向ける、プロフェッショナルなトップヒーロー。けれど、その笑顔の奥にときどき紛れ込む微かな寂しさを私は知っている。誰にも見せないつもりで隠している、その隙間を——。
夜は静かに、ゆっくりと深まっていった。店を出る頃には、空気がひんやりとしていて、夜風が肩に触れる。その冷たさが、少しだけ現実に引き戻すように、身に染みた。
「送っていきますよ」
「……いいよ。大丈夫」
そう返しても彼は歩みを緩めただけで、距離を空けようとはしなかった。まるで、そのやり取りごと最初から想定していたみたいに、自然に隣へ並ぶ。街灯の間隔が広くなるにつれて足元の影が長く伸び、信号待ちの赤い光がふたり分の時間を足止めした。そのとき——横から、声が落ちた。
「……あの、まだ……足りないですか」
思わず顔を向けてしまった。真正面から向けられる視線。逃げ場のない真っ直ぐさ。そんな聞き方をされたのは初めてだったので少し動揺した。
「気まずいままなのは、嫌で……」
「……別に、もう、気まずくなんてないでしょ」
「そう、ですか……ほんとに?」
「……うん。ほんとに。足りてるよ、大丈夫」
確かめるような声に、私はそう口にしながら、自分の声がわずかに揺れたのがわかった。気づかれたくなくて、視線を外す。でも、胸の奥では、別の答えが小さく息をしていた。たぶん——まだ足りない。彼の本気に、私はまだ真正面から向き合えていない。
夜風が頬を撫でる。灯りの少ない小道に並んで立つと沈黙は重たくならず、むしろ名残を含んで漂った。このまま別れるにはどこか惜しい空気。言葉にしない気持ちが、互いの足元に影のように溜まっていく。
「……あの」
彼が声を落とす。語尾が不自然に揺れる。歩みを止めたその声はいつもの軽快さを削ぎ落とした素の温度を帯びていた。陽気で軽快なテンポではない、彼本来の声の温度がそこにあった。少しの照れと、逃げない決意が混ざっていて、私の足も自然と止まる。
「仲直りが、したいです。ちゃんと」
冗談めいた響きはない、告白に近い重さで置かれた言葉だった。話すまでに、何度も飲み込んできたのだろう。言葉を操るのが得意な人がこんなにも慎重に選んだ一文が、胸の奥に静かに沈んでいく。私は、すぐには答えなかった。ただ、立ち止まり、夜空を見上げて深く息を吸う。吐く息の奥に溜まっていた感情が少しずつ浮かび上がる。怒りも傷も迷いも、それでも、隣を歩いてくれたことへの感謝も。
「……もう十分、向き合ってくれてるよ」
そう言った瞬間ホークスは目を瞬いた。言葉にして、初めて気づく。私の声が、思っていたよりずっと柔らかい響きを帯びていたことに。こんな声が自分の中にまだ残っていたなんて、少しだけ意外だった。彼は、ふっと眉尻を下げて笑う。
「そう言ってもらえると、ほんと救われますね」
「よかった」
「……いや。でも、俺——たぶん、まだまだで」
「知ってる」
「え、知ってました?」
「うん」
「それはそれで、まあ……そこそこ傷つくんですけど。……でも、ありがとうございます」
歩き出した私の背後から、少し遅れて追いつく足音。靴音が並び、やがて、重なっていく。街のざわめきから外れたこの道では、その音が心拍のように近く感じられた。言葉のやりとりが、ようやく形を持ちはじめている。過去をなかったことにするのではなく、その上に重ねるようにして、ふたりの距離が、静かに、けれど確実に縮まっていくのがわかった。
別れ際、交差点の手前で彼が足を止める。何か言いたげに、私の顔を見つめていたけれど、唇はしばらく閉じたままだった。やがて、夜の空気に溶けるような声が落ちる。
「……また、すぐ会えますよね」
私はうなずいた。きっと、彼が望んでいたより控えめな応えだったと思う。それでもその瞬間、彼の表情がふっとほどけたのを見て、これでよかったのだと、私もようやく思えた。
喉の奥がひどく熱くなる。泣きそうだ、と自覚した瞬間、その感情ごと押し潰すみたいに、私は息を止めた。ここで泣いたら、何かが決定的に、変わってしまう気がした。彼の前で全部を崩してしまったら、今の距離すら保てなくなる。そんな予感だけが、やけに鮮明だった。
「……わたし、」
声に出した途端、言葉が宙でほどける。続きを言えばいいのに。言ってしまえば、楽になるかもしれないのに。
彼の個性事故。友人の結婚式。彼の、誕生日。知らないホテルの天井。知らない人の体温。自分で自分を、軽く扱ってしまった朝。全部が、喉の奥までせり上がってきているのに舌が動かない。この人に嫌われたくないという衝動があまりにも強かった。今ここで打ち明けたら、彼はきっと、黙って聞く。責めないだろうし、軽蔑もしない。それがわかっているからこそ怖かった。それでも一緒にいるという顔をされるかもしれない。もしくは、それ以上は踏み込めないという線を静かに引き直されるかもしれない。どちらも今の私には重すぎる。
「……名前さん?」
名前を呼ばれる。知らぬうちに、握り込まれていた拳の力がほんのわずかに緩む。逃げ道を残すみたいにして。私は視線を落としたまま、慎重に言葉を選んだ。
「言いたいことが、あるの……」
「はい」
「でも……たぶん、言ったら」
「……」
「あなたに、嫌われる気がする」
嘘じゃない。胸の奥がきしむ。短く息を吸う。それでも声は、不思議なほど、落ち着いていた。それが、余計に惨めだった。彼はすぐには答えなかった。夜の音がふっと戻ってくる。遠くを走る車の音、誰かの笑い声——街がまだ、動いている気配。やがて、ホークスが口を開く。
「……��嫌う�≠ヘ、選択肢に入ってないです」
淡々とした言い方。でも逃げのない声だった。続く言葉が来るのを、私はもう予感してしまっていて、心臓を強く掴まれたみたいに息が詰まる。彼は視線を逸らさず、そのまま言葉を続けようとしていた。
「でも……今、無理に話さなくていい」
彼の声は低く、押しつけがましさがなかった。続く沈黙さえ、こちらに委ねるみたいな余白を、含んでいる。
「名前さんが——��話したい�≠謔閨A��失いたくない�≠ェ勝ってるなら」
その言葉は胸の奥を正確に射抜いてきた。鋭いのにどこか手触りがやわらかい。私はゆっくりと息を吐く。肺の奥に溜め込んでいた空気が、ようやく行き場を与えられたみたいに抜けていって、思わず、小さく笑ってしまった。
「……ずるいね」
「なにがです?」
「そういう言い方」
彼は少し困ったように眉を下げた。その表情に出口を見つけられずに渦巻いていた黒い気持ちが少しだけ薄れていくのを感じた。
「すみません」
「謝らなくていいけど。でも——」
「……」
「たぶん私も今日は、ここまでが限界」
結婚式の夜も、知らないホテルの朝も、仕事で何事もなかったみたいに端末を受け取った自分もどれもまだ整理がついていない。言葉にした瞬間取り返しのつかない場所へ滑り落ちてしまいそうで、それが怖かった。彼は私から一歩下がった。その仕草が拒絶ではないとわかる距離感だった。
「……わかりました」
その一言には余計な感情が乗っていない。引き留めもしないし、試すような色もない。それが、ひどく救いだった。彼は青に切り替わった信号に一度だけ目をやり、それから私に視線を戻す。
「でも、逃げたまま、終わりにはしません」
「……」
「今日は、帰りましょう」
「……うん」
宣言でも約束でもない。ただ、そう在るという意思。私は頷いた。泣かなかった。踏みとどまった。それが、正解かどうかはわからない。ただ、嫌われたくないという衝動に負けたとも、勝ったとも言えなかった。二つの感情がぶつかり合ったまま、私はまだ立っている。夜風が頬を冷やす。言えなかった言葉は胸の奥で静かに重さを増していった。
ようやく歩き出すと、駅の入口が見え、互いに歩幅が自然と緩む。このまま手を振ってそれぞれ逆方向へ歩き出せば、今日の夜は何事もなかった顔で終わるのだろう。そう思った瞬間、胸の奥で何かが裏返った。
「ホークス……」
自分でも驚くほど、弱い声だった。「はい」と足を止めて振り返る彼。街灯の下で影が長く伸びる。私は視線を合わせられないまま息を吸った。
「手……握って」
言ってしまってから遅れて現実感が追いつく。何を言っているんだと頭のどこかが冷静に突っ込むのに口も行動も、もう止まらない。ホークスははっきりと戸惑った表情を浮かべていた。
「……え?」
「一瞬だけで、いいから」
声が自分でもわかるほど危うい。泣き出す直前のあの感覚。喉の奥が詰まり視界の端がじわりと滲みはじめる。感情が溢れるより先に身体の方が悲鳴を上げているみたいだった。
「名前さん、それは……」
彼は困ったように眉を寄せる。その仕草を見た瞬間、断られると思った。その覚悟だけは、もうできていた。けれど彼は、すぐに結論を出さなかった。一度、深く息を吸ってから、静かに言う。
「……理由、聞いてもいいですか」
「聞かないで」
声が重なった。相手の言葉に被せるようにして思考より先に言葉が飛び出す。
「今、説明したら……たぶん、泣いちゃうから」
正直すぎて、言い繕う余裕もない。ホークスはしばらく黙ったまま私を見ていた。探る視線でも測る目でもない。ただ、判断を宙に置いたまま、待つ顔。ヒーローが現場で一瞬だけ見せる、あの静かな集中の表情だった。やがて彼はゆっくりと手を差し出す。
「……じゃあ、握るだけにしましょ」
「うん」
私は迷わずその手を取った。指先が触れた瞬間胸の奥で何かが崩れて、堰を切ったように感情が押し寄せる。思っていたより温かくて少し骨ばっていて紛れもなく��人の手�≠セった。それだけで足元がぐらりと揺れる。握る力は強くない。でも離れない。包むというより、そこに在ると伝えるみたいな触れ方。涙が視界の縁に溜まり、落ちる前に、必死で瞬きを繰り返した。
「……ありがとう、」
「どういたしまして」
声が、わずかに震れてしまった。それでも彼の声は低く落ち着いている。何も足さないし、何も引かない。ただ手を離さない。ほんの数秒。それだけの時間なのに、やけに長く感じた。やがて、彼のほうから、そっと力が緩む。
「……もう、大丈夫ですか」
「……たぶん」
私は小さく頷いた。彼はそれを確かめるように一度だけ軽く息を吐き、静かに手を離す。言葉のない間が、ふたりのあいだに落ちる。私は視線の置き場を失って宙をさまよわせ、彼は、無意識の仕草みたいに、後頭部に手を添えていた。
「無理、しないでください」
「してないよ」
嘘だったかもしれない。けれど、今はそれで、よかった。彼は納得したように、もしくは何かを飲み込んだみたいにしてまた一歩、距離を取る。
「じゃあ、また」
「……うん」
背を向けて歩き出す彼の背中を、私はしばらく見送っていた。まだ泣かなかった。でも泣き出しそうなまま、ヒーローの手を握った。それだけでこの夜は、少しだけ救われた気がした。
夜風が、二人の間をすり抜ける。ホークスが、わずかに名残惜しそうに振り返り、そのまま角を曲がって消えた。そこには、何もなかったはずの闇が確かにあたたかい気配を残している。それは次の約束の予感のように、そして、帰り道に吹く風のように、胸の奥で静かに揺れていた。
*
数日後の午後だった。対応書類の山に埋もれるようにしてカウンターの上に伏せていたスマートフォンが、かすかに震えた。音というより空気が揺れたような感覚だった。反射的に画面を見ると表示されている番号は、登録のないものだった。
くだらない営業電話か間違い電話か。そう分類してしまえば、それで終わるはずなのに、指先が不意に止まる。胸の奥で、理由のはっきりしない違和感だけが、先に立ち上がってきた。
——出なくてもいい。頭ではそう判断しているのに、拒否するための決定打が、見つからない。何かを確かめてしまう前の、あの、一瞬の躊躇に似ていた。私は小さく息を吸ってから、恐る恐る通話ボタンを押す。「はい」と言った自分の声が思ったよりも少しだけ、高い気がした。
『——あ、もしもし』
スマホ越しのその声を聞いた瞬間、全身の血の気が、すっと引いた。はっきりと覚えているかと聞かれれば、そうではない。でも耳の奥が冷えるこの感覚だけは、間違いなく身体が覚えている。
『突然すみません。俺のこと……覚えてます?』
覚えているかどうかを尋ねられる時点で、もう答えは決まっている。
「……どちらさまですか」
知らないふりをする声は、驚くほど落ち着いていた。仕事中に使う、感情を切り離した声。線を引いて自分を守るために何度も何度も使ってきた響きだ。
『えっと、この前の……結婚式のあと』
その一言で、記憶の奥に押し込めていた風景が一気に浮かび上がる。白い無機質な天井、重たく閉じられたカーテン、肌に残る、シーツの感触。胸の奥が、きゅっと縮んだ。
『……ホテルで、覚えてますよね』
確かめるような言い方だった。だが責める調子ではない。それがかえって逃げ道を塞ぐ。急いで感情を削ぎ落とす。今はそれしか選べなかった。
「……なにか、ご用ですか」
『あのとき、連絡先……交換したみたいで』
あえて口にしたのか、本当にそうなのか、その「みたいで」という曖昧さがひどく残酷だった。
『朝起きたら番号が残ってて。連絡しないほうがいいかな、とも思ったんですけど』
「……」
『気まずいままなのも、どうかと思って』
私はカウンターの縁を指で強く押さえた。彼はきっと、悪気などない。ただ、自分なりに誠実であろうとしているだけだ。その善意が、私の中にある後悔や混乱とは、まったく別の場所に立っていることを否応なく突きつけてくる。だからこそこの距離は埋まらない。スマホ越しの沈黙の向こうと、こちら側で、同じ出来事を見ていながら、まるで違う現実に立っている。その事実だけが、静かに、重く、胸に沈んでいった。
「……すみません」
最初に口をついて出たのは、謝罪だった。他にどんな言葉を探しても、それより先に喉の奥からこぼれ落ちてしまった。
『謝られるようなこと、してませんよ』
返事は早かった。否定というより、受け止める余地を与えない、柔らかくも即断的な響き。
『ただ、その……俺は、ちゃんと覚えてますし』
ほんのわずか、言葉が揺れる。その揺れが胸の奥に細い棘のように刺さった。
『そちらが嫌じゃなければ、また話せたらって』
静かな提案だった。押しつけるでもなく、断られる可能性を織り込んだような言い方。逃げ道はきちんと用意されている。それがわかるからこそ一度深く息を吸う。今度は曖昧にしないために、私は声を整えて、先を続けた。
「ごめんなさい」
『……』
「それは、できません」
『……そうですか』
相手の声が、少しだけ低くなる。その変化を、反射的に耳が拾ってしまう。それでも冷静に私は続けた。
「私にとって、あの日は——まだ整理する時間が必要で」
嘘ではなかった。真実かと言われると困るが、ただ、すべてを説明していないだけだ。それでも『わかりました』と返ってきた、短い返事。それ以上、踏み込んでこないと悟る。その距離感が、逆に心に残った。
『じゃあ……これで』
「はい」
通話が切れる音がやけに大きく響いた。端末を伏せたまま、私はしばらく動けずにいた。登録のない番号だったはずなのに、受話器の向こうからあの日の自分を、引きずり出されたような感覚が残っている。逃げたかったわけじゃない。ただ、選べなかった。その事実だけが重さを持って胸に沈む。
数日前、駅前で、ホークスの手を握ったときの感触が、なぜか遅れて蘇る。温度も重さも、あの数秒の沈黙も。あれは、何も約束しない代わりに今を繋ぎ止めるための手だった。私はゆっくりと息を吐き、もう一度スマートフォンを手に持つ。同じ夜を繰り返さないために。その決意だけが、かろうじて私を今日に立たせていた。通話履歴の画面を閉じた、その直後だった。まるでこちらの呼吸を測っていたみたいにスマートフォンがもう一度、静かに震える。画面に浮かんだ名前を見た瞬間、心臓が一段、強く鳴った。
——ホークス。タイミングが、あまりにも出来すぎている。さっきまで、あのホテルの朝に引き戻されていた指先が今度は別の夜を思い出そうとしている。出るまでにほんの数秒かかった。その数秒のあいだに、私は自分が、何を恐れて、何を選ぼうとしているのかを、まだ、言葉にできずにいた。
「……はい」
『あ、お疲れさまでーす』
聞き慣れた声だった。けれど、いつもよりわずかに張りがなくて、慎重に形を選んでいるような硬さが混じっている。
「……お疲れさま」
『今、時間大丈夫ですか』
「うん、少しなら」
短く答えながら、私は椅子に深く腰を掛けた。背もたれに体重を預けると、張りつめていた肩の力が少しだけ抜ける。視線は自然と床に落ちて、さっきまで通話していた、知らない番号の余韻を足元に押しやるような仕草になる。
『仕事中でした?』
「うん、でも大丈夫だよ」
『そっか……あの。今日か、近いうちに——』
「……」
『……ご飯、行けませんか』
ほんの少し言葉を選ぶための沈黙が挟まった。電話越しでもはっきり伝わるほど彼の声は真面目で、久しぶりに聞く、慎重すぎるくらいの誘い方だった。もう普通に戻れたつもりでいたからこそその一言は音もなく、胸の奥に引っかかったまま残ってしまったのかもしれない。
「……どうしたの、急に。改まって」
問いかけると、電話の向こうで小さく息を吸う音がした。
『たまたまです』
「たまたま、ね」
『はい』
返事は早い。でも軽さはない。なぜか胸の奥がきゅっと縮む。
『前回、名前さんが誘ってくれたんで次は俺からかなって思って』
「……」
『たまには、俺からでもいいかなって』
「……いや、ほら。目良さんと来た日」
『あー......誘いましたね、そういえば。でもいいじゃないですか、別に。何回誘っても』
その言い方があまりにも彼らしくて私は思わず目を伏せた。さっきまで、知らない番号に過去を揺さぶられていたことも。駅前で手を握った夜の続きをまだ胸の奥にしまったままだという事も。私のすべての気持ちを、もちろん彼は知らない。それでもこうして、電話をかけてきてくれた。
「……いつにする?」
自分の声が、思っていたより落ち着いていて、少しだけ意外だった。
『んー。今日が無理なら、別の日でも』
「今日でもいいよ、仕事終わりで」
言ってから、ほんの少しだけ、間が置かれる。『大丈夫です』と、返ってきた返事には、迷いがなかった。
『じゃあ今日は......一年前に行った、あの店で』
「うん」
確かめなくてもわかった。そこは逃げ道のある店で、騒がしすぎず静かすぎず、向かい合わなくても過ごせる席があって沈黙が気まずくならない場所。通話を続けながら、私はその店の照明や、テーブルの間隔を思い浮かべていた。彼が、何を話そうとしているのか。あるいは、何も話さずにただ、同じ時間を過ごしたいだけなのか。そんなことを考えていると不意に、彼が言う。
『無理、してないですよね』
「……してない」
言葉を置く位置を探すように、ほんの少しだけ間をつくる。
「たぶんね」
『了解です』
その返事には、探る色も、踏み込む気配もなかった。確認して受け取ってそれ以上は触れない。ただそれだけの態度が、救いでもあり、逆に胸にずっと残ってしまう。
『じゃあ、後で』
「うん、後でね」
通話が切れる。私はスマートフォンを膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。画面は暗いのに、耳の奥だけが、まだ彼の声を覚えている。
知らない番号からの電話と知りすぎている名前からの誘い。その、二つに挟まれて、今日という一日は、どこか輪郭の定まらない形をしていた。落ち着かないのに、逃げたいほどでもない。その中間に、ずっと立たされている感じがする。それでも——彼の方から差し出された��ご飯�≠ニいう選択肢は、答えを迫るものでも、避難先でもなかった。ただ今を並んで過ごすための、静かな提案だった。
私はゆっくりと立ち上がる。過去は、まだ整理できていない。引き出しを開ければ触れたくないものがそのまま残っている。でも、今夜だけは、彼の隣に、もう一度、座ってみようと思った。
仕事を終えて駅へ向かう足取りは、普段よりも慎重だった。速くも遅くもならないように無意識に歩幅を揃えている自分に気づいて少しだけ苦笑する。急ぎたいわけでも引き延ばしたいわけでもない。ただ今の気持ちに合う速度が、それくらいだっただけの話。
さっきまでの電話の余韻がまだ胸の奥で温度を保ったままだ。店に着くと、ホークスは、すでに来ていた。壁際の席。向かい合わず隣り合わせで斜めに、視線が流れる配置。以前、私が見つけた場所だ。正面から感情をぶつけなくて済む距離と沈黙を共有できる近さ。その両方を許してくれる席に、彼は迷いなく座っていた。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
それだけのやり取りで、張りつめていた空気がわずかにほどける。乾杯はしない。水を頼んで、メニューを開き、決まりきった日常の手順をなぞる。その一連の動きが、妙にありがたかった。
彼はこちらをじっと見ない。必要以上に視線を重ねない。その距離の取り方が気遣いだとわかるから、余計に胸の奥が静かになる。注文を終えたあと、彼が言葉を選ぶように口を開く。
「今日は……誘って、すみません」
「なんで謝るの」
「急だったので」
「いいよ。むしろ、久しぶりだなって思った」
「ん? 久しぶりって?」
「いや、こっちの話。気にしないで」
彼が小さく笑う。その笑いは軽やかだけれど、浮ついてはいない。料理が運ばれて、しばらくは他愛のない話が続く。現場での小さなトラブル、端末の不具合、最近増えた仕事の段取り。私は、聞き役に回り、相槌を打つ。彼はいつもの調子を崩さないまま話しているけれど、どこかで言葉を選んでいるのがわかる。踏み込みすぎないように慎重に線を引いている。そして、ふと、彼が箸を置いた。
「なんか、ありました?」
「え?」
「……仕事中に、俺以外から電話とか、来ませんでした?」
途端に胸の奥が、きゅっと縮んだ。隠していたはずのものに突然、指先が触れられた気がした。
「……なんで」
「勘、です」
それ以上は言わない。その潔さに、少しだけ、救われる。私は短く迷ってから、小さく頷いた。
「知らない番号からだよ。間違い電話」
「……そうですか」
短い返事。深追いはしない。彼は水を一口飲み視線を落とす。その横顔を目の端に映しながら、私は思う。彼は聞かなかったのではなく聞かないことを選んだのだ、と。
「無理に、聞かないです」
「……」
「しつこか男には、なりたくないんで」
その一言が思っていたよりも胸の奥に沈んだ。「ありがと」と、軽く返したつもりだったのに、彼の言葉の余韻が水面に落ちた石のように静かに広がっていく。
「でも——今日は、誘いました」
彼は逃げ道を残さない声でそう言った。責めるでも促すでもない。ただ事実を置くような言い方だった。
「話すかどうかは、名前さんが決めていいです」
「……」
「ただ、一人で抱えなくていい、ってことだけ」
箸を持たない手が、わずかにこちらへ向いた。視線も今度は逸らさない。胸の奥で固く結ばれていた何かが音もなく緩んだ。さっきまで、過去の出来事に引き戻されていた意識が、少しずつ現在へと戻ってくる。テーブルの上の料理の湯気や、グラスの縁に残る水滴が、急に現実味を帯びる。私は言葉を探しながら、視線を落とした。
「……まだ、全部は話せない」
「はい」
「でも……今日は、ここに来た」
それ以上を足す余力は、なかった。逃げでも、強がりでもなく、それが、今の限界だったから。彼はその答えを測るような間を置いてから、深く頷いた。
「それで、十分です」
料理は変わらず温かい。照明の色も店内のざわめきも、いつもと同じはずなのに今日は少しだけ違って感じられた。私が差し出した時間ではなく彼のほうから静かに手を伸ばしてくれた夜。その事実が、胸の奥に残る。
気づけば、会計はもう済まされていた。文句を言おうとして、喉元で止める。今夜は、そういうやり取りをするための時間じゃない。店を出ると夜風が頬に触れた。昼間の熱をすっかり手放した空気が、頭の中まで冷やしてくれるようで、私は小さく息を吐いた。
「……送らなくていいよ」
「ダメです。今日は、送ります」
「理由は?」
少しだけ意地の悪い聞き方をすると、彼は足を止めることもなくほんの一瞬考えてから答えた。
「誘った側なので」
「ありがと。でも、大丈夫」
「じゃあ、駅まで。これ以上は受け付けません」
理屈としてはどこか強引だ。けれどその理屈の粗さが、今夜は不思議と心地よかった。
夜の街の喧騒から少し外れた駅前へ向かう道。酔い覚ましに、と彼がコンビニで買ってくれた、小さな缶コーヒーを手に私達は肩を並べて歩いていた。街灯の明かりが足元に、長い影を落とす。歩調は揃っているのに、互いに歩幅を測り合っているような、妙な慎重さがあった。
「今日、来てくれて嬉しかったです」
不意にそう言われて、私はほんの少しだけ歩く速度を落とした。
「……私も、誘ってもらえてよかったよ」
缶を持つ指先がじんわりと冷えている。駅前の街路樹は、冬の名残を抱えたまま、細かく揺れていた。春はもうすぐそこまで来ているはずなのに夜の空気はまだ、肌に冷たさを残している。
信号が青に変わる。並んで横断歩道を渡った、その途中で、肩と肩がふと触れた。彼はすぐに、気づいたように身を引く。ほんの数センチの距離なのに、その動きがやけに印象に残った。
「もうちょっとだけ......一緒にいたいなって思っちゃうの、ダメですかね」
歩きながら零れたその言葉に、私は、すぐには答えられなかった。
「最近改めて、話せる時間がすごく大事だなって思ってて……。いや、変な意味じゃなくて」
そう言って笑う声に、照れが混じっているのが分かる。そのせいで、胸の内側が、また音もなくきゅっと縮んだ。
「名前さんと、ちゃんと目を見て話す時間、俺にとっては、すごく大切で」
その先を聞くのが少し怖くて、私は小さく息を吸った。駅の入り口がもう目の前にある。ここで別れなければならない、本来は——。
「……ありがとう。気にかけてくれて」
少し無言のまま歩いて、ようやく、それだけを返した。今の私には、それが精いっぱいだった。それ以上の言葉を差し出せなかった。彼は歩調を緩めて、私が駅の階段に差しかかるところで立ち止まる。
「……あの。」
呼び止められて振り向くと彼は少しだけ背筋を伸ばしていた。自分を奮い立たせるようなそんな気配をまとって。
「やっぱりちゃんと、仲直りが、したくて……」
「……しなかったっけ。このあいだ」
「してません、全然。足りない、本当に。ごめんなさい……」
言葉はまるで整っていない。支離滅裂だ。ただ取り繕おうとしていないことだけは、はっきりとわかる。たぶん彼は、今感じている順番のままに口にしている。仲直りもできていないし何もかもが足りない。そのうえで、どうしても謝りたい。その衝動だけが、言葉になりきれずに零れているのだと思った。
「あのときとは、違うって思ってもらえるようにちゃんと努力します」
「……」
「だから、これからも今までみたいに……また、話したり、ご飯行ったりしてもいいですか」
声はいつになく真剣だった。並んで歩いた道を思い返しながら私は思う。過去は、まだ片づいていない。けれど今日のこの数時間は、確かに今の時間だった。
風が吹く。ビルの隙間を抜けた夜風が私の髪を揺らし、彼の羽根をかすかに鳴らした。私は頷かなかった。でも拒む言葉も口にしなかった。彼は何も言わずに私をじっと見つめている。いつもは軽やかなその視線が、今夜は少しだけ重く、深いところに触れようとしていた。
「……また、誘いますね」
そう言って、彼は小さく笑った。柔らかくて、けれど、ほんの少しだけ、寂しさを含んだような笑顔だった。私は何も返せないまま背を向け駅の階段をのぼる。背後で彼がまだそこに立っている気配が、やけに長く残っていた。振り返らなかった。振り返ってしまえば今夜を終わらせられなくなる気がしたから。
改札階の明かりが見えてくる。今夜は手を求めない。ただ隣を歩いただけ。それだけで胸の奥に静かな余白が生まれていたのが、不思議だった。
気持ちはずっと、ぐちゃぐちゃだ。改札を抜け人の流れに紛れながら、私はようやくそれを自覚する。悲しいのかほっとしているのか恥ずかしいのかそれとも救われた気がしているのか。きっとどれも当てはまるのに、どれ一つとして決定打にならない。輪郭を持たない感情が胸の内側で幾重にも重なり合い、整理されるのを拒んでいる。
知らない番号からの電話。思い出したくなかった朝。彼からの食事の誘い。向かい合わず並んで過ごした席。「一人で抱えなくていい」という、あまりにも静かな言葉。その全部が、同じ一日の出来事だとは思えなかった。
歩きながら、鞄の中のスマートフォンに指先で触れる。画面は暗いままだ。新しい通知はない。それが、なぜか少しだけ寂しくて同時に助かった気もした。これ以上、何かを受け取る余裕は今の私にはない。ちゃんとしたい。でも、どうすればいいのかわからない。誰かに選ばれたい気持ちも誰にも触れられたくない衝動も、優しくされると逃げたくなる癖も。それでも、完全に一人になるのは怖いという本音も。どれも嘘じゃないのに、同時に抱えるには、私は少し、疲れすぎている。
彼の顔が、ふと、浮かぶ。不機嫌そうに見える横顔も誤解を解こうとして必死だった声も駅前で黙って手を握ってくれた温度も。今日、何も問い詰めずに誘ってきた、その距離感も。彼は、何も奪わない。けれど、何の約束もしない。その在り方が今の私には救いであり、同時に、逃げ場でもあるように思えて、胸の奥がきしんだ。
部屋に着いて、灯りをつけないまま靴を脱ぐ。コートを脱ぐ気力もなく、壁に背中を預けて座り込んだ。静かだ。あまりにも、音がない。
「……ぐちゃぐちゃ」
小さく呟いた声は行き場を失って部屋に溶けていく。泣きたいわけじゃない。誰かに、縋りたいわけでもない。ただ、自分が今どこに立っているのか、それがわからない。それでも、ひとつだけ確かなことがある。今日、彼は誘ってきた。私が壊れているかもしれない、そのタイミングで。
��ただの食事�≠ニいういちばん壊れにくい形で。その事実だけが胸の奥で静かに灯り続けている。
気持ちは、まだぐちゃぐちゃだ。でも、全部が闇になったわけじゃない。私は、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。今夜は答えを出さなくていい。ぐちゃぐちゃなままで、生きていてもいい。そう思える余白だけが、かろうじて残っていた。
その夜。お風呂上がりにスマートフォンを手に取ると、ひとつのメッセージが届いていた。

今日の夜風ちょっとだけ
春っぽかったですね
��なんでもないメッセージ�≠ヘ、いつも通りの顔をして、届いていた。その文章だけが、今日も画面の中で、静かに瞬いている。