カトラリーの触れ合う音が硝子のように澄んで響く夜だった。
 通りを少しだけ外れた灯りのやわらかな小さなビストロ。私と同僚の彼女は珍しく二人で向かい合って、席に着いていた。

「外食なんて、ほんと久しぶり〜。二人で来るのなんて、何ヶ月ぶりだっけ?」

 グラスの縁を指でくるくると撫でながら彼女がそう呟く。夜風にふわりと髪が揺れてその様子がやけに楽しげに映った。

「ほんとだね。……ずいぶん、久しぶりかも」

 返しながら、私は少しだけグラスの中身を見つめる。あたたかな灯りがテーブルに広がり心なしか、視界がやわらかくなる。

「新しい刺激って必要なのよ。セロトニン、出さなきゃ。ほら、幸せホルモンってやつ」

 彼女はいたずらっぽく言いながら、もう一口を楽しそうに飲み込んだ。

「……幸せホルモン、私にも少し分けてほしい」

 冗談半分の弱音にも似た私のひと言に、彼女は大げさなほど目を見開いた。

「だーめ。分けるくらいなら、あんたがそのヒーロー誘いなさいってば」
「えっ……?」

 思わず顔を上げる。彼女は、さも当然のように続けた。

「顔に痣のある、あの、空飛ぶヒーロー。ほら、あれだけ話したんだから、誘えばいいのに」
「無理でしょ。彼、まだ二十歳そこそこでしょ?若すぎるし……」
「なぁ〜に言ってんの!あんたこそ熱々のスパイシードリンクみたいなもんなんだから!」
「……はぁ?」
「火傷してでも飲み干したいぜ〜!っていうマッチョなヒーロー、絶対いるって」
「例え、雑すぎるでしょ……意味不明だし。」

 私は思わずため息をもらしたが、彼女は涼しい顔で頬杖をつきながら肘で私の腕をつついてくる。

「ほれほれ。今しかないって」
「なにが」
「電話、しちゃいなよ」
「……もう。ほんっと、お節介」

 口ではそう言いつつも、彼女の笑顔が少しだけ私の心に火を灯す。

「だって好きでしょ〜?おせっかいもマッチョなヒーローも♡」

 グラスの氷が、小さく音を立てて揺れた。私は否定しなかった。心のどこかで、また、自分から彼に声をかける日が来ると知っていたのかもしれない。だから、もうほとんど、迷いはなかった。
 私はそっと席を立ち、ひとつ深呼吸をしてからバッグの中を探る。お店の外でかけよう──そう思って一歩踏み出そうとした、そのときだった。

「ちょっと待って!ここでかけなさいってば!」

 慌てて声をかけてきた彼女に、私は思わず振り返って言い返す。

「やだよ、絶対。どうせ横でニヤニヤしたいだけでしょ」
「やだぁ、バレちゃった?へへっ。だって友達の幸せになる報告は目の前で聞きたいじゃない?」

 そう言って彼女はグラスを片手に笑顔で軽く、ひらひらと手を振ってみせた。

「はいはい、行ってらっしゃい。声、ちゃんと届くといいね」

 私は苦笑して小さく頷いた。そして扉を押し、夜風のなかへ歩き出す。胸の奥でまだ名も知らぬ感情が、確かに、待っている気がしていた。
 空は高く雲の隙間から月が覗いている。夜気は肌を撫でるほどに優しく、けれど鼓動だけは落ち着いてはくれなかった。ふと、スマートフォンの画面を見つめる。そこに保存された彼の番号は、記号に過ぎないのにどこか熱を帯びているように思えた。ゆっくりと指を滑らせて、発信ボタンを押す。胸の奥で小さな鐘の音がひとつ鳴った気がした。
 ──コール音ひとつ。まるで水面に落ちた雫のように静かな余韻が夜に広がっていく。二つめ。小さく手のひらが汗ばんでくる。誰かに見られているわけでもないのに、少しだけ背筋が伸びる。そして、三度目の呼び出し音が終わる、ほんの、刹那前……。

『──はい』

 声が出た瞬間、心臓が一度小さく跳ねた。電話越しに届くその音色は、いつだって不意打ちだ。

『あれ、こちらホークスでーす……もしもーし?』

 あの、肩の力の抜けた声。それが、耳に届いただけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。空の向こうにいたはずのその人が確かに自分と繋がっているという実感。それだけで全身がほんの少し軽くなった気がした。

「あ……もしもし、ホークス? オペレーターの、あの私……この間、電話で話した、覚えてる?」

 なんとも要領を得ない名乗り方にわずかに頬が熱くなる。けれど、彼はすぐに返してくれた。

『ええ、もちろん。クールな声で凄腕のオペレーターさんね』

 わずかに沈黙が落ちる。けれど、その隙間も、電話越しだと、妙に相手を近くに感じられた。

『ちゃんと宣言したとおり、登録してますよ──名字名前さん』
「え……? どうして、わたしの……名前、」

 電話の向こう側で、わざとらしく肩をすくめるような声が聞こえた。

『さあ、どうしてでしょう』

 空気が少しだけ張り詰める。けれどそれは不快な感じではなく、むしろ胸の奥をくすぐるような不思議な静けさだった。

『僭越ながら、調べさせてもらいました。でも、顔やスリーサイズまでは、わからなかったです』

 少し呆れて、けれどなぜか笑ってしまいそうになったけれど、そういう軽さがこの人の本質なのだと、私はもう知っている。

『今日は、どうしたんです?』
「いや、とくに用事は……ねえ、調子は?」
『うん、悪くないですよ。あ、でもひとつだけ、聞いてもいいですか?』
「……? どうぞ?」

 ほんの少しだけ緊張が戻る。そして間があったあとに彼が、唐突に聞いてきた。

『オペレーターさんって、何歳?』
「え?やだ……どうしよう、なんで?」
『いや、いつも電話だから。今どきそんな人なかなかいないスよ?普通はメッセージとか、アプリでさ──』
「……」
『それに大事な話ならビデオ通話とか、そういう時代でしょ?』

 彼の言葉には、揶揄いの色よりも素朴な疑問のようなものが含まれていた。

「……そう、だよね。ごめんなさい。いつも声で仕事してるから誰かと話すときも電話が一番落ち着くっていうか……」

 確かに言われてみれば自分でも、古くさいとは思っている。けれど、やっぱり��声�≠ェいちばん信頼できる気がするから。

『あ、ううん。謝らないで。俺はけっこう、好きですよ?なんか、レトロでいい』
「そう……それならもうひとつ。ちょっとレトロついでに、聞いてもいい?」

 言葉を整える間も惜しくて、私は息を吸った。

『え?……なんだろ、どーぞ?』
「私たち──会って話さない?レトロなお酒でも飲みながら」

 吐き出すように言ったあと、風が一瞬、通話のすき間を撫でていった。指先が、かすかに震えていた。しばしの沈黙が落ちる。

『……あ、それってもしかして俺ら世代の言い方でいうところの��デート�≠チて、やつです?』
「そ、そう!つまり、私……あなたを、デートに誘ってるの」

 電話の向こうから、小さな笑い声がこぼれた。それは嬉しそうでいてどこか、困っているような響きだった。

『わぁ〜……楽しそうですねぇー。あなたはすごく頭の回転も早いし、会話も面白いし、それに……声だけで誰かの命を繋げる、すごい人だ』
「……」
『だけど最近、気づいちゃったんですよねー、俺。』
「なにを?」
『俺さ女性と親しくなると絶対ヤっちゃうって。一線、越えちゃう。……つまり、デートしたら、たぶん、キスどころか──』
「……なにそれ、私が簡単に寝る女ってこと?」

 ほんの少しだけ声に、棘が混じってしまった。けれどそれは怒りというよりも戸惑いの裏返しのようなものだった。

『いや、ちがう!ちがうちがう! そういう意味じゃなくて……完全に、俺の問題。ごめんなさい、冗談に、ならなかったス、ね……』

 電話越しの彼の声が少しうろたえていた。その誠実な狼狽が、却って彼の真面目さを際立たせている。やがてその声がひとつ、深く息を吸い込む音とともに、真っ直ぐに整えられた。

『デートしたくないのは、あなたが、大切だからです』
「……」
『あなたのこと、失いたくない。まだ何度かしか話してないのに……なんかこう、安心するし』
「……」
『あなたと話してると、人生に、ちゃんと興味が湧くっていうか……あなたは、特別なんですよ』

 その言葉はどこかぎこちなくて、それでも真実だけを選んで並べようとする、彼の姿勢が滲んでいた。

『バカなことして、壊したくない。だから今は、声だけで……電話で、話すだけにしたい』

 私はすこし黙ってから、そっと微笑んだ。頬にかかる夜風が、やけに優しい。

「……いいんじゃない?」
『……よかった』
「じゃあまた、近いうちに。──じゃあね、ホークス」
『うん、また。クールな声のオペレーターさん』

 そうして通話が切れた。私はしばらくスマホを耳に当てたままそこに残る彼の余韻を名残惜しく聴いていた。その声の熱がまだ胸の奥にやさしく灯っていた。
 再び店のドアを開けて中へ戻ると、さっきまで私を急かしていた彼女が、さっそく、顔をのぞき込んできた。

「ノーよ」

 私は、彼女が何か言う前に、先んじて言った。

「え? なのに……笑ってるの?」

 私は、小さく笑った。けれど彼女はまだ納得がいかないといった面持ちで、じろじろと私の顔を覗き込んでくる。

「だって自分からトップヒーローを誘っちゃったんだよ?それに──」
「それに?」
「心のこもったノーは無責任なイエスよりずっといい」
「……なにそれ、名言。」

 私は、グラスの氷がカラリと鳴る音に耳を傾けながら、ふと窓の外の夜空を見上げた。もちろん彼の羽根は見えなかったけれど彼の声だけはまだしっかりと私の鼓膜に静かに優しく響いていた。


 *


 窓を開けたら少し冷たい風が吹き込んできた。季節の移ろいは、飛んでいるときよりもこうして地に足をつけたときのほうがよくわかる。
 部屋の中は暗いまま。明かりをつける気になれなくて、いつものように羽根をひとつカーテンの隙間へ差し入れると、薄明かりの街がしんと広がった。


『あ……もしもし、ホークス? オペレーターの、あの私……この間、電話で話した、覚えてる?』


 声を聞いた瞬間、胸の奥の何かが、ふっとほどけるのを感じた。緊張だったのか渇きだったのかよくわからない。ただ、救助現場でさえ感じない種類の動揺が、じんわりと胸の中を巡っていた。
 たぶん、怖かったんだと思う。誰かにちゃんと届いてしまうことが。強がりも、笑いも、皮肉も全部まるごと見透かされて、それでも、隣に立たれてしまうことが。


 『──本当は、苦しいんじゃないか、って』


 あの人は俺の声だけで、それを言ってのけた。優しさとか励ましとか、そういう言葉よりずっと強くて──でも、刺さらない。あったかいのに、鋭い。俺の剛翼より、ずっとずっと、すごい。


『私たち──会って話さない?レトロなお酒でも飲みながら』


 その提案に、俺は一瞬──本気で心が揺れた。「会いたい」って思ってしまった。顔も素性も、まだちゃんとは知らない相手にそんなふうに思うなんて予想してなかった。だけど、俺は断った。ごまかすように笑ってくだらないことを言った。最低だなって自分でも思った。でも、いつも適当なことしか言ってこなかったから、こんなときに限ってそれが裏目に出る。本当はただ、壊したくなかっただけなんだ。「大切だ」って「あなたは特別だ」って言ってしまったのは言わずにはいられなかったから。あの人と話していると俺は少しだけ��人間�≠ノ戻れる気がする。ヒーローでも、公安の兵器でもない、ただのひとりの、人間に。その時間がたぶん今の俺にとっては唯一の、救いなんだ。


 『……いいんじゃない?』


 彼女の言葉にどれだけ救われたか。肯定でも、拒絶でもない、俺の存在を、まるごと包むような肯き方だった。俺はまだちゃんと誰かに受け入れられる余地があるのかもしれないって、初めて、そう思えた。
 夜風がまた、ひとひらの羽根を揺らす。ビルの灯が遠く、静かに瞬く。いつか──彼女の声じゃなくて、彼女の眼差しを、真正面から受け止められるようになったら。そのときは俺から言いたい言葉がある。

��ありがとう。
 あなたの声は、ちゃんと俺を救ったんです��

 ──って。
 でも今はまだこの距離がいい。この夜の片翼でそっと彼女を思いながらもう少しだけ、空に身を委ねていたい。


 *


 着信音が鳴ったのは、本当に不意打ちだった。眠る前にベッドサイドのランプを消しかけていたそのとき、スマホの画面に浮かんだ名前に心臓が小さく、音を立てた。──ホークス。着信画面の向こうにいつも、心を震わせる声がある。
 私はほんの少し呼吸を整えてから通話ボタンにそっと指を置いた。

「……もしもし?」
『あ。あー……その、俺です。ホークスです』
「……うん、わかってます」

 思わず、笑ってしまいそうになった。いつもはあんなに堂々と話す人なのに、今の彼は、まるで新人ヒーローの記者会見のような声だったから。

『あの、突然ごめんなさい。今……平気です?』
「うん、大丈夫。どうかしたの?」
『……いや、あの。その……えっと……うーん』

 回線の向こうで彼が言葉を探しているのがわかった。いつもの冗談も軽口もなく、ほんのすこし居心地の悪そうな気配。

「……ホークス?」

 問いかけた私の声に、少しだけ間が空いた。

『いや──俺、電話とか苦手じゃないんですよ。仕事柄、よく話すし。でも今日はちょっと、なに話そうかって、迷ってるっていうか』

 彼にしては珍しく、語尾がまとまらず少し心が乱れて、揺れているように聞こえた。

「どうして?」

 そう、わざと何気なく問い返すと『うわ、イジワル……』と、子供みたいなトーンで、拗ねた声が返ってくる。そのやりとりが、なぜかくすぐったくて、私は思わず、ふふっと笑ってしまった。

『……かけたいって、思っただけなんです。でも、いざそういう気持ちでかけると、なんか、うまくいかないなって……変です?俺』

 そう言った後の沈黙に、ほんの一瞬、息を呑む気配が混じった。

「……ううん、変じゃない」

 わたしは、小さく笑ってから、静かに言った。

「きっとあなたがヒーローじゃない声を出そうとしてるからじゃない?」
『え……』

 不意を突かれたような間。彼の心が、静かに、波打つのが、受話口越しに感じられた。

「いままで誰にも出さなかった声で話そうとしてるから。だから、ぎこちなくなるんじゃない?」

 その瞬間、通話の向こうから小さな沈黙が降りた。でもそれは詰まったのではなく、多分ほんのすこし呼吸を整えるための、肯きのような沈黙。

『……あなたはやっぱり、すごいっスね。なんで、そんなにわかるんだろ』
「……職業柄、かなぁ」

 笑い合う声がふいに重なった。やっといつものふたりに戻った気がした。

『──じゃあ、次にかけるときは、もうちょっとちゃんと俺っぽく話せるように頑張ってみます』
「……うん。その��俺っぽく�=c…待ってる」

 電話はまだ続けようと思えば続けられた。でも彼は『じゃあ、また』と言ったあとそっと通話を切った。だけど、これ以上話していたらこちらが何かこぼれてしまいそうだったから逆によかったかもしれない。
 私はスマホをそっと置いたあと、ひとつ深く、呼吸をして思った。彼は私との距離感に、迷っている。でも向こうからかけてくれたという、その一歩だけで私はもう胸がいっぱいだった。それは羽ばたく音ではなかったけれど確かに、彼が私に向かって動いた��音�≠セったから。


 *


 その夜、どうにも眠れなかったのは単に気温のせいではなかった気がする。窓の外で街が静かに息をひそめるように沈黙するなか、部屋の片隅でスマートフォンの光だけが小さな明かりのように灯っていた。──着信。何の前触れもなく画面に浮かぶ非通知ではない誰かの番号。もはや、驚きよりも心がふっとほどけていくような、そんな、小さな期待と微かな緊張。着信をとるのにいつの間にか、躊躇がなくなっている自分に気づいて、そっと、息を吸った。

「──もし、もし?」
『あっ……こんばんは。……って、あ、もう遅い時間ですよね? すみません、寝てました?』
「ううん、起きてた。なんか眠れなかったから」
『よかった。じゃない、いや、よくはないけど。
なんか、声聞けたら落ち着くかなって思って……あー、これ、俺だけです?』

 その問いに私は静かに微笑んで、そして、ひとことだけ。

「わたしも、似たようなこと考えてた」
『ほんと? じゃあもうそれって運命的な、あれですよね?』

 わざと軽口を混ぜてくる彼の声。でもその奥に少しだけ照れたような色が混じっていた。
 通話の内容は特別なものではなかった。天気のこと。夜勤のスケジュール。今日の、街の空気。だけどその一言一言がまるで彼の背にある羽根のように、静かに、胸に降り積もっていくような、そんな、会話だった。そんな中、ふいに彼の声が少しだけトーンを落とした。

『……さっき、羽根のメンテをしてたんですよ。で、思ったんです』
「ん、なにを?」
『名前って、不思議だなって。誰にも知られたくないときもあるのに、誰かにだけは呼んでほしいって思うことがある』
「……」
『俺、��ホークス�≠チて呼ばれるの別に嫌いじゃないんですよ」
「うん……?」
『でも、もし。あなたが俺の本当の名前を呼んでくれらたぶん俺、さらにもうちょっとだけ人間に戻れる気がするんです』

 彼の本名は非公開のはず──。今、彼はそれを私に差し出そうとしている。それがどういう意味を持つのか、言葉にはできないけれど、軽々しく受け取ってはいけない気がした。受け取ってしまったら、本当にもう、戻れなくなる気がして。

『俺の名前、ほんとうは──』
「……」
『鷹見、啓悟って言うんです』
「……」
『ずいぶんと昔に、もう、捨てた名前です』

 ──静寂。彼の言葉のなかに、ごく自然に埋め込まれていたその名前が胸の奥に沈み込み静かに波紋を描いて、ゆっくりと反響した。

「たかみ……けいご、さん」

 そう呟いた声は、自分でも驚くほど小さくて、そして、震えていた。

『……やば。ほんとに言ってくれた』
「え、なんで。ダメ、だった……?」
『ううん、うれしかったですよ。俺、今ちょっと
……照れてます、ははっ。』

 その言い方があまりにも真っ直ぐで、なんだか可愛らしくて、私は思わず笑ってしまった。思い返してみれば、こんなふうに素直に笑えたのは、いったい、いつぶりだっただろう。

『名前さん』
「は、はいっ」
『……明日の夜も、かけていいです?』

 その問いは、ごく素直で、ごく人間らしくて、彼が��ヒーローホークス�≠ナはなくただの��鷹見啓悟�≠ニして、こちら側の世界に歩み寄ってきてくれた、合図のようにも感じられた。

「うん。むしろ私からかけちゃうかもしれない」
『えっ、そしたら、ちょっと嬉しすぎて寝れなくなるかもしれないスよ?俺。』
「それは困る。だったら、おやすみって言い合うだけにしよっか」
『わぁ──それ、すごくいい。』

 こうしてその夜を境に私たちは眠る前のほんの数分間に、声だけの習慣を始めることになった。名前を交わし、日常をひとつ分け合って、今日の終わりに「おやすみ」と言える誰かがいる。それだけで、世界が少しだけやさしくなる気がした。


 *


『──でさぁ、そんときジーニストさん、なんて言ったと思いますぅ?』
「さあ、なんて言ったの?」
『想いはあるうちに紡いでいくべきだ、だって』
「ふうん……それ、声マネ?」
『あ、わかりました?』
「似てたよ、だいぶ」
『んで、チームアップで一緒だったファットさんなんて、マジで俺の肩叩いたんすよー。脅しかと思った』

 くぐもった笑い声が受話口の向こうから響く。私は目を閉じたまま、布団の中でその声を聞いていた。ランプの明かりは、すでに落としていて、部屋は眠る準備を整えている。けれど、私の中の��夜�≠ヘ、まだ今日も、終わらない。

「��紡ぐ想い�≠チて……誰に対しての?」
『……さあ、だれでしょうねぇー』
「……そういうところ」
『ん?』
「そういうところが、こすいって言ってるの」

 羽音のように静かな沈黙が通話越しに流れた。でもそれはたぶん、彼がなにかをこらえるようにしているときの沈黙だった。私は、うっかり口に出してしまった言葉の重さに気づいてほんの少しだけ心を閉じそうになった。けれど、その向こうから届いたのはため息ではなく、そっと、笑う声だった。

『……そっかぁー。こすかったですかー』
「うん。すごくこすい。ホークスってヒーローのときは、まっすぐなのに」
『でも……まっすぐ行くと──、壊しそうになるときって、あるでしょ?』

 その声音は、やけに深く聞こえた。軽口の下に隠されたほんとうの彼の輪郭がふっと滲んだ気がした。

『ねえ、名前さん』
「は、はい……」
『壊れるかもしれないなら、やめたほうがいいと思います?』
「……」
『……ねえ、聞いてます?』
「それでも──それでも触れたいなら、やめないほうが、いいんじゃない、かな」

 自分でもなぜそんなふうに答えたのかわからなかった。けれど、その一言がたしかに今のわたしから出た言葉だったことだけは、真実だった。

『……名前さんって時々、心に刺さること言いますよねー』
「それ、褒めてる?」
『めっちゃ褒めてます。んで、おなじくらい照れてます。でも、たぶんそれ以上に……惚れてます』
「……」
『あはは、なんちゃって〜』

 あきらかに冗談めかしていた。でもその言葉の一文字一文字に少しだけ熱があった。その『惚れてます』がどこまで本気で、どこまで私を試していて、どこまで言ってしまったあとを怖れていたのか、私にはわかってしまう気がした。だから、私は答えなかった。ただ「おやすみ」と言おうとした。でも、その一言を言う前に、彼の声がもう一度、私のもとへ届いた。

『……こうやって毎晩話してると、つい触れたくなる。声じゃなくてほんとにいるんだって確かめたくなる』
「……」
『そういうの、名前さんは、ないです?』

 心が、どこか遠くを叩いた。声が近すぎる夜。声じゃなくて、触れたくなる。そんな、夜──。

「……あるよ」

 その一言がまるで囁きのように口から零れた。

『そっか。……よかった』

 受話器の向こうで彼が深く息を吐いたのがわかった。

『……今日は、寝れなさそうだなぁ。俺』
「わたしも」
『でも、おやすみは、言っとく。ちゃんと、習慣ですから』
「……うん。おやすみ、ホークス」
『……おやすみなさい、オペレーター(・・・・・・)さん』

 通話が切れたあと、私はベッドのなかでそっと両腕を抱きしめた。声が、近すぎる。まるですぐ耳元で囁かれたように、温度さえ残っている気がする。触れられない距離のまま、それでも確かにそこにいるという現実だけが静かに胸を満たしていく。
 その存在の輪郭が夜の静寂を埋めるように残りつづけて──眠りは、今夜も、私から遠ざかっていった。


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