約束の日——。私とホークスは都心の裏通りにひっそりと息を潜めるように建つ喫茶店にいた。大通りから一本外れただけなのに、車の音も人の気配も薄れ、まるで、街の鼓動から切り離された小さな空白地帯みたいな場所。ここならば誰にも見られない。見つかろうと思わなければ見つからない。そんな距離感がこの日の彼には、ちょうどよかったのだと思う。
 個性の剛翼は、あえてと言わんばかりにボディバッグの中に器用に収められ、肩口に覗く羽根の気配はない。黒いキャップを目深に被り、色味を抑えた私服に身を包んだ彼は知らなければただの少し線の細い青年に見えただろう。今日の彼は、プロヒーローとしての存在感を意識的に削ぎ落としたような姿だった。
 その隣に私がいる。けれど今日は、隣に座っているという感覚よりも、たまたま同じテーブルを囲んでいるだけの第三者という意識の方が強かった。ホークスは珍しく落ち着きがなく、腕時計を何度も確認しては、視線を店の入り口へやたらと向ける。脚を組み替える動作にも、微妙な焦りが滲んでいる。

「ん〜、分からないんすかねー? この店」

 独り言に近い声だった。私に向けてというより目の前の空席と腕時計の針と、まだ開かない扉の向こうに投げたような言葉。
 軽い調子を装っているけれど、声の奥にも落ち着かなさが滲んでいて指先が無意識にテーブルの縁をなぞっているのが目に入る。その仕草がどう見ても��待ち慣れていない人�≠フものだった。

「連絡先知ってるんでしょ?何かあったら、連絡くるんじゃない?」
「まあ、そうですけど……」

 歯切れの悪い返事だ。そのときだった。カランカラン、と木製のドアベルが鳴る。店内の空気がほんの一瞬だけ変わった。入ってきたのは、品の良さそうな女性だった。派手ではないが、丁寧に整えられた化粧。年齢を感じさせない背筋の伸びた立ち姿。視線が合うと彼は、すぐに微笑んで、小さく手を挙げた。ああ、と胸の奥で私は静かに理解する。彼の母親だ。彼女が席に着くなり二人は自然に会話を始めた。本当に驚くほど自然に。

「……久しぶりね」
「ですねー。いやいや元気そうで」

 彼女は標準語で、穏やかに話す。それに応じる彼の口調にはときおり九州訛りが混じっていた。私の前でも、たまに方言は出ていたものの今日はその柔らかなイントネーションが彼の普段の話し方とは微妙に違って聞こえる。
 話題はヒーロー活動のこと。今住んでいる街のこと。食べ物の好き嫌いや、最近、体調を崩していないかなど、そんな取り留めのない話ばかり。それはまるで、昨日まで普通に連絡を取り合っていた親子のようだった。
 私はその様子をただ黙って眺めていた。会話に入る必要も、求められる気配もない。それなのに不思議と胸の奥がざわつく。こんなに普通なんだと、それが少しだけ怖くもあった。

 三人で喫茶店を出て表通りに移動すると、街は人通りが多く距離は自然と近づいていった。私はそんな二人の後ろを、少し離れて歩く。
 人混みの中で、彼の母親が足を取られかける。その瞬間、彼が迷いなく腕を差し出して、母親が彼の腕を掴む。ごく当たり前の親子の仕草。その動きはヒーローのそれではなく、確実に、息子の振る舞い方だった。胸の奥が、きゅっと縮む。
 ブティックに立ち寄り、彼の母親がマフラーを選び始める。ホークスは試着しながら、鏡の中で苦笑いを浮かべていた。

「うげ〜、こげんと子供っぽかろー」
「似合うじゃない」

 あからさまに嫌な顔をする彼。それでも言葉のやり取りは、どこか柔らかく、角がない。これが母親に向ける顔なのだと、私は、遅れて気づく。拒むでもなく、突き放すでもなく、面倒くささを笑いに変えるような甘えを含んだ表情。ときおり彼はこちらを振り返っては「……どうです?」と確認するみたいに首を傾げる。その仕草は、私を安心材料として使っているというより自分の立ち位置を、確かめるための癖のようにも見えた。
 私がそれに対して曖昧に笑ってみせると、彼はほんの少し、肩の力を抜いたように目を細めて、また、母親のほうへと視線を戻す。
 けれど私は少しだけ、疲れていた。ここにいる自分が誰として立っているのか。付き添いなのか第三者なのか、それともただの背景なのか——。その輪郭が、時間とともに薄れていくのを感じていたからだ。
 夕方になって、「このあと、食事でも」という流れが生まれたとき私はごく自然な調子を装って口を開いた。考えてから言葉を選んだというよりそうするのがいちばん穏当だと、身体が先に判断したような感覚だった。

「私は、ここで帰るね」

 場の空気を壊さないように余計な含みを持たせない声で言う。気を利かせたつもりだったし実際これ以上ここに留まる理由も私に割り当てられた役割も、もう見当たらなかった。ここから先は、親子の時間だ。その境界線は、思っていたよりもはっきりしている。

「えぇ、帰るんすか?」

 少しだけ驚いたように彼がこちらを見る。その視線に引き止める力はない。ただ、予定がひとつ書き換わったことを確認するような響きだった。

「うん。せっかくだし二人でゆっくり話しなよ」
「や……でも、」
「もう、大丈夫でしょ?」

 笑ってそう付け足すと彼は何かを言いかけて、けれども、言葉を飲み込んだまま、やがて小さく頷いた。

「名前さん……ありがとうございます」

 その礼は正しくて丁寧で何も間違っていない。それでもその声を受け取った瞬間胸の奥に残った感触はすっきりとしたものではなかった。安堵と置いていかれるような寂しさと安心していいはずだという理性が静かに絡まり合っている。私は、それを表に出さないままで、二人に背を向ける。ここで振り返らないことも、今日の私の役割なのだと思いながら。
 駅へ向かう道すがらも私は振り返らなかった。振り返ってしまえば、何かを取りこぼしてしまいそうだったから。
 この穏やかな再会が、彼にとって何を意味するのか。それを知るのは、まだまだ先でいい。そう自分に言い聞かせながら私は夕暮れの人波に身を隠すように紛れた。


 *


 翌朝。カーテン越しの光が、まだ起ききらない街の輪郭を曖昧にしていた。今日は、ホークスの二十一歳の誕生日だ。
 私はベッドの中で、昨日の別れ際の空気を思い返していた。言葉にすればごく、普通のやり取りだったはずなのに、胸の奥には、説明のつかない余韻だけが残っている。だからこちらから連絡は入れなかった。今日は彼にとって特別な一日だ。母親と過ごすのかもしれないし、そうでなくても誰かに祝われる側の人間だ。約束をしたわけでもない私が先回りして声をかける理由は見当たらなかった。気遣いというよりは立ち位置を誤らないための判断に近い。
 昼前になって部屋の空気がすこしだけ、現実に戻る。そんな中、テーブルに置いていたスマートフォンが控えめに震えた。画面に浮かんだ名前を見て、呼吸がほんの少しだけ遅れてしまった。



ホークス

昨日は
ありがとうございました





 簡潔で彼らしい文面だ。いつもと変わらない。そしてその下に、少し間を置くようにして、次のメッセージが続いている。



ホークス

昨日は
ありがとうございました


ホークス

予定なかったら
夜、ご飯行きません?





 スマホの画面を見つめたまま思わず指が止まった。問いかけの柔らかさとその奥に含まれている期待の温度を私は、読み取ってしまう。そして、さらに、その文字の下——。



ホークス

昨日は
ありがとうございました


ホークス

予定なかったら
夜、ご飯行きません?


ホークス

ちなみに母親も
一緒ですけど (笑)





 その一文で胸の奥がわずかに沈んだ。否定でも拒絶でもないただ重心が少しずれるような感覚。私はすぐに返事を書かず、しばらく画面を伏せたまま考える。そして選んだのは角の立たない言葉たちだった。



名前

誘ってくれてありがとう
私はちょっと用事があって


名前

今年はお母さんと
素敵な誕生日を過ごしてね





 送信ボタンを押してから、スマートフォンを、そっと裏返す。それでいいと自分に言い聞かせるようにして。
 祝う気持ちが、ないわけじゃない。もちろん、お祝いしてあげたい。ただ今年は私が前に出る日じゃない気がして。そう理解することが、大人でいるための、唯一の選択なのだと思った。

 昼過ぎになっても気分は晴れなかった。理由ははっきりしているようで、でも、掴もうとすると指の隙間から抜けていく。家に籠もっているのが妙に息苦しくて、私は、気分転換のつもりで外に出た。年末の空気は冷たく澄んでいて、どこか、せわしない。ショーウィンドウに並ぶ服や靴は、どれも季節の先を急いでいて、すでに新年の光をまとっているみたいだった。まるで私だけが年の終わりに取り残されているみたいで足を止めては眺めまた歩き出す。結局、何も手に取らないまま通りを進む。無意識のうちに小さなため息がこぼれた。駅前の通りは平日の昼間らしい雑多な賑わいに満ちている。年末の買い物袋を抱えた人や、仕事納めを控えた顔つきの人たちが行き交い、街だけが私よりも一足先に、一年を締めくくろうとしているみたいだった。
 行き交う人の波に身を委ねながら歩いていると不意に視界の端に、見覚えのある後ろ姿が引っかかった。まさか、と思う。その感覚が先に立ってすぐには認めたくなかった。それでも、歩き方も肩の線も、昨日、喫茶店で見たその人と重なっていく。ホークスの母親だ。心臓がわずかに鳴る。
 声をかける理由もなければ、かけられる理由も本来はないはずだ。今日は彼の誕生日で、私は、距離を保つと決めた側の人間。それでもなぜか、足が止まってしまった。無意識の内に立ち止まっている自分に気づいて、慌てて、現実に引き戻される。私は踵を返した。今ならば何事もなかったふりでやり過ごせる。そう思った、次の瞬間。

「……名前、さん?」

 背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。反射的に振り向いてしまったことをすぐに後悔した。彼女は私のほうへ小走りで近づいてきて少しだけ息を整えながら言った。

「ごめんなさいね。突然、呼び止めてしまって」

 申し訳なさそうに浮かべた微笑みは昨日と同じどこか気品を残したものだった。私は咄嗟に作り慣れた表情を顔に貼りつける。視線をそっと足元に落としながら、当たり障りのない声を選んだ。

「いえ……気にしないで下さい。どうせ、暇ですから」

 言ってしまってから自分で少しだけ苦笑した。「暇」という言葉は嘘ではないけれど、でも真実でもなかった。ただ今この時間に居場所がなくて行き先も決められないまま街を歩いていただけ。それでもなぜか、この人の前では、その曖昧さを丁寧に折り畳んでしまいたかった。悟られる必要はない。そう思いながら、私は視線を上げた。
 結局、成り行きのまま私たちは近くの喫茶店に入る事になった。向かい合って席につくと先まで通りに紛れていた気まずさが、急に輪郭を持って立ち上がってくる。カップの音や周囲の話し声がやけに遠く感じられた。私は背筋を伸ばしながらここから先に進んでしまったことを心のどこかで静かに覚悟していた。
 私はカップの縁に指をかけたままコーヒーから立ちのぼる白い湯気をしばらく眺めていた。熱はあるのに香りだけが先に逃げていく。その様子を見ていると、今ここで話そうとしていることも、うまく掴めないまま宙に散ってしまいそうな気がして、思わず、言葉を選ぶ時間を稼いだ。

「テレビとかでホークスのこと、見られたんですよね……?」

 ようやく形となって出てきた自身の声。問いかけるその声色は、自分で思ったよりもずいぶんと静かだった。ホークスの母親は、私の問いかけに少し間を置いてから小さく、「ええ」と頷いた。そして、そのまま言葉を続ける。

「それでちょっとね。息子のことが、気になってしまって」
「そう、ですか……」

 それきり、会話は途切れる。カップを置く音、スプーンが受け皿に触れる音、店内に流れる控えめな音楽。そういうものだけが私たちのあいだを埋めていく。けれどこの沈黙は決して、居心地のいいものではなかった。どちらかが口を開けば、何かが変わってしまう。そんな予感が静かに漂っている。私はもう一度、意を決して口を開いた。

「私……彼が、どうしてあんなにたくさん取材を受けているのか正直ずっと不思議だったんです」
「……え?」
「表に出るのってメリットもありますけど、同じくらいデメリットも大きいじゃないですか。特にプロヒーローたちは」

 彼女の視線がわずかに揺れるのを見た。それでも私は視線をやや落としつつ、言葉を選びながら先を続ける。

「社会のためとか、ファンたちのためとか。そういう理由も、もちろんわかるんです」
「……」
「でも私から見た彼の性格的に、ああいうのは、あんまり、その……好きじゃないだろうなって」
「そう……」

 温度のない、短い相槌。肯定とも否定とも取れないため、本心が掴めない。だから私は少しだけ言葉の調子を弱めた。

「たぶん、お母さんが——」
「……」
「もしかしたら、どこかで、見てくれているかもしれないって」
「……」
「そう思ったんじゃないかなって、今なら納得ができると言うか……」

 彼女は何も言わない。ただカップの縁に視線を落としたままだったが、私は止まらずに、言葉を重ねてしまう。

「それに、もしかしたら連絡が来るかもしれないって」
「……」
「そんな期待も、どこかにあったんじゃないかなって……」

 自分でも分かる。これはもう、半分以上は私の推測だ。それでもなぜだか、口に出さずにはいられなかった。

「実際にそれが、こうして、現実になって……」
「……」
「まあ……私の勝手な妄想かもしれませんけど」

 一息ついてから私は少しだけ力を抜いた。冗談めかした言葉が空気に溶けるのを待つみたいに、ほんのわずかに間を置く。けれど彼女は未だ何も言い返してこない。もしかしたら聞いていないのかもしれない。それでも私は沈黙に耐えきれず、少し軽い調子で先を続けた。

「男の子って、そうなんですよね。いつまでも、ママの残像が残ってるっていうか……」
「……」
「じゃあ女の子は、パパなのかなぁ」

 自分で言っておいて少し照れたような気持ちになる。軽口のつもりで投げた言葉が、思いのほか私自身の内側に跳ね返ってきて落ち着きどころを失う。私は不意に彼女のほうを見て息を呑んだ。無表情だったから。その静けさに触れた瞬間に、ひやりと背筋に嫌な汗が伝う。冗談で踏み込んでいい領域と踏み込んではいけない領域の境界線をうっかり踏み越えてしまった気がした。

「と、とにかく。あんなに嬉しそうなホークス、初めて見ました」
「……」
「私が言うのもなんか変ですけど……ありがとうございました」

 言葉の行き先を失ったまま私は小さく、けれどはっきりと頭を下げた。謝意というよりも距離を取り直すための動作に近かった。自分の軽率さをそのまま相手の視線から隠すみたいに。
 そのまましばらくのあいだ彼女は私と目を合わせなかった。手元のカップを見つめ何かを確かめるように指先を動かしている。やがてゆっくりと顔を上げた。視線が重なる。彼の琥珀色の瞳とは違う。けれど、どこか深く澱んだ色。紺青とも、灰色ともつかないその瞳の色に私は理由の分からない緊張を覚えた。

「名前さん」
「……はい」
「そんなふうに言われると少し言いづらいんですけどね」

 その瞬間、胸の奥で嫌な予感が静かに形を持つ。これはきっと、ただの昔話では終わらない。私は、そう直感してしまった。彼女はほんの少し言葉を探すように視線を泳がせてから先の言葉を続けた。

「ううん……実際に、息子と会ってみて」

 彼女はカップの縁を指でなぞりながらゆっくり言葉を選ぶように続けた。その仕草が、彼の癖とよく似ていると思った。

「もちろん、成長したあの子を見て……なんだかくすぐったいような嬉しい気持ちが、私にも少しくらいは、ありましたよ」

 それは母親として自然な感情だと思った。だから私は何も言えずに、黙って頷くしかなかった。しかしそこで「でもね」と、ホークスの母親は、ほんの少しだけ声のトーンを落とした。

「あの子にはやっぱり、面と向かっては……言いづらくて」
「え……? あ、あの……?」

 私が言葉を挟もうとしたとき、彼女は、それを待たずに淡々と話し続けた。

「今日の夜には帰らないといけないの」

 その感情の色を欠いたような言い方は、予定を告げるというよりも私には、何かの期限を示しているように聞こえた。

「小さなお店を、やっていてね」
「あ、そうなんですね……」

 相槌を打ちながら、私は違和感の正体を探していた。会話の焦点がどこかで少しだけずれている気がする。短い沈黙のあと私は当たり障りのない言葉を選んだ。

「でも、またいつでも、いらっしゃれば……」
「お金が必要なのよ」

 私の言葉を彼女は淡々と遮った。唐突だった。けれど声の調子は変わらず穏やかなままで、その分、残酷な言葉だけが、はっきりと、胸に落ちてくる。

「え……」
「一緒に、切り盛りしている人がいてね」

 彼女は落ち着いた声の調子のまま、相変わらず淡々と続ける。対して私は理由もわからないまま鼓動だけが少しずつ速くなっていった。

「その人が二百万あれば持ちこたえられるだろうってね」
「……」
「でも、いきなり会ってそんな話を切り出すのはなんだ、それだけのために来たんだって、誤解されるかもしれないでしょう?」

 彼女は少し困ったように眉を寄せる。その顔になぜか彼の面影が重なって見えてしまい胃の奥がざらりと不快に揺れて、喉の奥に苦いものがこみ上げた。私は無意識に背筋を正した。感情が追いつく前にまずは、呼吸を整えなければと思った。

「……誤解、なんですか?」

 私は思わず温度の持たない声でそう聞き返してしまう。彼女はほんの一瞬だけ、視線を伏せた。

「そりゃあ、息子には会いたかったわ、ずっと。とくに——あの子にはね」
「……」
「小さい頃、エンデヴァーのぬいぐるみ、買ってあげたりしてね」
「……」
「ほんと、お母さん子でねぇ」

 彼女の表情に懐かしむような笑みが、わずかに浮かぶ。それが作り物なのか本物なのか、もう、私にはわからない。

「いつも私の背中ばっかりくっついてくる子で」

 思わずその光景を想像してしまった自分に私は小さく息を吐いた。気づいたときには言葉が口をついて勝手に出ていた。

「それなのに……お腹を痛めて産んだ自分の子と離れたんですよね」

 言ってしまってから後悔する。責めるつもりはなかった。ただ、事実として、そこにある距離を指摘したかっただけだ。彼女は、何も言わない。カップの中の液面がわずかに揺れてまた静まる。
 沈黙がテーブルの上に重く落ちる。その沈黙の質が、さっきまでとは違っていることを、私は、はっきりと感じていた。

「……ごめんなさい」

 気づけば何に対するものなのか自分でも判然としない謝罪の言葉が、思考よりも先に、こぼれていた。

「私なんかがそんなこと言う権利ないですよね」

 ほんとに、責めたかったわけじゃない。ただ、思ったことが、口をついて出ただけ。それでも、空気を乱したのは私だと、遅れて理解する。

「いいのよ、別に」

 しかし彼女はすぐにそう言って、かすかに首を振った。その声には、意外なほど棘がなかった。

「彼が許してるなら、全然。私は、それでいいと思います」
「……」
「事情も、いろいろ、あったんでしょうから」

 私は、言い聞かせるようにそう締めくくって、また視線を落とした。テーブルの木目が、やけにくっきりと目に入る。すると彼女は少しだけ間を置いてから言葉を返してきた。

「そんなことを責められるのは、かまわないの」
「……」
「罪悪感が、ないわけじゃないから」

 その言い方は、覚悟していた人のものだった。落ちた言葉に胸の奥が、じわりと冷える。そして彼女は、私をまっすぐに見た。

「あなたは、あの子のことを、とっても理解してくれているのね」
「え……?」

 思いがけない言葉に私は一瞬、瞬きを忘れた。そんな私を見て、彼女は小さく微笑む。

「安心したわ。あなたみたいな人が、そばにいてくれて」
「い、いえ。私は、べつに……」

 慌てて、否定しかける。私は彼の何かを支えているわけでも、守っているわけでもない。ただ、甘えて狡賢く、一番近い場所にいるだけだから。

「男には、女が必要よね」

 彼女は、昔から決まっている真理を語るように続ける。まさか、その台詞が実の子に向けられているのかと思った途端また背筋がひやりとした。

「女にも男が必要。女は、特にそうなのよね」
「……そう、でしょうか」

 彼女の言葉が、すっと胸に入り込んでこない。だから私は少しだけ、言葉を選びながら返した。

「ごめんなさい。私には、まだ……」

 しかし続きを言う前に、言葉は自然と消えた。ここで何を言っても多分彼女の見ている世界とは噛み合わない気がしたから。互いのカップの中のコーヒーは、もうすっかり冷めている。それでも誰もそれにはもう口をつけようとはしなかった。

「それでね、名前さん」
「……」
「……こんなこと、頼みづらいんだけど」

 彼女はそう前置きしてから、視線を伏せたまま続けた。

「名前さんから、言ってもらえないかしら」

 その言い方は懇願というよりすでに決められた選択肢を差し出す調子に近かった。

「お金の……ことを、ですか」

 口にしてから、胸の奥がきしむ。わかっていて投げた問いだったからだ。しかし彼女は躊躇いもなく「ええ」と短く頷いた。呆れて言葉も出ないとは、きっとこういうときに使うのだろう。それでも私は、彼の母親から目を逸らさなかった。

「あんなにテレビにも出るくらいだもの」
「……」
「そのくらい、簡単に用意できるんじゃないか、ってね」

 なんとも軽やかな言い回しだった。あまりにも軽すぎて、あまりにも、当然の前提として——。

「……いや、それは、ちょっと」

 怒鳴ってやりたかった。彼に暴言を吐いたあの男たちに向けたような怒りを、そのままぶつけてやりたかった。しかし否定の言葉は思ったよりも弱く響いてしまう。

「時間がないの」

 だが彼女は私の言葉を遮るように言った。私はやや目を見開く。

「ほんとうに、困ってるの」

 その声には、切実さがないわけではなかったと思う。だからこそ、余計に苦しくなった。

「……ヒーロー、ですよ?」

 しかし、気づいたときには、声が震えていた。それが怒りか悲しみか、戸惑いか、どこからくる震えなのか、自分でもよくわからない。

「命と引き換えに、私たちを、守ってくれている人に、そんな話……」

 最後まで言い切る前に、彼女が私を見た。逃さない視線だった。それは責めるでも怯むでもなくあの、翼を背負ったヒーローと同じように、ただまっすぐに。

「ねぇ、名前さん」

 低く、静かな声だった。理屈ではなく、感覚のほうが先に反応する。ああ、やっぱり似ている、と。そう思ってしまった瞬間、否応なく理解させられる。この人は、彼の母親なのだと。

「お願い——ほんとうに、困ってるの」

 繰り返される言葉が、少しずつ形を変えていくのがわかる。

「あなたからなら、きっと……うまく……」

 その先を、彼女は言わなかった。言わなくても通じると確信している目だった。私はそれ以上、何も返せなかった。この人はたぶん悪人ではないのだろう。必死で弱くて。現実に追い詰められているだけ。けれど同時に、彼の人生を「支援」という言葉で切り取り家族を、過去を、奪った側の人間でもある。そして今、その続きを、彼自身の��生まれた日�≠ノまた重ねようとしている。その事実だけが、どうしても喉を通らなかった。
 この話を彼に伝えるのか。あるいは、伝えないままでいるのか——その選択を迫られていることだけは、はっきりとわかっていた。


 *


 夕方。マンションに戻ると、エントランス脇の電柱に、背を預けている人物がいた。キャップを目深にかぶりスマートフォンを片手に通りを行き交う人をぼんやり眺めている。見慣れたその立ち姿に気づいた瞬間、胸の奥がほんのわずかに揺れた。ホークスだ。彼は私を見つけるとまるで待ちくたびれていた子どもみたいに顔を明るくして、軽い足取りで駆け寄ってくる。

「はぁ〜い、ホークス急便でーすっ」

 差し出された小さな箱。受け取る前から、ほんのりと、甘い匂いがした。

「これ、駅裏に新しくできたケーキ屋さんの」
「……」
「会えなかったら、全然ひとりで食べてたんですけどね〜......でも、会えたから」

 昨日のお礼も兼ねて、と付け足して、彼は屈託なく笑う。その笑顔が、あまりにも無邪気で私はつい、視線を逸らした。

「あの昨日は……すみませんでした。付き合ってもらっちゃって」
「……ううん」
「助かりました、いやほんと」

 そう言いながら、彼はどこか居心地が悪そうに足元を見ている。

「なんか、まだ多少?ぎこちなくて……ははっ」

 そう言いながら、彼は視線を定めきれずに泳がせている。言葉よりも先に身体が正直だ。昨夜の出来事がまだ互いの輪郭をほんの少しだけ歪ませたまま、元に戻りきっていない。

「沈黙とかあると、ドギマギするっていうかさ」

 困ったように笑うその横顔を見て、私は思わず息を吐いた。責める気持ちはない。むしろ、その不器用さがいまは少しだけ可笑しくて、胸の奥にやわらかな温度が残った。

「初恋の人との、デートみたいだね」
「はい? 別に、そんなんじゃないっすけど」

 からかうように言うと、彼はすぐに不満そうに顔を顰めた。その反応の速さが、むしろ図星だと告げている。声の調子がほんのわずかに高くて、余計に真意が透けてしまう。しかし私は、それを指摘せずに、ただ彼を見つめていた。

「……上がってく?」

 さりげなく話題を切り替えながら心臓の鼓動を落ち着かせる。ここで踏み込みすぎると彼の軽やかな仮面が壊れてしまいそうだったから。

「お茶でも淹れるよ」
「えっ」
「コーヒーでも、いいけど」
「いいんすか?今日は三十八度越えの熱なんて、別にないですけど?」

 彼は一瞬だけ迷ったあとでいつものように軽口で返す。その癖のような逃げ方が今は少しだけ切ない。それでも、おどけたその言い回しが相変わらずで私は思わず小さく笑った。今日の冗談がただの冗談じゃなくて照れ隠しの温度を帯びているとわかってしまうから。

「のぼせあがってはいるでしょ」
「はは。どういう意味っすか、それぇ」

 笑いながらも彼の視線がわずかに逸れる。軽い応酬のまま私たちは、並んでマンションに入る。鍵を閉める音がいつもより少しだけ大きく響いた気がしたのはたぶん、気のせいだろう。
 キッチンに立って、豆を挽き、湯を注ぐ。その単純な動作が、妙に現実感を連れ戻してくれる。床に座った彼の目の前、テーブルの上にカップを置く。彼は素直に受け取ってひと口含んでから、首を傾げた。その仕草を横目に見ながら私はまだ名前のつかない空気が部屋の中に静かに留まっているのを感じていた。

「あれっ? 豆、替えました?」

 カップを傾けたまま彼が何気なく言う。探るというより、確認に近い声音だった。泡立つ表面をじっと見つめながら舌に残る違和感の所在を言葉にしようとしているみたいに。

「分かるの?」
「いや、たいして分かんないですけど」

 肩をすくめるその仕草が妙に素直で、私は少しだけ意地悪な気分になる。わからないと言い切るくせに、わかってしまう側の人間の目をしているから。

「……前のに、慣れてただけだよ」

 そう言うと彼は言葉を挟まず、もうひとくち、それを口に運んだ。その沈黙が評価よりも受容に近いことを、私は知っている。

「いい豆かどうかじゃない。実際、今日のほうが値段は高いし」
「あー、なるほど?ブルーマウンテンですねっ」
「そう。ブルーな山」

 自分で言っておきながら、少し可笑しくなって自嘲する。言葉の逃げ道をわざと遠回りに選んだのだ。

「あなたは、その山を降りたいだけでしょ」

 しかし、比喩に逃げたのは、私のほうだった。直接言えば壊れてしまう事をわざと抽象の皮膜で包んだだけ。

「あのぉ……」

 案の定、彼は訝しげに眉を寄せる。その表情の揺れが、なによりも雄弁だった。

「なんか、まどろっこしいんですけど」
「……」
「急に哲学的になるの、やめてもらえます?」

 視線がぶつかる。彼の目は鋭い。冗談を言いながらも、核心に触れる気配を、敏感に嗅ぎ取っている。その視線の温度に、私は一瞬だけ、言葉を探す。探しながらも見つからないままでもいいと思ってしまう自分がいる事にも気づいてしまう。

「何か言いたいことがあるなら、はっきり言ってくださいよ」
「……」
「ほら。どーぞ? なんすか」

 促す声は軽いが逃がさない距離感だった。私はカップをそっとテーブルに置き、指先でその縁をなぞる。その動作に意味を持たせるように気持ちを整えてから、口を開く。

「……お母さんには、もう会わないほうがいいと思う」

 言った瞬間、確実に、その場の空気が変わったのがわかった。

「え?」

 短い声。けれどその中に確かな警戒が混じる。彼の表情が、はっきりと固まるのを、私は見逃さなかった。

「どうせ……ちゃんと、聞いてないでしょ」
「なにを」
「……どういう生活してるのか、とか」
「聞く必要がないだけです」

 反抗的な返し。でも理屈としては整っている。けれどその返答の速さが、逆に触れられたくない場所を明らかに示していた。

「もう、別々の暮らしがあるんだし」
「……」
「でも、何も聞かないまま関わるほうが、もっと危ないと思う」

 彼は静かにカップを置いた。陶器が床に触れる音が思いのほかはっきりと響く。その音を合図に私たちのあいだにあった柔らかさが、少しだけ、後退した。越えてはいけない線の輪郭が、ここで初めて、はっきりと浮かび上がった気がした。

「新しい家庭が、あるのかもしれない」
「あったら向こうから言うでしょ」

 相変わらず反射的で、やや早口な返答だった。冷静に考える間も無く、言葉が先に出てしまったような声。

「男の人が、いるかもしれない」
「ウゲー。年、いくつだと思ってんすかぁ」

 即座に返ってくる軽口は拒絶というより防御に近い。嫌悪を隠そうともしないその言い方に私は小さく息を吐く。

「……女は、年じゃないよ。関係ない」
「……」
「そういう女の人は、死ぬまで女でいたいって、思うはずだから」

 言い切った途端に、彼の眉がわずかにひそむ。その仕草が、胸の奥に引っかかった。さっきまで喫茶店で向かいに座っていた人の、無意識に似てしまうその動き。感情を悟られまいとして、眉間だけが先に反応する。あの人と、同じ癖だ。

「……そういう女て」

 苛立ちを含んだ声。彼の声は、少し低くなる。

「昔のことなんか俺はもう、気にしてないすよ」
「……忘れたの?」
「なに」

 短く問い返す声音にも、薄く苛立ちが混じる。相変わらずその声音は、刺すように冷たく低い。

「それを引きずって、他人を信用できないんじゃないの?」
 
 言った瞬間、温度がまた一段落ちた気がした。言葉が床に落ちて跳ね返らず、そのまま、沈んでいく感覚。彼の視線が、鋭くこちらを射抜く。

「はい?」

 彼は笑おうとしたつもりらしいが、うまく形になっていなかった。笑うでも、怒鳴るでもない、危うい間だ。

「別に。守りに入っちゃうんで。他人に、肩入れしないってだけで」

 理屈としては整っている。けれどその整い方がかえって今は、彼の必死さを浮かび上がらせる。

「……って、言うか。なんか、言いました?」

 ふと、彼の声の調子が変わる。探るような目が再びこちらを捉える。

「……え?」
「母さん、今日の夜、急に会えないかもって連絡きたんですけど」

 その言葉が静かに刺さる。胸の奥が、ひくりと鳴った。

「まあ……会うことには、なりましたけど」

 彼は私の顔を逃がさない。そして私を見据えたままで、続ける。

「何か、言ったんすか? 今みたいなこと」

 逃げ道を塞ぐ問い方だった。問いというより、確認だ。疑いと不安と確かめたい気持ちが同時に混じったような目。私は息を整えて、その視線を受け止めながら、まっすぐ彼を見返した。ここで逸らせばきっと二度と同じ話はできなくなる気がしたから。逃げ場を作らない視線同士が狭い部屋の中で、ぶつかり合っている。

「……どうかしてるよ、ホークス」

 私の声は思っていたより低く静かだった。叱るというより確かめるみたいな響きだったと思う。彼は「は?」と一瞬だけ片眉を吊り上げる。その反応が、もう、防御の構えに見えてしまう。

「気持ちは、わからなくもないよ。でもね?」
「……」
「凍っちゃった心を溶かしたいなら、ちゃんと、向き合わないとダメだと思う」

 言い切った途端、彼の表情がはっきりと変わった。軽さが剥がれ、代わりに、刺々しいものが、そこに浮かぶ。

「俺が、逃げてるって……言ってんすか?それ」

 笑っているようで、笑っていない、冷たい声。口元だけが形だけの弧を描きその奥の温度だけが抜け落ちている。

「逃げてないすよ。実際、こうして会ってるじゃないすか」
「……違うと思う」

 私は強く首を振った。否定というより逃げ道を断ち切るみたいに。そして一呼吸おいてからきっぱりと、そう言った。その声が思っていたよりも硬質で、もう引き返せないと悟る。

「違わん!」

 彼の声が強まる。抑えていた感情が堰を切ったみたいに溢れ出る。その熱が距離を一気に詰めてくる。

「あー、もう。余計なこと言わんでくださいよ」
「……」
「関係ないでしょ、名前さんには。俺の母さんなんだから」
「……」
「付き合ってもらったのは、ほんと感謝してますけど……別に、ほんと、一人でもよくて」

 その言葉が胸の奥で鈍く響いた。境界線を引く音が、はっきりと聞こえた気がした。感謝と切り捨てが同じ文の中に混ざる。その不均衡が、彼の本音の揺れを露出させる。

「たまたま、あなたに頼みましたけど。別に彼女でも、恋人でもないわけですし」
「……」
「ほんと……余計なこと、言わんでよ」

 視線を外さないまま彼は言葉を重ねる。防御の刃が、逆に自分を傷つけているのがわかる。

「わざわざ、俺に会いに来てくれたのに……」

 言葉が次々と放たれる。その一つ一つが、私の立っている場所を、少しずつ削っていく。足元の輪郭が、静かに崩れていく。

「……もう、何を言ってもダメだね」
「はぁ……? なんなんすか、まじで」
「……」
「だったら最初から何も喋んないでくださいよ」
「……」
「偉そうに……わかったような口、きかんで」

 その一言で、ようやく理解した。今の彼には、私の言葉はすべて��否定�≠ノしか、聞こえないのだと。親切も理解も踏み込みもすべて拒絶として届いてしまうのだと。

「……わかった」

 私は一度、息を整えてからそっと、言葉を置くようにして言った。胸の奥で絡まっていた感情をほどくみたいにして。

「もう、何も言わない」

 彼が一瞬こちらを見る気配。何か言いたそうにけれど結局、何も言わずに立ち上がる。そのまま玄関へ向かい靴を履きドアを開ける。やや乱暴に閉まる扉の音が、やけに大きく響いた。
 私は追わなかった。追えば、もっと酷い言葉を投げてしまいそうだったから。
 テーブルの上には、彼が自分の誕生日なのに、わざわざ私に持ってきてくれたケーキの箱だけが残っている。甘い匂いが、部屋に満ちているはずなのに、それは祝福というより置き去りにされた証みたいで、胸の奥に重く沈んでいった。


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