年の瀬の夜の駅前は、まだ仕事の匂いを残した人間で溢れていた。居酒屋帰りの笑い声や、遅い時間の改札を急ぐ足音、その雑踏の端で、一台のタクシーのドアが開き二人の男女が降りてくる。
「母さん、ここでいいから」
「えー、何言ってんの〜? 遠慮しちゃってぇ」
ホークスはそう言って開いたままのタクシーのドアに手をかけた。閉めるついでの、ほんの短い動作。これ以上は、見送らなくていいと言われたことに対して無意識に言葉にしないまま区切りをつけるような仕草だった。それでも、言葉が思考よりも先に出る。
へらりと笑うホークスを見て母、遠見絵は笑いながら「本当に大丈夫」と言うように首を振る。
「ホームまで、見送るばい」
「ほんと……大丈夫よ?」
「えぇー?」
「ほら……そげなんってなんか、別れが辛かろ」
その一言にホークスは返す言葉を失った。喉の奥で何かが引っかかったように視線が宙を泳ぐ。やがて観念したようにほんのわずかに口角を上げ乾いた笑いを吐き出した。
「はっ。やっぱり……」
「え? なん?」
「ずーっと標準語、徹底してるからさぁ?」
ホークスは照れ隠しみたいにして抑揚をつけて言い、首の後ろを掻いた。
「ここらへん、なんか、こそばゆかったと」
遠見絵は何も言わない。ただ、その言葉を受け取るように静かにそっと目を伏せた。ホークスはそれを見て、少しだけ声を和らげる。
「まぁ、またいつでも。連絡してくれれば飛んで来るけん」
「……」
「はは、上にバレたらどうなるかは知らんけど」
軽い調子で「まあ、どうにでもなるやろうし」と、付け加えた息子の冗談めかした言い方の裏に含まれる覚悟を遠見絵は感じ取っていた。だからこそ、視線を落とし、短く息を吐く。
「ごめんね」
「……なーん? 辛気臭かねぇ」
「ばってん……よかと、ほんなこつ」
「なん?何がよかと?もう、会わんってこと?」
「……」
「……そ? だったら、無理にとは言わんけど」
人の流れに押されるように二人は改札の前まで歩いた。立ち止まると急に空気が薄くなる。言葉が減り、音だけが残る。
「……会えてよかったばい、啓悟」
その呼び名だけが夜気の中でわずかに浮いた。ホークスは、照れくさそうに目を伏せて、小さく「うん」と返した。遠見絵は声を張らずに確かめるように息を整えてからもう一度だけ息子であるヒーロー、ホークスを見やる。
「ヒーロー活動、怪我とかせんようにね」
心配を抑え込むような、しかし何かを抑えきれなかったような語尾だった。
「無問題でぇ〜す!こうして、丈夫な体に産んでもらったんでっ」
ホークスはそれを知ってか知らずか肩をすくめわざと軽く返した。冗談めかした言い方。甘えを含んだその声色は、彼自身が意識して選んだものだった。ほんの一瞬だけ、昔の距離に戻るための言葉。遠見絵の目尻がわずかに緩む。
「——名前さんにも、よろしく言っておいてね」
不意に出されたその名前に、ホークスの視線が一瞬だけ揺れる。「うん」と、短く答えながら、ホークスは無意識に視線を外した。
「お昼、ご馳走さまって」
「……ん?」
その一言で、空気の質が変わった。ホークスの眉がごくわずかに動く。表情は崩れないけれど、その奥で、何かが引っかかったのが、はっきりとわかった。言葉を噛み砕く前の静かな違和感だけが、二人のあいだに残る。
「……正直なこと、言うとねぇ。やっぱり、無理かなって、諦めとったと」
遠見絵の声は夜の雑踏に溶け込みそうなほどに低く、あらかじめ言葉を選び、選びきれないまま口に出している、そんな、揺らぎが滲んでいる。
ホークスは何も言わない。ただ遠見絵の横顔を見つめたまま、瞬きの回数だけが微かに増える。
「いまさら会いにきて、ほら……お金の工面ば、頼むなんて」
その単語が出た瞬間、空気がわずかに軋んだ。ホークスの瞬きが止まり、夜風が吹き抜けても、重さだけがその場に残る。
「ばってん、困っとーなら当然やって」
「……」
「母親やけん、って、言うてくれてね」
遠見絵は彼女との会話を思い出すかのように、はたまた確かめるように息を吸い、先を続ける。
「照れ臭がるけん、この話は本人には、言わんでくれって……」
ホークスの視線が、遠見絵の口元から外れる。言葉はまだ届いているが受け止める準備を身体のどこかが拒んでいるようだった。
「……ばってん、嬉しかったけん」
遠見絵はそこで少し言葉を切った。躊躇いと、安堵と言わずにはいられない気持ちが短い沈黙の中で、絡まり合う。
「どげんしても啓悟に、お礼ば言いとうして」
「……」
「……ありがとうね、啓悟」
数秒の空白のあと遠見絵は静かに言った。その言葉が落ちた瞬間、ホークスの顔から、血の気がすっと引く。さっきまで浮かんでいたやわらかな表情は影を落とすように消え去り感情の手がかりを失った無表情だけが残った。
「いくら?」
と、低く今まで彼が発したどの声よりも乾いた音が落ちる。それは感情の温度が削ぎ落とされて事実だけを切り出すための声音だった。遠見絵は「え?」と聞き返す。その冷たい声音に、彼女は実の息子のものとは思えない距離感を感じ取ったのか、表情が、わずかに揺れた。
「いくらです?」
突然、他人行儀で念を押すようにそう言われて遠見絵の視線が、途端に定まらなくなる。改札の向こう、人の流れ、足元、そしてまた実の息子の顔へと落ち着きなく、彼女の視線が彷徨った。
ホークスは、視線と語尾を落としたままで先を続ける。
「あん人から……」
「……」
「名前さん、いくら渡したと?」
問い詰めるというよりも、確認だった。だが、逃げ場はない。遠見絵はすぐに答えられなかった。言葉を探すように、唇を開いては閉じ、喉が小さく鳴る。その沈黙が答えよりも雄弁だった。
「……啓、悟……?」
戸惑いに滲んだ声で名を呼ばれてもホークスは表情を変えなかった。その代わりにもう一度だけ「いくら」と同じ問いを重ねる。今度こそ逃げ道を残さない声音で。視線も逸れない。怒りをぶつけるでも感情を揺らすでもない。ただ事実だけを引きずり出そうとする、異様なほど静かで冷静な目だった。
「ねえ、いくら貰うたと?」
その声は夜の駅前の喧騒を薄紙一枚の向こうへ押しやってしまうほどはっきりと響いた。世界がそこだけ切り取られてしまったみたいに、二人のあいだに、沈黙が落ちる。
「……二百万、やけど」
その数字が口にされた瞬間、空気の密度がまた変わった。夜の駅前は相変わらず騒がしく、人の流れも途切れていないのに、やはりそこだけが、まるで、切り取られたみたいに静かだった。
「……そ。」
ホークスの声は、感情を剥ぎ取ったあとに残る硬い芯だけで出来ていた。
「困っとったと、ほんなこつ……」
遠見絵が言葉を足そうとする。その必死さが、かえって痛々しい。けれどホークスはそれ以上を許さないように言った。
「そう」
短く、同じ言葉を、もう一度。そこには肯定も否定も含まれていない。ただこれ以上は踏み込ませないという境界線だけが静かに引かれていた。説明も弁解も、もはや必要ない。そう告げるための、終止符のような声。それでも遠見絵は息子に向けて言葉を重ねる。逃がすまいとするように、あるいは、自分自身を納得させるために。
「お願いやけん、聞いて?けど、あんたに会いに来たんは、そんためだけや、な——」
「電車の時間、遅れるんやなか?」
その先をホークスは、すかさず遮った。視線を逸らしたまま淡々と。一瞬、遠見絵の言葉が宙に浮いた。気まずさが、沈黙の形を取って落ちる。周囲のざわめきが、やけに遠く感じられた。
「……ほら、行ってください」
促す声は低く、しかし、はっきりとしていた。引き留めも未練もそこには一切含まれていない。
「……ええ。じゃあ」
遠見絵は小さくうなずいた。それ以上、言葉を探そうとはしなかった。唇を引き結び踵を返す。その背中には、振り返るための余白すら残されていなかった。視線を落とし、改札のほうへと歩き出す。その背中はまっすぐで、迷いのない足取りだった。ホークスは、その場から動けずにいた。人の流れに押されても、時間だけが彼のまわりで止まっているようで。
胸の奥で何かが軋み遅れてそれが衝動だったと気づく。次の瞬間ホークスは弾かれたように走り出していた。階段を駆け上がる。息が切れるより先に、視界が開けた。ホームには新幹線がすでに停車していた。金属の車体が冷たい光を反射している。その向こうに血を分けた母親の背中があった。発車ベルが鳴り響く。規則正しい電子音が、胸の奥を叩く。そのとき遠見絵のバッグを中年の男が受け取った。父親ではない。見知らぬ男だ。彼は慣れた仕草で荷物を持ち母親はその男に柔らかな笑顔を向けている。その笑顔は先ほどまでのどの表情よりも自然に見えた。
「……。」
ホークスはその光景を、ただ立ち尽くして見ていた。怒りも悲しみも言葉になる前に凍りついていく。やがて男がこちらに気づきちらりと視線を向ける。それにつられるようにして遠見絵も振り返る。一瞬だけ目が合った。しかし遠見絵はすぐにそっと視線を伏せた。その仕草が選択だった。
二人は肩を寄せ合い、新幹線に乗り込む。扉が閉まり低い振動とともに車体が動き出す。プラットフォームの景色が、ゆっくりと後退していく。
「……——さよなら。」
誰にともなく呟いてホークスはふっと笑った。声は驚くほど静かで喉の奥で何かが割れるような乾いた笑い。そのまま首に巻いていたマフラー、母親からの贈り物のそれを外して階段の手すりに結びつけた。ほどけないように、無意識に、力を込めて。そうして彼は一度も振り返らなかった。そのまま、ゆっくりと階段を降りていく。
駅の喧騒は、何事もなかったかのように続いていた。人々は行き交い、アナウンスは次の列車を告げ、世界は滞りなく、前へ進んでいる。その中でただ一つ、彼の中に置き去りにされたものだけが静かに、取り残されていたのだった。
*
「ホークス」
彼から連絡を受けたのは、もう夜が完全に街を占領したあとだった。
街灯の下、ガードレールにもたれかかるようにして立つ彼は白い息をゆっくりと吐きながら私に気づくとすこしだけ気まずそうに、手を上げた。その仕草が、いつもの軽さよりもわずかに重たく見える。
「……ああ、すんませーん。急に呼び出して」
「ほんとだよ……何? こんな時間に」
距離を詰めると、彼は一度だけ視線を、足元に落とした。舗道の影をなぞるみたいな沈黙のあと意を決めたように顔を上げて、私を、まっすぐに見据える。
「謝ろうと思いまして」
「……え?」
「怒鳴ったりして、すみませんでした」
言葉は短く余計な装飾がない。それがかえって本気だと伝わってきて、私は、返事の仕方を少し迷った。
「ごめんなさい」
彼はそう言って、深くはないけれどきちんと、頭を下げた。私は思わず視線を逸らし横目で彼を見てから、近くのガードレールに、腰をかける。金属越しに冷気がじわりと伝わってきて、身体が現実に引き戻される。少し遅れて彼も同じように隣へ移動してきて腰をあずけた。
「ううん……あのあと、私も反省したから」
「……」
「自分の母親のことを、あれこれ言われたらさ。そりゃ、腹も立つよね」
夜風に自分の声が紛れそうになる。彼は、答えなかった。ただ前を向いたまましばらく呼吸だけを整えている。その沈黙が責めでも拒絶でもないことは長い付き合いの中でわかっていた。やがて彼はゆっくりと身じろぎし後ろのポケットに手を入れた。出てきたのは場違いなほど分厚い封筒。それを、ためらいもなく私のほうへ差し出す。
「立て替えてもらったみたいで」
「……え?」
「しっかり者っすねー。さっすが��公安特別通信管理室�=v
一瞬思考が追いつかない。彼の口調はいつもの軽さを装っている。けれどその奥で、何かを測るような視線がこちらに向けられているのがわかった。冗談に逃げ切れない夜の空気が、二人の間に静かに溜まっていた。
「てか、そんな大金、よく貯めてましたねー」
「……」
「もしかして、ヒーロー稼業の俺より稼いでるんじゃないです? なんちゃって」
軽口の形を借りた言葉だったけれど、その裏にあるものが冗談ではないことくらい、私にもわかった。私は受け取った封筒を見つめたまま指先に伝わる紙の重みから目を逸らせずにいた。厚みのあるその感触が、さっきまでの会話を現実の側へ引き戻してくる。
「……お母さんが、あなたに?」
「はい」
彼は前を向いたままほんのわずかに顎を引く。二度、三度、小さく頷くその動きが、淡々としているぶん、妙に痛々しい。私も改めて声に出してみて、初めてその事実を自分のなかで認めた気がした。
「お礼、言われました。ありがとうって」
「やだ……な。もっと、ちゃんと口止め……」
彼の言葉を聞いた瞬間に、胸の奥がきしんだ。私も冗談めかして言ったつもりだったけれど声が途中で細くなってしまう。しかしその続きを彼は聞きもしなければ、促しも揶揄いもしなかった。
「知らん男が、ホームに迎えに来てました」
私は言葉を失う。年の瀬特有の夜の冷え込みがいまさらのように肌を刺した。
「あん人……」
彼はそこで一度だけ笑った。笑みの形はいつもと同じなのに、声には、水分がなかった。
「なァ〜んと! 名前さんの言った通り!」
「……」
「俺に向ける顔と、全然違う顔してましたよー」
「……」
「いやいや、女の人は怖いねぇ〜」
笑っているのに声が乾いている。軽く言い切るその調子がかえって残酷だった。私は思わず自分の足元に視線を落とす。
「……ごめん、ホークス」
「……」
「ごめんね、ほんと……」
筋違いなことは十分に理解していた。けれど、謝る以外にどう言葉を選べばいいのかが、わからなかった。しかし彼はすぐに、首を横に振った。
「謝らんで」
「え?」
「あなたが謝ることなんて、ひとつもない」
「……」
「だから、謝らないで——」
それは静かだけれど、はっきりした声だった。その言葉が私の胸に落ちるよりも先に、彼自身がそれをすべて飲み込むみたいに息を吐いた。
「……いいんです。おかげで、言えたんで」
「……」
「さよならー、って」
彼は短く喉を鳴らす。吐く息が白く真冬の夜空へと、のぼっていく。それは冗談の語尾みたいな言い方だったのに、その言葉は今まででいちばん重たく心に響いた。
「俺ね?実は、両親との関わりを一切抹消してる身なんですよ」
街灯の白い光が彼の横顔を淡く縁取っていた。冗談めかした調子はもうなく、声は低く、乾いている。私は返事をするタイミングを失ったまま、ただ、彼の言葉を待つしかなかった。
「俺の名前、鷹見啓悟って言います」
その名が空気に落ちる。��ウィングヒーロー・ホークス�≠ニいう呼び名の奥に、しまい込まれていた、本当の輪郭。
「下の名前は前にも教えてましたよね。なんか、このタイミングで自己紹介ってのも、変な話ですけど」
そう言って彼はわずかに肩を竦めた。笑おうとしたのかもしれない。でも、その表情は最後まで形になってはいなかった。
「��鷹見�≠フ抹消ってのは戸籍だけの話じゃないんです」
「……」
「俺と母親の関係も、そこで終わるってことなんですよ。でも、それでいいって思って」
「……」
「救うんじゃなくて、見限ったんです、俺が」
言い切るその声音には、誇りも後悔も混ざっていない。ただ、事実だけを並べる人の声だった。私は、息をするのを忘れたみたいに、彼の横顔を見つめていた。
「笑っちゃうでしょ。人を助けたいって言ってるヒーローが、ですよ? だからさ?」
そう言って彼はゆっくりと私を見る。自嘲でも開き直りでもない、静かな問いかけ。
「名前さんが思い悩むことなんて、なにひとつとしてないってことです」
「……」
「そもそも、あん人とは終わってたんですから」
「……」
「ほんと、俺が軽率でした。反省してます」
胸の奥で、何かがきしんだ。私が抱えていた、罪悪感や迷いを、彼はいつだって最初から自分のものとして引き受けてしまう。
「……いいの?」
ようやく声が出た。私は視線を足下に落としたまま続ける。
「そんな話、私なんかにして」
それは問いというよりも確認だった。私は彼をそっと見る。彼は、ほんの少しだけ目を細めた。
「あなただから、聞いてほしかった」
「……」
「名前さん。あなたに、伝えたかっただけです」
その言葉は告白でも懺悔でもなく、ただ一通の手紙みたいだった。
私は返す言葉を持たなかった。ただその場で、彼の隣で、受け取るしかなかった。しばらくして彼はふっと空気を切り替えるみたいに手に持っていたビニール袋を私の方へ差し出した。
「ジャ〜ン。これ、なんだと思います?」
「え?」
「ジェンガです。ほらぁ、一個だけブロック紛失しちゃってたじゃないですか」
「あ、ああ……」
「やりません?」
いつもの軽い声。ヘラヘラと笑う顔。けれど、その奥には彼なりに測った確かな距離の取り方があった。
「これから、俺のセーフハウスでさ?」
逃げ道は最初から用意されていなかったのかもしれない。というよりも、断る理由が、どこにも見当たらなかった。私は小さく息を吸って、それから、ゆっくりと頷いた。
彼のセーフハウスはやはりどこか現実感に乏しかった。白い壁、白いカーテン、音を吸い込むような、無機質な床。生活の名残を探そうとしても目に入るのは必要最低限の家具と均一に整えられた空間だけで『人が暮らしている』というよりもただ一時的に身を置いている場所。そんな印象が拭えない。
「どうぞ〜」
「お邪魔、します……」
軽い声に促されて靴を脱いだ。足を踏み入れた瞬間に、外気とは違う、乾いたような空気が肌に触れた。私は無意識のうちに部屋を見回し視線は自然と壁際に置かれたトレーニングマシンに留まる。その、ただ鍛えるためだけに用意された道具だけがここに人がいる証のように存在していた。私は、「ねえ」と自分の声が室内に少し響くのを感じながら問う。
「そういえば……ここでもトレーニングとかしてるの?」
「しますよー」
振り返らずに答える彼の声はいつも通りの軽い調子に聞こえる。
「あ、寒いっすよね。すぐに暖房、入れます」
彼は、窓際に置かれたリモコンを取りに行く。その背中を見つめている内に胸の奥に言葉にしきれない感情が滲み出てきた。広すぎる空間と静かすぎる室内が逆に、私の思考を浮き彫りにする。
「ホークス」
呼びかけると彼はすぐに振り返った。やや首を傾げて「はーい?」と、へらっとした間の抜けた返事をくれる。けれどその視線はちゃんと、私を捉えている。
「私、ね? なんだか、怖くなっちゃった……」
言葉を探しながら一生懸命に先を続ける。彼は一瞬だけ瞬きをして、それから肩の力を抜いた。「え?」と、すぐに冗談めいた笑みを浮かべる。
「別に、何もしないですよ? 越えません」
軽く言うその声がかえってこの空間の静けさを際立たせる。
「ううん、違うの。そうじゃなくて……」
自分でも驚くほど、声は低く落ち着いていた。彼は「ん?」と首だけを、わずかに傾ける。問い返しは短いけれど、先を促す余白があった。
「女性で、いることが……」
言い切る前に言葉が喉でいったん引っかかる。私は視線を床に落としたまま、少しだけ間を置いた。白い床は感情を映さない。だからこそ言葉にしなければ、何も伝わらない気がした。私は口の渇きを感じつつも、ゆっくりと息を吸ってから、先の言葉を続ける。
「……いつか、誰かと結婚して……子供ができるかもしれない」
「……そうでしょうねぇ、たぶん」
キッチンに移動しながら彼は穏やかに応じる。肯定でも否定でもない、事実をなぞるような声音だった。
「母親になる」
「ええ」
「……本当に」
「うん?」
言葉を探す指先が、無意識に服の裾をつまむ。彼の返事は短い。声音も柔らかい。そして決して私の言葉を遮らない。
「いい母親になれるのか、不安で……」
告白というほど大仰でもなく、独白にしては、誰かを必要としている言い方だった。彼がカップを置く音を立てる。何も言わない。しかし、その沈黙が拒絶ではないことだけはなぜかはっきりとわかった。
「名前さんなら、大丈夫です」
キッチンから届いた声は確信めいていてそれがかえって、胸に刺さった。励ましの言葉なのに、なぜか距離を測られているような気がして、私はどうしても視線を上げることができない。
「とくにね?」
私は続ける。彼のほうは見ない。あくまでその背中に向かって言葉を置く。直接視線を合わせてしまえば多分、言葉の形が変わってしまうから。
「男の子の、母親になること」
「……どうして?」
湯気の向こうで彼の肩がわずかに動いた気配がした。その小さな動きに、思考よりも先に指先が強張る。私は握りしめた指先に力を込める。喉の奥が、わずかに震えた。
「だって、こんなにも」
「……」
「ずっと、心に刻まれていくんだって思うと……なんか、わたし……」
言葉が自分の中でほどけていくのを感じながら最後まで言い切れないまま、宙に置く。
「そんな……大袈裟に考えなくても、いーんじゃないです?」
少し軽くするような口調で彼が言った。いつもする調整の仕方だ。空気の温度を一定に保つための、彼なりの癖。
「俺だって、別に……」
言いかけて、言葉が途切れる。その沈黙の縁に彼の本音が触れているのがわかる。不完全さが、すべての答えだった気がした。私は音を立てないように息を吸い直してから、静かに言う。
「前に、ホークス、言ってくれたでしょう?」
「……うん?」
「人間は神様じゃないんだから、って」
「……」
「時には、泣き言も言うもんだ、って」
キッチンに落ちる沈黙が、少しだけ重くなる。湯の沸く音だけが時間を進めるふりをしている。
「そんなこと、言ってくれた、ホークスは——」
私は息を整え、言葉を選ばずに続けた。選んでしまえば、逃げ道を作ってしまいそうで。
「誰かに、泣き言……言ったことあるの?」
「……」
「幼稚園の頃でも、大人になってからでも、いつでもいい」
「……」
「誰でもいいの、誰かに……」
最後は、ほとんど祈りみたいな声だった。そのとき、コーヒーを淹れていた彼の手が止まった。ケトルを傾けたまま動かない。湯気だけが静かに立ち上る。彼は目を伏せたままこちらを見ようとしない。背中越しでもわかる。今、彼は、答えを探しているのではなく、しまい込んできた時間を静かに、撫でているのだと——。私は彼の横顔を見つめながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「強くて、華麗に空を飛び回るホークスは」
「……」
「素敵だな、凄いなって、いつも思うけど」
「……」
「でもね……」
私はそっと、声を落とした。涙が滲みそうで、必死に唇を噛む。
「ホークスだって、神様じゃないでしょ……?」
「……」
「ねぇ、ホークスだって——」
その一言が最後の糸を切った。彼は何も言わなかった。ただ瞬きをひとつするのと同時に、溜め込まれていたものが、静かに溢れ出した。嗚咽も歪んだ表情もない。ただ無表情のまま、涙だけがヒーローの頬を伝って落ちていく。
私は思わず距離を詰める。そして、反射的に、彼の頬に触れて、親指で、その雫を拭った。
「……かわいそうな、ホークス」
言葉にした瞬間、自分の胸もきゅっと締めつけられた。彼はそれでも何も言わない。ただ立ったまま、されるがままだった。私は彼の目を見ないままで続ける。
「きっとね?男の子は、ママで、泣き言を聞いてもらう練習をするんだと思う」
「……」
「大丈夫だよって、甘えてもいいんだよって……何度も、何度も」
「……」
「あなたは……ホークスは、それができなかったんだね……」
少しだけ声が震えてしまった。そして気づけば私は、彼を抱きしめていた。そこにはためらいも計算もない。ただ、腕が勝手に動いていた。彼は抵抗しなかった。ゆっくりと私の肩口に額を預ける。その重さが、今まで彼が一人で背負ってきた時間、そのもののように感じられた。そのとき、不意に、掠れた声が耳元で震えた。
「これは……ルール違反です……」
「……」
「こんな触れ方したら......越えたのと......一緒になるけん」
その言葉を聞いても、私は腕を緩めなかった。むしろ、少しだけ力を込める。
「——もしも、」
私は自分の胸に彼の顔を埋めるようにして包み込む。柔らかい金色の髪の毛先が、私の首をくすぐる。
「もしも、私が、あなたのお母さんだったら……いつでも、何回でも、聞いてあげたのに」
「……」
「あなたが一人で背負わなくていい世界を、用意してあげたのに」
「……」
「あなたを悲しませる、ありとあらゆることからしっかり、守ってあげたのに」
「……っ」
「片時も、目を離さずに——」
言葉の終わりは、彼の体温へと溶けていった。次の瞬間、彼の腕が私の背中に回される。迷いのない力で、逃がさないように、確かめるように。その強さに彼がもう『剛翼のヒーロー』ではなくただの一人の青年なのだと、はっきりと知らされた。
「せっかく……慎重に……」
彼のその声は喉の奥で擦り切れてしまったかのように、低かった。
「越えん、ように、って……」
「うん」
「……ちゃんと……引いてた、線が……」
「うん……」
「……もう……ぐちゃぐちゃ、で……」
「……」
「よう、見えん……っ」
抱きしめ合ったまま彼は小さく笑った。笑いというよりも、行き場を失った感情が零れたような音だった。
「……いいよ」
私は彼の背中に回した腕をゆっくり動かした。力を与えるでも、引き寄せるでもなく、ただ落ち着かせるために。まるで、理由もわからないまま泣いている子どもの背を一定のリズムで、撫でるみたいに。そして、声を低く柔らかくして、彼の耳元に呼吸が触れる距離まで近づいて囁いた。
「今日は、線なんて引かなくていい……」
「……っ」
「また明日から......一緒に、引き直そう」
その瞬間、彼の呼吸がほんのわずかに乱れた。吸い切れなかった空気が胸の奥で止まったままになるその感触が、抱き合った体越しにも伝わってくる。
「ホークス……二十一歳、おめでとう」
続けて言葉を置くのは、少しだけ躊躇われた。でも、今夜なら、許される気がした。
「生まれてきてくれて……ありがとうね」
それは祝福であり祈りであり、そして、ほんの少しだけ越境した、感情でもあった。
「名前さんは……」
彼の声が、すぐ近くで震える。私はそっと頭を寄せる。すると、短く息を吸う気配がして——
「あきれるほど……いい女ですね」
そう言い切るように囁かれたその瞬間私の背に回された腕の力が、ほんの少しだけ強まる。抱き寄せるというより確かめるような力だった。逃げないでいること、ここにいることを、互いに確認するための。
私はゆっくりと目を閉じる。この夜、越えてはいけないと互いに守り、信じてきた線は、確かに少しだけ緩んでしまった。だが、踏み越えたわけではない。ただ、ほんのわずか、触れてしまっただけ。そしてそれを、なかったことにはしない。誰にも渡さず言葉にもせず説明もしない。ただ、お互いの胸の奥に、静かにしまっておけばいい。二人だけが知っている、ひとつの夜として。
私はふと壁の時計に目をやった。針は二十三時を指していた。秒針の進み方がいつもより慎重で静かに感じられる。夜そのものが、音を立てないように歩いているみたいだった。まもなく、彼の二十一歳の誕生日が終わる。けれども、この夜に起きたことは日付が変わってもきっと消えない。消えずに、名前も持たずに、ただ、残るだけだ。