十二月二十九日、深夜。夜は深く月の明かりがカーテンの隙間から薄く滲んで白いシーツの上に淡い影を落としていた。二人分の体温が溶け合ったベッドは、昼間とはまったく別の場所のようで呼吸の音だけが静かに夜を満たしている。
本当に人を好きになるというのは片思いをすることなんだと思う。『付き合いたい』とか『こうしてほしい』は、欲望を含んでいるし、『自分を好きになってくれない人を好きにはならない』は一見、正しいように感じるけれど、それは純粋に人を見ていなくて、合理と打算が背後にある。
片思いって素晴らしい。相手の視線がまったく自分に向いてないことが心地よくて純粋に、まっすぐ相手を想うことができる。それは、自由だと感じる。逆に相手から好意を持たれたら厄介だ。好意を維持させようと頑張ってしまうから。好かれる自分を演じ続け最悪の場合、自己喪失する。
一緒になることだけが、運命じゃない。自分が変われたこと、成長できたと思う恋なら、それも大切な運命のひとつだ。そんなことを、今自分は��親友�≠フ腕の中で、考えていた。
彼の腕に包まれながら、私はその温度の中心に身を置いていた。腕の中の重さが甘く、正確で、逃げ場を塞ぐものではなく互いを支え合うための重さだとわかる。私は彼の髪に顔を埋めて、その体温に溺れるみたいに、目を閉じた。そのまま、この夜に沈んでしまってもいいと思いながら。
「飛ばんでもよかって……初めてちゃんと思えた気がする」
まぶたの裏に残るのは彼の呼吸の輪郭と、胸に触れている鼓動の連なりだけ。線を引く言葉も、越えるという概念もすべてが遠のいて、ただこの重さだけが世界の中心にある。そんな錯覚の中で私は静かに息を吐いた。その温度の中で夜はこのままゆっくりと沈んでいくはずだった。けれど、彼の掌が背骨をなぞった瞬間空気の質がわずかに変わった。
掌の重さは思ったよりも軽くて、それでも背骨の一本一本を確かめるみたいにゆっくりと滑っていく。布越しでもわかるほどに熱を帯びていて、その熱が私の内側にまで滲み込んでくる。背骨に沿って降りてきた指先が腰骨の縁で止まる。そこは自分でも意識しないようにしてきた場所で触れられた瞬間、身体の奥に静かな波紋が広がった。思考はまだ冷静なのに皮膚だけが別の言語で応答している。彼の額が私の首筋に触れ吐息が鎖骨に落ちる。温度と湿度を帯びた呼吸が皮膚の表面に絡みつくたび、言葉にできない震えが生まれる。私の呼吸もそれに引きずられて彼のリズムに近づいていく。
「……名前さん」
声が喉で溶けて形になる前に崩れ落ちる。いつもの軽口の輪郭が消えていて、音だけが頼りなく漂う。彼の指が首の後ろの産毛を撫でる。そこに触れられると意識が皮膚に集中してしまうのを、私は知っている。思考より先に、感覚が目を覚ます場所で彼の指先はそこを迷いなく探ってくる。
「こういうの……越えちゃいそうで……」
越えない、と数時間前は言っていた。線を引き直すと約束した。でも、今はその線の存在を思い出すことがかえって遠い。私は彼の胸に額を寄せ心臓の音を聞く。鼓動は落ち着いているのにその周囲の空気だけが、熱を帯びている。胸郭が上下するたび私の身体もわずかに揺さぶられ、呼吸の境目が曖昧になっていく。
「越えない、って……」
「……」
「言葉で引いた線って……こんなに脆いんすね」
彼が小さく笑った。笑い声というより、吐息に近く自嘲にも似たその息が彼自身の決意の薄さを告白しているみたいで私は思わず視線を伏せた。その脆さが怖いのに甘い。理性が警告を鳴らしているのに感情がその音を布で包んでしまう。彼の掌が再び背中をなぞる。今度は、よりゆっくりと確かめるように。背骨から肩甲骨へ、肩甲骨から首へ。指先が皮膚の境界をなぞるたび私は自分の輪郭が溶けていく錯覚を覚える。
「……名前さんはなんで、こんなこと、できるんですか」
問いかけというより独り言みたいな声。自分に向けて言っているのか私に向けているのか、その境目が曖昧だった。
「なにが?」
「こうやって……近いのに、何も求めないで」
私はしばらく言葉を探した。求めない、というより求め方がわからないだけかもしれない。欲望に名前をつけるよりもそのまま抱えているほうが安全だと思ってしまう癖がある。
「求めてるよ」
試しに言ってみると、彼の腕が、わずかに強くなった。私も彼の背中に回した腕に少しだけ力を込める。彼に抱き返される側から彼を抱く側へと意識が反転する。彼の背中の筋肉の張り、剛翼の付け根、肩の骨の形、首筋の温度。それらを順に確かめるみたいに、指先でなぞる。
「でも……ホークスが、ここにいるってこと」
その言葉を口にしたとき自分でも驚くほど声が落ち着いていた。言葉にすることで自分の役割が定義されてしまうことへの怖さより、いま彼を、離したくないという衝動のほうが勝っていた。
「飛ばなくていいって思える場所があるって事、あと今は——弱ってる」
「……」
「判断力……落ちてる」
彼の呼吸が一瞬止まる。そして私の首筋に顔を埋め、吐息を吐き出す。吐息の湿り気が、皮膚に絡みつき、言葉よりも雄弁に感情を伝えてくる。
「……ずるか、名前さん」
私は小さく笑い彼の髪に頬を擦りつける。湿り気を帯びた金色の髪が皮膚に触れて、その感触が思考を曖昧にする。彼の手が再び腰に触れ親指が背骨の端をなぞる。触れ方は穏やかなのに、意識だけが鋭くなる。越えないと言いながらも、越えかけている境界に立っている感覚。
「……このまま、何もしないで、いられます?」
彼が囁く。声は低く、熱を帯びている。問いというより願いと恐れが混ざった確認だった。私は少しだけ考えて、そして、答えた。
「いられるよ」
嘘ではなかった。けれど、簡単でもなかった。「いられる」と言うこと自体がすでに強い意志を必要とする状態にいる。
「だって、こうしてるだけで、十分越えてる」
そう言うと彼は小さく息を吐き、私を抱く腕の力を少し緩めた。緩めたはずなのに距離は変わらない。むしろ、互いの体温がよりはっきりと意識される。私は彼の背中を撫でながら彼を包み込むように抱いた。彼の重さを受け止め、彼の呼吸を整え、彼の存在をここに留める役割。
「……それ、恋人みたいなこと、言ってますよ」
彼が苦笑するように言う。その言葉は、軽口の形をしているのに、どこか、痛みを帯びていた。冗談の皮膚の下に触れてはいけない本音が透けて見えるようで、私はまた、視線を落とす。
「恋人じゃないと、言えないこと?」
「……言えますけど」
「じゃあ、言っていいじゃん」
私の声は驚くほど穏やかで、自分の心臓の音だけが不釣り合いに大きい。鼓動が耳鳴りみたいに内側で反響し、彼に届かないことを祈りながら、同時に、届いてしまえばいいとも思っている。
「でも……恋人になったら、もっと、欲しくなるでしょ。俺、欲張りになると思いますよ?」
「うん」
「今みたいに、我慢できなくなる感じで」
「うーん……」
「そしたら、こうしてるだけじゃ足りなくなる」
その喉が震えたように見えた。低く、喉に絡ませるみたいに言った彼の指先が、私の服の背中を掴む。布越しに伝わる指の力が、離れたくないという衝動を言葉より雄弁に語っている。掴まれた背中の一点が、熱源みたいに意識の中心になる。聞こえ方は責める声色なのに、あきらかに、縋る音色が混ざっているのがわかる。
「今は、足りてる?」
「足りてます」
「本当に?」
「……足りてるって、言いたいだけです」
その言い方が、胸の奥を締めつける。欲しいと言わないことでしか関係を守れない人の声だったから。彼の「足りている」は自分に言い聞かせるための言葉で私への答えであると同時に自己暗示でもあった。
「じゃあ、今日は足りてるってことにしよ」
私はそう言って彼の肩に額を預けた。彼の体温が額に染み込み言葉の代わりに熱が返事をする。体重を預けることで、肯定と拒絶の境界を曖昧にする。
「足りない明日が来たらそのとき考えればいい」
「……それ、優しいふりして、ばり残酷やけん」
「ふふ……ばり、知ってる」
それでも彼は私の腕の中に留まった。逃げないという選択を言葉ではなく体重で示すみたいに。胸と胸の間の距離が縮まり、呼吸が交わるたび、互いの存在が、音より先に皮膚で確認される。
「……名前さん」
「なぁに?」
「……離れたくない」
彼の声は低く逃げ場を探さない声だった。その言葉は告白でも依存でもなくただの事実みたいで事実というものは願いよりも否定しづらいぶん、残酷だと思う。
「離れないよ」
私はそう答え、彼の首筋に唇を寄せて、呼吸を落とす。触れたのは皮膚ではなく吐息だけ。それでも彼の肩がわずかに震えた。越えないと決めた線の上で、私たちは、互いの体温を確かめ合う。踏み込まないまま、踏み込んでしまったことを、互いの身体だけが知っている夜になるように。
「名前さん」
「なに?」
「……ありがと」
短い言葉が夜の中で溶ける。でも、その音節の向こう側に、彼の人生の長さが折り重なっている気がした。感謝というより、生の輪郭を確かめるみたいな声だった。
「こちらこそ」
私は彼の髪に顔を埋める。柔らかい髪の感触と彼の体温と静かな夜の空気が混ざり合い、境界が曖昧になっていく。彼の額が私の鎖骨に触れて、吐息が皮膚に落ちる。身体は近いのに、どこか、理性がまだ残っていて、それが逆に甘く感じられる。触れているのに、踏み込みすぎないという、奇妙な均衡。その危うい上に私たちは横たわっている。
「……寝ますか」
彼がそう言ったとき、その声は少し眠たげで、でも逃げの響きはなかった。逃げないという決意と、逃げないために眠るという選択が、混ざったような声。
「うん。寝よう」
私は彼の腕の中で目を閉じる。心臓の音が耳元で一定のリズムを刻み、まるで、子守歌みたいに意識を撫でていく。
線を引かない夜。でも、完全に消えたわけじゃない。明日になればまた、私たちは線を引き直すだろう。それでも、今日という一日は確かに存在して、彼の体温はまだ、私の腕の中にある。その事実だけを抱えたまま、私は眠りに落ちた。彼の呼吸が遠のいていくのを聞きながら、線の名前を知らないままの夜に、静かに身を沈めるように。
*
彼の二十一歳の誕生日を一週間後に控えた少しだけ湿り気のある夜だった。仕事終わりの街は、平日らしい顔をしているくせにどこか気の抜けた空気を漂わせていて駅前のネオンも居酒屋の呼び込みの声も、必要以上に、近く感じられる。
この日も私たちは、特別な約束をしたわけでもなくなんとなくの流れで同じ方向に歩いていた。彼の隣は気付けばいつの間にか自然な立ち位置になっていて、肩の距離や歩幅を意識することも、もうほとんどない。すると、そのときだった。
「おー、兄ちゃん」
背後からわざとらしく伸びた声がかかる。振り向かなくても空気が一段、荒れたのがわかった。
「もしかして、今話題のヒーローさんじゃね?」
「よくテレビで見るやつだよなぁ。あの、羽の」
「羽て。ちゃんとヒーロー名で呼んでやれよ〜」
「ああ、悪い悪い。なんだっけ?ホークスか!」
二人組だ。酒の匂いを纏った中年の男たちで、声の調子だけがやけに大きい。絡む理由を探しているというより若いヒーローを目の前にして何か言わずにいられない、そんな種類の人種だと直感する。私は無意識に歩幅を緩めた。しかし、その一方でホークスは、足を止めようともしない。
「いやぁー、すみませんねぇ」
振り返りもせず、けれども、声だけはきちんと相手のほうに向けて、彼はいつもの調子で笑う。
「人違いじゃないすかー? 俺、ただの一般市民なんで」
「ははっ、一般市民がそんな羽つけて歩くかよ」
「ファッションっす。流行ってるんですよー?」
軽い。あまりにも軽くて相手の悪意を、まるで冗談の一部みたいに処理してしまう。
「若いのにいい身分だよなぁ。ちょっと人気あるからってよぉ」
「ああ、女連れて歩いてら。選び放題だもんな」
「いやぁ、全然っすよー。ランキングもまだまだオールマイトには及びませんっ」
否定しているのにどこか自嘲気味で、火に油を注ぎすぎない言い方。相手の男たちは、拍子抜けしたように舌打ちをして吐き捨てるように言う。
「つまんねぇヒーロー」
「ほんとだぜ! 期待外れだなぁ」
「あはは。期待に応えられなくてすみませーん」
ホークスはそう言ってへらっと笑みを浮かべ、軽くひらりと手を振る。それは謝罪でも挑発でもなく、ただ「終わり」を告げる仕草だった。
「じゃ、お疲れさまでしたー」
そのまま彼は歩き出す。何事もなかったみたいにして。私は一拍遅れて、彼の隣に戻る。背中に男たちの視線が残っている気がして、しばらく、肩のあたりが落ち着かなかった。
通りを一本曲がるまで、私たちは何も話さなかった。靴音だけが、やけに大きく響く。
「……いつも、ああなの?」
歩きながら、どうしても堪えきれなくなって、私は小さく、そう聞いた。夜の空気はまだ湿っていて、さっきまでの雑踏のざわめきが、耳の奥に残っている。あの男たちの声も笑い方も軽く肩を叩く仕草も、思い返すほどに胸の奥で鈍く、反響した。
「ん?」
彼は歩調を変えずにこちらを見る。何のことかわからない、というより、話題を特定する必要がない、という顔だった。
「ああやって……絡まれたりすること」
言葉にした途端、自分の声が少しだけ硬くなったのがわかる。彼が軽く受け流して去っていったあの光景がなぜか私の中ではずっと引っかかったままだった。ホークスは少しだけ顎を引き考えるというより記憶を撫でるみたいな間を置いてからあっさりと言う。
「まあ、たまにありますよ」
その口調は、まるで、明日の天気の話でもするみたいに呑気で、平坦だった。
「嫌じゃない?」
「嫌?」
問いは確認というより祈りに近かった。嫌だと言ってほしかったのかもしれない。少なくとも、少しくらいは、顔を曇らせてほしかった。しかし彼はその言葉をなぞるように首を傾げて繰り返してから、ふっと笑った。自嘲でも強がりでもないいつものあの、軽い笑みだ。
「ん〜、どうでしょうねぇ」
そして、声色を変えないままそう前置きして、彼はどこか芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「昔よりは、だいぶ減りましたし」
「昔?」
「デビュー当初とか。もっとでした」
「……」
「ヒーローってだけで、好き勝手言う人は一定数いますから」
「……それで、平気なの?」
「平気、っていうかぁ……いちいち引っかかってたら、身がもたないんで」
彼は、前を向いたまま続ける。彼の口の端から白い息が吐かれる。それはきっと、彼なりの生存方法なのだ。空を飛ぶために重たいものをいくつも切り捨ててきた人の言葉。
「……私だったら、無理かも」
ぽつりと漏れた本音に、彼がちらりとこちらを見る。私はあえて、目を合わせなかった。
「ええ、名前さんは向いてないと思いますよー」
「なにそれ、どういう意味?」
「気にしすぎるし、ちゃんと腹立てるでしょ」
「……それ、褒めてる?」
「まあ、そっすね。めちゃくちゃ」
冗談なのか本音なのかを濁したまま、彼は一度足元に視線を落として、少し、間を含ませてから言った。
「ちゃんと人として怒れるの、才能ですから」
その一言が妙に胸に残った。私は、返す言葉を失って、ただ、視線を落として歩き続けた。若きトップヒーロー。期待と、嫉妬と、軽蔑を同時に投げられる存在。しかし、彼はそれを笑って受け流す。受け流して何事もなかった顔で次の場所へ向かう。それが彼の選んだ生き方なのだとしても私はさっきの光景をどうしても「何もなかった」とは、思えなかった。
「あ〜、早くぬくかとこで、ビールぐいっ〜て、やりたいすね!」
「……おっさんみたい」
「おっさんすよ、もう」
「喧嘩売ってる? そこの川に、突き落とすよ」
「怖!あ、そしたらまた名前さんのとこにスマホ持って行かんとね」
「あ、やっぱ今のナシ!」
「ふはっ」
彼は立派な翼を背負っているにも関わらず相変わらず軽く、夜の街に溶け込むみたいに自然だ。それでも私は思う。彼が平気なふりを覚えなければならなかった理由を。いつか誰かが真正面から抱きしめてやる必要があるのではないかと——。
そんな事を考えているうちに街の輪郭が、ゆっくりと現実に戻ってくる。居酒屋の暖簾が見えてきた。赤い提灯の灯りが、先までの静かな思索を切り替える合図みたいに、視界に差し込んだ。
「はいっ、着きましたよー」
彼が先に扉を押し開けて、ほんの少しだけ立ち止まり私を通してくれる。その仕草はもう何度も繰り返されてきたものなのに今夜はなぜか素直に受け取れなかった。私はその背中を目で追いながら、店の中へ足を踏み入れる。焼き物の匂いと、油との湿った空気が一気に鼻を満たし、外で張りつめていた感情が緩んだ膜の隙間から滲み出す。
テーブル席の向かい側に腰を下ろすと同時に、ホークスがいつもの軽さでこちらを見て言った。
「一発目は、何飲みます?」
その声は変わらない。さっきまであんなふうに言葉を浴びせられても、何事もなかったように、笑っていた人の声だ。
「……とりあえず、生で」
「やっぱりね。了解でーす」
少し間を置いてそう答えると、彼は、迷いなく頷いた。ほどなくして届いたジョッキを私は手に取る。冷えたガラスの感触が掌に伝わるのを待つ余裕もなく、喉へと流し込む。泡が唇に残るのも構わず、半分ほど、一気に飲み下した。胸の奥に溜まっていたものがアルコールと一緒に押し流される気がしたのに、実際には何ひとつ消えていなかった。
「おぉ〜!相変わらず、いい飲みっぷりっすね」
私は勢いのまま、グラスを、テーブルに置く。ガンッ!と木の天板に当たったその響きが店内のざわめきの隙間を、縫って広がる。隣の席から、ちらりと視線が飛んできて、すぐに逸れていく。それすらも今は、どうでもよかった。
「むかつく」
「んー? なにがです?」
声は自分で思っていたよりも低く、投げ捨てるみたいだった。向かいの彼は、泡の名残が揺れるジョッキを持ち上げたまま、穏やかに問い返す。眉も口元も、ほとんど動かない。その落ち着きが今の私には、妙に刺さった。
「あいつら……どんな個性持ちなのか、知らないけどさぁー?」
「……」
「ヒーローでもないくせにさぁ?好き勝手言いやがって……」
途中で言葉を切る。言動が荒っぽいことすらも制御できない。あの男たちの笑い声や、馴々しく汚い手でヒーローの肩に触れた距離感が、脳裏に浮かんで、また胸の奥が、いやにざらついた。
「ああ、さっきの」
彼はようやく思い当たったように、軽く相槌を打つ。その声には怒りも驚きも含まれていない。ただ、事実を事実として受け取っただけの乾いた響きがある。その温度差が私の神経を逆撫でする。どうして、そんなふうに平然としていられるのか。どうしてあんな言葉やあんな態度を簡単に流せてしまうのか。
私は、グラスの底に残ったビールを見つめる。泡の抜けた液体が胸の奥に滞っている感情みたいに動かない。もう一度、その感情を噛みしめる。怒りは彼の代わりに怒っているつもりでいながら結局は、自分の無力さを映しているだけなのかもしれなかった。それでも今夜だけは、この感情を飲み込むつもりはなかった。
「相手がヒーローだからって、何を言っても許されると思ってるんだよ。ほんと、信じらんない」
「世の中、いろんな人がいますからねー」
「関係ないよ!言っていいことと悪いことがあるでしょ。もう……サイアク。ありえない」
言葉が止まらない。怒りがまだ、身体の内側で熱を持っている。一方でホークスは、驚くほどに冷静だった。怒りを煽るでも、同調して煽り返すでもなく、ただ、いつもの温度で話す。
「俺も生意気でしたよー?」
「……は?」
「若いころなんかは、とくに」
「まだまだ、若いでしょうが」
「よく先輩ヒーローたちに言われました。言葉と態度には、気をつけろー、ってね」
そう言ってホークスはどこか遠くを見るように笑った。私は思わず身を乗り出していた。椅子の脚が床を擦って、小さく鳴る。
「だからって……!」
自分でも驚くほど声に力がこもる。ホークスは演技みたいに目を見開いて、その瞳を瞬かせる。
「どうして……何も言い返さなかったわけ?」
問いというより詰問に近かったかもしれない。胸の奥に溜め込んでいたものが、ようやく出口を見つけた気がして、止められなかった。
「えぇ? あー......」
彼は言葉を探すように視線を泳がせ、手にしていたジョッキをゆっくりとテーブルに戻す。その仕草ひとつひとつが落ち着きすぎていてかえって私を焦らせる。
「まぁ、でも。あの人たちの言うことも、なんか一理あるなーって思って」
「どこが!」
思わず跳ね上がった声は、幸いにも、居酒屋のざわめきに溶けていく。隣の席の、笑い合う声。厨房から聞こえる皿のぶつかる音。そのどれもが私の内側のざらつきを覆い隠す背景音みたいだった。それでも、心臓の鼓動は、さっきよりずっと早い。すると彼が、少しだけ声の調子を落とす。
「俺もね、まあ……」
「なに」
短く返すと彼は目を伏せたまま、グラスの縁を指でなぞりながら続けた。
「あーいう連中から、気安く『ホークス!』って呼ばれると正直、腹立ちます」
その言葉に私は一瞬だけ言葉を失う。彼がそう感じていること自体が少し、意外だったから。
「……うん、だよね?」
自分の中でひとつ腑に落としながらそう確かめると、彼は軽く笑って肩をすくめる。その仕草がこの話題を深追いしないための癖だとわかる。
「ひなどりちゃんたちからの『ホークス〜』っていう黄色い声援は、好きですけど」
そのまま、いつもの逃げ道に滑り込むみたいに口元を緩めた。その瞬間、私は何も言わずに彼を睨む。言葉はなくてもその視線だけで十分だったのかもしれない。
「うそうそ。ジョーダンです」
彼はすぐに手を振って訂正し、小さく笑った。その笑みは軽くて、場の空気を元に戻そうとする癖のようでもあった。でも私は、笑えなかった。冗談にしてしまえるほど、彼がこの状況に慣れていることが、どうしようもなく胸に引っかかっていたから。
「今は、違うこと考えてました」
彼がぽつりと言ったその声音は、さっきまでの軽さから、ほんの少しだけ逸れている気がした。私は「違うこと?」と問い返しながら、もう一度グラスを口に運ぶ。泡の苦味が舌に残る。
「さっき、電話があって」
「電話?」
「知らん番号から。年配の女性」
「……はいはい、年上マダムにもモテるのねー」
彼の持った箸が皿に当たる音を聞きながら私はわざと肩の力を抜いて、呆れたふりをしつつも、冗談めかしてそう言った。ついでに視線も逸らしため息も吐いてみる。しかし、その直後——。
「母さんでした」
余計な装飾のないその一言が、妙に澄んだ音で落ちる。周囲の喧騒がほんの一瞬だけ、遠のいた気がした。
「え……ホークス、の?」
「はい。郊外に住んでるらしくて」
「……それで?」
「来週、こっちに来る用事があるからって」
「……会うの?」
私はゆっくりとグラスを置く。置いた、というよりも手放した、という感覚に近い。彼は答える代わりにジョッキを両手で包み込む。指先に力が入っているのが、遠目にもわかる。そして彼は、大きく息を吐いた。
「んー、どんな顔して会えばいいのかなって」
「……もう、何年も会ってないの?」
「ですね。俺がガキの頃から、ほぼ疎遠なんで」
��疎遠��——。その三文字の奥に私の触れられない時間が重く沈んでいる気がした。軽く言っているようで、軽くはない。私は、首を傾ける。
「お父さんは?」
「……さあ。どこで何してるんだか」
一瞬だけ言葉が途切れて、視線がグラスの縁に落ちる。その沈黙に合わせるみたいにさっきまで遠くに退いていた店のざわめきが、急に耳の奥へ戻ってきた。引かれた椅子のきしむ音や、誰かの笑い声が、必要以上に大きく感じられる。
「母親と同じくらい、もう、会ってません」
私はそれ以上、踏み込めなかった。彼がどんな過去を背負っているのかすべてを知っているわけじゃない。それでもこの沈黙が、軽く扱っていい類のものではないことだけは、はっきりわかる。ホークスは視線を落としたまま、少しだけ、声のトーンを上げて続けた。
「まあ、でも!それも大人気ないかな〜って思い直しまして」
「……」
「すこしなら時間あるって、伝えました」
「……うん、そっか」
私は、小さく頷いた。肯定でも否定でもない、ただ、受け取ったという合図だ。喉の奥で何かが静かに落ち着いていく。
「で、」
彼がそう言って、顔を上げた。目と目が合う。逃げも冗談も、挟まらない琥珀色の、まっすぐな視線。
「名前さんに、頼みがあるんすけど」
「頼み?」
その瞬間、空気を割るように、場違いなほどに明るい店員の声が割り込んできた。
「枝豆お持ちしましたぁ〜!」
「あ、すんません。どーもです」
彼は慣れた手つきで皿を受け取り、自然に笑いかける。その距離の近さに、女性店員が一瞬だけ言い淀み、それから彼の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。
「あの……あとで、サインもらっても……?」
「へっ? ああ、全然いっすよ〜」
「すみません、プライベート中に……」
「いいえ〜。色紙だけ、用意お願いしまーす」
気負いも、照れもなく答えて、手をひらひらと振る。店員が去っていく背中を見送りながら彼はまだそちらを向いたまま声だけをこちらに投げてきた。
「一緒に、行ってくれません?」
そのときようやく彼は私を見た。笑いも冗談もなく軽口で逃げる余地もない目だった。居酒屋のざわめきのなかで、その一言だけが、妙に輪郭を持って静かに残る。頼みごとというより差し出されたひとつの事実みたいにして。視線が交わった瞬間、彼の言葉が初めて音ではなく、意味として私の内側に触れた。その問いは、私に向けられているはずなのに、親友という名の緩衝材が認識をわずかに遅らせ、胸の奥で何かが一拍遅れてからようやく、その主語が自分であることを悟った。
「……わたし、が?」
思わず聞き返すと彼は一瞬だけ視線を逸らした。軽口で切り出したくせにその先が続かない。グラスの縁をまた指でなぞりながら、少しだけ、言葉を探している。
「あー、別にその……恋人の芝居してほしいとかそういう話じゃなくてさ」
「う、ん?」
「ただ、その……」
歯切れが悪い。彼がこんなふうに言葉を慎重に選ぶのは、珍しい。「……緊張する?」と、私が聞くと、彼はすぐに否定も肯定もせず、喉の奥で一度だけ、息を整えた。
「緊張、っていうか……」
「……って、いうか?」
「うーん。マジで、数十年ぶりとかなんで。なに話していいか、ちょっと、わかんなくて」
「うん?」
「……妙な沈黙になるのも、あれじゃないすか」
その言い方が、ひどく現実的で、私はすぐに、否定もできず、逆に、笑うこともできなかった。肩の力を抜いた言い方なのに、そこだけがやけに生々しい感じがした。
「いっぱい話すことあるんじゃない?ていうか、聞きたいこととかも、たくさんあるでしょ?」
無理に明るく言ったつもりだったけれど、彼は視線をグラスに落としたまま、体温のない声色で答えた。
「いや、別に」
即答。迷いのない、声音だった。拒んでいるというより自分で扉を閉めているみたいな、乾いた感じ。
「えー? 今まで、何してたのー?とか。どうして連絡くれなかったのー?とかさ」
「はっ。いまさら、興味もないですけどね」
淡々とした声。突き放しているようで、どこか自分にも、言い聞かせているみたいな響き。その平坦さが、逆に胸に引っかかった。
「そうかなぁ……」
それ以上言葉は続かない。沈黙が落ち居酒屋のざわめきだけが分厚い壁みたいにして二人の間を満たす。背後の笑い声、グラスが触れる音、厨房から聞こえる注文の声。それらに紛れて彼の本音がまだ形にならないまま、留まっている。
「……ほら、」
やがてホークスがぽつりと口を開いた。周囲のざわめきの底で彼の声だけが少し輪郭を帯びる。
「俺、ひとりだと、なんていうか……」
「うん?」
「思わずこう、ガーって?言わなくてもいいことまで、言っちゃうかもしれないなァ……なんて」
その言い方が、少しだけ子どもっぽくて、私は一瞬、胸の奥が緩む。言葉を選ぶふりをしながら実際には言葉に怯えているその不器用さが透けて見える気がして。
「そんな、短気な性格じゃないでしょ」
「はは。どーすかね」
自分を過小評価するみたいな軽い笑い。冗談の形をした、予防線。
「横に誰かがいると、冷静になれる?」
「そう」
今度は、はっきりと頷いた。それは、逃げ道のない肯定だった。
「もしそうなっても歯止めが効くじゃないすか」
「んー。歯止め、ねぇ……」
「……ま、嫌ですよね、普通に」
私が言い切る前に彼は、自分で話を畳む。頼みすぎないように、期待しすぎないように、という配慮が、癖みたいに言葉の端々に滲む。
「大丈夫です。気にせんで。俺一人で行くんで」
それ以上は頼らない、この話はおしまいというような顔だった。彼はグラスの水滴を指先でなぞりながら視線を落とし話題ごと丁寧に畳んでしまう。だから私は少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「いいよ」
私の声に頬杖をついて斜め上を見えていた彼の顔がこちらに向けられる。その動きが思っていたよりも早かった。
「え?」
「行っても、いいよ?」
軽く言ったつもりだった。言い直しもしない。こういうときは逃げ場は残さないほうがかえって誠実だと思っている。
「私が、一緒に行ってあげる」
一瞬だけ彼の表情が固まる。驚きと戸惑いと、ほんのわずかな安堵が、互いに消し合いながら、浮かんでは沈む。
「……ほんと?」
「うん」
私は、はっきりと肯定して、少しだけ笑った。自分の声が思ったより落ち着いているのが、少し不思議だった。
「ちょっと興味あるしね。ホークスのお母さんがどんな人なのか」
「どんな人て。」
「綺麗だったんでしょ?髪も瞳も同じく黄色?」
からかうように言うと彼は少しだけ眉を寄せてみせた。その仕草がほんの僅かに照れに見える。
「……もう、普通のおばさんでしょ」
ぶっきらぼうな返しだ。まるで子どもみたい。私はくすくす笑いながら、さきほど運ばれてきた枝豆に箸を伸ばす。薄い塩味が舌に残り場の空気もどこか、穏やかにほどけていく。
「だったら、いいね」
「えぇ? どういう意味で?」
「ううん?」
私は説明せずに曖昧に笑って言葉を濁し答えの代わりに箸で掴んだ枝豆を彼の皿のほうへそっと寄せる。その仕草だけでこの話題はここまでだと静かに区切った。
「ほら、食べて食べて」
「あ、はい」
そう言って、皿に乗せられた枝豆を手でつまむ彼の顔を見ながら、私は思う。これは、誕生日の話じゃない。でも彼が二十一年生きてきた時間のいちばん、根っこに触れる出来事だ、と。
居酒屋の灯りは、相変わらず賑やかで、店内の空気も変わらない。私はグラスを持ち上げ残っていたビールを、静かに飲み干した。
店を出ると夜の空気が思ったより冷たかった。アルコールでやや赤く染まった頬に風が触れて、少しだけ現実に引き戻される。街灯の光が濡れたアスファルトに反射して、二人分の影が、並んで伸びていた。
夜風に肩を撫でられながら歩き出したところで私のほうが先に口を開いた。さっきまで居酒屋のざわめきに包まれていたせいか外の空気がやけに澄んで感じられる。
「それで?」
「はい?」
「来週って、いつなの? お母さんと会う日。」
問いかける声は思っていたよりも平坦だった。声の温度が自分の胸の奥の動揺と一致していないことに、かすかな違和感を覚える。
「あー、水曜日です」
あまりにも簡潔で、あっさりした返事が返ってくる。間も余韻もなく事実だけが道に落とされたみたいに置かれる。私は思わず、息と一緒に声を漏らした。
「え」
「ん? 水曜日。あ、仕事でした?」
横目でこちらを窺う視線が、一瞬だけ触れる。気遣いなのか確認なのか、そのどちらとも取れるような曖昧さが、かえって彼らしいとは思うが。
「い、いや……」
足を止めるほどでもない迷いを胸に抱えたまま私は歩きながら少しだけ考える。頭の中でシフト表とカレンダーと、彼の誕生日が重なっていく。
「来週の水曜と木曜は、もともと希望休出してたから」
「そっか、よかった」
短く区切るように言って、彼はすぐに前を向いた。その言い方があまりにも自然で、まるで私が行けるかどうかだけが重要だったみたいで、胸の奥に小さな棘みたいなものが残る。
「……イブ、だよね?」
口に出してからわずかな沈黙が流れる。歩道の信号音と、遠くの車の音が、その隙間を満たしていく。
「はい?」
「イブ。ホークスの……バースデー、イブ」
説明するみたいに言い直すと、彼はほんの一瞬だけ間を置いてから曖昧に笑った。その笑いが、肯定なのか回避なのか、判断がつかない。
「あぁ〜! んー......そっすねぇー」
軽い調子。受け流すようでいて、でも、否定はしない。その曖昧さがかえって現実味を帯びる。
「どこで会うの? もう、場所は決めてる?」
「待ち合わせ場所は、まあ……適当に」
「それで?」
「それで?」
問い返した私に、彼は同じ言葉を繰り返して、少しだけ首を傾げる。その仕草が、無意識の逃げ道みたいに見えた。
「……終わり、ですけど」
「そ、そっか……」
「はい、そーです」
やはり、あまりにも簡潔で、必要最低限すぎるそのやり取りに私はそれ以上踏み込めなかった。踏み込めなかったというよりも踏み込まない事を自分で選んだのだと思う。これ以上聞けば、彼の静かな均衡を崩してしまいそうで、そしてそれを壊す権利が自分にあるのか、わからなかった。
「……あとで、時間とか連絡してね」
「は〜い、了解ですっ」
やけに明るい返事。その声の奥で、ほんの少しだけ、肩の力が抜けたのがわかる。頼られたことよりも、拒まれなかったことに安堵しているみたいに。
駅が見えてきて、自然と歩幅が揃わなくなる。改札へ向かう人の流れに、それぞれの速度が吸い込まれていく。今日の話はここまででいい。これ以上、言葉を重ねると何かがずれてしまいそうでずれたまま、元に戻らなくなる気がした。
「今日は、ありがとうございました」
「ううん、こちらこそ。気をつけてね」
「はい。名前さんも。お疲れ様でした」
「うん、お疲れさま」
私の名前を何の気負いもなく呼んで、軽く手を振る。私は背中を向けてから、思い直したように一度だけ振り返った。ホークスはもう前を向いて歩き出している。その背中が、夜の人波に溶けていくのを、私はしばらく見送っていた。誕生日の話は、まだ途中だ。彼の母親の話もきっとまだ、入口に立っただけ。それでも来週の水曜日。彼の誕生日の前夜。その日付だけが静かに確かな重みを持って、胸に残っていた。