夜の駅のホーム。電車の通過音が遠くで響いたあとに静けさが残る。私はスマホの画面を見つめたまま、微動だにできなかった。光る通知。表示された名前──【不在着信:ホークス(9)】
その数字はもうすぐ二桁を越えようとしていた。けれど指先はどうしても動いてはくれなかった。
ことのはじまりは、今朝のニュース。見慣れた名前。見慣れた横顔。その隣りに寄り添うのは、只今絶賛売れっ子大売り出し中のセクシー女優。
『ウィングヒーロー、福岡のホテル街にて──』
と、大きな見出しが踊っていた。何も言われていない。だから何も信じられなかった。彼の声を聞けばきっとわかってしまう。どこまでが真実でどこまでが嘘で、どこまでがやさしさで……どこまでが��保身�≠ネのかを──。だから怖かった。ただただ、怖かった。
ポケットの中のスマホが震える。音を切っているのに気配だけは心臓のすぐそばに届いてくる。
──どうして、あんな笑顔で写ってたの?
──どうして、あんなに距離が近かったの?
──私が東京にいる間、なにを守ってたの?
問いかける相手は目の前にいなくて、それでも喉の奥には言葉にならない何かが詰まっていた。涙ではなかった。怒りでもなかった。ただ、深い沈黙だった。
ふとガラスに映った自分の顔を見る。泣いてもいないし、怒ってもいないのに、ひどく弱々しく見えた。
「ほんと……ずるいなぁ、ヒーローって。」
そう呟いた声が、誰にも届かないことだけが、少しだけ救いだった。呼び出し音は、まだ鳴っている。けれど私はそれを取らないまま電源ボタンを長押しした。とたんに画面が暗くなって、音も光も消える。まるで、世界のどこにも��プロヒーロー・ホークス�≠ェ、いなかったみたいにして。
もし、この画面の向こうでまだ彼が私の名前を呼んでいるのなら。どうか、今だけは、届かないままでいて欲しい──。
その日の深夜。アラームも、通知も、すべてを切ったスマホを枕元に伏せたまま、私は、電気も消さず毛布にくるまっていた。
眠れない夜の過ごし方には、もう、慣れていたはずだったのに。けれど、今夜は、少しちがっていた。静かすぎる部屋。時計の秒針だけが天井に響いている。誰にも連絡を取っていない。だから誰からも連絡はこない。いや──来ているのかもしれない。けれど私はもう受け取ることに疲れてしまっていた。
今朝のニュースを誰か身内が見ていたとしてもそれについて話すような、間柄の知人はいない。そもそも「大丈夫?」なんて聞かれたら、うまく笑える自信もなかった。だってほんとうは私は、いったい何者なのだろう、って。彼の��彼女�≠セなんて、誰にも言っていないのに。ただ、毎晩の電話のなかで「おやすみ」と言ってくれる声に、甘えていただけなのに……。
「……はぁ。」
あんな写真ひとつで、すべてがひっくり返ってしまう。ああ、なんて脆い関係だったんだろう。
毛布の奥で、指先が布を握る。目を閉じれば、彼の声が浮かんでくる。笑い方、私の名前を呼ぶ温度、語尾の、少しだけ甘い響き。「会いたいですね」「あなただけです」なんて他愛ない言葉をなぜあんなにも信じてしまっていたんだろう。
声を殺すために口元をぎゅっと押さえた。喉の奥からせり上がる嗚咽は、小さく、静かだった。泣いていることを、誰にも知られたくなかった。けれどそれは自分自身にすら隠しきれなかった。
──ねえ、ホークス。あなたが、あの女の人に見せた笑顔は、私がまだ見たことのない顔だったよ……やっぱり私のような一般人じゃ、釣り合わないんだね。
言えない言葉が胸の奥でいくつも折り重なってそれでも夜は変わらずに流れていく。
電気をつけたままの部屋で私はしばらく、ただ黙って泣いていた。誰の声も届かない夜の底で、自分という輪郭ごと、少しずつ沈んでいくような気がした。
*
連絡、してみるもんだな。仕事が不運にも休みだった翌日の夕方、ふと気まぐれに長い間連絡を取っていなかった知人に『久しぶり!飲みに行かない?』とメッセージを送ったらあれよあれよという間に輪が広がって気づけばずいぶん大所帯の飲み会になっていた。
酔っていたわけじゃない。けれど、いつもより少しだけ声が大きくなっていた気がするし、笑い方もどこか雑で歯止めのきかない何かが混じっていたと思う。
「じゃあ、またねー」
「また連絡するねー」
そんな声を背中に受けながら、賑やかに散っていく友人たちの姿を見送って私はひとりその場に取り残された。
スマホには触れなかった。ただ吐き出すようにひとつ息をついて、ゆっくりと、呼吸を整える。笑いすぎた頬の奥に、まだ、重たいものが沈んでいた。どれだけ騒がしい会話に紛れていてもそれだけは、どうしても消えなかった。
背中を押されて店を出たときにはまだ夜の熱が路面に残っていた。けれど今はその熱も失われて街灯の明かりばかりがやけに冷たく滲んでいる。
鞄の奥、スマートフォンは眠ったまま。画面も見ていない。鳴っているかどうかも、もう、気にしていなかった。
「……落ちましたよ。」
その声は、ふいに肩のうしろから降ってきた。振り返ると、黒い服をまとった男性が少し離れた場所に立っていた。細い目、気怠げな佇まい──それでもどこか、張りつめた空気を纏っている。
そのまま彼は、無言で私の隣まで歩いてきて、足元を指差す。落ちていたのは私のハンカチだった。私は一瞬、呆気にとられてからようやく手を伸ばし、それを受け取った。なんだか王道すぎる展開に思わず、苦笑いを浮かべてしまう。
「あ……ありがとうございます。」
小さく頭を下げながら、その顔を、まじまじと見つめる。どこかで見たことがある擬似感。いやテレビの中か情報資料か──間違いない。彼は、プロヒーロー、イレイザー・ヘッドだ。
「あの、イレイザー……ヘッド、ですよね」
「……まあ、そうですが」
ごく自然に返された声。だが、その口調の奥にある無愛想さがかえって妙に人間的だった。私はどこか落ち着かない気持ちで笑みを浮かべた。
「えっと……あの、初めまして……、ですよね。
……
「……生、とは」
「い、いえ……実際にお会いするのは初めてって意味で……」
彼は眉をひそめつつも、ほんのわずかに視線をゆるめた。その目に宿っていたのは相手の真意を読み取ろうとするヒーローらしい観察のまなざしだった。
「──あ、あの……」
やや居心地悪くも、私は咄嗟に言葉をつなぐ。
「昔、よく対応してまして。私……ヒーロー緊急支援センターでオペレーターをやってるんです」
それを聞いた瞬間、彼の目元がわずかに細められた。記憶の中に何かが浮かんだような、そんな表情だった。
「……ああ、言われてみれば」
「イレイザーの現場。火災救助とか個性事故とか
……いろいろ、引き継ぎ担当してたんです」
「どうりで。聞き覚えのある声だと思いました」
その言葉に私は思わず息を呑んだ。声を覚えていてくれた。それだけで、オペレーター、冥利に尽きる──と言ったところだろうか。
「えっ、覚えてます……?いつも最後に『通信、遮断しますね』って、仰ってたんです」
「……そんなこと、言ってたか」
「無言で切られたこと一度もなかったんですよ。それが、すごく印象的で」
彼はしばらく黙っていたが、やがて小さく吐息をこぼすように「……そうですか」と、呟いた。その声音が、ほんのすこしだけやわらいだように感じたのはたぶん、私の気のせいじゃなかった。
「なんだか……不思議ですねぇ。声だけで知っていた人に、こうして直接、会うなんて」
「それは……お互い様ですね」
「はい」
ふたりのあいだに、少しだけ静けさが降りた。このまま別れてしまうには惜しいほどの、微かな繋がりが、そこにはあった。
「──あの……もし、まだお時間があれば、」
言葉よりも先に動いたのは心だったのかもしれない。夜の、生ぬるい風に背中を押されるようにして、気づけば私の唇は、静かに動いていた。
「少しだけ……、一杯、いきませんか?」
誘ったあとで、なんとなく気づく。この人は、簡単には他人に心を開かない。そんな気配が姿勢にも、言葉にも、にじんでいた。
案の定、彼はしばらく黙っていた。警戒──というよりも、慎重さ。心の襞を見せるには時間が要る人。
「……酒のペースは、もう落としますけどね」
「もちろんです。私も、ノンアルにします。」
彼は、ふっと小さく息を吐いた。そのまま何も言わずに歩き出す。私は一歩だけ遅れて、そのやや高い背中を追いかけた。
駅前の光が少し遠ざかって、二人の影が夜道に延びる。やがて自然と隣に並んだその瞬間、彼がふとこちらに目を向けた。目を細めたその表情には疑いでも好意でもないただ静かな観察が宿っていて。なぜだかそれが、とても印象的だった。
『──浮気、しないでくださいね?』
不意に、あのときの声が胸の奥に蘇る。思いがけないほど鮮やかに。けれど、奇妙なほど、後ろめたさはなかった。これは、浮気なんかじゃない。誰かに甘えたわけでも心の隙間を埋めようとしたわけでもない。むしろこれは、仕返し……そう、ほんの、ひとしずくの反抗心。
その夜風が頬を撫でたとき、私は、自分の心が少しだけ、静かに離れていくのを感じていた。
二軒目は、最寄りの裏通りにある小さなジャズバーを選んだ。店内は薄暗く、カウンターの奥でだけ、ゆるやかなトランペットが鳴っている。
カウンター席が空いていたので私たちは自然と並んで腰を下ろした。
「甘くないジンジャーエール、ありますか?
あ、えっと……イレイザーヘッド、さんは……」
「呼び捨てでいいですよ」
「え?あ、じゃあ──イレイザーヘッドは何を」
「じゃあ、甘くないウーロンで」
え。冗談なんか、言うんだ……。そう思って、私は、小さく笑った。思わずこぼれたほんの短い笑み。ほどなくして、グラスが運ばれ、氷が音を立てて沈む。会話は多くなかった。でも不思議と気まずさは感じなかった。カウンター越しのグラスの中でまたひとつ、氷が静かに沈む音がした。
なんとなくそわそわしてしまって私は無意識に鞄の奥からスマートフォンを取り出した。画面に目をやった瞬間、心臓が少しだけきりりと痛む。
──不在着信。しかも、いくつも……。名前はわざわざ確認しなくても、もう、わかっていた。
「彼氏ですか。喧嘩中とかの」
「……え?」
咄嗟に顔を上げると、彼はグラスを傾けたまま真正面を向いていた。
「表情が、強張ったので」
まっすぐな観察。その言葉に、私は息を呑んで言葉を失った。ややあって、それでもそっと口を開く。
「……聞きたい、ですか?」
ぽつりと問いかけると、彼はグラスの中の氷をゆらしながら、ゆっくりと答えた。
「話したいのならば。お好きにどうぞ」
その声音に思わず胸がきゅうと痛んだ。ああ、この人は、こういう人なんだ。ただ黙って待ってくれる。押しつけず、引かず。昔、通信の向こうで対応していた時もそうだった。黙っていてくれるからこそ、少しずつ心がほどけていく。今夜も、そうだな、と思った。
私はもう何も言えなかった。けれど今夜だけはそれでよかったと思う。カランと氷の音がする。その音だけがささくれ立った心をほんの少しだけ静かにしてくれた。
「……あの、雄英高校の教師をされていらっしゃるんですよね」
「ええ」
私はグラスの底を見つめたまま、問いかけた。
「誰かのことを、信じて待っていたのに……その信じるが、一瞬で壊れたことってありますか?」
返ってきたのは静かな沈黙だった。けれどそれは、拒絶ではなかった。選び取られた重みのある沈黙。そして、ぽつりと。
「……ありますよ。山ほど」
低く、乾いた声だった。それが今夜、いちばん心に沁みた。
きっと彼もまた、かつて同じような夜を越えてきたのだろう。そう思えたことでようやく私は、少しだけ、肩の力を抜くことができた。
夜はまだ深く、ふたりの間には多くを語らない距離があった。でも、だからこそ守られたものも確かにあったのだ。
彼──ホークスの喧騒から逃げるように、私はこの夜に身を預けた。ただ静けさに包まれていたくて……誰にも責められずに、ただ今夜だけは、ここに、いたかったから。
「……あの、イレイザーヘッド。」
「はい」
「連絡先──。もし、何かあったときのために」
グラスを持ったまま、私は言った。相手の目を正面から見ることは、できなかったけれども。
「それは──ヒーロー緊急支援センターの、オペレーターとして?」
「……、それも……含めて、です」
「……」
「今日、話せてよかったから。つながり方が変わっただけで、変わらず話したいなって」
彼はしばらく考えるように視線を落としたままやがて、ポケットからスマホを取り出した。
「じゃあ、交換しときますか」
その声は、相変わらず淡々としていたけれど、どこか、柔らかさを帯びていたように感じた。
「……はい、ありがとうございます」
互いに名前を入力し合う。そうして彼のスマホには、私の名前が記録された。私の端末にも彼の名前が小さく、静かに灯った。それだけのことが今夜の自分には、少し救いだったように思う。