湯気の名残をまとった空気が部屋に溶け込み、照明を落としたリビングは、昼とは別の生き物みたいに静かだった。昼間の延長線上にあるはずの部屋が、夜になるとまったく違う場所に移動してしまう、その感覚が私は少し好きで、少し怖い。
先に寝室へ向かいカーテンを少しだけ開ける。夜の街の光がガラス越しに薄く滲んで、ベッドの白いシーツに淡い影を落とした。その影を見つめていると、今日という日が現実なのか夢なのか、その境目が曖昧になってくる。
「寒くないです?」
背後で彼の声がした。足音が近づき、床のわずかな軋みが心臓の鼓動と重なる。彼は私より少し背が高くて、その影が、私の影に重なった瞬間、胸の奥に温度が生まれた。影が重なるというだけで、距離の概念が書き換えられてしまう。
「うん」
短く答えると彼は何も言わずにドアを閉めた。その音が外界との境界線を引いたみたいで、胸の内側に引いていた線が一本ずつ消えていく。背後で照明が落ちる音がする。スイッチが切り替わる小さな音が今日という一日を閉じる合図みたいで私は無意識に肩に力を入れた。部屋の灯りが消えたあと、空気がゆっくりと形を変えていくのがわかる。昼間の延長にあるはずの夜なのに、どこか別の場所に連れてこられたみたいに、音の輪郭が遠くなる。
カーテンの隙間から入る街の光が床に細い線を引いていて、それを跨ぐのが少しだけ怖かった。私はベッドに腰を下ろしシーツの冷たさが太ももに触れるのを確かめる。綿の繊維の感触、わずかに残る洗剤の匂い、空気の中に混ざる彼の気配。そういう細部ばかりが妙に鮮明で言葉よりも先に身体のほうが状況を理解している気がした。
「……もう、寝ます?」
軽い声。いつもと同じ調子なのにどこか言葉を探るような間がある。彼の足音が近づき、マットレスが、わずかに沈む。その重さが伝わってくるだけで、胸の奥がじんわりと温度を持ち始めた。
ベッドに横になるとシーツの冷たさが肌に触れすぐに彼の体温で上書きされる。隣に横たわった彼の存在が音よりも先に皮膚に届く感覚。呼吸の流れ、布の擦れる音、髪が枕に触れる、わずかな振動。すべてが、近すぎる距離を告げている。
「……眠い?」
「まあ……普通です」
普通、という言葉は便利で、何も言っていないのと同じだと、私は知っている。横になった彼の気配はすぐ隣にあるのに身体の輪郭はまだ触れていない。その距離が今日まで守ってきた線の名残みたいで、少しだけ愛おしい。
私は仰向けのまま天井を見つめる。暗闇の中で視界が溶けていくと、代わりに呼吸の音が浮かび上がる。彼の呼吸は浅くて、私のより、わずかに速い。さっきまで泣いていた人の呼吸だと思うとそれだけで胸が軋んだ。
「ねえ」
暗がりの中、私が小さく声を出すと彼の呼吸が一瞬、止まった気配がする。
「今日、さ……」
言葉を探しながら、喉の奥で転がす。言ってしまえば戻れないのに、もう戻る場所はないのだとどこかで理解している。
「線、引かなくていい日、なんだよね」
沈黙。数秒、あるいはそれ以上の時間が流れた気がした。暗闇の中で彼の輪郭がこちらを向いたのがわかる。視線の気配というのは見えなくても伝わるものだ。
「……そう、ですね」
低く、少し擦れた声。冗談めかす余裕はなくて肯定なのに、どこか、覚悟みたいなものが滲んでいる。私は横を向いて彼のほうを見る。暗闇でも金色の髪の淡い反射がわずかに見える。その影の縁が、先に流した涙の痕跡を思い起こさせて胸の奥に柔らかな疼きが生まれる。
「……なんか、変な、夜っすね」
彼が天井に向き直って言う。声の輪郭が、夜に溶けるのを確かめるみたいにわずかに間を置く。その間が、彼の中で慎重に測られている時間だと私は知っている。
「変?」
「そう、変。いい意味で」
「……」
言葉を選んでいる間に、彼の指がシーツの上で動き、私の手のすぐ隣に来る。触れていないのにもう触れているみたいな距離。指先が発する熱が空気を伝って私の皮膚に届く。私は視線を落としその距離を確かめる。彼の指は、やや太く、ヒーローの手なのに、今はただの人の手で、わずかに震えている。その震えが私のせいなのか、今日という日のせいなのか、あるいは彼自身の夜のせいなのか、判別できないまま、私は目を逸らせずにいた。
「怖い?」
「……怖い、すね。うん、怖い」
即座に否定しないところが彼らしい。声は静かで、曖昧に濁してはいない。その正直さが暗闇の中で、輪郭を持って浮かび上がる。
「線、引いてたほうが、楽なんで」
「うん」
私は短く応じる。楽な場所に戻れるなら戻りたかった。でも、戻らないと決めたのは、たぶん、私のほうだった。彼は少し言い淀み言葉を探す。夜の静けさの中で、その沈黙がやけに重く感じられた。
「でも……」
彼は息を吐き、また、私のほうを向く。視線がこちらへ向けられた瞬間、暗闇の中で空気の向きが変わる。目が合わなくても、向き合っているとわかるその感覚が、胸の奥に微細な震えを生む。
「今日だけって言われたら、それはそれで……」
「じゃあ、どうする?」
「んー......どうもしないで、よかや、なかと?」
そう言いながら、彼の腕が少しだけ動く。肘が私のほうへ近づき、指先がシーツの上で私の指のすぐそばに来る。触れてはいない。でも触れようとすればすぐに触れてしまう距離。私はその距離を見つめながら、思考よりも先に身体が反応しているのを感じる。指先に熱が集まり触れていないのにすでに触れているみたいな錯覚が生まれる。
私は何も言わず彼の手に触れた。触れた瞬間、彼の指がわずかに絡む。皮膚と皮膚の境界が曖昧になり体温が混ざる。私はそこで一度、手を引っ込めた。引くという動作が、拒否ではなく確認であることを、自分に言い聞かせるように。
「……触っても、いい?」
ようやく投げた私の声は、思ったよりも低かった。許可を求めるというより互いに踏み出す位置を確かめ合うみたいな響き。彼はしばらく黙っていたが、やがて、短く息を吐いた。
「……どうぞ」
冗談めかした言い方なのに声の奥が震えている。私は再びそっと手を伸ばし、はじめに、彼の髪に触れた。シャワーを浴びたあとの彼の髪は、まだ少しだけ湿っていて指先で触れると羽毛みたいに柔らかかった。次に、彼の腕に触れてみる。体温がすぐに伝わってきて布越しでもわかるほど確かな熱。筋肉の張り、わずかな緊張。ヒーローの身体なのに今はただの、二十一歳の青年の皮膚だと思うと、胸の奥がやさしく締めつけられる。
「……あったかい」
私がそう言うと、彼は小さく笑った気配を見せた。その笑いは照れを隠すためのものではなく、体温に名前を与えられたことへの驚きに近いものだった。
「生きてるんで」
「知ってる」
知っているのに知りたかった。強くて、遠くて触れられない存在みたいに見える人が、こうして体温を持っているという当たり前の事実を。
「名前さんと、こうしてると……怖いのに、離れたくないんですよね」
彼が不意にそんなことを言う。声は低く眠気と別の感情の境目にあるみたいな響き。私はそのまま彼の腕を引き寄せ彼の肩に額を寄せた。呼吸が混ざる。彼の息が頬に触れて、そのたびに微細な風が生まれる。心臓の音が近づき、互いの鼓動が違うリズムで存在を主張する。
「……抱きしめても、いい?」
彼の声が耳元で低く響く。その問いが数時間前の「ルール違反」の続きであることを、私は理解していた。問いかけというより越境の前に唱えられる小さな祈りみたいだった。
「うん」
「……」
「今日は、いい」
短く答えたあと、言い直す。言い直すことで、自分自身にも許可を与えるみたいに。
彼の腕が私の背中に回される。力は強く迷いのない動きなのに、どこか慎重で、どこか壊れ物に触れるような躊躇いがある、そんな力加減。体温が背中全体に広がっていく。胸と胸が触れ腹部の温度が重なり、境界が溶けていく。彼の額が私の首筋に触れ、髪の毛先が皮膚をくすぐる。吐息が鎖骨に落ちるたび細い震えが走る。互いの呼吸が交錯する。金色の髪が頬に触れ、微かに香るシャンプーの匂いと、彼自身の体温の匂いが混ざる。身体の感覚が過剰に鋭くなり、思考よりも先に、感情が波打つ。彼の心臓の鼓動が、私の胸に直接触れている。早すぎもせず遅すぎもせず、けれど確実に生きている音。
そんな中、彼が小さく「……なんか」と呟く。その声が胸骨を伝って内側に落ちてくるのを私は黙って受け取っていた。
「やっぱ、変な感じっすね」
「ふふ。二回目?」
「や……こういうの、ずっと避けてたんで」
腕の力が少しだけ強まる。逃げ場を塞ぐような抱き方ではなく、確かめるような抱き方。包むというより存在を測るみたいな抱擁でその慎ましさが、かえって胸を締めつける。彼の肩越しに窓の暗がりが見える。夜が私たちの周囲でゆっくりと濃度を増していく。
「逃げなくて、いい日なんでしょ」
私がそう言うと、彼はわずかに肩をすくめる。その小さな動きが軽口と本音の境界を探っているみたいで、言葉よりも雄弁だった。
「……今日だけ」
「うん」
「明日からはまた、引き直さんとね」
「うん」
約束というより確認。線を引き直す未来を共有することで今の越境が許される。私は彼の背中に手を回し一定のリズムで撫でた。子どもをあやすみたいな理由のない安心を与える動き。彼の呼吸が少しずつ、整っていくのがわかる。胸の上下が私の身体にも伝わり、そのたびに彼の体温がじんわりと広がっていく。彼は私の服の背中を指先で掴み、離さないまま微かに身を寄せた。掴まれているという事実が、抱き合っている以上に親密に感じられる。
「……落ち着く」
彼の声はほとんど囁きだった。低くて、眠りに落ちる前の子どもみたいな声。強がる響きが抜け落ちて、素のままの呼吸に近い。
「変な、話ですけど……羽根、畳めた感じで」
彼は小さく笑い私の肩に顔を埋めた。私は彼の髪に頬を擦りつける。シャンプーの匂いと皮膚の温度と、夜の静けさが混ざり合って、いつもより近くて、安心と一緒に胸の奥に沈んでいく。
「飛ばなくていいって、許されたみたいで」
「……許してないよ?」
冗談で返したつもりだったけれど、声の調子は思ったよりも穏やかで、否定というより条件提示みたいな響きになった。軽さを装いながら、彼の逃げ場を消したくない自分がいた。
「でも、今日は、飛ばなくていい日」
付け足すようにそう言うと、彼の腕がわずかに強くなった。抱きしめ返す力に、遠慮が少しずつ抜けていくのがわかる。骨格の硬さの向こうに、呼吸の柔らかさがある。
「なんか……ずっと、こういうの、欲しかったんだと思います」
「なにが?」
「こういう……ちゃんと、受け止めてもらえる、感じ」
言葉が途切れ途切れで吐息に溶ける。その途切れに、彼が言葉にしなかった年月の長さが滲んでいる気がした。語られない時間の重さがいま私の腕の中で形を持ち始める。
「重くない?」
「……重かほうが、よかと」
その一言が胸の奥でゆっくりとほどけた。私は彼の背中を撫でる。理由もなく、ただ一定の速度で子どもを眠らせるみたいに彼の存在を肯定するみたいに彼の体重を受け止める。彼はそれに身を預けるように、さらに額を私の鎖骨に押し当てて顔を埋めた。そして、笑うというより息を緩めるような声音で言う。
「飛ばんでもよかって……初めてちゃんと思えた気がする」
腕の中の重さが甘く正確で逃げ場を塞ぐものではなく、互いを支え合うための重さだとわかる。私は彼の髪に顔を埋め彼の体温に溺れるみたいに目を閉じた。そのままこの夜に沈んでしまってもいいと思いながら。まぶたの裏に残るのは、彼の呼吸の輪郭と胸に触れている鼓動の連なりだけ。線を引く言葉も越えるという概念もすべてが遠のいて、ただ、この重さだけが世界の中心にある。
そんな錯覚の中で私は静かに息を吐いた。その温度の中で、夜はこのままゆっくりと沈んでいくはずだった。��越えてしまう感触�≠ェ私の背骨に触れる、その瞬間までは——。
*
翌朝。私はまだ、夢の縁に片足を残したまま、浅い眠りの底を、ゆらゆらと漂っていた。意識は浮かび上がろうとしているのに体だけがまだ夜の名残に絡め取られている、そんな、曖昧な感覚。そのとき髪に、そっと触れるような気配がした。撫でるというよりも、そこに在ることを確かめるみたいな、控えめで慎重な指先。一定のリズムもなく、迷いながら触れているのがわかる。
「……起きました?」
低く、優しい声。私はその音に導かれるようにゆっくり瞼を持ち上げた。焦点の合わない視界の中で最初に映ったのは片肘をついて半身を起こしこちらを覗き込むヒーローの姿だった。白いシーツの上に朝の光が滲み、輪郭を柔らかく溶かしている。
「ホークスは……起きてたの?」
「今、さっきです」
短い答え。けれど声はすでに完全に新しい朝の側にある。
「……ねえ?」
「はい?」
指先の動きは止まらない。髪を撫でながら私の次の言葉を静かに待っている。
「不思議な、夢を見た」
そう告げると、彼は少しだけ身を乗り出した。布擦れの音が、乾いて耳に届く。
「夢、ですか? どんな?」
「うん。私とホークスがね、テレビの画面の中にいるの」
「テレビ?」
「そう……ゲームの、キャラクターみたいに」
「へえ、ゲームの?」
問い返す声に、ほんのわずかな興味が混じる。彼の眉がかすかに動いたのが視界の端っこでわかった。
「楽しそうに、手を繋いでた」
「……それは、いいですね」
その言い方がどこか他人事のようでいて、でも否定でもなくて、私はそこで小さく息を吐いた。
「でもね?」
視線を天井に向けたままで、言葉を選ぶ。白い天井の向こうにまだ夢の映像が薄く残っている。
「そのゲームをしてた子どもが眠くなっちゃったみたいで」
「うん」
「リセットボタンを、押そうとするの」
その瞬間彼の指先がほんのわずかに止まった。撫でていた髪の上で、空気が一度だけ静止する。夢の続きを待つように、朝の光も息を潜めているような気がした。
「キャラクターの私とホークスは、まだ、一緒にいたいのに」
「……」
「消されそうになるから、すごく慌てちゃって」
そう話しながら、私は自分でも可笑しいと思うほど、あの夢の中の感覚をはっきりと思い出していた。消える、というよりも、最初から、存在しなかったことにされるような不条理な焦り。胸の奥がきゅっと縮む感じ。だからだと思う。私は、少しだけ、笑ってしまった。そんな私を見てホークスは、目を細めて先を促す。
「……で? その続きは?」
「うん。急いで、大事なこと、言わなきゃって、思うんだけど」
「うん」
「口が、パクパクするだけで……ぜんぜん、声にならなくてね?」
自嘲とも違う、照れ隠しみたいな笑い。それに応えるように彼の喉からも、小さく息が漏れる。笑う手前で、飲み込んだような音。
「それでね? そのときね」
「はい」
私は一度「えっと」と、言葉を区切った。まだ夢の世界に触れているようで、慎重に話さないと壊れてしまいそうだったから。
「……ホークスが、何か言ってくれたの」
そこで初めて、私は彼のほうを見る。朝の光の中で、彼の琥珀色に輝く瞳は思ったよりも近く、ただ静かに、こちらを受け止めていた。
「でも、パチンって、画面が消えちゃってさ」
「……」
「聞き取れなかった」
言い終えたあとほんの少しだけ胸が軽くなる。それでもどこかに置き忘れた言葉がある気がして私は彼から、視線を逸らせずにいた。
「残念ですね」
彼はそう言った。けれど、その声には残念がる響きよりも、なぜか、柔らかな愉しさが混じっている。その証拠に口元も、かすかに緩んでいた。
「……ねえ?」
「はい」
「なんて、言ったと思う?」
問いかけながら、私は自分でも少し無防備だと感じていた。それでもこれは、彼にしか投げられない質問だった。
彼は一瞬だけ視線を宙に泳がせて考えるふりをする。そして、こちらに身を寄せるようにして、私の顔を覗き込んだ。その距離の近さに夢と現実の境目がまた少し、曖昧になるのを感じながら。
「それ、イージー問題すぎますよ」
「え?」
「だって」
そう言って、彼は私の手を取った。指先を包み込む動作は昨夜よりもずっと静かで迷いがない。そしてそれは確かめるようでもあり逃がさないと決めた人の触れ方でもあった。
「俺が言いたかった、言葉でしょ?」
「……」
問いというより、確認に近い声音だった。私は答えないまま彼の指の温度を感じている。掌から伝わってくる熱が、ゆっくりと腕をのぼり、胸の奥に沈んでいく。
彼はそのまま、私の手の甲に、顔を近づけた。触れる直前で、ほんのわずかに息がかかる。その間合いすら計算されているみたいで、私は思わず瞬きを忘れた。そして、そっと口づける。まるでどこかの国の、王子様みたいに。そんな、陳腐な言葉が浮かんでしまうのも仕方がないくらい綺麗で、静かな所作だった。誇張も、気負いもない。ただ、大切なものに触れる、という動き。
「名前さんを……」
「……わたしを?」
「……」
「なに?」
続きを促す私の声は自分でも驚くほど柔らかくなっていた。彼はすぐには言葉を継がなかった。しかし、わざとらしい沈黙ではなく、言葉を胸の奥で転がしているような、そんな溜め。時間が、伸びる感覚。
「……はい。」
「え?」
「続きは、また来週です」
「えー、なにそれ……」
抗議の声が口をつくよりも先に彼は小さく笑い私の鼻先を軽く摘んだ。声を立てない喉の奥だけで転がすような笑い方。白いカーテンが朝の風を含んで、ゆっくりと揺れる。差し込む光が部屋の輪郭を淡く溶かしていく。その一瞬、世界がこの部屋だけに縮んだような錯覚に陥った。
言葉はまだ、途中のまま。けれど、言い切られなかったからこそ、この時間は壊れずに、残っている。続きを急がなくてもいい。今はただ、この空間だけが、確かに幸福で満ちているから。
彼のセーフハウスのキッチンには朝という時間だけが持つまだ名付けられていない匂いが満ちていた。立ち上るコーヒーの湯気は薄い霧のように天井へ溶け、フライパンの上で油がはぜる音が、静かな室内に、小さなリズムを刻んでいる。白い窓から差し込む光はやわらかく、昨夜の名残を、そっと拭い去るみたいに、床や壁の角を、撫でていた。
私は彼のヒーロースーツのジャケットを羽織ったまま、コンロの前に立って、卵を焼いている。肩は余り袖は手の甲を覆い隠して、どう考えても私の体には大きすぎる。けれど、その不格好さが不思議と落ち着く。彼の温度がまだ布地に残っている気がしたからだ。
「いいすね。似合ってるじゃないすかぁ、それ」
背後から聞こえたその声に、私はフライ返しを動かしたまま、肩越しに笑う。
「だいぶ、オーバーサイズだけどねー」
「すみませんねー。おしゃれなルームガウンとか常備してなくて」
「ほんとだよ。このマンション、朝は冷えるし」
「今度、一緒に買いに行きましょ」
「じゃあ、グッチのやつ買ってもらお〜っと」
彼はコーヒーをカップに注ぎながら湯気越しにちらりとこちらを見る。その視線は一瞬で、見ているのか見ていないのかわからないくらい淡いのに、ちゃんと、私の存在を掬い取っていく。
「でも、ほんと。似合ってますよ?」
「うそ。じゃあ、ヒーローになろうかな」
「それはやめてください」
「どうして?」
「ポジション取られちゃうんで」
「はは。取らないよー。空飛ぶヒーローなんて、あなた以外いないでしょ」
「あ、そ?」
返事はそっけない。でも、カップを持つ指先の力がほんの少しだけ緩んでいるのを、私は見逃さなかった。
「名前さん、今日は仕事、何時からです?」
「えっとねー、お昼過ぎ」
「そっか。夜は? 飯、行きません?」
「あー、今日はパスかな。また今度ね」
「はーい」
断られることを最初から織り込み済みみたいな声だった。私はフライパンを火から下ろし、卵の表面を確かめながら、思いついたように言う。
「なんか、フルーツとかある?」
「あー......たしか、冷蔵庫にオレンジが」
言い終わる前に冷蔵庫を開けると冷たい空気と一緒に柑橘の匂いが広がる。私はその中から一つ取り出した。
「皮、剥きますよー?」
彼は相変わらずこちらを見ないまま、当たり前みたいにそう言った。その無防備さがおかしくて私は少しだけ声を張る。
「ヒーローホークス!三時の方向から、謎の飛行物体が飛来!振り向きざますかさずキャッチ!」
言うが早いかオレンジを放る。彼は振り向きもしない。けれど次の瞬間、ぱしん、と乾いた音がキッチンに響いた。まるでそこに最初からあると知っていたみたいに気づいた頃には彼の手の中にオレンジは、しっかりと収まっていた。
「おぉ〜!」
思わず声が漏れて私はパチパチと手を叩いた。朝のキッチンに、その軽い音が跳ね返る。
「さすがぁ〜。速すぎる男、迷いがないねぇ」
「いや、一瞬だけ三時?って考えましたけど」
「そこ?」
「名前さんから見て三時?それとも、こっちから見て?ってさ」
「真面目〜」
「方向感覚、だいぶ重要ですからね」
「二回目の、真面目〜」
そう言いながら笑うと、彼は肩をすくめてオレンジを持ち替えた。その横顔を見ていると、ついさっきまでの夜の重さが、ゆっくりと朝に溶けていくのがわかる。昨夜のことは言葉にしなければ夢の名残みたいに薄れてしまいそうなのに、こうして彼がそこにいるだけで、ちゃんと現実として息をしていた。
軽い朝食を、二人で済ませる。多くを語らない時間が、なぜか、心地いい。食器を片付ける音、カップを置く音、そのひとつひとつがここに人がいる証みたいで、私は少しだけ名残惜しくなる。
借りていた部屋着を脱いで着替えを済ませると彼は当然のように、玄関まで見送ってくれた。
「送って行きますよ?」
「飛んで?」
「です。飛んで」
「怖いから遠慮しとく。タクシーで帰るし」
「遠慮しなくていいのに」
「あのね、こんな朝はね?」
「はい、こんな朝は?」
「なんとな〜く、ぼんやりと一人になりたいものなの」
自分でもうまく説明できない感覚だった。ただ誰とも話さずに、街の音に身を委ねて帰りたい、そんな朝がたまにある。今日はその『たまに』の日だ。彼は、少し考えるようにしてから、小さく笑った。
「そんなものですか」
「そんなものですね」
「じゃあ、俺はトレーニングでもしまーす」
「うん。ちゃ〜んと、筋肉ムキムキ維持してくださーい」
「キャー名前さんのえっちー」
「きゃーホークスのえっちー」
ほとんど同時に言葉が重なって、私たちは顔を見合わせたまま意味もなく笑い出した。可笑しい理由なんて、もうどこにもない。ただ今の空気が少しだけ弾んでいてそれを手放すのが惜しかっただけだ。
笑いは思った以上に尾を引き、どちらからともなく息を整えるまで、しばらく時間がかかった。ようやく落ち着いたところで私は小さく咳払いをして、仕切り直す。
「じゃあ、またね。ホークス」
「はい、また。連絡しますね」
「ふふ、待ってます」
「名前さんも、してくださいね?」
「はいはい。トレーニング、しっかりね」
「はい、承知しましたっ」
彼が、軽く敬礼めいた仕草する。いつも通りのやり取りなのに、その「いつも通り」が、今朝は少しだけ特別に感じられた。ドアが閉まると私は慣れたようにエレベーターに乗る。マンションの外へ出た瞬間、冷たい空気が頬に触れ、ようやく現実に戻ってきた気がした。ぐいーっと、背筋を伸ばした、そのとき。鞄の中でスマートフォンが震えた。着信だ。画面に浮かぶのはつい今しがた別れたばかりの、彼の名前。思わず口元が緩む。ほんとうに、尾を引くヒーローだ。
「もしもし? なにか、忘れ物しちゃった?」
『……いえ。上、見て』
言われるまま見上げると、ベランダの手すりに腕を預けた彼が、こちらを見下ろしていた。朝の光を背にして、少し眩しそうに目を細めている。私は反射的に、肩からかけていた小さめの鞄で、顔を隠す。
『なんそれ……女子高生すかぁ?』
と、独り言みたいに私の仕草を見た彼が、声を立てて笑う。その笑い声が耳からも、頭上からも降ってきて、胸の奥にすとんと落ちる。私は鞄を下ろして、振り返りもせずに、大きく手を振る。
そうして、そのまま歩き出す。背中越しにまだ澄んだ琥珀色のまなざしの気配を感じながら。
特別な約束は何もない。次にいつ会うかもはっきりとは決めていない。それでも確かに今朝は、二人だけのものだった。その事実だけが、静かな余韻となって胸に残り、私はそれを抱えたまま、駅の方角へ向かって軽い足取りで歩みを進めた。