年明けの空気はまだ硬く、喉に触れると薄くて痛い。
 暖簾をくぐった瞬間、外の冬から切り離されたみたいな居酒屋の温度に、私はようやく肩の力を抜いた。油の匂いと醤油の甘さが混ざった空気の中で、すぐにその背中を見つけた。ホークスは、すでにカウンターに肘をついていて、金色の髪は蛍光灯の光にさらされ少し白っぽく、現実の色を失っている。そんな人気ヒーローの彼は私の姿を見つけると、その琥珀色の瞳を輝かせて軽く手を挙げた。

「お疲れデス。年明け、初飲みすね!」

 そう言ってすでに注文しておいてくれたらしいビールジョッキを差し出してくる。仕事の顔と、こういう夜の顔の境界線は曖昧で、でも私はその曖昧さにすっかり慣れてしまっている。彼の軽さは寒さに慣れた人間の皮膚みたいに、今は安心の形をしていた。

「年越しは、どうだった?」
「まあ、例年通りです。福岡で仕事してました」
「そっか」
「年越しそば、三口くらいで終わりましたけど」

 言葉の端に遊びを混ぜるように言うその軽さが彼の防寒具みたいで私は少しだけ安心する。ジョッキを口に運ぶと、泡の冷たさが舌に残り、喉を通る炭酸の刺激が年末年始に溜まった言葉たちを洗い流してくれるみたいだった。

「例年通りってことは、去年は異例ってこと?」
「ん?」
「だって去年はほら一緒に年越し過ごしたから」
「え? ああ……ですね」

 彼の言葉が一瞬、遅れて届く。その間に去年の年越しの断片が胸の奥に浮かび上がる。カウントダウンの音、窓の外の雪、深夜のコンビニの光。彼にとってはきっと通過点で、私にとっては例外だった時間。その温度差が今年一発目のビールの泡よりも長く口の中に残る。

「名前さんは? 実家、帰ったんですか」
「帰ったよ。親戚に会って、甥っ子に絡まれて、昔のアルバム引っ張り出されて」

 言いながら、頭の奥で、一枚の写真が浮かぶ。制服のスカートの裾がまだ長かった頃の自分と、すこしだけ大人びた横顔の先輩。古いアルバムの紙の黄ばみまで、なぜか具体的に思い出せる。

「昔のアルバムって黒歴史の宝庫じゃないすか」
「ホークスもあるでしょ。黒歴史」
「いやぁ……燃やしたいですね」

 燃やしたい、という言葉に、私は小さく笑う。しかし、その瞬間に、��炎�≠ニいう語に連想して引き寄せられて古い記憶が水面から浮かび上がるみたいに立ち上がる。

「……中学のとき、先輩にいたんだよね」
「先輩?」
「うん。一個上の。火、出す系の個性の人」

 何気なく言っただけなのに彼の視線が一瞬だけこちらに寄る。その気配の変化が、やけに鮮明にわかる。視線はすぐに戻るのにまるで空気だけがこちらに触れたままみたいだった。

「火系ですか。ふーん」
「剣道部だったかな。炎で竹刀、乾かしてた」
「乾かすために炎使うの、だいぶ豪快っすね」

 笑いながらも声の奥に、ほんの少しだけ硬さが混じる。私はそれに気づいてしまう。けれど逆に気づかないふりをすることにも慣れている。

「初恋、ってやつ」
「……え」

 彼が、思わずこちらを見る。冗談みたいな表情なのに、目だけが真剣だ。その落差に、胸の奥が微かに締めつけられた。

「炎系の?」
「うん」
「先輩に?」
「うん。たぶん初恋」

 言いながら私はジョッキの縁を指でなぞった。言葉にした瞬間記憶の奥の匂いまで立ち上がる。体育館の木の匂い、火花の熱、夕焼けの橙色——過去の風景が、いまのテーブルの上に薄く重なりホークスの横顔の輪郭にまで染み込んでいく気がした。

「てか、遅くないすか? 初恋」
「そう?」
「普通、幼稚園とか小学校のときなんじゃ……?いや、わかんないですけど」
「あー。それって、恋って言わない気がしてさ」
「なんで」
「小さい頃はみんな好きじゃん。初めてみる人、変わった人、み〜んな」

 私は肩をすくめて笑う。あの頃の『好き』は、体温よりも好奇心に近かった気がする。目新しいものに触れたときの反射みたいな感情で、相手の輪郭よりも、自分の驚きのほうが大きかった。

「そんなもんすか?」
「そんなもんすねー」
「夢、壊されました」
「ホークス、幼稚園でプロポーズでもしたの?」
「いや、してないですけど」

 返しは早いのに、言葉の端に、わずかな逡巡が混じる。冗談を受け止めながら、どこかで記憶の引き出しを探っているみたいな沈黙が挟まる。

「でも、好きな子はいましたよ」
「へえ」
「近所で一番足が速くていつのかわからん給食の残りのパンくれた子」
「それ、好きじゃなくて恩義じゃないの?」
「恩義でも好きは好きでしょ」

 理屈っぽい返し。彼は恋を理屈で整理しようとする癖がある。飛ぶ人間ほど地面の定義に慎重になるのか感情を飛翔させる代わりに言葉で輪郭を引いておかないとどこまでも行ってしまうのだと知っているみたいに。

「え、その子が初恋?」
「いや、それは全否定します」
「かわいそうに。なんかその子、告白もしてないのに、振られた感じになっちゃってるよ?」
「あ、確かに」

 妙に納得したようにホークスは、ポンと右手を左手に重ねた。その仕草に笑いながらも、なぜか胸の奥に、細い違和感を残す。嘯くように笑っているのに、彼の内側で何かが几帳面に区切られていくのが見える気がした。しかし彼は、どこ吹く風といった様子で、砂肝を齧る。歯が繊維を断ち切る乾いた音がテーブルの上で小さく反響する。私はその音を聞きながら、このヒーローに本気で恋をしている人たちが急に、不憫に思えてきた。それでも彼は淡々と咀嚼しながら何事もなかったみたいに会話を続ける。その軽さが彼の生き延び方であり、彼の残酷さでもあるのだと私は知っている。

「十代になると急に現実味が出るじゃないすか」
「現実味?」
「他人の人生って感じになりません?」

 他人の人生。その言葉がなぜか胸の奥で静かに反響する。彼はいつも他人と自分の境界線を測りながら、生きている。踏み込みすぎないように、しかし離れすぎないように見えない線を引き直し続けている人だ。子どもの頃の『好き』は、同じ教室、同じ世界、同じ時間の延長線上にあるものだった。けれど中学以降の『好き』は、自分とは別の時間や人生を生きている他者の輪郭を意識してしまう感情だったのだといまなら理解できる。

「じゃあ先輩は、ちゃんと��他人の人生�≠セったってことすね」
「ん?」
「自分とは、別の時間を生きている人間として、ちゃんと見えてたって意味です」
「ああ。なるほど?」

 私の延長ではなく私の外側にある人生として。そんなことをひとり噛み締めている私を横目に、ホークスはビールを一口含む。泡が口元に残り、舌先で掬い取る。その仕草を、私は自分でも驚くほど細かく追ってしまう。口元の湿り気、喉仏の上下、呼吸の間。そういう些細な部分ばかりが、妙に現実感を持って迫ってくる。

「どんな人だったんですか」
「え? 先輩?」
「はい」
「努力家だった」
「へえ……」
「ちょっと、近寄りがたかったけど。ちゃんと、優しかったかな」

 言葉にした途端、胸の奥で小さく電流が走る。火を操る人の背中はいつもどこか遠くにあった。近づけば熱に触れてしまいそうで、けれど、目を逸らすほど、冷たくもなかった。その距離の曖昧さに私は初めて��恋�≠ニいう名前を与えたのだと思う。

「ふーん。で?」
「背、私よりずっと高くてさ。声も低めで」
「へえ」
「笑うと、元はちょっと怖い人なのに急に子どもみたいになって」

 思い出を語りながら、私は自分の声がわずかにやわらいでいることに気づく。それはもう過去の話なのに、記憶の質感だけがまだ、温度を持っている。まるで声帯の奥に古い熱が染み出してくるみたいだった。

「そういえばあれだ、似てるヒーローいた」
「え? 誰すか?」
「エンデヴァー!」

 言ってしまってからハッとして胸の奥で小さく息を止める。不意に、彼の母親の言葉がよみがえった。幼い頃、エンデヴァーのぬいぐるみを買い与えたという少しだけ切ない話。顔には出してはいけない。私はそれを、表情の奥にしまい込む。彼にとってはもう、遠い過去の玩具箱に埋もれた話かもしれないから。けれど、そんな私の逡巡は杞憂に終わる。ホークスは何事もなかったみたいに焼き鳥を頬張り、いつもの明るい声で言った。

「火系の男子、モテそうですしね〜」
「どうだろうね。女子には人気だったけど本人は全然、気づいてなかった」

 ホークスはそれを聞いて鼻で笑う。その鼻息の抜き方まで、どこか、余裕を帯びている。

「鈍感系ですか。火だけじゃなくて、感情も温度低めだったんすね」
「はは。たぶんね」

 私がそう言うと彼はビールをひと口含み、喉を鳴らす。そして、泡をまた舌先で払った。その、小さな動作が、やけに丁寧に見えて私は、視線を逸らし損ねてしまった。

「じゃあ、俺のほうがまだマシじゃないすか」
「なにが?」
「ちゃんと気づいてますよ。好かれてるかどうかとか」

 その言い方には、半分だけ笑いの輪郭があり、残り半分には計測された自負がある。私は笑ってごまかすけれど胸の奥で、わずかに何かが動く。気づいているということは無自覚よりも残酷だ。気づきながら距離を保つという行為の意味を私はもう理解してしまっている。

「ホークスは火、出ないでしょ」
「出なくていいでーす。羽んほうが、かっこよかですし」

 言い切る声には、若干の誇張が混じっている。それでもそこに迷いはない。その仕草が勝ち誇るために用意された自信の縁にある脆い綻びみたいで、私は目を離せなくなる。けれど直後に彼は、ほんの少し視線を逸らした。

「火なんて、触れたら熱いだけですからね」

 その言葉が胸の奥で静かに響く。初恋の先輩の背中といま隣にあるこの人の背中が薄いフィルムみたいに重なりそうで重ならない。完全には一致しない。そのずれに私はどこか救われてもいる。

「でも、火って赤くて綺麗だよ」
「剛翼も赤くて綺麗ですけど」
「火は燃え尽きると消えちゃうけどさ」
「剛翼はぁ〜......あ、燃えますね。弱点」
「あら」
「でも消えはしません、ある意味。すぐ生え変わるんで」

 ほとんど反射のように返ってきたその理屈に、私は小さく笑ってしまう。張り合うみたいな幼さと、負けを認めたくない気配がヒーローの言葉というより年相応の男の子の口調で、その不器用な誇りが可笑しくて、どこか愛おしい。

「先輩、いま何してるか知らないんだけどね」
「連絡、取ってないんですか」
「うん。卒業してから一回も」

 それは私が意図的に選んだ距離だった。過去は過去のままにしておく方が関係を壊さずに済む。そうやって、自分に言い聞かせてきた。思い出は保存できても、更新してしまえば上書きされる。私は上書きされる側の記憶をなぜかずっと恐れている。ホークスは少しだけ黙り込み氷を噛んだ。歯に触れた氷が砕ける乾いた音。その音を聞いて私はふと、思い出した。

「あ」
「なんすか」
「そういえば一回、うちに来たことあった」
「はぁ!?」

 彼の声が、思わず跳ね上がる。作った驚きではなく反射に近い音だった。私が「もう何年も前の話だけど」と付け加えてもどうやら耳には入っていないらしく眦がわずかに吊り上がり、グラスを持つ指は止まったまま。その一瞬の静止が、彼の中で何かが計算されている証拠みたいで妙に生々しい。

「どの脚本でそのイベント発生したんすか!?」
「脚本って……なにそのプロデューサー目線」
「どんな流れでそんな展開になったのかなって」
「結婚式。私は行ってないけど、参列した友達が新郎側に先輩見つけてさ?」
「……」
「数名だよ?何人かでうち、遊びに来ただけ」
「え……いま住んでる、マンション?」
「うん」

 そう答えた瞬間、自分の胸の奥で小さく何かが鳴った。部屋、玄関、廊下——いま私が暮らしている生活の空間に彼の知らない誰かが立っていたという事実を、私は急に意識してしまう。靴箱の前で交わされた挨拶の声、廊下に伸びる影、笑い声の残響。記憶の中の先輩の声が、壁に反射する幻聴のように立ち上がり、いまのこの空間に薄く重なった。

「へぇ……」

 ホークスは短く息を吐き串の先で皿の縁を軽く叩いた。竹串と陶器の触れ合う音が、やけに鋭く耳に残る。

「律儀に挨拶とかしたんですか」
「するでしょ。普通に」
「普通ってなんすか」
「普通は普通」
「俺その��普通�≠ノ勝てる気しないんですけど」
「別に、勝つ必要ないでしょうが」
「ええ? ダルぅ……」

 口の先を尖らせて言ったそれは冗談の形をしているのに声の奥には微細な棘がある。彼の視線がテーブル越しに、私の部屋の玄関を想像しているのがわかった。あの空間に立っていた別の男の影を頭の中で、塗りつぶそうとしているみたいに。焼き鳥の煙の向こうで彼の目だけがやけに冴えている。私はその気配を横で感じ取りながら、知らないふりをしてビールを口に運んだ。冷たい泡が舌の奥に広がるのに、喉は妙に熱を帯びている。

「どんな話したんすか」
「なにが」
「会って。久しぶり〜って?」
「うん、そう。元気?って。それだけ」
「それだけ、で終わるんですか」
「終わるよ」
「結婚式帰りの人間が、中学時代の異性の家まで来るって、だいぶ陽気っすね」
「陽気というか、同窓会ノリ?」
「同窓会ノリで元初恋の女の家に上がるんだァ」

 ホークスはそう言って、グラスの中の氷を指で転がす。氷同士がぶつかるたび乾いた音が小さく跳ねてテーブルの上の沈黙を細かく刻んでいく。

「……待って? 元初恋は、私の方だからね?」
「わかってますよ」
「先輩が私に初恋してたわけじゃないからね?」
「わかってますってば!もう、二回も言わんで」
「だってさ……元初恋の女の家なんてさ。なんか勘違い起こしちゃうよ、聞く人によっては」

 彼は一応笑っている。けれどその笑いは笑いの形をした確認行為みたいで逆に苦笑にも見えた。私の玄関の床、靴箱の位置、リビングの配置——彼の頭の中で、知らない男の足跡が、勝手に歩き回っている気がする。それがただの、勝手な想像だとわかっていても彼の沈黙の測量器が、部屋の隅々まで距離を測っているような錯覚があった。

「昔話して写真見せ合って、帰った。それだけ」
「へえ」
「期待してた?」
「何を」
「ドラマみたいな再会」
「ぃや……期待というか、警戒ですね」

 その言葉に私は小さく笑う。警戒という単語の裏に透けて見えるのは彼の領域意識だった。笑っているのに、どこか胸の奥がやわらかく温まる。誰かが過去に踏み込んだ場所に、いま彼が想像の中で、無言で立ち尽くしている。その距離の測り方が、なぜか可笑しくて、少しだけ嬉しい。

「それきり、会ってないよ」
「うわー、ほんとかなぁ〜? 怪しいもんすよ」
「はは。信用ないなあ」
「まあでも。初恋なんて、そんなもんでしょ」
「そう?」
「ええ。思い出は、思い出のままのほうが、都合いいですし」

 『都合』という言葉の選び方が、なんとなく、彼らしいなと思う。感情ではなく、運用可能性で恋を語る人間の語彙。私はそれに頷きながらも、喉の奥に小さな異物感を覚えた。都合よく保存された思い出は、いつか都合よく書き換えられる。そんな不吉な予感だけがアルコールの熱とは別の温度で胸に底に沈んでいった。

「ホークスは?初恋」
「俺ですか」
「うん。さっき言ってた給食の残りのパンくれた子では、ないんでしょ?」
「あんたですよ、あんた」

 あまりにも軽くあまりにも早口で言葉が口から滑り落ちる前に放り投げられたみたいに感じた。照れ隠しの粗さが、むしろ生々しい。私は思わず眉をひそめる。胸の奥で名前ではない二人称が、熱を帯びた石みたいに転がった。

「はぁ〜? あんただとぉ〜? しかも雑すぎ」
「福岡では二人称のことをあんたって呼ぶけん」
「そういう問題じゃないんだけど」
「え、嬉しくないんですか?」
「なんか、嬉しくない」

 そう言いながら口元だけが笑ってしまう。冗談みたいに軽く放たれた言葉なのにその響きだけが妙に耳に残った。ジョッキの中で、氷が触れ合う音がやけに大きく感じられて、私は無意識の内にグラスの縁を指でなぞった。冷たいガラスの感触に、言葉の温度が吸い取られていく。

「じゃあ、なんて呼べばいいんすか」
「普通に名前でいいよ」
「呼び捨て? え、していいんです?」
「普通に今までどおりでいいじゃん」
「……呼び捨て、なんか響きいいじゃないすか」
「そう?」
「距離、縮まった感じするし」
「気のせいでしょ」
「いや、言葉って距離の単位なんで」

 そう言いながら彼はわざと私の名前を口の中で転がすみたいに小さく呟いた。その音が耳に触れただけで、胸の奥がかすかに熱を帯びる。名前というだけの音節がこんなにも身体感覚に近いものだったことを、私は今さらながらに思い出す。

「普通がいちばん難しいんですけどねぇ〜」
「なにそれ」
「距離感の問題です」

 串を皿に置き彼は少しだけ笑った。その笑いがどこまで本気で、どこまで軽口なのか、私はまだ測りきれない。測ろうとするほど、距離はむしろ曖昧になる。

「ま、今日は飲みましょ。呼び方はまた今度考えます」
「今度って、いつ」
「そのうち」

 曖昧な言葉で締めて彼はビールを一口含んだ。泡の跡が唇に残り指先でそれを拭う仕草がやけにゆっくりに見える。店内のざわめきが一段落し、隣の席では誰かが締めのラーメンの話をしている。焼き鳥の煙は薄れ油と酒の匂いだけが残っている。
 私たちのテーブルにも、少しだけ間が落ちた。言葉の余白にさっきの「あんた」がまだ浮かんでいる。冗談のはずなのに距離を測るための新しい定規みたいで私はそれを捨てることも拾うこともできずにいた。ジョッキを置くと、氷が、静かに鳴る。今日の前半戦はたぶんここまで。この先、もっと踏み込む話をするかただ笑って飲み続けるのか。その選択肢が、まだ、どちらも生きている夜だった。

 それからしばらくどうでもいい話題が続いた。追加の串を頼んだり店のテレビで流れているヒーロー特集に適当な突っ込みを入れたり、グラスが空になるたびに、店員を呼んだり。言葉は軽く、空気も軽く会話はどこまでも平熱のままだった。それなのにさっきの「あんた」という二音節だけが舌の裏に残ったまま消えない。冗談の形をした呼びかけがなぜか名前よりも距離を近づけた気がして、私はそれを、やけに意識してしまう。氷が溶けて泡が消え、喉の奥に残るのはアルコールの熱よりも、言い残された話題の余熱だった。私はもう一度だけ、その余熱に触れてみたくなった。彼の初恋を知りたいというより彼の過去に自分がいなかったという事実を、あらためて確認したいだけなのかもしれなかった。

「——で?」
「はい?」
「どうなの?本当の初恋」
「え、まだ追及します?」
「するでしょ。人の初恋は聞いておいて自分のは濁すってずるくない?」
「取材ですか?」
「記者でも編集者でもないよ」
「じゃ、事務所通してもらってからってことで」

 そう言ってホークスは、肩をすくめる。軽口の所作なのに、その目だけは逃げていない。むしろどこまで踏み込んでくるかを静かに、試しているみたいだった。

「そんな大した話じゃないでしょ。ほら、給食のパンくれた子みたいなさ」
「それ、一応、俺の黒歴史なんで蒸し返さないでください」
「黒歴史にするほどでもないよ。可愛いじゃん」
「可愛いって言われる歳じゃないですしね」
「じゃあ、初恋の人はどんな人だったの?」
「……」
「ほら、先輩の火系男子の話はしたんだからさ。公平でしょ」

 彼はグラスの中身を一口だけ減らし水分の跡を舌で拭う。視線はテーブルの木目に落ちたままでどこか言葉の在処を探しているみたいに見える。木の年輪のような模様の上を彼の沈黙がゆっくり滑っていく。

「名前さん、こういうの好きですよね。他人の昔話」
「好きというか、ホークスの話が聞きたいだけ」
「都合いい理由ですね」

 短く笑ってからホークスは指先でグラスの縁を弾いた。乾いた音がひとつ、会話の間を埋める。

「まー......内緒っすね」
「えぇー!?」
「俺の黒歴史、公式には非公開なんですよ」
「またぁ〜、適当なことばっか言っちゃってさ」
「いまはまだ、言わないでおきます」
「不利〜!ここにインチキヒーローがいまーす」
「簡単に言っちゃったら面白くなくなるじゃないですかぁ。……ま、そのうち、ってことで」
「も〜! 事務所にクレーム出してやろうかな」

 軽く笑って、彼は不意にこちらを見た。さっきまで焼き鳥の串先やグラスの底に向いていた視線が静かに切り替わり、まっすぐ私を捉える。その移行があまりにも自然で逆に逃げ場がなくなる。

「秘密です」

 冗談の延長みたいな言葉なのにその声色は少し落ち着いていて距離を測るときの彼の声だった。じっと目を見つめられて言われたものだから私はジョッキを持つ指先に力を込め、冷たいガラスの感触に意識を預ける。冷たさが皮膚を通して内側まで染み込み、言葉より先に、身体が距離を理解する。
 胸の奥で小さな波紋が広がる。彼が隠したがる過去と、さっきまで笑って話していた私の初恋とそのあいだに横たわる、時間の質感。笑いながら触れていた思い出話が、急に別の重さを帯びて、私たちのあいだの距離の測り方が思っていたよりずっと難しいものに思えた。

「てか、好みなんす?」
「へっ?」
「こ・の・み」
「ん? なにが? ああ、この焼き鳥のタレ?」
「はぁ……違うくてさ。見た目のタイプ!」
「うん……?」

 いつまでも首を傾げている私を横目に、トップヒーローは盛大に溜め息を吐き散らし、わざと、下唇を突き出して見せる。そのままメニュー表を掴みやや乱暴にめくりながら適当に眺め始めた。子どもっぽい仕草なのに、そこに混じる苛立ちはわかりやすく隠しきれていなくて少し可笑しい。こんなふうに感情を軽口で包みながら動作だけが正直になるタイプの人間だと、私は知っている。

「エンデヴァーみたいなんが好みなのかって話」
「……ああ。んー、どうだろ。かっこいいよね」
「かっこいいすねー」
「はは、棒読み」

 抑揚もなくわざとらしく平坦な声で彼は視線をメニュー表に落としたまま焼き鳥の値段欄を指でなぞっている。私を見ないふりをしているのに、返事だけは逃さない。距離を測るための注意だけは、常にこちら側に向いている。

「じゃあ、質問を変えます」
「はいはい?」
「筋肉質で、年上で、炎系がタイプなんです?」
「待って待って。条件、多すぎ」
「いや、統計的な話です」
「統計ってなに」
「俺との比較的統計」

 『比較的統計』という言葉が、軽く放り投げられる。冗談の形をしているのにその輪郭は意外と真剣で胸の奥に静かに触れてくる感覚があった。

「ホークスは飛ぶ系で、年下で、わりと軽口系」
「軽口系ってそれ、ジャンルなんですか」
「うん。私の中ではジャンル」
「なんか、雑じゃないです?センスないっすよ」

 私は思わず笑う。突然、表現のセンスの座標で恋を測ろうとする彼が可愛らしくて、同時に少しだけ、痛々しい。冗談の皮膜の裏側で、彼なりの真剣さが静かに脈打っているのがわかる。

「そういや、来年。エンデヴァーのいちばん下の息子さんが高校に上がりますね」
「え、そうなの?」
「ええ。きっと推薦枠で雄英だろうってすでに、もっぱらの噂です」
「へぇー、雄英高校に推薦はすごいねぇ。狭き門なんでしょ?」
「イケメンすよ」

 こちらの問いは彼の中でひと息分も留まらなかったらしく、驚くほどさらりと通り過ぎていく。その無頓着さが、なぜだか可笑しくて、私はまた笑ってしまう。

「なに基準なのそれは。ホークスの中の基準?」
「んー、ヒーロー基準ですかね」
「遺伝子基準じゃなくて?」
「あー、両方です。あとたぶん女子人気、即席で出ますね」
「そこはすでに観察済みなんだ」
「雄英の噂は、だいたい耳に入りますから」

 そう言いながら、彼はグラスを口に運ぶ。その横顔はどこか他人事みたいに軽いけれど、エンデヴァーの名を出したときだけ視線の温度がわずかにに変わる。その変化を私は、見逃さなかった。憧れなのか距離感なのか。たぶんもっと個人的な感情かもしれない。その全てが薄く混ざり合った色を彼の瞳が一瞬だけ帯びる。私はその色を見てしまった自分の視線のほうが少し、怖くなった。

「炎系って、やっぱり王道なんですかねー」
「んー、どうだろ。そうでもないんじゃない?」
「いや炎は主人公枠じゃないですか、だいたい」
「ホークスは主人公枠じゃないの?」
「主人公はだいたい苦労するんで。俺は楽したいんすよ」
「楽ねえ……」
「だから俺は脇役のほうが断然いい。楽なんで」

 楽したいだの脇役だのと口にしながら、その声には微妙な光沢がある。諦念というよりも計算された自己定義に近い。英雄という舞台の中央から一歩退いた位置をあえて自分の居場所として選び取る人間の静かな誇りと、どこかでそれを笑ってしまう自嘲が同時に混ざっている。私はその二重の色を彼の声の抑揚よりも、言葉の間隔から読み取ってしまう。

「……タイプとか、あんまり考えたことないよ」
「へえ。じゃあ、火系先輩は例外的に刺さったんですね」
「もう、突っかかるなあ。刺さったって言い方」
「実際、刺さったでしょ。初恋なんですから」

 その言葉を聞いた瞬間、ジョッキを握る指先に熱が集まる。冷たいガラスが皮膚に触れているのに、内側だけが別の温度を持ち始める。彼は再びメニュー表を見つめていて、空気だけがこちらに向いている。視線を逸らしたまま私の呼吸の速度や声の揺れだけを測っているような距離感。その不均衡な向き合い方が、ひどく彼らしい。

「……まあ、当時はね」
「当時でも、ですよ」

 そう言って、彼はようやく、顔を上げた。眉をわずかに寄せて、観察するように私を見る。その仕草は獲物を見るというよりもどちらかといえば何かのデータを読むような視線だった。

「俺、火出せないんで」
「知ってるよ」
「燃やせないんで」
「ん、なにを?」
「先輩の影とか」

 冗談の形式を借りた言葉なのになぜか胸の奥に細い棘が刺さる。過去というものが燃えない影として残るという認識が、あまりにも、正確だったから。私はそれを、笑いで包み込む。

「羽で払えば?」
「いやいや……」
「やだ。急にノリわる〜い」
「……火より厄介っすね、過去って」

 そう言ってまた、メニュー表に視線を落とす。紙を撫でる指先の音がやけに耳に残る。その音の速度が彼の思考の速さと一致しているようで私は目を離せなくなった。

「火系の先輩に、負けた気がするな」

 彼のその何気ない呟きに私は思わず瞬きする。どうやらこの話題は彼の中ではまだ終わっていなかったらしい。

「先輩の何に負けた気がするの?」
「名前さんの記憶の中で、未だに存在感あるってことに」

 そう言って彼は笑った。けれどその笑いの奥にほとんど測定不能で微細な棘が、混じっている。私はそれを見逃さなかった。ホークスはグラスを置き、わざとらしく溜め息を吐く。その呼気は、演技じみているのに、どこか本気の輪郭を持っている。

「いやぁ、まいったなぁ〜」
「なにが?」
「中学時代の火系先輩に、初恋ですかぁ」

 言葉の端々に芝居がかった嘆きが混じる。でもその目は笑っていない。ほんのわずかに私の反応を測るための光が宿っている。その光の中に冗談の皮膜の下で蠢く領域意識と言葉にしない願望の輪郭を、私は見てしまった気がした。

「なんでホークスがまいるの?」
「いやライバル強すぎでしょ。炎系ってだいたい漫画的にも強キャラ多いですし」

 軽い調子でそう言いながら、彼は私のグラスの縁を指先で弾いた。氷がぶつかる高い音が、妙に近くで鳴る。その距離の近さが、冗談よりも先に皮膚に届く。

「え、まだその話続く? てか、強キャラって」
「しかも、先輩。年上補正つき。勝ち目なくないですかぁ?」
「なに、前世に火を操る何かに殺されたわけ?」
「……ははっ。そうかもしんないっすねー」

 笑っているのに、その声の奥で何かが一瞬だけ沈む。胸の奥で小さなざわめきが起きる。理由ははっきりしない。ただ勝ち負けという言葉を彼が選んだこと自体が私の内部に微細なひっかかりを残した。

「もう、終わった話だよ」
「終わってても、なんか嫌じゃないですか」

 そう言いながら彼は笑う。けれどその笑いは、いつものように軽くない。笑いながら、どこかで自分の感情を計測しているような、乾いた反射が混じっている。

「名前さんの��初恋の男�≠チて肩書きだけでもう強いんですけど」
「ホークスだって、肩書き多いでしょ」
「俺の肩書きは公的です。先輩ネタは私的です」

 その区別の仕方が妙に的確で鋭い。ヒーローと他の男、公と私。彼はいつも自分の輪郭を分割しながら生きている。その境界線の引き方に、私はどこか感心しながら同時に胸の奥が少し冷える。

「で、ガチな話、どんな人がタイプなんです?」
「だから……タイプとかあんまり考えたことないって言ったでしょ、さっき。聞いてた?人の話」
「あー、すんませんね。鳥頭なんで」
「便利な言い訳ですこと」
「火系で?年上で?背が高くて?低音ボイスで?剣道部でぇー」
「なにそれ、履歴書?」
「いや、危険人物リスト」

 彼は冗談めかしてそう言うと私のほうをじっと見た。その目は真剣だ。私の表情のどこかにまだ先輩の影が残っていないかを探しているような、観察の目をしている。

「俺、火出せないし年上でもないし、剣道もできないですけど」
「知ってるってば」
「負けてますよね」

 その言葉は、笑いの皮膜をかぶっているのに、落ちる速度だけが、本音に近い。冗談として処理するには少しだけ温度が低すぎる。私はその重さを、どう受け止めればいいのかわからずグラスの底に残った泡を見つめた。泡は、すぐに消えてしまうのに、彼の言葉だけが底に沈んでいくみたいだった。

「ホークスは、ホークスでしょ」
「そう、ですけど……」
「張り合う必要ないよ」
「張り合ってないです」

 彼はすぐに否定した。でもその否定は、思考が追いつく前に出てきた言葉というよりも、遅れて整えられた理屈みたいな響きを帯びていた。

「ただ、気になっただけです」
「ん?」
「名前さんのいちばん最初に好きになった男が、どんな人か」

 その言葉の選び方がやけに精密で、やけに執着している。私は箸でつまんだ唐揚げを口に運び、舌に広がる油の熱で思考の端を鈍らせる。視線を逸らすことで、彼の質問から距離を取ろうとする自分がいる。

「……もう、会うこともない人だよ」
「それ、確定です?」
「確定」
「でも未来って、わかんないじゃないすか」

 未来なんていう未知数な語彙を彼はいつもこうして軽やかに扱う。でもその眼差しは軽やかではない。どこかで数値を測るみたいに、私の返答の温度を量っている。冗談の皮膜の下で視線だけが鋭くなる。

「また会ったらどうするんですか」
「なにが?」
「同窓会とか。セカンド再会とか」

 まるで、セカンドラブみたいに言うその語感が過去の記憶の輪郭に、影を落とす。私の知らない私の人生が、また別の誰かの時間帯で、呼吸していたような錯覚。

「どうもしない」
「ほんとに?」
「ほんとに」

 言葉は滑らかだったはずなのに声の奥に微かな硬さが混じった。私はそれに気づき、そして逆に気づかれたことにも気づく。ホークスはそういう微細な変化を逃さないヒーローだから。

「……まあ、そうですよね」

 そう言って彼は少しだけ肩をすくめた。軽口の仕草に見せかけてその動きの中にわずかな緊張が沈んでいる。彼のなかで、何かが計算されている気配。

「でも、もし本当に再会して、まだ好きだったらどうします?」
「そんなことない。ありえないよ」
「ありえないって言い切れるんや」
「……うん」

 私はそう答えながら自分の内側で起こる微細な揺れを押し殺す。過去は過去。現在は現在。そういう線引きを信条にしてきたはずなのに、言葉にした瞬間、その線が露骨に意識されてしまう。
 ホークスは少し黙り込み、氷を噛んだ。砕ける音がやけに大きく近くで鳴る。その乾いた衝撃が空気を伝って私の喉の奥にまで届く。次の瞬間、彼はおもむろに、ポケットからスマートフォンを取り出した。

「ちょっと、ここ。」
「なに?」
「先輩の名前、ここに入れてもらっても?」

 唐突すぎて言葉が喉の奥で止まる。彼はすでに検索画面を開いていて私の方へスマートフォンを差し出してきた。画面の光がテーブルに反射し、焼き鳥の皿に残った油の表面で散って、夜の中に小さな星を落としたみたいに瞬く。

「は?なんで」
「確認です」
「……なにを」
「��ありえない�≠ゥどうか」

 その言い方が妙に真剣で冗談の皮膚をかぶっていない。私はしばらく躊躇い、けれど拒む理由を言葉にできないまま観念したみたいに指先を伸ばした。キーボードを叩く音が自分の心拍と重なって聞こえる。アルコールの熱とは別の熱が指先に集まっていく。

「……はい」
「あざーす」
「……」
「お、早。出ました」

 彼は即座にスクロールし何かを見つけた瞬間、スマートフォンの画面を私のほうへと傾けた。

「こん人?」

 そこに映っていたのは、私の記憶の中の制服姿ではなく、知らないスーツ姿で笑う先輩だった。時間が相手の輪郭を塗り替え、別の人生の文脈に置き換えている。距離という概念が急に具体的な画像として提示されてしまう。その瞬間胸の奥がひりついた。頬に血が集まる感覚を自分では否定できない。

「ちょっ、やめてよ!なにこれ、インスタ!?」
「ありえないって言ったくせにー。嘘つき」
「違う、そうじゃなくて」
「赤くなってますけど?」
「はっ!? 勝手に検索したのそっちでしょ!」

 ホークスは小さく笑いスマホをしまった。その仕草が勝敗が決まったあとにコマを戻す人みたいで腹立たしいのにどこか安心する。自分のほうが優位だとでも思ったのだろうか。そう考えると、少しだけ癪だった。先輩だって、かっこよかったのに。

「まあ、俺のほうが、火より派手ですしね」
「……どのへんが」
「個性、剛翼。空飛べますし。あと単純に、顔」

 最後の一言に限っては普通の人ならば、完全に冗談に聞こえるはずなのに、この男は、驚くほど真顔だった。私は遠慮なく吹き出し、笑いながら胸の奥に残る微かな熱を誤魔化した。

「それ、自分で言う?」
「言います。競合相手は、過去でも潰しとかないと」

 軽口の形で放たれた言葉なのに、その奥に少しだけ本気が混じる。過去の影にまで張り合うほど彼は、私の内側の地図に敏感だ。彼は私の記憶の地形を、すでに、自分の領域として測量し始めている。

「名前さんは火より、羽派でしょ?」
「どっちも、綺麗だよ」
「答えになってなぁい」

 不満そうにそう言いながら彼は、私のグラスに自分のグラスを軽く、触れさせた。ガラスが触れ合う音は思ったより乾いていて、居酒屋の喧騒の中でも妙に輪郭を持って耳に残る。

「俺のほうが、ちゃんと近くにいますけどね」
「……はいはい、ですね」
「先輩は、もう過去です」
「もー。わかったってば」
「ハイ!黒歴史いただきましたぁ〜!黒歴史入りまぁ〜す♪」
「ドンペリコールか、もう……バカ」

 勝手に人の思い出を、処理済みの記録みたいに扱うその声は軽やかで相変わらず冗談の形をしている。けれどその軽さの底に何かを確定させたいという意思が潜んでいるのがわかる。私はなぜか胸の奥を指先でなぞられたような感覚に陥った。過去と現在。初恋と今隣にいる人。その境界線は理屈の上では明瞭なはずなのに、彼が言葉にするたびに、その輪郭が過剰に強調されて、かえって意識の中で肥大化していく。

「安心してください」
「……ん、なにを」
「名前さんの初恋の人、俺、勝てますんで」

 言い切りは冗談の調子だったが、そこには妙な確信があった。勝てると言うより、勝たなければならないという前提を飲み込んだ人の語尾。私は笑いながら、グラスの中身を飲み干す。冷たさが喉を滑り落ちても、胸の奥の温度は下がらない。舌に残るアルコールと彼の軽口の裏に潜む独占の芽が静かに確実に育ち始めているのを私は知ってしまったから。

「もう一杯、飲みます?」
「あー......うん、飲もっかな」
「じゃあ、俺セレクトで〜」
「センス、期待してるよ」
「ちょっとちょっと〜俺を誰だと?あなたの好み知り尽くしてる系男子ですよ?」

 彼は冗談のふりをしてすでに私の過去を自分の領域から追い出そうとしている。冗談の形をして差し出されるその言葉たちが、どこまで本気で、どこまで軽口なのか私はまだ測りきれない。ただ過去という名の場所に彼の羽根が静かに影を落とし始めている気がした。その影の輪郭を私はもう見なかったふりなど、できなかった。


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