人生は電気のようなものだと、ふと思うことがある。プラスとマイナス、正と負、創造と破壊。
どちらか一方だけでは、成り立たず、触れ合った瞬間に、なにかが流れ出す。ときにはそれが、光になる事もあるし、焼き切れるほどの熱になることもある。壊れることで、前に進むこともあるけれど、同時に、取り返しのつかないものも生まれる。
そしてその余波は、必ず人の内側にまで届いて静かに、あるいは激しく、嵐を引き起こす。
*

ホークス
仲直り一発目の飲み会開きましょ
唐突に届いたメッセージは、なんとも彼らしい一文だった。個室の座敷席は、外の喧騒から切り離されたみたいに静かで、掘りごたつの縁に肘を預けながら、私は向かいに座るホークスの手元をぼんやりと眺めていた。
大皿が運ばれてくるたび、彼は特に何も言わず当たり前の動作みたいに取り箸を持つ。そして、均等に、料理を分けていく。迷いのない手つき。余計な確認も視線もない。
「……なんすか?」
視線に気づいたのか、ホークスが顔を上げる。目が合った。ああ、と思う。いつの間に、こんなふうになったんだろう。
「……いや、大人になったなーって」
「またそれ」
軽く笑って、さらりと受け流される。その仕草すら、もう今となれば、慣れたものだった。
「こういうこと、他でもちゃんとしてるの?」
「こういうことって?」
「料理、率先して取り分けたりとか」
ほんの一瞬だけ間が落ちる。言葉に詰まったというより答える必要があるかどうかを測るような短い沈黙。ホークスはそのまま視線を逸らして、明後日の方角へと逃がした。思考しているように見えてその実、言葉を選んでいるわけではないのだとわかる。
「はい、どーぞ」
結局、何も言わずに、取り分けた皿だけを私のほうへと差し出した。答えるつもりは、最初からなかったのだと思う。
「ありがとう」
「美味しいっすよ」
「うん」
「焼き鳥も注文していいです?」
「うん」
流された。きれいに無駄なく。以前ならここにもう一言、何かが挟まっていた気がする。照れたような笑みとか、軽口とか。あるいは、少しだけ踏み込んだ冗談とか。確かに��仲直り�≠ヘできたのだと思う。それでも、今のホークスは、会話の余白を作らない。必要な分だけを喋って、必要な分だけ動く。しばらくして私はぽつりと言った。
「……流された」
「へっ? なん?」
「最近さぁ、さらに交わすの、上手くなってきたよね」
「えー」
「どんどん魔性の男になっていくんだ……」
「はは。それ、名前さんには言われたくないです」
笑い声は軽い。けれども、その奥が見えない。胸の奥に言葉にしにくい感覚が、ゆっくりと沈殿していく。取り分けられた皿の上で、まだ湯気を残したままの料理が、わずかに冷めていく。その温度の下がり方がやけにゆっくりに感じられて、私は箸を持ったまま、ほんの少しだけ動きを止めた。
「そういえばさ、この前テレビ出てたよね」
「出ましたねー。何か勝手に密着されてました」
「見たよ。やたらと、ちゃんとしてた」
「やたらとちゃんとって、なんですか」
「なんか、優等生って感じだった」
「ヒーローなんで、一応それっぽくしてます」
「それっぽく?……あ、支持率あげる手法?」
「バレました?」
冗談みたいに肩をすくめる。その軽さに、少しだけ救われる。けれども同時に、どこかで思う。それもまた、��見せている顔�≠ネのだろう、と。
「最近、忙しい?」
「まあ、ぼちぼちですかね。名前さんは?」
「普通かな。変わらず、って感じ」
「それが一番いいですよ」
会話は、途切れない。でも、深くもならない。彼が冷たくなったわけじゃない。むしろ、前より優しい気がするし、丁寧で隙がない。だからこそ不安になる。この人はどこまで私に見せているのだろう。それとも、もう、見せる必要がないのだろうか、と。
歳を重ねるたびに、ホークスは、余計なものを削いでいく。感情を外に出さず必要以上に語らず誰にも掴ませない。それは��ヒーロー�≠ニしては正解で、大人としても正解で、きっと、彼自身が選んだ生き方だ。でも私はこの淡々とした横顔を見ながら、ふと怖くなる。彼の本質が少しずつ、遠ざかっていく気がして。
笑って、かわして、料理を取り分けるこの人が去年の誕生日に取り乱して、涙を流して、必死に感情を押し留めていた人と同じだと信じきれなくなる瞬間がある。
「そういや、この店久しぶりですよね」
「そうだね。前に来たの、いつだっけ」
「たぶん……結構前っすよ。覚えてないくらい」
「そっか」
「でも、味は変わってないですねー、うまか!」
変わってない。その言葉が、なぜか、少しだけ引っかかった。
魔性の男になっていくんだね、なんて冗談めかして言ったけれど、本当は、その逆だった。魔性じゃないからこそ怖い。感情を切り離したまま、どこへでも行けてしまいそうで。
私は冷めかけた料理に箸を伸ばしながら、彼の取り分けてくれた皿を、なぜかほんのわずかに、重たく感じていた。
店を出ると、夜の空気が思ったより冷たくて、酔いの残る体にはそれが少しだけ鋭く感じられて私は無意識に、肩をすくめる。駅へ向かう道は、いつもより人が多かった。足音や誰かの笑い声や遠くで呼び合う声が、ばらばらのまま重なって、ひとつの流れになっている。その中に紛れて歩きながら私は、さっきまでの店内の静けさを、もうどこにも見つけられないでいた。
ふと、視界の先に光が差し込む。顔を上げると大きな看板が目に入った。街灯よりも明るく照らされたその一枚に、私は思わず足を止める。
「すごいねー」
夜空を背に香水のボトルを手にしたホークスが完成された顔でこちらを見下ろしていた。作られたはずの表情なのにどこか現実よりも整っていて逆に、触れられない距離を、強調しているように見えた。
「最近、やたらと広告塔してるね」
「そーでもないすよ」
彼はそう言ったきり、私が見上げている看板のほうを、一瞥もしなかった。歩調も変えず、ただ前だけを向いている。その無関心が、少しだけ、胸の奥に引っかかった。
「あの香水、使ってるの?」
「えーっと、どうだっけな」
また、はぐらかされる。わざとじゃないのは、わかっている。彼はきっと、ただ、答える必要を感じていないだけだ。それでも、胸の奥に薄く、冷たいものが落ちる。それは、水みたいに静かで形もないくせにじわじわと広がっていく。一緒にいて、つまらなくなってしまったのかな。そんな考えがふっと浮かぶ。浮かんだまま、消えてくれない。だから私は、声の温度だけを少し上げて、軽さを装う。
「……まあ、あれだよね。一般人には、あんまり油断は見せられないもんね」
「……」
「プロヒーロー歴も長くなってきたし、貫禄とかそういうのも? 出さなきゃだし?」
言いながら自分でもわかっていた。これは彼に向けている言葉じゃない。自分のなかで膨らんだ違和感に、理由を与えようとしているだけだ。
彼は、何も言わないまま、歩いている。否定もしない。肯定もしない。その沈黙が余計に、私の言葉を空回りさせる。
「昔みたいに、楽しいだけじゃいられないか」
ぽつりと落としたその一言が、自分の耳にいちばん痛かった。軽く言ったつもりなのに、どこか取り返しのつかない響きが、混じっていた。それでも、止まれなかった。
「……まあ、こんな私でもさぁ?」
「……」
「話くらいは、聞けるから? どうせ、暇だし」
最後は少し笑った。自嘲気味に。自分で自分を軽く扱うことで、この場の空気を保とうとする、癖みたいなもの。だがその瞬間だった。彼の足が止まる。私の歩幅だけが半歩ぶん先に出て空白が生まれる。振り返る。そこにいたホークスの顔はさっきまでのものとは、あきらかに違っていた。怒っている、というより、抑えている。抑えきれない感情を、ぎりぎりで噛み殺している顔。
「……名前さん」
低く、はっきりとした声。その音だけで空気の温度が変わる。
「その言い方、やめてもらえます?」
「え……?」
間の抜けた声が出る。理解が追いつかないまま言葉だけが遅れて出ていく。視線が、まっすぐにこちらへ向けられる。逃げ場のない、正面からの視線。
「どうせ暇だとか、話くらい、とかさ」
「……」
「俺が本気でそんなつもりで一緒にいるみたいに聞こえる」
「いや……そんなつもりじゃ」
慌てて、言葉を返す。けれどその声は、自分でも笑ってしまうほど、頼りなく聞こえた。
「じゃあ、なんでそんな言い方するんですか」
責めているわけじゃないと思う。怒鳴っているわけでもない。それでもその声には確かに温度があった。
「支持率とか、貫禄とか。いらん、そげなもん」
「……」
「俺が距離取ってるみたいにさ……勝手に、決めつけないでくださいよ」
「……」
「距離取ろうとしてるのはいつだって、あなたの方でしょ」
その声音は強くもなく、乱暴でもなかったのにまっすぐすぎて、逃げ場がなかった。
夜気の中に放たれた声が、まるで温度を持ったまま胸に触れてくるみたいで、私は一瞬、呼吸の仕方を忘れる。胸の奥がきゅっと縮む。痛い、というより、逃げていたものを見つけられたときのような、息苦しさだった。
「……ごめん」
「違います」
反射だった。言葉を選ぶよりも先に、口がそう動いていた。それでもすぐに返ってきたその声に私はわずかに目を見開く。彼は首を振っていた。はっきりと、否定するように。
「謝ってほしいんじゃない」
「……」
「そういうふうに、あなたが、自分を下げるのが嫌なんですよ」
言葉の輪郭がやけにくっきりしていて触れれば指先が切れてしまいそうだった。一瞬、何を返せばいいのか本当にわからなくなった。謝ることも違う。否定することも違う。だからといって受け止めるには少しだけ、怖い。
彼の不機嫌は、怒りではなかった。私に向いているのではなく、私が自分に向けている扱い方に対する、苛立ちだった。それが、わかってしまうから、余計に言葉を失う。
「俺は、名前さんと話すの、暇つぶしだと思ったことなんてなか」
「……」
「どうせくだらんことばっか考えてるんでしょうから、先に言っときますけど」
「……」
「面白くなくなったとかも、ないんで」
途中で言葉を切りながら、それでも、最後まで言い直す。その不器用さに胸の奥が、わずかに、揺れる。綺麗に整えられた言葉じゃない。だからこそ、取り繕っていないことだけが、はっきりと伝わってくる。
それから彼は少しだけ視線を逸らした。考えているというより言葉を選んでいるような短い間。その沈黙のあいだに、私は、ようやく気づく。
……ああ。この人は、今、ちゃんと伝えようとしているんだと。驚いた。私は何も言っていない。それなのに、胸の奥に押し込めていたものをほとんどそのまま言い当てられている気がした。見透かされたというより、拾われたに近い感覚。逃げ場にしていた曖昧さがひとつずつ、形を持たされていく。
「むしろ、そうやって距離測られてることの方が無性に腹立つったい」
その一言で空気がまた、わずかに変わる。別に怒られたわけではない。けれどそこには確かに、感情があった。抑えていたものが少しだけ滲んだような声音。夜の街の音が、遠のいた気がした。さっきまで確かにあったはずの足音も、話し声もどこか遠くへ押しやられて、ただ彼の声だけが、近くに残っている。
私は何も言えなかった。言えないまま、ただ、彼の横顔を見る。街灯に照らされたその輪郭は、驚くほど静かで、整っていて、そしてほんの少しだけ、硬かった。
成人になって口数が減って感情をあまり、見せなくなったのだと私は思っていた。でも、違う。なくなったわけじゃない。ただ簡単には触れられない場所に仕舞われただけだ。ただ軽口ひとつで引き出せるような距離ではもう、なくなっているだけで。
彼はまだここにいる。ただその奥にあるものに触れるには、以前みたいに笑ってごまかすやり方では、もう足りない。駅の明かりが私たちの影を長く、引き延ばしていた。重なりきらないまま、かすかに交差して、また離れていく影。その形が今の私たちそのものみたいで、私は、目を逸らすことができなかった。
「ごめん」
やっぱり、その言葉しか浮かばなかった。他にもっと正しい言い方があるはずなのに、そこに、辿り着く前に、口だけが先に動いてしまう。もう一度、絞り出すみたいに同じ言葉をなぞると彼は間を置かずに重ねてきた。
「だから、謝らんでって」
やわらかいのに、引かない声だった。拒絶でもなく受容でもなく、ただその言葉だけを、静かに押し返してくるような響き。私は視線を落としたまま足元のアスファルトを見つめる。街灯に照らされた白線が滲んで見えた。にじみの理由が光のせいなのか、それとも自分の目のせいなのか判別できない。
「なんか、私……よく、わからなくなってきた」
思ったよりも小さな声だった。でもそれは弱さではなくて、どこにも誤魔化しのない本当の温度だった。あの夜——彼の記憶が存在しない時間。そこに取り残された私の感情が、言葉の隙間からじわりと滲み出てくる。
「ホークスのこと、大事だし」
「……」
「一緒にいると安心するし、楽しいよ。それは、本当」
言いながら、自分の中で、何かを確認しているような感覚があった。確かに、そこにあるはずのものを、ひとつずつ指でなぞるみたいに。
そのあいだ彼の気配がほんの少しだけ近づいた気がした。触れてはいないのに空気の密度だけが変わる。それでも私は、続けるしかなかった。
「でも最近……ホークスの気持ちがわからない」
言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。引き返せない線を、指先で、なぞってしまったような感覚。
「大切に想ってくれてるのは、わかるよ」
「……」
「でも、なんていうか……」
一度、息を吸う。うまく言葉にならないものをどうにか形にしようとしている、短い空白。
「いろんなこと、はぐらかすでしょ」
「……」
「話してても、昔みたいに穏やかになれない……気まずくなる」
自分で言いながら、少しだけ笑ってしまった。それは軽さではなくてどうしようもなさに触れたときに出る苦い笑いだった。思っていたよりも、ちゃんと、傷になっていたらしい。
「もう、前みたいには戻れないのかな、とか」
「……」
「私みたいな立場の人、他に……できたのかな、って。だったら私は仕事の関係だけに戻りたい」
「……」
「だって、二人もいらないでしょ。親友なんて」
言葉にしてしまえばひどく幼くて、浅い不安に見える。それでも、それを何度も何度も心の中で反芻してきた時間がある。否定して打ち消して、それでもまた、浮かんでくる思考。考えすぎだと何度も自分に言い聞かせてきた。でも、それでも消えなかった。
「いろいろと、勘繰っちゃうんだよ」
「……」
「もう、疲れちゃったよ、わたし……」
ようやく顔を上げて、彼を見る。ホークスは、黙っていた。逃げるでも否定するでもなく、ただそこに留まって、聞いている。その姿勢が余計に言葉を止めてくれなかった。だから私はもう少しだけ深いところへと、踏み込んでしまった。
「独占欲、ある人なんだなっては、思ってた」
「……」
「でもそれってさ、家族ってほどじゃなくても、なんか、親戚の懐いてるお姉さん、みたいなさ」
言った瞬間、胸の奥に小さな痛みが走る。例えとしては軽いはずなのに、その中に含まれている距離が、あまりにも正確すぎて。
「なんとなく大事で、囲っておきたいけど、線は絶対に越えない……みたいな、さ?」
夜風が、首元をすり抜ける。さっきまで忘れていたはずの冷たさが、急に輪郭を持つ。それでも止められなかった。言葉は考えるより先に自然と零れていく。
「でもね……最近のホークス見てると、それともちょっと、違うのかなって、わからなくなる」
��わからない�≠ニいう言葉の中に、どれだけの感情を詰め込んできたのか、自分でも把握しきれない。大切に、思うからこそ。安心しているからこそ、見えなくなるものがある。信じたいのに、確信が持てないまま、揺れている場所。
「私は……どこにいる人なんだろう、って」
私の言葉が尽きたあと音のない時間が流れる。言い切ったというより、これ以上先がなかった。胸の奥にあったものを、全部外に出してしまったような空白。
私は黙り込んだまま指先をそっと握りしめる。さっきまで気づかなかった力が無意識にこもっていた。隣で、ホークスの呼吸が、ほんの少し深くなる。けれど、彼はまだ何も言わなかった。その沈黙は、逃げではなかった。言葉を選んでいるというより今まで避けてきた場所に、ようやく足を置いた人の、静かな立ち尽くし方だった。
駅前のざわめきは、すぐそこにあるのに、ここだけが切り離されたみたいに輪郭を失っていく。世界が遠のいて代わりに自分の鼓動だけが内側でやけに大きく響いていた。息をするのが少しだけ難しい。それでも、逃げなかった。逃げなかったことだけが、今の私に残された、わずかな、選択だった。
「……あのさ、名前さん」
やがてホークスが、低く息を吐いた。その呼びかけは、いつもと同じ言葉のはずなのに、どこか輪郭が固かった。軽さを纏う余白がなく、音そのものが、まっすぐこちらに届いてきた。
まずい。来る、と思った。何か踏み込んだ事を言われる。逃げ場のないところへ流されて連れていかれる。そんな予感だけが彼の言葉より先に、胸の奥に落ちる。
「それ……俺が、ずるい奴だって話ですよね」
責めるでもなく、茶化すでもなく、ただ事実をなぞるような声だった。余計な感情を乗せない、その言い方が、かえって逃げ場を塞ぐ。私は何も言えなかった。肯定も否定もできないまま、その言葉が自分の中に落ちていくのを、ただひたすら受け止めるだけ。
「俺、自分のこと、ちゃんと話してない」
「……」
「はぐらかしてるのも、この関係に甘えてるのも自覚はあります」
夜の空気がまた少しだけ冷たくなる。それとも彼の言葉がそう感じさせているだけなのか。彼は足を止めたままで、夜空を見上げていた。街灯に照らされるその横顔は、あの、大きな広告のヒーローホークスではなく、ただの一人の人間として言葉を選んでいる顔だった。
「あなた以外に、いるわけないでしょ」
「……」
「そんな単純なことじゃ、ないです」
きっぱりと言い切る声。迷いがないぶん、そのあとに続く沈黙が、逆に深くなる。言葉を探している。言い淀んでいるのではなく、今まで触れなかった部分に手を伸ばしているようなそんな間。
「逆ですよ」
「……逆?」
「はい。……近くなりすぎるのが、怖くなった」
その一言で胸の奥に何かが落ちる。理解よりも先に、感覚が反応した。ああ、と思う。どこかでそうかもしれないと感じていた部分に、ついに、名前をつけられてしまった。私は、息を呑む。
「大事になりすぎた、っていうか」
「……」
「今までみたいに、軽く笑って流して、誤魔化せなくなった」
彼は、私を見ないまま話していた。それでも、逃げてはいない。視線を逸らすことで距離を取るのではなく、言葉で距離を詰めてくる。そのやり方が、ずるいと思う。優しいのに、容赦がない。
「独占欲、ありますよ」
「……」
「たぶん、名前さんが思ってるより、だいぶ」
吐息のような苦笑が混ざる。冗談めかした言い方のはずなのに、軽さはなかった。むしろ、その軽さを装うことでしか言えないものを、無理やり外に出しているように聞こえた。
「でも、それを出したら、あなたが俺から……」
「……」
「逃げるかもしれないって、思ったけん」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。逃げる。その言葉に、反射的に否定したくなるのと同時に否定しきれない自分もいる。私はたしかに逃げてきた。距離を測って、曖昧にして、言葉にしないことで、守ってきた。
「むしろ、親戚の懐いてるお姉さん、とか」
「……」
「そう思われてるなら、まだ安全圏だなって」
その言葉にわずかに息が詰まる。安全圏——。それは私が勝手に感じていた距離であり、同時に彼が意図的に残していた場所でもあったのだと、初めて知る。彼は肩をすくめる。自嘲のような、けれど、どこか、諦めにも似た仕草で。
「家族でも恋人でもない場所」
「……」
「そこに置いておけば、失わずに済む」
その発想が、あまりにも彼らしくて、そして、あまりにも臆病で私は何も言えなくなる。沈黙が流れる。それからようやく、彼がこちらを見た。逃げずに、まっすぐに。
「……卑怯でしょ」
「……」
「でも、俺……失うの、ほんとに無理なんで」
その言葉に少しだけ、息が抜ける。自分で言うのか、と思った。でも、言ってしまえるところがこの人の誠実さで同時に残酷さでもある。夜風がふたりのあいだを通り抜ける。その一言は飾りがなくて言い訳もなくて、ただ事実だけが置かれていた。重いのに、押しつけがましくない。だからこそ、逃げられないのだ。
「だから、あなたを悩ませてるのは……俺です」
「……」
「立ち位置を曖昧に思わせたのは、俺なんすよ」
言い切ったあと彼は何も足さなかった。逃げ道も補足も、慰めもない。ただ、そこに結論だけが残る。私は言葉を失ったまま、立ち尽くす。怒る準備もできていなかった。納得する準備も、許す準備も。ただ彼の言葉が胸の中でゆっくり沈んでいくのを、どうすることもできずに、やり過ごすしかなかった。
理解しようとすると苦しくなる。拒もうとすると、もっと苦しくなる。こんなふうに正しく言葉にされてしまうと、逃げ場がどこにも残らない。喉の奥に何かが引っかかる。言葉にすれば壊れる気がして飲み込めば消えてしまいそうでどちらも選べないまま、ただ立ち尽くすだけ。
「術中に、はまってたわけね……私が」
ようやく、声が形になった。喉の奥に引っかかっていたものを無理やり押し出すみたいにして。
問いというより、確認に近かった。それでも、返ってくる答え次第で何かが決まってしまう気がしてわずかに指先に力が入る。彼は短く頷いた。
「はい、すみません」
「……
「わからなくさせたまま俺から……離れんでいてほしかったけん」
あまりにも正直でほんの一瞬、感情の置き場がわからなくなる。怒るべきなのか、呆れるべきなのか。それとも、ただ、受け止めればいいのか。うまく選べなくて、私は小さく息を吐いた。
「ひどいヒーローだね」
「知ってます」
「自覚あるんだ」
「ありますね」
間を置かず返ってくる言葉。軽口のようでいてどこにも逃げがない。彼は一歩、距離を詰めた。触れない。けれど、逃げ道だけが消える距離。
視線がまっすぐ落ちてくる。逸らせば楽なのになぜか、目を外せなかった。
「でも、名前さんの前だと」
「……」
「俺、どこまで出していいか、まだ測ってる」
その言い方が妙に正直で。胸の奥で、何かが、ほどける音がした。ずっと固く結ばれていた糸が少しだけ、緩むみたいにして。
「ヒーローって肩書きが増えるほど」
「……」
「軽率に言えないことも、増えてくる」
言葉のひとつひとつが彼の背負っているものの重さを静かに連れてくる。私はそれを全部、理解しているわけじゃない。それでもその、言えないことの理由だけは、なんとなくわかる気がした。
「でも、それを理由に黙るのは」
「……」
「あなたに対して、フェアじゃなかったですね」
その言葉は静かに確実に、胸に落ちた。優しさでもなく、言い訳でもなく。ただ、関係に対する姿勢として、差し出されたもの。
私は、何も言えなかった。言葉にしてしまえば軽くなってしまいそうで。
「安心させたいのに、不安にさせてる」
彼は自分の靴先を見ながら言った。視線を落としているのに、逃げているわけではない。ただ、自分の中の矛盾を、そのまま、見つめているだけだった。それが少しだけ苦しくて、なぜか、少しだけ、安心する。
「矛盾、してますよね」
苦く笑うその横顔に、私は思わず声をかけた。ようやく、核心に触れる。自分でも驚くほどに、まっすぐな問いを——。
「ホークス……」
「はい」
「じゃあ、私は?」
「……」
「あなたにとって、私は、どこにいるの」
逃げ道を残さない代わりに、自分にも逃げ道がなくなる問い。顔を上げる。彼はすぐには答えなかった。時間を引き延ばすような沈黙ではなく、言葉を探している沈黙。そのあいだに駅前のざわめきが少しずつ戻ってくる。世界が、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。
「まだ……言葉を選びたくない位置、ですかね」
それでも逃げなかった。その一言だけで、十分だった。誤魔化さないことを選んだ、という証明みたいなものだったから。
「家族でも、親戚でもない」
「……」
「もちろん、安全圏でもないです」
一拍、間を置く。その沈黙の重さを私も一緒に受け止める。
「失ったら、たぶん」
「……」
「俺、立て直すのに時間かかります」
「……」
「あなたは、そういう存在なんです」
それは告白ではなかった。けれど、飾りのない事実として、まっすぐ差し出される。
好きだ、と言われるよりも、ずっと現実的で、ずっと逃げ場がない。私は息を止めたままそれを受け取る。
「だから、わからなくなったら」
「……」
「ちゃんと、聞いてくださいね。今日みたいに、答えるんで」
「……」
「これからはもう絶対に誤魔化したりしません」
彼の声音がほんの少しだけ和らぐ。押しつけるでも、引き止めるでもなく、ただ、そっと。その言葉に、胸の奥がじんわりと温度を持つ。答えをくれるのではなく、問いを許してくれる。それが今の彼の精一杯なのだと、わかるから。
「俺も……逃げないように、しますから」
不器用に付け足されたその一言に、思わず目を伏せる。完璧じゃない。でも、だからこそ、信じられる気がした。
愛とは何かなんて、きっと誰にもわからない。形にしようとすれば、こぼれてしまうし、言葉にすれば、どこか足りなくなる。それでもこうして向き合ってしまった以上もう知らなかった頃には戻れない。愛してしまったらどうしようもない。愛は愛でしかない。離れようが離れまいが、関係ない。離れるかどうかとは、別の次元で、関係はもう、動き出してしまっている。
駅の明かりが二人の影を並べて伸ばしている。完全には重ならないまま隣にある影。その距離がなぜか、悪くないと思えた。重なりきらないからこそ、まだ選べる余白が、残っているような気がして。私は、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。