ヒーローは最悪の事態を想定して生きている。最良の展開なんて、最初から数に入れていない。期待した分だけ裏切られることを、嫌というほど知っているからだ。

 それでもときどき、信じがたいことが起きる。ありえないはずの流れが、するりと現実に、滑り込んでくる。さらに、ごく稀に。奇跡としか呼べない出来事が起きる。そんなとき私たちはほんの一瞬だけ錯覚する。もしかしたら、理想的な結末だってあり得るのではないかと。その瞬間、人は理性に背を向けて、希望を持ってしまう。だからこそ大事なのは、立ち止まることだ。一度、息を整えて、足元を見つめ直すこと。どれだけ美しい夢でもどれだけ救いのある光景でも、朝が来ればあっけなく消えてしまうことがあるのだから。

 *

 その日、定時まであと少しというタイミングで呼び鈴にも似た通知音が鳴り、受付から、対応の合図が入る。業務端末に表示されたヒーロー名を見て、ほんの一瞬だけ視界が霞んだ。入口の方を見やると大きな翼を背負った男が、そこに立っていた。反射的に眉をひそめるが、それを、外には出さず、対応可能の意思だけを返して業務端末を伏せる。
 しばらくして私の立つ二番カウンターにやってきた彼の手には予想どおり壊れた端末が握られていた。

「お疲れさまで〜す。これ、ちょっと、見てもらえませんか?」
「……」
「なんか、またやっちゃって……」

 申し訳なさそうに頭を掻く仕草。それは何度も見てきたものだった。彼の個性による電波障害も空中での衝撃による物理破損も、すべてこのヒーローにとっては��壊れるべくして壊れる�≠ニいう不可抗力なのかもしれない。けれど今回は、少し違った。

「データは一応、バックアップ取ってあるんですけどねー」
「最近、二台目を支給されていませんでしたか」
「あー、そういうのも筒抜けなんすね。でもほら手が、覚えてる方を使いたくなるっていうかさ」

 そこまで言って、彼は一度、言葉を切る。演技じみた、不自然さがある。画面の割れ方が、妙に作為的で、何よりも、普段のように壊れた経緯がいつまで経っても、説明されない。なんとも……計画的なほどに。

「あと……これ、渡したくて」

 差し出されたのは、小さな紙袋だった。中には見覚えのあるカフェのチーズケーキ。以前、私が何気なく「好き」と言ったもの。そんな断片を、彼はまだこうして、拾い続けている。

「いつ渡そうか、ちょっと迷ってて……」
「……」
「でも、ちゃんと渡したいなぁって思ったので、壊しました、メイン使いのスマホを」

 最後の一言は冗談みたいに軽くて、どこまでも彼らしくて、それでも私は、今までのようには、笑えなかった。

「……修理、預かっておきます。ケーキは冷蔵庫に入れておきますね」

 それだけ言って彼を遠ざけようとする私の声は必要以上に機械的だったと思う。すると彼はそれでも一歩だけ、カウンターの向こうから、距離を詰めてきた。

「ねぇ、あのさ。提案なんですけど」
「……」
「今日……終わったらちょっとだけ、飲みに行きません?」

 不意打ちだった。返事が出ないまま視線も上げられない。視界の端で、彼のブーツがほんの少しだけ下がる。踏み込みすぎたことを自分で引いたのだとわかる動きだった。彼の中では何かをやり直そうとしているのだろう。けれど私の中では、何ひとつとして、片付いていない。

「お酒は……最近、控えてますので」

 そう答えると、彼は少しだけ残念そうに口角を下げて、それでも無理には引き留めなかった。

「そっか……」
「ごめんね」
「でも俺、あれです。ほんとに何か話すとかじゃなくても、全然よくて……さ」
「……」
「名前さんと同じ空気に触れてたいだけなので」

 言葉が、慎重に置かれていく。どうしてそんなことをこんなにも自然に言えてしまうのだろう。打算も、演出もない。だからこそ逃げ場がなくて厄介で、残酷だ。

「また壊しますね、スマホ」

 ようやく少しだけ軽さを戻した声。ややあってから「やめてください」と返すと、ようやく彼が小さく笑った。その笑みを受け止めきれないまま私たちのあいだにある空気だけがすうっと静かに揺れた気がした。


 *


 その日は朝から、風が冷たかった。ダウンジャケットを羽織るほどではないけれど、マフラーの重さがちょうどいいと思えるくらいの気候。曇り空の下で背筋を伸ばし、いつものように出勤する途中、スマートフォンが震えた。



ホークス

お疲れさまです
今週の金曜よかったら
ごはん行きませんか





 ホークスからだった。どうして、そんなことを思い立ったのかという前置きもない、短い、誘い文句。
 ここ数日、あの��なんでもない�℃ハ真や呟きは途絶えていたから、なおさら、鼓動が無駄に速くなる。どうやらもう、チーズケーキなんかでは、誤魔化せないらしい。
 返事はしなかった。読んで、閉じただけ。それだけのことなのに、その日から、時間の流れ方が少し変わった気がした。仕事の手が、ふと止まる瞬間が増える。何でもないはずの時間の隙間に、あの一文が、何度も浮かび上がってくる。

 そうして、金曜日の夕方を迎えた。終業の鐘のようなチャイムが鳴ったあと結局、私はまっすぐ帰らずに、駅のベンチに一人、腰を掛けていた。冷えた風が頬をなぞる。まるで決意をくすぐって揺らすような風だった。スマートフォンを開く。空白の返信欄がやけに白く見える。指先がほんの少しだけ震える。いったい、どうしたいのか——問いはあるのに、答えはまだ曖昧なままだった。それでも私は短く打つ。小さな��出会い直し�≠�願って。



名前

当日の連絡でごめんね
今日、行けるよ





 小さなやり直し。そう呼べるほど、確かなものじゃない。けれど何もなかったように始められるなら、それでもいいと思ってしまった。
 数往復のやり取りをして、彼は駅前のいつもの居酒屋にいた。暖簾の脇で少しだけ、背を丸めて待っている。先に見つけたのは、たぶん彼のほうだった。軽く手を挙げる仕草。その何気なさに、思わず目を伏せたくなる。

「……こんばんは」
「こんばんは、名前さん。来てくれてありがとうございます」

 それだけのやり取り。けれど、いつもより少しだけ丁寧な口調に、なんだか、こちらのほうが、戸惑ってしまう。
 中に入って席に着いてからも、彼は、やたらとメニュー表を眺めていた。視線が落ち着かない。まるで新人研修中のバイトの子みたいにそわそわしているのが、妙に滑稽だった。

「あっ、何にします?」
「……ホークスに、合わせる」

 言ってから気づく。それは、たぶん、私の本音だった。彼と同じものを選びたかった。今夜だけでも何もなかったみたいに並んでいられるなら。それでいいと、思っていたから。
 再び始まった夜は、とても静かだった。嘘も、涙もない。ただ少しだけ食べて、少しだけ飲んで少しだけ笑う。会話は、どれも、軽いものばかりだった。季節のこと。テレビのこと。街で見かけた妙な看板のこと。核心には触れないまま過ぎていく時間。それでも不思議と苦しくはなかった。

 帰り道。彼は自然に歩幅を合わせてきた。私は何も言わなかった。拒むことも離れることもせず肩が触れそうな距離。触れていないのに、そこにある体温だけが確かで。
 ——ああ、と。その近さに、ほんの少しだけ、安心している自分がいることに気づいてしまう。それを認めてしまった瞬間、胸の奥で、なにかが静かにまた、ほどけた気がした。
 その夜。帰宅をして、バッグを置いたその瞬間だった。遅れてきたように、スマートフォンが、小さく震えた。送り主はホークス。けれど今回は空の写真でもコンビニで買った物でもなかった。画面に並んでいたのはいくつかの短い文章だけ。



ホークス

今日はありがとうございました
名前さんと話せてよかったです


ホークス

久しぶりにちゃんと
笑ってもらえた気がしました


ホークス

すごく嬉しかったです


ホークス

おやすみなさい





 丁寧でまっすぐで。私がもう忘れたふりをしていた彼の話し方だった。一行ずつ目でなぞるたび胸の奥で何かが、擦れる音がした。痛いわけじゃない。でも無視もできない。たとえそれがほんのささいな感情の波だとしても、それは私の中で、確かに生きていた。
 あんなに距離を、取ったはずなのに。数時間前までは言葉を選びながら座っていたはずなのに。こんなにも簡単に、また触れてくる。まるで最初から、離れていなかったみたいにして。
 返信はしない。まだ、できない。それでも消えない。指先で触れたはずの文字が今度は内側から何度も浮かび上がってくる。私はただ黙ったままその言葉たちを心のどこかで繰り返し読み返していたのだった。


 *


 日が暮れても、あまり冷え込まない夜だった。季節がわずかにゆるみはじめている。春にはまだ遠く、けれど冬の尖った風は、その夜、どこかに置き忘れられたみたいに、姿を見せなかった。
 ビルの谷間の風が、少し冷たく感じる帰り道。駅前の交差点を渡ろうとしたところでふと視線を感じて立ち止まった。彼がいた。特に、用があるふうでもなく、ただ、そこに立っている。待っていたというほど露骨ではない。けれど、こちらに気づいていないはずもない位置で、静かに。私が知っている彼の��余裕�≠フ名残が、まだそこに、宿っていた。なのにどこか、ぎこちない。
 気づかないふりをして、通りすぎようとした、その瞬間。彼が、まるで時間の溝からそっと跳ね上がってきたように、声をかけてきた。

「名前さーん、お疲れさまです」

 軽い声が夜気に乗る。ああ、まただ、と思う。視線の先、コンビニの前。小さな紙袋を片手に、ホークスが人の流れに紛れて立っている。羽根の気配もなければ、ヒーローとしての、影もない。どこからどう見てもただの、私服姿の青年、そのものだった。
 私は片眉を上げただけで歩みを止めなかったがそれでも相手のほうが数歩遅れて、当然のように並んでくる。

「……お疲れさま」

 その一言を返すまでに、いつもよりも少しだけ時間がかかった気がした。自分の声が彼の耳まで届いたかどうか、確信が持てない。

「……また、ストーカーごっこ?」
「いえ、たまたま通りかかっただけですよ」
「ふぅん。で、その紙袋は?」
「た・ま・た・ま!名前さんの好きな店のテイクアウト、です」
「……あら、わざわざありがとう」
「いえいえ〜!明日の朝にでも、食べちゃてくださいっ♪」

 どこまでも軽く、どこまでも自然体。けれど、その言葉の端々から何日もかけて慎重に間合いを詰めていることがわかる。まるで触れると逃げてしまう鳥を追うような、距離の測り方だった。

「ヒーロー活動、忙しいんじゃないの?」
「忙しいですよ」
「じゃあ、私なんかに構ってないで、」
「構いたいから構ってるんですけどね」

 言い終わる前に遮られたそれは��返せる強さ�≠フある言葉だった。だからこそほんの少し、頬の奥が熱を持つ。棘を立てたつもりの言葉に、彼は全く怯まずに、まるで意味を持たないみたいに、むしろ、朗らかに返してきた。

「その『私なんか』って言い方さ。俺、ちょっと前にも聞いた気がするんですけど」
「……そう?」
「ええ。やめましょうよー、それぇ〜」
「……」
「どうでもいい人に、何度も懲りずにこんなことしませんよ」
「……」
「行列のできるケーキ屋さんに律儀に並んだり、こうしてわざわざ、テイクアウトしたりさ」

 歩きながらの会話はいつのまにか、信号の青と同じように、当たり前の流れに戻っていた。私が返事をしなくても、彼は勝手に間を繋いでくる。息をするみたいに話す彼の声は、相変わらず耳に馴染んで、逆に、居心地が悪いくらいだった。

「名前さん、今日って、晩ご飯まだですよね」
「……え」
「よかったら、一緒にどうです?そんなに重たくないものにしますんで」

 その瞳に、いつか見た、あの光が宿っていた。押しつけがましさとは無縁なのに、なぜか逃げられない。私はほんの一瞬、目を逸らして、ひとつ深呼吸をする。

「……あんまり、長くは付き合えないよ」

 返事ともつかない返事に、彼は、ふっと笑ってみせた。まるでその一言が何よりの肯定であるとでも言うように。
 歩幅は自然と揃う。離れすぎず近づきすぎず。それでもさっきよりは少しだけ近い距離で。このくらいなら。もう少しだけこの歩幅でいいのならこのまま並んで歩いてみてもいいかもしれない。

 居酒屋の暖簾をくぐったのは、ちょうど午後の七時を少し過ぎた頃だった。
 一度コンビニに立ち寄ったぶん、彼は先に到着しているはずで——。そう思いながら、店の扉を開けると、外の冷たい風にさらされていた頬が、店内のやわらかな灯りに包まれてじんわりと熱を帯びた。

「こっち、空いてました!」

 ホークスは、奥まった二人掛けの席を指差して立ち上がる。人目につきにくいその位置が、彼がこの場所に不慣れではないことを静かに物語っていた。私は黙って頷くだけで席に向かっていき、腰を下ろす。すぐに運ばれてきたお通しは蓮根のきんぴらと、ほうれん草の胡麻和え。それから、ほんの少量の自家製塩辛。目新しさはないのに、口に入れる前から、どこか安心する匂いがした。

「名前さん、ビールでよかったですか?」
「……うん、ありがとう」

 瓶を傾けてグラスに注ぐその手元を見つめる。変わらず器用な指先。けれど今日は、ほんのわずかに、ためらいが混じっている気がした。何かを壊さないように扱うときの、あの、慎重さに似ている気がした。

「寒くなってきましたね。年末が近いって感じがします」
「そうだね。ホークスの誕生日ももうすぐだね」
「おおっ? 覚えてくれてたんですかぁー?」

 彼の表情に照れたような笑みが浮かぶ。毎年、当たり前みたいに、祝ってきたはずなのに。私は何も返さず、ただ視線を落として箸を手に取る。注文した料理が少しずつテーブルに並んでいく。だし巻き卵、焼き鳥、厚揚げと大根の煮物。どれも、彼が選びそうなものだった。彼はひと口だけ食べて、すぐに箸を止める。それから少しの間をおいて、こちらを見た。

「名前さん、最近ちゃんとご飯食べてます?」

 なんでもないようなその問いに、私は咄嗟に、うなずいた。それなのに一瞬だけ、言葉を探してしまう。

「……食べてる、よ」

 短く返す。それで、十分なはずなのに、どこか嘘みたいに軽かった。でもそれはただ会話を止めたくなかっただけで、本当はうまく言葉を返せなかったからだった。

「そっか。それならよかったです」

 それ以上、踏み込まない。けれど引くわけでもない。その距離の取り方がやっぱり彼らしいなと思った。

「俺、ちゃんとした会話できてるか、自信ないんですけど……」

 ホークスは癖のようにグラスの縁を指でなぞりながら、ぽつりと言う。まるで、初めて合コンに来た人の台詞である。こういうところは素直に、かわいいな、と思う。

「でも、こうやってご飯一緒に食べてると、やっぱり落ち着くんですよね」

 グラスの中の泡がしゅわしゅわと静かに弾けてその細かな揺れが、言葉にならない部分を埋めてくれるみたいだった。

「ごめんね、ちゃんと……向き合えなくて」

 思わず零れた言葉に、自分でも少し驚く。謝りたかったのか、それともただ、何かを差し出したかったのか、自分でもよくわかっていない。

「いえ、向き合おうとしてくれてるだけで、十分ですよ」

 すぐに返ってくる。軽くもなく、重くもなく、ただ受け止めるだけの声で。言葉に詰まりかけた私を、そうやって助け舟のようにすくい上げる。今も昔も変わらない彼のやり方。少しの優しさと少しの鈍感さと、そして、ほんの少しの執着で。
 テーブルの上で湯気がゆるやかに立ちのぼる。いつもと同じアルコールの入ったグラス、小皿に滲んだ出汁。交わしているのは、ほとんど世間話ばかりのはずなのに、彼の声の温度だけが、喉を通って、静かに内側へと沁み込んでくる。黙って頷いたり、たまに相槌を打つだけで時折、空白を埋めるように彼がぽつぽつと繋いでくれていた。途切れそうなところをそっと拾い上げるように。

「名前さんの笑うとこ、やっぱ、好きだなと思いました」

 そんな一言に、箸を持つ手が、小さく止まる。顔は上げない。けれど、胸の奥では何かが確かに揺れた。

「今はまだ、なんて言えばいいか。ずっと考えてるんですけど」

 それは言い訳ではなく約束でもなかった。ただ気持ちだけが置き去りにされずに、きちんと場に残されていた。言葉を探している、その不器用さごと、差し出してくる。彼は、そういう人だ。
 私はゆっくりと彼のグラスにビールを注いだ。泡が溢れないように静かに均すように。泡の層がきれいに収まる程度に。
 視線が合う。彼の琥珀色の瞳には、なにか言いたいことがまだ、いくつも浮かんでいたけれど、それでも今夜はそれ以上、多くを求めてはこなかった。それが少しだけ救いだった。食事は静かに進み、そして夜もまたゆるやかに深まっていく。

 居酒屋を出て、酔いのせいで少しだけ浮ついた足取りを悟られないように、整えながら歩く。
 足元に落ちた街灯の光が、二人のあいだにある空気を、じんわりと曖昧に、照らしていた。夜の冷たさはすでに、ゆるみはじめている。それでもまだ春とは呼べない季節の境目に私たちは立っていた。
 角を曲がろうとしたとき、彼の足音がぴたりと止まる。私も思わず足を止めて振り返ると、ホークスは、ほんの少しだけ俯いていた。言葉にするのが怖いみたいに、それでも飲み込めない何かを抱えたまま、喉の奥から押し出すように。

「……あの。仲直りが、したいんですけど」

 唐突でひどく静かな声だった。一瞬、風の音かと錯覚するほど低くて、それでも、耳に残る響きだけがやけに真っ直ぐで、ごまかしが効かなかった。駅までのわずかな距離。並んで歩く足音は、同じリズムに、近づいていたはずなのに。ビルの隙間から覗く夜空には星のかけらも見えず遠くのタワーだけが規則的に、赤く点滅している。

「……喧嘩なんて、してたっけ」
「してます。もう、結構の期間」

 視線を落とすとアスファルトに落ちたふたりの影が、わずかに重なっていた。

「もう、あの日のことは聞きません」
「……」
「でも、このままじゃ……嫌なんで」
「……今日のが��仲直り�≠カゃ、ないの?」

 笑おうとしたのに、口の端はうまく持ち上がらなかった。乾いた風がコートの裾を揺らし、その気配に紛れるように、ふと、彼の手が動いたのがわかった。

「んー、なんか違うんですよねぇ」
「……」
「名前さんと、もっとこう……ちゃんと向き合いたくてさ」

 それ以上は続けないまま、彼はそっと、視線を外した。街灯の光を受けて浮かび上がる輪郭は、ヒーローの顔ではなかった。ただの若くて不器用な青年の顔だった。すぐには答えられない。返すための言葉を私はまだ持っていない。返事をするには、時間が必要だった。それでも返さなければならないことだけは、わかっていた。視線を少し逸らして冷えた空気を吸い込む。胸の奥に沈んでいる言葉を、そっとすくい上げるようにして。
 そして私は、かすかに頷いた。まるで、誰にも気づかれないように季節の境目に立つ花が、風に合わせて揺れるように。
 彼の視線がまっすぐにこちらを捉える。痛みと誠意と、それから、どこか子どもみたいな祈りの色。まっすぐすぎて少しだけ眩しい。軽口も虚勢も、そこにはなかった。だから私もごまかさずに正面から受け取るしかなかった。

「ホークス」

 名前を呼ぶと、彼の目がわずかに見開かれる。ふと、ポケットの中で、指が落ち着かないように動いている。触れないようにしているのが、伝わってきた。だから私は、そのまま言葉を続ける。ゆっくりと、確かめるみたいに。

「……もう十分、向き合ってくれてるよ」

 あの事故のあと彼は記憶がないまま、それでも何かを失ったことだけは理解していて繋ぎ止めるように送り続けてくれた、��なんでもない�′セ葉たち。失った何かを埋めようと毎日なんでもないメッセージを送ってきた、あの真っ直ぐさ。その全部を、私は知っている。知っていたのに、許すことが、怖かっただけだった。

「……じゃあ、仲直り成立ってことで?」

 彼が私の顔を覗き込みながら、問い返す。まだ少しだけ、信じきれないような目をして。

「うん」

 そう言って小さく笑って返すと彼は一瞬、息を止めたみたいに動かなくなって、それから視線を落として、静かに頷いた。

「よかった」

 それだけの夜。まだ何も、元には戻らないし、まだ何も、始まってはいない。それでも、凍っていた空気の中に、わずかに、ぬくもりが混ざる。そんな、夜だった。


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