その日は、両腕に、確かな重さを抱えていた。メーカーから届いたばかりの段ボールは見た目の簡素さに反して中身を主張するようにずっしりとしていて胸の高さまで視界を遮り私は自動ドアの前でいったん足を止めて、息を整えるようにしてダンボールを持ち直した。
こういう単純な動作ほど仕事の合間には余計な神経を使う。落とさないこと、人にぶつからないこと、そして何より誰かに気を遣わせないこと。意識の端でそんな注意事項を並べているうちに、自動ドアが反応する小さな電子音が鳴り次の瞬間目の前の空気がわずかに揺れた。
「あ、」
「あ。」
ほとんど同時に声が重なり私は反射的に段ボールを抱えたまま顔を上げる。そこには視界の端をかすめる赤い羽根が、衝突を避けるように寸前で静止していた。
「わっ、すみませんっ!」
「い、いえ……こちらこそ」
どちらからともなくそう言い合って言葉が宙に残る短い間、視線が定まりきらないまま、彼——ホークスは私の腕の中の段ボールへ視線を落とすと、すぐに状況を飲み込んだようだった。
「それ、重そうっすね」
「まあ……中身は、紙なので」
「紙、って量じゃないですよね」
「まあ……そうだね」
そう返しながら私は言葉よりも先に腕の内側に溜まっていた疲労を、はっきりと自覚していた。彼はそれを、見逃さなかったのだろう。すでに、段ボールの端には手がかかっている。躊躇のない動きで、けれども、奪い取るほど強引でもない。あくまで自然に、支える位置を選ぶような手つきだった。
「奥、倉庫ですか?」
「……はい」
「じゃあ、半分持ちます」
「いえ、大丈夫ですよ」
口ではそう言いながら反応はわずかに遅れた。その隙に、段ボールの重みがふっと半分になる。腕にかかっていた圧が抜け重心が安定したことを身体のほうが先に理解する。
「ヒーローに運ばせるのは、気が引けます?」
軽い調子の声。からかうというより場の空気を和らげるための言い回しだ。私は、否定も肯定もできないまま、小さく息を吐く。
「……ちょっと、だけ」
「じゃあちょっとだけ、俺が手伝うってことで」
そう言って彼は自然に歩き出す。私も、遅れないように自然に歩調を合わせた。廊下は短く、倉庫までは数十歩もない距離のはずなのにその道のりが今日はやけに長く感じられたのは、段ボールの向こう側ではなく、並んで歩いているからなのだろう。
「こういう荷物、よく運ぶんですか」
「月に、一度くらいですかね」
「一人で?」
「まあ、基本は」
「それ、普通に大変じゃないです?」
段ボール越しに届く彼の声は対応中に聞くものよりわずかに低く任務中の張りとも違っていた。どこにも向けられていない声。だから私もすこしだけ、正直になれた。
「……慣れましたね」
「それ、だいたい慣れなくていいやつっすよー」
思わず短く笑ってしまう。倉庫の扉を開けて、段ボールを所定の位置に置くと、彼は、きちんとこちらの動きを見てから、同じタイミングで手を離した。
「ありがとうございました」
「いえ。ついでですから」
その「ついで」がどこまでを含んでいるのかは考えないことにする。それから私たちは、自然な流れで二人一緒に受付に戻る。すると彼は改めてカウンター越しに端末を差し出した。
「お疲れ様です、名字さん」
その呼び方はもう完全に定着している。それを指摘する理由も、はたまた否定する理由も、今の私には見当たらなかった。
「お疲れ様です。今日は、どうしました?」
「充電の減り、異常に早くて」
「それ、最近多いですね」
「え、俺だけじゃないんですか」
「同じ機種、同じアップデート済みのものです」
「あー、……仲間だ」
その言葉の言い切り方が妙に人懐こくて、私はほんのわずかに口元を緩めた。彼が安心したように息を吐くのを見ると、原因が不具合だと分かること自体が彼にとっては小さな救いなのだろうと思う。緊急事態でも任務でもなく、ただの端末の話で済むことが、今日の彼には必要だったのかもしれない。
「じゃあ今日は、お仲間対応します」
「えー?なんすか、それー」
「通常対応ですけど?」
彼は、声を出して笑った。軽い笑い方なのに、余計な力が抜けているのが分かる。私はその笑い声を作業のリズムに戻すように受け止め、視線を端末へと落とした。
「名字さん、こういうの詳しいですよねー」
「仕事なのでね」
「便利な言い訳」
「実際、便利です」
「俺も使おうかな」
「ヒーローがそれ言うと大変ですよ、頼られて」
「えぇ? たとえば? どんなふうに?」
画面を操作しながら交わす会話はいつもよりも間が短く、それでも、急ぐ理由はない。こういう時間の流れ方は、嫌いじゃない。
「『ホークス!ちょっとスマホ見て!』って」
「はは。それはちょっと厄介すね」
「でしょ?しかも、ご老人が多いですよ」
「じゃあ、ここ限定で」
冗談めいた言葉を私はほどよく聞き流す。設定を調整しログを確認して、最終チェックを終えるまで、指は迷わない。端末の中の規則正しい反応とは裏腹に、彼の声だけが少しだけ自由で、その温度差が、今の距離感にちょうど合っている気がした。
「——はい。これでまた、様子見てください」
「ありがとうございます、名字さん」
端末を受け取る彼の指先で、例のストラップが揺れているのが目に入った。相変わらずダサいなと、心の中で即座に判断してしまうくらいには、センスがない。けれど、不思議と外される気配はない。私は何も言わず視線を落としたまま、その事実だけを受け取る。言葉にしない選択も今は、必要だと思えたから。
「じゃ、また来ますねー」
「今度は……段ボールがない日に」
「それは残念」
「え……残念?」
「え? 手伝えないじゃないですか」
ああ、と内心で小さく相槌を打つ。お得意の、軽口混じりの冗談だ。彼はこういうふうに言葉の先を少しだけ、丸めて差し出す。冗談として受け取ればそれ以上、踏み込まなくて済むし本気だと思えば自分のほうが勝手に深読みしていることになる。その曖昧さが、彼自身の気持ちを守る殻になっていることを、私はもう知っている。
「ホークス」
「はい?」
「お手伝い、ありがとうございました」
そう告げると、彼はわずかに目を細めてから、穏やかな笑みを浮かべた。派手さのない任務中の顔でも、ヒーローの顔でもない、ただ、ひとりの私と同じような、人間としての表情。
「いえ、こちらこそ」
自動ドアが閉まり、羽根の気配が、遠ざかっていく。彼がいなくなると、さっきまでの会話が、嘘みたいに空気が静まり返る。私は一度だけ胸の奥まで空気を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
ただ一緒に段ボールを運んだだけ。ほんの短い距離を並んで歩いただけ。少しフランクに言葉を交わしただけ。それだけの出来事なのに、今日という一日は必要以上に騒がしくもならず、それでいて、静かな重さを残していく。
距離というのは意識して縮めなくても、歩幅が揃えば自然と変わってしまうものなのかもしれない。そんなことを考えながら私はその気づきを、まだ、誰にも言わないことにする。次の端末へと手を伸ばし、この仕事をいつも通りに、滞りなく続ける。それが今の私にできる、いちばん無難でいちばん誠実な選択だった。
*
その店はいつもの職場とはまるで異なる呼吸をしていた。壁に反射する橙色の照明は昼間の白い蛍光灯よりも人の輪郭を曖昧にし、笑い声やグラスの触れ合う音がひとつの流れとなって、空間を満たしている。
定期的に開かれるこの集まりは、形式上は情報交換や労いの場とされているものの、実際には、日々の任務で削られた神経を互いの存在で確かめ直すための、半ば儀式のようなものだった。私は職場で纏っている沈黙よりも、少し明るい表情を意識しながら顔見知りのヒーローたちに声をかけ席を探して視線を巡らせていた。そのとき、ふと空気の色が変わる。赤い羽根。それだけでなぜか目が留まる。いつもとは違う服装で、しかし立ち姿の癖だけは変わらないその若きヒーローが少しだけ居心地の悪そうな顔で、店内を見回しているのが目に入った。ああ、今日が初参加か。そう、理解した瞬間、視線が絡み合う。
「名字さん!」
呼ばれて、私は思わず口元を緩めた。ここでもその呼び方なのだと思うと、可笑しさと、ほんのわずかな安堵が、同時に胸に落ちてくる。
「来てたんだね、ホークスも」
「はい。声かけられちゃって」
「そっか」
「今日が初めてなんで、お手柔らかにお願いしまーす」
彼はそう言いながら、当然のように、私の隣の椅子を引いた。誰かに断りを入れるわけでもなく理由を説明するでもなく、ただ、そこが、自分の居場所だと理解しているかのような動作で。だがしかし、周囲は誰も気にしない。テーブルの上に置かれたグラスの中には淡い褐色の液体が入っている。
「あ、未成年だもんね」
「ええ。だから、これ」
彼が指したグラスの中身はウーロン茶だろう。若くて、いつも余力を残したまま動いている彼の印象からてっきりコーラや炭酸飲料の類を好むのだと思い込んでいた分、その選択がひどく意外に感じられた。
「ちゃんと、守ってます」
「偉い」
「当ったり前じゃないすかー、プロヒーローですからねぇ」
そう言って笑う顔は、職場で見るよりもずっと柔らかかった。
宴は、波のように緩やかに進んでいく。任務の話がひとしきり語られ、失敗談が笑いに変わり、誰かの冗談に、誰かが突っ込みを入れ、また別の話題へと流れていく。私は相槌を打ち、ときどき自分の話も混ぜながら、この場では、職場よりも少しだけ声を出し、少しだけよく笑った。
「名字さんって、ほんと外だと、印象が全然違いますよねー」
誰かのそんな一言に周囲が示し合わせたように頷く。笑い混じりの同意が、テーブルの上を軽く転がっていく。その輪の中に少し遅れて彼、ホークスの声が差し込まれた。
「仕事中は、もーっと静かですよー?」
「まあ、仕事中ですから」
思わずそう返すと、また一段、笑いが広がる。否定でも肯定でもない返事が、場の空気にはちょうどよかったらしい。その隣でホークスは、それ以上、口を挟むことなく黙って、そのやり取りを聞いていた。ときおりこちらへ視線を向け、短く音を立てない笑い方をする。その距離感が、妙に落ち着く。
宴がひと段落し、空になった皿が順に下げられ始めた頃だった。
「私の方がパワーはありますから〜!」
職場の誰かがどこかのヒーローに向けて放ったその一言が場の空気をわずかに揺らす。冗談の延長のはずなのに言葉だけが少し前へ出たような感触があった。
「じゃあ、腕相撲で勝負してみれば?」
誰かの軽い提案。それに被せるように別の声が重なり、誰かがテーブルを叩き、「いいね!」と声が上がる。気づけばその流れは疑う余地のないものとして定着していった。場の視線が、自然と一箇所に集まってくる。
「じゃあ、まずは手始めに……」
「うんうん!今日、初お目見えのホークスと」
「あと、名字さん!」
指名された瞬間、私は一度だけ、瞬きをした。思考が追いつく前に周囲の期待だけが先に膨らんでいく。視線を隣へやると、ホークスもまた少し意外そうな顔で、こちらを見ていた。軽口を挟むでもなく、逃げ道を作るでもない、その表情が、今の状況を、やけに現実的なものにしてしまう。冗談の延長だったはずの提案が、いつの間にか、私と彼のあいだに、小さな舞台を作っていた。
「え、俺っすか?んー。名字さん、強そうだし」
「なんでよ、どーいう意味?」
笑いながらそう突っ込みつつ、私はすでに立ち上がっていた。こういう流れを、無理に断らないことも、この場ではひとつの役割だ。場の温度を不用意に変えないこと。誰かの期待を過剰に裏切らないこと。その判断は、考えるより先に身体が覚えている。
テーブルに肘をつき、向かい合う。木の天板が少しだけ冷たく、手のひらに、その感触が残る。ホークスは一瞬だけ言葉を探すような間を置いてから観念したように私と同じ姿勢を取った。手が触れ合う。私はそれを、深く意識しない。
「手加減します?」
「いりません」
合図と同時に力がぶつかる。思っていた以上に拮抗していた。腕を通して伝わってくる力は鍛えられた身体特有の無駄のなさがあり、押すでもなく潰すでもなく、ただ、確実に前へ進もうとする圧だった。さすがプロヒーローだと、妙に冷静な感想が浮かぶ。その一方で、私は今さらになって彼の手を、初めてこうして握っているのだという事実に気づいてしまう。指と指のあいだに逃げ場はなく、掌の温度も皮膚の硬さも、仕事中に見る彼からは想像できないほど生々しくて、力比べの最中だというのに、どこか、場違いな緊張が胸の奥に溜まっていく。
「ねえ、手加減……してるでしょ……っ?」
「してませんってー。至って本気です……」
勝ち負けよりも先に、この接触が記憶に残ってしまいそうだと、そんな事を考えてしまう自分を私は少しだけ、持て余していた。
「……っ、」
「……名字さん、普通に力、強……っ」
「意外と、でしょ……っ?」
力の均衡が崩れきらないまま、どちらからともなくほんの少しだけ踏み込むのをやめる。結果は引き分け。拍子抜けするほどに、穏やかな終わり方だった。たぶん彼が加減してくれたのだろう。あの筋肉に本気を出されでもしたら、私が抗える時間なんて、ほんのわずかだろう。
「いい勝負でした〜!」
「平和的でいいっ!」
周りからの労いや、笑い、拍手に押し戻されるように私は席へと座り直す。ホークスもまた少しだけ気恥ずかしそうに笑い席に座ってからソフトドリンクを一口飲んだ。その仕草が、さっきまで手を握って向かい合っていた相手とは別の距離に戻ったことを静かに告げている。
夜が更け店を出る頃には外の空気がひんやりとしていた。さきまでの熱気や笑い声が、嘘だったみたいに冷えた空気が頬に触れ、私はそれを深く吸い込む。腕にはもうさっきの力の名残はない。それでも不思議と身体の奥にだけ、静かな感触が残っていた。
「俺、今日はセーフハウスなんで」
皆がそれぞれに店の前で散っていき歩き出したその流れの中で私の隣に並んだ彼が、前を向いたままそう言った。独り言に近い調子で、こちらの反応を急かすでもない。
「うそ。その年で、セーフハウス持ってるの?」
「え。関係ないですよー、みんな持ってますし。プロヒーローたちは」
「あ、福岡が拠点だもんね、基本は」
「です。家、どっちですか?」
「えっと……駅の、西口のほう」
「じゃあ、途中まで、一緒ですね」
それは選択というより偶然の延長だった。そう思うことでこの並びを特別なものにしないようにする。帰り道は、ただ重なっただけ。そう自分に言い聞かせながら、私は、彼の隣を歩く。夜道は静かで、宴の熱を少しずつ冷ましていく。足音の間隔が揃い、言葉がなくても不思議と気まずさは生まれなかった。しばらくして不意に彼が、思い出したように口を開く。
「こういうの、なんかいいですね」
「んー? なにが?」
「仕事じゃないところで、話す空気っていうか。ああいう場じゃない感じが、です」
「……」
「ああ、変な意味じゃなくて」
「……まあ、そう……だね」
「名字さんが、あんまり構えずに話してる感じも俺はいいと思いましたけど」
「……そう、かな?」
答えながら、私は自分の声が思っていたよりも落ち着いていることに気づく。歩幅は相変わらず揃っていて会話も無理に探す必要がない。沈黙が沈黙のままで許される距離。
「今日は、楽しかったです」
「そっか。それなら、よかった」
「……名字さんがいると、落ち着くんすよねー」
その言葉は夜の空気に溶けるみたいに柔らかく放たれた。私はすぐに意味を与えない。ただ受け取るだけに留める。軽く流せば冗談になるし深く考えれば余計な名前がついてしまう。だから今はどちらもしないほうがいい気がした。分かれ道に差しかかり、彼はそこで足を止める。
「——じゃあ、ここで」
「うん、気をつけてね」
「はい。名字さんも」
軽く手を振って彼は夜の向こうへ歩いていく。街灯の下で赤い羽根が一度だけ揺れた。私はその背中を見送りながら、胸の奥に残った微かな熱を夜風に預ける。
賑やかな宴と静かな帰り道。その落差が今日という一日を妙に鮮明にしていた。仕事の外で見る彼はヒーローでも顧客でもなく、ただ同じ時間を歩いた人だった。思っていたよりもずっと普通でだからこそ少しだけ心に残る。けれどそれ以上の名前は要らない。そう思いながら、私はひとり、帰路についた。
*
次に彼が来たのはあの飲み会から三日後のことだった。間隔としては特別に短いわけではない。仕事上のやり取りとして考えればごく自然な来訪だ。けれど、夜の賑やかさと、帰り道の静けさを一度この身体に通してしまうと職場で再び向かい合うこの距離が以前とまったく同じではないことだけは、私自身がいちばんよく分かっていた。
受付カウンター越しに見えた赤い羽根はいつも通りだ。歩き方も周囲への注意の向け方も変わらない。変わっているとすれば、それをそうと認識してしまう、私のほうだった。
「お疲れ様です、ホークス。」
私が先に声をかけると、彼は一度だけこちらへ視線を向け、それからすぐに笑った。
「お疲れ様です、名字さん」
その呼び方は、もう完全に空気の一部になっている。その事実に、今さら動揺することはない、そう、思いたかった。
「今日は、どうしました?」
「あ、えっと……」
彼は端末を差し出しかけてからわずかに言葉を切った。その間が、業務上の確認とは別の種類のものだと私は無意識のうちに感じ取ってしまう。
「……この前、楽しかったですね」
先に出てきたのは不具合の報告ではなく、その話題だった。私は一瞬だけ指先の動きを遅らせてほんの一拍、必要以上に間を空けないように気をつけて返す。声の調子は、いつもと変えない。
「そうですね」
「うん」
「初参加って言ってましたけど、どうでした?」
「え? あー、正直……」
彼は、少しだけ考えるように視線を泳がせて、それから、言葉を選ぶ。
「思ってたより、居心地よかったですよ?」
その言い方は、決して大げさではなく、また、取り繕ってもいなかった。私は、静かに頷く。
「それなら、よかったです」
「名字さんがいたから、ってのもありますけど」
さらりとした言葉だった。軽く、冗談めかした調子。それでも懇親会の席で交わされた空気を、彼もまたきちんと覚えているのだと分かる。仕事に戻るにはほんの少しだけ、柔らかすぎる言葉。そう思ったところで、彼はふと思い出したように付け加えた。
「……腕相撲、強かったですね」
「あれ、話題にされるほどのことじゃないです」
「いや、普通に」
彼は少しだけ口元を緩めて、言葉を探すように視線を宙へ逃がしてから続けた。
「ああいうの、ここじゃ見ないじゃないですか」
その一言に、私は内心で小さく呼吸を整えた。見せていないのではない。切り分けているだけ。だが、その違いを説明する必要は、きっとない。
「場所が違えば、人も変わりますからね」
「なるほど……」
彼は納得したように頷き、それからようやく、本題を思い出したように、端末を差し出した。
「——で、今日は、これです」
「やっとだね」
「先に話したくなっちゃって」
そう言って笑う顔に、あの夜の気配が、ほんの少しだけ重なる。でも私はそれを追いかけない。視線を端末へ落とし作業に入ると、会話は自然と細く、途切れ途切れに続いた。
「福岡、どうでした?一度、戻ったんですよね」
「あ、はい。戻ったら、現実って感じでした」
「それは……お疲れ様でした」
「名字さんも、懇親会のあと普通に仕事だったんですよね」
「はい。いつも通り」
「すごいですね」
「お互い様です。慣れてます」
また、その言葉を使う。便利で、境界線を引くための言葉。私は端末の状態を確認して、必要な処置を淡々と進める。いつも通りの手順。慣れた動作。いつも通りの距離。その均衡の中で、彼がぽつりと呟いた。
「……また、次も参加しよっかなー、って」
確認というよりも、独り言に近い声音だった。けれど、その独り言を私が聞いていることを彼はきっと、分かっている。
「……懇親会、ですか?」
「はい」
「……無理のない範囲で、どうぞ」
「はいっ」
短い返事。でもそこに迷いはない。そんな中で私は作業を終え、端末を、彼の手の中へと戻す。
「今日は、以上です」
「ありがとうございます、名字さん」
受け取る指先で例のストラップが揺れる。私は何も言わない。言わなくても、もう、十分だったから。彼はいつも通り出口へ向かい今日も途中で一度だけ、こちらを振り返る。
「……次、また話しましょうね」
「……端末の話なら、いつでも」
「ははっ。それ以外も、いつか」
そう言って彼は笑った。ほんと、太陽みたいな笑顔だな、と思ってしまう自分を、私は軽くやり過ごす。
自動ドアが閉まり、室内に静けさが戻る。私は一度だけ深く息を吸い、胸の奥に残った、微かな温度を意識の外へ押しやった。あの日の話題を、彼のほうから出してきた。それは、距離が縮んだ証ではない。けれど、同じ時間を同じ記憶として共有しているという、確かな事実ではある。
しかし、共有は踏み込みではない。そう自分に言い聞かせながら、私は次の業務に戻る。まだ、この関係は、名前を持たなくていい。いや——、持たせたくない。
*
その日は特に予定のない休日だった。仕事用の端末も通知も気にせず、ただ、昼の光に身を委ねるように街を歩いていると、平日の緊張がどれほど身体に染みついていたのかを、遅れて実感する。目的地は特に決めていなかった。本屋に寄るかもしれないし、途中で気が変わって、どこかでコーヒーを飲むだけで終わるかもしれない。そういう輪郭の曖昧な時間。
交差点を渡り、少しだけ人通りの少ない通りへ入ったときだった。空気が動いた。視線を上げるよりも先に背中のあたりで羽根が風を切る気配を感じてしまう。反射的に足を止めた、その直後、影が落ちた。
「……あ、」
今度は私のほうが先に声を漏らしていた。少し高い位置からこちらを見下ろす視線。赤い羽根が昼の光を受けて、鈍く揺れている。
「あれ? 名字さん?」
ヒーローとしての装い。けれど緊急性はない。空中待機から降りてきた、というより街の様子を見て回っている途中、という雰囲気だった。
「ホークス……お疲れ様。なんか、すごいね」
そう口にしてから、私は、自分の声の調子に、わずかな違和感を覚えた。労いと感嘆が混ざったその言葉は、職場で使う定型句に似ていながら、少しだけ私的で、少しだけ、近い。
「え、なにがですか?」
「こう、羽が……」
説明しきれないまま、私は、条件反射のように両手を上げて腕をぱたぱたと羽ばたかせる仕草をしてしまう。その動きが空気を切った瞬間、遅れて自覚が追いついた。今日は仕事じゃない。声にならない声が、喉の奥で止まる。
「もう、なんすかー、そのジェスチャー」
しかし彼は一瞬きょとんとしたあとそう言って思いがけずくすっと笑った。空中で見せる軽さとは違う、地面に足のついた笑い方。
「いや。なんかほんと……すごいなって思って」
「ん? すごいな、って?」
「初めて見たから……生で、飛んでるとこ」
「ナマて。ざっくりしてますねー」
「うん、ざっくり」
誤魔化すようにそう言ってから、私は、視線を逸らす。条件反射で出てしまった言葉と仕草は、取り繕うほどに輪郭を持ってしまう。
「……お休み、ですか?」
彼が、少しだけ口元を緩めて言った。その表情には、任務中の張りも受付で見せる遠慮もない。私は一瞬だけ、言葉を選ぶ。
「うん。今日は完全にオフの日」
「おー、それは、いいですねぇ」
「そっちは?」
「一応、巡回中〜。合間っすね」
ようやく地面に降り立った彼は周囲を一度だけ確認してから、視線をまた、こちらに戻す。
「ほんと、奇遇ですね」
「本当にね。奇遇だね」
彼はそう言いながら背中の羽根を軽く揺らす。さっき私が真似した仕草とは違って意識せずとも整っている動き。こういう再会は、予期していない分、言葉の選び方に迷ってしまう。敬語を保つべきか崩すべきか、その境目が曖昧になる。
「……やっぱり、羽、すごいです。かっこいい」
今度は、声に出す前にほんの少しだけ、言葉を温めた。けれど、口にしてみるとどうだろうか。小学生の作文みたいな感想だと、自分でも思う。それでも彼はあの人懐っこそうな笑みを浮かべてきちんと受け取ってくれる。
「おー、さっきより、ちゃんとしてます」
「なにが?」
「感想文?……的、な?」
「学習した」
「早い」
短いやり取りなのに、空気がふっと緩む。仕事でも懇親会でもない、この場所だけの温度。私は改めて彼を見る。ヒーローとして空を切ってきた身体が今は昼の光の中で、ただ立っている。その事実が、妙に新鮮だった。
「いや、でも。ほんと、びっくりした」
「俺もです。まさか、ここで会うとは」
条件反射みたいに言葉を返されて、少し遅れてから自分が照れている事に気づく。それを小さく笑って誤魔化す。それだけのことが今日は許される気がした。外で会うと距離は測れなくなる。そう思いながらも、その測れなさを、悪いものだとは感じなかった。
「名字さん、もう昼、食べました?」
唐突にそう聞かれて、私は、少しだけ考える。「いや、まだ」と、短く答えながら、自分の声が職場にいるときよりも一段やわらかくなっていることにも気づいた。
「そっか。実は、俺もなんですよ」
彼はそう言って軽く肩をすくめる。どことなく空気が少しだけ、変わった気がした。
「このあと、任務入る前に食べときたくて」
短い沈黙。その間に、彼の視線が遠慮がちに、こちらを捉える。逃げ道を残したまま、踏み出す前のときの目だ。
「……よかったら、一緒にどうです?」
誘い方は慎重だった。押しつけがましくなく、断られる可能性も織り込んだ声音。私は一瞬だけ考えるふりをしてから、小さく頷く。
「ん、いいよ」
気づけば敬語が、完全に外れている。意識して外したわけではなく、自然に落ちた感じだった。彼はその変化に気づいたのかどうか、ほんの一瞬だけ瞬きをしてから、笑った。
「じゃあ、あそこで。」
彼が指差した先は、路地裏にある小さな定食屋だった。派手さはないけれど、昼時になると人の出入りが途切れない店で暖簾の色も少しだけ褪せている。並んで歩く距離は、懇親会の帰り道よりずっと短い。それでも昼の光の下では夜とは違う輪郭が浮かび上がる。人の表情も、声の高さも、すべてが少しだけ、現実寄りになる。
「こういうところ、来るんだねぇ」
「え、来ますよ。ヒーローでも腹は減るんで」
「そりゃそうだけど」
思わず笑ってしまった。可笑しかった、というより昼の光の中で交わされたその言葉が仕事でも夜でもない場所にふさわしくて、身体のどこかに溜まっていた力をほどいてしまったのだと思う。
店に入ると、昼時特有のざわめきが、ほどよく耳に触れる。注文を待つ声や、食器の重なる音、油の弾く気配。私たちは、示し合わせたわけでもなく、自然とカウンターに並んで腰を下ろした。
「空いててよかったね」
「ですね。混んでると、剛翼、気ィ使うんで」
彼はそう言いながら背中の羽根を周囲の邪魔にならないよう、慣れた動作で畳む。その仕草には配慮が染みついていて、私はそれを特別なものとして意識しすぎないようあえて視線を落とした。こうしていると個性も、ヒーローという肩書きもただの生活の延長に、溶けていくみたいだ。
それよりも先に、ふと、鼻腔をくすぐる匂いに気づく。揚げ物や、出汁が混じった店の香りとは別にもう少し柔らかくて温度の低い匂い。香水、かな——?そう思ったけれど確かめるほどのことでもないと、すぐにその考えを引っ込める。気になることと口に出すことは必ずしも同じでなくていい。
「名字さんって、休みの日は何してるんです?」
不意に投げられた問いは、探るようでもあり、ただの興味本位のようでもあって、私は一瞬だけ答えを探すふりをした。そして、メニューを一度見てから視線を戻す。
「んー......その日の、気分?」
「気分派なんですね」
「計画立てると、だいたい崩れるから」
そう返すと、自分でも少しだけ可笑しくなる。具体性のない言葉だけれど予定を決めない休日の輪郭をこれ以上なく正確に表していた気がした。しかし彼は、それを否定も掘り下げもせず、ただ小さく頷く。
「いいですね、それ」
その一言で、私は余計な説明をしなくて済んだことを、密やかにありがたく思った。
注文を終え、料理を待つあいだの時間が、妙に落ち着いている。急ぐ理由も埋める沈黙もない。ただ昼の光と店の音に身を預けながら隣に誰かがいるという事実だけが、静かにそこにあった。
「職場だとあんまりこういう話しないですよね」
不意に零れたその一言は確認というより事実をそっと、卓上に置くような調子だった。私は箸を取りながら、ほんの少しだけ考えてから答える。
「しないね。外だと……ちょっと違うんだよ」
仕事場では言葉は役割に従って選ばれる。必要な情報だけを、必要な分だけ。それ以外は沈黙のまま保管され、持ち出されることはない。けれど今は、昼の光と、湯気の立つ料理と、偶然並んだ距離が、その線引きを曖昧にしていた。
彼は「やっぱり」と、小さく頷く。納得というより、腑に落ちた、という表情だった。
「懇親会のときも、思ってました」
「何を?」
問い返す声は平静を装っていたけれど、胸の奥では、ほんのわずかに、身構えている。
「……名字さん、笑うと雰囲気変わるなって」
軽い言い方なのに、思ったよりも、まっすぐな言葉だった。私は返事を探すふりをして、視線を逸らす。こういうときはすぐに答えない、という選択肢があることを、私は知っているから。
「……それ、よく言われる」
すこしだけ間を置いてから、私はそう返した。事実だから、否定はしない。
「悪い意味じゃないですよ」
「知ってる」
短いやり取り。それ以上踏み込まないことも、引き下がらないことも、お互いに理解している。ちょうどそのとき、料理が運ばれてきた。湯気の立つ音と匂いが会話の隙間を自然に埋め、言葉はいったん、そこで途切れる。
「熱そうだね」
「ですね。あ、先、どうぞ」
「あ、はい。……じゃあ、いただきます」
箸を進めるあいだ私は彼の横顔を見ないようにしながら同時に見逃していないことにも気づいていた。食べる速さも、箸の置き方も、仕事の場で見るそれより少しだけ緩い。数口食べたところで彼が、ぽつりと言う。
「……こういうの、いいっすねー」
「ん? 何が?」
問い返すと彼はほんの一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。その拍子に伏せられた瞼の縁でやけに長いまつ毛が影をつくる。
「偶然会って、お昼ご飯一緒に食べる感じ」
それは特別な約束でも前もって決めた予定でもない。ただ同じ時間帯に、同じ場所にいて、声をかけ合った。ただ、それだけの出来事。
「……うん」
私は、短く答えた。余計な言葉を足すと、この軽さが、壊れてしまいそうで——。
食事を終えて、店を出る。外に出た途端、昼の空気が少し冷たく感じられて、私は無意識に肩の力を抜いた。彼は立ち止まりふと空を見上げる。雲の流れを確かめるような仕事に戻る前の視線。
「——じゃあ、俺はこのへんで」
「ヒーロー活動?」
「はい」
その一言で、彼の輪郭が、また役割を帯びる。さっきまで隣に座っていた人が、空へ戻る準備をする人になる。
「気をつけてね」
「名字さんも」
彼は一歩下がり、羽根を広げる前に、こちらを見た。何かを言いかけたようにも見えたけれど、結局、言葉にはならない。代わりに残ったのは、短い一言だけ。
「また、会えたら。」
「うん……そのときは、また、そのときで」
曖昧な返事。でもそれでいいのだ。次の瞬間、風を切る音がして彼の影が地面から離れる。私はしばらくその場に立ち尽くしたまま空を見上げていた。
ただ、昼ご飯を一緒に食べただけだ。それだけなのに胸の奥には夜とは違う静かな余韻が残っている。偶然は、約束よりも長く残ることがある。そんな事を私はその日、初めて知った気がした。