「──……はぁ? なんっで、出らんと……?」

 スマホの画面には彼女の名前。もう何度目かもわからない発信ボタン。通話中ではない。ただ呼び出し音が虚しく鳴り続けるだけ。けれどその先にある沈黙は何度聞いても慣れることはなかった。
 福岡の事務所の一室で俺はひとり壁にもたれて座っている。テレビはつけていない。いや、つけられなかった。あの写真が流れた瞬間から時間の感覚はおかしくなった。すぐに説明しようと思った。何もなかった、ただ、現場の近くでばったり居合わせて写真を撮られただけだと。でも、あの写真は──言い訳がましくなるには、十分すぎる角度で、俺が、相手に寄り添って、満面の笑みで笑っていた。

「なんっで、あげん顔したっちゃろう……」

 自分の顔なのに、他人のように見えた。彼女があの写真を見たときの表情を想像するだけで胃の奥が冷たくなった。わかってる。彼女は俺に問い詰めたりしない人だ。責め立てるような言葉も、使わない。でも、だからこそ──沈黙がいちばん怖い。
 彼女の��無言�≠ヘ全部を断ち切ろうとする時の静けさによく似ている。なにも語らず、すっと背を向ける時のあの目が、今も脳裏にちらつく。
 スマホが振動するたびに、心臓がこれでもかというほどに跳ね上がる。でもそれは彼女からではない。ただの速報通知。あるいはお節介ヒーローたちからの、確認メッセージ。

「違う。今、聞きたかとは、あんたん声たい…」

 小さく呟いた声は誰にも届かない。いや、届かないのは当然だ。彼女の着信履歴には、ただ俺の名前がずらりと並んでいくだけだろうから。その音にきっと彼女は耳を塞いでいる。その気持ちを想像するだけで、怖くてたまらなかった。不安というより、痛みに近い。自分が一番信じてほしかった人に『信じてほしい』と言えないこの現実が情けなくて。
 剛翼があれば、いくらでも飛んでいけるのに。今いちばん欲しい��声�≠セけが──どうしても、届かなかった。

「なあ……頼むけん、出てくれん……」

 その呟きは、もはや、祈りにも似ていた。でも発信音は、今日もただ虚しく切れるだけ。画面が暗転したあと、俺はしばらくそのまま顔を両手で覆った。事務所のなかは静かだった。風の音さえなかった。
 彼女の声が耳に残っている。「行ってらっしゃい」「がんばってね」「気をつけてね」──その言葉が、今になって呪いみたいに胸に絡みつく。彼女は今、何を思っているんだろう。俺の名前をまだ呼んでくれているのだろうか。それすらわからない夜に剛翼の羽根は折れそうなほどに沈んでいた。


 *


 カーテンの隙間から差し込む光が視界を静かに洗っていた。眠ったのか、眠っていないのか──その境目さえ曖昧なまま、私は布団の中で、ただ呼吸を続けていた。
 枕元のスマホは、もう、振動していなかった。夜の間、何度目かの呼び出し音を無視したあたりで、ついに彼も諦めたのかもしれない。あるいは眠ってしまったのか。泣き疲れた私と同じようにどこかでうずくまっているのか……そんなことを想像する自分が、情けなかった。
 私はそっと、スマホに触れた。指先は冷たくてまるでそれが自分の体温を拒んでいるようにさえ思えた。スリープを解除すると、明るすぎる光に一瞬だけ目を細める。──通知、17件。それはすべて、彼からのものだった。

 【不在着信:ホークス(12)】
 『話したいことがあります』
 『信じてもらえないかもしれないけど、俺は』
 『ごめんなさい』

 途中で言葉を切ったもの、何も書かれていない吹き出し、既読にもなっていない、確認のような一言。その全部が彼らしいなと思った。不器用ででも、まっすぐで──いつも私を置いてけぼりにしない人だった。画面をスクロールする指先が、ふと、止まる。


 ――――――――――――――――


ホークス

まだ俺を1ミリでも信じてくれるなら、返事ください



 ――――――――――――――――


 文字のひとつひとつが、まるで胸の奥に沈んでいくようだった。昨夜、どうしても向き合えなかった重さが今は逆に私の手の中で温度を持ち始めている。返事をするにはまだ心が追いつかない。でも、このまま、未読のままにはできなかった。

 私はそっと、最後のメッセージをタップした。既読がつく。それだけでまた胸が詰まる。たったそれだけのことで、彼がどんな顔をするか。想像して、少しだけ涙が滲んだ。窓の外には、変わらない朝の光が満ちている。人はこの空の下で何度でもやり直すのだと誰かが言っていた気がした。でも今は、まだ──。
 私はスマホを胸元でそっと抱えた。それだけが今の私の、精一杯だった。


 *


 朝の光が、白いカーテンの端を滲ませている。けれど、眠ってなどいなかった。なんなら、この数日、一睡もしていない。夜が明けるまで、ただ天井を見つめてスマホを握りしめていた。
 福岡の自宅マンション。羽根を広げるには充分なその空間で俺は自分の思考に羽ばたく力さえなくしていた。
 着信は届かない。メッセージも、読まれない。押しても押しても届かない感情の行き場をなくしたまま朝になった。バイブレーションも通知音も切っていたのに不意に画面が点いた。眠気のない目が、それを見逃すはずもない。

 ──既読。

 たった、一文字。それだけの変化だった。それなのに心臓が喉まで跳ね上がった。思わずスマホを両手で包み込むようにしてもう一度確認する。間違いじゃない。��既読�≠フ表示が確かにそこにあった。返事はない。スタンプも句読点も何も。けれど彼女が俺の言葉に触れたという事実だけで全身がふっと熱を取り戻していくのがわかった。
 ……よかった、生きてる。あの人がまだ、俺の言葉に触れてくれる気持ちを、持っている。それだけで、どれだけ救われるか。伝えたいことは、まだ山ほどある。でもそれを今押しつけることはきっと違う。今は彼女が��見た�≠ニいう事実だけを胸に刻む。
 スマホを胸元に置き深く息を吐く。ようやく、風の匂いを感じた気がした。生ぬるい空気でも、確かに世界は動いている。その中に彼女もいる。返事はいらない。でも、もう一度だけ、あなたの名前を呼ばせてほしい。俺は画面を見つめながらそっと呟いた。

「……ありがとう。」

 独り言のようなその言葉に、誰が返してくれるわけでもない。それでもこの朝が昨日よりも少しだけ、先に進んでいる気がした。


 *


 夜の気配が、窓の外からじわじわと滲んできていた。薄いカーテンを通して差し込む街灯の明かりが、部屋の壁を柔らかく照らす。その光に背を向けたまま、私はベッドの上で膝を抱えていた。スマホはもうとっくにサイレントモード。通知の音も振動もすべて切っているのに、なぜだろう、あの人の呼び出し音だけは、頭の中から消えてはくれなかった。
 連絡はまだ来ている。未読が、溜まっていく。今朝つけた��既読�≠フ印に彼が何かを感じ取ったのだろう。それからというもの約数分おきに届くメッセージ、短い着信の履歴……そしてまた、言葉足らずな『ごめんなさい』──。

 世間ではまだスキャンダルの熱が収まっていなかった。動画サイトの急上昇ワード、まとめ記事や、SNSの憶測。『ヒーローが女優と深夜のホテル街で……』という見出しが何度も目に飛び込んでくる。誰も真相なんて知らないのに、誰もが、知っているふうな顔をして。でも、たった一人。本人からは、まだ、何も聞いていない。
 私はそっとスマホを手に取った。呼吸がひとつ深くなる。画面には『ホークス』の文字。そして彼の電話番号。プルルル……と長い呼び出し音が鳴る。逆に今度は、こちらが��待つ側�≠ノなる。
 ……カチ、と何かが切り替わる小さな音。次の瞬間──彼のやや荒い息づかいが、耳に触れた。

『……やっと……、繋がったばい……』

 声が震えていた。普段、どんな修羅場にいても軽く笑って受け流す彼が今、こんなにも不安定に揺れている。受話器越しに伝わるその気配に私は何ひとつ言葉を返せなかった。長い沈黙が、間に落ちる。けれど、それを破ったのは、彼だった。

『何も、言い訳しません。……でも、ちゃんと、全部、話したいんです』
「……」
『どこからでもいい、どんなふうにでもいいから今の俺の声、ちゃんと……届いてますか──?』

 私はほんの一瞬だけ目を閉じた。届いていた。とっくに、胸の奥にまで、深く。でもその声が、ただ優しいだけではなかった。痛みと、後悔と、言葉にしきれない不器用な誠実さが確かにそこにあったのだ。

「……聞くよ。」

 いつか彼に言った台詞と同じ。それでもあの頃とは、状況が違いすぎる。告げたあとの受話器の向こうで彼はしばらく、なにかを飲み込むように黙っていた。そんな間があったあと、彼の呼吸が少しだけ落ち着いた気がした。その沈黙がなぜか少しだけやさしく感じられたのは、たぶん彼が、言葉を選んでいるからだった。

『ありがとう。……ほんと、ありがとう……』

 その声はまるで泣きそうにも聞こえた。スキャンダルがどうなろうと世界が騒ぎ続けようと今、この瞬間だけは私と彼しかいなかった。だから、この声を今夜だけは切らずに聞いていたかった。

『あの人とは、会う予定なんてなかったんです』
「……うん」
『現場近くで声かけられて。俺の、ファンだって言ってくれて。あ、でも、ファンっていうのも、その……よく、ある話で……』

 言葉が、しどろもどろになる。でも、それでも彼は逃げなかった。

『写真撮らせてくれって言われて、ああいう撮り方されるとは思ってなかったんです……』
「……」
『油断してた。完全に、俺のミスです。やけん、俺──』
「……笑ってた」

 気づけば私は、ぽつりと、呟いていた。無意識だった。きっと今、油断したのは私のほう。でももう、止まらない。

「あのセクシー女優の隣で……笑ってた。すごい至近距離で。あれは、ファンに向ける笑顔とは、ちょっと違う」

 その言葉に、彼が少しだけ、息を止めた気配を感じた。

『……はい。ですね。』

 それでも彼は逃げずに、そう答えた。そして、焦るでも言い訳するでもなく、淡々と続けた。

『気を抜いた顔でしたね。たぶん、ヒーローじゃない顔になってたんだと思います』
「……」
『周りにサイドキックたちもいて人気のセクシー女優だ、なんて盛り上がってみんなで笑ってて』
「……」
『でも、それは、たぶん。あなたの前でしか出しちゃいけなかった……』

 静かだった。彼の声も部屋も、私の心の中も。だからこそ彼の後悔がじわじわと胸の奥に沁みてくる。

『ごめんなさい。本当に。……あんなの見たら、疑うに決まってる。俺が逆の立場でもそう思う』
「……」
『……だけど、ほんとに何もなかったんです』
「……うん」

 それしか言えなかった。「わかった」ではなく「うん」と。それは、納得の相槌ではなかった。ただ、聞いた、という返事。

『……信じてほしい。』

 それは震えた弱い声だった。けれどその奥には確かに彼なりの、まっすぐな信念が宿っていた。どんなに傷ついても、言葉にして届けようとする意思が、そこにはあった。それくらいのことなら私にだってわかる。でも、それだけですぐに心を預けられるほど私はもう、強くはなかった。

『信じてもらえるような行動、できて、なかったですけど、それでも、俺はずっと……』
「……」
『名前さん──ずっと、あなただけです』

 その言葉は本当にまっすぐだった。でも、まっすぐすぎて──今の私には、少しまぶしかった。

「……わかった」

 私はそれだけ答えた。だけど心の中ではまだ、小さな不安が揺れていた。「わかった」と言ったからといって傷が消えるわけじゃない。信じると言葉に出したからといって、疑いがなくなるわけでもない。それが、本当に��信じる�≠ニいうことだと、私は知っている。
 電話の向こう、彼は黙ったままだった。たぶん私の「わかった」の意味をちゃんと察している。そこまでの人。それが理解できる人。だから私はまだ、彼を切れずにいるのだ。

「──今日はもう、寝るね。」
『……はい。あの──名前さん!』
「……?」
『また電話できます?かけても、よかですか?』
「……うん。おやすみなさい」
『はい、おやすみなさい……』

 通話が切れる。画面が暗くなる。けれど私は、スマホを見つめたまま、ベッドのなかでしばらく動けなかった。どこかに預けていた心の一部が、まだ戻ってこない。��信じたい�≠ニいう気持ちと��裏切られたかもしれない�≠ニいう影が、まるで胸の奥で、小さな戦争を続けているようだった。私の中の「わかった」は、たぶんまだ「許した」ではなかったのだ。


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