その日、仕事の休憩時間に雑談の流れでひとつの話題が持ち上がった。誰かがスマートフォンを回しながら「確かに似てるかも」と、頷く。その軽い調子に押されるように「ほらほら」と画面を差し出され、私も流れで覗き込み曖昧に頷いた。
たしかに角度によっては……そんな程度の感想だったはずだ。驚くほどでもなく、特別な感慨が湧いたわけでもない。ただ休憩室の蛍光灯の下で交わされた、取り立てて意味のない一瞬だった。
それでも、休憩が終わる少し前に私は同僚から転送してもらったそのURLを彼に送った。

名前
この人に似てるって
言われた (笑)
本当に軽い気持ちだった。深く考えたわけでも反応を期待したわけでもなくただその場の雑談の延長線をそのまま彼にも渡しただけの話。日常の端切れを共有するくらいの本当に何気ないつもりだった。
仕事終わり。待ち合わせ場所に着くと彼はもう来ていた。そう、今日はもともとホークスと飲みに行く約束をしていた日だ。けれど近づくにつれて、いつもと違う空気が肌に触れた。珍しく彼の表情が最初から硬くて、軽口もない。手を上げる代わりに、短く顎を引くだけの挨拶。
(——ん?)
胸の奥で小さく違和感が鳴った。ふと、昼間に送ったラインのことがよぎる。けれど彼は返事をしてこなかったし今も何も触れてこない。だから私も触れなかった。何事もなかったみたいに歩き出し居酒屋に入って向かい合わせに座ってからも彼は変わらず無口だった。見ると下唇がわずかにむいっと前に出ている。機嫌が悪いときの癖だ。今日のヒーロー活動で何かよくないことがあったのかもしれない。私はそんな感じで勝手に理由を用意する。
注文はしてくれるし、こちらが話しかければ、返事も返ってくる。けれど——「ええ」「うん」「そっすね」と、それだけだ。感情の芯に触れない相槌だけが、淡々とテーブルに落ちてくる。
視線は合わない。グラスを持つ指もどこか落ち着きがなく、氷の音ばかりが、やけに耳につく。このままでは会話が、食事の付け合わせみたいに乾いてしまう気がして私はしばらく逡巡したあと箸をそっと置いた。
「怒って、る……?」
「……、まあ」
彼は一瞬だけこちらを見てすぐに視線を外す。まるで私の事を目に映すのも嫌だと言うみたいにして。そして、あまりにあっさりした肯定に逆に私が、言葉を失ってしまった。軽い返事なのに、拒絶の輪郭だけが、やけにはっきりしていた。
「え……どう、したの?」
責めるつもりはなかった。ただ確かめたかっただけだ。彼はしばらく黙り込み、それから抑えたように「はぁ」と、深く息を吐いた。その吐息の重さだけでこれは任務の疲れではないと分かってしまった。
「……なんすか、あれ」
低く落とされた声音が、グラスの底に沈んだ氷みたいに冷たく響いた。言葉よりも温度の欠落が先に伝わってくる。
「……あれ?」
聞き返した瞬間自分でも反応が遅いと分かる。彼はずっとその話題をテーブルの端に置いたまま黙っていたのだ。視線がようやくこちらを向く。その瞳はもう絶対に逃がさないと伝えるみたいに薄暗い店内でやけに鮮明だった。
「さっきのやつ」
「さっきの……やつ?」
「どういうつもりで送ってきました?」
責めるというより確認するような言い方なのに声の奥には抑えきれない棘が潜んでいる。言葉の選び方が丁寧なぶん逆に怒りの所在がくっきりと浮かび上がる。
「え、どういうつもりって……」
「あなたが送ってきたんでしょ」
「……ああ〜! サイト?」
「はぁ。ええ」
ここでようやく私の中で、昼間の出来事と彼に送ったラインの内容が繋がった。胸の奥で、点と点が遅れて線になる。
「あ、えっと。ただ……似てるって、言われて」
言い終える前に、彼の視線が、鋭く変わった。その切り替わりの速さに私は思わず喉を鳴らす。空気がまた一段、冷える。言葉を選ぶ時間がもう残されていないことだけが皮膚の表面でわかる。
「あの女優さん、セクシー女優ですよね」
低く押し殺した声。ホークスは片肘をテーブルについてもう片方の手にはさっきまで静かに持っていたはずの箸がある。その先で、取り皿の縁をかつ、かつ、と、乱暴につついた。音は小さい。けれどその動きには感情がはっきり滲んでいた。いつもなら人前では絶対にしない仕草。苛立ちを飲み込みきれず無意識に漏れ出たみたいな動作。
胸の内側が、ひやりと沈む。否定しようとしてできない沈黙が、先に落ちる。視線は私から外さないままなのに箸だけが落ち着きなく皿を叩く。そのちぐはぐさが彼がどれだけ内側で感情を持て余しているかを、雄弁に物語っていた。
怒鳴らない。声も荒げない。けれど、こうして身体のほうが先に反応してしまうあたりに、抑えきれない不満の温度が、そのまま露出している。
「それ言ってきたの、どーせ男でしょ」
問いではなく、断定に近い響きだった。ああ、これは本気で腹を立てている。そう理解した瞬間私はようやく自分が送った軽い一文が、彼の中でどれほど重く落ちていたのかを悟った。
「え」
「え、じゃなくて」
「あ……う、うん。たぶん……」
「たぶん、じゃなくてさ」
彼は一度グラスに口をつけて、それを置いた。乾いた音が思った以上に大きく店内に跳ね返る。周囲のざわめきの中で、その一音だけが妙に際立った。
「その人、あなたでそういうこと想像してるってことですよ?」
視線が逸れない。怒っているけれど、それだけじゃない。呆れと苛立ちと悔しさみたいなものが複雑に混ざった表情だった。まるで危ないものを不用意に差し出された人の顔。
私の胸の奥で、ようやく理解が追いつく。この人は嫉妬しているのだと。ただ、独占したいからじゃない。私が無防備に世界に差し出されたことそのものに、腹を立てている。その事実が、少し遅れて、静かに胸に沁みてきた。
「もうちょっと、危機感もてないかなぁ」
独り言みたいに不服そうにつぶやいた彼に私は思いがけず、笑ってしまった。張りつめた空気を少しでも緩めたくてほんの冗談のつもりだった。
「でも——。あははっ」
「……なにが、おかしいんです?」
「いや、大丈夫だよ?」
「……は?」
「私、最中に、あんなに甘い声とか出さないし」
言った瞬間ホークスの視線が、はっきりと私を射抜いた。冗談を受け止める余地のない、逃げ場を許さない目。いつもの軽さが一枚剥がれ落ちて奥に隠れていた獣性だけが露出したみたいな鷹を連想させる鋭い眼。思わず背筋がひやりとする。
「ほんとさぁ……たいがいにしてくれん」
低く落とされた声は怒鳴っていないのに冷たく研がれていた。そのひと言で場の温度が変わる。さっきまで酒と料理で曖昧にぼやけていた輪郭が急にくっきりと浮かび上がる。周囲の雑音が遠のき、私と彼のあいだだけが、異様に鮮明になる。
——しまった。反応を間違えた。そう思った。
「今のは……私が、悪いね」
「……」
「ほんと、悪ノリしすぎた……よね」
私は素直に言った。場を和ませようとしたはずの言葉が逆に一番触れてはいけないところを踏んだのだと、遅れて気づく。けれど彼は、すぐには頷かなかった。彼は「違うくてさ」と、短く息を吐いてから低い声のまま続ける。
「あなたが俺を馬鹿にして、からかってくることなんて、今に始まったことじゃない」
その言い方は責めるというより溜め込んでいたものを静かに並べる声音だった。怒りよりもずっと深いところに沈んだ感情が、ようやく浮上してきたみたいに。彼の視線は逸れない。その目の奥にあるのは苛立ちだけじゃない。傷ついた色と、独占欲と、どう扱えばいいか分からない感情が、複雑に絡み合っているのが、はっきりと見えてしまう。私はその重さにようやく気づいた。冗談で済ませたつもりだった一言が彼の中では決して、軽くは落ちなかったのだと。
「慣れましたよ。そんなの」
そう言った瞬間、彼の口元が、ほんのわずかに歪んだのを、私は見逃せなかった。笑おうとして失敗したみたいな、怒りとも諦めともつかない、微細な崩れ方。そのたった一言が責められるよりも強く胸の奥を直接叩いてきて私はしばらく息の仕方を忘れた。
「そこじゃなくて!」
思わず声が強まる。身を乗り出しかけて寸前で踏みとどまる仕草がかえって彼の内側の激しさを露わにしていた。衝動と理性が同時にせめぎ合っているのが分かる。
「俺が嫌なのは……」
言いかけて、言葉を探すように視線が揺れる。怒りだけで押し切れない感情が、行き場を失って滞っている。
「あなたが、そういう目で見られることを、軽く扱うところです」
低く落とされた声には苛立ちと同じだけ不安が滲んでいた。独占欲だけでもない。守れないかもしれないという焦りが怒りのかたちを借りて表に出ている。私は、その声音を聞きながら思った。これは責められているのではなく、曝け出されているのだと。そのあと、ほんの少しだけ彼の声が和らぐ。
「俺の前でなら、笑っていい。冗談でもいい」
「……」
「でも、外で……」
「……」
「知らん男に。そういう文脈で消費されるのを、平気で共有してくるのは……」
言葉が一瞬詰まって途切れる。視線が落ちる。怒鳴らない代わりに苦しさがそのまま滲み出る。
「……正直、きついです」
その一言は鋭さよりも重さを伴っていた。私は何も言えなくなった。彼の怒りが私を縛るためのものではなく守りきれないかもしれない自分自身に向いているのだと、はっきり分かってしまったからだ。テーブルの向こうで彼の指先がわずかに震えているのが見える。怒りを抑え込んだ痕跡のように。店内のざわめきが、急に遠のく。周囲の笑い声も食器の音も、薄い膜の向こう側に押しやられたみたいに現実感を失っていく。代わりに、グラスの縁を伝って落ちる水滴の音だけがやけに大きく耳に残った。
この夜のホークスは、珍しく感情を隠していなかった。それが嬉しいのか、怖いのか。私はまだそのどちらとも決められずにただ黙って彼を見つめているしかなかった。
夜風に当たった瞬間、先までの店の熱気が一気に引いて私はようやく現実に戻された気がした。暖簾をくぐった背中にまだ彼の言葉が張り付いたまま離れない。何も言わないまま私たちは並んで歩き出した。さっきまでは向かい合っていたのに今は同じ方向を向いているだけで、距離がひどく遠く感じられる。肩は触れそうなのに空気だけが冷えきっている。彼の歩幅は、いつもよりも少しだけ速い。追いつけないほどじゃないのに自然と遅れさせられているみたいな速度だった。街は、いつも通りだ。終電前のざわめき、赤提灯、笑い声。なのに、その全部がガラス越しみたいに遠く感じられる。さっきまで、一緒にお酒を交わしていたはずのホークスが隣にいるのに、別の場所にいるみたいで、私は何度も言いかけてはやめた。
「ごめんね」と言うには遅すぎる気がしたし、何か弁解をすれば火に油を注ぐ予感しかしなかった。彼の横顔は、相変わらず硬い。怒っているというより、押さえ込んでいる。それが分かるから余計に怖かった。そして沈黙に耐えきれなくなったのは、やはり、私の方だった。
「……ホークス」
呼ぶと、彼はすぐには答えなかった。数歩ぶん歩いてから、わずかに歩調を落として「はい」と低く返す。声だけがこちらに置き去りにされる。その声は落ち着いているのに、距離は、まったく縮まらない。むしろ冷静さが壁みたいに立ち上がって私はそこに触れられずにいる。
「さっきの、ほんと……私が悪かったよ」
立ち止まりはしない。ずっと前を向いたまま。背中の輪郭が、夜の中でやけに遠い。
「悪いって分かってるなら、最初からやらないでください」
「……」
「あんなもん、送って来んで」
その言い方が静かすぎて冷静すぎて、逆に胸に突き刺さる。感情を抑えた声ほど、刃物みたいに鋭くなる。
「ほんと、そんなつもりじゃ……」
「分かってます」
被せるように言われて言葉が詰まる。許しでも否定でもない言葉が、行き場を失わせる。
「分かってますけど」
彼はそこでようやく足を止めた。私もその場に立ち止まる。街灯の下で、彼がこちらを向いた。その目はさっきよりもずっと深い色をしていた。酔いのせいか感情のせいか分からない。けれど、逃げ場のない視線だった。
「だから余計に、困るんです」
「え……」
「名前さんって、自覚なさすぎるけん」
「……なに、が」
「自分がどう見られてるか」
静かな声なのに、抑えがきいていない。そして一歩近づかれる。吐息の温度がわかる距離。触れないはずの空間が圧だけで満ちていく。私の背中に街灯の影が落ちて、逃げ道が薄く削られていく感覚がした。
「異性にどう見られてるかって話になると、急に楽観的になるでしょ」
「そんな……」
「なります」
「……」
「なるんですよ、あなたは」
即断だった。逃げ道を与えない短さで、議論を終わらせるような言い切り方だった。冗談も含みもなく、彼の中ではすでに、答えが固まっている声音で。
「俺が言ってるのは、モテるとかそういう軽い話じゃなくて」
彼は、額を押さえるみたいに一瞬だけ、視線を落とす。怒りというより苛立ちと疲労が混じった仕草で、言葉を整え直すための沈黙だった。
「あなたは、守られる側の自覚がなさすぎるんですよ」
「……」
「似てるって言われた、で済ませて笑えるのは、あなたが無事にこうして、帰れてるからです」
その言い方が責めるというよりも、歯がゆさに近い。胸の奥が、ひくりと縮む。まるで見えない指で内側から静かにつままれたみたいに息が一瞬だけ浅くなる。
「それ、もし相手がもっと踏み込んでくる人だったら、どうするんです?」
「……そんな人、いないよ」
「います」
短く強い否定。迷いも逡巡もない声で現実そのものを突きつけるみたいだった。
「現に、俺……」
「……」
「そういう場面、何度も見てきてますから」
その一言で彼の怒りの向きが少しだけ見えた。私にじゃない。世界にだ。私みたいに無防備で、運良く守られてきただけの人間に向けられた苦い実感に——。
「名前さんは、そういう目で見られても平気な顔してる」
「……」
「でも俺は、平気やなか」
声が低くなる。さっきよりも抑えが効いていてだからこそ感情の重みがはっきり伝わってくる。胸がぎゅっと締めつけられる。怒られているのに拒まれている感じがしなくて、かえって逃げ場がなくなる。
「あなたが誰かの欲望の材料にされるのを、横で見て笑えるほど、俺は大人じゃないです」
その言葉が、重く落ちる。石みたいに静かに、でも確実に、心の底へ沈んでいく。
「さっきも言いましたけど、俺の前でならいい」
少しだけ声の色が変わる。怒気が引いて代わりに個人的な感情が滲む。
「冗談でも軽口でも全部受け止めます。でも、」
「……」
「外で、知らん男に向けられた視線を、無邪気に持ち帰ってくるのは……」
言葉を探すみたいに短く息を吐く。感情が先に立って、言葉が追いつかない間だった。
「正直、耐えがたいんすよ」
「……」
「あなたが悪意なくやってるって分かってるから余計に腹が立つんです」
私は何も言えなくなる。怒られているのに突き放されていないことが逆に苦しい。その矛盾した言い方が、彼の感情の混線を物語っていた。
「危ない目に遭ってからじゃ、遅いでしょ」
「……」
「笑って済ませるのは俺がそばにいるときだけにしてください」
その一言が命令でも束縛でもなく切実な願いに聞こえてしまった。胸の奥がじわじわ熱くなる。
「俺が、あなたを守れる距離にいるあいだは」
「……」
「無事で、いてほしいんです」
その瞬間喉の奥がきつく締まった。怖かった。怒られているのに嫌われている感じがしなかったから。彼の感情が、まっすぐこちらに向いているのが、はっきり分かってしまったから。
「……ごめん」
ようやく出た声は、思ったより震えていた。
「そんなに、怒らせるつもり、なかった……」
「分かってますよ」
「……」
「だから、こうやって言ってるんです」
さっきよりも、少しだけ声音は柔らかい。私は視線を足元に落とす。街灯の光が滲んで、濡れたアスファルトが、ぼやけて見えた。
「……私、そんなに軽く、見える、かな……」
その問いが、自分でも驚くほど弱かった。彼ははっとしたように息を止めて「だから違うくて」とすぐに否定する。私が誤解したまま沈んでいくのを見過ごせなかったみたいに、言葉を差し込むほどの速さだった。
「真逆ですって」
少しだけ間を置いて。感情を整えるためというより、言葉の重さを自分でも測り直している沈黙だった。
「大事だから、軽く扱われるのが嫌なんです」
その言葉で胸の奥に溜まっていたものが静かに崩れた。目頭が熱くなる。慌てて瞬きをしても、うまく追いつかない。
「……ごめんっ、」
もう一度言うと、今度は声が少し震えた。彼はそれを見てほんのわずかに表情を変える。そして困ったように息を吐いた。
「泣かせたいわけじゃ、ないんですよ……」
「……」
「怒ってるのは……事実ですけど」
その声はさっきまでよりも低く、静かだった。感情を抑え込んだあとの音で、鋭さよりも疲れが滲んでいる。
「傷つけたいわけじゃなくて」
言葉と一緒に、彼の視線が少し下がる。私の顔ではなく、涙がこぼれそうな目元のあたりを直接見ないようにするみたいに。
「名前さんが大事だから、言ってるだけです」
それは叱責ではなく説明だった。線を引くための言葉じゃなく繋ぎ止めるための言葉。私は何も言えず、ただ小さく頷く。涙はまだ落ちていないのに、胸の奥だけがひどく濡れているみたいで、息をするたびに内側が冷たくなる。
彼もそれ以上、何も言わなかった。けれど歩く速度がわずかに変わったのはわかった。私の一歩に合わせるみたいに自然にさりげなく。肩が触れない距離はそのままなのに置いていかない速さになっていた。
はっきりと叱られた。けれど、それでも見捨てられてはいない。そのことが今日はひどく苦しかった。でも同時にどうしようもなく救いでもあった。怒られているのに、まだ隣にいる。それが、彼なりの答えなのだと、この歩幅の重なりだけで分かってしまったから。
*
あの夜から数日が過ぎた。時間が経てば自然に元に戻る、なんてことはなかった。むしろ時間は感情を薄めるどころか沈殿させていくばかりで、言われた言葉も向けられた視線も胸の奥にゆっくり沈み触れればまだ形を保ったまま残っている。
連絡は取っていた。端末のこと、機械的なやり取り。それだけだ。以前ならば何でもない雑談を挟んでいたはずのタイミングでも私は必要な用件だけを送るようになっていた。余計な一文を削り感情の匂いが混じらないように言葉を選びすぎるほど選んでいた。
嫌われたわけじゃないと頭では分かっている。でもあれだけ強い言葉で叱られたあとでは、同じ距離に戻る勇気がどうしても出なかった。そんな中でどういうわけか、私は風邪を引いた。大したことはない。ただの軽い喉の痛みと微熱。けれど身体が弱ると心のほうも比例するみたいで、普段なら笑ってやり過ごせることまで妙に重く感じてしまう。端末の対応をしている最中に喉がひりと痛む。咳を噛み殺そうとしてもうまくいかず私は思わず口元を押さえた。
「……けほっ、」
小さな咳。それだけのはずだった。けれど次に顔を上げたときカウンターの向こうに立っている人物を見て胸の奥で、言葉にならないざわめきが生まれた。ホークスだった。ヒーロースーツで、いつものように軽く手を挙げる、はずだったのにその日は違った。視線が私の顔に留まったまま、動かない。
「……大丈夫、ですか」
低い声。業務的な問いかけに見せかけてどこか鋭さを帯びている。
「……え? あ、うん……ちょっと、喉がね」
私は反射的に笑おうとした。でも、声が思ったより掠れて、自分でも驚く。その瞬間ホークスの眉が、わずかに寄った。
「……声、変ですけど」
「そんなことないよ」
「変です」
「……ひどいなぁ。もともと、変な声なの」
そう言った瞬間また小さく咳き込んでしまう。しまった、と思ったときには遅かった。彼が少しだけ、身を乗り出してくる。
「昨日も、こんな声でした?」
「……いや、昨日はもう少しマシだったと思う」
「もう少しってことは、良くはないですよね」
淡々とした口調なのに詰めるみたいな聞き方。
「熱、測りました?」
「……測ってない」
「なんでですか」
「実は、体温計が……旅行に出かけちゃってさ」
「……」
「……うそ。大丈夫だと思ったから測ってない」
「思ったで済ませる話じゃない気がしますけど」
叱責に近い響きに胸がきゅっと縮む。あの夜の続きを思い出してしまう。私が黙り込むと、彼は一瞬、言いすぎたと気づいたみたいに視線を逸らした。
「……すみません。仕事中でしたね」
彼がそう言ったのに、視線だけは逸らさない。その目が仕事相手を見る目じゃないことくらい、私にも分かる。気まずい空気がカウンターの上に薄く積もる。さっきまで業務の線に戻そうとしていた私の声も姿勢も、彼の一言で簡単にほどけてしまった。それでも私は一度深く息を吸ってからいつもの調子を装った。
「……今日は?」
「……」
「端末、また壊しましたか」
「いえ」
返事は即座だった。軽口を挟む余地がないほどまっすぐな声音。
「お願いに来ました」
「お願い?」
顔を上げると、ホークスがこちらを真正面から見ていた。ヒーローとしてじゃなく、一人の人として、逃げ道を残さない目で。
「お弁当、また作ってもらいたいなって」
「……」
「仕事中にすみません」
謝っているはずなのにその声音には引く気配がない。断られたら終わりという覚悟よりも言わずに帰る選択肢を最初から持っていない人の言い方だった。私は一瞬、言葉を探す。仕事の顔に戻したはずなのに、心だけが追いつかない。
「急だね」
ようやく出たのはそれだけだった。彼は小さく息を吐く。
「急なのは、自覚してます」
「……」
「でも……欲しくなったんで」
理由になっていない理由。それでも私には十分すぎるほど分かりやすい。数日前の夜のことが、胸の奥で静かに動く。怒られたことも歩幅を揃えてくれたことも、その全部がまだ消えていない。
「……忙しいよ?」
「分かってます」
「失敗作になるかもしれない」
「それでもいいです」
迷いの余地を与えない言い方だった。その声音に含まれる覚悟の重さを、私は遅れて理解する。断る理由を並べていたはずなのに、いつの間にか説得される側に回っている。自分の言葉が退路ではなく言い訳に変わっていく感覚に、私は小さく息を吐いた。
「……考えとく」
そう言った瞬間、彼の表情がわずかに緩んだ。口元の力が抜け目尻に宿っていた緊張がほどけてほんの一言の曖昧な猶予を、許可の兆しだと受け取ったのだと、見ていてすぐに分かった。あまりにも正直で、あまりにも単純で、その反応に胸の奥を静かに触れられた気がした。
「ありがとうございます」
その言い方が、もう、仕事相手に向ける声じゃない。数秒の沈黙。彼は一度だけ視線を落としてから改めて切り出した。
「今日、定時までですか」
「うん、たぶんね」
反射的に答えた瞬間、彼の目がほんの少しだけ強くなる。
「なら、終わったら送りますよ」
「え? いいよ、大丈夫」
「大丈夫じゃないから言ってます」
あまりにも自然に決められて、断る隙がない。やわらかい言い方なのに、退路を塞ぐ声音。
「その声で、一人で帰すほうが後味悪いんで」
理由が彼らしい。心配だからと言わないところがなおさら胸に刺さった。断りきれそうにない。と言うより、断る気力が、なかったと言った方が正しいかもしれない。
「ほんと、大丈夫だってば」
「そんな、大丈夫じゃない顔してて?」
静かな指摘。責めるでもなく断定するでもなくただ事実を拾い上げるみたいな声だった。私自身よりも先に、私の揺れを見抜いてしまう視線が、逃げ道をふさいでくる。
「声も顔色も」
「……そんなこと」
「ありますよね?」
短く、きっぱりと。議論の余地を残さない言い切り方が、彼の中ではもう結論が出ていることを物語っていた。言われて初めて自覚する。確かにさっきより喉がひりついて熱っぽい感じがある。
「俺が言うのも変ですけど」
少しだけ声を落として。公の場の音から私たち二人だけの温度へと慎重に切り替えるみたいに。
「今日は、ちゃんと帰ってほしいんで」
仕事でも任務でもない。ただの個人的な理由。私は一瞬、言葉を失う。叱られた夜の彼と、今の彼が、ゆっくり重なる。厳しかったのも、黙って歩幅を合わせたのも、根っこは同じだったのだとようやく腑に落ちる。
「……ホークスってさ、強引だよね」
「たまにね」
否定しないのが、彼らしい。むしろ、そのまま受け取ってしまうところに、誤魔化さない人の、誠実さが滲んでいる。
「今日は、その��たまに�≠ナ行かせてください」
その言い方が、妙に誠実で、私は小さく笑ってしまった。
「もう……分かったよ」
私の返答に、彼の肩の力が、ふっと抜けるのが分かる。張り詰めていた空気がようやく人の呼吸を取り戻したみたいに、ほんのわずか柔らぐ。
「ありがとうございます」
さっきよりずっと柔らかい声。カウンター越しなのに距離はさっきより近かった。怒られたまま終わらなかったこと。まだ同じ場所に立っていられること。それだけで、胸の奥が静かに温かくなる。たぶん私たちはまだ途中だ。でも戻る場所を見失ってはいなかった。
夕方、職場を出ると彼はもう外で待っていた。腕を組んで壁にもたれている姿は、いつもと同じなのに、どこか緊張しているようにも見える。
「……お疲れさまです」
「お疲れさま」
それだけの挨拶。以前なら、もう一言、冗談のひとつも挟んでいたはずなのに。
並んで歩き出す。沈黙が妙に重い。街灯の下を通るたびに彼の横顔がちらりと視界に入る。けれど、こちらを見ない。だから、私も見ない。咳が出そうになり、また口元を押さえると彼の歩調がわずかに緩んだ。
「……無理、しないでくださいね」
「してないよ」
「今のは、してる人の言い方です」
彼は、小さくため息をついてから続ける。
「薬、飲んでます?」
「市販のやつね」
「ちゃんと効いてます?」
「……たぶん」
「たぶん、多すぎでしょ」
呆れるようでいて、でも声音は以前より低い。責めるというより、心配が前に出ている。それが逆に今は、苦しかった。
「ホークス」
気づけば、私のほうから呼んでいた。自分でも意外なくらい、声が静かに夜に落ちる。
「ん?」
いつもと同じ軽い調子の返事。でもその温度がわずかに変わったのが分かった。私が無理矢理に変えさせてしまったのだけれど。
「……この前の、ことだけど」
「はい」
彼の足が一瞬だけ、止まりかけたが、それでも完全には止まらず歩幅を保ったまま、短い返事でそう答えた。それは覚悟をしている、逃げないと決めた人の声だった。
「私、あれから……ちょっと、話しづらくて」
言葉にすると自分でも驚くほど弱い。喉の奥がきゅっと縮む。これはきっと風邪だけが原因ではない。
「嫌われたわけじゃないって、分かってるんだけど」
そう言いながらも、心はずっと、その可能性を怖がっていた。私はゆっくりと息を吸う。
「真正面から怒られたのが結構、効いてて……」
音にした瞬間、その感情がやっと自分のものになる。彼はそこで、完全に足を止めた。私もつられて、立ち止まる。夜の歩道の真ん中で人の流れから少し外れた場所。街灯の白い光が彼の横顔をくっきり浮かび上がらせる。
ホークスは「それは……」と一度言葉を切る。考え込む時の沈黙。それからはっきりした迷いがない声で言った。
「俺のミスですね」
「ミス?」
「はい」
彼は視線を外し、アスファルトの暗い一点を、じっと見る。そして低く、噛みしめるように。
「守りたかっただけなのに結果的に、突き放したみたいになりました」
「……」
「怒ることと傷つけることを混同しました。謝ります」
ホークスはそう言って頭を下げたあとゆっくり顔を上げまっすぐ私を見る。街灯の光がその瞳の奥に薄く映り込み普段の軽さを削ぎ落とした輪郭だけが残っている。
「怖がらせて、すみませんでした」
その瞬間、胸の奥に溜めていたものが、静かにほどけていく。言葉にする前に、感情の塊がゆるやかに崩れ落ちる感覚だけが先に来た。
「私、ほんと……嫌われたかと、思った」
声が思っていたよりも頼りなく揺れた。飾りも建前もない剥き出しの本音だった。ホークスは、はっきりと目を見開き、すぐに首を振る。
「それはありえない」
「……」
「嫌うわけないでしょ」
反射に近い否定。その直截さが、胸に痛いほど刺さる。
「俺が嫌だったのは、あの話であって」
「……」
「名前さんじゃない」
わずかな間を置いて選ばれた言葉が夜気の中で輪郭を持って漂う。私は、その言葉を耳で聞くというより、皮膚で受け取っている気がした。
「怒るの、下手なんす。あまり慣れてない」
「……」
「大事な人ほど、言い方が分からなくなる」
自嘲気味に口元を緩めたその微笑みはヒーローのものというよりも、年相応の不器用な男のものだった。その不器用さがなぜか胸に沁みていく。
「……大事な人、なんだ……」
言葉が、勝手にこぼれた。自分で止める暇もなかった。彼は一瞬だけ視線を逸らし、それから、観念したみたいに言った。
「今さら、否定せんですよ」
「……」
「こないだ、そう言ったの俺なんで」
淡々とした声だった。突き放すわけでも甘えるわけでもなく、ただ、事実を置くような静けさ。その温度のなさが、かえって重たく残る。
「だから、離れて行っちゃうくらいなら」
そこまで言って言葉を飲み込む。それは、踏み込みすぎる手前できちんと止まれる人がする沈黙だった。
「感情のまま言わんほうが、よかったっすね」
その声は、責める調子ではなく、静かな後悔に近い。胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
「それ、私のセリフだよ」
やや掠れた声で返すと、彼は少し困ったように笑った。その笑みの端に、安心の影が滲む。
「じゃあ……おあいこですね」
夜風が二人のあいだを通り抜ける。冷たいはずなのに、胸の内側は不思議と温かかった。
「送ってくれて、ありがとう」
「いえ」
彼は歩き出しながら言う。さっきまでより肩の線がわずかに柔らいでいる。
「——今日は、ヒーロー活動じゃないんで」
その一言が、妙に優しく響いた。歩幅が自然と揃う。怒られた夜からわずかにずれていた距離が静かに戻っていくのを感じる。
まだ完全ではないけれど、戻れる場所が確かにある。それだけで今夜は十分だった。