あれから数日後の夕方すぎ——。職場の照明はすでに夜の色を帯びはじめていて、白く均された天井の下で、モニターの光だけが、やけに浮いて見えた。昼と夜の境目の時間帯は、いつも空気が薄くなる。仕事をしているはずなのに、心だけが少し先に帰り支度を始めてしまうような妙な隙が生まれる時間だ。私は端末のログを一通り確認し終え、ようやく肩から力を抜いたところだった。

「すみませーん」

 間延びした声が受付カウンター越しに転がってくる。顔を上げた瞬間胸の奥がわずかに揺れた。そこに立っていたのは、ホークスだった。困ったように片手を挙げているその姿はいつもの余裕を纏った立ち方とは少し違っていて重心が定まらずどこか所在なさげだ。肩の力も抜けきらず無意識に居場所を探している人の立ち方をしている。

「お疲れ様です。どうしたの、こんな時間に」

 声をかけながら私は彼の様子を一瞬で拾い集める。任務帰りに寄ったというよりも寄らずにいられなかった、という顔だった。

「お疲れ様です。いやぁ〜……ちょっと、その」

 言葉を濁しながら近づいてきて彼はカウンターの端にそっと��それ�≠�置いた。私は視線を落とした瞬間、すぐに状況を理解する。濡れている。正確にはタオルか何かで拭いた痕跡があり必死に乾かそうとした努力だけは見える。けれどそれはもう手遅れの種類の湿り気だった。一度は完全に水の世界に沈んだ端末の顔をしている。

「私服だ」
「あ、ええ。任務終わってシャワー浴びたんす」
「……で? また、落としました?」
「はい。完全に、水没しましたぁ」

 妙に素直な報告に言葉を失う。こちらも問いというより確認だったからいいんだけれど。いや、よくはないか……。

「……聞いてもいい?」
「聞かないでください」

 即座に返ってくる否定に、思わず息が漏れる。この人は、自分の失敗を正直に差し出しながら、同時に、守りたいところだけはきちんと守る。

「残念でした、聞きます。任務中に?」
「いえ。プライベートです」
「え……じゃあ、なおさら悪いね」
「反省はしてます。浴槽に落とすとか漫画みたいなこと、ほんとにあるんですねー」

 軽口の形をしているけれど、声の奥には確かな落胆が滲んでいる。私は端末を手に取る。画面は沈黙したまま、何も映さない。まるで、持ち主と一緒に現実を直視したくないみたいにして。

「完全に、アウトだね」
「ですよねー......」

 ホークスは観念したように、天井を見上げた。その仕草は怒られる前の男子学生みたいで、少し可笑しい。それから彼は、ちらりと私を見る。

「……で、その」
「うん」
「これ、代替機の手続きお願いしたくて」
「はいはい」

 業務としてはただそれだけの話だ。けれど彼はその場に立ったまま動かない。冗談を言う気配もない。私は、その沈黙を見逃さなかった。

「……他に、用件は?」
「え?」
「立ち話にしては、長いなって」
「……あー」

 視線がわずかに泳ぐ。その癖を私はもう知っている。

「実は、スマホ死んだせいで連絡も取れないし」
「うん」
「財布もさっき確認したら、なんか妙に軽くて」
「……」
「要するに」

 彼は少しだけ声を落とした。それから私をまっすぐに見据えて目を細めた。

「今夜、飯、行きません?」

 あまりにも率直な誘い方に私は拍子抜けする。策略も遠回しもない。ただ、今ここにいる相手にそのまま出されたような言葉。

「この流れで?」
「この流れで、です」
「……奢り?」
「いや、それはさすがに……」
「冗談だよ。財布が妙に軽いんでしょ?」

 私は端末を対応ボックスに入れ、椅子から立ち上がる。その瞬間、彼の顔が、わずかに緩むのが分かった。

「いいよ。今日は残業ないし?」
「ほんと?」
「その代わり——」
「はいっ」
「スマホが濡れた言い訳、ちゃんと聞かせて」
「えぇー......条件、厳しいなぁ」

 そう言いながらも、彼の表情は、もう明るい。助かったという安堵と、少しだけ浮かんだ期待が隠しきれずに滲んでいる。端末を水没させた夜に代わりに何かを拾った顔だと、私は思った。このあと、いつもとは少し違う夜が始まる事を互いにまだ、言葉にしないままで——。
 結果として、代替機は、すぐには用意できない事態になり、ホークスはしばらくのあいだ、端末不在でヒーロー活動をする羽目になった。まあ、頻繁に端末を壊す彼に対しての、天からの小さな制裁なのかもしれない。神様なんて信用していないけれどそれでも時々世界は妙に意地悪な帳尻を合わせてくる。
 選んだのは駅から少し外れた場所にある小さな定食屋だった。大通りの喧騒から一枚壁を隔てただけなのに、音の密度がまるで違う。カウンター中心の店内は静かで余計な気配が少なく、誰かの生活音が、そっと残るだけの場所だ。ホークスは帽子を深めに被り自然に私の半歩うしろを歩く。追い越さない距離。離れすぎない距離。人混みを避けるための配置でありながらそれ以上でもそれ以下でもない位置取りが、今夜は妙に胸に残る。引き戸を開けながら、ホークスが小さく言う。

「こういう店、好きでしたっけ」
「うん、たまにはね」
「あんま、ヒーロー向きじゃないですけど」
「ヒーローじゃない時間も、必要でしょ」
「あ、それ、いい言い方」
「ふふ。今日は休肝日〜」

 軽口を交わしながら、並んで腰を下ろす。カウンター越しに立ち上る味噌汁の湯気がゆっくりと空気を満たしていく。揚げ物の匂い、出汁の香り、誰かの生活の延長線みたいな匂いが肩に溜まっていた緊張を少しずつ溶かしていく。
 私は箸を取りながら、横目で彼を見る。さっきまで現場にいた人とは思えないほど、彼の表情はすでに柔らいでいる。

「——で? 浴槽、どうして落としたの」
「……聞きます?」
「条件」
「はいはい」

 木の箸がパキンと乾いた音を立てる。彼は苦笑してコップの水を一口飲んだ。喉を潤す仕草が、ほんのわずかに間を作る。それは、言葉を選んでいるとすぐに分かる沈黙だった。

「考え事してたんですよ」
「あら、珍しい。どんな考え事?」
「……」
「ん?」
「……名前さんの……こと、とか」
「……はい?」

 胸の奥で、何かが静かに鳴った。前言撤回だ。やっぱり、アルコールを入れてから聞くべき案件だったかもしれない。そう思うのに、視線だけは逸らせなかった。

「ほら……そういう顔するから言いたくなかったんです」

 照れ隠しみたいに笑って彼は続ける。その笑い方が、ヒーローの仮面を外した人のものに見えて私は少しだけ、息を詰めた。

「湯船でぼーっとしてて、通知、見ようとして」
「……で、落としたと」
「ははっ、見事に。水音、最悪でした」

 その言い方があまりに素直で、私は思わず息を漏らすように、笑ってしまった。ヒーローという肩書きからは想像しにくい失敗談なのに今はその距離感のほうが、かえって胸に近い。

「ヒーローでも、そういうことあるんだね」
「ん?」
「油断しちゃうって話」
「ありますよー。めちゃくちゃあります」
「そっか」
「まあ、こればっかりは、ヒーロー関係ないかもですけどね」

 ちょうどそのとき料理が運ばれてくる。二人分の定食が並び味噌汁の湯気が向かい合う私たちのあいだにゆっくり立ち上ってさっきまでの会話を一度、白くぼかすみたいに漂った。

「でも」

 箸を手に取った彼が湯気越しにぽつりと言う。視線はまだ膳に落ちたままで言葉だけが先に出てきた。

「水没してなかったら、今日、誘えなかったかもしれない」

 その声は軽いのに、妙に胸の奥に残った。

「だからまあスマホには悪いことしましたけど」
「……感謝?」
「半分くらいはね?」

 私はそれ以上何も言えず、少しだけ目を伏せて味噌汁を口に運ぶ。温かさが喉を通るのと同時に言葉にしなかった感情まで、一緒に、飲み込んでしまうみたいだった。

「——じゃあ、今日は」
「はい」
「スマホの供養も兼ねて、ちゃんと食べよ」
「……っすね。」

 静かな店内で、箸と器の音だけが規則正しく、重なる。派手な出来事は何もない。ただこうして向かい合って食事をしている時間が不思議と輪郭を持って、確かなものとして胸に残っていく。
 水没した端末は戻らない。けれどその代わりに生まれたこの夜は、ちゃんと、ここにあった。
 店を出ると夜気が思ったよりも冷たく、昼間に溜め込んでいた熱を一気に奪っていった。暖簾をくぐった瞬間、さっきまでの湯気と味噌の匂いが嘘みたいに背後へ遠ざかり、代わりに、アスファルトの乾いた匂いと遠くを走る車の音が、現実の輪郭を、くっきり浮かび上がらせる。

「ごちそうさまでした」
「ううん。こちらこそ」
「こちらこそ?」
「……休肝日、お付き合いありがとー」

 そう言い合っただけなのに、言葉が少しだけ、余分に空中に残った気がした。彼は帽子のつばを指で押さえながら、私の半歩前を歩く。守るためでも、急ぐためでもない、ただ自然とそうなった距離。触れないままでも、確実に近づいている。そんな感覚だけが、夜道に静かに残っていた。

「……スマホ、ほんとに無くても平気?」

 歩きながら投げた私の問いに、ホークスは少しだけ考える素振りをしてから軽く肩をすくめた。変わらず、いつもの調子だ。

「代替機が出るまでちょっと不便なだけっすよ」
「連絡、取りづらくない?」
「ヒーロー活動は、まあ、なんとなくノリで」
「そっか」
「私用は、そうっすね……まあ。」

 そこで言葉を切ったのは彼なりの配慮なのだとわかってしまう。その遠慮がありがたくて、でも同時に少しだけ、くすぐったい。

「名前さん」
「なに」
「今日、誘ってよかったです」

 前を向いたまま言う声は、軽く整えてあるのにどこか、本音の温度が残っている。だからこそ、気まずくなりたくなくて私も軽口で返す。

「……それ、結果論じゃない?」
「はは、そうかも。でも」

 ホークスは前を向いたまま肩をすくめて歩幅を変えずに続ける。

「断られたらそれはそれで……ちゃんと、諦めるつもりでしたし」

 その言葉に胸の奥がわずかに揺れた。押し切る人じゃない。その距離感を私はもう知っている。

「……大人だね」
「二十一歳、ピチピチですからねぇー」

 その言い方が、どこか照れ隠しみたいで、私は小さく笑った。駅へ向かう道は人通りがまばらで街灯の明かりが一定のリズムで、足元を照らしている。私たちの影は伸びては縮み、時々、重なりそうになって、また離れる。その距離感が、今の関係、そのものみたいに思えた。

「……ねえ」
「はい?」
「水没させた、スマホ、さ?」
「はい」
「沈んでなかったら……最初に、なにするつもりだったの」

 少し意地悪な質問だったかもしれない。彼は、歩きながら考え込み、やがて、正直に答える。

「たぶん、名前さんに連絡してました」
「内容は?」
「……『飯、行きません?』って」
「えー? 結局そこ?」
「はい、結局そこでした」

 あまりにも想像通りの答えで、胸の奥が静かに鳴った。特別な言葉でも決定的な約束でもない。ただそれだけのことが、今は十分に思えた。駅の入り口が見えてくる。人の気配が増えて夜が少しだけ、賑やかになる。

「じゃあ、ここで」
「はい」

 ホークスは立ち止まり、いつもの軽い調子で、手を挙げる。

「今日は、ありがとうございました」
「うん。気をつけてね」
「はい。名前さんも」

 その呼び方がもう当たり前になっていることに今さら気づく。背を向けて歩き出してから、私は一度だけ、振り返った。ホークスは、まだそこに立っていて、私が振り向いたのを確認すると少し遅れて、手を振った。端末は壊れたまま。でも、不思議と、連絡が取れなくなる不安よりも、また誘われるだろうという確信のほうが、胸の中で、静かに勝っていた。
 夜のホームへと降りる階段を下りながら、私は思う。今日の帰り道も特別な名前はつけられないけれど、確かに、忘れずに残る夜だった、と。
 触れないままでも、少しずつ形を変えながら、続いていくものがある。私は今でもそんなふうに思っている。


 *


 ——あの日、夜道で互いの声を拾い直してからいくつかの朝と夜が過ぎ去った。
 その日、仕事終わりの駅前で私は、少しだけ足取りを緩めていた。急ぐ理由はないのに無意識に時計を見てしまうのはたぶん、きっとどこかで、期待しているからだ。あの夜、歩幅がまた揃ったその瞬間から空気は元に戻ったはずだった。それでも戻りきったかどうかは分からないまま、胸の奥で微かな波がまだ静まらずにいる。
 ちょうど改札を抜けたところで視界の端に見慣れた緋色が映る。いた。ホークスは改札横の柱に私服姿で体重を預けるようにもたれている。深くかぶった帽子、腕を組んだままの立ち方。いかにも「偶然、たまたま通りかかりました」という顔をしているけれど私を見つけた瞬間わかりやすく瞳の奥の色だけが明るくなる。その変化が、遠目にも分かるほどには私は彼の視線の変化を知ってしまっている。

「あっ! お疲れさまでーす」

 軽い調子だ。声のトーンも少しだけ高い。わざと明るさを足したときの、彼特有の音域。普通を装わせようとする時の声だと、もう分かってしまっている。

「……なにしてるの?」
「えぇ? 偶然、通りかかって」
「嘘つき」
「八割くらい本当ですよ?」

 その曖昧な数字に思わず笑うと彼はほっとしたように肩の力を抜いた。その反応だけで、今日の彼の目的が、透けて見える気がした。機嫌取りに来たのだろう。それも、かなり本気のやつ。

「帰り、どっちです?」
「いつも通りだけど」
「じゃあ、一緒ですね」

 確認ではなく、決定事項の言い方。歩き出すと彼はいつもより少しだけ距離を詰めてくる。触れない。けれど、逃げ場を残さない位置取り。その不自然なほど丁寧な近さに思わず可笑しくなる。

「なに……? 今日、やけに近くない?」
「気のせいですって」
「ほんとに?」
「ほんとです。たぶんね」

 ��たぶん�≠�つけるあたりがもう答えだった。確信を持たせないための曖昧さを彼はいつもこうして、正確に選ぶ。しばらく他愛もない話をして歩いていると、彼が唐突に言った。

「ねね? 甘いもの、食べません?」
「急だね」
「急です」

 即答。冗談めかした即断というより、用意していた台詞をようやく口に出しましたみたいな速さだった。

「この前、ちょっと感情的に言い過ぎましたし」
「なるほど」
「ん?」
「機嫌取りだ?」
「はい。堂々と」

 思わず目を見開いてしまう。どうやら今日は、隠す気もないらしい。その潔さが、かえって彼の不器用さを透けさせる。

「潔いなあ」
「遠回しにやっても、バレますからね」

 ホークスは小さく笑って少し先に見えるカフェを指差した。その指先の角度はどこか控えめで、私の返事を急かさない距離感を保っている。

「十分だけでも」
「十分だけなの?」
「それ以上いると、今度は俺が調子に乗るんで」

 自制まで含めての提案らしい。言葉の裏側に、境界線を測ろうとする彼らしい習性がにじむ。
 間も無くして店内に入ると甘い香りとコーヒーの匂いが混じり合って、仕事の余韻をゆっくりとほどいていく。駅前にしては静かでテーブル席は数えるほどしかない。木目の小さな卓が等間隔に置かれ、壁際には一人用の椅子が控えめに並んでいるだけで、ざわめきというより呼吸の音が溶け込むような空間だった。向かい合って座ると自然と膝と膝の距離が近くなる。彼はメニューを私のほうへ寄せ、その指先で紙の端を押さえた。

「今日は、名前さん優先で」
「優しいじゃん」
「反省モードなんで」
「このあいだ、和解したのかと」
「あんなんじゃ、足らんですよ」

 私はしばらくメニューの写真を眺めてから指先でなぞるようにして季節限定のケーキを選んだ。甘さよりも季節という言葉に背中を押された気がした。彼に合わせるのでも気遣うのでもなくただ自分の好みを告げるという小さな行為が、思ったよりも勇気のいることだった。

「それでいいですか」
「いいですか、じゃなくて?」
「いいですね、でした」

 言い直しが早い。注文を済ませてケーキが運ばれてくるまでのあいだ彼は落ち着きなくコップに触れては離しまた触れては離すという動きを繰り返して指先がやけに忙しそうだった。その反復が彼の胸の内側の往復運動を、そのまま可視化しているみたいで、普段ならばもっと余裕のある仕草なのに、今日はどう見ても緊張しているのが手に取るようにわかった。

「……さっきから、そわそわしてない?」
「してます」

 隠す気もなく、あっさりと認める。潔さというより、もう取り繕う余裕がない人の声だ。

「そんなに気にしてたんだぁ」
「気にしますよ」
「あら、そう」
「スマホ直ったのに連絡途切れがちだったんで」
「ちょっとバタバタしてたから」
「ふうん」

 不貞腐れ気味に少しだけ声が低くなる。周囲のカフェ内の音がそこだけ薄くなる錯覚。そのとき店員がトレイを滑らせるようにして私たちのテーブルに近づき、白い皿の上に季節限定のケーキと湯気の立つコーヒーカップを静かに置いた。陶器が触れ合う乾いた音と、焙煎豆の匂いがふわりと立ち上る。それでも私の意識は、そちらに向かわない。私の耳はいつの間にか、彼の声だけを選び取る装置になっている。

「嫌われたかもって思わせるくらいなら最初から優しく言えばよかったなって」

 冗談の形を取らない後悔。言葉の角が丸く整えられていないぶん逆に生々しい。私はフォークを持ったまま動きを止め、ケーキの白い表面を見つめる。甘い香りの中で、胸の奥だけが少し苦い。

「でも、ちゃんと話してくれたから、今は平気」
「それ……ほんと、ですか? 本心?」

 確かめるみたいな声音。捨てられた犬みたいな彼の視線が、逃げ場を探さずにこちらに留まる。

「うん」

 迷いなくそう答えると彼の肩の力が目に見えて抜けた。呼吸の深さが変わる。その微細な変化が私の身体にまで伝染する。

「じゃあ、今日の任務、半分達成です」
「半分?」
「はい。もう半分あります」

 そう言って、彼は足元に置いていた紙袋を持ち上げる。椅子の脚に擦れる音が小さく鳴り、私の視線がそこに落ちる。

「なにそれ」
「賄賂です」
「言い方」

 軽口の形をしているのに、その手つきだけが、やけに丁寧だった。袋の口を開けると、柔らかな紙の音とともに、小さな焼き菓子の詰め合わせが顔を出す。淡い色の包装紙に細いリボン、控えめなブランドロゴ。どう見ても時間をかけて選んだ人のそれだ。可愛らしい見た目とは裏腹に、その中には彼の『許されたい』という欲求がきちんと詰められている。私はそれを見ながら、胸の奥が少しだけほどけていくのを感じていた。

「……これ、わざわざ?」
「はい。三軒回りました」
「本気だ」

 思わず笑うと、彼は少し照れたように、視線を逸らす。店内の照明が帽子の縁に滲んで、金色の髪が、やけに柔らかく見えた。

「本気です。かなり」

 その一言に、胸の奥が静かに温まる。言葉より先に、選ぶという行為が彼の誠意を語っていた。
 ケーキを食べ終え、お店を出る頃には、さっきまで漂っていたぎこちなさはかなり薄れていた。甘い余韻が舌に残るまま夜風に当たると彼は私の歩調に合わせて、また半歩前に出る。その半歩が彼なりの距離の測り方なのだともう知っている。

「今日は、怒らないの?」
「もう怒りませんってば」
「ほんとに?」
「はい。今日は甘やかす日です」

 間を置かない返答だった。まるで、自分自身に言い聞かせるみたいな断定の仕方で。

「ふーん。じゃあ調子に乗ろうかなー」
「えぇー?ほどほどでお願いしますね」

 苦笑混じりに言いながらもその声は柔らかい。信号待ちの赤が二人の足元を染める。ふいに彼がこちらを見る。街灯の下で、視線だけが静かに、寄ってくる。

「……あの」
「なぁに?」
「機嫌、もう大丈夫そうですか」

 その確認の仕方がやけに丁寧で、どこか子どもっぽい慎重さを帯びていて可笑しい。相手の表情を、言葉よりも先に読み取ろうとする人の目。

「うん。だいぶね」
「よかった」

 ほっとしたように、小さく息を吐く。胸の奥に溜めていた空気を、ようやく外に出したみたいな吐息で。

「実は、意外だったんですけど」
「うん?」
「俺って結構、短気な方らしくて」
「知ってる」
「怒るときも全力なんですけど」
「知ってる」
「機嫌取るときも、全力なんで」

 胸を張る方向は相変わらず少しずれている気もするけれど、それでも彼なりの誠実さは伝わってくる。自分の不器用さを、逃げずに開示してくるところまで含めて。

「……困ったヒーローだね」
「困らせたい相手は、限定してます」

 軽い調子なのに、その視線だけは真剣だった。横断歩道を渡りながら、私は思う。叱るときも、謝るときも、守るときも、全部が不器用なくらい真っ直ぐで。だから私はこんなふうに機嫌を取られてしまうと、簡単に許してしまうのだと。
 彼は、ヒーローだから強いんじゃない。大事な人の前ではちゃんと弱くなれるから、強いのだ。そんなことを考えながら自然と揃った歩幅のまま夜の続きを、歩いていった。夜風に当たりながら歩いているうちにカフェでほどけた空気は、すっかり、二人のあいだに戻ってきていた。先までのぎこちなさはもう微塵も残っていない。代わりにあるのは少しだけ近すぎる距離と、言葉にしない安心感だった。そして信号を渡りきったところでホークスがふと歩調を落とす。

「……名前さん」

 呼び止める声が、いつもより低い。街の雑踏に溶け込むはずの声音が私の名前だけを拾い上げて夜の底に沈めたみたいに澄んでいる。

「ん?」

 私も足を止める。アスファルトの上で、二人の影が、街灯に引き伸ばされる。横顔を照らす光はやや白く、さっきまでの軽口がすっかり影に引っ込んでいるのがわかる。

「今日、このまま帰ります?」

 ただの確認みたいな口調。でも目だけが逃げていない。それは、答えよりも、答え方を見ているような視線だった。

「帰る、つもりだったけど……」
「……そっか」

 ホークスは一度、視線を落とす。その仕草に、さっきまでの機嫌取りの芝居めいた軽さはない。言葉より先に感情をしまい込むときの彼の癖だともう分かる。

「じゃあ、もし」
「……」
「まだ、少しだけ時間あるなら……」

 言葉を選ぶみたいに、間を取る。夜風が前髪をわずかに揺らし、そのあいだに沈黙が滑り込む。そして少ししてから顔を上げて、こちらを見た。

「俺んち、寄って行きません?」

 夜気の中に、その一言が静かに落ちた。誰にも聞かれないように差し出された提案みたいで胸の奥が、かすかに鳴った。

「……セーフ、ハウス?」

 私がそう言うと、彼は小さく頷く。頷き方までどこか慎重だ。

「はい。あそこなら、静かですし」

 理由はそれだけ。けれどその言い方には静けさの中で話したいことがあるという含みがあった。

「無理なら、全然いいんで」

 それでもすぐに、逃げ道も添える。拒絶される前提で誘うときの、彼なりの誠実さ。

「今日みたいな日だからこそ」
「……」
「なんていうか、ちゃんと話せる場所のほうが、いいかなって、思っただけで」

 さっきまでの軽口とは違う抑えた真面目な声。私は一瞬、迷う。けれどその迷いの正体は、不安よりも期待に近かった。夜に溶けた心がもう少しだけ深い場所に行きたがっている。

「……今日は、甘やかす日なんでしょ?」
「はい」

 返事は早い。肯定というよりも、宣言みたいな響きで。

「じゃあ、その続きってことで」

 私がそう言うと彼の目がわずかに見開かれた。夜灯りを映した琥珀色の瞳が少しだけ光を宿す。

「いいん、ですか……?」
「断った方が良かった?」
「あ、いや……」
「少しだけね?」

 ��少しだけ�≠ニ付け足したのに、彼はそれでも満足したように嬉しそうだった。喜びを隠そうとしないのに踏み込みすぎない距離を守ろうとするその二重の慎重さが可笑しくて、愛おしい。

「やった」

 声が、ほんの少しだけ弾む。歩き出すと、彼は自然に進行方向を変え、私の半歩前に立つ。守るための位置取りは変わらない。でも、今日はその距離が前よりも近く感じられた。肩越しに伝わる体温が、夜気の冷たさを押し返す。

「また、いつもの流れですね」
「そうだね」
「でも今日は——」

 言葉を切ってちらりとこちらを見る。その視線に、夜景の反射が揺れる。

「二次会じゃなくて、三次会かもですね」
「なにそれ」
「機嫌取りの延長戦です」

 冗談めかしているのにどこか本気で少し怖い。タクシーを拾うと、彼は迷わず行き先を告げた。私の返事を確認する前にすでに決めていたみたいにして。
 後部座席に沈み込むと車内の静けさが夜を切り取る。窓に流れる街の灯りが水面みたいに滲み、現実が少し遠ざかる。私は、ガラスに映る自分の影を見つめながら胸の奥の静かな高鳴りをごまかした。怒られて仲直りして、甘やかされて。その延長線上にある今夜はたぶん、少しだけ特別だ。特別であることを誰にも証明しなくていい静かな特別。彼の隣にいるという事実だけがゆっくりと夜に溶けていく。
 タクシーが角を曲がる。街灯がひとつ、背後で消えた。この夜がどこまで続くのか、まだ名前はついていない。タクシーが、静かな住宅街に差し掛かると、街の音が急に遠のいた。ビルのガラス越しに反射していた光の粒が消え、代わりに低い街灯の橙色が、路地の輪郭をやわらかく縁取っている。
 セーフハウスの建物が見えてきたとき胸の奥で何かが静かにほどける。帰り道というより境界線を越える前の廊下に足を踏み入れたみたいな感覚だった。そのとき、ホークスが小さく言った。

「……あの」

 声は低くいつもの軽さをわずかに脱いでいる。運転席と後部座席のあいだに流れる沈黙が、夜気よりも冷たく澄んでいた。

「なに?」
「今日は、ほんとに無理させませんから」

 その言い方が、妙に真剣で少しだけ可笑しい。まるで誓約書に署名する前の人みたいに慎重で、逃げ道まで含めて丁寧だ。

「え……。なに、笑ってるんですか?」
「え?いや、なんか初夜を迎えたあとみたいで」

 自分でも冗談の質が悪いと思ったけれど言葉は自然と口をついて出ていた。夜の空気が軽くなるのが怖くてわざと茶化したのかもしれない。その言葉に見なくても彼がムッとしたのが気配で伝わってきた。きっと下唇をむいっと突き出していることだろう。もしかしたらほんのり頬も赤らめているかもしれない。ヒーローの仮面を外した彼はいつもこうして感情が素直に表に出る。

「……そういう意味じゃないです」

 ぼそっとした抗議が、車内に落ちる。夜に沈めたくない言葉をどうにか言語化したみたいな声。私は話を戻すように、少しだけ声を落とした。

「疑ってないよ」
「……でも、一応、言っておきたくて」

 彼はそう言って照れ隠しみたいに窓の外へ視線を逃がした。通り過ぎる街灯の光が、彼の横顔を一瞬ずつ照らしては消していく。その明滅の中で彼の輪郭がひどく人間らしく見えた。
 無理をさせないという言葉は誰かに向けるものというより自分に言い聞かせるための呪文みたいだった。踏み込むことと踏み込まないことの境目で、彼がどれほど自分を制御しているのか、その背中から、静かに伝わってくる。私はその横顔を見ながら夜の入口に立っている自分の影をガラス越しに見つめていた。

 やがてタクシーが、目的地に到着する。ドアが開いた瞬間夜の静けさが戻ってくる。タクシーを降りて彼の部屋へ向かうこの数歩が今夜の境界線になるのだと、私はなんとなく、分かっていた。
 越えるかどうかじゃない。今夜は、同じ場所に並んで立つだけで十分なのだ。そう思いながら、私は彼の背中を追ってエントランスの中へ入っていった。
 部屋の扉が閉まる音は外の世界と切り離される合図みたいだった。廊下の静けさ、低く唸る空調の音、夜の匂いをまだ含んだままの空気。その、すべてがさっきまでの街のざわめきを、ゆっくり遠ざけていく。ホークスは靴を脱ぎ律儀に揃えてから、ちらりとこちらを見る。

「……緊張、してます?」
「してない、たぶん」

 たぶん、という逃げ道付きの答えに彼は小さく笑った。その笑いは、喉の奥でほどけたみたいに静かで、軽口の殻を一枚だけ剥がしたような素の音だった。

「俺は、してます」
「え?」
「だって今日は——」

 そう言いながら、ホークスは玄関先で、上着を脱ぐ。そのファスナーの音が夜の静けさに溶けて肩から落ちた布の重みが床に触れる。
 ヒーロースーツとは違う私服の輪郭はこの男をただの、青年に戻す。羽根を畳んだあとの背中の線が間接照明の光にやわらかく縁取られていた。

「名前さんが、逃げない日なんで」

 冗談めかしているのにどこか本音が混じる言い方だった。言葉の端に、期待と警戒が絡み合っている。私は靴を脱ぎ足裏に伝わるフローリングの冷たさをたしかめる。昼間の彼の部屋とは違う、夜だけが持つ密度。音も匂いも、時間そのものが低く沈んでいる。
 リビングに入ると間接照明の柔らかい光が床に滲んでいる。壁に投げかけられた影は淡く揺れ、昼間には見えなかった部屋の奥行きが浮かび上がる。ここは彼の一つの拠点であり、彼の避難所であり、そして今夜は私の踏み込み先でもあった。

「飲みます?」

 キッチンに向かいながら、振り返る。答えない私に構わず彼はキッチンに立って、棚を開ける。ガラスのボトルが棚で触れ合う小さな音。グラスを取り出すときの指先の迷い。そのすべてが彼の余裕のなさを静かに告げている。冷蔵庫を開ける音や氷がグラスに落ちる澄んだ響き。そのひとつひとつが、妙に耳に残る。

「軽めのやつにしときましょっか」
「うん」

 短く返事をしながら私はソファに腰を下ろし、クッションが身体の重さを受け止める感触に少しだけ息を吐いた。何度も来ている場所のはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。距離が縮んだあとの空間は同じ形でも意味が変わる。
 逃げない日、と彼は言った。その言葉は、挑発でも甘えでもなく、ただの事実確認みたいで胸の奥に静かな波紋を残している。

「どうぞ」

 差し出されたグラスを受け取ると、指先が一瞬だけ近づいて触れないまま離れる。そのわずかな間に、さっきまでの夜道の空気がまだ続いているのを実感する。

「……ほんと、静かだよね、ここ」
「だから、好きなんです」

 彼はそう返して向かいの床に座るかと思いきや自然に私の隣に腰を下ろした。近い。でも、触れない。その微妙な配置が、彼らしいなと思う。

「こないだの反省会、ここまでにしときましょ」

 そう言って彼はグラスを軽く持ち上げた。氷が触れ合う音が小さく鳴り、その澄んだ音が、夜の室内に静かに落ちていく。

「これ以上は俺また、真面目になっちゃうんで」
「もう十分、真面目だったけどね」

 冗談のつもりで返したのに、その言葉は自分の胸にも返ってくる。彼は一瞬だけ口元を歪めて、苦笑の形に作った。

「そっか」

 一口飲んでようやく肩の力を抜く。その吐息がさっきまでの張り詰めた空気を少しだけ薄めた。すると「あ」と、ホークスが不意に立ち上がる。

「ちょっと待っててください」

 そう言い置くと棚のほうへと向かって行った。背中越しに聞こえる足音が、夜の静けさの中で、やけに大きく響く。戻ってきた手には、見慣れた箱。それがテーブルに置かれたとき、乾いた音が部屋の中央に落ちた。

「やりましょ」
「え、また?」
「今日は負けたほうが、勝ったほうのお願い一個だけ聞くって流れで」

 さらっと言う。その軽さが、かえって、本気の境界線を曖昧にする。

「えー、なにそれ」
「昔からのルールです」
「聞いたことないけど」
「今決めました」

 ずるい。床に箱の中身を広げると木のブロックたちが転がる音が、小さく反響する。間接照明の光に照らされた影が床に細長く伸びまるで二人の距離そのものみたいに揺れている。
 黙々と積み上げていく木が擦れる乾いた音が、呼吸のリズムに重なる。静かすぎて、心臓の鼓動まで聞こえそうだ。

「名前さん、手震えてません?」
「震えてない」
「嘘ですね。めちゃくちゃガクガクいってる」
「ホークスが見てるからでしょ」
「はは。俺のせいですか」

 笑いながら言うけれど、彼の指先も慎重すぎるほど慎重だ。視線は真剣で、冗談のゲームなのにまるでヒーロー活動中みたいな集中の仕方をしている。その横顔が、妙にかっこよく見えてしまうのが悔しい。先行はいつも通り私で、迷わず木のブロックを一本抜く。塔が、ギリと小さく鳴る。その音だけが先に未来を告げるみたいで私は咄嗟に息を止めた。

「スタートから攻めましたね」
「まぁね」
「今の、プロの仕事でしたよ」
「……でしょ?」

 次は彼の番だ。ホークスが選んだ瞬間、空気が一段と静まる。彼の指先が木片に触れたとき私の視線までそこに縫い止められた。少しだけ引いたその瞬間。がらがら、と音を立てて崩壊。

「……あ」

 言葉が落ちる前に、木の音が部屋を満たした。一瞬の沈黙。その沈黙が、ただのゲームよりも、ずっと重たくて、そして、甘い。
 私は思わず、吹き出した。笑い声が部屋に跳ね返り張り詰めていた夜の空気が柔らかくほどけていった。

「ねえ、早くない?」
「速すぎる男なんで」
「負けたね」
「ですね」

 珍しく彼は素直に認めた。悔しさよりもどこか安堵に近いものが混じったような声で、勝敗そのものよりも、次に来るものを、待っているみたいだった。

「で、お願いは?」

 ホークスは身を乗り出す。テーブル越しに距離が縮まり、間接照明の光が彼のまつげに影を落とす。その影が微かに揺れるたび、こちらの鼓動も同じリズムで揺れた気がした。

「なんでもいいの?」
「常識の範囲で」

 その言葉に私は少しだけ考える。冗談に逃げることもできたし、軽口で済ませることもできた。けれど、今夜だけは、そうした逃げ道を選びたくなかった。

「じゃあ」

 と、彼を見る。視線を逸らさずに、あえて確かめるみたいにして。

「今日は、機嫌取り役に徹してもらいます」

 その目がわずかに柔らぐ。驚きよりも受け取ったという表情に近かった。

「それ、大賛成」
「え?」
「望むところですって意味」

 そう言って彼はグラスをまた持ち上げた。その指先の動きが少しだけ丁寧で、少しだけゆっくりだった。

「まずは、もう一杯、作りますね」

 キッチンに向かうその背中を見送りながら私は小さく息を吐いた。ここまで来て、何も越えていないのに。越えないからこそ今夜は、こんなにも近い。越境しないことで成立する親密さがあるのだと、身体のどこかで理解している。
 ジェンガの塔が崩れたあとの空気はどこか拍子抜けするほど穏やかだった。張りつめていた糸がほどけたあとに残る、柔らかい余韻だけが部屋に漂っている。木片の散らばった床がさっきまでの緊張を物理的に証明しているみたいで私はそれを足先でそっと避けた。キッチンのほうから、氷を落とす音や、液体がグラスに注がれる音が届く。
 日常的な音なのに、夜の静けさの中では、妙に親密な響きだった。水の匂いとアルコールの匂いが混ざり合い、部屋の空気が少しだけ湿度を帯びる。ホークスはグラスを手に戻ってきて私の前にそっと置いた。ガラス越しに伝わる冷たさが指先に微かに残る。

「どうぞ」

 その一言がどこか過剰に優しい。私はグラスを受け取りながら今夜の距離がすでに、どんな展開よりも深い場所に触れていることを、静かに自覚していた。

「今日は甘め寄りで」
「気遣いがすごいね」
「本日は、全力で機嫌取り期間なので」

 そう言ってから彼はほんの少しだけ間を置く。軽口の延長のようでいて言葉の奥行きを測るみたいな沈黙。

「というか……普通に、甘やかしたいだけです」

 さらっと言うのが本当にずるいなと思う。声の調子はいつもと変わらないのに、言葉だけが真っ直ぐで、照れ隠しの皮膚を通り抜けてくる。私はソファに深く腰を沈める。背もたれに体を預けた瞬間身体の奥に溜め込んでいた今日という一日の重量が遅れて意識にのしかかってきた。肩甲骨のあたりがじんわりと緩み、足先の感覚が少しだけ遠のく。疲労というより許されたことによる弛緩だった。

「……なんか、急に眠くなってきたかも」
「それ、いい兆候ですね」

 彼は私の向かいに座り直し、クッションを一つ取って差し出してくる。その動作が、妙に慣れていて、誰かを世話することに慣れている人の所作だった。

「襲われちゃうかも」
「襲いません」
「ほんとかなぁ」
「背中、楽にしたほうがいいですよ」
「え、いいの?」
「いいですよー」

 躊躇いのない返事。私は遠慮なくクッションを受け取る。背中に当てると、重力がそこに逃げていくような安心感がある。布越しに、彼の部屋の温度が伝わってくる。

「なんか、介護みたい」
「えー? またまたぁ」
「……気が、利きすぎじゃない?」
「機嫌取り期間なんで」

 さっきと同じ答え方をするから可笑しくなる。言葉の反復が、彼なりの距離感の取り方なのだと分かる。少し沈黙が落ちる。でもそれは気まずさではなく、夜に馴染ませるための余白だった。
 ホークスはグラスを持ったまま、ソファの背に片腕を預ける。肩のラインがゆるみ視線もどこか遠くに溶けている。ヒーローではなくただの男の夜の姿だ。

「名前さん」
「なぁに?」
「今日、来てくれてありがとうございました」

 改まった言い方に、胸の奥で小さく波紋が広がった。軽口の皮膜を剥がした、ただの素の声。

「そんな、別に……」
「別に、じゃないです」

 穏やかな声。怒るでもなく笑うでもなく、ただ静かに事実を置くような響き。

「今日は、ちゃんと素直に嬉しい日なんで」

 胸の奥が、静かに温かくなる。温度が上がるというより、凍っていたものがゆっくり溶けていく感覚に近い。だから私は思わず、心の声を零してしまった。

「なんか……告白されてる気分」

 その瞬間、空気がわずかに変質した。湿度が、変わったような錯覚。慌てて、訂正しようとしたそのとき、彼の低い声がその場に落ちる。

「そう思ってもらっても、別に——」
「……」
「……」

 沈黙。その一言が部屋の中央に置かれたまま、しばらく動かなかった。どう返すべきか、思考が空回りしていると、彼は声のトーンを元に戻し、会話の流れに擬態するように続けた。

「さっきまで、俺、結構テンパってましたし」
「……そうなの?」
「はい。嫌われてたらどうしよう、とか」
「本気でそんなこと思ってたの?」
「思いますよ」

 彼は苦笑する。笑いの裏側に自分でも持て余す感情が透けている。

「怒ったあとって、いつも後悔するんですよね」

 ぽつりとこぼして視線を落とす。グラスの中の氷を見つめるその目はまるで自分の言葉の残響を覗き込んでいるみたいだった。

「言い過ぎたかな、とか。強すぎたかな、とか」

 あの夜の彼を思い出す。厳しくてそれでも歩幅を合わせてくれた背中。叱責と並走する優しさ。

「でも……黙るのも流すのも、違うと思ってて」

 グラスの中で氷が微かに触れ合う。その音が、夜の静けさの中でやけに大きく聞こえる。そして一度、言葉を探す。彼の喉仏が小さく、動くのが見えた。

「大事な人に、何も言わないのって」
「……」
「それはそれで、無責任な気がして」

 私はゆっくり息を吐く。肺の奥まで満ちていた緊張が吐息と一緒にほどけていく。怒られることも、叱られることも、こうして言葉を向けられることも。全部が彼なりの『関わり続ける』という意思表示なのだと、ようやく理解する。

「難しいね」
「難しいです」
「……」
「だから、今日は」

 言葉を探すみたいに一度視線を落として、それからふと顔を上げ、私を見る。間接照明に照らされた瞳は冗談の色をほとんど失っていてその静かな真剣さに、胸の奥がひそかに締めつけられた。距離は変わらないのに空気だけが確かに近づいた感覚。

「感情的にならない日、にしてます」
「宣言?」
「宣言です」

 少し照れたみたいに視線を逸らす。その仕草はヒーローとしての彼よりも、ただの青年としての彼にやっぱり近くて、見ているだけで、胸の奥が緩む感じがした。

「……あの、さ?」

 不意に声をかけると彼はすぐにこちらを向く。視線の速さが気持ちの所在を隠す気がないみたいで、かえって、くすぐったい。

「わたし、あらためて、思ったことがあって」
「ん?」
「ホークスって、重たいくらいに真面目だよね」

 ホークスが「え」と声に出し、一瞬きょとんとした表情になる。その間の抜けた沈黙が彼らしい可笑しさを孕んでいる。

「重いです?」
「うん。でも」
「……」
「軽く扱われるより、ずっといいな、って」

 私は小さく笑った。言葉にした瞬間、自分でも驚くほど胸が静かに温まる。彼は驚いたみたいに瞬きをして、それから目を細めてゆっくりと息を吐いた。

「それだったら、救われますね」

 その声が、思ったよりも素直で、柔らかくて、胸に残った。私はソファに体を預けたまま天井を見上げる。間接照明の光が視界の端で淡くにじみ夜の輪郭をぼかしていく。

「……ここ、落ち着く」
「でしょ〜?」
「……外の世界が、遠く感じるんだよね」
「それが、セーフハウスの役目です」

 なんだか適当に言い切られた気もしたけれど、なぜか誇らしげに言うその声の裏に自分の居場所を守るように生きてきた人の影があるのを、私は知っている。

「危ないときだけじゃなくて」
「……」
「こういう夜にも」

 彼がこちらに向ける視線は真っ直ぐで、けれどどこか、控えめだ。その言葉が胸の奥に落ちて、静かに波紋を広げる。彼はほんの少しだけ距離を詰める。触れない。でも同じソファの空気を確かに共有する位置。肩越しに伝わる体温が夜の温度に溶けていく。

「寒くないですか」
「大丈夫」
「ほんとに?」
「うん、ほんとに」

 それでも彼は剛翼でブランケットを運んできて私の膝にそっとかけてくれた。その手つきは守るというよりも、確かめるみたいに慎重で優しい。

「……過保護系ヒーロー」
「本日、最大出力なんで」

 そう言って、ようやく笑う。その笑みはどこか安心した子どものようでもあった。私は、ブランケットの端を指でつまむ。柔らかな布の感触が、さっきまで張っていた心の内側をゆっくりとほどいていく。
 今日も、何も越えていない。けれど、越えないまま並んで同じ夜を過ごしているという事実が、奇妙なほどに満たされている。彼の気配が近くにあり、静かな時間が二人のあいだに流れている。それだけで、胸の奥にはちゃんと居場所ができていた。

 外の街の音はここまで届かない。セーフハウスという名前の部屋は今夜だけは戦場からの避難所ではなく感情が落ち着くための港みたいに思えた。ヒーローの隣で、私は目を閉じる。眠るわけでも、触れるわけでもない。ただ、同じ静けさを共有しているという事実が、ひどく贅沢で、愛おしい。この夜がどこへ向かうのかは誰にも分からない。けれど今は、ここにいる。それだけで十分だったから。


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