——あの夜。私は多分、すべてをわかっていたのだと思う。
わからないふりをして��知らないまま�≠ナいることを選んだだけで触れなければ壊れない距離も越えなければ保たれる関係もその先に待っている結末も、どこかで静かに理解していた。
二年後——。
時間は劇的な変化を連れてこない。ただ、選ばなかった言葉と置き去りにした感情だけが、目に見えないかたちで積み重なっていくだけ。
「……新しい彼氏が、できました」
その一文を口にした瞬間のホークスの顔を私は今でもわりと正確に思い出せる。
彼はにこっと笑った。いつも通りのよく出来た笑顔で。そこには戸惑いも遅れもなく、まるで、その報告を前から知っていた、みたいな雰囲気が潜んでいる。
「お、いいじゃないですかー。今回は、どんな人です?」
あまりにも平常運転な声だったから私は内心で少しだけ得意になってしまったのだと思う。ほら平気でしょ?と確かめるみたいな無意識の悪癖。
「違う部署の人。部品とか、そっち系の担当の」
「へぇ?」
「真面目でさ、連絡もマメな方だと思う」
「へぇー」
相槌を打ちながら彼は箸を取る。居酒屋のカウンター。仕事終わりのいつもの店。並びも距離もこの二年間、ほとんど何も変わっていない。その変わらなさが今夜は少しだけ居心地が悪かった。
「今度は長く続くといいっすね」
「ね。今回は、直感いい感じなんだよね」
自分で言いながら、少しだけ浮かれているのが分かる。声がわずかに高く、言葉の運びも軽い。ホークスはそれを遮らない。合いの手を入れて、話を回してちゃんと聞いている��理解者の顔�≠�崩さない。そのとき、ふと背後の席が、賑やかになった。
「男女間に友情なんてないって〜!」
「いや、あるでしょー!」
「私は、無いに一票〜!」
「じゃあ俺は、あるに一票!」
若者達の声が背後から一気に流れ込んでくる。私は即座に居た堪れない気分に包まれた。真横にいる彼は、ふとスマホを手に取り、視線を画面へ落とす。いつもの仕草。逃げでも拒絶でもない、ただの、間の置き方。
私は一度、彼から視線を外し、楽しげに話している背後の卓を、ちら見する。それからそっと、視線を前に戻して彼の横顔を伺うと彼はスマホをそばに置いて、首を左右に鳴らしていた。疲れをほぐす仕草のはずなのに、なぜか眉のあたりが、わずかに寄っている。私は何もなかった振りで、会話を元に戻した。
「……優しいんだよ。無理させないし」
「名前さん、無理しがちですもんね」
「そうそう。そこを分かってくれるの」
言い終えた瞬間、胸の奥で小さく引っかかる。「分かってくれる」という言葉をここで使うのは少しずるい気がした。でも彼は、何も言わない。ただグラスを傾ける。氷が静かに音を立て、彼の喉が動くのが横目に見えた。その沈黙が否定でも肯定でもないまま、私たちのあいだに残る。
「……ホークスは、どうなの? 最近」
私がそう尋ねると彼は一度だけほんのわずかに視線をずらした。
「俺ですか?」
返ってきた声は軽い。けれどその軽さが考えずに出たものではないことくらいは、この長い付き合いの中で、すでに分かるようになっていた。
「相変わらずっすよ。空飛んで仕事して、寝る」
「はは。色気なさすぎ」
「ヒーローの生活なんて、そんなもんです」
笑って言う。その表情も、声の調子も、いつも通り。なのにその目だけは、こちらを見ている。まっすぐで逃げ場のない視線。私は彼の琥珀色の瞳が好きだった。
——あれ、と思う。新しい彼氏の話をしていたはずなのに、どうしてちゃんと聞いてくれるこの人の反応ばかり、気になってしまうのだろうと。そんな余計な考えを追い払うみたいに、私は箸を置き、少しだけ身を乗り出した。
「ねぇ」
「はい?」
「正直、どう思ってる?」
「何がです?」
「わたしの、恋愛事情」
冗談めかしたつもりだった。言い方も声の高さも、いつもより軽くした。けれど、ホークスは、すぐには答えない。視線が一瞬だけ下がり背中の羽根が、気づかれない程度に揺れる。
「名前さんが幸せそうなら、いいと思いますよ」
それは、これまでに何度も聞いた言葉だった。誰に聞かれても出せる、優等生みたいな答え——間違いようのない、正解。
「ほんと?」
「はい」
迷いのない返事。それなのに、なぜか胸の奥が静かにざわついた。安心ではなく、落ち着きでもない。名前を付けるには曖昧すぎる感触だけが、そこに残る。私は、グラスに手を伸ばしながら、そのざわめきを、見ないふりをする。今さら掘り下げる理由はないし、掘り下げたところできっと何も変わらない。そう思う一方で、正解を聞いてしまったこと自体が、少しだけ、惜しかった。
「じゃあさ——」
それでも悪い癖が顔を出す。抑えたつもりでも言葉はときどき、こちらの許可を待たずに、先へ出てしまう。
「もし今度の人とうまくいったら、私、呼ばなくなるかもよ?」
ずいぶんと試すみたいな言い方だった。言ってしまった瞬間に、あっ、と思う。彼は箸を止め、そのままこちらを見る。
「……それは」
ほんのわずか言葉を選ぶための沈黙が落ちる。
「寂しいかも、っすねぇ……」
声音は軽いままだった。けれど冗談として受け流すには、向けられた目があまりに真っ直ぐで、逃げ場を与えてくれない。
「でも、そうなったら——」
「うん」
また短い沈黙。相変わらず声は軽いのに今度はその裏に冗談では済まされない感情が潜んでいることが、はっきりと伝わってくる。
「それが、名前さんの正解なんでしょ」
——正解。その言葉が、胸の奥に小さく引っかかり、すぐにはほどけないまま、静かに残った。
「……なに、それ」
「トモダチの立場としては、です」
わざわざ、そう付け足すところが、いかにも、彼らしい。境界線を引くのが上手で同時に、その線を誰よりも意識している人のやり方。
私は笑って話題を変える。新しい彼氏の愚痴を少し。仕事の話を少し。デザートを頼んで他愛のない時間をやり過ごす。けれど心のどこかでずっと考えている。この人に報告することが、どうしてこんなにも、大事なのだろう、と。
会計を済ませて店を出ると、夜風が頬に触れ、酔いを少しだけ冷ましてくれる。並んで歩く間、やや沈黙が流れる。さっきまでのざわめきが、嘘みたいだ。
「……ねえ?」
「はい?」
「……男女間に友情、あるよねぇ?」
自分で言っておきながら、内心で舌打ちする。なぜこんな上ずった声で、こんな話題を持ち出してしまったのだろう。
「……さあ、どうすかね」
彼は、やや気だるげに息を吐く。身じろぎした拍子に背中の羽がかすかに揺れた。いつも飄々としているヒーロー。プライベートでも仕事でも、酔っていても、だいたい同じ顔をしている。
「人それぞれなんじゃないすかー」
あまりにも正論で逃げ道のない言葉だったから私は思わず、頷いてしまう。
「……だよね。そう、だよね」
そのとおりだ。理屈としては何ひとつ間違っていない。それなのに胸の奥だけがうまく追いつかず、ざらりとした違和感が残る。少し歩いてから私はもう一度、口を開いた。
「でもさ」
「はい」
「友情って言葉、便利だよね」
彼は歩きながら、こちらを見ないまま、すこし肩をすくめる。
「便利っすね。守れるし、逃げれるし?」
「……逃げる、って言うんだ」
「まあ、場合によっては」
そこでようやく彼がこちらを見る。夜の街灯に照らされたその横顔は、笑っているのに、どこか慎重だ。
「名前さんは、どうなんですか」
「何が?」
「俺と。友情で、足りてます?」
心臓がひとつ余計に鳴った気がした。私はすぐには答えず、歩幅を、ほんのわずかだけ緩める。
「……足りてる、って言ったら?」
「じゃあ、それでいいです」
あまりに素直な返事すぎて、かえって戸惑ってしまう。だからこそ、つい口をついて出てしまういつもの、悪癖。
「じゃあ——」
「……」
「足りてない……って、言ったら?」
「それは……」
彼は珍しく言葉を探すように、声のトーンを、少しだけ落とした。
「今は、困りますね」
それは取り繕いのない、彼なりに選び抜かれた正直な答えだった。逃げることも踏み込みすぎることもない。その距離感を受け取って私は小さく笑って、前を向く。
「……だよね」
「はい……」
「じゃあ今は、このままでいよう」
「……はい。今は」
その「今」が、どれくらい続くのかは、誰にも分からない。駅が近づき信号の前で立ち止まる。赤信号のあいだ、今度は彼がぽつりと言った。
「でも」
「うん?」
「名前さんが、誰かとちゃんと幸せになるなら、俺は……ちゃんと、祝いますよ」
それは、さっきと同じ類の言葉のはずなのに、今度は少しだけ、重さが違った気がした。
「ん……ありがと。」
青に変わった信号を渡りながら私は思う。正解ばかりを並べてきた関係は、間違えない代わりに前に進めないのかもしれないと。それでも今夜はそれ以上の言葉を探さない。まだこの関係には、名前がなくていい。いや、本当は。名前をつけるのが少しだけ、怖いだけなのだ。
「じゃ、また連絡します。」
「うん。無理しないでね。」
それは、いつもの別れ際だった。言葉も距離も特別な変化はない。彼は立ち止まり私は軽く手を振る。そのまま、互いに背を向けて、それぞれの帰路へ歩き出す。
しかし、数歩進んでから私はようやく気づく。新しい彼氏ができたと話しながら、いちばん安心していたのはそれを聞いてもなお変わらずそこにいてくれる人がいる、という事実だったのだと。
夜道を歩くあいだ、さっきの会話が、断片的に思い出される。彼の声の調子、視線の置きどころ正解ばかりを選ぶ言い方。そのどれもが、今夜は妙に胸に残った。追いかけたいわけでも呼び止めたいわけでもない。ただ、立ち去る背中を見送ることに少しだけ慣れてしまっている自分がいた。
「ただいまー......」
帰宅して靴を脱ぎ鞄を床に置く。部屋の灯りをつけると、現実が戻ってくる。私はスマホを手に取り、まず、今の彼氏にメッセージを送った。

今、帰ってきました
おやすみなさい
——送信。画面が、静かに切り替わる。次に、連絡先の一覧をスクロールする。ホークスの名前のところで指が一瞬、止まる。けれど何もせずに画面を閉じた。それが、正しい選択だったのか、それともただの逃げだったのか。今はまだ分からない。分からないままでも、生活は続いていくし朝は来る。答えを知るのは、たぶん、もう少し、先の話だ。けれど、知ってしまったときにはもう戻れない場所に立っているのだろうけれど。
その夜、彼氏からの返信はなかった。その沈黙だけが、やけに重く、確かなものとして、残っていた。
*
その夜の事を私は今でも『自分の選択のまずさだけが克明に焼き付いている記憶』としてやけに鮮明に覚えている。
飲み会は、仕事仲間とのただの打ち上げだったはずで最初の一杯まではちゃんと理性もあった。
続く、二杯目、三杯目、四杯目あたりまでも、会話の内容はしっかり覚えている。笑ったことも誰が何を言ったかも曖昧ながら辿れる。けれど、その先から世界が少しずつ柔らかくなっていった。輪郭が丸くなり音が近づき時間の進み方だけがどこか緩やかになる。最後のほうには自分がどれくらい飲んでいるのか、その判断すら怪しくなっていて、気づけば、「今日は帰りたくないな」という感情だけが、理由もなく胸の奥に居座っていた。
——こういうとき、呼ぶ相手は決まっている。スマホの画面に表示された名前を見て、ほとんど反射みたいに通話ボタンを押してしまった自分を今なら少し叱れる。けれどあのときの私は距離の分別も理解者としての立場もすべてアルコールに溶かしてしまっていたのだと思う。
「……ホークス、」
自分の声が、思っていたよりも甘ったるくて、そこでほんの一瞬だけ、後悔しかけた。
『——名前さん? どうしました?』
受話器越しの声はいつも通り落ち着いていた。その変わらなさが逆に気を緩ませる。大丈夫だと勝手に思ってしまう。これが私の、悪い癖だ。
「飲みすぎた……帰れない……」
『……今、どこです?』
「駅の近く。たぶん」
��たぶん�≠ネんて言葉を、いい社会人が気安く使うな、と、心のどこかで思いながら、それでも通話が切られなかったことに、ひそかに安堵していた。
『動かないでください。迎え行きます』
「え、いいよ……」
『よくないです』
丁寧な口調のくせに、迷いのない言い切りで、断言される。ああ……このヒーローは、こういうところだけは年下でも容赦しない。そんなに歳は変わらないけれども。
私は返事をする代わりに、曖昧に息を吐いて、近くのベンチに腰を下ろした。
「……ねえ?」
『はい?』
「……怒って、る?」
『怒ってないです。ただ、心配してます』
その言葉に、胸の奥が少しだけ、じんとする。心配される立場に今更戻ってしまったみたいで。
それから二十分もしないうちに、視界の端に、赤い羽根が見えた。街灯の下で現実味のない色がゆらゆらと揺れる。その瞬間、私は思わず笑ってしまった。やっぱり、来た。来てしまった。そう思いながら同時に来てくれたことにどうしようもなく救われてしまっていた。
「来たぁ〜……」
「……名前さァん」
少し呆れたような、ため息混じりの声。でも、その奥にある��心配�≠ヘ、隠しきれていない。
「何杯飲んだんすかァ?」
「覚えてない」
「ちゃんと最悪ですね」
「でも、ちゃんとホークス呼んだ」
「自慢になりませんって」
言葉は軽口なのに、彼の動きは、慎重だった。自然に私の腕を支える動きは抱き寄せるでもなく引き離すでもない。あくまでこれは——倒れないための距離だ。そう言い聞かせるみたいに彼は、一定の間隔を保ったまま、私を覗き込む。
「立てます?」
「たぶん……」
「��たぶん�≠ヘ禁止です」
笑いかけようとして、失敗する。身体の重心が思っているより前に出る。彼は何も言わず、少しだけ支える力を強めた。そのまま、彼の家に行く流れになったのは私が「遠いから嫌だ」と駄々をこねたからで、子どもみたいな言い分だと、どこかで、分かっている。けれど彼は、もう一度だけ小さく息を吐いて、でも、否定はしなかった。
「……分かりました。じゃあ、近いほうで」
そのあと、淡々と運転手に行き先を告げる声。揺れる車内で私は窓の外をぼんやり眺める。街の灯りが流れる線になる。彼は肩が触れない距離を保ったまま、それでも私から、一度も視線を逸らさなかった。その視線に気づいていながらも私はずっと、窓の外だけを見ていた。
目的地に到着して、タクシーを降りる。夜風が頬に当たる。少しだけ、現実が戻ってくる。
「足元、気をつけて」
「ん……」
エレベーターに乗り鍵が回る音を聞く。部屋に通されるまでの動作がどれも手慣れていて、私はその流れに身を預けるしかなかった。
「ここ、座れます?」
「……ソファ?」
「そ。ソファです」
促されるまま、腰を下ろした瞬間、身体の力が一気に抜けると同時に視界が、ぐらりと揺れた。
「ちょっと、深呼吸しましょ」
「……はぁ」
目の前に、彼がしゃがんでいる姿がぼんやりと見える。言われるがまま、息を吐く。吐いたぶんだけ、酔いが表に出てくる感じがした。
「水、飲みます?」
「飲む……」
短く答えて、背もたれに、身を預ける。天井の灯りがやけに遠い。彼の足音がキッチンのほうへ離れていく。その距離が、今はありがたかった。私は静かに目を閉じる。
「……ごめんね」
急にそんな言葉がこぼれたのはたぶん、酔いのせいだ。理性が薄くなると、普段は奥にしまっている感情が、順番も考えずに出てくる。
「なにがです?」
「年上なのに、面倒かけて」
そう言うと彼は一度だけ黙った。考えるというより、言葉の温度を測る沈黙。それから、静かに言う。
「年上とか、今は関係ないです」
「……」
「それに、たいして年、変わらんでしょう」
差し出されたコップを受け取る。その手つきがやけに優しい。指先の力加減が慎重で必要以上に触れない。
「名前さんが無事なら、それでいいんで」
その一言で胸の奥がじわりと熱くなる。理由は分からない。ただ堪えきれなくなって私は勢いのまま、ソファに横になった。
「ちょっとだけ……寝る……」
「ちょっとだけにしてくださいよ」
「うん……」
目を閉じる直前毛布がかけられる気配がした。布の重さが、現実を引き戻す。ああ……やっぱりこのヒーローのところに来て正解だったななんてひどく身勝手な安心が胸に広がる。意識が薄れていく中で、私は小さく呟く。
「ホークスってさ……ずるいよね」
「なにがですか」
「こういうとき……ちゃんと、そばにいてくれるところ」
返事はなかった。代わりに、少しだけ、時間を置いて、低い声が落ちてくる。
「……それ、今言います?」
その声を最後に、私はもう答えられなかった。
翌朝、目を覚ましたとき私は、ソファではなく彼のベッドできちんと、毛布をかけられて眠っていた。カーテン越しの光が、部屋を薄く満たしている。ベッド脇の小さな机の上にはペットボトルの水と二日酔い用の薬。丁寧すぎるほどの配置。
何も、起きていない。けれど昨夜、ベロベロに酔って、彼に連絡をしたはずの私よりもずっと、危うい感情を静かに完璧に抑え込んでいたのは、たぶん、彼のほうだった。そう思うようになったのは、もっとずっと、後の話だけれど。
*
その日は朝からずっと体の奥がおかしかった。重たくて動けない、というほどでもないのに実際には軽くもない。熱があると自覚したのは夕方になってからで、仕事を早めに切り上げさせてもらって、帰路につく頃には頭の輪郭が曖昧になり、指先に力が入らなくなっていた。
彼氏には『今日は早退します』とだけ送った。深い理由は、書かなかった。心配させるほどでもない、そう判断した自分の甘さを、あとになって少しだけ後悔することになる。
なんとか自宅に辿り着き、靴を脱ぎ、ソファに沈み込む。毛布を引き寄せたところで、スマホが震えた。画面の光が、やけに眩しい。

大丈夫ですか
その短いメッセージは��彼氏�≠ゥらではない。まさかの、ホークスからだった。
「……なんで、わかったんだろ」
思わず独り言が漏れる。返事を打つ気力もなくただ画面を、ぼうっと見つめていると、追い打ちみたいに、もう一通メッセージが届く。

昼に対応してもらったとき
声、変でしたけど
ああ……と、小さく納得する。彼は、そういうところだけは無駄に鋭い。目敏いといったほうが正しいだろう。

今から行ってもいいですか
迷った。彼氏がいるのに、という理屈が、一瞬だけよぎる。けれど次の瞬間、その理屈は、熱に溶けるみたいにどうでもよくなった。誰かに来てほしい——という感情のほうが、はるかに、正直だったから。

来れるならお好きに
結局、それだけ返してスマホを伏せる。小さな送信音の余韻が、やけに長く残った。
少ししてからインターホンが鳴る。思っていたより早かった。私はソファから起き上がる気力もなく、毛布にくるまったまま、天井を見つめる。来てしまったと思うのと同時に来てくれたという安堵が同じ場所に重なった。その二つを私はまだ切り分けられずにいた。
なんとか重い身体を起こしてドアを開けると、ホークスは、いつものヒーロースーツで、立っていた。服装は、普段と変わらないのに、目だけが違う。完全に、仕事のそれをしている。
「名前さん」
「ん」
「顔、赤いですね」
「熱あるっぽくて」
「でしょうね」
責めるでもなく驚くでもなく、彼は靴を脱いで部屋の中に入る。ためらいのない動き。その勝手知ったる動線に、今さら口を挟む気力もない。
「彼氏さんには?」
「……早退するって」
「連絡、しました?」
「うん、それだけ。」
その答えに彼の視線がほんの一瞬だけ揺れた。けれど、何も言わない。言わないことを選ぶのも彼の判断なのだろう。
「じゃあ、今日は俺が当番で」
「えー、なにそれ」
「体調不良対応です」
「ヒーロー活動じゃん」
「実際、そうなんで」
冗談めいたやり取りの裏で彼の手は休まない。冷蔵庫を開けて棚を確認し、飲み物を取り出す。薬の位置まで把握しているのが、腹立たしいほど自然だった。
「水、飲めます?」
「んー......」
「水、先飲みましょう」
「......うん」
差し出されたコップを受け取り、私はソファへ戻る。身体を預けた瞬間、熱が一段だけ前に出てきた気がした。彼は私の隣には座らず少し距離を取って床に腰を下ろす。視線は常にこちらにあるのに、触れない。でも離れすぎない。その距離が今の私にはちょうどよくて、同時に少しだけ息苦しい。看病という名目の、安全圏。踏み込まないことを、互いに了解している空間。
「寒くないです?」
「……ん。」
「無理しないでください」
「……平気。」
嘘ではない。でも本当でもない。彼はそれ以上何も言わなかった。ただ必要な距離を保ったままそこにいる。その在り方が、今はいちばん、厄介だった。
夜は静かに過ぎていった。テレビをつけ音量をぎりぎりまで落として、意味のない番組を流す。画面の光だけが部屋の輪郭を、かろうじて保っている。ホークスは何度も体温を測り氷枕を替え、薬の時間を確認する。その一連の動作に、無駄がなく迷いもない。あまりにも慣れていて胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。意識がまた、曖昧になる前に私は、聞いてしまう。
「……ねぇ。こういうの、慣れてるよね」
「何がですか?」
「病人のお世話」
「……仕事柄、ですかね」
彼は少しだけ考えるように視線を上げて、それから、肩をすくめた。それ以上は言わない。踏み込まないし、言い訳もしない。彼氏がいるという事実をちゃんと尊重したままの距離。だから私はそれ以上、何も続けられなかった。
「喉、乾いてません?」
「……少し」
「お、素直」
「事実だもん」
差し出されたコップを両手で受け取る。水が、ゆっくりと身体の中へ落ちていく感覚が、やけに沁みてくる。
途中で眠りに落ちたらしく次に目を開けたときには部屋の明かりが少し落とされていた。時間の感覚が曖昧だ。彼は、ソファの端に座ったまま、静かにスマホを見ている。画面の光が彼の横顔を淡く照らしていた。
「……まだ、いたの」
「はい」
言い淀む様子もなく短い返事でそこには迷いもためらいもなかった。
「帰らなくて、いいの?」
「名前さんが、寝返り打てるまでは」
「……意味わかんない」
「わからなくていいです」
その言い方がひどく穏やかだった。説明を放棄しているのに、突き放してはいない声。私はまた目を閉じる。熱のせいで思考はまとまらないのに安心だけが先に広がっていく。ここにいていいと言ったわけでもない。でも、追い返しはしない。そのことが、なぜかいちばん、危うかった。
「……ホークス、」
呼ぶと、目を閉じたままでも視界の端の気配がわずかに動くのが分かった。
「ここにいますよー」
触れない。でも確実に、そこにいる。その事実だけで、胸の奥が、ゆっくりとほどけてしまう。彼氏がいるのに。それでもいちばん安心するのはこのヒーローなのだ。罪悪感と安堵が同じ場所に重なって、広がる。どちらか一方だけを選べないまま熱に浮かされた思考はその感触を抱え込んでしまった。
翌朝、目を覚ますと、熱は少し下がっていた。頭の重さが和らぎ世界の輪郭が戻ってくる。キッチンの方からホットミルクの匂いがする。あまりにも日常的で、昨夜のことが、夢だったみたいに思えてしまうような匂い。
「おはようございます」
「……おはよ」
「喉、まだ痛いです?」
「……少し。でも、だいぶ楽」
返した声がかすれて私は思わず咳払いをする。彼はうなずいて私に、マグカップを差し出した。
「無理しないで、今日は休んでくださいね」
「……彼氏に——言われる前に言われたぁ」
冗談めかして言うとホークスは一瞬だけ言葉を探すように黙り、それから、ふ、と笑った。
「それは……俺の立場じゃなかったですね」
線を引く言い方。でも突き放すわけでもない。私はマグを両手で包みながら、その距離感を噛みしめる。何も起きなかった。触れもしなかった。それでも、はっきりと残ったものがある。彼氏がいる夜に、彼氏ではない人がいちばん近くで看病してくれていたという事実。
あの夜はこの関係が��安全�≠ナある事と同時にとても危険であることを、改めて突きつけてきた夜だったと思う。私はその矛盾をまだうまく処理できずにいる。ただ一つわかっているのは、何も起きなかったからこそ、忘れられない——ということだけだろう。
*
——あの日は、連絡の文面からして、少しだけ違っていたのだと思う。

今から来れる?
理由も絵文字もない。けれど、それだけで十分だった。しかし、説明を省いた文面は、こちらの余裕のなさを、むしろ、正確に伝えていたのかもしれない。

行けます。
無理しないで待ってて
敬語と常体の境目が無意識に揺れるのは、いつだってこういうときだった。仕事でも、冗談でもないとき。彼の中で、役割が静かに、切り替わる瞬間。
少しして、インターホンが鳴る。私はほとんど反射で、ドアを開けた。崩れた化粧も落とさないままコートも脱ぎきらないまま玄関に立つ自分の目だけがやけに、乾いている。
「……ごめんね、急に。」
「全然。寒くないですか」
それだけ言って、彼は中に入る。抱きしめたりなんかしない。だから、もちろん触れもしない。その選択が彼なりに自分を守る、いつものやり方だったから。部屋はいつもと同じ。投げっぱなしの鞄に、途中で止めた動画、洗っていない、マグカップ。生活の痕跡は何ひとつ変わらないのに、空気だけが決定的に違っている。
「別れた」
ソファに腰を下ろして私はそう言った。語尾が妙に落ち着いていて、そのことが自分でも逆に、胸の奥をざわつかせる。
「……そーすか」
彼は、床に座る。視線を合わせすぎない距離。今までにも、何度も繰り返してきた配置。
「うまくいってたと思ってたんだけどね」
「そういうときほど、いかんもんですよ」
「だよね」
短い会話。でも沈黙が苦にならないのは長年の癖だった。しばらくして私の肩が無意識に小さく震え始める。声は出ない。ただ、呼吸だけが乱れる。彼が反射的に立ち上がりかけるのを、必死で抑えているのが、視界の端に映る。今このまま、抱きしめられたら、きっと楽になる。でもそれは��私たち�≠フやり方じゃない。
「……名前さん」
低く、慎重に、私の名前を静かに呼ぶ。
「今、俺にできること、あります?」
選択肢を必ず、こちらに渡す。それが彼なりの誠実さだった。返事の代わりに、私は顔を覆って泣いた。嗚咽もなく音もなく、ただ静かに。彼は少しだけ距離を詰めて、私のそばにあった毛布をそっと差し出してくれる。
「寒いと、余計しんどいんで」
「ん、……あり、がと。」
声が掠れている。夜はそのまま進んでいった。冷蔵庫に残っていた缶チューハイを一本だけ開けほとんど減らないままテーブルに置く。テレビをつけ誰も見ていない画面を眺める。それは意識がほどけたあとに起きた、ただの、反射みたいな出来事だった。テレビの音量はいつの間にか下げられていて、部屋には冷蔵庫の低い駆動音と、私の不規則な呼吸だけが残っている。
ソファに横になった私は泣き疲れたせいか眠りに落ちる直前の浅いところを、行き来していた。彼は床に座ったまま動かない。立てば近すぎるし離れれば、今度は遠すぎる。この距離がいちばん安全だと、長い時間の中で覚えたのだろう。
「……っ」
小さく、息が詰まる音。次の瞬間、自分の手が空を探るみたいに伸びる。何かを掴もうとして、迷って、ためらって——指先が彼の手首に触れ、そのまま、きゅっと握り込んだ。無意識だった。力も弱い。でも、離れられなくなるには、十分だった。彼の身体が、わずかに固まる。
「……名前、さん、」
呼ぶ声は低く慎重でほとんど息のようだった。返事はない。ただ私の指が離れてくれない。心臓がうるさい。このまま抱きしめてほしい、という衝動が反射のように浮かぶ。でも彼は動かない。
ゆっくりと呼吸を整える気配。剛翼の羽根が、無意識に小さく揺れる。
「……大丈夫、」
誰に向けたのか分からない言葉を、彼がそっと落とす。私の手は確かめるみたいに少しだけ力を強めて、また緩む。安心を探す癖。昔から、こうだった。
彼は、反対の手で毛布を引き寄せ、ゆっくりとかけ直してくれる。その間も掴まれた手は動かさない。離さない。でも握り返さない。その選択に意味があることを、彼は知っている。私の親指が無意識に彼の手の甲をなぞる。それだけで、胸の奥が熱くなるのを、必死で押さえ込む。
「……ほんとに、ずるいっす」
小さく、まるで自嘲するみたいに笑った声が、室内に落ちた。それから、声を押し殺すみたいにして、彼は続ける。
「こういうときだけ……」
「……」
「俺の名前じゃなくて、手だけ探すの——」
答えは返せない。ただ呼吸が少しずつ、整っていく感覚。この一瞬が壊れないことだけを、願うみたいに。友だちなら離すべきだった。好きな人なら、握り返すべきだった。でも、そのどちらも選ばずただ掴まれたままでいることが今の自分に許された、いちばん誠実な在り方だと彼は信じていたのだろう。
やがて私の手から力が抜ける。夢と現実の間で指がそっと解ける感覚が走る。薄く目を開けると彼はゆっくりと手を引き、代わりにクッションを私の手元に置いた。同じ高さ、同じ距離。
「……おやすみなさい、名前さん」
返事はしないで、また目を閉じる。でも、その寝顔は、さっきよりずっと穏やかだったと思う。弱ったときに、世界より先に彼を探す。その事実だけで、��友だち�≠ニいう言葉は、もう、静かに崩れ始めていた。私はソファに横になったまま、頬に涙の跡を残して、眠りに落ちていく。いつも通りの夜。何も起きなかった夜。けれど、彼は、このときすでに、気づいていたのかもしれない。私が泣くたびに、他の誰でもなく自分を呼ぶ夜が増えるたびに��友だち�≠ニいう言葉で引いた線が少しずつ、限界に近づいていることを——。
朝になればきっと「昨日はごめんね」と言って「全然。気にしないでください」と、返されて、また同じ距離に戻る。それを何度も選び続けた。
だからこそ、あの夜。追い風が吹いた瞬間を、彼は、絶対に逃さなかったのだ。